KISS? KISS!? KISS!!
最終話 『−そして二人は・・・−』
パァーン!
スタートの合図のピストルと同時に、身体が動いた。
久しく忘れていた感覚。
身体が起きあがる。
脚がスターターを壊さんばかりに蹴る。
そして・・・
風に包まれた。
正樹が、まず感じたのは驚愕だった。
自分がスタートを切った時には、哲はすでに数歩先のところにいたのだ。
不意に橋本先輩の声が耳に甦った。
自分以上のスタートの速さだと。
確かに言葉通りだ。いや、想像していたよりずっと早い。
でも・・・
ゴールには菜織が、彼を見守り続けてくれた少女が待っている。
彼女の前で負けるわけにはいかない。
え・・・?
冴子はゴールテープを持ちながら、正樹をリードしている哲の姿にまず驚いた。
脚が速いのは知っていた。
でも、正樹より速いとは思っていなかった。
それと、もう一つの感情が冴子の心に湧きあがっていった。
倒れそうなくらい前屈姿勢で走る哲の姿。普段のおちゃらけ少年とは違った一面。
アイツ、かっこいいかも・・・
そんなことを心の片隅で思っている冴子だった。
身体が重い!!!!
これが数年ぶりにマジで100m走やっている哲の今の思いだった。
スタートは中学時代に鬼のようにやった反復練習によって身についた習性もあって、ま
ぁまぁの出来だったが、その後はもう自分の頭と身体が一致していない。
でも・・・
負けるわけにはいかない。
ゴールには何故だか惚れてしまった粗忽で粗暴、でもどこか可愛い少女が待っているのだ。
惚れた女のコにはカッコイイところを見せる。
それが哲という男のこだわりなのだから。
出だしは、完璧に哲のリードだった。
でも、正樹の本領は50m過ぎからの加速だ。
哲が先行逃げ切り型なら正樹は終盤追い込み型。
差は徐々にではあるが縮まりはじめている。
哲の走り方はかなり独特のモノだった。身体が倒れそうなほど前傾のまま、走りつづけ
ているのだ。
60mを過ぎた。
二人の差はもうわずかでしかない。
でもそこから中々縮まって行かない。
「正樹! しっかり走りなさいよ!!」
その声に反応するかのように正樹がさらに加速する。
冴子といっしょにゴールテープを持たされている菜織が、たまらずといった感じで声を
上げる。
それに誘われるようにギャラリーから声が次々に上がる。
「お兄ちゃん頑張って!」
乃絵美が彼女にしては珍しく大きな声をだして兄を応援する。
「どっちも頑張ってぇ〜〜☆」
美亜子は手を振り上げて歓声を送っている。
「行け・・・」
呟くように英は言う、哲への応援なのだろう。
そして冴子は声を張り上げていた。
「哲、がんばれ、こら!!」
80mをこえたあたりから、膝や腰のあたりがミシミシいう音が聞こえてきた。
そしてすぐ後ろに正樹が迫ってきているのをしっかりと感じられた。このままじゃゴール
5mくらい手前で抜かれる、それが哲にはしっかりと自覚できた。
しっかりしろや、脚ぃ!
でも、彼の自身への叱責も、脚には届いてくれていないようだ。脚がドンドン重くなっていく。
諦めるのが何より嫌いな哲だが、この時はさすがに万事休すかと思った。
だけど・・・
風の中にいた彼の耳に、声が届いた。
いや耳というより、心の中に直接聞こえた、そんな感じの声がしっかり聞き取れた。
「哲、がんばれ、こら!!」
体の中の何かがその声に反応した。脚がわずかだが軽くなった。
まだ行ける!
哲は目の前のゴール目指して、力を振り絞った。
ゴールテープが切られた。
二人のゴールは殆ど同時だった。
「勝ったかぁ!?」
そう叫んでゴールをした哲はそのまま前のめりに倒れ込んで、勢いそのまま転がってい
く。減速に失敗したようだ。
正樹は哲のように無様ではなく、しっかり減速をかけて止まった。
ゴールは殆ど同時だった。
走った二人にもどっちが勝ったか分からなかったくらいだ。
だが、ギャラリーはというと・・・
判定が真っ二つに割れていたりした。
「哲のおでこがテープ先に切ったよ!」
これは冴子の主張。横で英も頷いているのをみると、同意見らしい。
「正樹の方が速かったって!」
「私も、お兄ちゃんの方が速かった気がする・・・」
これは菜織と乃絵美の意見。
「と、いう訳なのねぇ〜ん」
哲と正樹に向かってお手上げポーズをする美亜子。彼女は中立のようだ。
「ありゃりゃ」
「まいったな」
走り終えた二人はお互いの顔を見合わせ苦笑する。
「しかし、速いな諏訪内」
正樹が改めて感心したように哲に話しかける。
「スタートの時、後ろ姿がみえるくらい先に行かれていたの初めてだよ」
「まぁねぇ」
久しぶりに酷使した脚を揉みほぐしながら、哲は答える。
「じつはインドアの60mなら中学新記録だしたことあったりするんだな。非公式だけどね」
さらっと数少ない自慢できることを哲はもらす。
「しかし駄目だな。80くらいでもう脚が悲鳴あげてたよ。体がベースランニングに順応
しきっちゃっているんだな」
あの声が聞こえてなきゃ、完璧に負けだったな。と、哲は謙虚に思ったりする。
「でも、ありがとな、マサヤン。陸上、どうも中途半端で辞めちゃった気がしたからさ、
けじめ付けたかったんだ」
「そうか」
正樹には哲が全国一にまでなった100mを辞めてまで、野球を始めた理由はわからない。
でも、きっと深い理由がるのだろう。
「インターハイ、頑張れよな」
「あぁ」
きっと哲との勝負は、全国レベルの選手との競争経験がない正樹には、この上ない予行
練習になっただろう。
そして哲は大の字になって地面に寝ころぶ。夏の長い日がゆっくりと暮れなずんでいく。
空には夕日を受けて朱にそまった白い雲が浮かんでいた。
気持ちよかった。空と自分の間にある空間が心地よい。
ふと、空に哲がかつて大好きだった少女の顔が一瞬、浮かんだような気がした。
少女の顔は笑っていた。
「お前の分まで、これからも頑張るからな」
−ありがとね、哲−
心地よさに任せて目を閉じた哲に、声が聞こえた。懐かしい声だった。青海と同じ声音
だけど、どこか違う声が。
−礼にはおよばないよ、俺とお前の仲だろ−
哲は心の中で答えた。彼の中だけで想い出の少女と会話が始まった。
−まったく、相変わらずだよね、哲は。それとさ、お願いきいてくれるかな?−
−俺で出来る範囲ならきかないこともない−
−青海のことなんだけどね、私のかわりに面倒みてやってよ。あの子さ、あれで思いこん
だら無茶するしさ−
−青海は葉の担当だろうが−
−駄目なんだ。あの二人には私の声、聞こえないの。きっと、哲ほど私のこと想い出に出
来ていないんだよ−
−・・・そうなんだ−
−私はね、私の大好きだった3人が、私の分まで幸せになってほしいんだ。だから、さ・
・・−
−わかったよ。夏が終わったらな−
−うん、頼んだ。甲子園、行ってよね−
−あぁ、頑張るよ−
心の中だけの会話は、そこで終わった。
哲は目を開け、体を起こす。まだ少し思い出すと涙が出そうになるけど、堪えられない
ほどじゃない。
ふと気がつくと正樹が呆れたような顔しているのが目に入った。何事かと思い正樹が見
ている方向に顔を向けると・・・
冴子と菜織が今にもとっくみあいの喧嘩でも始めそうな勢いで睨みあっていた。
ウ〜〜〜〜と唸りあうこえすら聞こえそうだ。
周りでは橋本先輩や乃絵美が必死で二人をなだめようとしている。哲は我関せずって顔、
美亜子は間に入って火に油を注いでいるみたいだった。
「どうしたの、あれ?」
「俺達のどっちが勝ったかで揉めているらしいぞ」
「あちゃ」
勝敗は哲にとってはどうでもよかった。むろん、負ける気はなかったけど勝ちたいから
走ったわけではない。
自分の中に区切りをつけたかった。
それと、好きになった女の子に、いいところを見せたかった。
それが理由なのだ。
「じゃあ、当事者としては止めにいきますか、マサヤン」
「そうだな。怒った菜織にはあまり近づきたくないんだけどな」
「お、わかってますな。さすが、つきあいが長い恋人さんだ」
「ば、馬鹿! 誰が恋人だ!」
「あれ、じゃあ眼鏡のミャンマー娘のほうが恋人なのか?」
「あ、あ、あのなぁ!?」
「てれないてれない♪」
哲は真っ赤になってしどろもどろに抗弁する正樹の背中を叩いて、こう言った。
「人を好きになるのって、恥ずかしいことでも何でもないんだぜ♪」
結局、冴子VS菜織の対決は、間に哲と正樹が入ったこともあり、未遂で終わった。
走った二人が引き分けでいいと言うので、ギャラリーがこれ以上主張する意味がなくなった
からだった。
でも、二人の少女はまだ不満そうだった。
そして後かたづけを橋本先輩が申し出てくれたので、この場はそのまま解散となった。
正樹、菜織、美亜子、英、乃絵美はこれからロムレットでお茶をすることになったのだが、
哲はいろいろと疲れたらしく、このまま帰ることになった。冴子は何となくその付き
添いをすることになった。
美亜子の「ごゆっくりね〜ん☆」の冷やかしに赤い顔で拳を振り上げた冴子とVサイン
で答えた哲が、離れていく。
「ところでさ」
菜織が誰とはなしに問いかける。
「諏訪内くんの『男のこだわり』ってなんだったの?」
「あ、そう言えば・・・」
乃絵美も思い出したようだ。問いかけの視線は自然に英と正樹に注がれる。
「諏訪内が言うにはな・・・」
正樹が軽く思い出し笑いをしながら、哲に聞いた台詞を言おうとすると、
「かっこいいとこ、見せたかった、だろ・・・」
英が少しだけ微笑みながら、哲が言った台詞を言う。もとが美形な英がこういう感じで
微笑むととてつもなく絵になる。
乃絵美や菜織、美亜子まで何故だか顔が赤くなってしまった。女殺しな男だ。
「見せたかったって、誰に・・・ あっ!?」
菜織がそこまで言って自分で気がつき、手で口を押さえる。
「サエに?」
「決まってるよねぇ〜☆」
菜織の言葉を美亜子が楽しそうに肯定する。英も正樹も頷いた。
「惚れた女の子にはかっこいいとこをみせたいんだそうだ。それに、あいつが言うには・
・・」
そこで正樹は言葉に詰まる。『好きな女の子のことを浮かべれば、それがブースター代わりになる』
云々と言った哲の言葉、彼にはここでは言う度胸はない。
「何よ、正樹」
菜織が口ごもる正樹にすかさず反応する。
「ま、まぁ、男同志の話だから・・・」
「ふ〜ん」
菜織は納得していないようだけど、それ以上、何も言ってこなかった。そっと胸をなで下ろす正樹。
「でも、サエちゃんうらやましいな」
乃絵美が、憧れまじりのため息なんかついて、そう言った。
「あんなにストレートに『好き』って言ってくれる人がいるんだもん」
「まったくね、あんたも少しは見習いなさいよ」
そう言って正樹の腹を肘鉄でこづく菜織。
正樹はぐうの音も出ないって感じになる。
「そういえば正樹くんは菜織ちゃんと真奈美ちゃん、どっちとくっついたの?」
いきなり突拍子もないことを訊いてきた美亜子。英も少なからず興味あるぞって顔になっている。
「ななななな・・・ なにをいうのよ、ミャーコ!!!!!」
答える菜織の声は180°裏返っている。
「だってさ、わからないんだもん。正樹くんは相変わらず優柔不断の介だし」
「悪かったね、優柔不断で・・・」
答える正樹の声も上擦っている。平静を装っているらしいが、動揺が声に出まくっていた。
「もしかして、乃絵美ちゃんとくっついちゃったなんてことはないよね、正樹くん!?」
「え、わたし・・・?」
何故か顔をリンゴのように真っ赤にして、頬に手なんか当てる乃絵美。なんか満更でも
ないって感じである。
「なにか、怪しくないか・・・?」
「そうですね、ひかるくん☆」
「要調査では?」
「その価値ありありですね」
乃絵美の意外な反応に、声を潜め、肩を寄せ合い顔寄せ合い、ヒソヒソ話しなんかしな
がら先にいく英と美亜子。凸凹コンビぶりがなんだか面白いかもしれない。
英と美亜子。この二人もお似合いなのかもしれない。
一方、哲と冴子の方は。
ゆっくりと、二人で並んで歩いていく。
二人とも何も喋らない。夕日が長い影を二人の後ろにつくっていた。人通りは殆どない。
「あのさ・・・」
哲が口を開いて冴子に訊く。
「俺、かっこよかったか?」
いきなりな問いかけ。でも、冴子は素直に答えられた。
「ちょっとかっこいいって、思った」
答えた冴子の頬が朱に染まったのは夕日のせいだけではなさそうだ。言ってから少し心臓の
鼓動が高鳴るのを感じた。
「そっか・・・」
それっきり会話がなくなり、再び二人は無言で歩いていく。
「あのさ・・・」
今度は冴子が口を開いて訊いてきた。
「あたいのさ、どこがいいんだ? こう言っちゃなんだけどあたいさ、全然女らしくない
しさ・・・」
「いや」
冴子の言葉が終わらないうちに、哲が遮るように喋り出す。
「冴子は女の子だよ。たしかに乱暴狼藉モノかもしれないけど、それだけは確かだ」
乱暴狼藉はとりあえず置いておくとして、女の子ってキッパリ認められるのは気恥ずか
しいけど嬉しかった。
そう言えば、正樹はどっちかと言うと自分に性別を感じさせない友人、みたいな感じで
接してくれていた。でも哲は、あったときからちゃんと自分を女の子扱いしてくれていた
気がする。
「それにさ、今は俺にもわからないんだ。冴子のどこをどう好きになったかなんてさ」
哲の言葉は染み渡るように冴子に届いていく。
「でもさ、きっとこれからいろいろ思うんだろうな。『こういうところを好きだ』とか
『あんなところが好きなんだ』とかさ」
鼻の頭を軽く指で掻きながら、少し照れたように言う哲。彼の言葉通りだ、冴子はそんな
仕草をする哲がまた少し好きになれた気がした。
「だからさ、俺、頑張るよ。冴子が俺のことさ好きになってくれるようにさ、いっぱい」
その言葉に、冴子は笑顔で応えた。哲が思わずドキッとしてしまったほどの笑顔で。
「うん、頑張れ」
そして二人の脚はどちらともなく止まった。
見つめ合う。
夕暮れ、街角。
夕日に伸びた影がゆっくりと重なろうとした。
・・・その時だった。
「あ〜〜〜〜〜、田中先輩、なにやっているんですかぁ〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
重なる寸前、二駅さきまで聞こえそうな甲高い声が巻き上がった。
「しまった、あいつがいたんだ・・・」
高まったラブラブボルテージが一気に下がる哲。最大のライバルの存在を失念していた。
「み、みよかぁ? どこ、どこにいるんだ!?」
冴子が驚いてあたりを見回すが、声を発した冴子命娘、田中みよかの姿はどこにも見えない。
すると哲が呆れたように見つけた発生源に目をこらし指をさす。
「あの、米粒みたいのだな。コケシ娘、視力いくつだ?」
哲に言われてその方向をみると、たしかにちっこい人影があった。それがドドドドと近
づいてくるのもわかった。実際にはみえていないにも関わらず鬼も逃げ出すようなみよかの顔が
容易に想像できた。
「とりあえず、逃げるか?」
「あはっ、そうだな!」
二人は迫り来るみよかに背を向け、走り出した。
徐々に始まった哲と冴子の恋物語、まだまだ前途多難のようである。
そして、数日後。
甲子園目指しての夏の大会、Stエルシア学園は準決勝まで駒を進めていた。
対戦相手は優勝候補本命筆頭の緑上高校。去年、辛酸をなめさせられた因縁の相手だ。
「・・・去年はガメラで、今年はギャオスか」
投球練習をする相手校のピッチャーを見ながら、哲はそんな感想をもらす。
神奈川ナンバーワン右腕の呼び声高い、緑上高校ピッチャー山下、額が広く目が離れて
いるところが哲にはギャオスに見えるらしい。
「でも、キャプテン。あいつの球150近いらしいじゃないですか」
一年でショートのレギュラー、坂下がミットに快音響かせる剛速球を投げるギャオス山下を
見ながら、そう言う。
「どっかの130しかでないヤツとは、大違いだな・・・」
英がキャッチャーの固定武装であるプロテクター類を付け終え、ベンチからやってきた。
この試合、一番の注目はこの鷲海 英と、ギャオス山下の超高校級対決と言われている。
「いいの、俺はコントロールが武器なんだから」
左腕をブンブン振り回しそういう哲だが、負け惜しみにしか聞こえない。
でも、哲の評価もそれなり高く、英の好リードもあって防御率はマウンドにいる山下に
次いで2位に付けている。
そして、試合前の円陣をくむ。一年生中心だが、層は去年よりずっと厚くなっている
Stエルシア男子野球部。
「さて、みんな。あいつらに勝てば、もう甲子園は王手飛車とりみたいなもんだ」
キャプテンらしいことをする哲だが、すかさず英の突っ込みが入った。
「わけがわからん・・・」
「ええい、黙れ。みんな、今までの苦しい練習を思い出せ」
「すいません、先輩。自分、腹抱えて笑っているシーンしか思い出せません」
今度は一年生の突っ込み。すかさず哲の脳天唐竹割りが炸裂した。
「とにかく、これで負けたら俺達は明日から女子野球部の手伝いしなきゃなんないんだぞ!
それはイヤだろ!?」
Stエルシア学園には野球専用グランドが一つしかない。それを男女野球部が交互に使って
いるのだが、夏の予選期間にかぎり、予選が終わったら女子野球部の手伝いをするのを
条件に優先的にグランドを使わせてもらっていたのだ。
「あ、自分いま女子野球部の桜木キャプテンに冷たいおしぼり渡しているシーンが浮かび
ました」
再び一年生のつっこみ。今度は水平チョップで黙らせる哲。
「いいからいくぞ。気を付けるのはあのギャオス顔が投げる球に当たらないこと! 洒落
にならんぞ、きっと」
とかく試合前のチームの円陣とは思えないお笑いな雰囲気なあと、円陣は解散する。
一番バッターが打席に向かい、哲たちはベンチに向かう。
「しかし、暑いわねぇ〜」
忘れている方も多いと思われるが、男子野球部顧問の天都みちるが、ベンチの奥にひっ
こんで、団扇でパタパタ自分を扇いでいた。脚は素足で水をはったバケツに突っ込んでいる。
これで試合が終わって新聞社とかがインタビューに来るとすぐさま豹変して、もっとも
らしい態度なんかとるから、女は怖いと哲は思ったりする。
そして、試合開始を告げるサイレンが球場に鳴り響いた。
一塁側スタンドは準決勝ということもあって、Stエルシア学園の生徒が多数応援に来
ていた。その80%が女生徒でその中の80%以上が英目当てであろう。エルシアの生徒
ではない少女も多数見受けられる。
そして、ベンチのちょっと上の席に、冴子や美亜子、乃絵美に菜織に正樹、それと「田中
先輩断固死守!!」という鉢巻きを巻いたみよかが陣取っていた。
みよかは、この暑さのなか冴子の腕に巻き付いて、ベンチをまるで威嚇するかのように
睨んでいる。
「しっかし、あの一家は・・・」
みよかを引き離すことは諦めた冴子が、ため息まじりにライトスタンドに視線を送る。
大漁旗のような大きな旗がはためいていた。旗を振るのは哲の義理の兄の学で、その旗
には『がんばれ哲、ラーメン食べるなら紅蘭へ!!』と大きく書かれている。
その下では、チアガール姿の哲の姉の法子が、ボンボン両手にピョンピョン飛び跳ねて
いる。とても人妻に見えない。
下の姉の心が見えないということは、どっかで他人のふりでもしているのだろう。
ライトスタンド一角だけ、異次元空間のような雰囲気を醸し出している。あそこで一緒に
応援する勇気は冴子にはなかった。
試合はおおかたの予想通り、投手戦の様相を呈してきた。
4回表終わって、両校0対0のまま。でたヒットは未だ英のシングルヒットのみ。
そして、この回のStエルシアの攻撃は2番からの好打順だった。
「みよかちゃん、いい加減諦めてあげたら〜☆」
「いやです!」
美亜子が冴子を気遣ってかはたまた面白いからわからないが、みよかに言うが、あっさり
却下されてしまう。
「サエがさぁ〜、せっかくいい男の子みつけたんだしさぁ、みよかちゃんもノーマルに
戻ったら☆」
「のーまる、って何ですか。私がふつうじゃないみたいですか!?」
「普通だと思っていたのか・・・」
正樹のつぶやきは、みよかの睨みで一蹴されてしまう。
「そうかなぁ、男の子もいいと思うよん。あれなんかどうなのかな?」
あれ、と美亜子が言った途端、応援席ボルテージが一気にあがる。英がバッターボックス
に向かうところに、客席の少女たちが過敏に反応したのだ。
「あのままバットをマイクに持ち替えて、歌い出してもおかしくないかもね・・・」
まるでどっかのアイドル事務所のコンサートを思わせる声援に、菜織が言う。それほど
の熱狂ぶりだ。
「鷲海先輩ですか、かっこいいですけど、」
みよかはそこで、べったりと冴子に抱きつく。
「やっぱり私は、田中先輩の方がいいんですぅ〜〜♪」
「あはは・・・」
もうこうなったら笑うしかない。冴子は今の自分の状況に思いっきり匙を投げていた。
すると、ネクストバッターズサークルに向かう本日5番に入っている哲の姿が目に入った。
あっちからも冴子たちが確認できているらしく、軽く手なんか振ってよこす哲。冴子も
軽く手を振ってかえした。
すると目敏くみよかがそれを発見して哲に思いっきり舌をだす。哲も負けじと舌をだし
て返した。試合中に大した余裕だ。
キィーン!
快音が響いた。ライト横を抜ける打球、ツーベースヒットだ。
そして哲が打席にまわると、あっという間に盛り下がるスタンドのテンション。さっき
までが異常なほどだったため、打席にたつ哲がずっこけるほど、声援が小さく感じる。
冴子はためらいなく声を張り上げた。
「哲、しっかりやれ〜〜!」
「そうだ、てっちゃん、かっとばせぇ!!」
美亜子ものって声援を送る。これも聞こえているらしくバットを構える時に、ちらっと
応援席に笑顔をおくったりする哲だった。
しっかし、速い球だよなぁ・・・
良いところを見せたい哲だが、ギャオス顔が投げる球はあまりに速くて、どうやったら打
てるかわからない、そんな状態だった。
「いいとこ見せたいんだ、ぞっと!!」
とりあえず、予想で思いっきりバットを振ってみた。
キィーン!!
手がしびれそうな衝撃のあと、打球がライトに転がっていくのが見えた。まぐれで当たった
ようだ。
「ラッキー!!」
棚からぼた餅みたいなヒットだが、ヒットはヒットだ。
かっこよかったかな?
一塁ベース上でベンチ上のギャラリーに向けてVサインを決める哲だった。
そんな彼を、ちょっと遠く離れたところから見ている二人組の男女があった。
大旗はためくライトスタンドの上の方。
「やっぱりてっちゃん、かっこいいな・・・」
「おいおい・・・」
哲の幼なじみの青海と葉の二人だった。ちなみに葉の高校は、昨日埼玉の県大会決勝で
惜しくもやぶれてしまった。
「本気で乗り換えちゃおうかな、葉ちゃんから」
「こらこら」
本気とも嘘ともとれない青海の言葉に、葉もどう反応していいか困ってしまっている。
「てっちゃん、一人で頑張ってたんだよね。私たち、二人いたのに・・・」
「けっきょく、何も変われなかったもんなぁ」
次のバッターが三振で終わって、二者残塁で攻撃が終わってしまった。
マウンドに向かっていく哲の姿が見えた。左腕を振り回すその仕草まで、今は亡き幼なじみの
野球好き少女の投げ方を思い出させる。
「私たちも、頑張ろう、葉ちゃん」
「んだな。このままじゃ青海とられかねないし」
「あら私、今でもてっちゃん大好きだよ。葉ちゃんと同じくらいに」
「見かけによらず尻軽なんだから、この女は」
「あー、ひどいこと言っている!」
この二人が哲のように心の中にいる紅美の声を聞ける日も、そう遠くはなさそうだ。
その二人のこれまたちょっと離れたところで、哲の姉の心は、缶ビール片手に弟の力投
を見物していた。
愛する弟の為でも。姉夫婦みたいに応援する気にはなれなかったので、離れて観戦して
いる。
しかし、あいつもホントに頑張ったもんだ・・・
そう、しみじみと思う。紅美相手のキャッチボールくらいしかしていなかった哲が、突然、
甲子園目指すと言った時は、さすがにびっくりしたけど、それも手が届きそうなところ
まで来ているのだ。
ビールを口に運ぶ。弟の熱投を肴に飲むビールは、格別な味がした。
そして試合は0対0のまま、延長戦へ。
12回表。
「はにゃ〜、てっちゃんバテバテだよ〜」
さすがに一人で炎天下の中投げていると、小柄な哲はバッテリーが切れかかっているらしい。
冴子の横でへばりついているみよかも、さすがにここで哲批判をする気にならないらしい。
ワンアウト、ランナー1・2塁。かなりのピンチだ。
キャッチャーの英が、タイムをとってマウンドの哲に駆け寄る。
「なんかな・・・ 目を閉じると、夏の海で、エンジョイしている姿が浮かぶんだよ・・・」
肩で息をしながらも、軽口を叩けるのは大したものだ。
「それでな、冴子やみゃーこちゃんや乃絵美ちゃんと、ビーチバレーなんかしちゃったり
してな・・・ あぁ、楽しそうだ」
現実逃避が入り始めた哲の思考を、英はかるくミットで頭を叩いて、引き戻す。
「夏の海もいいけど、とりあえずは、あっちだ・・・」
「あぁ、そうだな・・・」
バッターボックスには四番でもあるギャオス顔が、疲れたそぶりすら見せずに、打ち気満々
で立っている。
「じゃあ、もうひとふんばりしますか・・・」
頭を振って、気力を呼びよこす。
英が戻っていき、セットポジションで構える。ふと視線がベンチ上に行った。
冴子と、目があった気がした。
「かっこいいとこみせるんだろう、俺!」
気力を振り絞って投げる。
だが・・・
「負けちゃったねぇ・・・」
「そうだな・・・」
結局、試合は0対2でStエルシアの負けだった。12回表に走者一掃のツーベースを
打たれての敗退だ。
冴子にひっついているみよかにしてみれば、小躍りして喜びたいところなのだけど、冴子
の落ち込んだ表情や、哲たちのがんばりに多少心動かされたこともあって、おとなしく
している。
やはり、大きな敗因はチーム力の差、だろう。でも、去年にくらべれば、ずっとその差は
縮まってはいた。それでも、届かなかった。
つい先日、インターハイに届きそうなところで負けた自分を冴子は思いだした。あんな
気持ちで哲もいるのだろうか?
心配になった。
いてもたってもいられなかった。
「みゃーこ、頼む」
「あい!」
これだけで分かるのが親友のありがたいところだろう。
美亜子はみよかに飛びかかると、冴子から引き剥がし、コブラツイストなんかかけたり
している。
「し、信楽先輩、何を!?」
「ふっふっふ♪ これを逃したらサエに男の子、寄りつかないかもしれないでしょう〜
みよかちゃん、覚悟!」
「ま、負けません!」
美亜子のコブラツイストを身を屈めてすり抜け、逆にコブラツイストをかけたりする。
いつの間にか、妙なところで場外乱闘が始まっていた。
みよかの束縛から逃れた冴子は、控え室で帰り支度をしている野球部のもとへ走っていった。
途中、新聞記者のインタビューを受けているみちる先生やユニフォームから制服に着替え
終わった英がいたが、哲はいなかった。 英が指で控え室をさしているところを見ると、
哲はあの中らしい。
ドアを遠慮がちにあけると、更衣室に置かれた長椅子に横たわる哲がいた。顔にはタオルが
かけられて表情は見えない。
もう他の部員は帰り支度が済んだらしく、更衣室には哲しかいなかった。
「冴子か?」
タオルを掛けたまま、哲が言う。声だけなら、いつもの哲だった。
「あぁ、よくわかったな」
つとめて明るい声で話しかける冴子。
「負けちゃった、まただ・・・ 今度は、完璧に・・・」
少し、声がかすれた。
「かっこいいとこ見せて、甲子園行きたかったんだけどな、また駄目だった」
「そんなことない」
自分でもこんなに優しい声がでるのかと思うくらい、冴子は自然に哲に言う。
「かっこよかったぞ、哲」
そのまま哲の頭の横に腰を下ろす。そしてヨイショと哲の頭をタオルごと持ち上げて、
自分の太股の上に乗せた。
「膝枕、っていうわりにはちょっと堅いかも」
「悪かったな、筋肉つきまくりで」
顔は見えないけど、哲が照れているのが何となく分かる。
「でも、俺、堅い枕好きだからちょうどいいか」
そして、そのまましばらく優しい時が二人に流れる。二人とも、黙ったまま。
夕日が更衣室に差込始めた時、哲が口を開いた。
「今度は、秋の大会だな・・・」
秋季大会でいい成績を残せば、春の甲子園、選抜大会への道が開ける。哲はそのことを
言っているらしい。
「頑張るんだろ?」
汗でかさかさになった髪の毛を撫でながら、冴子が言う。
「あぁ。頑張るよ、自分の為、みんなの為、お前にもっとかっこいいとこ見せるため」
威勢よくそう言ってタオルに手をかける哲だったが、その手が止まった。
「でもさ・・・」
声が涙声になっていた。堪えていたものがあふれ出した、そんな感じだ。
「やっぱり悔しいよ・・・」
そう言うと、すすり泣く声が更衣室に響いた。
冴子には、哲の気持ちが自分のことのようにわかった。今日の哲は自分を出し切って負けて
しまったのだろう。
それでも届かなかった悔しさ。身を切るような思いだったに違いない。
「泣いてもいいぞ。ここはあたししかいないんだし」
一人称があたいから、あたしに変わっているもの気づかずに、冴子は哲の頭をポンポン
と叩く。
すすり泣きの声だけが、更衣室に響き続けた。
「目、真っ赤じゃない?」
「真っ赤真っ赤」
そして二人が球場を後にしたのは、もう長い夏の日が暮れかかっている時間になってから
だった。
泣くだけ泣いたらかなりさっぱりしたらしい哲と、ずっと付き添っていた冴子は二人っ
きりで家路へと向かっている。他の連中はとっくに帰っていたからだ。
ここから桜美町まではかなり距離があるが、二人は徒歩でゆっくり帰ることにしたらしい。
歩いて一時間くらいはかかるだろう。
「恥ずかしいとこ、見せちゃったなぁ」
頭を掻いて照れる哲。冴子がクスッと笑って応えた。
「何いってんだよ。あんた、あたしの前で泣いたの2度目じゃないか?」
「あぁ、そうだったぁ」
楽しそうに笑う冴子。最近、冴子が見せる仕草が妙に少女っぽくなってきていて、哲は
ドキリとさせられることが多い。
「でもさ、お世辞ぬきでかっこよかったぞ、哲」
「そうか? でも、負けちゃったんだぜ」
「ばぁ〜か」
そう言って哲の鼻をパチンと指で軽くはじく。
「勝ち負けなんか関係ないんだよ。お前の頑張っている姿が、かっこよかったんだから」
ストレートな物言いに、珍しく哲が顔を赤くする。攻守逆転された、そんな感じすら
してしまう。
「あ〜あ、でも明日からは女子野球部のお手伝いかぁ。何だかなぁ」
話を変えるような感じで、哲は腕を伸ばして少し早足で歩く。そんな哲の照れみたいの
が可愛くて、冴子はまた笑ってしまう。
「手伝い終わったらさ、海でも行こうか?」
哲がそんな提案をしてくる。
「あ、悪くないかも」
「みゃーこちゃんや、乃絵美ちゃん、巫女さんとか英とか、ついでにマサヤンも誘ってさ」
「いいな、楽しそうだな」
今度の日曜日、水着を買いに行くか。冴子はそんなことをふと考えた。みゃーことか誘
って、哲がビックリするようなのを買ってみようか。
そう考えるだけで、冴子は何だか楽しくなる。
「おっと」
ちょっと前を歩いていた哲が、軽い段差につまずいた。倒れそうになる体を慌ててささ
える冴子。
「!?」
「あっ・・・」
気がつけば、驚くほど近くにあるお互いの顔。
人の気配はさっきからない。
そして、
どちらともなく、ゆっくりと近づいていく唇。
重なり合い。
離れていく。
「・・・・・・」
その場に佇んでいるのも何となく気まずいので、二人はどちらともなく歩きだした。
顔がまだほってっている。
今度はアクシデントや無理矢理でもない、本当の意味での、二人のキスだった。
「なんか、てれくさないかな・・・」
唇に指をやり、その感触を思い出すようになぞる冴子。それを見ていた哲は冴子の少女
らしさにかなりドキッっとさせられた。
「俺は、なんかすごい幸せだな・・・」
「馬鹿」
哲の真っ正直な感想に、また顔が赤くなる。他の連中は、キスをした後、どういう風に
ふるまっているのか、気になったりもした。
「決めた、今のが俺のファーストキスだ」
いきなり妙なことを宣言する哲。握り拳なんかして、力説している。
「何をいいだすんだ、哲?」
「いいの、決めたの。これからA、B、Cとステップアップさせていく第一歩に決めたの!!」
言ってから口が滑ったって感じで口を手で押さえる哲。冴子を見ると顔を真っ赤にして
拳を振り上げていた。拳がプルプルと震えているのがちょっと怖い。
「気が早すぎだってーの!!」
「だってだって、男の子だからしょうがないだろう!」
「問答無用!!」
「こんなオチなのかぁ〜〜〜!!」
暮れなずんだ町に、少年の哀れな悲鳴が響き渡った。
不器用な少女の恋物語は、始まったばかり。
これからどうなることやら・・・
きっと、こんな感じでドタバタと続いていくのでしょう。
皆さん、暖かく見守ってやってください。
−終わり−
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−あとがき−
終わった終わったぁ!!
そんな感じで感慨無量なまくがいばーです。
ここまで読み続けてくれた方、感謝感激です♪
このSSは、浅野さんがHPを立ち上げるにあたって、記念にはじめたモノでした。
かる〜い気持ちで始めたんですが、思った以上の長期にわたって書き続ける羽目に。
冴子を使ったのも、軽い気持ちからでした。
この娘、With Youではみよかに言い寄られるだけの、正樹にとっていい感じの
女友達、そんな感じでしたから、この子に恋をさせてやろう。
そう思って書き始めたSSでした。
相手役につくった哲のせいか、おかげか、こんなに長い話になってしまってまぁ(笑)
これってネットのなかで唯一の冴子を主役にした連載SSだったんですよ(笑)
そういうモノを書けたことに、けっこう喜んでいます。
最終話の冴子が皆さんの目に可愛く見えてくれれば、自分の勝ちです(笑)
では、また別のSSでお会いしましょう♪
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