厳寒のゲルマニアより・西の方アレクサンドリアより


指月紀美子 作

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指月紀美子さんのブログ「シルクロード浪漫」が長らく休止中ですので、作者の了解を得て、いくつかの作品を掲載します。いずれ再開されることを期待しています。



厳寒のゲルマニアより

西暦180年。口ーマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスより、旧友、マクシムスへの書簡。

親愛なるマクシムスへ。

ゲルマニアの冬は寒い。殊に、ここウィンドボナ郊外の深い森の中は昼なお陽光薄く、老骨の身にはひどくこたえるものである。私が我が軍とともにここに布陣してから 、早いもので既に二年の月日が流れた。ゲルマンとの戦いは一進一退である。おそらくこれが、 私にとつての最後の仕事となるだろう。

この森で私は病を得てしまった。政務にしろ戦にしろ、志半ばで倒れることには甚だ苦しいものがあるが、これも宇宙の指導理性の命じるところであるならば、安んじて受け入れようと思っている。

マクシムスよ。君が私の密命を背負ってオスティアの港より東方へ旅立ったのは、私が即位した直後であったから、もう二十年近く昔のことになろうか。密命と言っても政治的に深刻なものではなく、ただ、私のごく個人的な好奇心と関わることゆえ、敢えて公式な使節とはしなかったのであるが、それでも君は快く、その仕事を引き受けてくれた。絹の国・セレスへの使者という、未だかつて誰も冒したことのない遥かな旅に立つことを。

あれ以来、君の消息は一切途絶えてしまった。君のことを忘れたわけではないが、この二十年間、慣れない公務に追われて慌しく過ごしているうちに、いつしか君を思い出す時間も少なくなっていたのだ。

今、こうして異郷の地で冬を迎え、戦いに明け暮れる日々の束の間の休息時にふと心をよぎるのは、二十年前にオスティアで別れた若き日の君のことである。君は私より十歳ほど年下だから、あの頃にはまだ三十歳にも満たぬ若者であったろう。

私は今でも、君がどこかで元気に生きているような気がする。口ーマを離れてからすぐにエリュトラー海の藻屑と消えたと思うより、たとえ私との約束を違えてでも、君がセレスの住人となって絹の国の人々とともに平和に楽しく暮らしていると考えるほうが、私にとってどれほど心の慰めとなるだろうか

少年の頃より私は多くの優れた師に恵まれ、実に様々な事柄を学び、かつ思索する機会を得てきたが、人生という迷宮においては、私の悩みは尽きることはなかった。ふと、音に聞くセレスの国にはどのような哲学があるかと戯れに君に問うたところ、君は、かつてギリシャのメナンドロス王がしたように、自ら問いただすのがよかろう、だが、陛下の立場ではそれは無理だろうから、代わりに自分がセレスへ赴こう、と、そんな突拍子もないことを言い出したのだったね。

今にして思えば、君には口ーマを離れたい真の理由があったのだろう。あのように子供じみた言葉のやり取りにかこつけて、君は皇帝である私から、実に巧く故国を離れるための許可証を得たものだ。もちろん、私は怒ってなどいない。むしろ、そうした君らしいやり方を微笑ましく思う。君は自由の身の上に生まれた。羨ましいことだ。私は義務を果たすべくこの世に生まれた。それもまた、止むを得ないことだろう。

ゲルマニアの地で過ごしてきたこのニ年の間、私は冬になると、ある不思議な光景を目にするようになった。冬至が近づく頃、ゲルマンの男たちが森に現れ、形のよい小ぶりの針葉樹を切り出してはどこかへと運び去るのだ。

彼らが何をしているのか気になって、ある時一人の兵士に後を追わせたところ、兵士が言うには、彼らは切り出した針葉樹を彼らの住居へと運び入れ、乾燥させた花びらや果物などで華やかに飾り立てては崇めているというのである。

私は考えた。厳寒の冬にも決して葉を落とすことのない常葉木(ときわぎ)の針葉樹に、彼らは特別な生命力を見い出しているのではないだろうか。太陽が再び力を取り戻し始める冬至の日、彼らは新たな命の季節の訪れを寿ぐために、そのような儀式を執り行うのではないか、と。

今年もまた新たな再生に向けて、冬が進んでいく。私の命はおそらく、新しい季節を迎えることはないだろう。

マクシムスよ。この手紙が君のもとに届くことはない。君がどこにいるのか、誰にも分からないからだ。この手紙は、私が書き綴ってきた我が日記「TA EIS HEAUTON」とともに、私の死後、永久に忘れ去られることだろう。

君の業績が、我が帝国の歴史に残らないことを、私は君に対して申し訳なく思っている。あるいは、セレスの国の記録には、君のことが記されるかもしれない。

セレスでは、どのようにして冬至を祝うのであろうか。君の口からそれを聞くことができないのが、唯一の心残りだ。

ウィンドボナ郊外にて。マルクス・アウレリウス・アントニヌス

 *    *    *

「後漢書・西域伝」には、次のように記されている。
桓帝の延熹九年(西暦166年)、大秦王安敦は使いを遣わして日南(ヴェトナム)より象牙・犀角・鼈甲(べっこう)を献ず。これによって、漢と大秦とが初めてーつに通じた。(大意)
大秦王安敦は、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスと推定されている。

まだ11月も半ばですが、街ではクリスマスのイルミネーションを見かけるようになりました。ここのところ寒い日が続き、気持ちも冬へと傾きます。
クリスマス・ツリーの由来にまつわる小品を書いてみました。
これは、「後漢書・西域伝」と皇帝アウレリウスの日記「TA EIS HEAUTON(「自分自身へ」邦題「自省録J)に発想を得たフィクションです。

*ウィンドボナは現在のウィーンのこと。西暦180年、アウレリウス帝はこの地で(異説もあり)58 歳の生涯を閉じました。

 2009年11月13日



西の方 アレクサンドリアより 

西暦100年。甘英より西域都護・班超への書簡。

「班将軍殿。

于(ホー)タンの都城でお別れをしてから、はや三年の歳月が流れました。熱砂を進み、氷雪の葱嶺(パミール)を越え、ぎ水(アム・ダリア)を渡り、再び流沙を越えて、西海(地中海)に望む条支(アンティオキア)へと辿り着いたのは、昨年の秋口のことでございます。

ご命令を遂行するため、私はそこから船で大秦国(ローマ帝国)の都へ向かうはずでした。ところが、予想通り、これには大きな困難が伴いました。ご推察のごとく、安息(パルティア)の者どもは、我ら大漢が大秦と相通ずることにより交易を継ぐ利潤を失うことを、いたく怖れていたのです。

大恩ある班将軍に報いるため、私はこの命を決して惜しみはいたしません。たとえ西海の藻屑となろうとも、お預かりした皇帝陛下の書簡が大秦王のもとへ届くのならば、安息人の妨げなど、何を怖れることがありましょうや。

けれども、お許しください、班将軍殿。私は遂に、大漢の使者として大秦へ赴くことはありませんでした。今、私は西海の南西の方、黎軒(アレクサンドリア)という繁華な港街におります。沖合いには巨大な灯台が聳え、西海を行き交う大型船が条支や大秦の都から、様々な西方の珍奇な品々を運んで来ます。かつてこの地を治めていた王たちの像が刻まれた白い大理石の立つ神殿には、今この地の支配者たる大秦国の人々が、ゆったりとした絹の衣服を身に着けて憩い、心豊かで穏やかな時間は異邦人たる私の上にも、日々過ぎ去っていくのです。

大漢の使者たる私が、なぜこのようなことになったのか、多くを語ることは僭越ながら差し控えたく存じます。何を語ったところで、私にかつて与えられた大いなる使命の前には、所詮すべてが言い訳に過ぎなくなることは火を見るよりも明らかです。

ただ一つだけ、私が決して班将軍殿から受けしご恩を忘れてはいないことを、この書によってどうしてもお伝えしたかったのでした。身寄りのない私を、縁あって西域都護軍に迎えてくださり、そればかりか、一下級兵士に過ぎない私を、大秦国への使者という大役に抜擢してくださったことは、どんなに感謝申し上げても足りないほどの、身に余る喜びでございました。

使命途上でこのような事態に相成りましたことは、ひとえに私の愚かさ、不徳のなせる業でございます。大漢の使者である上は、何よりも皇帝陛下と班将軍の名誉を重んじ、安息との確執の中で、たとえ私と心を通わせた安息の娘の命が失われるようなことがあっても、心を鬼にして使命を遂行しなければならなかったのです。それができなかった私には、再び生きて故国の土を踏む資格はありません。

このまま、何も告げずに姿を消せば、私は志半ばで西方にて死んだものと誰もが思ってくれたことでしょう。けれどもそれでは、私を信用してくださった班将軍に対し、あまりにも申し訳が立ちません。私が故あって使命から離脱し、ここ黎軒にて心穏やかに暮らしているという事実をお伝えすることは、誠に勝手ながら、班将軍へのせめてものご恩返しであると思い、この書をしたためた次第です。

勝手ついでに、もう一つだけお願い事がございます。このことは、どうか班将軍お一人の胸に収めて頂き、世の人々にはもちろん、大歴史家たる将軍の兄上様にも、私が幼い日にお世話になった御妹様にも、すべて内密にして頂けることを切に願うものでございます。

いつの日か、おそらく兄上様の次の世代の歴史家が今の世を語る時には、私は大秦の使者となりながら、安息の脅しに負けて使命を果たさなかった臆病者として、史書に描かれることでありましょう。あるいは、全く忘れ去られているかもしれません。それでよいのです。それが、大漢と班将軍殿への、せめてもの贖罪と心得ます。

長くなりました。この書は、近く黎軒より東方へ旅立つという一人の商人に託します。彼から、幾人もの手を経て、この書が無事に于タンの都城におられる班将軍殿のもとに届くかどうか、それは私にも分かりません。無事届くことを願い、筆を置きたいと思います。
班将軍殿、ならびに班家の皆様のご多幸を祈って。

永元十二年 春 

西域都護 班将軍殿          臣 甘英」

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「後漢書・西域伝」には、次のように記されています。

後漢の永元九年(西暦97年)、西域都護・班超は部下で下役の甘英なる者を大秦国への使者として西方へ赴かせた。甘英は西海(地中海)に近い条支(シリアのアンティオキア)へ至るも、その地で安息(パルティア)の船人に、「西海はあまりにも広大で、生きて大秦へ辿り着く保証はない。海上にて命を落とす者も少なくないと言う」と聞かされ、やむなく渡航をあきらめ引き返した。
(要約。地名の比定は長澤和俊他の説による)

 2009年08月14日



作品名:厳寒のゲルマニアより・西の方アレクサンドリアより
作者:指月紀美子
初出:mixi 2009年
copyright:shigetu kimiko 2009.2026
入力:マリネンコ文学の城
Up:2026.6.26