私は川口文駕です。中国の天津に生まれたした。広島で小学校出て、その後大阪は河内の国で育ちました。ご存知、とても柄の良いところです。中学時代は秀才タイプの嫌なやつでした。高校ではおおいに学業成績が下がり普通の人間になりました。大学は和歌山で過ごしましたが、時代が時代でしたから、赤旗を振っているうちに卒業しました。一転、パルプメーカーの大手に就職しましたが、経理、資金、営業、外社管理、生産管理、物流と業務を転々としながら感じたこことは、大会社には向かないなぁということでした。ダメ社員というか、まったく組織適応力がないのです。結局、その会社を辞めました。今に思えば、その
メーカーでいろいろな分野の仕事をさせてもらったことが、いま、いまの職業を続けることのできる基礎になったのでしょう。
当時は、こうなろうと知る由もありませんでした。これが「なんでも知ってる川口さん」のルーツです。
とりあえず会社を辞めたのですが、することと収入がありません。ここは一つ、失業保険金を貰うにしかずと職安に行ったのが、新しい人生の始まりでした。
窓口で失業保険をくれというと、「就職努力をしないと支給できない」という、「就職努力とはなにか」と聞くと、求人企業で面接を受けて、その証拠にはがき大の用紙に印鑑をもらって来いということでした。たやすいことです。「どこへいけばよいのか」と聞くと、係は、とうとう怒って新聞をなげつけてきました。その求人欄の中で職安から一番、近かったのが、いま勤めていつる、当時のマーケティングセンターでした。大阪市谷町九丁目、槍屋町にありとても汚い狭いオフィスでしたが、「就職努力」のためですからそんなことは構ったことではありません。 「判がほしいのですが」と勢いよく入っていきました。
判だけ貰って帰るつもりが、そこに,大学で1年したの松本治直君がいたのです。「やぁ、やぁ」と旧交を暖めているうちに「判は押すから、社長に会ってみろよ」ということになりました。社長にあいました。
「きょうはちょうど、池田の伏鳳閣で勉強会(いまでいう研修会、当時は飲み会の意)があるから出席しなさい」と、あっという間に丸め込まれてしまったのでした。 閣ではでにイノシシ鍋の宴席がすでに整っていました。
出席者10人くらいでした。
座敷には畳の上に直に、足のついた黒板が立ててあり、社長がやおら立ち上がり講演を始めました。鍋が煮立ってきます。おいしいにおいが立ち込めます。みなが食べはじめます。
皆が飲みはじめます。手拍子で歌いはじめました。それでも社長は話つづけました。
わたしは驚いたの何の、業界1位の一部上場会社のまじめな(これはうそ)の堅気のサラリーマンだった私の目の前で信じられない事態が出来したのです。
が、驚いたのはそのことではありません。
社長の話を聞いて驚きました。世の中にはこんなユニークな考え方があったのか!こんな人がいるんだ。こんな社会があったのだ。これだ!これだ!
その日のうちに入社しました。まぁ人生こんなもんです。月給の約束は5万でしたがもらったのは4万円でした。会社に金がなかったせいもあるのですが、かくもユニークな会社だったのです。まぁ人生こんなもんです。社員番号16番の誕生です。 会社は最高に楽しかったですね。なにしろ、何をしても
いいし、何もしなくてもよいのですから。そして何かするとなると、すべてが創造なのですから。わたしは有頂天になって働きました。
昼も夜もありませんでした。こう書くとものすごく働いていたように思えますが、それは誤解です。わたしのいうのは、昼もは働いていたし、遊んでいたし、夜も働いてい
たし、遊んでいたということです。
実際、昼の日中、事務所で先輩と碁を指していて先輩が「まってくれ」というので「まてない!」といったら、「川口、お前、昨日メトロでパチンコしてたろ、いかんねぇ」というのです。とうぜん先輩も相当、すっていたのです。 お互い仕事中にパチンコなんかするからいけないのです。
こんなふうでいた頃、月間の粗利が200万円いったというので、おおいに祝杯を上げたものでした。当時は商品力調査の誕生の時期で、皆、若くてよく頑張りました。わた
しもドジで実査ではよくつかまりながらも頑張っていました。大手小売業、○○○との取り引きができて大喜びで一杯やったのもこの頃です。会社は順調に発展しました。自由の伝統はこうして育まれたのです。
会社は成長しますが、自分の実力は会社の成長についていきません。当時、いつもいつも背伸びをしてたものでした。そして東京六本木に東京事務所が開設されました。東京事務所はバスルームのふたつある外人向きのマンションでした。
そして。そして。そして。そして。会社の上場。そして退職しました。
川口 文駕
(このプロフィールは社内報掲載文章を転載したものです)
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