カイメラ氏の英雄詩講座


第6回 ロランの歌

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 ロランの歌

 ヨーロッパ中世の社会・経済的基盤を大きく決定した民族大移動の混沌とした坩堝の中から、ヨーロッパ中央部の統一的王朝として、フランク族のフランク王国が現われてきます。これは最大時で今日のドイツ、フランス、イタリアにまたがる、ゲルマン諸部族の複合的な国家でありましたが、その版図の最大の拡張を行ったのが文武にひいでたシャルルマーニュ(大シャルルの意、ドイツ語カール、英語チャールズ、在位768−814)でありました。シャルルマーニュは800年には教皇庁より西ローマ皇帝の冠を授けられ、東ローマに対抗する軍事的、政治的象徴となります。これは同時にヨーロッパの精神的盟主としての教皇と、世俗的な権力者としての皇帝(君主)という、以後の中世史のメインテーマである二重の統治関係、利害の対立の出発点でもあります。この世俗と宗教との権力の二重構造は、中世人の精神構造に深く反映していくのですが、それをもっとも具体的に知ることが出来るのが中世の騎士文学、そしてここで見ようとしている<ロランの歌>であると言えるでしょう。
 さて、シャルルマーニュが各地に転戦し、剣の力でキリスト教を“蛮族”に押しつけていた頃より二世紀ほど前に、はるか南のアラビアでは、同じ一神教に立つ新しい宗教が勃興していました。一預言者の告げたこの砂漠の宗教は、乾いた砂にしみこむ驟雨のように、アラビア一帯に、ペルシャに、小アジアに、さらに西はエジプトへと広まってゆきました。711年には、この“異教徒”の群はジブラルタル海峡をこえてスペインへ渡り、西ゴート族を打ち破ったのち、イベリア半島に回教国を樹立したのでありました。以来回教(イスラム)スペインは、ヨーロッパ中世の相対的な暗黒の中で、絢爛たる文化を花開かせ、1492年グラナダが陥落し、回教勢力が欧州から一掃されるまでの八世紀にわたり、ユニークな存在を維持したのです。
 778年シャルルマーニュは回教スペインに兵を進めています。現在のフランス、スペインの国境をなしているピレネー山脈を越え、エブロ川の対岸にあるサラゴスまで進軍し、包囲しましたが、陥落させるに至らず、他方面の急時に兵をとって返し、再度ピレネーの峠を越えた時でありました。潜んでいたバスクの兵がしんがりの一隊を襲い、殲滅し、略奪したのでありました(背信とされますが、フランク軍の国土破壊に対する報復であったでしょう)。襲撃隊は宵闇にまぎれて逃走し、「今日までこの惨事は報復されるに至らなかった。敵は事後てんでに散らばり、どこを探してよいのか、見当がつかなかったので」(アインハルト「カール伝」)。戦死者の中には家令エギンハルト、宮廷伯アンセルム、ブルターニュの辺境伯(長官)ロランの名が挙げられています。
 この歴史上のエピソードが、フランス中世武勲詩の最高傑作である〈ロランの歌〉のもとをなす、いわば伝承という小麦粉を膨らませるパン種でありました。この事件をアインハルトが記述する以上に大きなダメージであったとする説もあります。すなわち内外の政略上の配慮から、控え目な記録を残したというのです。いずれにせよ、シャルルマーニュは死後“聖王”として伝説の衣につつまれてゆきます。
 アーサー王と円卓の騎士がそうであるように、彼の回りにはすぐれた武者たちが配されます。いわゆる“十二臣(ペール)”(十二使徒になぞらえる)です。アーサー王と円卓の騎士の流行には及びませんでしたが、彼らとシャルルマーニュは中世ロマンスの主人公として愛好されるのです。〈ロランの歌〉はもちろんこの伝説化した人物たちをめぐる作品のサイクルに属するわけですが、いわゆるロマンス(騎士道恋愛物語ロマン・クルトワ)とは一線を劃する叙事文学です。武勲詩(シャンソン・ドゥ・ジェスト)と呼ばれているように、内容は徹頭徹尾、戦闘をめぐる物語であり、「この詩ほど真実、兵士の歌と呼ばれるに相応しいものはない」(小泉八雲)と評されます。
 しかしながら〈ロランの歌〉が単に武勲の詩ではないことは、最初の詩節を読んだだけで、すぐに明らかになります。

 われらの大帝シャルル王は、
 まる七年、スペインにありて、
 高き土地を海まで征せり。
 彼の前に支え得る城はなく、
 城壁、城市、打ち毀(こぼ)つべきは残らず。
 ただサラゴスのみは、山上にありて、
 マルシル王これを領す。彼、神を愛せず。
 マホメに仕え、アポランに頼る。
 わざわい、彼を襲わざるを得ず。
    ――A01.有永弘人訳

 今日残されている〈ロランの歌〉の成立時期は、確かなことは分からないようですが、だいたい十一世紀から十二世紀にかけての頃と考えられています。これは中世ヨーロッパにとっては大変興味深い時期です。フランク王国が基礎を築いた経済、社会、政治面での封建体制が確立し、また様々な内部矛盾から動揺している時代であり、その象徴的事件としての第一回十字軍が派遣されたのは1096年でした。そういう背景をふまえて<ロランの歌>を見るとき、出来事や人物などのアナクロニズムはさておき、ある特定の意図を持った構想のもとに展開される物語の中に、単なる武勇や忠誠やの讃美ばかりでなく、キリスト教の神を“愛さない”異教徒に対する象徴的な“聖戦”が描かれており、また封建体制と神権支配という相互補完的なヨーロッパ中世の本質が、“時代のエポス”となって現われているのを見ることができます。
 さらに言えば、時代の支配的、宗教的イデオロギーが叙事詩に与える悪しき影響と、叙事詩本来の視野の広い客観精神とが、ここでは格闘しています。詩人は本来の叙事詩人である時には、時代の設定する桎梏を超えようとします。精神が広がろうとする矢先に、不吉なイデオロギーの影が詩人の目蓋をおおい、言葉は歪められてしまいます。つねに共同体の文学であろうとする叙事詩が、その共同体の籠の鳥として捕えられる時に、自由な批評精神であるべき叙事詩は、その社会の憎悪、偏見、狂気のマウスピース(音頭とり)となる危険にたえずさらされています。〈ロランの歌〉は現代のわれわれに、そういう危険性をもっとも素朴(ナイーヴ)な姿でさらしているために、叙事詩論にとっては大変興味深い事例(ケーススタディ)となるでしょう。以下、物語の筋を追いながら、この点を考察してゆきます。

 *    *    *

 物語は伝説と史実がないまざって、この種の伝承に基づく作品につきものの(作者は“年代記”を引き合いに出してはいるものの)、時代的混同が見られるのですが、それらは時には詩人によって故意になされる場合もあるでしょう。シャルルマーニュは二百歳を越す白髪白髯の老王であります。

 彼いとも年老いて、齢衰えたらん。
 二百歳を超えたりと、われは愚考す。
 休む暇なく数多の国々駈けめぐり、
 幾度(いくたび)も、かの丸鋲打ちし楯に、剣受けとめ、
 幾人(いくたり)も、権勢ある王らを乞食(こつじき)の身におとしめき。

 御老体は二百歳にしてなお征服欲盛んで、物語の始まった時には、すでに七年もの間、異教徒を追ってスペインを転戦していました。サラゴスの王マルシルは、未だ乞食の境涯におとされずにいた一人でしたが、ある日廷臣たちを集めて、謀りごとをめぐらせました。

 うまし国フランスのシャルル帝、
 この地に攻め入りわれらを滅ぼさんとす。
 戦挑まん軍勢、われになく、
 かの軍を破るべき手兵またなし。

 何とかならないものかと“異教徒”らにはかると、こよなき賢者のブランカンドラン、武勇、忠誠をもってなるまことの騎士が、主君を扶ける知恵をさずけます。傲慢不遜のシャルルに、忠誠と友情のふりを示しなされ、熊、獅子、猟犬、駱駝七百頭、蒼鷹千羽、金銀積んだ騾馬四百頭、軍車五十両を贈り物にし、彼の傭兵の給料にあてるようにと、機嫌をとりなさい。その代わり、フランスはエクス(今の西独アーヘン)の宮殿にお帰り願い、聖ミッシェルの祭日には追って見参し、キリストの法(のり)に服しましょうと告げ、人質を求められたなら、十人でも、二十人でも送り、たとえ人質が殺されても、お国の名誉と財産を失うよりはましでしょう。王は賢者の言をもっともと思い、さっそく使者にオリーブの枝を持たせて、シャルルの陣営へ赴かせます。
 その頃シャルルは、陥落させたコルドルの果樹園でくつろいでいました。そこへブランカンドランほか十名の使者が到着し、マルシル王の恭順を伝えます。(*注)シャルルは諸侯を集めて、マルシルの申し出を評定にかけます。ロラン伯、オリヴィエはじめ十二臣将、“かの謀反を行ないし”ガヌロンほか千名を超えるフランス勢を前にして、“かくてぞ、禍招きし評定は始まりぬ”。

(*注)マルシルはシャルルに臣従の礼をとり、改めてスペイン領を慈悲により封土として賜わることを願い出る。これは封建制の建前である。

 シャルルの諮問に応えて、まずロランすっくと立ち、“マルシルを信ぜんか、禍あらん!”マルシルがこのようなことを言ってきたのは、今に始まったことではない。前にも十五人の使者がやってきて、同じことを言ったが、その時遣わした二人の使者、バザンとバジルは、山中で打ち首にあったではないか。たとえ一生かかってもサラゴスを攻め落とし、両人の仇は討たねばならない。こう血気にはやったロランが言い終わりますと、皇帝は黙って白髯(ほおひげ)、白髭(くちひげ)をしごいたり、ひねったり、甥の性急な言葉には答えませんでした。次に、ロランの義父のガヌロンすっくと立ち、“不届者を信ぜんか、禍あるべし。”このような暴言を吐く者を信じてはいけない。せっかくマルシルが手を合わせて、皇帝の臣下にしてくれといっているのに、それに故障をいれる者は、私らがどんな死に目にあおうとも、一向に気にならないのであろう。狂人の言うことは真に受けずに、賢い人の言に従われるがよい。
 すると、宮廷でこれほどの義人はおるまいと言われるネーム公、ガヌロン伯の言うことには道理がある、マルシル王は皇帝にさんざんたたかれ、いま戦意を喪失して憐れみをこうてきているのだから、それを拒めば罪になろう。人質も寄こすと言うのだし、これ以上戦を続けることはありますまい。フランス勢は賛同して口々に言います。“公の言やよきかな。”
 そこで話は決まり、サラゴスへ遣(おく)る使者の人選に議題は移ります。まずネーム公が名乗りをあげると、シャルルはマルシルの意を危ぶんだのでしょう、お気に入りの賢者を虎穴に送る気にはならず、拒否権を発動します。次にロランが名乗りでます。“われこそまさに、行き得るなれ。”すると竹馬の友のオリヴィエが、だめだよ、お前は気が荒いし、肝も太い、きっとあちらで喧嘩をおっぱじめるだろう。おれこそが適任者だ。しかし王はどちらをも送る気にならず、“汝ら眺むるこの真白き髯にかけて、十二臣将の一をわれに名指すものに禍あれ。”
 こう言われては、皆は黙りこむほかありません。ランスの大司教のチュルパン、これは弁慶のようなつわ者で、名乗りをあげましたが、これもシャルルのお気に入りとみえて、不興顔であります。するとその時、何を思ったかロラン、義父のガヌロンの名を挙げます。ガヌロンよほどの嫌われ者とみえて、フランス兵こぞって賛成します。王も喜び、“ガヌロンよ、近うまいれ。この棒と手袋(任命の証)を受けよ。”ガヌロン激怒して、“そはみな、ロランの仕業なり!わが生ある限り、われ彼を愛せじ。”オリヴィエも十二臣将も、みなぐるになっておれを危地に陥しいれようとしている。帝の前だが、いまこの場で彼らに挑戦する!
 帝言う。そう怒ることもあるまい、わしが命じるのだから。ガヌロン言う。使者の務めは少しも厭わない。ただ生きて帰る保証がないのだから、あとに残す妻(シャルルの妹である)と息子が気がかりだ。息子に領地が譲られるよう、よくあれの面倒を見てやってもらいたい。再び会えるとは限らないのだから。シャルル答えて、お前にも案外情があるとみえる。わしの命じゃ、行くがよい。
 王の命にガヌロンもそむく気はありませんが、ただ何としても自分を陥しいれたロランとその一党に対して、腹の中が煮えくり返る思いでした。“たわけ奴が!われなんじの義父たるは、人よく知るところ。それをマルシルの許へ行けとは、よくも決めたり。”神助によって無事帰還したら、このうらみ晴らすまいでか。ロラン答えて、これはまた傲慢な言い草、そんなおどかしで首のちぢむやつがれではござらん。なんなら、おれが代わってやってもいいんだぜ。ガヌロン応じて、わしの家臣でもないのに、でしゃばった口を利くな。シャルルはこの役目をわしにおおせつかったのだ。だが、かの地でいささか腹いせをいたす仕儀となりそうだな。これを聞いて、何を思ったかロラン、からからと笑いだした。

 ガヌロン、ロランに笑殺さるを見るや、
 痛憤やる方なく、怒気に胸を裂かるる思い、
 間一髪にて気も狂わんとす。

 この気の狂うほどの憤怒をいだいて、ガヌロンはサラゴスへと、マルシルの使者たちと共に出立するのですが、彼の胸にはすでにある復讐の計画がきざしていました。ガヌロンとロランの反目の原因については、作者ははっきりしたことを語りません。一つには水と油のような性格の相違があるでしょう。ロランは大衆好みの、単純な豪傑肌の男で、なにやら屈折した心理の持ち主のガヌロンとは、義父の間柄とされますが、まずかみ合わない両タイプです。このドラマを展開させるには、うってつけの二人であります。詩人は始めからガヌロンを裏切り者としての立場で見ているわけですが、裏切りの原因を心理的に説明しようという、いささか単純な“怒り”のパターンではありますが、ホメロスのイリアスに通じる姿勢をもまた示しています。アガメムノンとアキレス、頼朝と義経、の関係のように、たいていの英雄の宿命的な鈍感さと、無神経な悪意が悲劇をもたらします。
 さてガヌロンは供も連れず単身サラゴスへのりこみます。途上ブランカンドランと腹を探りあううちに、お互いロランを倒そうという意気において投合し、ついに協力しあうことを約すのです。マルシル王はガヌロンの口より聞く、シャルルの傲慢な姿勢に腹をたて、ガヌロンを討とうとしますが、ブランカンドランにとりなされ、ガヌロンの裏切りの計画に耳をかします。“親愛なるガヌロン殿よ、いかにせば、ロランを殺すを得ん?”

 そのことなら断言致すを得。
 王はシーズ峠のさ中に入らん。
 あとには殿軍(しんがり)を残さん。
 そこに甥の、権力者ロラン伯とどまらん。
 また、ロランの信頼厚きオリヴィエも。
 これに従うは、フランス勢二万なるべし。

 マルシル王十万の兵をおくり、まず第一線を戦わせ、これでかたがつかなければ第二陣をくりだす。いかに勇猛なロラン伯とはいえ、衆寡敵せず、必ずや命を落とすであろう。ロランさえ死ねば(大将が死ねば兵にはもはや戦う義務はない)、シャルルはその片腕を失い、もはやその軍勢も無用の長物と化そう。マルシルは喜んでガヌロンのうなじに接吻し、異教徒らは数々の贈り物を彼に与えます。
 さて、シャルルの陣営に戻ったガヌロンは、うまく取りつくろった答弁をして、王を信用させましたので、フランス軍はいよいよスペインより総撤退することになりました。ピレネー山脈にさしかかった時、シャルルは諸侯・諸将を見まわし、言います。“見よ、かしこの峠、狭き隘路を。われのために殿軍守る者を選び出せ。”
 ガヌロン、ロランを推薦する。王はガヌロンを睨み、お前は悪魔の化身だな。身内に不倶戴天の恨みをいだくとは、もってのほか。(同じことは、前にガヌロンを推薦したロランにも当てはまるはずですが!)挑発されて黙っているロランではありません。親愛なる義父上、しんがりのご指名かたじけない。このつとめあい果し、シャルルの荷馬も駄馬も、何一つ失うことなからん、と。これは帝の手前でした。義父に向かっては、このごろつきめ、いやしい悪党め、お前のように手袋をとり落とすおれ様ではないぞ(サラゴスへ立つ前のエピソード)。
 シャルルは不承不承証(しるし)の弓をロランに与え、殿を任せます。ロランしんがりにつくと聞いて、戦友オリヴィエ、ジェラン、ジェリエ、オトン、ベランジェ、アストール、アンセイス、ジェラール、ゲフィエ、大司教チュルパン、ゴーチェ伯ら、不運の武将らも馳せ参じます。さて、ロランはじめ十二臣将の率いる二万の兵を、スペインはロンスヴォーの原に残して、フランス軍主力は去ってゆくのであります。

 山は高く、谷は暗し。
 岩は黒ずみ、峡道すさまじ。
 その日フランス勢、困苦重ねて通り過ぎたり。
 そのざわめき、十五里の彼方より聞こえぬ。

 その頃マルシルは、スペイン全土より、伯爵、子爵、公爵、州長、都督、隊長の息ら、四十万の将兵を三日にして集めおわりました。太鼓うち鳴らし、マホメットに戦捷を祈り、やがて一同先を争い、馬を駆って、谷また山を越え、十二臣将の率いる、フランス後衛軍の吹き流しの見えるところまで来ると、マルシルの甥、笑みを浮かべて伯父に言います。

 われ、この利き矛をもて、ロランを屠らん。
 マホメわれを護り給う御意あらば、
 われスペイン全土の領地みな救い出ださん、
 スペインの峠よりデュレスタンに至るまで。

 マルシル王、感激して甥に手袋をあたえる。甥の呼びかけに応じて、先陣をつとめる十二人の武将が馳せ参じます。マルシルの弟ファルサロン、コルサリス王、バラグエの都督、モリアーヌの州長(この“極悪人”は、マルシルの前に出て“大法螺”を吹きます)、またトルトローズのチュルジス伯、サラセン人のエスクルミス、また“相共に悪漢にして、悪辣無道の裏切者”であるエストルガンとエストラマリス、また“美男の故に、婦女らこれに懇(ねんご)ろなる”セヴィリヤのマルガリス、また“太陽は照らず、麦また育たず、雨も降らず、露も地におかず。石という石、真黒ならざるはなし。悪魔どもの住む所”からやってきた頭髪おどろのシェルニブル。
 スペイン勢はサラセン式の鎖鎧(くさりよろい)を身につけ、サラゴス製の極上の兜をかぶり、ヴィエンヌ産の刃金(はがね)の剣を佩き、ヴァレンシア産の矛を持ち、白、青、赤の吹き流しをたなびかせ、軍馬にまたがり、密集して進軍します。

 天日(てんじつ)明るく、陽光うるわし。
 燦然と光り輝かぬ武具はなし。
 一段と景気つけんがため、喇叭千本吹き鳴らす。
 響きは高く、フランス勢、これを聞きたり。

 ホメロス風スペイン軍カタローグ(紹介)の場面ですが、マルシルの甥の言葉を除けば、つづく部分はホメロス的な品位を失ってゆきます。マルシルの甥の言葉では、ヘクトルがギリシャ勢を呪ったように、この戦がスペインの“解放戦争”であることを告げているわけですが、つづく武将の“大法螺”では、たちまちこの高貴な目標を失わしめています。ホメロスのギリシャ勢とトロイ勢の客観的な描写が、ここでは奇蹟のように思い返されることでしょう。ホメロスはトロイア人にとってギリシャ軍が侵略者であることを、特に隠しだてはしないし、ギリシャ軍の“使命”を美化したりはしません。善悪の判断は、両陣営を超越した“宿命”に委ねているのです。そのノンコミッタル(不関与)な態度が、かえってトロイの悲劇をいやが上にも増すことになります。このバランスの取れた精神こそが、本来の“エポス”であるとするならば、ロランの歌の詩人は、時にその叙事(エポス)精神を心得ていると思わせる個所はあるにしても、全体に構成上のバランスを取るために、それをやっているという印象を免れません。
 シャルルの十二臣将にならって、王の甥を始め十二人を並べてみたり、そもそも詩人は“対”の観念にとりつかれている所があるのですが、これも正と邪を色分けするのに都合のよい対照の道具として用いられがちです。詩人の言葉を意識、無意識に歪めているのは、言うまでもなく宗教上の不寛容な精神的ヘゲモニーの対立ですが、また後世において顕著なナショナリズムの表現が現われていることも注意されます。これは民族的なそれというよりも、国家=君主の絶対王政的なナショナリズムの萌芽と言えるかもしれません。

 さて、異教徒勢のラッパの音を聞きつけて、オリヴィエは半ば予期していたように、“戦友の君よ、サラセン勢と一戦を交えることと相成らん。”ロラン答えて、“神よ、その戦をこそ賜われかし!われら王のため、ここに踏み止まるべきなり。各々方よ、心せよ、思う存分に討ちまくれ。噂に上り、汚らわしき歌に歌われてはならじ。異境の徒にこそ邪はあれ、キリスト教徒にぞ正はある。”
 オリヴィエは小高い丘に登って偵察し、敵の大軍を見、勝算のないのを見てとります。急ぎ駆け戻り、ロランに角笛オリファン吹き鳴らし、シャルルの軍を呼び戻すよう迫るのですが、血気にはやるロラン伯、

 そは、たわけ者のふるまいぞ!
 われ、うまし国フランスに、わが名声を失なわん。
 むしろこのまま、デュランダル[剣の名]もて大いに戦わん。
 焼刃は柄の黄金まで、血ぬられん。

 ふらちな異教徒ども、飛んで火にいる夏の虫、皆殺しにしてくれようという、あたるべからざる鼻息に、賢いオリヴィエは、ただ勇ましいだけのロランを説得できません。そうこうするうちに、異教徒の“不埒者”どもは、猛然として馬を進めてきます。ここに大司教、小高い丘に登り、兵たちに最後の説教をたれます。“諸将諸侯よ、われらの王のため、われらまさに死すべし。キリスト教の擁護に力を貸したまえ。戦は起こらん。胸叩きて罪を謝し、神に慈悲を乞い給え。われ諸侯の霊の救かりのため、罪障消滅を宣せん。諸侯死なば、聖なる殉教者の列に加えられ、いと高き天国に座を与えられん。”

 大司教は“痛恨の業”として、兵たちに戦うことを命じるわけです。兵たちは罪深い人間なのだから、せめて王のため、神の義のため、命を落として、罪障消滅をいたそうではないか。死んで天国に殉教者として招かれる喜びを思いなされ。これは当時の十字軍の勧誘と同じような趣旨のものなのでしょう。ここでは君主への忠誠と、神(宗教)への奉仕がセットになっているところが特徴と言えます。
 さて、ロラン、オリヴィエらの諸将、シャルルの勝鬨“モンジョワ”をあげつつ、一番乗りを念じ、力つくして拍車を入れ、斬りまくらんと突進する。サラセン勢、またいささかも臆する色なく、いまや両軍ここに相まみえる。マルシルの甥アエルロート、伯父に誓った一番乗り果そうと、真先に馬を進め、フランス勢を口汚く罵るには、

 悪逆無道のフランス勢よ、今日しも、わが軍と立ち向かえ。
 汝等を護るべかりし者、汝等を裏切りたるよ。
 峠に汝等を残しし王こそ、たわけ者なれ。
 今日のうちにも、うまし国フランスはその名声を失なわん。

 ロランこれを聞いて激怒し、拍車を入れて全速力で駆けつけ、渾身の力をこめて矛の一撃を加える。楯を打ち割り、鎖鎧を破り、胸を切り裂き、骨を砕き、背骨ことごとく背より切り離した。魂矛の先に飛び、長柄いっぱいに刺し貫いた胴を揺さぶり、馬より落とせば、うなじは半々に割れてしまった。ここにアエルロートあえなく果て、ロラン屍に向かい、

 下がれ!ごろつきめ!シャルルはたわけ者ならず。
 うまし国フランス、今日しも、名声失なうことはなし。
 フランス勢よ、打ちまくれ。初めの一撃、われらのものなり!
 われらに正義あり。邪はこの極道者共にあり。

 勢いづいたフランス勢の前に、マルシル王の弟“天が下にこれより悪しき奸漢はなき”ファルサロン、オリヴィエの矛に仕止められ、異国人コルサブリス、チュルパン大司教の“大業物(おおわざもの)”の貫く所となり、ブリガルのマルプリムス、ジェランに討たれ、その霊魂“サタン持ち去り行きぬ”。ジェランの戦友ジェリエ、都督を血祭りにあげ、公爵サンソン、州長の心臓、肝臓、肺臓を突き破る。アンセイス、トルトローズのチュルジスを討ち、ボルドーのアンジェリエは、ヴァルテルヌのエスクルミスを鞍より打ち落とし、その“神罰受くる体たらく”を嘲った。オトン、異教徒エストルガンを、ベランジェ、アストラマリスを討ち、さてスペイン側十二臣将の十人討ち果たされ、残る二人はシェルニュブルとマルガリス伯であった。美男にして力持ちのマルガリス、オリヴィエを討たんものと身軽く拍車入れ、純金の丸鋲の下目がけて矛を出せば、楯は真っ二つ、あなやと思われたが、肋骨をかすめ、神オリヴィエを護りたまい、長柄折れて“オリヴィエのオの字も”落とせなかった。
 戦闘すさまじく、いまや乱戦となる。ロラン矛の柄を折り、名剣デュランダル抜きはなち、白刃一閃して、シェルニュブルの柘榴石で飾った兜を叩き割り、頭巾、頭髪、両眼、顔を切り、さらには網目細かな白き鎖鎧斬りさげ、股のつけ根まで胴を割き、剣の勢い鞍をも通し、馬の背骨を断ちわって止まった。鞍上鞍下ともに、草茂る野原にどっと倒れ死んだ。ロラン、デュランダルふり回し、斬りこみ、斬りさき、屍の上に屍を積み重ねる。オリヴィエ、十二臣将、われ遅れじと討って出、フランス勢ひたすら討ちまくり、突きまくる。鮮血赤々と野を染め、“モンジョワ”の叫喚(さけび)至るところに挙がる。異教徒勢、討死するもの幾百、幾千となく、十万のうち助かるもの二人とてない。
 とはいえサラセン勢、劣らず烈しく打ちかかり、ある者打てば、他の者防ぎ、多くのフランス兵らまた、長柄折れ、吹流し破れ、旗じるし裂け、その若き命を失う。その時、マルシル王、その大軍を率いて、忽焉と現われる。

 異教徒を倒す段に、詩人の言葉は誇張に走りすぎるきらいはありますが、イリアスの戦闘場面に匹敵する迫力があります。殺伐とした雰囲気の中には、ゲルマンの戦士の伝統が脈打っているのでありましょう。ロランの歌の作者は不詳ですが、いろいろな点から、フランス北部ノルマンディに定着したノルマン人の文学であるとされます。ノルマンディ公ウィリアム(ギョーム)がイギリス征服に乗りだし、1066年ヘイスティングスの合戦でイギリス軍を撃破した時、このロランの歌(今日残されているものとは異なるでしょうが)が戦場で歌われたと言います。ただ北欧人の殺伐とした戦いぶりの中には、武勇と死後の誉れとを第一とし、たとえ倒されてもむやみに敵を呪ったりしない気高さを見せているのに対して、ロランの歌では、これにつけ加わるアクの強さ、熱病的な雰囲気において、いかにも十字軍の時代のキリスト教文学の狂熱をあらわにしています。ヒーローたちも、詩人も、一定の宗教感情で戦闘の中へのめりこんでいます。イリアスの詩人が沈着な眼差で叙述するディオメデスとグラウコスの、ヘクトルとアイアスの、戦場で互いに武具を交換し合った騎士精神と、ロランの歌の不寛容な世界とでは、どれほどかけ離れていることでしょう。

 さて、マルシルの率いる新手の登場に、勝敗の行方は決まります。野原いっぱいに埋めつくしたスペイン軍を見て、フランス兵はロランの名、オリヴィエの名を呼んで、慌てふためきます。大司教チュルパン、浮き足立った将兵に向かって言います。

 諸将諸侯よ、まがごと思いめぐらすことなかれ!
 神かけて、われ願うらくは、諸侯遁れざらんこと、
 義人の一人だに、諸侯のことを汚らわしくも歌にせざらんことなり。
 われら、戦いて死せんことこそ、むしろよし。
 聖なる天国は、諸侯にゆだねられてあり。

 兵ら“モンジョワ”を叫んで気勢をあげましたが、ここにサラセン人クリムボラン、“いささかも義人ならざる”者、ガスコーニュのアンシュリエを討ち果たす。フランス勢叫ぶ。“おお、神よ、かかる義人を!なんたる悲しみぞ!”オリヴィエ、名剣オートクレールふりあげ、異教徒に復讐の一撃を加える。クリムボラン落馬し、その霊“悪魔どもこれを持ち去りぬ”。あらぶるオリヴィエ、なみいるアラビア兵をなで斬りにすれば、ここに異教徒ヴァルダブロン、公爵サンソンを討ち果たし、叫ぶには、“討ちまくれ、異教徒らよ、われら勝つは明らかなれば!”。フランス勢、“ああ神よ、かかる勇士を!何たる悲しみぞ”。怒れるロラン、人馬共に打ち倒し、仇をとるも、アフリカ人マルクイアン、アンセイスの胴に矛の刃も柄もつらぬき通す。大司教チュルパン、かつてミサあげし剃髪者、“汝、わが心中深く悼む者を殺せり”。叫ぶや、異教徒を野の草に打ち倒す。また異教徒グランドワヌ、大力にまかせてジェラン討ち、つづいてその友ジェリエ、ベランジェ、ギーを討ち果たす。さらには、権勢あるオストリー公も、彼に討たれ、異教徒ら大いに歓ぶ。
 忠義にして勇敢、剛健にして高貴な戦士グランドワヌも、次にロランとめぐり合い、たちまちにして怖気づいてしまう。逃げようとするところを、ロラン彼の兜を烈しく打てば、鼻も口も歯も、胴も鞍も馬の背も、一まとめに深々と斬られて果てる。フランス勢の勢いは未だ衰えず、ここに異教徒勢、マルシルの出馬を乞う。マルシル、角笛、ラッパ、吹き鳴らさせ、大軍擁して前進する。フランス勢四たびまでは、戦運彼らに利あったが、五たび目に悪戦また苦戦、ついにただ六十名を残して、みな討死にしてしまいました。ここに至って、ロランはオリヴィエを呼び、

 われ象牙の角笛を吹き鳴らさん
 峠を越えつつあるシャルルは聞かん。

 しかし、オリヴィエはこの度は、頑固に反対します。“そは武勇とはならじ。われそれを言いしとき、君、なしくれざりき。”ロラン答えて、“何故、われに怒り抱くや?”オリヴィエ、

 戦友よ君の所業(しわざ)なり。
 節度こそ、蛮勇にまされ。
 フランス勢の死せるは、君が軽挙のせいなり。

 大司教は、二人の口論を聞いて仲裁します。時機を逸したとはいえ、吹くにこしたことはない。シャルル駆けつけ、われらの仇を討ってくれるだろう。狼や豚や犬に食われないよう、われらの屍を葬ってくれるだろう。そこでロランは、オリファンを口にあて、力いっぱい吹き鳴らします。山は高く、響きは長く、三十里の遠くに達し、王の耳にまで届きます。
 シャルル、“われらの味方、戦を交ゆ!”。ガヌロン、“王の言葉でなかったなら、それはまっかな嘘ですな”。ロラン、ふたたび力の限り角笛を吹く。口中鮮血ほとばしり、こめかみ破れる。シャルル、“たしかにロランの角笛じゃ。あれを吹くのは戦の時と決まっておる”。ガヌロン、“もうろくなさったか、君、奴は傲慢な男、一羽の兎のために、日がな一日、角笛吹き鳴らしかねない痴れ者。断じて戦などではござらん”。三度目に角笛弱々しく鳴った時、もはやシャルルも兵も疑いませんでした。ネーム公、“戦、げに行なわるる。手を拱いて怠ることを君に求むる者、彼(ロラン)を裏切れるなり”。
 シャルル角笛多数吹き鳴らさせ、兵ら馬を下り、武具を着け、互いに語りかけあうには、“われらロランの討死せん前に、彼に会わば、彼と共に大いに打ちまくらん”。かくいうもあだなり。シャルル憤りを発して馬を返し、フランス勢悲しみを抱き、怒りに燃え立ちます。ガヌロン伯はとらえられ、王室料理人ベスゴンに引き渡され、彼の手下三百人、“善きも悪しきも”皆こぶしかため、四回ずつガヌロンを殴ります。顎鬚、口髭引き抜き、棍棒、杖もて存分に打ち据え、頸に鎖をかけ、駄馬に乗せあげました。
 その頃ロラン、山の方、岡の方見渡し、死に横たわる多数のフランス兵を見て、涙します。“フランスの諸将よ、汝等、われのためここに死す!われ汝等を庇い救うことを得ず。”悲壮感に浸ったのもつかの間、ふたたびデュランダル手に、スペイン勢へ斬りこみ、ル・ピュイのファルドロン真二つに裂き、精鋭二十四人なでぎりにすれば、猟犬の前に鹿の逃げ走るように、異教徒ら逃れ、また残りのフランス勢、もはや捕虜となる望みもなく、手負いの獅子さながら暴れまくる。その時、マルシル現われ、ブヴォンを討ち、イヴィワールとイヴォンを倒し、さらにルッションのジュラールを討ち果たします。
 “神、汝を呪わんことを!”ロラン叫び、討って出、マルシルの右手を斬り落し、ついでマルシルの息、金髪のジュルファールの首を飛ばします。異教徒ら、“マホメ、われらを助けよ!われらの神々よ、シャルルに復讐なし給え!この土地に、彼、かかる悪者共を入れたり”、こう叫びつつ、マルシルを先頭に十万の敵は逃れ去ります。ただマルシルの叔父、黒き人々の住む呪われし土地、エチオピアを領するマルガニス、なお踏みとどまり、五万の異教徒勢従え、攻め来ります。“邪はそれ、皇帝(シャルル)にあり。”
 マルガニス、オリヴィエの背中に矛の一撃を加え、“汝ただ一人討ちて、われわが味方の仇を討ちたり”。オリヴィエ、瀕死の重症(いたで)を負いながら、オートクレール金色の兜めがけて打ち下ろせば、マルガニス頭も歯も真二つ。“これでお前の生れ故郷で、びた一文自慢することもできまい。”
 ロラン、オリヴィエの顔を見れば、血の気失せ、影うすく、胴中より、血赤々と地にしたたっています。“神よ、これ以上、どうすればよいのだ。”ロランは馬上に失神します。オリヴィエ、もはや目もかすみ、戦友の馬の近づくのを見て、一撃を加えます。兜を割られたロラン、われに返り、“君、わざとなせるや。”オリヴィエ、“君の姿はみえず。乞う、赦し給えや!”オリヴィエは馬より下り、大地に身を横たえます。ロランは友の死を見とり、悼み嘆きます。
 見渡せば、フランス勢ことごとく討死し、ただ大司教チュルパン、リュムのゴーチェ残るばかり。この三人(たり)、死の“高価なる犠牲”を払わせようと、大軍に斬りこんでゆきます。ロラン、“悲しみ抱き、憤懣やるかたなく”スペイン勢二十人、投げとばし殺し、ゴーチエは六人、チュルパンは五人を屠る。サラセン人千人、馬を下り、遠巻きにして、槍、矛、銛、鏑矢、投げ矢、雨あられとあびせかけます。ゴーチェ初めの数本に倒れ、チュルパン楯を貫かれ、兜くだかれ、頭に重傷を受け、胴中に矛四本突き立ち、馬死に、大司教落馬します。すかさず身を起し、弁慶さながら仁王だって、“われ、負けしにあらず。まことの勇士たるもの、生き身のままに降参はせじ”。瀕死のチュルパン、“さすがは勇将”輝く剣アルマス抜き放ち、大軍に分けいって、千回以上も討ちまくる。
 ロラン一人、無傷のままでしたが、角笛吹いた時、こめかみ破ったその頭痛がはなはだしく、シャルル来るかどうか気になり、オリファン弱々しく吹き鳴らします。すると山は鳴り、谷は応え、シャルルの六万のラッパ、いと高らかに応答しました。異教徒勢狼狽し、“シャルル来らば、わが方損傷を蒙らん。ロラン生きてあらば、戦再び始まり、われらの国土スペインは、亡ぼされたるも同然なり”。彼らは一息にロランを倒そうとしますが、たった一人の敵に大童。ついに遁走を決め、銛、投槍を一斉に投げ、ロランの楯を砕き、鎖鎧を破り、網目を綻ばせはしましたが、身体を損ない得ずして、ただ乗馬ヴェイヤンティフを殺したのみ、急ぎ退却してゆきました。

 フランス勢の壮絶な戦いを美化するため、詩人の誇張は終いには途方もないものになってゆきます。これは軍国主義や精神主義の横行する国、時代においては、いつでも見られる文学の阿諛であります。ロランの膚には、異教徒の不浄の武器は、ひとかすりもしないのです。ヒーローが特定のイデオロギー、宗教的・政治的体制のシンボルとして利用される時、これは多かれ少なかれ“民族的”叙事詩の宿命ですが、容易に神格化や、英雄崇拝に堕してゆきがちです。近代人が叙事詩に対して、うさんくさい眼差しを向けるのも、この辺に理由があるでしょう。現代における叙事詩の“不毛性”も、このヒーローの悪用に対する惧れにあり、エポスの主人公に普遍的な人間像よりも、将兵の浮ついた熱病や、イデオローグの狭隘な思想感情の代弁者を見いだしがちであるからです。エポス作者は、ホメロスがすでにその偉大な模範を示したように、おのれのヒーローから一定の距離を置き、叙述に際してあくまでも冷静で、客観的であることが要請されるわけです。

 さて、ロランとチュルパン大司教、二人だけ生き残りました。ロランは戦友の屍を求め、戦場をさまよいます。一人また一人見つけて、一個所に運び並べ、やがてオリヴィエの屍を見、ロランひとしおの悲しみに気絶して、地に倒れます。チュルパン、ロランのために水を汲もうと立ち、野の中一アルパンもゆかず、これも倒れます。ロラン気がつき、大司教のそばへ寄り、見るに、体からは臓腑流れ、額の上からは脳漿ががたぎり出ています。“ああ、高貴なる士よ、使徒たちの御世よりして、かかる聖職者はなかりき。”ロランは死の迫ったのを感じ、丘の一つに登り、見事な一樹のもと、大理石の標石四つ光る草の上に、大の字に倒れます。
 その時、サラセン人一人、様子をうかがい、ロランの剣を奪おうと、近寄ります。ロラン気がつき、象牙の角笛で敵の頭を一撃して、“この異教徒の極道者よ、何故かくも大胆に、正も邪も弁えず、われを捕えんとはする?”。ロランは剣を奪われることを惧れ、黒い石に十度斬りつけたが、剣は折れません。“デュランダルよ、愛剣よ、なれまことにいたまし!この剣のため、われ悲しみと苦しみあり。これを異教徒の手に委ねんより、むしろわれ死なん!父なる神よ、フランスにこの恥与えざらんことを!”ロラン、頭より心の臓へ死の下るを感じて、一本の松の木の下へ急ぎ、体の下に剣と角笛を置き、頭を異教徒勢に向けて横たわります。“気高き伯は、征服者として死せり”、こうシャルルと臣下一同言うであろう。ロラン、しきりに胸叩き罪を謝し、罪赦されるために、右手の手袋、神へ向って差し出せば、天使ら空より彼の許へ舞い降り、聖者ガブリエルこれを受けとり、ロラン合掌し、もって冥します。

 剣に名前をつけ、大事にするのは、ゲルマン戦士のならいですが、デュランダル愛惜の場面は、同時に死にゆく英雄の一生涯のイメージと重なっています。神に手袋を差しだすくだりは、これは君主と家臣の忠誠のアナロジーを神に及ぼしたもので、封建的イデオロギーのもとでは、君主も神(すなわち神権の所有者、代理人のことですが)も、同じ精神的服従を人々に対して要求するわけです。さて、ロランの死をもって物語の前半は終りますが、すでに長々と<ロランの歌>の特徴的描写を続けましたので、後半の“宗教戦争”の部分は、ここで打ち切るのも中途半端ですから、あらすじだけ述べておきます。

 シャルルの軍勢がロンスヴォーの合戦地に駆けつけた時には、一面累々たる敵味方の死体の山で、生者の影一つありません。はるかに逃れていく異教徒の軍、シャルルはこれを見て、死体の捜索はひとまずおき、全軍にとむらい合戦の追跡を命じます。陽は傾き、スペイン勢闇にまぎれるかと見えた時、ここに神奇蹟を行ない、日輪の足が止まり、空にたたずみます。スペイン軍はエブル河の手前で殲滅され、無数の屍が水に浮かびます。異教徒死に果て、王神に感謝の祈りを捧げ、立ち上がるや陽は沈んでいます。その夜は河岸に宿営し、翌朝ロンスヴォーへ兵を返し、戦死者の塚を築きます。ロラン、オリヴィエ、チュルパンの三人は、その心臓をとりだし、亡骸を故国へ運びます(勇者の心臓を尊重ないし珍重するゲルマンの風習は、エッダでも見たところです)。
 これより先、マルシルは、バビロニアなる総督バリガンに援軍を要請していましたが、バリガン四十の国から兵を集め、大船団をくりだし、エブル河を遡って、サラゴスに到着していました。マルシルより戦の次第を聞き、今やシャルルを討たんとして攻め寄せてきます。三十の軍団からなるアラビア勢の、第一陣だけを見てみますと、第一の軍団ピュタントローの人々、第二の軍団大頭族ミセーヌ人(背骨にそって豚のごとく絹毛におおわれた輩)、第三の軍団ニュブル人とブロー人、第四軍ブラン人とスラヴ人、第五軍ソルブル人、ソール人、第六軍アルメニア人、第七軍ジェリコの人々、第八軍ニーグル人、第九軍グロー人、第十軍バリッドの人。これら“異教徒連合軍”は、そろいもそろって“かつて善を願いしことなき輩”であります。
 これに対して、キリスト教連合軍(十字軍としてもよいでしょう)の側は、フランス人、バヴァリアの勇士、アルマニア(ドイツ)人、ノルマンディー人、ブルターニュ人、ポワトー、オーヴェルニュの勇士、フランドル、フリースランド人、ロレーヌ、ブルゴーニュ(ブルグンデン)人。両軍衝突し、激戦また激戦、互いに譲りません。ついに総大将シャルルとバリガンの一騎打となります。総督“プレシューズ”を叫び(アラビア人がフランス語を使うのも妙ですが)、シャルル“モンジョワ”をあげ、熱戦のすえ、“天使の聖なる御声”の援助で、シャルルがバリガンを討ちます。異教徒勢は、“主なる神の御意なれば”算を乱して潰走します。フランス勢追い、サラゴスに迫り、ついに陥落させます。マルシルは、悲しみのあまり壁板に向きあったまま死にます。(スペイン国内の“再征服(レコンキスタ)”によってサラゴスが陥ちたのは1118年です。)
 フランス兵、ユダヤ教会堂、マホメット教会乱入し、絵姿、偶像ことごとく打ちこぼち、妖術、巫術あとかたも残さず、異教徒ら洗礼所へ連行し、洗礼を拒むものあれば捕えさせ、火焙りにしました。ただ囚われの王妃ブラミモンドのみは、シャルルうまし国フランスにて、“愛”により洗礼をほどこすことにしました。

 この辺は、十字軍のエルサレムでの大虐殺を思い起こさせるでしょう。イスラム教は異教徒に対して比較的寛大であったようで、被支配地の異教徒は差別はされましたが、人頭税を払えば改宗せずにすんだのです。迫害されたユダヤ人が、回教スペインに逃れ、イスラム・ユダヤ文化を築くことができたのも、そのためです。

 さて、フランスはエクスの宮廷に戻ったシャルルは、諸侯を集め、ガヌロンの裁きが始まります。臣下らがガヌロンの親族の権勢を恐れ、放免を決め進言した時、ここに騎士チェリー、ガヌロンの縁者ピナベルに決闘を挑みます(決闘によって神意をはかる)。“神奇蹟を行い”チェリー、剛勇のピナベルを倒し、ここにガヌロンの縁者三十人ことごとく首吊られ、ガヌロン四頭の馬に四肢を引き裂かれ、“いみじき苦悶”のうちに死にます。皇帝大いなる怒りを晴らし、寝につきますと、神の使いガブリエル来て、再び出陣をうながします。“神よ”とシャルル、“わが生涯、さても労苦多きことよ!”。人使いのあらいキリスト教の神に、思わず白髯をしごき、涙もこぼれるのでありました。

 この詩の英訳者セイヤーズ女史は、ロランの歌は骨の髄までキリスト教的であり、<ベオウルフ>のように旧い信仰の基部が、キリスト教的表面に顔を出している場面は、どこにも見られないと言っていますが、これはちょっと言いすぎでしょう。一面この詩は“復讐”という異教的なテーマの延長線上にあり、それがキリスト教的、封建的倫理とからみあい、おおいつくされようとしている点に、いわばキリスト教・封建体制の“勝利”が見られるのです。
 今簡単にふり返ると、ガヌロンはロランの義父とされます。歌の中ではその関係をつまびらかに出来ませんが、ロランはガヌロンの妻(シャルルの妹)の連れ子であるようです。ロランは打首にされる惧れのある任務に、義父を陥しいれるわけですが、詩人がこれを少しも咎めていないのは、単に最初からガヌロンを悪人扱いしているためばかりではないでしょう。ロランが殊更に義父をかばっている個所もありますが(81歌)、これは遅ればせながら、詩人がロランの雅量を示そうとしたわけです。ここには父子親族の関係の、相対的後退が考えられます。これに対して、詩人はガヌロンとロランの間に、臣従の関係がないことを明らかにしています(24歌)。つまり君臣の間では、ロランのガヌロンに対してとった態度はまずいわけですが、親子の間では大目に見られるということなのでしょう。そこでガヌロンのロランに対する“復讐”も、そのままでは筋が通ってしまうので、シャルル=フランスへの“裏切り”としての、ニュアンスでとらえられることになります。ガヌロンは“悪行もて帝に仕え”たのであり、“帝の一族郎党を売った”のであるとされます(110歌)。シャルルはまた、甥の復讐を義弟に対して行うわけですが、これも君臣の間の“謀反”の論理によって通されねばなりません。同族の結合、その裏返しとしての同族相はむ陰惨な争いは、このようにキリスト教倫理、封建的君臣の秩序によって包摂されていくわけです。とりわけキリスト教につきまとっている、ユダの“裏切り”の観念の影響は大きいでしょう。こうしてガヌロンは壮大な復讐者としてよりも、裏切り者として、謀反人として裁かれるのです。“われ、復讐せるまでにして、裏切りなどさらになし”というガヌロンの誇らしい弁明は、旧い異教の論理の最後の抵抗であったでしょう。

 *    *    *

 「ロランの歌(ラ・シャンソン・ド・ロランLa Chanson de Roland)」はミンストレル(遊行芸人、吟遊楽人、メネストレ[仏]、ジョングルール[仏]などとも)によって、ヴィエル(手回し琴)という弦楽器の伴奏で歌われた詩です。従って作詩法も即興詩の特徴があらわれ(例えば表現のきまりきったパターン)、詩型も今日のものとはかなり異なっています。全体は詩節(レス)の集合からなり、各詩節の間には、繰り返しや、重複や、前後矛盾のみられる場合がありますが、この詩の作者もしくは編集者によって、一つの構想のもとに、みごとな一貫性を与えられています。
 詩節の各行はそれぞれ十音節(シラブル)ずつからなり、最初の四音節の所にリズムの区切りがあり、韻はこれまでみてきた頭韻ではなく、また後世普通の脚韻でもなく、アソナンス(母韻)といわれる、母音だけによるかなりルーズな音の重ね方です。十音節の詩句の区切りは、日本の詩歌の音数律を連想させますが、これとはだいぶ異なります。日本の音数律は短音節の数からなりますが(“たんおんせつ”は六音に数える)、ロランの歌では短音節と長音節の区別はしません(tanonsetuは四シラブルです)。これはラテン詩などの、シラブルの長短で構成される詩脚とも異なっています。

 Charles li reis , nostre emperedore maigne
 (われらの大帝 シャルル王は)

 リズムから言えば、シラブル数で四・六、四・六の短長の詩句がくり返されるわけですが、アクセントの働きもあったようです。しかも歌うための詩型ですから、音楽の側から加わるものがあるでしょう。アソナンスについては、セイヤーズの英訳がそれを試みていますので、そちらを用いることにします。

 Carlon the king , our Emperer Charlemayn ,
 Full seven years long has been abroad in Spain ,
 He's won the highlands as far as to the main ;
 No castle more can stand before his face .

 各行の末尾にアソナンスが用いられています。この場合は母音[ei]で、詩節の最後の行まで通していくわけです。前後の子音は合わせる必要がなく、各詩節の行数は一定しません。
 「ロランの歌」は、ふつう叙事詩の特徴とされる、エピソードの挿入による脱線がほとんど見られません。これは「ベオウルフ」において、さまざまな本筋と関係のない挿話がはさまれて、全体に雑然とした感じを与えているのとは、よい対照です。物語は発端からわき目もふらずに、最後の詩節までストレートに展開してゆきます。これは作者なり編集者(ミンストレルであれ聖職者であれ)の意図が、物語のメイン・テーマに集中的に向けられているためであり、例えば単に武勲の詩であるならば、ロランの他の武勇も、ベオウルフにおいて水泳のエピソードが語られるように、詳しく語られるだけの余裕があってもよいはずです。これをしないのは、単に構成的配慮というよりも、作者の視点が一定の倫理観、世界観に深くとらわれていて、余計なもの、エピソード的なものに目をくばるだけの、叙述の柔軟性を失っているからです。構成的に今日の小説に近づくような首尾一貫性というものは、また本来の叙事詩からみれば裕りの喪失とうつるわけであり、ゲーテがレタルディーレン(遅延)を叙事詩の特徴と見ているのも、この裕りのことととってよいでしょう。この意味で、「ロランの歌」はホメロスの対蹠点に立っています。

 [翻訳にはここで用いた有永弘人訳(岩波)の他に、佐藤輝夫訳(筑摩)があります。]



作品名:カイメラ氏の英雄詩講座「ロランの歌」
作者:ミスター・カイメラ   copyright : Mr. kaimela 2019
入力:マリネンコ文学の城
UP:2019・7・25