展示室(4)   Showroom(4)

          鮮満支の路面電車(Tramways in old Korea and China

 標題の鮮満支は第2次大戦時代言われていた言葉で現在では怒られるかも知れません。

「鮮」は朝鮮、「満」は満州、「支」は支那、中国のことです。 

日本の占領時代には幾つかの都市では路面電車が走っていました。 それらを一寸覗いてみましょう。

 先ず朝鮮半島には、釜山、京城(現ソウル)、平壌の3都市に路面電車が走っていました。 それらの歴史についての詳細は専門書に譲って、ここでは簡単な歴史と共に弊資料室所蔵の資料の一部を御紹介します。

釜山:釜山の市電の前身は明治42年6月釜山軌道()が東莱温泉利用客送迎のため釜山鎮から東莱温泉まで開業した軽便鉄道が始まりです。 その後韓国瓦斯電気()に買収され、大正2年朝鮮瓦斯電気()と社名変更、大正5年軽便鉄道を廃止して電化しました。 その後路線延長や複線化を行い乗換券面のような路線網となりました。 昭和12年大興電気など南朝鮮の6大電気会社が合併して南鮮合同電気()が設立され、朝鮮瓦斯電気()の市電とバスの経営が移管されました。 第2次大戦後は釜山市の経営に移り、日本人の引揚げ後戦後部品供給とメンテが出来ないため61台の車両は1947年稼働車8両にまで落ち込み、米国からロサンゼルスの市電廃止後の車両100両を韓国に持ち込み、その内32両が釜山に供給されました。 しかしその後のモータリゼーションの影響で1968年5月20日に廃止されました。 次頁の写真上段2枚は昭和12年頃の市電の乗換券と回数券券片です。

京城(現在のソウル):韓国王室とアメリカ人技師との共同出資で漢城電氣を設立、1879年4月8日西大門〜清涼里間で開業式を挙行、その後漢美電気の経営となりましたが、更に日韓瓦斯電気の経営に移り、日韓併合後京城電気()が路面電車を経営し市内各所に路線を延ばしていました。 市内と言っても現在のソウル市から見たら漢江北岸の狭い地域でした。

第2次大戦終了後暫くして経営は韓国電力公社へ移り、1950年の朝鮮戦争で車両は半数以上焼失しました。市電復興の一助としてアメリカはロサンゼルスで廃止した市電20両をソウルに持ち込んだが、戦後のモータリゼーションの影響で19681130日に廃止されました。 2段目左側は昭和10年頃の市電乗換券、右は第2次大戦後ソウル市電の乗車券で、よく見るともうビューゲルになっています。 3段目は昭和13年頃の乗換券で京城電氣最盛期の頃です。

平壌:残念ながら平壌市電の乗車券は所蔵していないのでご紹介できません。

 4段目は大連市電の乗車券と乗換券で発達した路線網を見ることが出来ますが現在は大幅に減っています。 当時は大連都市交通株式会社が経営していました。中国には第2次大戦前には此の大連の外にハルピン、長春(満州時代の新京)、沈陽(満州時代の奉天)、鞍山(1943年開業)、北京、天津、上海に路面電車が走っていましたが、現在は大連と長春のみに残っています。 

  Tramway tickets in Seoul,Pusan and Dalien, Korea & China during 1930-1940

次に掲げるのは天津の市電乗車券です。 天津の路面電車はベルギー資本が設立した比商天津電車電灯公司が経営していましたが、1943年日本軍に接収されて、日本の国策会社と

して設立された「天津交通」が運行、第2次大戦後は国民党政権、次いで共産党政権の元で1950年からトロリーバスに置き換えられ1972年に全廃されました。 上段右側は日本軍接収前の電車公司時代と思われます。 上段左は時代不明バス券、2、3段目は天津交通時代の券です。

             Tramway tickets in Tianjin, China during 19301940

次に掲げたのは上海市電の乗車券です。 第2次大戦前上海には共同租界で英国資本の1908年開通の英電、2ヶ月遅れのフランス租界の法電(中国語でフランスは法国)、1913年中国資本の華電が走っていました。 1943年日本の占領下中国へ返還され一旦消滅しましたが、その後復活し共産党政権下で運行を続けていましたが、1950年朝鮮戦争勃発で中国に接収され、1975年までにすべて廃止されトロリーバスになりました。

 

 

 

     Tramway tickets in Shanghai, China during 19301940