「はじめに言があった」

及川 信

       ヨハネによる福音書  1章 1節〜 5節
 初めに言があった。
 言は神と共にあった。言は神であった。
 この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。
 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 今日で二〇〇五年十月十六日に始めたヨハネによる福音書の説教を終えます。その最後に、福音書冒頭の言葉を選びました。その理由はいくつもあります。最後まで読んでみて、最初から読みたくなった。また最後の説教の時には聖餐の食卓を共に囲みたかった。それと、五年前はまだヨハネ福音書のことは何も分かっていなかったし、特にこの冒頭の言葉など皆目見当もつかない言葉だったので、もう一度、皆さんと一緒に聴きたかった。そういうこともあります。

 ヨハネ福音書の構造

 ヨハネ福音書は実に緻密に出てきていて、読めば読むほどその構造の美しさが分かってきます。七つの徴の書とも呼ばれていますが、その七番目は一一章のラザロの復活の記事であり、福音書のほぼ真ん中にあり、その一一章の真ん中にはマルタの信仰告白が置かれています。それは「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」という主イエスの問いに対するものです。彼女は「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と、信仰を告白しました。そして、その信仰告白の内容は、ヨハネ福音書本体の結末、二〇章の締め括りの言葉と同じです。そこには、こうあります。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスを神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 先週は福音書の最後、付録と言われる二一章の結末を読みました。そこには「証し」「真実」という言葉が強調されていました。そしてそれは一章の六節以下に強調されていることでした。そして、二一章には、イエス様が愛弟子に関して「わたしが来るときまで、彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」とペトロに言う言葉がありました。「生きている」とは元来は「留まる」「繋がる」という意味の言葉(メノウ)の意訳ですが、主イエスの中に留まる、主イエスに繋がる、主イエスが信じる者の中に留まるという意味です。それはこの福音書がその最初から最後まで問題にしている「命」、肉体の命を越えた霊的な命を生きることを意味しますから、「彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」は、確かに深い意味を汲み取った訳だと言えると思います。私たちがこの「命を生きる」ためにこの福音書は書かれたのです。そして、その「命」は、福音書冒頭のキーワードとなっています。

 理解しなかった 勝たなかった

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。


 私はこの言葉を、高校生の時に初めて心に留めました。その頃読んでいた口語訳聖書では、「闇はこれに勝たなかった」と書かれていました。そちらの方に、今でも愛着はあります。「勝つ」と「理解する」は似ても似つかないように一瞬思えますけれど、たとえば将棋を指していて、相手の考え方がすべて理解できれば、それは勝ったも同然です。その逆に、理解できなければ負けたも同然です。「理解する」「把握する」は「捕える」「支配する」ことを意味します。暗闇は命の光を理解できない。勝つことは出来ないのです。最近は、「理解しなかった」という訳の方が、私にはぴったりするようになりました。
 ヨハネ福音書をとにもかくにも最初から最後まで読んで来て、様々なことが分かりました。先ほども言いましたように、その構造は随分分かったように思うし、ヨハネの言葉遣いも以前に比べれば格段に深く理解しているつもりです。しかし、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」から始まるこの冒頭の言葉は、今もって謎に満ちています。理解は出来ないのです。

 闇

 今日は特に、「光は暗闇の中に輝いている」という言葉から、御言の世界に入っていきたいと思います。
 「世は闇だ」とは、よく言われる言葉です。イエス様も、はっきりと「世は闇である」とおっしゃっています。その闇の中に救いをもたらすために、命をもたらすために、わたしは来たのだ、と。そして、その闇を作り出しているのは私たちひとりひとりの心なのです。世の闇が私たちの心に入るというよりは、私たちの心の闇が世の闇を作り出していると言った方が正確だと思います。そして、そのことを自覚しているしていないにかかわらず、私たちの誰もが「世は闇だ」と思っている。思っているからこそ、思わないようにしている。闇を見ないようにしている、闇などないかのように振舞っている。そういう面があるだろうと思います。そして、そうであるから闇の中に輝く、あるいは闇の中にしか輝かない光も見ていない。見えない。そういう面もある、と私は思います。
 闇を見つめるために、どこかに行く必要はないでしょう。戦場や無法地帯や貧困地帯に行く必要はありません。私たちは毎日のように、幼児虐待の悲惨なニュースを聞かされながら生きています。一昨日も、三歳の女の子と一歳の男の子が母親に捨てられてマンションに放置され、既に死亡していたという悲しいニュースを聞きました。足の踏み場もないほどに汚れた部屋、生ゴミなども放置されたベランダ、そのゴミ溜めのような部屋の中に裸の幼児が寄り添うようにして死に、もう腐り始めていたというのです。周囲の住民は、一〜二か月前まで、「ママーママ―」と絶叫する幼児の声を聞いていた。匿名の電話が児童相談所にかかっており、相談員も様子を見に行ったが、鍵のかかった部屋を赤ん坊が中から開けることなど出来るはずもなく、ついに赤ん坊は絶叫することにも疲れ、暑さと飢えと渇きの中に死んでいったのです。母親は若い時に出産し、その後離婚し、風俗店に勤めつつ、子どもを育てる気力が湧かず、「自分の時間が欲しかった」と友達の家を泊り歩いている。「死ぬのは分かっていた」と言っている。この母親もまた、どういう家庭環境で育ったかは分かりません。どれほど深く愛に飢え渇いていたか分からないのです。加害者はえてしてそうなる前は被害者なのです。
 今、裁判が始まっている秋葉原の無差別殺傷事件の被告もまた、夫婦不仲の家の中で母親からその苛立ちをぶつけられ、夕食を廊下にぶちまけられ、それを廊下に這いつくばって食べることを強制されたり、ひたすらよい成績をとることを強制され、作文も絵も母親が手を加えて賞をもらうという何とも言えない環境で育った人のようです。育児放棄も、愛のない過剰な躾や教育も、子どもたちの心を破壊し、命を奪っていきます。闇の中に閉じ込めていくのです。そして、そのようにして傷つけられた者たちが、その傷を抱えたまま出産や離婚をして傷を深めると、自分の赤ん坊や幼児を傷つけ捨て去ってしまうということが起こるし、誰とも関係を持てなければ、見ず知らずの他人を傷つけ命を奪っていく。新たな闇を作り出していく。そういう負の連鎖が、この世の中にはずっと継続しています。そして、その連鎖を引き起こす闇は人間の心の中にあります。誰だって置かれた環境によって決定的な影響を受けます。自分は違う、闇などないと言える人はいないのです。環境に恵まれたが故に、闇などないと自分では思える人はいても、闇がない人はいないのです。
 最近の新聞報道では、アフガニスタンにおけるアメリカ軍兵士の死者が増加の一途を辿り、またそれに伴って自殺者も増加し続けていることが報道されていました。また、生きて帰った兵士たちが、戦場で民間人をも虫けらのように惨殺してきた罪責に苦しみ続け、精神を痛めて、社会復帰できなかったり、自殺してしまうケースが増えている。正義と平和と繁栄のために国家が戦争をし、若者を殺人マシーンに仕立て上げることで、実はその若者自身の心が激しく傷つき、死んでいく。そして、その心の闇が社会を覆っていく。そういう現実が、世界各地にあるのです。その闇を作り出しているのは私たちひとりひとりの心なのです。世の闇が私たちの心に入るというよりは、私たちの心の闇が世の闇を作り出していると言った方が正確だと思います。そして、そのことを自覚しているしていないにかかわらず、私たちの誰もが「世は闇だ」と思っている。その闇を作り出しているのは私たちひとりひとりの心なのです。世の闇が私たちの心に入るというよりは、私たちの心の闇が世の闇を作り出していると言った方が正確だと思います。そして、そのことを自覚しているしていないにかかわらず、私たちの誰もが「世は闇だ」と思っている。

 神は愛である?

 私が、ヨハネ福音書の冒頭の言葉に圧倒され、将来結婚して男の子が生まれたらその名は「言」にすると決意した頃、私にとっては衝撃的なことが起こりました。誰もが若き日にはこの世に誕生した意味を考え、生きる意味を考えると思います。しかし、病や事故で早く死んでしまう人もあるし、戦争に巻き込まれて幼い時に死んでしまう子もいる。そういう不公平、不平等な現実を、どう考えたらよいのか分からず苦しい思いをしていました。しかし、当時は、誰だって親から愛されて生まれてきたのだし、その愛を受けた訳だけから、そのことの故に生まれてきた意味もあるし、短い時間であっても生きた意味はあるのだと、自分に納得させていたのです。
 でも、ある時、駅のトイレで子どもを産み落とし、その子の遺体をビニール袋に包んでコインロッカーに入れて殺してしまうという事件が立て続けに起こりました。その報道に触れた時、私は言い知れぬショックを受けました。生まれたその時に、自分を愛してくれるはずの親から殺されてしまう子どもがいる。だとするなら、その子が生まれてきた意味は何なのか、その子がわずか数分だけでも生きた意味は何なのか全く分からない。そういう命があるということ。他人から殺されるのではなく、実の親から殺される命があるということ、そのことに衝撃を受けました。そしてその衝撃は、神様がいるとして、その神は一体何をやっているのか?!という絶望的な問いを心に抱いた衝撃でもあります。
 教会に生まれ育った者として、幼い頃から「神は愛である」と聞いて来ました。分からないなりにも、なんとなく信じてもいた。でも、この事件をきっかけに、そのなんとはない信仰は崩れ、なんとなく生きていくことも出来にくくなり、でもなんとなく生きることしか出来ない自分に苛立ち、その苛立ちを自分にも隠しつつ生きることを続けざるを得ませんでした。
 神はいるのか、いるとすればどこにいるのか、何をしているのか、力があるのか、無力なのか、愛の神なのか、それとも理不尽な神なのか。この問いは、皆さんの誰もが心に抱いたことがある、あるいは今も抱いている問いなのではないでしょうか。私は今も尚、その問いから無縁になっているわけではありません。

 『夜』

 先日、牧師の召命を受けた人々が書いた本を読んだと言いました。その中のある人が、随分前に私も手にして一つの作品だけは読んだことのある本の一節を引用していました。それはアウシュビッツから生還したユダヤ人の作家エリ・ヴィーゼルが書いた『夜』という小説です。収容所の現実が、小説の形で生々しく描かれています。その中に、反乱を企てたユダヤ人の大人二人と、かつて反乱を企て既に処刑されたユダヤ人を親に持つ子の合計三人が処刑される場面が出てきます。その場面を読みます。

 3人の死刑囚は、いっしょにそれぞれの椅子にのぼった。3人の首は同時に絞索の輪のなかに入れられた。
 「自由万歳!」と、二人の大人は叫んだ。
 子どもはというと、黙っていた。
 「神さまはどこだ、どこにおられるのだ。」私のうしろでだれかがそう尋ねた。
 収容所長の合図で三つの椅子が倒された。
 全収容所に絶対の沈黙。地平線には、太陽が沈みかけていた。
 「脱帽!」と、収容所長がどなった。その声は嗄れていた。私たちはというと涙を流していた。
 「着帽!」
 ついで行進が始まった。二人の大人はもう生きてはいなかった。脹れあがり、蒼みがかって、彼らの舌はだらりと垂れていた。しかし3番めの綱はじっとしてはいなかった――子どもはごく軽いので、まだ生きていたのである……。
 30分あまりというもの、彼は私たちの目のもとで臨終の苦しみを続けながら、そのようにして生と死のあいだで闘っていたのである。そして私たちは、彼をまっこうからみつめねばならなかった。私が彼のまえを通ったとき、彼はまだ生きていた。彼の舌はまだ赤く、彼の目はまだ生気が消えていなかった。
 私のうしろで、さっきと同じ男が尋ねるのが聞こえた。
 「いったい、神はどこにおられるのだ。」  「どこだって。ここにおられる――ここに、この絞首台に吊るされておられる……。」
 その晩、スープは屍体の味がした。


 「神さまは、どこだ。どこにおられるのだ。」これが問いです。こういう絶望的な現実を実際に経験していない私たちだって、こういう絶望的な問いは持ちます。
 この小説では、次の単元で、収容所における一年の最後の日の夕食の場面が続きます。その時、ユダヤ教のラビが食前の感謝を捧げるのです。「永遠なるお方をほめたたえよ」「永遠なるお方の名のほめたたえられんことを・・」ラビは嗚咽しながらこう祈り、何千人もの収容者が、そのラビの祈りに合わせて祈りを捧げる。しかし、主人公の「私」は、心の中で反抗します。どうして神にこんなことが言えるのか?!と。彼は心の中で、こうつぶやきます。 「日夜拷問を受けるようにと、私たちの父・母・兄弟が焼却炉であい果てるのを見るようにと、諸国民の間から私たちを選びたもうた、〈宇宙の主〉におわす〈永遠なるお方〉よ、あなたがたたえられんことを。おん身の祭壇にて喉をえぐられるようにと私たちを選び出したもうおん身よ、おん身の〈聖名〉のたたえられんことを。」
 これは、痛烈な皮肉の言葉なのです。
 この時の主人公にとって、「神は絞首台に吊るされている」のです。つまり、死んでいる。神は死んだ。神は存在しない。この絞首台に吊るされた神を、共に死んで下さる憐れみの神の表現と解釈するのか、無力な神と解釈するのか、それは私にはよく分かりません。先週、この小説を全部読みなおすことなど出来ませんでしたし、十字架に死に復活されたイエス・キリストが神の子、メシアであると信じているわけではないユダヤ教徒の作家が、この個所をどういう意味で書いているのか、私にはよく分かりません。しかし、この作家は、こういう言葉を残してもいるようです。

 「戦後、私は語り部となることによって世界を変えることが出来ると考えたのです。これはユダヤ人の信条ですが、"全き暗闇から全き光が生ずる"のです。私の夜は終わらないでしょう。しかし他のことも可能なのです。昼、希望も。」

 たしかにそうだとも思います。生きている人間にとっては、「他のことも可能」かもしれません。でも、絞首台で殺された少年にとってはどうなのか?ゴミ溜めのようなマンションの一室に裸で放置され、ついに「ママ―、ママ―」と泣き喚く力もなくなって死んだ幼子にとって、コインロッカーに捨てられた赤ん坊にとって、歩行者天国を歩いている時に、いきなりトラックにひき殺された人々に、他の可能性、昼や希望はあるのか?彼らを、そのようにして死ぬ人間として選び給う神がいるのなら、その神は一体どういう神なのか?そう問わざるを得ないと思います。そして、そのようにして殺される死の暗闇の中に光はあるのか、と。
 私は、最近は「理解できない」という訳の方に親近感を感じると言いました。それは、やはり分からないからです。神様の業を、その御心を理解できない、把握などできないからです。でも、信じることは出来るかもしれない。それでも尚、神は愛であり、全地は主のものである、と。

 混沌と闇

 ヨハネによる福音書の冒頭の言葉は、明らかに創世記の冒頭の言葉に呼応していると思います。そこには、こうあります。

 初めに、神は天地を創造された。
 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。


 混沌と闇。世界を覆っているのは混沌と闇です。その混沌と闇の世に、神は言葉を発した。「光あれ」と。
 この創世記の冒頭が書かれた時代、それはユダ王国がバビロンに敗れ、多くの民が捕囚としてバビロンに連れ去られた時代だと言われています。その敗戦と滅亡の現実は、具体的にはどういうものであったかを「哀歌」は告げています。

 だが、彼らの容姿はすすよりも黒くなり/街で彼らと気づく者もないほどになり/皮膚は骨に張り付き/枯れ木のようになった。
 剣に貫かれて死んだ者は/飢えに貫かれた者より幸いだ。刺し貫かれて血を流す方が/畑の実りを失うよりも幸いだ。
 憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日/それを自分の食糧としたのだ。


 ナチスの収容所に入れられた人々も、日本の捕虜収容所に入れられた人々も、「皮膚が骨に張り付き、枯れ木のようになった」でしょう。しかし、エルサレムにおいては、母親が飢えのために、「自分の子どもを煮炊きして自分の食料とした」のです。こういう混沌と闇の現実、つまり、人間の罪が作り出す現実を聖書は見つめている。神が見つめている。そして、神を理解できなくても、神を信じる罪人も見つめているのです。そして、「光あれ」という言葉を聞き、暗闇に輝く光を見、そして、そこに命があることを知ったのです。そこには、事実があるだけで、その事実を説明することは出来ないし、人間の説明によって事実を引き起こすことなどなおさら出来ないことです。

 暗闇に輝く光

 ヨハネ福音書は、その言、命、暗闇に輝く光に神がおられることを告げています。この神は、「わたしは渇く」と言って十字架の上で息を引き取られた独り子なる神です。人間の体をもった、受肉した不可解な神です。
 その十字架に磔にされた体からは「血と水」が流れ出てきました。血は命です。死を越えた命の徴です。そして、水は命にとってなくてならぬものです。人は最後、渇きで死ぬ。その命を活かす水。それはヨハネ福音書においては聖霊のことです。主イエスは十字架の上で数時間苦しみ続け、そして、「渇く」と言い、最後に「成し遂げられた」とおっしゃって、息を引き取られました。ルカ福音書においては、ご自分を殺す者たちの罪が赦されるために祈りつつ死に、また、悔い改めた犯罪者に赦しを与え、御国における命を約束されつつ死にました。そして、マルコ、マタイ福音書では、神に見捨てられた絶望の叫びをあげつつ死なれた。そこで、神は死んだ。でも、それは人に殺されて死んだのではありません。神に殺されたのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からです。そして、その「世」とは闇の世です。死の嘆きが支配している世です。殺す者と殺される者がいる世です。泣き叫ぶ声が絶え間なく挙げられている世です。その世の光となるべく、独り子なる神はこの世に来られ、殺す者と殺される者を愛し、そして、そのすべての者たちのために渇きの中に十字架の上で、神の裁きを受けて死なれたのです。それは、すべての者に救いの道を開くためであると、私は信じます。
 神は、カインに殺されたアベルが土の中から叫ぶのをお聞きになる方です。そして、カインを殺すことなく、悔い改めを待ちました。しかし、彼はそれを拒み、その子孫は復讐の連鎖を生み出す「カインの末裔」となっていったのです。その故に、主イエスは、アベルの血に関する責任を、主イエスの時代の悔い改めを拒む人々に帰しました。罪なき者を殺す人間の罪を主イエスは問われるのです。しかし、その裁かれるべき罪をご自身が背負いつつ十字架に掛って裁きの死を引き受けられる。そのことを通して、殺された者と殺した者が、その十字架において和解する道を開き、三日目の復活を通して、信じる者たちに復活の命を約束して下さいました。そのことが真実に実現するのは、この世の歴史が終わる時のことです。その時まで、この世はやはり混沌と闇が覆い続けるのでしょう。しかし、その中に光は輝き続ける。そして、世が終わる時、つまり再びキリストが来られる時、最終的な審判がなされて、新しい天と地が完成すると、聖書は告げているのです。

 理解は出来ないが、信じる

 その終わりの日の出来事を告げるヨハネの黙示録二〇章一一節以下から二一章にかけて少し抜粋しながら読みます。

 わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。・・・・その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・ そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。

 「これらの言葉は信頼でき、真実である。」
それは、ヨハネ福音書の最初と最後ではっきり言われていることでもあります。そして、その言葉とは、主の再臨の時に完成する新しい天と地、最早死も涙もない天地に生かされる者たちは「命の書」にその名が記されている者たちであると告げます。その名が記されているのは、主イエスを神の子メシアと信じる者たちです。しかし、私はカインとその末裔に殺された無数の者たちもまた含まれると信じますし、人を殺す罪を犯してしまっても、主イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、悔い改める者たちを含むと信じます。絞首台につけられて死んだ少年、マンションに置き去りにされた幼子、そしてコインロッカーに捨てられた赤ん坊はもちろんのこと、絞首台につけた者たち、置き去りにした母親、捨てた母親もまた、その罪に慄き、悔い改め、主の御前に赦しを乞うならば、彼らもまた「命の書」にその名が記され、主の赦しと新しい命に与ると信じます。あの十字架の主イエスから流れ出た血と水は、その両者のために流されたものだと信じるからです。そして、あの十字架こそ、闇の中に輝く光、闇の中でしか見えない、闇を見つめることによってしか見えない光です。その光が、絞首台に、マンションの一室に、コインロッカーの中に輝いている。それは、理解など出来ません。把握することなど不可能です。でも、信じることが出来る。信じるしかない。そこにしか、私は「命の光」を見ることは出来ません。

 御国の先取りとしての聖餐

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」


 これは、聖餐の食卓に与る度に、私が何度も何度も繰り返し読んできた「招きの言葉」です。今日も読みます。
 私たちがその聖餐に与る時、はるかに御国を仰ぎ見るのです。その面影を映し偲ぶのです。そこに、主イエスに招かれたすべての人を見ます。殺された者、殺した者。そのすべての者のために死に、陰府に降り、福音を告げ知らせ、「あなたはわたしを信じるか」と問いかけ、甦り、天に上げられた主イエスの招きに応えた者はすべて、その御国において、その食卓を囲んでいるでしょう。私たちもまた、その御国へと招かれているのです。祈ります。

 聖なる御父、御言を感謝します。御言こそ、わたしたちの命であり光です。御言を頂かなければ、私たちは命を生きることは出来ません。御言を頂き、信じる時、私たちは最早死なない命を生きることが出来ます。御子主イエス・キリストが愛し赦したように、愛の赦しに生きる命は、御言を信じる時にしか生きることは出来ません。御神、絶えず御言に背き、己が肉の思いにしがみつき、絶対化し、愚かな罪を繰り返し犯すこの者たちを、これからも憐れみの内に置き給いて、主の日ごとに御言を下さい。聖霊を下さい。あなたの子として、キリストの者として、世の光として生かしてください。キリストが世の光として今もこの世に輝いていることを、この礼拝を通して、また証しの生活を通して、闇の中にいるすべての人々に伝えることが出来ますように、私たちを用いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
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