湖畔の宿
春のある日、私は4人の友人達とT湖畔のホテルに泊まりました。
そのホテルはごく普通のしゃれた建物で、
別に寂れているわけでもなく、古臭いわけでもありませんでした。
どちらかといえば大きなガラスが開放的に湖に面していて、
ソファーが幾つも置かれているラウンジは私の目にはおしゃれで素敵に見えました。
友人の中の一人、霊感の強いY子が、ロビーに入るなり眉をひそめたのに私は気づきました。
係りの人に部屋に通されると、私は彼女がこめかみに手を当てているのを見ました。
『大丈夫?頭でも痛むの?』と、私は彼女に近寄りました。
彼女は係りの人がまだ部屋にいるのに遠慮してか、私に目配せをして小さくうなづきました。

係りの人が部屋を出て行くと、彼女は声を低くして話し始めました。
『ここには湖で亡くなった人たちの霊が棲みついてる。』
他の友人達はみんな笑いながら、
『また始まったよ。Y子はいつもそうなんだから。
この前行ったN高原のペンションでも、そんな事言ってたし・・』

実は私は彼女達と旅をするのは今回が初めてだったので事情を知らなかったのですが、
彼女達は職場の仲間で、年に数回はみんなで旅行をしているのです。
今回私はそのうちの一人R子の幼なじみとして参加させてもらっていました。
Y子とは集合場所の駅で始めて会ったのですが、
その時私は『色の白いきれいな人だなあ』と思いました。
しかし、途中の車中でも、彼女はとても無口でした。
最初はつまらないのかとも思いましたが、
誰かが言った冗談に小さく笑ったり、みんなの事を微笑んで眺めていたりするのを見て、
私は彼女が単に無口なだけなのだと判りました。

宿に荷物を置いて、私達は湖の周りの散策に出かけました。
近くには土産屋、神社、有名な銅像もあり、湖の波打ち際を歩く事も出来ました。
夕方、土産屋の店先でお茶を飲みながら、みんなで翌日の予定について話しました。
『明日は早起きしてO渓谷を歩くわよ。』
リーダー格のR子が言うと、みんなは嬉しそうに微笑んでいました。
ホテルを出てからは、Y子も元気を取り戻していました。

ホテルに帰って夕食をとり、みんなで大浴場に行こうという時になって、
Y子が具合が悪いと言い出しました。
『それじゃ、部屋のお風呂に入る?』と誰かが言うと、
一人になりたくないと言って、結局みんなと一緒に風呂場についてきました。

大浴場は広々としていて、大理石の浴槽に湯が溢れていました。
私達のほかには客は無く、貸しきり状態でした。
その時私はふと気づいた事を、声に出して言いました。
『ねえ、このホテル、他のお客さん見かけないよね。』
一瞬全員が黙りました。
しかし、間をおいてR子が笑い声を上げました。
『何?Y子と一緒に雰囲気作り?やめてよ、あなたまで。
・・・だいたい今日は平日だし、こんなもんじゃないの?』
他の友人達もやはり笑って、『そうよそうよ。』と言いながら湯船に入って行きました。
私はそっとY子の横顔を見ました。
その時の凍りつくような彼女の横顔が今も忘れられません。
だいたい、たとえ平日にしても新緑の美しい季節に、
こんな有名な観光地のホテルに客がいないなんて考えられないように思いました。
散歩に出た時にはたくさんの観光客がいて、どの土産物屋も賑わっていたのです。
それが、ホテルに入ったとたんにしんと静まり返っていたのです。
大浴場から戻る途中に注意してみましたが、
ロビーにもラウンジにもホテル内の土産物屋にも人を見かけることはありませんでした。
心なしか顔色の悪い従業員が数名、蛍光灯の明かりの下で黙々と仕事をしているといった感じでした。

部屋に戻ってみんなで雑談をしている時に、M代が『しっ』と指を唇に当てました。
みんなは黙って寄り添いながら聞き耳をたてました。
『どうしたの?何も聞こえないよ。』
実際その時は何も聞こえなかったのです。
『ごめん。なんだか赤ちゃんの声がしたように思えたの。』M代が申し訳なさそうに縮こまりました。
みんなはほっとしながら笑いました。
『やめてよ〜。本当にみんな今日おかしいよ。だいたいY子がヘンな事言い出すから。』
そう言ってR子がY子の顔を見ると、彼女は顔面蒼白になって窓の方を見つめていました。
みんなはそのY子の表情がただ事ではないように思って、いっせいに窓の方を見ました。
R子が一番最初に大声を張り上げました。
少しだけ開いたカーテンの隙間から、何かが窓の外を横切っていったのを見たのです。
5人全員が見ました。
しかし、それが何であったのか、誰にもわかりませんでした。
一瞬の出来事だったので・・・
それをちゃんと見たのは、Y子ただ一人だったのです。
しかし彼女は気を失ったように、布団の上にうつ伏せで倒れていました。
みんなが彼女に声をかけて、体を揺すって目を覚まさせました。

やがて気づいたY子は、額にびっしょりと汗をかいていました。
私はコップに一杯冷たい水を汲んで来て彼女に渡しました。
彼女はそれを飲んでから、ポツリポツリと語り始めました。
『みんなも見たでしょう?』
みんなは顔を見合わせて、ゆっくり頷きました。R子はおそるおそる聞きました。
『見たことは見たけど、私にはあれがなんだったかさっぱり判らなかった。』
みんなも同調して頷きました。
『そう・・・。』Y子はそこで目を伏せました。
それからおもむろにM代に向かって言いました。
『さっき、赤ちゃんの声聞こえたって言ったよね。』
M代は青い顔で頷き、消え入りそうな声で聞き返しました。
『それじゃ、さっきのは赤ちゃんだったの?』
Y子は首を横に振りました。
『それじゃ、いったい・・・?』R子が聞くと、Y子は目を閉じたまま言いました。
『赤ちゃんを抱いた女の人だった。』
全員が凍りついたように動かなくなりました。
というより、動けなかったのです。
この部屋は二階で、窓の外にはベランダはありません。
湖の眺望を第一に考えた造りになっているようでした。
それから、Y子は少しずつみんなにさっき見た物の事を語り始めました。
それは赤ちゃんを抱いた若い母親で、全身ずぶぬれでした。
赤ちゃんは青い顔をしていて、すでに非常に痩せ細っていました。
それでも母親は大切そうにその子を抱きしめて、私たちの事をじっと見詰めていたと言います。

一通り話しを聞き終わると、みんなはこの後どうしたら良いのか途方に暮れました。
誰もが、この場に居たくないと思いましたが、こんな夜遅くに出てゆく事も出来ない。
ホテルの従業員に訴えても、きっと何かの見間違いと言われるだろうし・・・。
せめて、他の部屋の賑やかな物音でも聞こえてくればまだ救いはあるのですが、
このホテルの異様なほどの静けさが、私達の恐怖心を必要以上に煽るのです。

私達は意を決してほかの部屋の客を探すことに決めました。
まずは全員で寄り添いながら窓のカーテンを閉めました。
私がカーテンを手に取ったのですが、
今にも隙間から青い手がにゅっと出て、私の手首を掴むのではないかと、
気が気ではありませんでした。
それから部屋を出て、隣から一部屋ずつ中の様子を伺って行きました。
廊下は青白い蛍光灯に明るく照らし出されていました。
薄暗いよりもなんだか逆に殺風景さが目立つようでした。
結局私達が泊まっている2階には、起きている客は一組もいないようでした。
他の階も同様でした。
ロビーにも行ってみましたが、従業員の姿さえ見かけることは出来ませんでした。
煌煌と明かりのついた殺風景なラウンジの向こうには、
大きなガラス越しに真っ暗な湖が見えているはずでした。
しかし、窓には私たち5人と、誰も座る人の無いソファーが映し出されていました。
私達は部屋に戻りました。
そして今夜は布団にくるまって寝てしまうより他に無いのではないかという結論に達しました。
その晩は一睡も出来ませんでした。
遠くから響いてくる子守唄を聞いたような気がすると誰かが言い出したり、
だれも居ないはずの隣の部屋の壁がドンと音を立てたり、
その度に私達は寄り添って震えていました。

やがてあたりが明るくなり始め、廊下に従業員の足音が響きだすと、
私達は着替えをして帰り支度をしました。
本当は2泊の予定でしたが、とてもじゃないけどそんな気にはなりません。
朝食を終えると、仲居さんに一晩で帰るという事を伝え、チェックアウトの手続きをとりました。
その頃になると、みんなの顔にも少しずつ余裕が見え始め、笑顔も見られるようになりました。
それでもY子はあいかわらず顔色も悪く無口でした。朝食にもほとんど箸をつけませんでした。

私達は荷物をホテルに預けて外に出ました。
その日もいい天気で、湖は濃い藍色に見えました。
きらきらと陽に輝いている新緑は目にもまぶしく、
穏やかな風は私達の頬を撫でながら通り過ぎてゆきました。
ふと、『夕べの出来事はすべて私の夢だったのではないか・・・・』と思いました。
湖畔を歩いていると、Y子の顔色も徐々に明るくなってきました。
R子は有名な銅像の前で写真を撮ろうと言い出しました。
みんなは夕べの出来事を忘れたかのように顔を輝かせて並びました。
最初は一人ずつ交代でカメラマンをしていましたが、
みんな一緒の写真が欲しいと誰かが言い出して、
通りすがりの初老の男性にシャッターを押してくれるようにお願いしました。
男性は、ファインダーを覗いてみんなに『はーい、いいですか、撮りますよー。』と言ってから、
ふと顔を上げました。
そして『おや?』というふうにカメラを数回覗きなおしました。
しきりに首をひねっています。
『どうしました?シャッター切れません?・・・電池切れかなあ・・・。』
R子が歩み寄ろうとすると、男性は手でそれを制して再びカメラを構えなおしました。
『大丈夫大丈夫。ハイ、撮りますよー。』そういって彼はシャッターを押してくれました。
『ハイ、万が一のために、二回シャッターを切っておきましたよ。』
男性はそういいながらR子にカメラを渡しました。
みんなでお礼を言ってその場を離れる時、Y子が振り向いて初老の男性を見ていました。
何事だろうと私も振り返ってみると、
男性はこちらに背を向けて歩きながら、しきりに首をかしげていたのです。

結局その日はタクシーでO渓谷の途中まで行き、
少し風景を眺めただけで帰路につきました。
帰りの電車の中ではみんな口数が少なく、
それでもやはり夕べの事に話題は戻ってしまうのでした。
一睡もしていない私達は、
一時間もしないうちに電車の心地よい揺れと規則正しい音に誘われて眠ってしまいました。

それからの数日間はあっという間に過ぎました。
両親や友達にお土産を配ったり、職場の友人達にあの夜の出来事を話したり・・・。
しかし、興味深そうに聞いてはくれるものの、本気で私達の体験を信じてくれる人はいませんでした。
そうしているうちに、週末になりました。
R子から電話がかかったのです。
写真を現像に出したので、今夜集まってみんなで食事でもしながら見ようということになりました。

夜7時少し前に私はR子の家に着きました。
もう、他のメンバーは集まっていました。
私はデパートの地下で買って来たグラタンをみんなに差し出しました。
他のみんなもおもいおもいの食料品を買ってきていました。
『さ〜て、全員揃ったから、写真を見ましょう。』
R子は明るい声で言いながら、写真屋さんの紙袋をバッグから出しました。
一枚ずつ順番にR子から回していって、みんなでああでもないこうでもないとわいわい言いながら見ていました。
最初は往きの電車の中で駅弁を食べている写真などで、けっこう盛り上がりました。
湖畔の神社や土産物屋などの写真もありました。
わざとおどけているR子の表情に、みんなは大爆笑をしていました。
最後の数枚になったところで、R子はふと手を止めました。
顔から血の気が引いていくのが、傍目にも判るほどでした。
隣に座っているY子がR子の手から写真を取りました。
みんなが覗き込むと、それは銅像の前で初老の男性に撮ってもらった5人一緒の写真でした。
Y子の顔も凍りつきました。
そして、覗き込んだ全員の顔からも、血の気が引き、
もう言葉を発する事も出来なくなってしまいました。
写真には私達5人のほかに女の人が写っていました。
銅像から少し離れたところに色の白い女性が、両腕にしっかりと赤ちゃんを抱いて・・・。