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 キリ番企画
(1000番)

 1000のキリ番を達成した記念に、10編の物語を作ってみました。夢の世界を楽しんでいただければ幸いです。

<新☆夢十夜> 作/指月紀美子
Contents
第1夜☆レトロな町/ 第2夜☆不和/ 第3夜☆天を覆う地球/ 第4夜☆瑠璃色の館/ 第5夜☆父のいる家/ 第6夜☆毬藻/ 第7夜☆猊(げい)/ 第8夜☆宝石の国/ 第9夜☆ロリーザ/ 第10夜☆大空の彼方 


 第1夜☆レトロな町

 私は、故郷の町を歩いていた。小学校を卒業するまで暮らしていた、ある郊外の町である。
久しぶりに帰って来たのだな、と私は思った。かつて住んでいた団地の、道を挟んだ反対側には、昔のままに葦や蒲の生える湿原が広がっていた。その団地と湿原を眺めながら、私は町の南側の商店街へと足を進めた。
 団地の外れには、土埃の街道が、商店街と直角に交わって東西に延びていた。私が暮らしていた頃のままの、舗装されていない土の道であった。あの頃のままの――、と私は思ったが、よく見るとすぐにそうではないことに気が付いた。街道の両側には、こんもりとした雑木林が続いていた。あの頃にも確かに雑木林はあったが、これほどまでには繁っていなかったはずである。街道は、まるで緑のトンネルの中をどこまでも延びているように見えた。だが私には、この光景がさして不信には感じられなかった。ずっと昔にはこうであったに違いないという思いが、すぐに心に浮かんだからである。それは私が暮らしていた頃よりも、更にずっと以前の光景であるに違いなかった。この街道を行き来して、人々は旅をしていたのだと私は思った。
 ふと気が付くと、商店街の方から賑やかな物音が聞こえていた。商店街はお祭の最中であった。店々がそれぞれに屋台を出し、団子や焼き鳥などを売っている。香ばしい香りが辺りに漂っていた。客を呼び込む店主たちの声が威勢よく飛び交っている。
 この商店街は、もうかなり以前に廃れてしまっていたはずなのに――、と私は頭の片隅で思っていた。私がこの町を離れてしばらくした頃、町内への大型店の進出により客足が遠のき、この商店街のほとんどの店が、店を閉めた姿のまま廃墟と化していたはずではなかったか――。
 だが、私はすぐに納得した。商店街は昔の姿をしている。いや、昔といっても私が暮らしていた頃のあの昔ではない。人々の服装を見ればよく分かる。皆が和服を着ているのだ。それも、現代人が正月などにおざなりに着るような和服ではない。男たちは紺色の細い縦じまの着物の裾を粋にたくし上げている。女たちはというと、古いモード雑誌から抜け出してきたような髪形をし、紫や黄土色がかったシックな着物を艶やかに着こなしているではないか。
 ここは、遠い時代の私の故郷の町なのだ。大正時代か昭和の初め、まだ、開発とも合理化とも一切無縁であった頃の。おそらくは江戸時代から続く雑木林と街道、団子屋や惣菜屋が人々の暮らしと共にあった頃の。懐かしい、大切な、得難い私の故郷!
 そうした思いが私の心を捉えた時、私は商店街の更に奥へと歩みを進めていた。素晴らしい時代へ帰ろう。挫折も喪失も知らない、夢を失うこともない本当の私が待っている、私のものであって決して私のものではない、あの遠い遠い時代へ――。

 第2夜☆不和

 そこは、どこか見知らない建物の中の化粧室だった。私は帰る支度をするために洗面所の鏡に向かっていた。と、そこへ入口の扉が開いて二人の女性が入って来た。初めに姿を現した女性は、私と同年代に見えたがその顔に見覚えはなかった。その後からすぐに、もう一人の女性が続いた。彼女は――、彼女は驚いたことに私の大学時代の友人であった。一時期かなり親密になり、その後突然私を見捨て、私から離れていった、あの彼女だった。
 彼女ともう一人の女性は、仲よさそうに談笑しながら一緒に帰る相談をしていた。よく見ると、二人とも小学生くらいの小さな子供を一人ずつ連れている。
 そうか、そういうことだったのか――。
 この時不意に、私は心の中で納得した。彼女と不和になった原因。それを私は今の今まで二人の思想的確執であると思い込んでいたのだが、実はそうではなかったのだ。彼女には子供がいる。私にはいない。だから彼女は、同じように子供のいる友人のほうが気持ちが合ったに違いない。ただ、それだけのことなのだ。
 私たちは化粧室を出た。そこは、私がかつて通っていた小学校だった。昇降口を後にして校門を抜けると、彼女ともう一人の女性は右手の方へ、私は一人左手の方へ向かった。彼女は一度も私のほうを見ようとはしなかった。彼女には子供がいる。私にはいない。だから、これでよかったのだと私は思った。
 左手の道を歩き始めてすぐに、道の両側にはまばらな雑木林が広がり始めた。その雑木の中に、何かの死骸が置かれているのが私の目に留まった。切り株の上には髑髏が、枝には切り取られた足が刺さっている。猿の死骸であった。
 ああ、こんなことをする人もいるのだな、と私は思った。私は更に先を急いだ。すると、行く手の前方に、何か黒っぽいものが歩いているのが見えてきた。それはあまりにもゆっくりと歩いていたので、私はすぐに追いついてしまった。近づいてみると、それは人ではなく原人であった。黒い体毛に覆われた原人が、前かがみの姿勢でゆっくりと歩いているのだ。私は、それが私の行く手の方向なので、仕方なく増々原人に近づいていった。
 と、突然原人が振り返った。今にも襲いかかりそうな恐ろしい形相で、牙をむき出しにした原人が私のことを睨み付けた。次の瞬間にも、私は原人に襲われるのだ。
 何の後悔もなかった。感情が何一つ動かないのが、我ながら不思議であった。
 彼女には子供がいる。私にはいない。だから、これでよかったのだ、と――。

 第3夜☆天を覆う地球

 
夜の帳(とばり)が、街をすっかり閉ざしていた。人々は心なしか浮き足立って、じっと何かを待っているようだった。家々の明かりはまばらで、ほとんどの人たちが街頭に繰り出していた。その群衆の中に、私もいた。
 真っ暗な空には、星ひとつ瞬いてはいなかった。その空の最も低いところの一点に、何か小さな青いものが忽然と現われた。
 地球だ、と私は思った。青い地球がひとつの天体となって、空の端に浮かんでいる。と、地球は見る間に大きくなっていった。小さな丸い球であったものがどんどん広がって、やがて夜空全体を青く覆ってしまったのである。
 私は何か崇高な思いで、巨大な地球を見上げていた。濃紺の海には褐色の大陸が置かれ、白い雲が渦を巻いてその上空をうねっている。人々は溜め息をついたり歓声を上げたりしていた。これまでに見たどんな夜空よりも、一番美しい夜空である。
 皆は、この瞬間を待っていたのだ。千年に一度か、もしかしたら一万年に一度かも知れない、地球が自らの姿を天空に映し出すという、この大いなる奇跡が起きる瞬間を――。
 私は、いつまでも夜空を見上げていた。やがては消えてしまうであろうこの奇跡を、己が目で見ることのできる時代に生まれたことに感謝しながら、荘厳な喜びに包まれて、いつまでも――。

 第4夜☆瑠璃色の館

 ススキの白い穂が風に揺れる土手の上を、私は一人で歩いていた。つい先ほど辞してきた家を、その土手からすぐ間近に見ることができた。私は、小学校時代の古い友人の家を訪ねてきたのである。昔風の調度品やシャンデリアがよく似合う、その家の居心地のよい客間からは、風に揺れるレースのカーテン越しに、今私が歩いているこの土手が広々と眺め渡せたのだった。
 その家を、私はずっと以前からよく知っているような気がしていた。昔よく遊んだ気の合う友人、彼女の、やさしく品のよい母親――。
 そうだ、この街は前にも来たことがある。よく知っている街なのだ。
 私は、帰途に着くために駅へと向かった。よく知っている街なのだから迷うはずはない。土手を降りて、そのまま曲がりくねった道を行くと、線路の下の狭いアーケードに出た。そのアーケードにも、確かに見覚えがあった。
 駅はもうすぐ先だ、と私は思った。アーケードを抜けると、駅前の小さな商店街に行き当たった。その中の一軒の店に私は入っていった。ガラス細工の土産物を売る店であった。
 狭く小奇麗な店内には、透明のガラスの棚に幾つもの小ぶりのガラスの壜(びん)が置かれている。壜の色は、みな一様に濃い青色をしていた。つややかにインクを流したような、深く濃い青色である。
 私には、その青色が無性に懐かしく感じられた。昔この街を訪ねるたびに、よくこの店のガラスの小壜を手に取って眺めたものである。あの日と同じ青、あの日と同じ店。あの日と同じ街、あの日と同じ土手――。
 ふと、私は何をしにここへ来たのであったろうかと思った。誰かを訪ねて来ていたような気もしたが、今はもう、そんなことはどうでもよかった。私は、「あの日」を探しに来たのに違いなかった。いや、もしかしたら、もう「あの日」へ帰って来たのかも知れなかった。
 私は、目の前の青色の小壜を見つめた。ガラスの中に流れる青いインクには、遠い記憶の中の幸福があった。

 第5夜☆父のいる家

 
私は、夫と二人で電車を乗り継ぎ、都心にある実家へと向かっていた。途中、どこかの地下鉄の駅で、待ち合わせていた母と合流した。実家のある高層マンションのエントランスを入ると、母は、最近一階に新しい部屋を買ったので、今家族は皆、上階ではなくその一階の一室にいるところだと告げた。
 新たに我が家になったというその部屋のドアを開くと、ベージュのグラデーションに並べられたスリッパの置かれた、広い玄関が私たちを出迎えた。それにしても大きな一室であった。居間もキッチンも、穏やかなベージュの壁紙で美しく統一されている。
 バスルームは二つあるのだと母は言って、私を案内してくれた。二つ目のバスルームの更に奥にも部屋が一つあって、そこは他人に間貸ししているということであった。
 私がバスルームを眺めていると、そこに父がやって来た。父はかなり機嫌がいいらしく、いつにない笑顔で私に話しかけてきた。
 ――ここまでどうやって来たんだ。
 私は電車を乗り継いで来たことを説明しようとして、ついさっき乗って来たばかりの路線の名前を口にしようとしたが、どうしたわけか、それを思い出すことができなかった。父がせっかく機嫌よく尋ねてくれているのだから、きちんと答えなければ父に悪いと思った。だが、父はそんなことは一向に気にする風もなく、相変わらずにこにことしてそこに立ったままである。
 生前、私に冷たかった父。私を疎んじているとさえ思われたあの父が今日、このマンションの新しい一室で、何のわだかまりもなく私を受け入れているのである。
 居間に戻ると、そこには母と妹がいた。
 ――今夜は何か作ろうか。それとも、みんなでどこかへ食事に行く?
 母は私に尋ねた。
 ――どちらでもいいわ。
 私は明るくそう答えると、夫と二人でしばらく外へ散歩に出ることにした。二人は、最寄りの駅から電車に乗った。電車が走り始めるとすぐに、車窓からは満開の桜の花が見渡せた。濃い紅色の八重桜もあれば、薄紅のソメイヨシノもある。枝垂桜も咲いている。ありとあらゆる桜が、一度に咲いている感じである。
 ――もう五月なのに、東京ではまだ桜が咲いているのね。
 私は夫に言った。夫は無口であった。ただ穏やかな表情で、車窓の風景に見入っていた。
 ――あんまり遠くへは行かないでね。お母さんが一緒に食事をしようと言っているんだから。
 私の言葉に、夫は降りる支度をし始めた。やがて電車は止まった。だが、そこは駅ではなく、木々の緑豊かな公園であった。私と夫は連れ立って電車を降りた。久しぶりに父を交えた家族と一緒に食事をする、その楽しい夕べを思いながら、私は緑の草いきれの中に幸福な思いで立っていた。

 第6夜☆毬藻(まりも)

 それは夢とも現実ともつかぬ、遠い昔の記憶である。ある日の夕暮れ時、私は母に連れられて街へ出かけた。母が何かの用事を済ませた後、私たちはいつも見慣れた玩具屋の前を通りかかった。
 ――何か買ってあげようか。
 思いがけず母はそう言うと、店の中へ私を連れて入った。中へ入るのは、それが初めてだった。店の中は多少薄暗く、それでいて透明な水の中のように淡い光が揺らめいているように思えた。
 私は店の片隅に、小さな丸いものを見つけた。スポンジでできた黄緑色のボールであった。
 ――毬藻だ。と私は思った。なぜ毬藻だと思ったのだろうか、毬藻を知っていたはずはないのに。北海道ともアイヌの伝説とも無縁な、幼い子供であった私である。
 だが、それは確かに毬藻であった。私にはそのスポンジのボールが無性に愛しく感じられ、思わず両手で拾い上げていた。
 私はボールを持ったまま、後ろを振り返った。そこには、もうすっかり日が落ちて暗くなった街の景色が、玩具屋の透明な窓ガラス越しに見えていた。黄緑色の明かりを灯した一台のバスが、店のすぐ前の道を通り過ぎて行った。
 すべてが、水の中から見る風景だった。深い透明な水底(みなそこ)で小さな毬藻と一緒に、私は濡れた黄緑色の明かりが目の前を走り去るのを見たのだ。

 三十年前に暮らしていた団地の子供部屋で、幼い私は確かに、黄緑色のスポンジのボールで遊んでいたことがある。だが、そのボールと初めて出会った時の私の記憶が夢なのか現実であるのかは、ついに分からずじまいであった。それがいつから、どうして我が家にあったものか、不思議なことにその当時既に、家族の誰も覚えていなかったからである。
 ただ、後年こんなことがあった。ある深夜、携帯用のラジオを持ち出してそのチューナーを暗がりの中で探していた時、私はふと、ラジオに付いている蛍光の明かりを灯してみた。闇の中に黄緑色の小さな光が点滅したその瞬間、昔毬藻を見つけた玩具屋の濡れた窓から見たバスの明かりのことが、不意に心の中に甦った。すると、深い湖の底に沈んだ小さな毬藻の悲しみが私の中に押し寄せて来て、今は幻と化した遠い記憶を澄んだ哀愁で濡らしたのである。

 第7夜☆猊(げい)

 漢の武帝は西方に天馬を求めた。将軍李広利は大宛(フェルガナ)に遠征して、その地の天馬を多く持ち帰った。天馬に続いて、西方からは様々な珍奇の品が中国にもたらされるようになった。その中の一つに「猊」という珍獣もいた、と中国の古い史書は記している。

 私は仲間と一緒に砂漠の道を歩いていた。学生時代に、ともに中国・西域の歴史を学んでいた仲間たちであった。彼らを信頼してよいものかどうか、私は迷っていた。かつて思想において対立し、私と袂を分かったことがあったからである。彼らは今も、理想ではなく現実を、過去ではなく現在を見つめ続けているに違いない。
 砂漠の彼方に、一列の隊商が現われた。隊商は少しずつ、私たちの方へ近づいて来た。すぐ近くまで来た時、私はそれが隊商ではなく、獣の群れであることを知った。獣の先頭には、黒いたてがみを振り乱した大きな頭の猛獣がいる。
 ――猊だ!
 誰かが叫んだ。私たちは皆身を固くして、獣たちの行き過ぎるのを待った。猊の後には、様々な西域の珍獣が続いた。狛犬が駆け、グリフィンが空を飛翔した。駱駝の背には、赤い琥珀で彩られた五弦の琵琶が架けられている。葡萄や西瓜や綿の実を積んだ駱駝もあった。
 獣たちの後には、金髪碧眼の西方の人々が楽の音を奏でながら艶やかに舞い踊った。その中には、蓮の花を差した水瓶を持った女神アナーヒターが、宝冠を与えられ今まさに観音菩薩へと変化(へんげ)している様もあった。
 私は、彼らが通り過ぎ、やがて東の彼方へ遠去かって行く後ろ姿をじっと見守っていた。本当だったのだ。西方より東方へ、こうして文明が伝えられていく様を、私は今この目で確かに見届けたのだから。
 ふと気付くと、かつての仲間たちはもう私の周りにいなかった。ただ茫漠とした砂の海が、うねりながらどこまでも続いているばかりであった。東方へ帰ろう、と私は思った。遙かな時を経て西方の文物がその最後の住処(すみか)と定めた、あの懐かしい私の国へ――。孤独も迷いもなかった。一切の過去を許す癒された思いで、私は東方への帰路についたのである。

 第8夜☆宝石の国

 その古い宝石箱は、母が若い時分から持っていた物であった。幼い頃私はそれを見る度に、何か不思議な憧憬に心を惹かれるのを覚えた。細かな木目のある長方形の蓋のちょうど真ん中には、青く透明な小さい宝石がひとつ嵌め込まれていた。その青い石の放つ控えめな輝きは、まるで遠い中世の世界へと私を誘(いざな)っているかのように思われた。昔、どこかの国の古い城にでも置き忘れられた宝石が、様々な運命の手を経て、今この宝石箱に辿り着いたのに違いないと、そんな空想を私は楽しんだものである。
 蓋を開けると、そこには更にまた不思議な世界が広がっていた。オルゴールの小さな歯車がゆっくりと複雑に絡み合って、「エリーゼのために」の調べを奏でている。その澄んだ物悲しい音色に聞き入っているうちに、私はいつしか歯車の置かれた小さな箱の中へと引き込まれていくのだった。そこでは、歯車は中世の城の仕掛け時計であった。小太りの時計役人が、せわしなく両手を動かしては巨大な歯車をまわしている。そうして、「エリーゼのために」の美しい調べとともに、城に永遠の時を告げ知らせているのである。
 気が付くと、私は先ほどと同じように宝石箱の中を見つめていた。歯車の隣の箱の中には、ペンダントやイヤリングなどの様々な宝飾品が詰め込まれている。その中の一つに、涙の形をした貝細工のペンダントがあった。貝細工はちょうど親指ほどの大きさで、表はやわらかな乳白色をし、裏側は黒っぽい緑色の光が水の中に流し込まれたように小さくうねりながら鈍い輝きを放っている。遠い昔から永い時を経てそれを手にしてきた人々の、幸福や、あるいは悲しみの記憶が、この小さな貝のペンダントには込められているかのように思われた。ペンダントを握りしめると、そうした幾多の人々の思いが私の心の中にたちまち溢れてきて、私は我を忘れて遠い記憶の彼方へと吸い込まれていったのだった。
 そこは、朝とも夜ともつかぬ薄明の世界であった。青白い霧の立ち込めた宮殿の大広間には着飾った人々が集っていたが、彼らはなぜか皆影法師のように揺らめいていて、その顔形は定かではなかった。ただ、時折白い大理石の柱の影に隠れたり、また姿を現したりしては、ひそひそと冷たく澄んだ声で何かを語り合っていた。
 中央の玉座には、青い宝石が置かれていた。それは透き通った悲しい光を放つ宝石であった。
 ――今夜、王子様が未来のお妃を決められるのですわ。
 女の声が言った。
 ――オパール候の姫君が最もふさわしかろう。
 老人のしわがれた声が囁いた。
 ――いいえ、殿下のお目当ては・・・。
 再び女の声が言った時、広間の奥から一人の青年が現われた。青年は黒いドレスを着た娘の手を引きながら、青い宝石の置かれている玉座へと向かった。やがて玉座の前に立つと、青年は言った。
 ――夜光貝の主(あるじ)の娘を我が妻に。
 ――いいえ。
 と冷たく澄んだ声で娘は言った。
 ――わたくしを海へ帰して下さいまし。
 王子は黙っていた。すると、娘は凛とした瞳で王子を見据えたまま叫んだ。
 ――わたくしは所詮、囚われの身の上。殿下に愛されることよりも、海の族としての誇りを選びますわ!
広間に集う人々はざわめいた。
 ――無礼者めが!
 ――夜光貝の娘を捕らえよ!
 その瞬間、娘は王子の手を振り切って駆け出していた。玉座の端に黒いドレスの裾が絡まって、黒く光る布地が小さく裂けた。衛兵が娘を追おうとした時は、彼女は既に広間を去った後であった。娘が私の目の前を駆け抜ける時、かすかに海の香りが漂った。
 王子は青い宝石の玉座の前に呆然と立ち尽くしていた。その王子の傍らに、白いドレスの娘が悲しそうに歩み寄った。
 ――わたくしでは・・・、わたくしではいけませんの?
 オパール候の姫君であった。王子はやさしく姫の手を取った。そして、二人は静かに青い宝石の玉座を離れ、広間の奥へと姿を消した。

 ふと気が付くと、私は一人でぼんやりと宝石箱を見つめていた。箱の中には色褪せた古いオパールのブローチと、貝細工のペンダントとが並んで置かれていた。私はペンダントを手に取ってみた。今までは気が付かなかったのであるが、裏側の黒い部分の一番下の端が、わずかに欠けているのがこの時分かった。私はペンダントを高々と光に向けてかざしてみた。緑がかった黒いうねりが光の中で鈍くきらめいた時、かすかに、海の香りがしたような気がした。

 第9夜☆ロリーザ

 
私の故郷の町に、ある老舗の和菓子屋があった。昔、ある高名な版画家がその店の饅頭を気に入り、それが縁となって、以来その版画家の絵が饅頭の包み紙に使われていた。子供の頃、私は饅頭にも、その版画家の荒削りな絵にも、特に興味を持つことはなかった。ただ、その和菓子屋が売り出したばかりの洋菓子の広告の看板には、ある不思議な魅力が感じられた。
 洋菓子の名は「ロリーザ」といった。そして看板には、洋菓子の名とともに一つの魅惑的な絵が描かれていたのだった。
 それは、花を摘む娘の絵であった。花咲く野原で軽やかに爪先立つ娘は、大きな頭巾のようなものを被り、膝丈のドレスの上からは装飾的なエプロンを纏っている。絵と言っても、目鼻立ちの描かれたはっきりとした分かりやすい絵ではない。娘の目鼻は描かれていないし、顔の輪郭も、手足の線も、花々も頭巾やドレスも、みな糸のように儚い線で表されているに過ぎなかった。だが、私にはその絵のそうしたところが、なぜか大きな魅力として感じられた。それはあたかも、遠い昔に知っていたはずのある集合的な記憶を呼び覚ます、不思議な力を持っているように思われたからである。
 私はある時母に頼んで、その洋菓子を一つ買ってもらった。洋菓子は、丸いスポンジケーキが上下に合わさり、中にバタークリームの挟まれた優雅な味のするものであった。だが、洋菓子そのもの以上に心を惹かれたのは、それを包んでいる包み紙だった。そこにはあの看板にあった花を摘む娘の絵が、少しずつ違ったポーズで幾つも描かれていたからである。
 澄まして立っているもの、軽やかに駆けているもの、野に座り込んで花を摘んでいるもの――。目鼻を持たない、糸のような手足の娘たちは、私の遠い記憶の中のどこか知らない野原に遊んでいた。針葉樹の谷間の雪が解けて遅い春が訪れると、野には一斉に色とりどりの花々が咲き乱れる。娘たちは花籠を持って、待ちかねたように野原へ繰り出して行く。
 春の喜び、生きる喜びに満ちた、遠い遠いあの地。あれは一体どこだったのだろう。トラキア――。そんな言葉が幻のように心をよぎる。農耕の民と牧畜の民とが集い、歌と踊りと黄金が駆け抜けた、あの遠い記憶の中の大地は――。

 私は、故郷の町の老舗の和菓子屋の前に立っていた。あの日から四半世紀が過ぎたが、その和菓子屋はまだ、駅前の小さな通りにひっそりと店を構えていた。私は店の中へ足を踏み入れると、すぐに目の合った年配の店員に尋ねてみた。
 ――「ロリーザ」というお菓子は、今でもありますか。
 ――それが、もうないんですよ。
 申し訳なさそうに店員の女は言った。彼女も「ロリーザ」を覚えているようであった。
 ――それは残念ね。私、子供の頃「ロリーザ」が大好きでしたから。
 私はそう言い残して店を出た。夕暮れであった。紫がかった薄暮の降りた故郷の町を、私は忘れ物をした子供のように、何かを探していつまでも彷徨い続けていたのだった。

 第10夜☆大空の彼方

 夜半、目覚めると天井の上の方で飛行機の音が聞こえていた。戦争が始まったのだな、と私は思った。飛行機は次々に上空を駆け抜けて行った。轟音が絶え間なく、頭の上を通り過ぎた。
 私は布団から起き出して、二階の窓を開けた。そこには真昼の空があった。その明るい空を、遠くから一機の戦闘機がこちらへ向かって来るのが見えた。やがて戦闘機はすぐ間近まで来ると、私のいる窓辺をすれすれに掠めた。瞬間、操縦桿を握る一人の兵士と目が合った。兵士は、ただじっと私の目を見ていた。凛とした、だがどこか悲しげな瞳であった。戦闘機は轟音を立てながら瞬く間に過ぎ去り、やがて空の彼方へと小さく消えていった。
 もし、彼が生き長らえたのならば――。と私は思った。彼は必ずや今日のこの瞬間のことを、どこかで思い出すことであろう。人との交わりを絶ち、冷たい重機の中に一人身を置いて、命を賭けた戦いへ赴く正にその最後の時に、ほんの一瞬でも私と心を通わせたことが、彼に生きる希望を与えたのであれば――。
 私は、戦闘機が消えていった遠い空の彼方をいつまでも見つめていた。穏やかな喜びとかすかな悲しみの情に満たされ、私は大空へ吸い込まれていった兵士の澄んだ瞳を心に深く刻んだ。

                           <新☆夢十夜 完>



作品名:新☆夢十夜
作者:指月紀美子
copyright : 2012, 2024 sigetu kimiko
入力:マリネンコ文学の城
Up : 2024.6