─第十八号─
平成二十一年六月
発行 精神障害者共同作業所草加物産企画
編集 大嶋顕太
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再び「ミスチル」と、現代の「HERO」
第十六号瓦版ではミスチル(Mr.Children)の「隔たり」という曲を取り上げましたが、二匹目の泥鰌かもしれませんが、今回もミスチルの曲を取り上げてみました。『シフクノオト』というアルバムに収録されている「HERO」という曲です。まずは、その歌詞から…。
HERO
作詞・作曲 桜井和寿
例えば誰か一人の命と引き換えにして世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
愛すべきたくさんの人たちが 僕を臆病者に変えてしまったんだ
小さい頃に身振り手振りを真似てみせた 憧れになろうだなんて 大それた気持ちはない
でもヒーローになりたい ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら そっと手を差し伸べるよ
駄目な映画を盛り上げるために 簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは希望に満ちた光だ
僕の手を握る少し小さな手 ずっと胸の淀みを溶かしていくんだ
人生をフルコースで深く味わうための 幾つものスパイスが 誰にも用意されていて
時には苦かったり 渋く思うこともあるだろう
そして最後のデザートを笑って食べる 君の側に僕は居たい
残酷に過ぎる時間の中で きっと十分に僕も大人になったんだ
悲しくはない 切なさもない ただこうして繰り返されてきたことが
そうこうして繰り返していくことが嬉しい 愛しい
ずっとヒーローでありたい ただ一人 君にとっての
ちっとも謎めいてないし 今更もう秘密はない
でもヒーローになりたい ただ一人 君にとっての
つまずいたり 転んだりするようなら そっと手を差し伸べるよ
平成21年3月から、草加物産企画のニュースレターである「瓦版」の編集を大嶋が担当させていただき、それぞれの巻頭の文章で、「ミスチルと少子化と草加物産」(十六号)、「『古事記』って、知ってる?」〜「ジェンダーフリー」を受け入れている、「ジェンダーフリー」反対論者の話〜」(十七号)を書かせていただきました。今回、十八号の巻頭の文章に、何を書こうか、あれこれ考えていたのですが、そんな矢先に、久々にインターネットの動画サイト「YouTube」を見たら、巻頭のミスチルの「HERO」という曲のプロモーションビデオを見てしまい、思わず感動なんかしてしまいました。自分がどんな点に感動したかということを考えだすと、それは、曲全体、つまりメロディーや歌詞やボーカルや、「ミスチル」のイメージやら、総合的なことを含めての「感動」なので、「論」にはなりません。「論」にするためには、論の対象となる「素材」と、若干の「素材」に対する分析と、やはり、「今」を生きている「同時代性」みたいなものも含めないと、「文章表現」というものは意味を無くするのではないかと思います……という理屈をこねて、次に進みます。
「今」を生きている「我々」が、グローバルに言えば、世界中の人々が対象になりますが、とりあえずは、日本人である我々の、この歌に対する感じ方、思いは様々であり、何をこの曲と歌詞から汲み取って、未来に向かう自分にとっての「何か」にするのかも様々でしょう。私が、この曲の歌詞のどの部分に一番最初に、考えさせられたかというと、歌詞三行目の「愛すべきたくさんの人たちが僕を臆病者に変えてしまったんだ」です。約68億の人口を抱えたこの世界を対象にすれば、自分の命と引き換えに、歴史に名を残すような「HERO」になりたい人は、少なくないでしょう。また、逆に、普通でしたら、「愛するもののために」、つまり、家族や恋人、友人、もっと広くは、その国、民族、あるいは宗教上の理由などから、ある、愛する対象を守るために、自分の命をささげることがある、というのが、普通の「HERO」の一般論かもしれません。ところが、このミスチルの「HERO」の歌詞の男性は、そうは言いません。この歌の「愛すべきたくさんの人たちが僕を臆病者に変えてしまったんだ」は、この歌の主人公の「僕」に、愛すべき対象が、かなり多くあり、その人たちに、「僕」という人が必要とされ、その必要とされる「僕」を囲む人が多い故にこそ、「今、ここで、死んではいけない」と思わせる、そのことの、詩的な表現を借りての「臆病」でしょう。それを「臆病」という表現をつかう、そのことに感銘しました。
今の日本において、「祖国」とか、「郷土」とか、そういう抽象的な概念を、自分の中で整合性を保たせて、「命を賭す」人がどれだけいるか、わかりません。今の我々が、ぎりぎり考えられる普通の感覚では、命を懸けて守ると言い切れる人は、おそらくは、身近な家族や友人や恋人、あるいは自分の子供のため、というのが、精一杯のところではないかと思います。それよりもっと大きな枠組みとして、郷土、祖国や、あるいは、私より多少年齢のいった人の中には、「天皇陛下のため」といえる人もいるかもしれません。ただ、とりあえずの平和を維持している日本という国に住んでいる一般の日本人が、それらを総合した「日本国のため」という大きなくくりを受け入れて、命を捨てる覚悟ができている人は、私心から考えても、極めて少ないのではないかと思います。ここから、話は政治的な方向に向かってしまうのですが、とりあえずの「日米安全保障条約」があり、近々の話では、北朝鮮の核実験やロケット発射の問題がある日本で、さらにとりあえずではありますが、平和と安全というのが、自衛隊や警察というものの存在において、国民が税金や社会への労働・貢献と引き換えに恩恵を受けており、日常において、それと意識することもなく、「平和」であるということが享受できている日本というのは、幸せな国だと思います。ただ、その「平和」というものの恩恵の具体的な内容や、それが何によって維持されているかの、具体的な話を表明すると、まだまだ、「左右」の思想のレッテルを貼られる言論状況があります。そういう「左右」の言論状況に対しては、もっと大枠で考えて、単純な「右」、「左」ではなく、どこが、あるいは、何が一番の「真実」なのか、その事実、あるいは真実の検証、そういうことが「あれは右」「これは左」という前に、必要なことではないかと思います。
例えば、事実上の軍隊である自衛隊のリーダー的存在の人が、「事実」あるいは「真実」を伝えるための歴史的な検証や意見・言論を表明すると、窮地に立たされ、現代日本の言論空間の「炭鉱のカナリア」にされてしまうのは、今だに、日本という国は、こと、言論に関しては、「不思議の国のアリス」状態の証拠なのかもしれません。
ミスチルがどこかへ行ってしまいました。私が希望を感じるとすれば、「臆病者」に変わってしまった「僕」には、しかしながら、「愛すべき人」が「つまずいたり 転んだり」したら「そっと手を差し伸べる」という「愛情」があるからです。その「愛情」を宿す、人としての基本的な要素があれば、あいも変わらず、ゴタゴタを繰り返す「政治的状況」だって、見るべきほどのものは見て、おそらくはその「若さ」で、そっと賢く次の世代に何か、メッセージを伝える機会をいずれもつかもしれない、そのことです。そういう総体を理解する知性や感性を備えた人たちが、現代の「HERO」のような気がします。今回は、かなりコンパクトなまとまりになりましたが、以上です。
◎幸徳秋水(明治4年<1871年>〜明治44年<1911年>
「こうとくしゅうすい」と聞いて分かる人は、かなりの通と言えよう。明治時代の社会主義者である。明治後期、日本初の社会主義政党「社会民主党」を結党。しかし、政府の圧力で、即日解散する。明治43年(1910年)には大逆事件の罪で、投獄、翌44年に死刑となる。大逆事件とは明治天皇暗殺疑惑である。後に、このことは、冤罪だったのではないかと言われている。
◎大正天皇(明治12年<1879年>8月31日生〜大正15年<1926年>12月25日没)
明治天皇の皇太子として生まれる。実母は柳原愛子(やなぎはらなるこ)、後の「二位の局(にいのつぼね)」。小学校入学に際し、初代首相の伊藤博文に、日本で初めてランドセルを贈られる。飛んで明治33年(1900年)、後の貞明皇后と結婚し、4人の男子をもうける。この大正天皇の時より、事実上の一夫一婦制になる。明治45年(1912年)7月30日、明治天皇崩御の瞬間、第123代天皇に践祚する。この時、数え年の34歳。しかし天皇に即位後、様々な奇行が目立つようになる。例えば、遠眼鏡事件。御前会議の最中に手元にあった資料をくるくるっとまるめ、望遠鏡の様にして、閣僚たちを見回したという。わりと有名な逸話である。また、北海道の巡幸に行かれた時、馬車から通り過ぎる際、後ろを何度も振り返るという行動を繰り返したと言う。これは幼少時の私の母方の祖母が実際に見たことだそうである。大正天皇はおそらく、今で言う精神障害者だったのであろう。
大正10年、病状は重くなり、時の皇太子で、後の昭和天皇が、摂政となる。以後、最後の5年間、大正天皇は公の場には出なくなった。大正15年12月、病状はいよいよ重篤となり、12月25日、崩御となる。即日「昭和」と改元。激動の昭和が始まった。翌昭和2年、大喪の礼が行われ、東京の多摩御陵に埋葬された。
(仁科安彦作画)
恋 愛 日 記
僕が順天堂越谷病院で知り合った彼女の名前は「かおりん」です。住んでいる場所は内緒です。趣味はプリクラを撮ることです。出会いのきっかけは入院して卓球して仲を深めて色々とケンカして仲良しになって、今は彼女です。
最近のデートスポットは「越谷レイクタウン」です。そこでお菓子をたくさん買って、楽しかったです。彼女との今までのデートスポットは、せんげん台の「サティ」やカラオケです。
彼女の18番の「綾香」の「三日月」は最高です!! 僕のカラオケ18番はアニソン(アニメソング)と特撮系です。今度のデートスポットは「ララガーデン」、次のデートスポットは「市民プール」です。
日本史仁科と恋愛日記りゅうたろうの
釣りは世界だ!
〜仁科編〜◎五月十二日(火曜日)午前11:00仁科は約束通り、りゅうたろうの自宅をおとずれた。ゲームに熱中していたりゅうたろうは、おかまいなしに20分もゲームを続け、だまって待たされ続ける仁科であった。あきれたよ。
今回は、市内最大の一級河川「中川」。川幅は100メートル以上の大河だ。八条橋を渡って、三郷市側の土手に自転車を止める。対岸は、景色が良くて良い。川の水は汚いが、そんなに気にならない。2本の釣り竿をたれて、少し様子をみる。数分後、りゅうたろうは早くも場所を変えたいと言い出す。「こいつは!!!(怒)」。
仕方なく場所を八条橋のそばに移動する。浅瀬になっていて水底が見える。ここでも釣れず、糸はこんがらがる。りゅうたろうは対岸の八潮市側で釣りたいと言い放つ!!(怒) 仕方なく、八条橋を渡り、八潮側に戻る。まあまあのポイントを意外にも発見!! 2つの釣り竿をたれる。釣れない。りゅうたろうは、この前行った川幅2〜3メートル程の農業用水である「八条用水で釣ろう!!」と言う。そんなにコロコロ場所を変えても釣れるわけないのに。仕方なく行く。
八条用水は前回より水かさが多く、いい感じだ。またしても、りゅうたろうは、すぐに飽きてしまい、今回は、止めにしよう。帰りにラーメン屋により、その後は、りゅうたろうのもう1つの顔である、「オタク」の店を10軒ほど、連れ回され、フラフラになってしまった。
最後にりゅうたろうの家で反省会。何を「反省」したいのか。15分ですむ予定が1時間。こいつと釣りにいくのは、もう止めようと思えてきた。しかし、結局、次回の約束をしてしまった。次は、となりの市にある「釣堀」だ。まあ、ここなら何かしら、釣れる可能性はある。とにかく行ってみるか。つまらない連載にならないように、なんとかしたい。
〜りゅうたろう編〜今回は仁科画伯とりゅうたろうで、中川に釣りに行ったけど、あまり釣れずイライラしてしまって反省している。おにぎりを食べたいけど、咽喉に詰まらせて危うく三途の川が見えて閻魔大王が大笑いしていました。中川の釣りは暑くて耐えられずに、あちこちと場所を変えて釣りをしました。りゅうたろうは今の釣りブームや趣味のあり方について、こう感じています。何で釣り番組は多いけど、実際に釣りに行っても釣れない日が多いのか、りゅうたろうは怒っています。来月は越谷の釣堀に行けたら行って少し慣れる為に行き通って頑張ろうと思います。最近のりゅうたろうはお疲れモードです。なぜなのかというと、釣りの釣果があまり成果が上がらずに何か落ち込んでしまい苦労しているからです。今度、釣堀で釣れなかったら、少し釣りを控えようと感じています。何とか釣りのコツを会得して覚えて、大漁に釣れるように頑張りたいと思います。
=草加物産企画 昼食会、外食会フォトアルバム=
◎昼食会(平成21年3月24日、草加市氷川コミュニティーセンター)
メニューは、しょうが焼きとご飯、お味噌汁、モヤシ炒め。
◎ 外食会(平成21年4月24日、草加市 焼肉バイキング「すたみな太郎」)
草加物産企画に実習に来られた方々の感想
日本福祉教育専門学校(夜間) 木下知子
10日間の実習期間、お世話になりました。初めての実習のため、初めは緊張していましたが、皆さんの胸を借りて貴重な体験をさせていただきました。
様々な作業や、仕入れ、ポスティング、社協での営業、フロンティアでの1日や昼食会などを一緒に体験しながら、病気や薬のこと、家族のこと、これまでの人生のことをたくさん伺って、精神の病気や辛いことがあっても、作業所や他のデイケアなどを活用して生活している皆さんの姿に励まされ、元気づけられました。そして、皆さん、温かくて、やさしくて、ユーモアがあって……と、一人ひとりの個性が素晴らしい!! この出会いをいただいて感謝の気持ちでいっぱいです。教えていただいた事を活かして、一生懸命勉強し、一人ひとりが大切にされる社会づくりのために頑張ってゆきます。
皆さん、お体を大切になさってください。メンバー、スタッフの皆様、本当にありがとうございました。
福喜多朋子(実習生) 平成21年5月29日
10日間お世話になり、ありがとうございました。スタッフ、利用者の皆さんが実習生を快く迎えて下さり、なごやかな雰囲気の中で実習することができました。一人ひとりがご自分の1日の行動を自分で決めて作業がスタートする、せんべいの販売や昼食会についても皆で話し合って内容を決めていく、等々の様子を見て、この作業所が利用者とスタッフが対等に運営に参加していくモデルを目指していることが理解できました。しかし、それは、言い換えれば、多くの困難を伴った道でもあると思うのです。利用者さんの利用目的も様々、参加する曜日も様々という状況の中で、「個性の主体性の尊重と相互支援」という、ともすれば矛盾におちいりかねない理念を目指す、ということは、創設者の思いもさることながら、利用者さん達の間に綿々と引き継がれたものがあったのだと思います。また、何気ない日常会話の中からうかがえる利用者さんの人生航路の様々、しかし、それを互いに支え合う暖か味も感じました。作業所の役割も多種多様あって良いのですね。
私自身は、中学教諭の職を早期退職して、現在は知的障害者・児を対象としたNPO法人の運営に関わっています。多くの体験を経たような気分になっていましたが、いくつになっても学ぶことはある、ということも今回の実習で実感しました。この体験は今後の人生により良く生かしたいと思います。スタッフ、利用者の皆さんのご健康をお祈り申し上げます。
2009年6月12日 濱田 芳佳(はまだ よしか)
実習生の濱田です。10日間という短い期間ではありましたが、実習では本当にお世話になりました。実習というと、毎回のことではありますが、数日間は緊張でカチンコチンになって過ごし、ようやく共通の話題が見つかってお話ししやすくなったかな〜という頃合いで実習が終了となってしまいます。毎回です。実習期間というのは、私にとってそのぐらいあっという間で、何か心残りを抱えたまま実習施設を去ることになります。特に草加物産企画とフロンティアでは、利用者の方々が私に気を使ってくださって、話しかけていただいたり、休憩を勧めてくださっているにも関わらず、なかなか緊張が取れませんでした。
初対面の人に対して頭がカタイというか、考えすぎるというか、構えすぎるというか。。。自分の欠点として自覚はしているのですが、なかなか改善されないところです。
それでも、草加物産企画は、私にとって、とても居心地の良い場所でありました。自分も利用者さんの一人になったつもりで参加させていただきました。海東さんの講演も聞かせていただいたりと、とても内容の濃い実習であったと思います。私が成長していくきっかけは、いつも利用者さん患者さんとのお話しによってでした。今回のみなさまとの出会いによっても、とても大きなパワーをいただけたと思います。これからも、自分にできる範囲の身近なところからこつこつと勉強を続け、今後の仕事につなげていこう、と決意を新たにしました。(いつも失敗ばかりしていますが。)
実習が終わったら、レポートの〆切が迫っているのでそれをなんとか、なんとか間に合わせ(汗)、その後またみなさんのところに時々遊びに行ってもいいでしょうか?よろしくお願いします。本当にありがとうございました。
〜編集後記〜
この十八号を編集している最中に、関東地方は「梅雨入り宣言」となりました。今回も多くの方々の援助で発行できたことに感謝です。毎回毎回、試行錯誤ですが、こうして、なにか形に残すことに、少し、やり甲斐を感じている今日この頃です。長い文章につきあってくださった読者の方々にも感謝です。では、またお会いできる機会があれば、次号で!!(大嶋)