叙事詩は復活する


亀井トム

マリネンコ文学の城Home

目次:
1、まえがき
(筆者と叙事詩の因果関係) 
2、最近出版された翻訳叙事詩と叙事詩論 
3、叙事詩論の出発点
(主として韻律の問題について) 
4、自由詩型の不安定性の問題
(詩人と翻訳者との共扼関係) 
5、叙事詩の歌い方を巡る問題
(歌による発表伝達ぬきの叙事詩を考えることが既に誤り) 
6、日本の人民的叙事詩への苦言
(無詩学時代の清算へ) 
7、一つの詩型論の流れ(人民叙事詩のモデル設定のために) 
8、二つの邦訳叙事詩の回想
――『デカブリストの妻』と『白頭山』(隘路打開のために)


亀井トム:1910生――1999没。著述家、ジャーナリスト。主要著作「詩集ラ・エスペロ」(1939−40)、「叙事詩への道」(1949)、「劇詩への道」(1958)、劇詩「白熱線」(1968)、「狭山事件」(1972)、「部落史の再検討」(1978)、「エポス・叙事詩の復活」(1982)、監訳者として「ウルメン著・評伝ウィットフォーゲル」(1995)


 叙事詩は復活する

     ――亀井トム


 1.まえがき(筆者と叙事詩との因縁)

 東西・新旧の叙事詩を対象に取上げ、その本質・役割を論じ、新叙事詩発生の必然性、新叙事詩と日本人民との結びつきの方法や形態――その発表・伝達・享受の形態を検討し、散文文芸との併行ないし交渉のうちにその将来性を論じようという、かなり幅の広い、奥行きの深い課題にあえてとりくもうというのである。筆者は今協力者とともに、新叙事詩論をまとめている。最もこの仕事を一人でやるのは無理で、また語学の力も必要であるということもあって、協同的に仕事をすすめることが必要で、中国語、中国文学を専門に学んだ人たち、英・独・仏その他の国の語学の素養をもった文学研究者達が、激動期の社会主義中国の叙事詩運動に関心をもったり、西欧諸国や第三世界の旧新叙事詩に新たな視角を向け始めているので、相互に協力することになったのである。
 昨今突然思いついた仕事ではなく、筆者はいろいろな偶然から戦前の青年時代の終り頃(昭和14年頃)から叙事詩という文学・詩のジャンルに興味をいだきはじめ、今日迄いくどかの中絶や忘却をくりかえしながら、時々思い出しては資料を集め、日本語の新旧の叙事詩をよみ、外国叙事詩を主として翻訳あるいはを英文でよみ、叙事詩論や口誦文芸論を漁り、東西或いは日本の旧叙事詩の歌い手のテープを聞き、又多くの諸家の韻律論をよみ、日本語の韻律について研究ノートをつくったりしてきた。ごくたまにではあるが、生涯をふりかえり、戦前と戦中、戦後の青壮年時代に経験した劇的体験や、周辺の社会との鋭角的接点(抗争と和解等)の一断面、一断片をごく短い形式の叙事詩形にして習作もしてみた。それは大体最小二百行から五、六百行の短篇の叙事詩――というよりそのデッサンであり、将来本格的叙事詩をかくための飛石みたいなもので、いろいろとテーマや素材や詩型をかえて、全部で二十篇位をノートにかきつづってみた。又やや長い二、三千行の「韻文小説」も二篇程度創った。今、劇詩の方面はさておき筆者と叙事詩との妙な因果関係が、こうして長い間のうちに自然とできてしまったのである。
 だから上でふれたように「かなり幅の広い奥行の深い課題」にあえて取組むことも、筆者にとってそういう過去の因縁のもたらす自然のなりゆきともいえるもので、別に課題に向かって力むわけでもなく、「叙事詩に関する雑学」を生かす余技的な楽しさ、公園の並木道をはなうたをうたいながら歩く気楽さみたいなものがあるのである。まあこういった手前勝手な前置きを許していただいて、新叙事詩についての総論というか、問題点の指摘・整理というか、みようによっては新叙事詩に関係する問題についてのデパート的蒐集と整理ということになるかもしれないが、ともかくあれこれと、各論に入る前の予備知識といういみで語りまくってみたいと思うのである。

 2.最近出版された翻訳叙事詩と叙事詩論

 ところで先ず、日本では叙事詩についての関心が一般の大衆、知識人、文芸家、学者の間にあるのであろうか、あるとすればどの程度あるのかを知るために、最近数年の間に、どんな外国叙事詩が訳されて出版(新版・重版)されているか、そして学者の叙事詩論がどう現われているか(日本の学者の中で叙事詩研究を片手間でなく、生涯にわたる仕事として取組んでいる人がいるのかどうか?)をのぞき見してみよう。
 外国の叙事詩の翻訳は次第にその数がふえてゆき、従来一部では話題になったり、「幻の翻訳」として絶版されていたり、翻訳が困難で手をつけられていなかった叙事詩が、日本の読者の前にあらわれてきているのである。目立つものをあげてみよう。

 最近数年間に出版された翻訳叙事詩と叙事詩論

@1975・1『叙事詩レーニン』マヤコフスキー作、ウサミナオキ訳、大月書店
A1977・6『オスローとシーリン』ペルシャ詩人、ニザーミ作、岡田恵美子訳、平凡社東洋文庫
B1978・3『バラッド詩集――イングランド、スコットランド民衆の歌――』藪下卓郎・山中光義訳、音羽書房
C1978・7(第4刷)『アッタ・トロル(夏の夜の夢)』ハイネ作叙事詩、井上正蔵訳、1955・1(第一刷)、岩波文庫
D1978・10『ウズ・ルジアダス』(ルシタニアの人々)ポルトガル詩人ルイス・デ・カモンイス作、小林英夫、池上ュ夫、岡村多希子訳、岩波書店
E1978・9『口承文芸と現実』ウェ・ヤ・ブロップ(レニングラード大学教授)著、斉藤居子訳、三弥井書店
F1978・10『ドイツ中世叙事詩研究』(第四版)相良守峰著、1948初版、郁文堂
G1978・1『オネーギン』(第19版)プーシキン作、池田健太郎訳(散文訳)、1962第一刷、岩波文庫
H1979・9『エヴゲーニー・オネーギン――韻文小説――』プーシキン作、木村彰一訳(行分け詩型韻文訳)、世界文学全集第二十七巻に所載、講談社
I1979・9『偉大なる帝王シャカ』全二冊、南アフリカ作家クネーネ作、土居哲訳、岩波現代新書
J1979・10『ギルガメシュ叙事詩』(八刷)前古代シュメール叙事詩原典訳、矢島文夫訳、1965・7(一刷)山本書店
K1980・4『ラーマ・ヤーナ』第一巻(全七巻の内)ヴァルミーキ作、岩本裕訳、平凡社東洋文庫
L1980・7『王書(シャー・ナーメ』(第六刷)、ペルシャ詩人フィルドゥスィー作、黒柳恒男訳、1969・11(第一刷)、平凡社東洋文庫
M1980・6『叙事詩の研究――象徴と伝統』尾嶋庄太郎著、鈴木弘・広田典夫・清水ちか子編集、北星堂書店
N1980・7『マイウェイ――流れゆく白雲の道』宗教詩、パグワン・シュリ・ラジニーン著、マ・アナンド・ナルタン訳、めるくまーる社
O1981・2『ライラとマジュヌーン』ペルシャ詩人ニザーミ作、岡田恵美子訳
P1981・2『ヘーゲル美学(全集、美学第三巻の下)』詩の諸ジャンル、叙事詩と劇詩の部、竹内敏雄訳、岩波書店
Q1981・2『叙事詩考』(叙事曲論)中村定治著、三信図書
R1981・4『パンパスの吟遊ガウチョ、マルティン・フィエロ』アルゼンチン叙事詩、エルナンデス作、玉井礼一郎、大竹文彦共訳、たまいらぼ社

 これだけというわけではないが、現在筆者の手許には、新しいものではこれらの十いくつかの叙事詩と、数冊のそれぞれが部厚い叙事詩論がある。
 いくつかの叙事詩の印象にふれておくと、ギルガメシュ叙事詩は粘土板に刻まれた紀元前二千五百年にさかのぼる世界最古の叙事詩で、西欧叙事詩の原型であるとともに、前古代史研究に大きないぎをもつ歴史的史料であり、他の資料と併さってマルクス主義の歴史学にも、古代階級国家以前の前古代の共同体国家の存在およびそのうちでのいろいろの矛盾の存在を教え、今日の階級社会解消への道ゆきを逆に暗示するいみは大きい(佐伯陽介著『世界史テーゼ』『現代革命の大崩壊』『古代共同体史論』参照)。
 カモンイスの『ウズ・ルジアダス』――ルシタニア(ポルトガル)の人々――はヴァスコ・ダ・ガマとその一行をめぐる大航海時代の近世叙事詩であり、ヘーゲルはこの叙事詩にふれ「この素材上まったく国民的作品はポルトガル人の大胆な航海事業を歌っている点で、すでに本来の中世から出はずれて、一転、新しい領域をさし示す諸関心へむかっている。それもまず独自の直観と生活経験から得られた、生彩ある描写をしめし、叙事詩的に完成された統一をえている(「美学」)と述べている。ホメロス、ウェルギリウスの叙事詩が古代文明の崩壊を背景にした回想と挽歌であるとすれば、この近世の叙事詩は崩壊の回想に新しき時代の声を共存させた新生との交錯である。中世の内部のいかなる事件、いかなる新生の契機が叙事詩を復活再生させるかの問題に対し、この叙事詩はダンテの神曲とともに示唆を与えている。
 南アフリカの叙事詩『偉大なる帝王シャカ』(クネーネ作)も、その少し前に出版されたブラジルの英雄詩『革命児ブレステス』(アマード作、神代修訳、弘文堂)も、ともに第三世界の叙事詩として一部で注目されたものである。クネーネ(1930年南アフリカ、ダーバン生れ)は日本にも来たことがあり、その時は南アフリカ解放運動の基金集めと支援を求めにきていたようだが、うまくいかなかった(竹内康宏「アジア・アフリカの文学と心」1980・5第三文明社参照)。この書にある竹内・クネーネの有意義な対話を通じて、アフリカの共同体文学の基底には、封建制の影響による挫折の殆んどない共同体があり、日本の場合とは相当ちがっていることがわかる。クネーネは「勇気という資質は、共同体の防衛を実行するという社会的要求に基づいています。あなたがたは、多くの英雄的叙事詩や祭りをアフリカに発見するでしょうが、これらは、共同体に勇気という社会的倫理的資質を記憶させ、そのことによって共同体成員を強くしていくのです」といって、叙事詩と共同体防衛の戦闘的関係を強調している。これは一九二四年から三年間、ブラジルの奥地で人民軍を率いてゲリラ戦を展開したブレステスの叙事詩と共通したものをもっている。
 一九四六年朝鮮人民の日本帝国主義へのゲリラ戦の輝ける記録である趙基天の『白頭山』、あるいは延安に根拠地を構え、抗日救国統一戦線から日帝敗北、新中国建設に至るまでの解放区を中心に生れた、輝ける「叙事詩運動」と老舎、拓開科、韓起祥、柯仲平、田間、李季、阮艾競、張志民、力揚、艾青、厳辰、李泳、五呆等の韻文物語りの数々は第三世界のその後の詩人の作家に広い前方を与えるもので、そのうちの数篇の評判の作の邦訳は日本の新しい叙事詩運動に示唆するところがあるだろうと新人にきかされている。
 その折、 ァルゼンチンの叙事詩 『マルティン・フィエロ、 パンパスの吟遊ガウチョ』(ホセ・エルナンデス作、大林文彦・玉井礼一郎訳)の翻訳が出た。千二百節、ロ語による新体詩(七五調)で流暢に訳されている。十九世紀のアルゼンチンのカウボーイ、ガウチョ (スペインとインディオの合の子)の生活を歌った物語詩で、国境守備にこき使われ、妻子とは生き別れ、上官に抵抗したり、争いのあげくの殺人で追われ、インディオ部落に逃げこんだり、別れた子供達とめぐり会ったりする。ガウチョの生き方は独立人として広漠たる大自然の中で支配権力と対決しつつ、巡りあった親友との助け合いで生きてゆく、 一種の反権力ニヒリストのタイプである。南アメリカの大草原にはパジャドールという楽器の弾奏で即興的に詩を吟ずる、 中世ョーロッパのトルパドールに似ている人達がいた。 彼らは「ガウチョの即興詩」を歌い歩き、今日でもその姿が見られるという。 
 ベルシャの二人の大詩人の翻訳叙事詩にもひとことふれたいが、簡単な説明では誤解を招くおそれがあるのでやめるが、ともかく王書など表現の面でもすばらしいものを含んでいるといいたい。 後にみるようにイラン、アフガニスタンでは現在でも吟遊詩人のグループによって街の喫茶店や人民集会で歌われているのである。

 3、叙事詩論の出発点(主として韻律の問題について)

 我々が叙事詩の問題にはいる場合、前提として当然、先人の到達点に学ぶ必要がある。それなくしては見通しのある研究は勿論、新しい叙事詩論への前進を考えることはできない。代表的なものとしては、古代ではアリストテレスの詩学、ホラティウスの詩学、近代ではヘーゲルの美学等があり、それ以後の叙事詩論、例えばかなり思いつき的にあげれば、ラウス、ルカッチにしても、日本の土居光知、竹友藻風、高沖陽造、工藤好美、相良守峰らの文学理論にしても、又英文ではP・マーチャントの叙事詩の解説、M・バウラの英雄詩論にしても、この叙事詩論の伝統の流れの上にあるといえる。もちろん先に列挙した日本の学者の最近現われたロ承文芸、英雄詩、叙事詩、叙事曲の理論も、基本的方法においてはこれら理論の影響の下にあることはいうまでもない。筆者の立場はもちろん、アリストテレス、ヘーゲル叙事詩論の系譜の消化とともに、他方では非西洋的諸国・諸民族(日本を含めて)の叙事詩と叙事詩曲の再評価、特に現代の第三世界の反帝国主義的抵抗あるいは新社会主義乃至新コンミューン建設へ向けての叙事詩の発展の方向を、前者の成果の批判的取入れと結びつけて理解しようという立場である。
 筆者は敗戦後の状況下で『叙事詩への道』(1958年)を出版し、社会主義文芸の新しい形態としての叙事詩を論じたことがある(近刊の新叙事詩論集に再録:『エポス――叙事詩の復活』1982・1、JCA出版)。その頃、アリストテレスの『詩学』をよんで驚嘆し、かつ困惑したことをおぼえている(松浦嘉一訳、岩波。別に北条元一氏の訳もあった)。何を驚嘆し、何を困惑したかというと、アリストテレスの詩学は師のプラトンが国家論のうちで理想的国家から芸術を追放しなければならないといい、実在は理念のうちにあり、感覚の反映はすべて幻影であり、その幻影を写すような芸術的模倣の世界よりも現象世界の方がまだしも実在世界に近く、芸術は模写の模写で真知ではないとしたのに反して、自然よりも人の芸術の方がより真実であるとみなした。
 彼は師に対し逆説的に芸術を模倣の様式とみなし、そして模倣の形式として叙事詩と劇詩(悲劇・喜劇)を分けた(抒情詩[讃歌、頌詞、諷刺詩]も勿論模倣の別形態とした)。 そして主として悲劇を分析し、悲劇の目的を哀憐と恐怖を通して情緒の浄化(カタルシス)を行なうという有名な規定を示しており、劇の構成や作劇術にふれ、急転と発見と苦悩の三つの変化を説いている等、近代人の分折を超えるものがあり、その哲学的理論付けには驚嘆したものである。ところでもうーつの困惑というのはこうである。
 「叙事詩は壮大なる韻脚を以て、荘重なる問題を模倣する限りにおいて、悲劇に一致する。然し叙事詩は、まず第一にそれは只一種の韻脚で進みて叙述体に描かれるという点にて、これとちがう。」「韻律に関しては叙事詩は、経験上英雄詩の韻律を専用するようになった。万一詩人が他の韻律のーつ、あるいは数個の韻律を以って叙事詩を作ろうなどと企てるなら、不調和なものが出来上ることは明らかである。英雄詩脚韻(ヘーロイコン六脚韻律)は、真に最も落ちつきある、そして、最も重みある韻律である。その理由はこの韻律は外来語並びに隠喩を他の韻律よりもより多く許容し、そこに叙事詩が他の詩の上に出る理由があるわけで、これに反し、短長脚韻律と長短脚韻律とは動的な韻律であって、前者は生命と行動との運動(例えばそしり詩)に適合し、後者は舞踊の運動を再現するに適し、それ故に共に荘重な叙事詩には 適していない」 というような点である。古代ギリシャの文芸論では韻律が重要な要素であり、人々は通常韻律の種類を詩人と結びつけ、哀歌韻律(エレゲイオン)詩人とか六脚韻律(ヘクサメトロン)詩人という呼び方をしていた。更に諷刺詩や対話には短長格、舞踊詩には長短格、朗吟咏唱の叙事詩には六脚韻というように韻律型が使い分けられ、分化を遂げているのである。
 ところで日本の文芸評論家や学者がこれを実感的にどう受けとめているかが問題である。さらに日本の詩人、詩論家にしても、西洋近世の強勢(強弱)韻律に対し古代ギリシヤ韻律と日本韻律の大まかな共通性はみとめても、平曲や浄瑠璃にはどういう律を使い、狂言やおどりの歌には別にどんな律を使うかというような、ギリシヤ詩に見られるようなジャンルによる区別や使いわけを経験上知らないのである。そこには七・五、五・七、七・七を中心として音数韻律の使い分け程度があるだけで、自由詩型詩人にいたってはその音数律も排しているため韻律基準をなくし、詩人個人の適宜の音感とリズム感にたよって、「音数律を否定する新音数律」に基準を置いていた状況だから、なおさら受取り方が問題で、その点「混迷」というか、そういう問題を無視するほかに手はなかったのである。つまり古代の卓越した芸術論も、その重要不可欠な要素である韻律論だけは素通りするという中途はんぱさに終っていたのである。
 これはヘーゲルの叙事詩論に対する解釈においてはちがった形であらわれてくるのである。困難なヘーゲルの翻訳に努力された折角の学者の業績も、こと韻律(古代とちがった強勢韻律のりズムや脚韻、頭韻、佳調等)に関しては、よむ側はそこだけ素通りしがちで、詩人・作家はせいぜい味も香りもないガムをかむような気でがまんしてよみすごし、西欧の韻律の形式と変遷を知っている学者や文学者は、直接日本詩には実用性も手引性も何もない韻律論として、ただ「そういうものか」と白黒テレビに写った火事か花火をみる以上の感動もなく読みすごしてきた。これが実情ではないかと考えられる。
 ヘーゲルの叙事詩論は「精神現象学」(樫山欽四郎訳、世界の大思想12,河出書房)と上記の「美学」にみられる。前者は精神現象の意識、自己意識、理性、精神、宗教、絶対知という六つの現象のうち、五番目の宗教の中で取上げられており、自然宗教、芸術宗教の区別のうち、後者の一部として精神的芸術品としての叙事詩、悲劇、喜劇が説かれている。今、我々に直接役立つのは、ヘーゲル全集中の上掲の美学(第三巻の下)である。第三部諸個別芸術の体系の第三篇ローマン的諸芸術のうちで、詩と詩的表現、韻文の作成、詩の諸ジャンル(叙事詩、抒情詩、劇詩〕と演劇、劇詩の諸種類(悲劇、喜劇)が分折、考究されている。
 韻文の作成(作詩)の項でヘーゲルは「…散文が韻文化されるだけではまだ詩にならず、ただ韻文になるにすぎない。それは形式が散文で中身に詩的表現がある詩的散文と同様である。しかしそれでもミーターやライムは文芸にとって最初の、唯一の感覚的香芬として絶対に必須である。いや、形象にとんだ、いわゆる美しい語法よりも必要でさえある」といっており、「この感覚的形式が芸術的技巧をもってつくりあげられることになる、つまりわれわれが日常の生活と意識の実践的および理論的散文性をすてさった時、はじめて足をふみいれることのできる別の領域、別の地盤が開けてくる」といっている。
 こういう説明は実際上、英、独語で韻文詩をつくったり、漢詩を作ったり、味読したりした経験が多少あれば理論的にも実感的にもわかるのであろうが、日本の詩人、そして散文文芸理論にならされた人には素通りされる恐れがある。
 ヘーゲルによれば、詩的表現は表象が言葉の表現にとどまらす、言語を語ることになり、かくして声音や言葉のひびきという感覚的地盤へ移って行くとき、初めて韻律の問題へ進むのである。そこでヘーゲルは重大な提言をする。
 「韻文の作詩はいたずらに詩心の自由な流露を阻むものだという考えは、事実にてらしてもすでに真実ではない。いやしくも真の芸術的才能はその本来固有の(表象の)地盤において発動すると同様に、感覚的地盤において発動するのであって、この地盤はそれを妨害し抑圧するのではなく、かえってそれを高め支えるのである。それで実際にまたすべての偉大な詩人はみずから創りだした拍子やリズムやライムにおいて、自由に、自信をもって悠々闊歩しているのであり、ただ翻訳のばあいにのみ原詩と同じメートルムやアソナンツなぞを守ることが往々強制となり、不自然な苦役となるだけである」(2170)
 これについてヘーゲルは次の三詩人の例をあげている。
 「レ ッシングはフランス風のアレキサンドラン(訳者註。イアンポス・ヘクサメターの律形。中世フランスのアレキサンダー大王の伝説詩に由来する)への誤った熱中に対する反対論で、とりわけ悲劇には散文的話法の方がふさわしいとしてこれをそこに導入することをこころみたし、シラーとゲーテはかれらの初期の狂騒的作品では、素材そのままに、類する詩作への自然的衝迫のまにまに、かれにしたがってこの(散文化の)原理に拠っていた。
 しかしレッシング自身は『賢者ナータン』 で結局イアンボス(訳者註。 ギリシヤ・ローマの古典詩では短長格、近世では弱強格[抑揚格]のこと)へ再転向したし、シラーはすでに『ドン・カルロース』以後それまで踏んできた道をすてさり、ゲーテも『イフィゲーニエ』 と『タッソー』 の散文でかかれた初稿には満足せず、芸術そのものの領国では表現上でも韻律面でもすっかりそれをより純枠な形式へ改鋳したのであり、この形式によってこれらの作品はあらためてますます嘆賞を博することになった」(2169−2170)
 こういう点、日本の文芸評論家、詩論家、特に過去、戦前のプロレタリア文学、芸術運動の系統を引くマルクス主義芸術評論家や作家、詩人は全く口をつぐんでしまう外はないようで、「散文で書いたものを韻文につくり直した」大詩人達の自在な表現のための努力の消息は、進歩的文芸理論のらち外に放棄されてしまっていたのである。 マルクスは「印刷機とともに英雄詩は亡びないだろうか?」 という有名な経済学批判序説の最後のことば(そこで文章はとぎれていた)を残している。彼が思考し、再考し、熟考したあげく、未解決のままにしておいた芸術史上の大問題は、俗流マルキストにより「印刷機の発展とともにエポスは消えてなくなる」 という風に読みとられてきたのである。
 ところでだいぶ前になるが詩人谷川俊大郎氏は「・・・ 日本という国の文盲率の低さと、それから印刷メディアというものの異常なぐらいの膨大な成長ということも、現代詩は無縁じゃないだろうと思うんです。やはりこれだけみんな字が読めるということは、もう口承文芸みたいなものは成立する余地がないってことなんですよ。それから、これだけ印刷物が氾濫すると、どうしてもわれわれは印刷物に向って書いてしまうわけです」("はたして七五調はリズムか"谷川俊太郎、外山滋比古討論、1973・3『ユリイカ』)と述べている。
 一見反論の余地のないように、今日の口承文芸の存在性が否定されている。中国のかつての解放区の叙事詩の成長の理由も、その逆をいえばびったり肯定されるわけであるようだ。それに少し蛇足をつけたせば、中国の貧農や流民の共同体や、赤軍と人民解放組織のもつ「都市共同体的性格」 のニつが基底に作用したということになろう。 とこ ろで教育をうけた層が多く、電気文化・印刷文化の普及率の高い文化圏でも新しい叙事詩、叙事詩曲(音楽性文学)が成長する可能性が出てくるのは、それは社会構成の基底に有機的な新しい共同体が強く作用しているときであろうし、日本の将来の叙事詩は、中国的理由とこの後者の理由が後者の優位のうちに複合している事態から生まれるように思われる。
 ところでマルクスを曲解したマルクス主義文芸評論家は、かつて次のように韻律と口承文芸を否定したのであった。
 日本でプロレタリア詩が台頭してきた頃のこと、ハンガリー・マルキストの文芸評論家マーツァはその著者(『現代欧州文学とプロレタリアート』熊沢復六訳、一九三一)の中で一人の革新詩人――ホイットマンによると意識的反形式主義と韻律詩の伝統との決裂に学んだ詩人――の詩論にふれていた。
 それによると自己目的としての言葉の音楽性を拒否し、純粋に形式的に与えられている打情詩の拒否を理想とするこのホルツという一詩人は「韻は思想を鎖につなぎ、詩が表現しようとしている真実の表現を妨げ、そして不可避的に反復へ、クレチン病へ、模倣へ導く。概して表現の七五%の可能性は、韻の可能性である言葉の制限のため、韻を踏んだ詩の中で分離する」 といった(この詩人は後に韻律論者に転向してしまった)。
 当時の日本のプロレタリア詩人もマルクス主義文芸評論家も、韻律は「封建時代の中央集権主義によって獲得された形式」とみなし、表現の抑圧、形式主義の産物とみなし、韻律からの脱出、ひと先ずホイットマン的口語自由詩を模倣する道をとったのであり、 これは上記ホルツの詩論に照応している。 しかし上でみたヘーゲルの見方、レッシング、ゲーテ、シラーの創作態度とは真っ向から対立しているようである。
 それから五〇年もたち、社会の情況が変っているにもかかわらず、今日の「進歩的詩人」 の詩論の水準、韻律理解は五十歩百歩のところに停滞・低迷しているようにみうけられる。それだから新中国の世界にも稀な新叙事詩運動を知りつつも黙殺してきたし、日共系、新左翼系、あるいは労働者の自主的な系統の詩運動においても高い目標、理念、ジャンル形成の熱情も原理的論争もみられず、ソ連の芸術、文芸運動と同質とみられる全体として袋小路的低調が支配しているようである。
 わき道にそれるようだが、ヘーゲルの哲学の体系、歴史観、弁証法等を学ぷ場合、マルクスの場合と同様、方法としての弁証法と人類史の総体の変遷形態との矛盾、その方法の西洋的一面性の限界と内部矛盾を洞察し、弁証法を人類史の総体をふまえた新歴史理論と新論理学に服属させ、その一部門とすることが重要である。そうでないかぎり、資本の論理に支配され、翻弄される人々も、それとの双生児の関係にある「市民社会の唯物的社会主義」 も、ともにデッド・エンドに行きついたまま、出口なき「生き残り競争」 で共倒れとなる運命にあるようである。それらの過程は第三世界の苦悩と矛盾にみちた立直り運動をよびおこす。それは原生的、アジア的共同体の高度社会主義による純化更新と、高度資本主義及びソ連型社会主義の内部から生れた批判的要素である高度社会主義の「資本の論理に犯されてない残存共同体による洗礼と手引」 の交互作用の始まりであり、それはマルクスの予想しえなかった段階での人類の自己救済への道へ進みつつあるように思える。
 こういう方面に深入りすることは、一、二冊の著書を必要とするので、この辺で脱線を打ちきるが、叙事詩の新生の歴史的・生活圏的基礎は熟しつつあり、又新叙事詩のための思想的、技術的条件も以下でみるとおり、 かなりととのいつつある。かつてブルジョァ社会の世界化の必然性を一面的に信じた場合のマルクス・エンゲルスは、ブルジョア・リアリズム、ブルジョア散文文化に高い評価を与えたが、他面ブルジョア的発展の限界意識(口シア、アジア諸国の現実、及びブルジョア散文文化に根強く抵抗する韻文文化の残存等)にとらわれて、心秘かに逡巡に陥った。
 その段階のみではなく、マルクスは早くから人類の文化・芸術に対し、一面的段階進化で割りきる傾向に懐疑的であった。ダンテ、シェイクスピア、ゲーテ、ハイネ等のレッキたる韻文芸術の深い含蓄と進歩性を理解し、ホメロスの叙事詩の抗しがたい魅力にとらわれていたマルクスは、叙事詩理解に対してもヘーゲル詩学の残響と鋭敏な感性を示しているのである。そこで散文文化の尖兵のような、文学の大量生産の工場の武器である近代的印刷機のローラーの騒音により、英雄詩は追われて消えてゆくのか? と自問したが、神話は追われても新しい英雄が生れるかぎり、英雄詩は滅びないという考えは否定できなかった。
 その上、叙事詩の滅亡を断定できない諸事情があった。近代的コンミューン思想の発生、文芸の労働者集団による共同的、集団的享受の可能性の予感、革命的詩人による響きわたる新しい韻文と韻律、大デモ、大集会における新しい革命歌の発生流行ーーその上、マルクスもエンゲルスも自らを顧りみれば、若き日には韻律に耽ける詩人であったことの回想等から、遂に英雄詩の滅亡の問題は疑問符を残して未解決にして筆を置いたとみなしうるのである(「経済学批判序説」の末尾参照)。この辺の事情の理解も、我々の新叙事詩論の出発点のーつとなるのである。


 4、自由詩型の不安定性の問題(詩人と翻訳者との共扼関係)


 戦前戦後の作家・詩人の叙事詩をみる場合、散文文学とちがったそのテーマの発想・題材の問題ばかりでなく、その韻律の問題がいきなり対決を迫ってくるのである。近頃は散文の小説の表現に関連して文体の問題が論議されているが、叙事詩の場合は現代日本語の韻文ということで、その用語・韻律・詩型が、表現上の重要要素としてのっびきならぬ位置を占めているのである。韻律、用語は形式上の問題というような一面性を脱し、作品全体の生命とからみあってくるのである。
 文体に関連して、一つの例を詩人北川冬彦氏にとってみる。氏は昭和六年『中央公論』に発表した幾つかの短篇の小説を、十数年経った戦後(昭和二十三年)に改めて長編叙事詩集(単行本『氾濫』)として発表した。
 「一度び散文の形式で書いたものを、行ワケ詩に書き更めることは、いかにも不見識のようであるが、しかし、これは私一個人の責任ばかりではない。それは現代詩の責任でもある、と考えられるのである。このような事態の起るのはひとえに現代自由詩の形式の不安定から来ているのである。この種の模索は、日本の現代詩人の詩探求途中の実験として、その実験の創造性の故に許されてよいところであろう」と氏はあとがきで書き、さらに「私は詩の仕事の外に、廿数年映画批評とシナりオに身を打ちこんでいるから、その間、私が小説なるものを書けぱ自ら映画的シナリオ的表現が顔を出すのも当然なことなのであろう。私の書いた小説なるものが『定型なき定型詩』として長編叙事詩を自ら形成していたことは偶然のことではない。私はーつの新たな創作方法によって、文字通りの長編叙事詩の創作を可能とする確信を与えるのである」というようにかなりの自信を示している。

 散文風の文体が行分け詩の文体に変わる例

 《元の散文》
 「鉄橋、朝鮮と中国との境に架っている長い鉄橋の上を通過する列車の窓からは、人々の首が出た。人々は見た、昼ならば太陽の光に、夜ならば幾百燭光のアーク燈の光に、スケートの刃をキラリキラリと煌めかしながら蟻のように入り乱れて氷上を辷っている連中を。この頃では、これらの人達の誰か一人や二人は、氷の薄いところに出会して、ふみ破り、ずぷ濡れになり、蟇ロの中まで水を浸みとおらせたりするのに、一向懲りようともせずに辷り回っているのだ。」(小説『早春 』の一節)

 これが叙事詩集では次のように変わる。

 《行分け詩の文体》
 鉄橋。
 朝鮮と中国の境に架っている長い鉄橋を通過する
 列車の窓からは
 人々の首が出た。
 人々は見た、
 昼ならば太陽の光に
 夜ならば幾百燭光のアーク燈の光に
 スケートの刃をキラリキラリと煌めかしながら
 蟻のように入り乱れ氷上を辷っている連中を。
 この頃では
 これらの人達の誰か一人や二人は
 氷の薄いところに出会して
 踏み破り
 すぶ濡れになり
 蟇ロの中まで水を浸み透らせたりするのに
 一向懲りようとせず辷り廻っているのだ。

 行分けの効果について北川氏は@イメージがはっきりとし、読み易くなる、Aスピードを出している車の表現のテンポが適確になる、アクションの間が出来、読み易くなる等といっている。つまりあく迄も「眼で読む叙事詩」、印刷された出版物としての叙事詩の目読=黙読を主眼にしており、ロ誦や語り、歌詞としての、視聴覚としての叙事詩のイメージがないことがはっきりしてくる。小説という散文読みものの領域に、シナリオ的手法を取入れた「目読=黙読叙事詩」という新ジャンルを割りこまそうということになっているのである。長篇叙事詩の弾奏付きの語りとか、オーケストラ付の詠唱・叙唱という発表・伝達形式の復活の見通しがなく、そういう文芸の享受の仕方が人民 の間に成立していない時、北川l式の叙事詩の着想が生まれ、不毛の地 に立ち枯れて行くのである。
 もっともそういう時代であっても、 一部の階層の間では卑俗形態で 叙事曲(浪曲)や歌舞伎や文楽の舞台での浄瑠璃等が残り、底辺や辺境の集団や部落や少数民族や他国籍グループの間では、非発展的、停滞的な形ではあるが口承文芸が残存しているとしても、 一般に表向きの文芸理論や詩論によりそれらは黙殺され、あるいは低文化や封建文化の遺物扱いされがちであった。詩人の題材への飛躍や大衆への接近の意欲から起きる新ジャンルへの熱望も、結局印刷・出版産業、出版文化のみにたより、雑誌、単行本にのみたよるほかはなくなり、例えば郷愁としての叙事詩の回想はあっても、散文文化の庭にあって散文文化に抵抗するという、最初から抵抗の限界がわかった、行きづまりの予感を孕んでいる「反小説運動」 にとどまり、詩の衰弱からの脱出をめざす新ジャンル創造にまで行きつかない。
 しかし限界はあるとはいえ、こういう先頭を行く詩人たちの模索は外国の叙事詩を翻訳しようとする人々に対し、直接、間接、影響してくるのである。以下少し例をあげる。

 A、ゲーテの叙事詩『ヘルマンとドロテーア』のニつの翻訳の文体

 「こんなことは初めてだなあ! 市場や通りはひっそりとして
 町が掃かれてしまったか、死にたえてしまったみたいだ。
 町の人も、 ものの五十人とは残っちゃいまいね。
 もの好きにもほどがあろうよ! われ勝ちに駆けつけていって
 気の毒な避難民らの行列のあわれな恰好を
 みようというんだ。
   (藤原定訳、第一歌章の冒頭、角川文庫、一九四一年初版)

「市場も通りも、ついぞ見たこともないほどしんとしている! まるで町中が掃ききよめられたようだ。残る者は、どうやら、町の衆全部のなかで五十人とはいまい。物好きさに呆れたものだ! なにしろ、猫も杓子も哀れな避難民の気の毒な行列を見ようと、駈け出す、走り出す。」
   (国松孝二訳、新潮文庫、 一九四二年初版)

 一応一九四一、四ニ年とほぼ同時期の訳を並べてみた。このほか先行の訳には佐藤通次、高橋健二氏のものがあり、筆者などは少年期に新潮社のヱルテル叢書の一冊として久保正夫氏の散文体の訳になじんだものである。 西欧の韻文を翻訳する場合、テキストの違いからの差もあろうが、いう迄もなく、意味を忠実に伝えようとする面と、韻律語法を出来るかぎりそれらしく伝えようとする二つの努力が統一される。そして散文体に訳すからといって後者の努力が消えるわけではないが、行分け文にする場合、原文の韻律、用語をにおわせようとする度合が強まることも否定しえない。しかし韻律条件のちがいから擬似的に日本語の韻律に移しかえるほかはない。演劇における劇詩の翻訳の場合も同様であるが、翻訳者はその時代・段階での代表的日本詩人の韻律的風潮や傾向に学ぶ外はないのである。そこで詩人達が自由詩型の行分け詩を作っ ている傾向が主潮とみる人はその型を真似るし、散文体に書き流れている傾向もーつの主潮とみなせば、そういう文体をとるだろうし、又そういう韻律の模倣や擬態はいみないと考える人は、普通の翻訳と同じように散文体に訳して、意味の正確な伝達に力を入れることになろう。

 B、ダンテの『神曲』翻訳における行分け自由詩のニつの型

 次に同じ行分け自由詩の訳でも、例えばダンテの 『神曲』 では、文語自由詩と口語自由詩の訳文がみられる。

 「われ正路を失ひ、人生の覇旅半にあたりてとある暗き林のなかにありき
 ああ荒れあらびわけ入りがたきこの林のさまを語ることいかに難いかな、恐れを追思にあらたにし
 いたみをあたふること死に劣らじ、されどわがかしこに享けし幸を
 あげつらはんため、わがかしこにみし凡ての事を語らん
      (山川丙三郎訳、岩波文庫、一九五二年第一刷)

 「人生の道の半ばで
 正道を踏みはずした私が
 目をさました時は暗い森の中にいた。
 その苛烈で荒涼とした峻厳な森が
 いかなるものであったか、口にするのも辛い、
 思いかえしただけでもぞっとする、
 その苦しさにもう死なんばかりであった。」
     (平川祐弘訳、河出世界文学全集、 一九六六年初版)

 他に幾種も訳があるが、右の引用は文語、ロ語の差はあるが、自由詩的であり、行分けのスタイルをとっている。訳者の年代の差があり、山川訳は大正三年・十一年に既に出版されたものを一部改訳したものであり、平川訳はダンテが「中世的教養の学術語のラテン文でなく、俗語、今日のロ語の美しさをあますところなく引きだし、精錬し、高めている」(杉浦民平氏)ので、当然口語で訳すべきであるという趣旨に立っている。といって両訳ともに当時のイタリーの庶民や職人が仕事をしながら流行歌でも歌うようにダンテの詩の断片をロずさんだように、民族的口語韻律に翻訳するという不可能に近い芸当にいどんでいるわけではない。ダンテの学識や体験の深さによる内容の深刻性は翻訳を困難にするが、それ以上にイタリー語と日本語の間の深い溝が困難を倍化させる。困難の二重労作は内容がもっと軽い、わかり易い「バラッド」や大衆的叙事詩のロ語新体詩の韻文による翻訳でも同じことである。二つばかりの例をみよう。

 C、口語新体詩(口語による七・五調)の行分け韻文訳の例

 イングランド、 スコットランドの民衆に口承承されてきた歌物語『バラッド詩集』が出版されている(前掲、薮下卓郎、山中光義訳)。撰ばれた三十ニ篇(中世バラッド十七、近代バラッド十五)のパラッドは、いわば小型の抒情的叙事詩(叙事歌謡)とみられるものである。訳者によれば「パラッドは本質的に文字に頼らないロ承の歌物語である」。しかしそれは形骸化した過去の遺産として引き継がれるのではなく、各時代に受け継がれて、独自の生命力を示している。聖職者や大学教授達により蒐集され、何回となく出版されている。近代ではバラッドの製作の本来の無名性、非個人性から脱却し、近代詩人のワーズワス、キーツ、テニスン、 キングズリー、 ロセッティ、 モリス、 イェーツ、 ハーディ、 オーデン、デ・ラ・メア等が作品を残している。
 筆者は中世ハラッド十七篇、近代パラッド十五篇を一気によんでしまった。それだけ魅力のあるものである。歴史の風雪にさらされた島国の農民と漁民を兼ねた人民の運命観、残酷な自然と社会への対応と諦観、戦争と侵略、暴君への人民の復讐、抵抗等、どの篇も残酷と冷血と慟哭と非惨と呪詛と憎悪がみちあふれているが、詩型とスタイルは軽快でドライで直截であり、民衆歌謡の特長である日常用語、リフレイン、間答体がみられる。書き、読むではなく、歌い、聞くというのはパラッドの生命である。

1、わたしが一人で歩いていると
 二羽のからすがぼやき合い
 一羽のからすがいうことにや
   「さて今日は、何処でごちそういただこ5」
2、「荒れはてた城壁の向うに
 殺られた騎士がさらしもの
 あのざまをご存知なのは
 騎士の鷹と猟犬(いぬ)と愛人(おんな)」
3、「その猟犬は狩りに出かけた
 鷹は獲物をもって家へ帰った
 愛人ははや別の情夫(おとこ)に首ったけ
 そこでおれたちゃ、ごちそうはいただきというわけさ」
4、「あの白い骨はおまえのもの
 おれはあの青い眼をついばむとしよう
 あの騎士の金髪(かみ)を一房拝借Lて
 崩れたわが家の屋根ふきしようか」
5、「騎士を探して多くの人が涙ぼろぼろ
 何処にいるのかわかりゃせぬ
 肉を剥がれりゃ白い骨に
 風がいつまでも吹きつける」

 これが上記のアルゼンチンのガウチョ(極道者)の長篇叙事詩ではこ
ういう形になる。

 またあるときは居酒屋で
 午後のイッパイやってると
 腕自慢ぶりひけらかす
 ガウチョとバッタリ出くわした
 やつめはそのまま乗り入れて
 軒先なんぞにウマとめた
 わしは帳場によりかかり
 黙ってやつを眺めていた
 そいつは地付きのヨタモンで
 司令官のヒモがつき
 面倒起きてはまずいので
 だれも咎めるものがない
   (一連略)
 ウマをおりるとその男
 パスク野郎を突きとばし
 半フラスコの酒びんを
 わしによこして 「さァ飲めよ
 おいらの身内じゃねえか」 とさ
 「身内は迷惑」わしが言う
 「何んだと? キサマはどの身内」
 やつはかぶせるようにいう
 「生意気ぶっていやがるが
 墓がおめえを待ってるぜ
 牡牛の唸るところでは
 仔牛は静かにするものだ」
 あッという間に組み打ちだ
 敵もさるもの、柔(やわ)じゃない
 そしてわしとてすばしこく
 遅れをとったことはない
 引いた刀で袈裟がけに
 ハラワタぱっくりえくりだす
    (同書四〇〜四一頁)
 
 この二例の口語新体詩(七・五調訳)が最もよいというのではなく、適当な用語法・詩型のモデルがないとき、翻訳者のなかで詩才のある人たちはバラッドや長篇叙事詩を現代詩人の思惑をこえ、口語と新体詩型を結びつけ、新しくして古い行分け詩の文体に翻訳して、叙事詩をつくりたくもその韻律・文体で停滞し、マゴマゴしている詩人たちの先へ出ているのである。あとでみるように、現代の詩人の叙事詩が数十年前の小熊秀雄、北川冬彦の低迷(黙読範疇としての叙事詩)を繰返しているとき、一歩出ようという詩藻ある語学者の翻訳は、新叙事詩の促進力のーつとしてのいぎをもつものである。

 5、叙事詩の歌い方を巡る問題
 (歌による発表伝達ぬきの叙事詩を考えることが既に誤り)

 叙事詩への関心を叙事詩曲(叙事曲)の面、あるいは歌い方、聴き方の面から接近する学者がある。 これについての動向を知るには、やはり戦後からの動きを一応概観しておく必要があろう。

 (1)日本の伝統的叙事詩の歌い方の問題

 戦後、浪曲、義太夫等、日本の伝統的叙事詩曲である部門に、やはり「革新」が起きている。そのイデオロギーの低調、非革新性を云々するのは易いことであるが、その部門では 「革新」は珍しい現象なのである。その新しい浪曲と浄瑠璃(義太夫)の動きの一例をみておこう。
 一九五八・十二、浪曲界の異端児国友忠は 「節のない浪曲」を文化放送で始めた。 『馬喰一代』を口演しているときに提案したもので、その後のテストで本決りとなり、 一九五九・一月四日から毎夜八時十五分より十分口演した(第一回柴田錬三郎作『剣は知っていた』)。節のない三味線のない、従って例の 「しわがれ声」(寂声)の歌のない、会話中心の浪曲もーつの試みとしていぎあるものであった。浄瑠璃では、武智鉄二指導で木下順二作の民話をロ語体のまま義太夫に乗せたものがある(一九五五・十一・三十、つばめ太夫、喜左衛門以下、三越劇場、桐竹紋十郎以下の人形付き)。口語体の台本さえ練れてくれば本物となるという話もあった。その二日後の十二月二日、 綱太 夫、松之輔の義太夫『城』が語られた(大野恵造作詞、邦楽新曲発表会、同年十二月二日銀座ヤマハホール)。城の力感を詩でうたったもので、詩への節付けなので筋はない、みどころがあるという評もあった。
 一九五八年頃、日本浪曲協会では十六人の作家の顧間就任により、新作浪曲への貧新運動のためそのうち十三人の作家から原作の提供をうけ、新作浪曲大会を催した (六月二十三日から三日間、浅草国際劇場、昼夜二回)。原作提供者は長谷川伸、村松梢風、舟橋聖一、山岡荘八、 村上元三、林房雄氏らで、演者は虎造、勝太郎、若衛、浦大郎、羽衣、百合子らである。このうち村上元三作・演出による『戦鼓』(雲月演者)は三味線を使わず、服部良一作曲、三十人のオーケストラ伴奏による新形式である。こういうような「革新連動」 によって浄瑠璃や浪曲という伝統的叙事歌謡に「新生命」を吹き込んでも、未来を代表する働く人民の熱烈な支持をうるというわけには行かないので、結局試みに終り、伝統的叙事歌謡は旧態依然たるものがある。しかし日本の特定階層の一部での根強い支持はつづいていることを忘れてはならない。
 右にその一端を見せている伝統叙事詩曲の改革運動は、原作(アレンヂ)、楽器、伴奏楽、歌い方、節なしの会話中心等々、いろいろと改良や形式の変化が試みられているが、創始者の出現当時(近松、義太夫、雲右ヱ門等)の社会情況と技術状況に対応した独創と革新、多くの人民との熱狂的結びつ き等の根本要因がないので、表面的に小手先細工の改良に終っている。
 ついでだが筆者はこれからの日本に、本格的長篇叙事詩の出現を望んでおり、その前段階として短篇、中篇の革命事件詩、革命家の英雄詩、大争議叙事詩、ゲリラ戦詩、戦争犯罪糾弾叙事詩、反差別物語詩が生れてくることもありうると考えているが、それとともに、日本の伝統的叙事詩曲・浪曲を新しい人民叙事詩曲に改変させる人民芸術家が出現することを望みたい。従来の社会主義の欠点を批判した新しい共同体社会主義のイデオロギーで武装した新しい人民詩人、革命作家、コンミュン型叙事詩人により日本の浪曲が徹底的に改変され、男女老若の労働者、勤労者、農民、漁民、学生、居住集団等の視聴覚を通じて、変革的影響を与えることを望んでやまない。新浪曲に石川啄木、幸徳秋水、渡辺政之輔、スパイM、小林多喜二、東条英機、西田税、北一輝、ヒットラー、ゲパラが肯定、否定何れであろうと登場してくることは望ましいことである。
 さて、『家物語』びわの伴奏で語る平曲の「語り方」を今に伝える人は僅か数人であり、一九六八年五月、東京の国立劇場の小劇場で開かれた平曲の上演会でその四人が顔を合わせたことがある(仙台の館山甲午、名古屋の土居崎正富、三原正保、井野川幸次の四氏)。『平家物語』は周知のごとく鎌倉時代の初期(一二一〇〜二一年)につくられた平家一門の盛衰記で、東国出身の盲僧生仏が天台声明の曲節によって語ったのが始まりで、中世では盲人のびわ法師がこれを広め、明治以後はすたれて今日前田流だけが残っている。
 名古屋に平曲が残ったのは宝歴年問、荻野知一検校が京都で前田流、羽多野流を学び、安永五年名古屋で『平家正節三十六巻』を出して以来といわれ、他に館山氏は津軽藩に伝えられた前田流を父親から受けついだもので、共に後継者はないので今後の保存は問題である。上演されたのは二百曲の平曲のらち、「生喰(いけづき)」 「宇治川」 「六道」「横 笛」の四曲であった。
 その後四年経った一九七二年、上記の仙台の館山甲午氏(無形文化財指定)ほか出演で第二回平家琵琶に親しむ会が東京虎の門発明会館で開かれた(四月二九日)。これは一九六九年に出来た「平家琵琶普及後援会」が主催で、その教室の生徒たちが学習の成果を発表したので、これはアメリカ人ジョージ・ギッシュ氏(当時三六才)が推進力となっている。一九七〇年一月からギッシュ氏は自宅を開放し、毎月一回の教室を開いた。七八歳の館山氏は講師として上京、常時十人前後が出席し、のぺ百五十人が教えをうけた。ギッシュ氏は一九六八年二度目に来日して以来、さつま琵琶を勉強中で、普及後援会の事務、平曲通信などを発行して、催しにも出演している。
 それからさらに六年たった頃、上記の名古屋在住井野川幸次さん(当時七四才)は、スペインの北部のパンプローナで平家琵琶を演奏した。 そこはフランス中世の最大の叙事詩といわれる『ローランの歌』の現地であり、『ローランの歌』も弦楽器の伴奏で語られたものだが、 その語り手と語り方の伝統が絶えてしまった。 『ローランの歌』を研究している学者の国際的交流の場であるロンズヴォー学会(本部はベルギーのリェージュ)は三年に一回国際大会を開いており、第八回大会を一九七八年の八月十五日から十日間パンプローナ(ローランが戦死したロンズヴォーの谷から最も近い都市、この年は戦没後一千二百年に当る) で開くことになった。各国から約三百人の学者が参加することになり、同学会の日本支都(代表委員新村猛・名大名誉教授、佐藤輝夫・早大名誉教授)からも十数人が参加、井野川さんは特別ゲストとして招かれた。
 『ローランの歌』は『平家物語』より少し前の十二世紀に生れたフランス最古の叙事詩で、八世紀の終り回教徒討伐のためスペインに遠征したシャルルマーニ ュ(カール大帝)の後衛部隊の指揮官ローランが、 フランス・スペインの国境のピレネー山中のロンズヴォーの谷で、味方の裏切りと敵軍の奇襲で悲仕な最後をとげる物語史である。ヨーロッパ中世の最大叙事詩のーつである。平曲と『ローランの歌』を結びつけたのは日仏のフランス中世文学の研究者で、一九六七年にフラン スのフラビェ教授(ソルポンヌ大学)が来日、日本学者の案内で井野川さんを訪れ、 その演奏に感銘をらけ、又その後ジョナン教授(アビニヨン大学)も演奏をきいて同じ感銘をうけた。井野川さんは大会で、「宇治川」「横笛」――宇治川の先陣争いと女性の悲恋物語――を演じた。当日は神沢栄三名大助教授のフランス語の平家物語の解説と二曲のフランス語訳が会場で配られた。
 こういう伝統的叙事詩曲と歌い方の研究、その国際交流は進んでいるのであるが、 それは回顧的であって、未来へのつながり(新叙事詩曲のための基礎的研究)となっていないうらみがある。しかしアルゼンチンのスぺイン語の叙事詩『マルティン・フィエ ロ』やパジャドールの詩の歌い方等が研究され、それらとの結合をはかれば将来の人民的叙事詩の歌い方の示唆となるだろうと思われる。
 なお中国の革命以前及以後の人民的叙事詩運動及び中国の少数民族の伝統的歌謡と叙事詩曲は、日本のこれからの叙事詩運動に示唆するところ多大であると思われるが、それは他の機会に新人学者によって十分紹介検討されるであろうから、ここでは西アジアと東ヨーロッパの一部の国の叙事詩とその歌による大衆への伝達の状況を垣間見したいと思う。

 (2)アフガニスタン、イラン、ギリシャ等の吟遊詩

 新旧の叙事詩の歌い方の問題の参考として、 アフガニスタンではベルシャ(イラン)の叙事詩が今日でも歌われている点に注目したい。藤井知昭氏の 『民族音楽の旅―音楽人類学の視点から―』(一九八〇・二、講談社現代新書) によると、氏はアフガニスタンのシルクロードの楽人たちからテープレコーダーで歌を録音するために 「この十年ほど、わたしは毎年のようにアフガニスタンを訪れ、古代ルート沿い(玄装三蔵の通ったと考えられる『大唐西域記』の道)を中心に、音楽をたずねる旅をつづけながら、その生き生きとした音楽にのめりこんでいた」由である。土地の歌、仕事の歌、抒情的な短い歌等を記録する場合、民衆の歌い手は何回も繰返して自分の歌を聴かせたいという気持がある。短い歌の場合はまだよい方である。延々と数時問もつづく長大な叙事詩などの場合は、好きな道でもさすがにげんなりしてくる、と書いている。抒情的な短い詩ばかりではなく、アラプ起源といわれ、西アジアに広く拡がっているイスラム世界を代表する悲劇、ヨーロッパのロメオとジュリエットに相当する 『ライラとマジュヌーン』、 『シーリンとファルファド』、ニイザミイの有名なロマン詩『ホスローとシーリン』 などの男女の愛を素材にしたもの、あるいは、ペルシアの愛国詩人フィルドゥシーの叙事詩『シャーナーメ』(「王の書」)など、 その数は多く、それらの詩は、それぞれの土地にふさわしくつくりかえられている部分があるにせよ、そのすべてを楽人たちは覚えこんでいる。近代文明からとり残された近代以前の不毛文化という評価すら下されることのあるアフガニスタンにも、このように実に深い詩が堆積していることを、時に触れて見出すことがあると報告している(同書33〜34頁)。氏のテープのコレクションには、そういら叙事詩が吹きこまれている由。
 叙事詩の歌い手はイランにも存在する。イラン西北部のアゼルバイジャン、首都テヘランにつぐ大都市ダブリーズにはアシュックという専業の吟遊詩人たちが二、三十人もいる。そのうちでもとくにすぐれた演奏で知られた四、五人のアシュックを中心にいくつかのグループができていて、その演奏を聴かせるチャイハネ(茶店)がダプリーズには三軒ある。そのうちの一軒で一日四、五回、時間をきめて演奏が行われ、高名なアシュックがその日の真打ちとして最後に登場するまで、グループが一日を取りしきって演奏する。一人二〇リアルの料金で、コーラか力ナダドライが一本配られて演奏を聴く権利ができる、と藤井氏は報告している。
 アシュックたちは抒情的な恋の歌も、長大な叙事詩も歌いあげる。四〇種類、七〇曲のレパートリーのうちに、『キョログリ』という長大な英雄伝がある。物語は一六世紀、イラン戦役に従軍した詩人キョログルの史実と、ポルー地方の支配者ポル・ベイのため盲目にされて父の仇討をするためチャムベルの山に潜んで義賊になった人物の伝説が合わされたものとされ、領主の非道な圧政に対して仲間を集め勇敢に闘った勇士ユスフを主人公とした物語である。数世紀にわたりトルコの東部アナトリアを中心に語りつがれたこの叙事詩は二四章から成っている。茶店で語られるこの詩に男たちは、涙を流しながら聴きほれる。なお、上でみたアフガニスタンで歌われているイランの英雄詩や恋物語も、アシェックたちのレパートリーであると藤井氏は書いている。
 もうーつ重要なことを藤井氏は紹介してくれる。アシェックたちは諸地方を流浪することによって、さまざまなニュースの伝達者としての役割もあり、民衆の抵抗運動を担って、それを音楽を通じてする煽動者としての任務を負い、今もそれを誇らかな伝統としていることである。二〇世紀初頭に市民が武装蜂起したダプリーズの事件はじめ、アゼルバイジャンの何回かの民衆運動にも、アシェックたちの姿がしばしば登場する。一九七八年、絶大な力を誇ったパーレヴィ王政は崩壊L、ホメイニ師を頂天とするイスラム教を軸とした新たな展開が始まって以来、アゼルバイジャンでは自治を要求する特異な動きがしばしばおこり、ニュースに現われるが、その影に、アシェックたちの姿が見えかくれしている。サーズといら弦楽器を胸高くかかえて弾き歌う男――吟遊詩人、サーズ詩人は民衆の心を基盤に誇り高く歌い、奏で ているのだろうと氏は結んでいる。動乱と市民的宗教的革命のさ中での叙事歌謡と人民の共鳴は、第三世界では到るところで現実化しているといえそうである。
 ついでにネパールの民俗音楽の調査の中で藤井氏は「中心はやはり宗教伝説や英雄伝などの叙事詩である」と、いっている (同氏著『音楽以前』一九七八・九、日本放送出版協会)。チべット・ラマ教文化とインド・ヒンドゥー教文化の接点であり、民族的にも複雑な同国の文化の中心地であるネパール谷での調査では、音楽は芸術音楽と民族音楽が未分化であり、商品化してない民族音楽は複雑をきわめている。又音楽カーストがあり、辻音楽師として知られているガイネーがあり、ライという東部のライの移住者の中での小集団が音楽カーストともいわれている。その音楽内容は、純粋の楽器のみの演奏はほとんどなく、ラマ教やヒンドゥー教の 一寺院の祭りのとき、寺をめぐる部落単位のグループの行進に用いるときの演奏が目立つ程度である。音楽の主流を民謡が占め、その歌の内 容・歌詞はどの民族も共通といえるほど総体的に、宗教伝説や英雄伝などの叙事詩が中心である。それを長時問歌いつづける。それ以外は、土地・風景、季節などの自然を歌ったもの、収穫や祭りの歌、恋や結婚の歌が圧倒的に多い、と報告されている。氏は日本語と、チベット・ビルマ語との構文や形態に関する言語学上の類似性に関心をもっていたが、ネパールのチベット系の人達の音楽を調べて歩くなかで、日本ゃモンゴルの音楽などとのあまりの近さを肌で感じておどろいてしまい、それ以来、ヒマラヤの国々の民族音楽をたずねて、定期便のように通い出すことになってしまったといっている。こういら調査や録音の集積の中に、叙事詩の歌い方についての示唆が内蔵されているとみてよかろう。
 イランと程遠からぬ地中海、 イオニア海、アドリア海に面したユーゴ・スラヴィアとギリシアにも歌う叙事詩の現代型が生れているようである。口承叙事詩の生き残っている西洋圏の少ない国のーつであるギリシアでは、現代詩人はたえず長い詩の伝統を意識している。四人の叙事詩人が現われている。コスティス・パラマスの 『ジプシーの十二の歌』は伝統的な詩型で強い国民性をもった吟唱詩を作りだしている。オデュッセウス・エリティスは 『価値あるそれ』 という野心的な叙事詩を発表している。この詩は聖書の天地創造とギリシア史のーヴィジョンが結びつけられている。 テオドラキスの作曲になる、素晴らしい音楽とともに広く知られている。
 『ギリシヤ人ゾルバ』 の作者ニコス・カザンザキスはオデュッセウスの帰国後の物語を(ダンテやテニソンがやったように)書きついでいる。二四巻三万三千三百三十三行からなるこの長編詩『オデュッセイア』 のヒーローは、ナイルの源を求めて再度の航海につき、死という自由に到達する。この作の最大の難点はジョイスが避けた陥し穴――ホメロスの原作に似ていること――に陥っていることだといわれ、ホメロスへの重厚な表敬行為とみなされる。タキス・シノプ ロ スの 『死の宴』はオデュッセウスがオデュッセイア第十一巻で死者たちを呼び出す場面を数百行に作り直したものであり、それはホメロスの詩の本質的な人間性を思い起こさせている。
 ユーゴ・スラヴィアでは二人の叙事詩人によって口承叙事詩の伝統が生かされている。 イヴォ・アンドリッチは小説『ポス ニ ア物語』(一九四五)を書き、ナポレオン戦争に材をとったこの物語の 「叙事的な力強さ」によって、 一九六一年度のノーペル賞をとった。二人目はヴァスコ・ポパである。彼の全詩作品は、 ワーズワースの言う、詩人の詩を集めたものはーつの型の自叙伝を構成するということばにあてはまる。テッド・ヒューズはポパのペンギン版詩集の序で「全体的ヴィジョンは壮大なものであり、彼が叙事詩人と呼ばれているのもうなずけることである」と評している。(以上はマーチャント『叙事詩 』 [Merchant The Epic , Methuen1971]より)
 こういう国々からの現代叙事詩のあり方とその歌い方(人民との結合)についての示唆は少なくないだろう。


 6、日本の人民的叙事詩への苦言(無詩学時代からの脱出へ)


 ごく大まかな概観、任意の引例にすぎないのであるが、現代日本の人民的、革新的といわれる叙事詩の現状――主として韻律・詩型の現状――はどうであろうか?
 筆者はかつて戦前・戦後のプロレタリア詩人、革新的傾向の詩人の叙事詩とその韻律問題にふれたことがある。小熊秀雄『飛ぶ橇』、大元清二郎『車輪』、島田宗治『路標』、北川冬彦『北方』『レール』、槙村浩『間島パルチザ ンの歌』、村川秀夫『希望ラ・エスペロ』(第一集短篇叙事詩集)等。戦後は北朝鮮の詩人趙基天作・許南麒邦訳『白頭山』、許南麒『火縄銃のうた』、北川冬彦『氾濫』、大江満雄『うたものがたり』、赤木健介『叙事詩集』をはじめ、翻訳叙事詩としてはプーシキン作・蔵原惟人訳『ジプシー、青銅の騎手他』、ネクラソフ作・大原恒一訳『だれにロシアは住みよいか』、同じく谷耕平訳『デカブリストの妻』等を思いだす。
 もちろん、その頃までに、またそれ以後邦訳された西欧の著名な叙事詩も、広い意味で人類史の回顧にとって、社会の前進にとって意義をもつものであり、その意味で新叙事詩の生長発展にとって無視できない共通の遺産である。古代ギリシヤ・ローマの叙事詩、ホメロスの『イーリアス』『オデュセイア』、ウェルギリウス 『アエネーイス』、ルクレティウスの哲学詩『物の本質について』、フランス中世武勲詩『ローランの歌』、アングロ・サクソンの英雄詩『ベオウルフ』、 スコットランド古詩『オシアン』、ゲルマンの英雄詩『ニーベルンゲン物語』、フィンランド叙事詩『カレワラ』、北欧古代歌謡『エッダ』、ダンテ『神曲』、ミルトン『失楽園』、ゲーテ 『ヘルマンとドロテア』、バイロン『海賊・シヨンの囚人』、テニスン 『イノック・アーデン』、ロングフェロー 『エヴァンジェリン』、アイヌ叙事詩『ユーカラ』、中国の少数民族(雲南シャーニ族)の民族叙事詩『阿詩瑪』、タイ族の『サンローとオビン』、チワン族の『百鳥衣』、ミャオ族の『絵姿女房ォーチャ』等々。さまざまな時代(古代、中世、近世)及びそういう発展段階ではとらえきれない第三世界のさまざまな生活圏における、さまざまな運命をになった民族、国民、階層の英雄的主人公、或いは典型的市民を主人公とする大・中・小の邦訳叙事詩の国民各層への影響は少くない。
 叙事詩論についても、小説研究などとちがって報われることの少ない分野で成果をもたらしている諸学究の書――柳田国男『ロ承文芸史考』、工膝好美『叙事詩と抒情詩』、相良守峯『叙事詩の世界』、高津春繁『ホメーロスの英雄叙事詩』、秋吉久紀夫『華北根拠地の文学運動』等がある。近刊の尾島庄太郎『叙事詩の研究』はその中核の英文叙事詩と日本叙事詩の比較研究に示唆多く、中村定治『叙事詩考―叙事曲論』は九四六頁の大著で前半は外国叙事詩研究、特に後半の浪曲の分析と綜合は大きな成果であり、浪曲と「寂声」の見方を変えさせるものである。以上叙事詩研究者の必読の書である。
 さて比較的最近に現われた人民の側に立つ叙事詩の主題と用語、韻律、詩型をみると、その主題、素材の野心性にも拘わらず、韻律の方は四十年前のプロレタリア詩運動時代に試みられた叙事詩の水準を出てないものが多く、その後の詩と詩論の変化、翻訳叙事詩の成果を十分に咀嚼して血肉化せず、元のままの無詩学状態で叙事詩に立向っているのである。心ある詩人、作家はこのジャンルに二の足をふんでいる。韻律問題が新叙事詩の当面の隘路である。以下二つの作品を検討してみよう。

 @ 酒井真右氏作、長編叙事詩「狭山差別裁判」について

 これは『新日本文学』に1972年連載されたものである(全体で一万行前後であろう)。

 鞄について、
 善枝の父親中田栄作は、
 まだ善枝が行方不明中に、
 「一見革製にみえる
 チャック付のカバン」だと、
 二度もくりかえして述べている。
 栄作のこの表現は、
 革製にみえるが革製ではない、
 ということで、
 「供述調書」で二度も記載されていることは、
 よほど確かなことである。
 ところが関源三が発見した鞄は、
 「皮製」なのである。
 この点について、
 一審では全然問題になっていないが、
 物証として提出された鞄は、
 清水警都が作製した
 鞄発見の「実況見分調書」
 の通りであろうが、
 そうであるかぎり、
 まさにニセ物であり、
 でっちあげの代物なのである。
 このニセの代物を
 善枝のものだと確認したのは、
 善枝の兄健治であるが、
 やがて明らかになるが、
 妹善枝の所持品に関する
 健治の証言は出鱈目であり、
 意図的であり作為が目立つ。
 したがって、
 六月二十一日に、
 関源三が鞄を発見したという、
 そのこと自体が怪しく、
 警察が仕組んだものと考えられる。
  (「狭山差別裁判(七)」より。 『新日本文学』一九七二・八)

 ほんの一片の引用であるが、その題材、観点は当時の部落解放同盟のイデオロギーと運動を反映し、差別事件を究明・糾弾し、広く訴えようという意図はよくわかるのであり、又叙事詩といらジャンルを卒先して生かそうといら意図と併せて野心的なものである。ただその取材態度に対し、一部の偏狭な作家や運動リーダーから解同その他の報告の模倣であり、つくり変えであるという見当ちがいの批評もあったが、叙事詩というものの多くはその時代の重要な事件やヒーローを題材とするものであり、他人の報告や文芸を総括し、取り入れることは当然であり、少しもさしつかえないものである。又本来の叙事詩人は、今日の商品化した小説や商品提供者としての作家とはちがった心構えと共同体奉仕の心情をもつべきであり、又そうでなくては民族的、人民共同体的叙事詩など出来るわけのものではないのである。
 ところで、問題は酒井氏の叙事詩が悪質な権力犯罪と差別裁判を主眼とした叙事詩をめざしているにもかかわらず、又行分け詩の形式をとっているにもかかわらず、そして新散文詩的な言葉の調整はみられるにしても十分な「詩」ではなく、叙事詩的形象化も不十分であるという点である。
 狭山事件がもし叙事詩として構想され、芸術化されるなら、事件の記録や弁護士の反論の写しとりではなく、事件の真の姿、その本質的モメントの形象化、立体化に努力すべきであり、犠牲者である部落青年の石川一雄氏の置かれた被差別状況と善枝殺害、脅追未遂事件の発生によって権力犯罪が企らまれる必然性、部落青年のいけにえという差別犯罪との結合の事情が、その重要な場面、かくされた契機の生きたドラマとして描き出されるべきである。それは大集団の前で音楽的に歌われ、語られ、中小の集会でテープできかされるよらに心がけねばならないものではないか。
 芸術形態、ジャンルの特性の活用のため、構成と韻律等の準備なくして叙事詩に向うことは不用意であり、中途はんばであるといら苦言を呈せざるをえない。良き題材であっても、又詩才があっても、不備な形式との衝突で作家にとっても大衆にとっても不毛の結果となってしまうのは惜しいことである。

 人民叙事詩の代表作をもうーつ取りあげよう。

 A 縄田林蔵氏作、長編叙事詩「栄光の言葉」

 作者は今年八十歳、戦前は各種職業に従事して苦学し、戦後疎開先の茨城で農業・農地委員会長、農協長等の公職にもつき、他にも長篇叙事詩を発表しているが、この 「栄光の言葉」はマルクス・エンゲルスの『共産党宜言』(一八四ハ)を主題にうたい語ったものである。古代ローマの詩人ルクレチウス(紀元前九四〜五〇)は古代ギリシャのレウキッポス、デモクリトスからユビクロスの哲学に受けつがれた自然哲学・原子論を叙事詩化して「前人未踏の詩境を開拓」した。ルクレチウス以前にも六脚韻(六歩格)による哲学詩、自然学詩、教訓詩の先例があり、ルクレチウスのこの叙事詩も六脚韻のラテンの韻律詩である。翻訳は古くは田中美知太郎・岩田義一両氏の『宇宙論』 があるが、現在では『物の本質について』(樋口勝彦訳、散文訳、岩波文庫)が普及している。縄田氏も 多分参考に読んだであろうと思われるが、散文訳になっていてもあく迄原作は韻律ある文体なのである。筆者などもこの先、特定問題の論文を律のある文で書きたく思っているのである。
 さて、縄田氏の社会哲学詩ともみられるこの一万行の叙事詩は口語自由詩型であるが、各行のもつ韻律上の理由は甚だ不明であり、作者の気分と恣意にまかされているようである。

かくて/封建的な/家父長的な/牧歌的なものは/木っ葉みじんに破壊した/かれらは/人問の血のつながりや/長上者に結びつけた/ゆたかな生活の/継ぎ目・織り目を/容赦なく寸断/ブルジョア階級は/人問社会の/変遷推移を物語る歴史のなかで/きわめて/革命的な役割を演じ/一旦/支配をにぎるや/荘園を重んじるとか/家督・一門を大切にするとか/素朴な抒情にひたるとか/人と人との問に/赤裸々な「利害関係」以外/冷酷な「現金勘定」以外/いかに/離れがたい 情愛も/いかに/断ちがたい 恩愛も/絹一筋の/そのきずなすら残さなかった。
  (同書第一章、四〇頁より)

 この引用部分の思想・内容についてはどうこういう必要はないが、問題はその詩型である。その三十行も、つめれば二十行にも、十行にもなり、又散文に書き流しても意味は変わらず、行をとり去った場合の裸にされた文章の「残念さ」「惜しさ」が残らないのである。つまり行分けを必然たらしめる韻律原則がないのであり、あっても作者の気分的調整ーー文章の主観的強勢・強調がそのまま行に分けられているという「区ぎり」があるのみである。 「かくて」「彼等は」「きわめて」 「一旦」 「いかに」などの接続詞、代名詞、形容詞、副詞が一行をなして強勢をはかっているが、ただ朗読のための目印であっても韻律のメドとはいえない。なんとなく音読、朗読を考慮はしているが、結局は原則をもたない気分的な行分けなのである。だから散文又は散文詩に書き流しても内客の 「致命的破綻」とはならないわけである。
 文芸の内容と発表・伝達形態、そしてそれとの不可分の一体関係で構成や文体がきまるということを考えると、どうもやはり作者にとって叙事詩といらものの実体や伝達形態が未解決であるようだ。本来の叙事詩と変則的な過渡的黙読叙事詩との機能的区別がはっきりしていないため、その韻律、文体が叙事詩ジャンルにとって矛盾となっている。しかもその矛盾に無頓着である点が指摘されねばならない。折角の野心的テーマであるから酒井氏の場合と同様、詩型・韻律面・形象化の技術の面でも野心的な画期性がほしかったといいたい。歴史的、予言的文章である『宣言』を今日叙事詩として発表するなら、願わくば内容解釈の卓越性があり、今日の段階のマルクス理解によるマルクス・エンゲルスの肯定的批判――創始者の思想の積極面とともに、その時代的、生活圏的限界と内部矛盾の指摘――がなされることが重要である。しかしそれを求めるのが無理とすれば、詩人としての『宣言』の詩的形象化と、それを韻律にのせたリズミカルな展開が望まれるのである。野心的テーマとジャンルの把握不十分との相克が、やはりここでもくり返されるのである。それでは現代の人民叙事詩の中で、これからの叙事詩の参考、基準、出発点となるような韻律・詩型をそなえた作品はないのか?というと、それにはいろいろと議論もあるが、その前に韻律についての若干の道草が必要と思われる。


 7、一つの詩型論の流れ(人民叙事詩のモデル設定のために)


 日本語の韻律論をやるわけではないが、人民叙事詩のモデル設定のために必要な範囲内でふれざるをえない。筆者は戦前から手がけていたいくつかの社会劇の戯曲を劇詩化・韻文劇化する仕事のーつとして、 一九六八年(昭四三)に 『白熱線』 という叙事詩的劇詩をまとめ、少部数を出版し多くの人の感想をいただいた(ぺンネーム久松秀弘)。行分けにしない散文体と行分けの混じった文体の、四百宇原稿で三五〇枚程のものとなった。その劇詩のあとがきで 「この劇詩で使った律の基本となる八音、七音、五音(四気息とか三気息とか)の組み合わせは簡単でなく、沢山の変化をふくんでいる。八八、八七、七八、七七、八六、六八、八五、五八、七六、六七、六五、五六、七五、五七、五五等々いろいろある。全体としてーライン十語(音節)以上、十六語(音節)の前後(吃音や跳音は一語に数えない)におさめればよい。 律の制約がないようではっきりあり、あるようでさほど制約が気にならない。しかしおのずから支配的な律が出てくる。八七、七七、七五等である」 と書いた(韻の問題は別として)。
 五年後の一九七三年(昭四八)の『ユリイカ』(特集「日本語のリズムと音」で 「〈十五音〉律の成立――音数律に関するノート3――」(菅谷規矩雄)という論稿で、宮沢賢治の詩の音数律の分析から「十五音律」の成立が論じられているのを読んだ。それによると、十五音律は日本語の特性からして成立の根拠をもっており、その成立の主たる外因は、七・七音律のロ語化、つまり近世の口語音韻体系の定着にある。漢字音の口語(俗語)化、それとともに長音、促音、撥音の多用にともなう等時的拍音形式(一音・一拍)のくずれ、その結果、国語における強弱アクセント(そのものとは言いきれないが)の発生ともいうべき現象が生じ、とりわけそれをうながしたのは無音の拍としての促音である。宮沢賢治における十五音律は、四拍子四小節あるいは二拍子八小節(どちらにかたむくかはテンポの問題として発語に内在している)を原型とするダイナミックな強弱リズムをぬきにしては考えられない。その意識のするどさが、かれを他の近代詩人から決定的にきわだたせる、とかいている。
 この提言は印象に残った。
 又その五年後、一九七八年秋、出版された『ウズ・ルジアダス』(ヴァスコ・ダ・ガマの大航海を描いた叙事詩)の翻訳をよんだ時、訳者小林英夫氏のあとがきに同一の流れをみいだしたのである。それによると原文は十音節からなるというが、実際は日本語にかぞえれば十ニ、三音節になる。しかし比較的子音の多いポルトガル語を母音に富む日本語に改めるには、同数の音節では所詮むりである。そこでラテン訳に範をとり、十六音節を一応のメドとし、その前後一、二音節の過不足を許すことにした。詩藻ある翻訳者が行くところへ行ったという感じであった。
 また「意味だけを伝えるならばこんな無理をする必要はないが、原文は定型詩である。それにはそれなりの緊張感がなければならぬ。訳文にもその緊張感を幾分なりとも持たせるためには、ある種の定型が必要である。さればとてぜんぜん語系のちがうヨーロッパ語と日本語とにおいて押韻まで等しくせよというのは不可能事である」と説明している。語句の意味をあやまりなく伝えるか、詩情をうつすか、両者の間にはしばしば矛盾が生じ、翻訳協力者は前者を重んじ、小林氏は後者に傾いたがために、調和に骨折り、初稿以来数年間の時間を空費したと書かれている。ともかく一行十六音節をメドにすることは、その苦心の調和のあらわれのーつとみなされるようである。

 〈カモンイス作『ウズ・ルジアダス』 より〉

どんなにたくさんの山を、そのとき、/倒したことか、微笑する波浪が。/どんなにたくさん根ぶかい老木を/引き抜いたことか、颱風の怒りが。/頑丈な樹の根はまさか仰向けに/されようとは夢にも思わなかった。/水底のいさごも、掘りおこされて//海面に投げだされようとはつゆも。

ヴァスコ・ダ・ガマはまさに悲願成就を/目の前にして、海が地獄にひらかれ、/あるいは狂暴をあらたにして天に/昇るのを見て、万事休すとおもい、/恐れおののき、生きる望みも怪しく、/これ以上手の施しようもなくなり、/不可能なことをもなす聖き強き/救援を呼びたてた、こんなぐあいに……

――「諸天を、海洋を、大地をみそなわす/天にある慈悲の無辺の守護者よ!/紅海の水をひらいてイスラエルの/民に逃げ道を供せられたあなたよ、/パウロを助けて、スルテスの砂洲や/不吉な波浪から守り、洪水後の/ひとけなき世をふたたび人で満たした/者を子らとともに残されたあなた。」
  (第六歌七九〜八一、二四七頁)


 四拍子文化論

 この叙事詩の一年前に出版された別宮貞徳氏の『日木語のリズム――四拍子文化論』(講談社現代新書)をよんだ時、上記の韻律論と同じ方向の流れを音楽的なリズム(拍節)の助けを借りて掘り下げ、証明しているのを見つけて意を強くしたのである。氏のリズム論の要旨は、日本詩歌の支配的リズムの七五調、五七調、あるいは五七五七七の短歌形式も、その根底にあるリズム=律動は音楽の四拍子である。四分の四拍子は一小節に四分音符が四つ入るが、日本語の各音の音節は等時性をもつため、和歌はほぼ各音八分音符の四拍子であらわされる。各句を読むのには同じ時間をかけている。撥音(ン)、促音(ツ)、長音も、みな同じーつの音節として数えられることも日本語の独特の点である。結局、短歌はどの句も八字ぶんの長さをもっていると推定される。つまり五七五七七といっても、時間的な長さにすれば八八八八八ということになる。(音符を使って記録すれば)正しく四拍子にほかなりない。だからおもてにあらわれたものが五七五七七とか、五七調、七五調であれ、その数自体にはなんのリズムもない。リズム=律動があるのはそれが実体として音楽の四拍子であるためである、というわけである。
 一音に八分音符を一つあて、二音をもって四分の四拍子の一拍をつくることは日本語の性格にかなっている。日本語は二音節ずつ一つにまとめて組立てられることを特徴としている。(これについての相当の説明があるが)従って二語の合成語も二プラス二の四音節が多い。四拍子を考慮に入れれば八音までなら(それ以上になると四拍におさまらない)よいが、八音では句の切れ目に休止が置けず、ゆとりがなくなるので七音が最適ということになる。しかし短歌は各句がハ音以下なら休みを適当に入れることで四拍子はそのままなりたつ。九音以上では処置なしだが、八音までなら字数の上では字あまり字たらずで破格かもしれないが、リズム(拍子)のうえではぜんぜん破格ではないことになる。定型を破る現代俳句も字あまりは八音まで、九音以上のものは極小であり、五字未満の字たらずは殆んどないのをみても、八音までの字あまりは四拍子になる。だからいわゆる詩人や俳人の内在律の正体も、どうやら四拍子らしいということになるのではないか、というわけである。
 リズムの深層まで目をそそぐことが必要、と別宮氏は結論で強調する。四拍子文化は先祖が農耕民族だったからであるといい、その裏には騎馬(遊牧)民族は三拍子であろうという想定がなされる。騎馬には歩行のようなリズムではなく上下動の跳躍のリズムが入るが、農作業には押す引く、あげるさげる、左、右といら動作が行なわれるものだから、二拍子系のリズムにしかならない――という想定(仮説)を立てている。韓国では民謡が三拍子であるが、わらべ歌には三拍子がなく、又労働に直接結びついた歌にも三拍子はない。韓国では人びとが馬に乗るようになったので民謡が四拍子から三拍子に変わったのか、古代朝鮮(百済、高旬麗)は騎馬民族で三拍子だったが、農耕に転化するにつれ、とくに農業労働に密着したところでは部分的に四拍子になったのか、とみている。
 氏のいうこの農業=農耕というものを西欧の麦作(放牧と結びついている)とは質的にことなるアジァ型の水田農業(米作農耕)というように具体化すれば、一層真実に近づくのではないかと考えられる。しかしそうであっても基本的生産労働の動作、作業、そのリズムと歌謡、舞踊のリズムとを直結させたりするのは一種の短絡思考で、もうちょっと他の要素の媒介が必要ではないかと考えられる。しかし、リズムの基底に深く迫ろうとする社会学的、芸術学的な比較意識の鋭さは問題を前進させるものである。
 上記の藤井氏の著書では、トルコの民俗舞踊について五拍子のような奇数拍子など変調子が多いのが特徴であり、この五拍子にかぎらず、七拍子、九拍子が多く用いられている。このような奇数拍子で、日本や東南ァジアのような踊りをするのは、なかなか難しい。ところが、トルコの踊りのように、跳び、はねる、といった型が主になった踊りでは、この奇数拍子のリズムは実に具合よく一致する。トルコだけでなく、西ァジアやアラブなど牧畜や遊牧を生活の基盤とする社会では、いずれも、その音楽には、このような奇数拍子がリズムのパターンとなっていることが多く、その踊りは、地面から跳びはなれるという基本構造が現われる。これに対して、日本、東ァジァ、東南ァジアなど、水田耕作を軸とする社会では、音楽のリズムは二拍子の系統がより基本となり、その踊りも、地面に対して水平に動き、身体の重心を下に落し、大地に足をつけた型となってくる。生活様式や風土が、踊りや音楽に(従って言語のリズムに)大きくかかわっていると考えられるのである(前掲書一二二)。
 この見方は上記の別宮氏のリズム論の深層と同一方向にある。しかし遊牧民のうちモンゴルの場合は四拍子が支配的であり、生活様式の一般的支配(傾向付け)に対し言語の性格の抵抗があるのか、周辺の米作農耕社会に支配をうけた時の影響か、問題が残りそうである。モンゴル民謡の場合の例外というのは遊牧民であるがニ拍子、四拍子であり、三拍子の方が例外である点だ。服部竜太郎氏『モンゴールの民謡』(カセットテープ、楽譜付き、開明書院、一九七七・五)によると、録音された三百以上の東西モンゴル民謡からの総括のようである。
 以下少し話が横道にそれるようだが、知名の探険家スウェン・ヘディンが一九二七年に組織した中央ァジァ探険のための西北科学考査団に加わっていた若いデンマーク人のハルンストが、内蒙古の包頭からゴビの沙漠をとおり、新彊のウルムチに達する行程の間、自分の仕事の人体測定や映画班を担当しながら、モンゴルの民謡の曲節と歌詞を精力的にあつめ、録音したものがある。ヘディンはハルンストの集めた歌謡について「これらの音曲はアジアの歴史でなしとげられた、めずらしい偉業と偉大な時代からきたところの消え去ろうとするエコーである。それは世界を席捲した過去に対する誇りを掻き鳴らしており、またこの国の後裔がいま偉力を失って、強力な隣国から圧迫される運命にあるところのメランコリーに打ち震えている」といった。(以上服部氏の著書より)
 その以前からハルンストはモンゴル語をならい、ブリヤート・モンゴルの民謡四十二曲を独自に採録していた。一九三六年、彼は満州国から東モンゴルに旅行し、民謡百余曲を録音し、さらに一九三八年、翌年第二次大戦が始まり仕事を打切る迄、百六十七曲のモンゴル民謡を採録した。それらの成果を服部氏はスウェーデン、デンマークに赴き、苦心の交渉の末、全部をテープにコビーすることができた由である。
 叙事詩の歌い方の面からみるとハルンストの欠点が出てくる。そのコレクションにはモンゴル人が好んでいる唄物語(日本でいう口説(くどき)のようなもので、同じメロディを繰り返しながらうたう長文の物語。バラッドのたぐい)はあるが長篇叙事詩はない。服部氏によると、ふるくから民問に伝承されていた叙事歌(ウリゲール)のたぐいは一曲も収録されていない。それは物語を主としたもので、音楽的要素に乏しく、しだいに忘れられつつあるからではなかろうか、というわけであるらしい。しかしトルゴート族の開明的王女ニルヒトマ(少女時代北京ですごし、フランスへ留学し、ヨーロッパの教育をうけ、仏英露語を自由に話す西欧的文化を身につけた)と会っていながら、その民族の英雄詩を見逃したことは惜しい。トルゴートは西部モンゴル人のオイラート族の一族であるが、ヨーロッパ人はカルムック族とも呼んでいるようで、そこには今から五百五十年前に生まれた十二人の英雄をうたった『ジャンガル』一万三千行があり、 ゴルキイも「イリアッド・オデッセイに匹敵する叙事詩」として賞讃しているのである。又一九三六年にハルンストはチヤハルのホルチン族の民謡の録音の仕事を進めていた時、抗日運動で入獄している囚人の中から、モンゴルの歌を殆んど全部記憶している王室出入りの「全知の歌手」サンルップを見つけ出し、彼を出獄させ、多くの民謡を録音したが、惜しくも長篇叙事詩は録音していないようである。物語が主で音楽的には興味がないという、叙事詩曲に対する西欧知識人の当時の偏った見方が、ハルンストを支配していたのは残念である。
 さて、モンゴル民謡はすべて二拍子、または四拍子である。西モンゴルの民謡には、四拍子と三拍子の複合拍子がたまに出てくるが、それは記譜上の便宜からであって、曲の性質はやはり四拍子が基本であろ。自由で不定形のリズムの表情に富んだ民謡は、日本民謡にも、追分節と馬子唄がある。江差追分がモンゴル民謡に似ている。リズムのうえでもモンゴルと日本は、三拍子を固執する朝鮮半島とはちがい、ともに四拍子の系統に属している。モンゴルと日本はリズムの点でも音階(五音階)の点でも共通するところが多い、と服部氏はかいている。この点、遊牧民でも特定の条件の下、三拍子でなく四拍子の場合があるわけである(叙事詩の歌い方もある程度推定できる)。
 それはともかく、別宮氏あるいはその依拠した小泉文夫氏(更には土井光知氏の音歩理論をその出発点にあげてよかろう)、そして藤井氏のリズムの深層論は大きな前進である。民族の詩、歌謡、舞踊におけるリズムが、その社会の基本的生活(生産様式)に複雑な照応をしていることは疑いえないが、その農業と牧畜の関係は単純な区分や対置ではない。アジアの米作農業社会は西欧型衣料用・食用牧畜に対して農耕用の役畜だけ許容し、西欧的麦作はもちろん西欧的牧畜と結合し、相互補強の関係に立っている。 これに対し純粋の遊牧民はオアシス農業社会と交換の関係に立っている。そしてアジア型米作社会と西欧的牧畜社会の中間型が、西アジアや中国北方等の中間地帯にいくらでも存在する。だから牧畜と農耕という単純な表面的区別にとらわれず、農耕の分化、二種の農耕の質的差異、牧畜との関係のそれぞれの差異をぬりつぶしてしまわないことが必要である。せっかく東洋諸社会におけるリズムの基礎の二分化という大きな前進も、短絡思考がつきまとっていては新しい盲点へ行きつく危険性もあるように思える。
 ともあれ、筆者の立場は一つの理論を主張するのではなく、無連絡の流れを連絡付けることにある。これからの日本詩、日本の新叙事詩の韻律、詩型の基本について四拍子と結びつく一行十五音節、あるいは十六音節、又十音から十六音迄の融通のきく型とか、同一方向への理論付けがそれぞれ作品と結びついて生まれつつあり、その社会的根源――歴史的、類型的基礎との照応も、ある程度解明されつつあるということが、以上の説明で大まかに了解されれば良いのである。それから結論を出したり、応用に役立てるのは力量のある日本詩人の実力である。


 8、二つの邦訳叙事詩の回想(隣路打開のために)――『デカブリストの妻』と『白頭山』


 『デカブリストの妻』はネクラソフ(一八二一〜七八)の十二月(デカブリ)事件参加者の妻たちを描いた叙事詩。一八二五年十二月十四日、新帝ニコライ一世の即位式の日、元老院広場に集結して反ニコライ、反専制主義、立憲政治を目標に貴族、軍人の秘密結社が兵力を動員・デモを行ない、民衆が呼応、暴動化したが、ニコライの軍隊に鎮圧され、南部の聯隊の蜂起も挫折した。革命的民主主義者の貴族・将校五七九人が逮捕され、五名が絞首刑、百余人がシベリヤへ徒刑・流刑に処せられた。公爵トゥルベッカーヤ、同ヴォルコーンスカヤ等はシベリヤへ送られたが、上記二人の貴族の外九人の妻が夫への愛と信念から上流生活をすて、周辺の反対を押しきり、極寒の季節に、何千露里の荒野の夫のもとへ旅立った。シベリヤの鉱山で苦役する夫達とくらしを共にするため。そして一八五六年、ニコライ一世の後継者による大赦によって、三十年ふりでモスクワに老いて生き残った人々は戻ったのである。二・二六事件の「妻たち」とはことなる状況で、愛情と理念に燃えて苦難に立向かう貴族たちの妻の幾人かが、ツァーリズムの検閲を考慮した抑制された表現のうちに、ネクラソフによって描かれているのである(谷耕平訳、一九五〇、岩波文庫)。

ある時のこと わたしは深くねむっていた
するととつぜんセルゲイの声(ま夜中ほとんど夜明けにも近かったろう
か)
<お起き! 急いでかぎを!
煖ろをたきつけて!> わたしはとび起きた…
見れば  彼はあわてて  青ざめている
わたしは手ばやく煖ろをたきつけた。
夫は  手ばこから書類をとり出して暖ろヘーー
そしてせかせかと燃やすのだった。
あるものは急いで走りよみし
あるものはよまずに投げこんだ。
わたしもふるえながらセルゲイをたすけ
火の中へ深く書類を押しこんだ……
それから彼はやさしくわたしの髪をなでながらいった
<さあ これから出かけよう>
大急ぎでしたくをととのえると
誰にもあいさつせず その朝に
わたしたちは旅へとび出した。
三日の間 疾駆した
セルゲイは陰気でそわそわしていた
わたしを父の家へ送りとどけると
すぐまたわかれていってしまった
   「公爵夫人ヴォルコーンスカャー<祖母の手記 (一八二六〜二七年のこと)>第一章」から

最後の荷物が幌橇にはこびこまれると
はりつめた気も失せて わたしは泣いた。
いく分間かが せつなくすぎた・・・
ついにわたしは姉を抱き
また母を抱いた。<では、ずいぶんごきげんよう!>
兄たちに接吻して わたしはいった。
父にならって みんなおしだまっている・・・
老人はそわそわと立ちあがった
かたくむすんだ唇や額のしわに
不気味なかげが うごいていた・・・
わたしはだまって 小さな聖像を
彼の方へさし出してひざまづいた
<わたし まいりますわ!  ただひと言でもただひと言でも お
父サマ!
ご自分のむすめをおゆるしになって おねがいです!・・・>
父は考えぶかくじっとおごそかに
おどかすように わたしの面前に手をあげて
やっとききとれるような声でいった(わたしは身ぶるいした)
<よいか! 一年後にはかえって来るのじゃぞ
さもないと――わしはのろってやる!・・・>
わたしはたおれ伏してしまった
(第三章より)

道では鉱山(やま)仕事のさまざまな道具
土くずれ 土のやまにも出あうのだった。
槌の音 歌声のもとで労働が――
底しれぬ地下の労働が! わき立っている。
坑道(あな)の はずみある壁をたたくシャベル
つるはし。
あすこには 重荷を背負って一歩一歩
丸太の上をわたり行く囚人
わたしはおもわずも<しずかに!> とさけぷ
あすこには 新しい坑道があけられ
あすこには 危げな足ばづたいに
よじのぼる 人のむれ・・・ 何という苦しい仕事!
何という そのいさましさ・・・ 光っている あちらこちらに
掘り出された鉱石(いし)のかたまり
ゆたかな貢ものをやくそくしている・・・

とつぜん誰かがさけんだ! 彼が来る! そらやって来る!
あたりを見まわして駈け出したわたしは
危くたおれるところ・・・
前には濠があったのだ。
<しずかに しずかになさい! あなたがここへ何千ヴェルスタ(露
里)
とんで来たのは 濠へおち死んで
みんなを悲しませるためではありますまい?>
トゥルベッコーイ(同行の仲間)はいって しっかりわたしをつかま
えた。
(十六行省略)
<まいりますわ>とさけぶとおもわずも
ひとの手をふりきって
大きくロあけた濠へかけわたした せまい板の上を
わたしを呼ぶ声の方へ走った・・・
<行くよ!> わたしへ向けてほほ笑んだそのやつれた顔は
いかにもうれしそうだった・・・
わたしは駈けよった・・・ 聖なるおもいが胸にあふれた。
今にしてわたしは この宿命の鉱山で
そのはめられた枷を見 おそろしいひびきを聞いて
はじめて夫の苦しみが
こころの底からわかるのだった。
おお そしてあの鎖! けっしてわすれはしないのだ 首斬り役人は
(しゅう念深いひきょう者 迫害者!)
しかも夫は 罪をあがなう手だとして
彼をえらんだ者(註キリストのいみ)のように
こころまことにおだやかだった。
彼は多くをしのび しのびおわせた・・・
おもわずわたしは その足もとにひれ伏して
夫を抱くよりも先に まず
その鎖に唇をおしあてた!・・・
(第六章ょり)

 説明はいるまい。
 筆者は戦時中(一九三九)短篇叙事詩集を発行し、戦後(一八四八)、叙事詩論を発行したとき、その叙事詩集を再録した。その二年後に谷氏のネクラソフの翻訳をよんで、詩作者と叙事詩翻訳者の広いいみでの共扼(共役)関係を感じた。
 その後(一九五二)、朝鮮民主主義共和国の詩人趙基天氏の『白頭山』の邦訳(許南麒訳、ハト書房)をよんで、新叙事詩の前途に明るさを感じた。趙基天(一九一二〜五一)のこの叙事詩は、金日成に率いられる間島パルチザンのゲリラ戦を描いた千八百行前後の中篇叙事詩であり、作者もその隊員である。作者はこの時(一九四六年)三四歳。この作は朝鮮文学に最初に現われた現代叙事詩であり、北朝鮮では各戸でよまれる最高のベスト・セラーとなった(作者にはその他「われらの道」「戦う麗水」等の作がある)。一九五一年八月、国連軍の平壌爆撃のため、朝鮮のプーシキンのようなこのすぐれた詩人は三九歳の若さで戦死したのである。

絶壁のいわおの上に/若き戦士が一人登り立つ/ずばぬけて高い背丈に/まとえる白い衣は/大空に翔けのぼらんとする/猛禽の羽根のごとく はためき/ふまえ立つ 脚と腕とその体躯は/はがねのごと 鉄のごと /やがてその跳躍にそなえて おののき/氷の刃を思わせるその視線で/戦いの場を 鋭く見廻し/「一人でも 生かして帰すな!」と、/その若き戦士は こう叫ぶ。/そして うちふるう その銃剣、/一たび いわおの蔭をかすめれば/今まで根強く喰いさがっていた日本兵二名が/雪崩をうって落ちて行く/落ちて行く――、/「一人でも奴らを 生かして帰すな!」と/彼の  もう一度 叫ぶ声――。/この人こそ その名を聞くだけでも/日帝の賊輩どもが 慄えあがると言う/朝鮮のパルチザン金隊長!
(十一行こえて)
肉迫の接戦が終ると/密林の主人公パルチザンたちは/一つ ーつ敵の手から 武器を集める!/幾人の 敵が斃れたか/何人の 敵が パルチザン戦法に/「天皇陛下」も忘れ/「武士道」も投げ捨てて/逃げそびれて 死んで行ったか。/「一人も逃がさずに 皆やっつけました」/政治委員チョルホの報告。/「奴らは 今度もわざわざ/武器を補給しに 来たわけか」/金隊長の ひときわ高い話し声――、/そして 呵呵と笑う その豪磊たる笑い声――。

 原作をみたわけではないが、許氏の邦訳は日本の自由詩型のプロレタリァ詩人の叙事詩の成果に学びつつ、それを超えているようである。次の引用のような会話の多い場面では一層用語、韻律は生彩を帯びてくる。しかし翻訳の限界、そして翻訳者が北鮮の人であるということからくる用語、韻律の一部の若干の生硬さはやむをえないように思われる。

「誰が 牛を殺した」/低くも 厳しい その声、/それでも みなは 黙し/深い沈黙が 重々しく/パルチザン達の 鼓膜を打つ。/「隊長同志(ドンム)!/わたくしが殺しました!」――/ひと足  前に出ながら 叫ぶ/青年パルチザン ソクス ン。/「おまえか」――/パルチザン達は 驚く/何時の戦いにも 大胆で/斥候にも 勇敢な ソクスン――/またとない戦友といわれた そのソクスン!/「おまえが どうして また――」/パルチザン達が 余計気を落し 余計怒る――。/苦しみ悶える 彼の顔、/彼は 青ざめた顔を 地に落し、/「隊長も われわれも/四日問も食べてないのじゃないですか――」/しかし群集のなかで起る つぶやき――、/「言いわけは やめ給え」、/また、誰かが言う 言葉、/「おまえは 命令にさからったのだ」/小隊長スンソンは 拳をかため/「おまえは 日本帝国主義を援助したのだ!」/ソクスンは あまりの言葉に顔を拍げて聞き返す――、/「日本帝国主義を援助したんですって」/「そうだ――」/「わたくしが?」/「そうだ、おまえがだ!」/「わたくしが/日本帝国主義を援助する?」/「そうだ、おまえがだ、おまえがだよ!」/「そんなら――」と/銃に 弾丸を込める音、/「そんなら まさしく死ぬぺきもの、/そんなら わたくしは 死にます――」と/引金に手をかける――。/そのとき 「気を付け!」という 隊長の号令の声/鉄板でもって 密林をおしつぶすがごとく、 /パルチザン達は その場に根でも生えたよう/ただ  厳そかな沈黙だけが/重々しく山を蔽って流れる――。

 この場面の前に食糧部隊が牛二頭を持ち帰って処理しようとした時、それに気付いた隊長はその牛をどこから持ってきたか、日本人の牛ではない、中国農民の牛ではないか、とみやぶり、何時から馬賊になりりさがったのか、何時から平民の財物を掠奪するようになったのか?すぐ牛を返してこい、野草で朝のかゆを作れと厳命した。民衆の恨みを買うな、民衆とのつながりは瞬時でも忘れるな、民衆との分離はパルチザンの滅亡であり、日帝の勝利だ、これを知らずにどうして大事をなし遂げることができよう、とカリスマの金隊長はパルチザンの大義と徳性、禁欲的・新人間類型の確立の姿勢を強調するのである。その後で「牛殺し」が起きたので、少年パルチザンが銃殺になろうとするとたん、隊長は「持主を探して牛の代価を払ってやれ」と例外的な命令を発するのである。

「わたくしは 自分の犯した罪を よくわかりました」――/ソクスンの声はふるえる――/ソクスンの顔はくずれる――/ああ この先 彼は/彼が越えねばならない処罰の峠を/どんなに越えようというのだろう!/パルチザン達は 言わずもわかる、/それはただーつ――/「銃殺!」があるのみ、/嵐の前の  短い瞬間のような/沈黙が! 沈黙が! 流れる。/「持主を探して 牛の代価を払ってやれ」――、/こう命令して/隊長は 帰る、/蒼ざめたソクスンの顔に/ああ 幾筋かの 血の涙――、/パルチザン達の顔にも/朝の日を受けて 生気が戻る、ノ何か 大きな温かなものが/パルチザン達の胸に うずくまり/幼な児の 甘えのように/寝返りをうって 心臓をぶつよう――、

 三十年も前に、日本の人民叙事詩にとって題材的にも用語・韻律的にも滋養となる作品例はあったのである。多くの詩人は忘れていた。そういう忘却が新叙事詩運動の隘路をつくる一要素であることを、改めて指摘したいのである。



著作者:亀井トム
著作名:叙事詩は復活する
初出:『現代の眼』1982年1・2・3月号「叙事詩は復活しつつある」
copyright : tomu kamei 1982, 2024
入力:マリネンコ文学の城
UP:2024.4.4
(本作品は、著作権継承者である遺族の承認を得て掲載しました。)