群馬県沼田市の ご当地キャラ小松姫の 【小松姫プロジェクト】様が枕連の作成した動画に 声を当ててくれました→ 小松姫の中の人は声優の志賀穂奈美さんです 小松姫は真田幸村の兄真田信之の正室です! |
真田幸村(信繁) |
主家武田が滅亡した後、真田は周囲を上杉・北条・徳川という大大名にかこまれることとなります。 真田昌幸は生き残りを賭け、あっしについたりこっちについたりを繰り返します。その度、幸村は人質としてたらい回しにされます。弱いものが生き残ることがいかに厳しいかを思い知らされます。 ようやく実家に戻ってきたとと思えば、関が原で負け、高野山で蟄居。 姉村松宛の手紙が多く残っていますが。人生のほとんどを人質・蟄居で過ごした幸村には親しい友人もほとんどいなかったのです。 大坂の陣の頃の手紙は涙なくしては読めません。 |
「定めなき浮世にて候へば一日先は知らざることに候。我々事等はこの世にあるものとおぼしめくまじく候」 |
一旦の約は信濃一国は申すに及ばず、日本半国を以っても翻し難し 信濃一国で大坂方を裏切り事を求められた時に真田幸村が言ったと言われる言葉です。 |
ユーチューブの真田動画 安居神社〜真田幸村最期の地〜+ 一心寺〜本多忠朝最期の地〜 豊臣大坂城by麻布狸穴 三光神社・茶臼山〜真田幸村ゆかりの地 真田小松姫と勝願寺へいってきたBY麻布狸穴 真田信綱ゆかりの信綱寺にいってきた(長野県上田市) 【沼田城】上州における真田家の城BY麻布狸穴 【名胡桃城】BY麻布狸穴 |
上田城(うえだじょう) |
2度の徳川との戦いで勝利した事はあまりにも有名ですが、この戦いの印象があまりにも強い為、徳川家康は城攻めが下手ということになってしまっています。(2度とも家康は直接参加していません。) 小説やドラマでは第一次上田合戦(神川合戦)には真田幸村が出てきますが、実際はまだ上杉景勝の元に人質になっていたようです。 幸村びいきの人は真田大活躍のこの戦いに参加させたいという願望が強い為のようです。 |
サイトマップ |
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真田信綱(さなだのぶつな) |
信綱寺は長野県上田市にあります この辺りは上田駅からそんなに遠いわけではないのですが、バスの本数も極端に少ないのが、真田関連の見所が掃いて捨てる程あるのに。 備中青江の三尺三寸の大太刀を愛用したと伝わります。奇襲を得意とするともあります。 長篠の戦いでは「敵方柵の内へ引退く。真田御兄弟勝ちに乗り、柵二重乗り越え戦い給いけるが、信綱討死し給いける」とあります。 |
松代には太平洋戦争時の大本営地下壕等もあります。 改易された福島正則の領地がこの近くにあり、真田信之と会見したとの話も伝わってます。 (真田藩は信濃の国で最大の石高の大名でした。) |
長国寺 |
真田家菩提寺「長国寺」 |
長野県長野市松代町松代の長国寺 屋根の上の鯱は松代城の物といいます 松代藩初代真田信行さんは93まで生き天寿を全うし長国寺に葬られました。 真田幸村の墓もあります。 |
真田信行の廟 |
信行廟の破風の鶴は左甚郎、格子天井の絵は狩野探幽によると言います |
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真田幸村 |
大坂城(大阪城) 大坂冬の陣 |
大坂冬の陣の大坂城を南から鳥瞰図で描いてみました。北に淀川等が流れ、南側が高く南の堀は空掘でこちら側手前が戦闘正面となります。真田丸の攻防ではこの空掘に面したほとんどの徳川方が攻めかかり多くの死傷者を出してしまいました。この後、大砲攻撃が仕掛けられたのは天守や本丸に近い画面奥北側となります。大坂夏に陣の最後の決戦地四天王寺は画面のもっと手前です。 豊臣大坂城はおよそ2q四方となります。秀吉は死の直前三の丸を増築し大坂城の防御力を高めています。 |
豊臣大坂城(大阪城)イラスト |
大坂城天守 |
大坂城天守 |
大坂城本丸 |
大坂城本丸 |
真田の出丸 |
大坂夏の陣 |
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豊臣大坂城 三の丸石垣 |
豊臣大坂城 三の丸石垣 |
豊臣大坂城 三の丸石垣 |
豊臣大坂城 三の丸石垣 |
豊臣秀頼 淀殿自刃の地 |
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上田城長野県上田市上田字二の丸真田昌幸・幸村会心の一撃! |
真田石 |
真田神社 |
真田井戸 |
御屋形 |
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上田城、いわずと知れた真田の本拠…なのですが、今の遺構は後の仙石・松平時代の物だったり…。一度破却されてますが、後に復活!縄張り自体は真田時代のものも利用している様です。外堀だった千曲川は随分遠くへ行ってしまってます。 この崖は尼ヶ淵と呼ばれています。 【真田石】真田さんも人足に混じり運んだという伝説の残る「真田石」また松代に移る際真田信行が持って行こうとしたいう伝説も 【真田神社】霊験あらたかな? 【真田井戸】城外と通じていたという伝説もあります 【御屋形】藩主が政務や日常生活を行う「御屋形」です。門と塀が現存してます。 真田信行の正室「小松姫」(本多忠勝の娘で家康の養子となる。)の墓がある「芳泉寺」や真田昌幸室の寒松院(幸村の母)の墓のある「大輪寺」もあります。 上田ではその後の城主である仙石氏や松平氏はほとんど忘れられています。 |
真田信綱 長篠に散った幸村の叔父 |
長篠の戦いの真田源太左衛門信綱 |
長篠の戦いの真田表部昌輝 |
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備中青江の使い手もあえなく討死 |
信綱・昌輝は真田幸村のおじたちです |
信綱寺 |
真田信綱 昌輝の墓 |
真田信綱 昌輝の墓 |
自害した 白川兄弟の墓 |
血染めの 陣羽織 |
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信綱寺には信綱の他に弟の真田昌輝も葬られています。右の新しいのが それです。最近縁者がたてたそうです。 “次男”以降は墓も立ててもらえない…封建時代の悲哀ですね。 長野にある信綱寺に伝わる“血染めの陣羽織”。長篠の戦いで 討死した真田信綱の首級を家臣の白川兄弟がこの陣羽織で包み ここまで持ち帰ったそうです。(兄弟はその場で自害し信綱の後を追いました。) 【自害した白川兄弟の墓】真田信綱・昌輝の墓の脇にあります 【鎧の胴】信綱の首級はこの胴に入れられて埋葬されていたそうです。 付近には真田本城・松尾城・洗馬城・戸石城・横尾城真田氏館等、真田関連の史跡や角間渓谷(猿飛佐助が修行したとの話が伝わる所)真田氏歴史館・真田氏記念公園等もあります。 |
松代城(海津城) 長野県長野市松代町松代 戦国最大の激戦地 |
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松代城…かつて海津城と呼ばれた城。そう川中島の戦いで有名な城です。しかし、八幡原の決戦地は超有名観光地ですが(観光バスが大量に)こちらは人も少なく。昔に想いを馳せられるかも…。しかし、本当にまっ平らの平城ですね。 上杉謙信もこの城を妻女山から見下ろしていた訳です。当時の海津城城主は重臣高坂弾正昌信(甲陽軍鑑の作者)でした 武田氏時代はこんな立派な石垣のある城ではなかったと思われますが。最前線の城の城兵もおちおち眠ることもできなかったでしょう。 江戸時代は真田家の領地だったので、まちには真田関係のものが数多くあります。 初代藩主真田信之(幸村の兄)の廟のある長国寺や文武学校・藩邸などなど。 また幕末に公武合体を唱え活躍した佐久間象山の生誕地もあります。(勝海舟・吉田松陰・河井継之介等も門下) |
勝願寺 埼玉県鴻巣市本町徳川四天王本多忠勝の娘の眠る寺 |
葵の御紋 |
人形の町鴻巣 | ||||||||||||
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埼玉県鴻巣市の勝願寺です。鴻巣駅近くの中山道鴻巣宿の入り口近くにあります。真田幸村の兄の真田信之(信幸)の正室小松姫の墓があります。 小松姫はあの有名な徳川四天王筆頭本多忠勝の娘ですが、徳川家康の養子になった後、真田信之に嫁ぎます。 関が原の戦いの時、沼田城に入ろうとする義理の父真田昌幸を敵になった以上父上とて城に入れる訳にはいかぬと門前で追い払ったのはあまりにも有名。流石、本多忠勝の娘だとさしもの真田昌幸も苦笑したとかしないとか。 ちなみに真田幸村の正室は西軍の大谷吉継の娘でした。そんな訳で真田信之と真田昌幸・幸村は東軍・西軍両陣営に分かれていくのでした。 関ヶ原の戦いの後、真田信之は義理の父である本多忠勝と共に昌幸・幸村の助命を嘆願し命だけは許されるのでした。 中山道鴻巣宿の勝願寺は鷹狩の際、徳川家康が寄ることもあったようです。 江戸時代、関八州の新田開発や治水に功績のあった伊奈忠次・忠治の墓も あります。芭蕉忌千句塚もあります。 小松姫の墓です。(三重の大きい物)沼田や上田にも分骨されています。 小松姫は真田幸村にとっては義理の姉ということになりますね。 |
沼田城 東国最大の天守を誇った六文銭の城 群馬県沼田市西倉町 |
沼田城本丸 西櫓台石垣 |
本丸西櫓台 城内側 石垣と石段 |
沼田平八郎 首石 |
本丸西櫓台 城内側 石垣と石段 |
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真田昌幸は沼田城を織田家臣滝川一益に明け渡しますが織田信長に攻められ武田勝頼が田野で滅びると再び真田昌幸の手に戻ります。たびたび北条軍が攻め寄せますが、攻略することが出来ませんでした。 最終的に羽柴秀吉の裁定により沼田城は北条のものとなりますが、この裁定を不服とした沼田城主猪俣邦憲が真田の名胡桃城を強奪してしまいます。 この事を口実にして秀吉の北条攻めが決行されるのでした。 北条家滅亡後、沼田は再び真田昌幸のものとなり、城主として真田信幸が入ることとなります。 関が原の戦いの際、本多忠勝の娘であり真田信幸の正室である小松姫が西軍に付いた義理の父である真田昌幸と義理の弟である真田幸村を門前で追い払った話はあまりにも有名ですね。 |
正覚寺・妙光寺・天桂寺(沼田城下) 群馬県沼田市 |
正覚寺山門 |
大連院殿 小松姫の墓 |
妙光寺 加藤正良母 墓と思しきもの |
妙光寺 加藤清正孫 正良墓と 思われる墓 |
天桂寺 |
天桂寺の 六文銭瓦 |
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群馬県沼田城下の【正覚寺】。真田幸村の兄の真田信之の正室「小松姫」が眠る正覚寺です。もともとは本多忠勝の娘ですが徳川家康の養子になった後真田信之に嫁ぎます。埼玉県鴻巣でなくなったので鴻巣の勝願寺やまた上田城下の芳泉寺のも墓があります 大連院殿はだいいんれんどのと読むのかと思っていたら実はだいいんれんでんと読むらしいです。 城下の【妙光寺】です。真田氏二代目藩主真田信吉の側室であり五代目藩主信利の母である「慶寿院殿」の墓があります。が加藤氏関係らしい墓は発見できたのですが慶寿院殿の墓はついに・・・ この辺りの寺は門前の説明版には誰々が葬られていますと書いてあるのですが、墓には説明版の類はほとんど無いので探すのが大変 城下の【天桂寺】です。真田二代目藩主真田河内守信吉が葬られている はずなのですが墓地自体がどこにあるのか解かりませんでした |
名胡桃城 真田昌幸、沼田城奪取への足がかり そして、秀吉天下統一への総仕上げ 群馬県みなかみ町下津 |
名胡桃城 石碑 |
三の郭二の郭 間空堀 |
堀切から 見上げた本郭 |
本郭より 沼田方面 |
ささ郭 |
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群馬県みなかみ町の名胡桃城です。武田勝頼より沼田城攻略を命じられた真田昌幸がその拠点とし、また、豊臣秀吉の北条攻めのきっかけとなったことで、あまりにも有名な城です。 利根川西岸に突き出た河岸段丘を利用して築かれた連郭式山城です。 真田昌幸は沼田攻略の為、名胡桃城を整備、(城主は鈴木主水)1580(天正8年)ついに沼田城を謀略で手に入れますが、1582年織田信長に攻められ主家武田家が滅亡してしまいます。 その後も北条と真田の間で争いは続きますが、織田信長の後継者として台頭してきた羽柴秀吉の裁定により、沼田は北条に戻されますが、名胡桃は真田に残されます 真田昌幸は沼田はともかく名胡桃は先祖伝来の地であるから絶対に手放せないとはったりを主張しそれが秀吉に認められます。 最終的にそれを不服とした北条方沼田城主猪俣邦憲が沼田城を強奪、自分の裁定に従わなかった北条氏に対し秀吉の小田原攻めが決行されることとなります。 |