キリ番企画第四回

カイメラ氏の英雄詩講座その3:ベオウルフ

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四千のキリ番は管理人自身が踏んでしまいました。それほど閑散としたサイトですが、例によってこれを目安に作品発表や英雄詩講座などをつづけてゆきたいと思います。<ベオウルフ>は古英語で書かれた英雄叙事詩ですが、近頃映画も公開されたりして、没現代的なエポス文学館としては珍しくタイムリーな企画かも知れません。

         

   カイメラ氏の英雄詩講座その3:<ベオウルフ>

         (使用テキスト:大場啓蔵訳「ベオウルフ」)

 ローマ帝国の衰微に伴ない、英国本土のローマ人の支配がゆるみだした五、六世紀にかけて、現在のデンマーク、低地ドイツで機をうかがっていた北欧人種(ノーディック)の仲間であるユト人、アングル人、サクソン人は、堰をきったようにブリテン島への移住を開始します。いわゆるノーディック・インヴェイジョンです。彼らは先住のケルト人と並んで、今日の英国人の祖先であります。この北欧人たちは、ローマ人の築いた町や農場や教会を破壊し、戦士たちに続いて渡ってきた彼らの家族たちは、住み手の追い出された土地に代わって定着したのです。彼らは後のヴァイキングのような単なる略奪民ではなく、より豊饒な土地を求めて移住する農耕民なのでした。
 「彼らに続いたデーン人のように、アングロ・サクソン人は血なまぐさい海賊であり、彼らより高い段階の文明を破壊することに喜びを覚えたが、しかし同時に彼らは移民団(ピルグリム・ファーザーズ)であり、新しい土地にやって来て、単なる搾取者や奴隷使いとしてではなく、誠実な農夫として自ら土地を耕したのである」(トレヴェリアン「英国小史」)
 “海の民”として、また農民としての二重の性格は、英国人の以後の歴史を大いに方向づけてゆきます。新来者のアングロ・サクソンは、北欧人に共通の“戦士の宗教”を携えて英国に渡ったのでありますが、そこには既にローマ人の影響でキリスト教が広まっていました。彼らは英国からローマの文明を一掃した“蛮族”でありましたが、やがてローマ人の遺産の中でも最も根強い精神的印象を残した宗教が反攻を開始して、彼らを“教化”し、文化的に再征服していくことになるのであります。
 八世紀の前半頃成立した「ベオウルフ」は、この過渡期における北欧人の風習・倫理と、浸透しはじめたキリスト教のドクトリンとの、奇妙な混淆物をなしています。安住の地を見いだした彼らが、農耕民にふさわしい宗教に鞍がえすることはさして難事ではなかったでしょうが、しかし彼らの記憶の中には、いまだ北欧の沿岸地帯をさまよい、他部族との略奪の争いをくり広げてきた閲歴が、なまなましく保たれていたことでしょう。そこでは武勇が尊ばれ、名誉が重んじられ、人間や神々の一切をとりしきる“宿命(ヴュルド)”が彼らの人生の窮極の原理でした。それは正しく戦をなりわいとする戦士の倫理であり、宗教でありました。
 彼らにとって死は安住の地ではなく、この世のなりわいの延長であるか、もしくは光のないいとわしい夜でありました。彼らにとって“永生”とは、名誉や武勲が人々の記憶にとどまり、口から口へと後世へ伝えられていくことにほかなりません。北欧人の間で英雄歌謡や英雄物語(サガ)が中心的な文学であったのは、北欧人のこのような倫理観を多分に反映しています。
 そうした北欧人の歌謡やサガのグルントトーンの上に、キリスト教世界観のグルーミーな色調と悪の観念がおおいかぶさり、叙述と内容とが妙にちぐはぐな感じを与えているのが、この「ベオウルフ」という叙事詩です。その上また、アングロ・サクソンのイマジネーションの質ともいえる過度なまでのおどろおどろしさが加わり、さらに英雄の死に象徴される、過ぎさった“英雄時代”への愛惜が、“エレジー”としてのメランコリーをかもしだしています。物語的には一篇のロマンスでしかないものが、その雑然とした性格によって、多方面の解釈を可能にするわけです。
 ここではベオウルフの武勇を中心に、ストレートな紹介をするつもりです。「ベオウルフ」の物語はデンマークとスウエーデンにまたがる舞台で演じられ、スカンジナヴィアの諸王朝のエピソードをからめています。主人公は元来史上の人物ではなく、民話的な存在であったようですが、その出自は、物語作者によってスカンジナヴィアの一王家の正統の伝承とされるものの中におりこまれています。そこで物語の筋を追う前に、登場するデンマークとゲトランドとスウェーデンの三王家について紹介しておきましょう。

 デンマーク(デネ)の王は、ヘアルフデネのもとにヘオロガル、フロスガル、ハルガの三人の息子がいました。彼ら一族は祖先の名にちなんでシュルディンガスと呼ばれます(この一族の系譜にベオウルフの名がみえますが、これは本篇の主人公とは無関係です)。物語では長男ヘオロガルはすでに亡く、フロスガルが王位についています。その宮殿ヘオロト(白鹿)に怪物が出現し、ベオウルフがゲトランドから退治に赴くことで物語は始まります。その後ヘオロト宮はデネとヘアゾベアルデンの争いの結果、フロスガルの女婿インゲルドの手によって炎上することになります。
 次にゲトランド(ゲアタース)は、現在のスウェーデンの西南端にあたる独立した王国でありました。ゲトランドの王フレーゼルのもとには、ヘーレベアルド、ヘスキン、ヒュゲラークの息子があり、彼ら一族はフレゼリングと呼ばれます。ヘスキンは、狩猟の最中誤って長男のヘーレベアルドを射殺し、フレーゼルの死後王位につきます。フレーゼルには他に一人の娘があり、エッジゼオウに妻(めあ)わされますが、生まれた子が(作者の設定では)ベオウルフであり、従って彼は後のヒュゲラーク王の甥にあたります。
 ゲアタースの東に位置するスウェオン(スウェーデン)にはオンゲンゼオウ王が君臨し、オホトヘーレ、オネラの二人の息子があります。彼ら一族は祖先にちなんでシュルビンガスと呼ばれます。ゲトランドとスウェーデンは互いに反目し合っています。オンゲンゼオウの息子たちは、フレーゼル王の死後、たびたびゲトランドに侵入して、略奪します。ヘスキンは仕返しにスウェーデンへ攻めこみますが、オンゲンゼオウのために仆され、彼の軍は包囲されます。そこへヒュゲラークが救援に駆けつけ、オンゲンゼオウを仆します。
 その後ヒュゲラークはフリースランド(オランダ北部)へ略奪に出かけ、その地で斃れます(この遠征にはベオウルフも参加しましたが、海を泳ぎ渡って生還したようです)。スウェーデンではオンゲンゼオウ亡き後、オホトヘーレが王位につきましたが、その死後、オネラが兄の遺児たちを追って王位を奪います。遺児たちはゲトランドへ逃れ、今は亡いヒュゲラークに代わって王位にある、息子のヘアルドレードの庇護を求めます。オネラはゲトランドに攻めこみ、ヘアルドレード王と遺児の一人は仆れます。ここにフレゼリングの王統はとだえ、代わってウィグラーフがゲトランドの王に推されることになります。
 「ベオウルフ」の作者はヘアルドレード王の没後、ベオウルフが五十年間ゲトランドの王位についたことにして、北欧のサガの伝承に変更を加えているのです。
 (この辺のくだりはレクラム文庫「ベオウルフ(Beowulf)」のゲンツマー(Genzmer)の解説・注釈による。)

 さて、以下にベオウルフの武勇(ヘルデンターテン)を中心にして、物語の荒筋を追って行きます。

             *        *         *

 (物語はデネの王国を興したシュルディンガスの賛辞と、船上葬の描写で始まります。英雄の亡骸を宝物と一緒に船に乗せ、潮のまにまに流したり、火葬にした風習が想像されます。代は下って、フロスガルが王位についています。)

 フロスガルは王国が栄えるにつれ、先祖からの住居にあきたらなくなったのでしょう、壮大な宮殿の建造にとりかかりました。それは人の子がこれまで聞いたこともないような、立派なものでありました。ヘオロト(白鹿)と名づけられたその大広間では、日夜酒宴がくり広げられ、王は臣下に宝物やリングを分かち与えました。
 これに腹を立てたのが、辺境の沼地に母親とひっそり暮らす、評判の悪いグレンデルでありました。伶人の竪琴の音や歌声は、グレンデルの住居まで響いてきて、彼らの安寧を乱すのでした。グレンデルは腹立たしいのと物珍しさとで、夜になって宮殿へ行ってみました。すると、酔いつぶれたフロスガルの臣下たちが、杯盤狼籍たるなか、前後不覚に眠りこけています。グレンデルはたちまちのうちに三十人ばかりをつかみとって、息の根をとめてしまいました。
 翌朝、惨事は知れわたり、王宮は嘆きの声に充たされました。それからも、酒宴があるたびにグレンデルがやって来て、勇者たちをひねりつぶすので、とうとう夜には、大広間には誰も近づかなくなってしまいました。災は十二年間続き、王国にはグレンデルに対抗できる者は一人もいませんでした。それというのも、彼らは天の御父の救いを期待せず、偶像にいけにえを捧げ、魔神が救いを与えてくれるようにと願ったからです。

 (叙事詩としての「ベオウルフ」は、ここでの紹介とは打って変わって、荘重なスタイルで物語られており、訳文もそう読み易くはありませんが、話の本筋は単純なもののようです。ただ“お説教調”がどうしても鼻につきます。グレンデルも民話では巨人にすぎませんが、ここでは悪魔と同じものとされています。
 “恐ろしいその来客[悪魔]は、名前をグレンデルといい、湿地と荒原と要塞を固守する悪名の、境界の荒地を放浪する者であった。創造を司る神が、カインの族にある彼を追放してからは、不幸にも、しばらくの間怪物たちの住む土地を守っていた。永遠の君主は・・・”etc.)

 さて、ヘアルフデーネの子息たちの嘆きは、海を渡ってゲアタース(ゲトランド)にまで達しました。この頃、ゲアタースにベオウルフという名の、あまりぱっとしない武人が、ヒュゲラーク王の臣下に名をつらねていました。彼は王の甥でありましたが、周りの者は軟弱で、ひ弱な武士であると見くびっていました(2180行辺り。もっとも、190行辺りでは反対のことが書かれています。ベオウルフの若い頃は2420行以下も参照のこと)。しかし彼は爪を隠した鷹でありました。ある日のこと、ベオウルフは友たちを語らい、総勢十五人で“白鳥の路”へと木船を押しだしてゆきました。聞けば、グレンデル退治に赴くというのです。戦いの王、名高い君主が彼を必要としているのだと。デンマークの岸辺に着いた“風雪の(ウェデラス)”ゲアタースの勇士たちを、シュルディンガスの海岸守備兵が見とがめて問いかけます。

 「このような背高い船を、海を越え、波を越え、ここへもたらし、戦衣とかぶとで身をかためた諸君は、一体何者であるか」

 ベオウルフが答えて、

 「われわれは、ゲアタース人の中の親族、ヒュゲラークの側近である。われわれは高名なデネの国の君主に大きな使命をたずさえて来たのである。シュルディンガスの人の中で、どういう加害者かわからないが、暗い夜ともなれば、所在不明の迫害者が恐ろしいやり方で、不可思議な暴力と害悪と殺人行為を行うということを、われらはまこと聞いた。それ故、われらは・・・いかにすれば賢明で勇ましい王がその悪魔を克服することができるか、その相談相手になることが出来る」

 一行は王の宮殿へと案内されます。王はたまたまベオウルフの名を聞き及んでいて、知らせを聞くと、喜んで一行を迎えます。あらたまった挨拶がすむと、はるばるやって来た勇者らのために酒宴が開かれます。王の歌人(うたびと)が歌い、王妃が酌をして回りました。ベオウルフは、高貴な妃の注ぐ酒に陶然となって言うには、

 「われは王妃らの人々の望みは完全に成しとげよう。さもなくば、敵の手中にしっかりとつかまり、戦場で死ぬとしよう。英雄にふさわしい行為をおこなおう。さもなくば、この酒宴の館の中でわが最期を待つとしよう」

 やがて王らは寝所に退き、大広間にはグレンデルを待ち構えるベオウルフの一行だけが残されました。ところが、ベオウルフ一人を除いて、武者たちはいつの間にか眠りこんでしまいます。

 「暗い夜、暗黒をさまよえる者がやって来た。角型のかざりをつけた館を守らねばならない時、一人を除いてすべての武士は眠っていた。神にそのご意志のない時は、いまわしい悪鬼も彼等を暗闇の中に引き入れることは出来ないということは、人々に知られていた。しかし彼[ベオウルフ]は怒りにもえ、敵を見守り、同時に、戦いの結末をいらだちつつ、待ちかまえていた。」

 ベオウルフ以外の武者が寝入っているのは不自然ですが、これはゲンツマーによると、より古い伝承では怪物が呪文をかけ、一人ベオウルフだけがその特別の血筋のため(後述)、眠りをまぬがれたというふうであったのだろう、ということです。
 さて、グレンデルは、めずらしくヘオロト宮からもれてくる歓楽のさんざめきを聞いて、今宵は久しぶりにご馳走にあずかれるものと、両眼を火のように輝かせてやってまいりました。ヘオロトの扉はグレンデルが手を触れると、はじかれたように開きました。はやる心で押し入り、見れば武者たちがたわいもなく寝入っています。グレンデルは、たちまち手近の一人をひっつかみ、あっという間にむさぼり食ってしまいました。次に、恰幅のよい、食いでのありそうな武者が寝床にあるのを見、つかみかかろうとしましたが、それは一人だけ眠らずにいたベオウルフでした。グレンデルはあべこべに、おのれの手を強力な力でしっかりとつかまれたのを知って仰天しました。それは思いもよらず、骨もくだけんばかりの怪力でした。グレンデルは狼狽し、うめき、叫び、もがき、なんとかその怪力の主から逃れようとしましたが、無駄でした。グレンデルの館を揺るがすばかりの咆哮と身もだえに、やっと眼を覚ましたほかの武者たちも、あわてて剣を抜き斬りかかりましたが、怪物は刃に対しては不死身でありました。ついに骨がきしみ、血がにじみ、グレンデルの腕はベオウルフの怪力の前に、根元からもげてしまいました。グレンデルは咆えながら、ヘオロト宮から退散してゆきました。朝になって、その血糊の跡が、湖の岸まで点々と残されていました。
 グレンデル退治はたちまち国中に広まり、物見高い見物人が押しよせて来ました。王と廷臣をはじめ、怪物の腕を見るものは、あらためてベオウルフの武勇に驚嘆するのでありました。やがて盛大な宴がもよおされました。王は英雄を祝福し、数々の引出物を授けます。歌人(うたびと)はベオウルフを讃える新たな歌謡を作り、また古歌を謡いました。それはフィン王と妃ヒルデブルフをめぐる、傷ましくもおぞましい悲話でありました。
 ここで叙事詩お決まりの脱線をして、“フィンスブルグの戦い”として知られる物語を紹介しておきましょう。フリースランド(フレーザン)の王フィンを訪れたデネの王フネフ(フィン王の妃ヒルデブルフの兄弟)は、何らかの理由でフィンの手のものに襲撃され、討たれます。デネの兵は勇士ヘンゲストのもとに防ぎますが、決着が付かないままに和平が結ばれます。この争いで、王妃ヒルデブルフは兄弟のフネフと一人息子を同時に失い、二人の遺体を薪の上に並べて焼きます。その描写は北欧的なリアリズムとして、ホメロスと比べられます。

 「最大なる弔いは、煙の環となり、天空にあがり、塚の前でごーと音を立てた。頭はみな溶けて、傷口はさらに広がった。その時、血がいまいましくも、噛まれた傷口からふきだした。火焔なる最も貪欲な悪魔は、両者の間で、そこで戦いがうばった人びとすべてを呑みこんだ。」

 和平は、しかし、かりそめのものでした。冬の間フリースランドにとどまっていたデネ勢は、春になるとフィン王を殺し、財宝を奪いとり、ヒルデブルフを伴ってデンマークへと帰還したのであります。
 さて、話はもとに戻り、宴が終わり、人々が災いの去ったのを悦び、平和な眠りについた頃合です。一人の女の影がヘオロトに忍び寄ってきました。それは虫の息で帰って来た息子に代わって、復讐にやって来たグレンデルの母親でありました。カインの眷属とはいえ、女の身であるから、鎧兜の武者ども相手に大立ち回りとは行かずとも、せめて一人二人は血祭りに、息子の腕を取り返したいと思ったのであります。案内知らぬ館のこととて、たちまち気づかれ騒がれだしましたた。グレンデルの母はいそいで息子の腕を取りもどし、手近の武者一人ひねりつぶし、その死骸を土産にかかえて逃げだしました。別の間に寝をとっていたベオウルフは、翌朝、王に呼び出されるまで、この騒ぎに気づかず高枕でありました。
 ベオウルフは王に案内され、グレンデルの母親の棲処(すみか)へと赴きます。 「けわしい岩山、せまい道、細い道、未知の路、切り立つ崖、たくさんの怪物」をすぎて、一行はやがて、山の木が鬱蒼とかぶさっている、険しい崖の見える所までやってきました。崖の下には血に染まった陰惨な沼の水が広がり、殺された武者の首が崖際にかけられていました。沼辺には蛇や怪獣たちがたむろして、時ならぬ侵入者に怒りの鎌首をもたげています。
 ベオウルフは身に鎧を着け、手には名刀フロンディングをにぎり、グレンデル親子の住む沼の底へと単身挑んでゆきます。水底へ達するまでには、一日の大半を要しました。水中にはさまざまな妖怪がいて、ベオウルフの泳ぎを妨げ、追跡してきますが、それらをかわして、とうとうグレンデルの館につくと、そこは幸いにも水がなく、息の切れる心配はなくなりました。
 グレンデルの母は勇者を見るやいなや、毒のあるにぎりこぶしでつかみかかりました。ベオウルフはフロンディングで応戦します。ところがこの妖女には名刀も一向に利き目がなくて、ついに両者素手のつかみ合いとなりますが、ベオウルフはへまをしてつまずいてしまいます。母親はここぞとばかり勇者に馬乗りとなり、やおら輝く剣をぬき、息子のあだをはらさんものと勇者の胸を一突きしました。あわやという所で,胸甲が固かったことと、神様のご加護とで、肉まではとどかず、すばやくベオウルフは身をのがれ、たまたま壁に懸っていた巨大な剣を見て手にとると、怒りに燃えてグレンデルの母に斬りつけました。すると、それは特別の剣であったようで、彼女は朱(あけ)に染まって倒れたのでありました。次に、グレンデルの寝所におし入ってみますと、そこにはすでに多量の出血で息絶えたグレンデルの屍がありました。ベオウルフはその首をはね、巨大な剣とともにたずさえて、意気揚々と湖面へ戻ります。剣の刃は悪鬼の血潮をあびたため、溶けてなくなっていました。
 王は水面のわき立つ血の波を見て、ベオウルフはもう死んだものと諦め、王宮へ帰っていましたが、そこへグレンデルの首が槍につけられて四人がかりで運び入れられ、肝をつぶして見まもる廷臣たちの前に供されました。フロスガルは喜び、ベオウルフの労をねぎらいがてら、老婆心からでしょうか、長い説教をたれるのでありました。

 「名高き武士よ、傲慢な思いを抱くなかれ。力の誉れは今、一時でしかない。やがて、まもなく病気か刀剣かが、君の力を終りにする。あるいは火が、あるいは恐るべき老年が、君をつかむ。・・・やがては、武者よ、死が君にうち勝つことになるのだ。」

 ベオウルフはうやうやしく聞き、やがて王に別れの辞を述べ、たくさんの贈り物を船に積んで、故郷のゲアタースへと錦を飾ったのであります。
 ゲアタースでも彼は英雄としてもてはやされ、得意の日々を送る間にも、ほどなくヒュゲラーク王が異境に仆れ、その子息のヘアルドレードも剣刃の露と消えます。ベオウルフは人々に推されて王位に上ります。そののち武勇を試すほどの出来事もなく、安穏のうちに五十年の統治が過ぎてゆきます。今は英雄も年老いて、昔日の偉丈夫の面影も、霜をいただいた老松ほどに薄れていましたが、そこへひょんなことから、平和な国内に“竜騒動”がもちあがったのでありました。
 その昔、大物持ちの貴人が、財産を残す子孫のないのを悲しんで、その莫大な財宝を、人目につかない崖の洞穴に隠したのでありました。それを竜が見つけて、三百年間忠実に守ってきたのですが、ある時、主人に迫害された奴隷(もしくは下男)がこの洞穴に逃げこみました。すると竜が眠っていて、傍らに財宝が積まれていました。奴隷は金の盃を一つだけ失敬して逃げだし、それを主人に差しだしてご機嫌をとったのでありました。おさまらないのは、目が覚めて宝の一つが紛失しているのに気づいた、貪婪な火竜であります。うかつにも眠りこけていましたから犯人が分からない。それで夜になると、洞穴の外へ飛び出し、だれかれとなく襲っては、鬱憤を晴らしたのであります。側杖をくったのは民衆ばかりでなく、王宮も燃やされてしまう始末でした。ついにベオウルフは、生涯の最後の武勇として、竜退治をあの世への土産にしようと決心したのでありました。
 ベオウルフは先ず、鉄製の楯を作るように命じました。それから災いのもとを人に尋ね、例の盃の件を聞き出し、男を呼んで王を含めた十二人の勇士の道案内としました。竜の棲む潮の流れの近くの洞窟にたどりつくと、ベオウルフは従う者たちに、沈痛な別れの挨拶を送ります。

 「われは若い頃、たくさんの戦いの修羅と戦いの期間をうまく切りぬけてきた。・・・われはもし、グレンデルに対してかつてなせる如くに、いかにしてかあの怪竜を力でもって誇らしげにつかむことが出来るならば、竜に対し剣をたずさえないだろうに。・・・君らよ、よろいを身につけ、かぶとをかぶれる者たちよ、われら二人のどちらが血ぬられた戦いのあと、安全に生き残るかを、断崖の上で待つがよい。・・・われはわが勇気をもって、黄金をかち得よう。さもなければ、戦いが生命を奪い、君らの主君を運び去ることだろう」

 こう老ベオウルフは誇らかに、かつ悲壮に竜との決闘を宣言し、生涯の最後の修羅場へと赴いたのであります。竜の棲む岩戸のそばには、火の川がふつふつとたぎっていました。ベオウルフは、かつていくたの戦(いくさ)においてそうしたように、大音声を張りあげ、洞穴の中の竜をさそい出しました。たちまち火竜は怒りの炎をはきつつ姿を現わし、とぐろを巻いて威嚇します。竜のはく炎は老戦士にふりかかりましたが、鉄の楯はよく彼の身を守りました。ベオウルフは楯の陰から剣でもって一撃を加えますが、竜の堅い骨にはてんで利き目がないのでした。老王の身を炎がとり巻いてゆきます。もはやなすすべもなく、ゲアタースの勇士もこれまでと見えました。
 この激しい一騎打ちを崖の上から眺めていた王の戦士たちは、みな惧れをなして森の中へ逃げこんでしまいました。ここにただ一人、ウェオスタンのウィグラーフは、これまで王よりかけられたあまたの恩寵を思い起こし、逃げさる同輩の中で敢然としてきびすを返しました。古き剣を抜きはらい、楯をかかげて主君の許へとって返しましたが、木製の楯はたちまち燃えつき、ウィグラーフは王の楯の後ろに回ります。ベオウルフのふるう古剣ネイリングはすでに中ほどで折れ、加勢にいきり立った竜の突撃に、老勇士は首筋を食い破られます。鮮血が命の住居から波となってほとばしりました。その時ウィグラーフは、竜の首より下にねらいをつけ、腕の焦げるのもいとわず剣を突き立てました。たちまち火勢がおとろえ、我に返ったベオウルフは、短剣を抜いて竜の急所を払いますと、さしもの暴竜も息絶えたのでありました。同じく老ベオウルフの命数もつきていました。老王はウィグラーフに後事をたくし、わが屍の埋葬の段取りをさずけると、穏かに瞑目しました。
 人々は王の遺骸を運び、高く積んだ薪の上にのせました。周囲に王のよろいと楯と兜をたてかけ、火を放ちました。炎は黒煙とともに立ちのぼり、そのはぜ、ほえる声は、人々の嘆きの声といりまじりました。王妃は今の悲しみと、来るべきゲアタースの悲運に胸ふたぎ、髪を結んで哀悼の歌をうたいました。やがて海沿いの丘に、沖行く舟人の目にしるく、王の塚が築かれ、遺灰と数々の宝物、武具がおさめられました。

 “かくて戦いに勇ましき高貴な人々が、すべて十二人、塚のまわりを馬にのってまわった。それから悲しみをうたい、王君をいたみ、悲歌をうたい・・・王の英雄ぶり、雄々しさ、強大な力をほめたたえた”のでありました。

(この紹介では、話の筋を分かりやすくするため、キリスト教の臭味をほとんどぬきさってみたのですが、その点で、叙事詩そのものにあたる方は、誤解のないように願います。)

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 <ベオウルフ>はオーラル・エピック(口承叙事詩)でありますが、1000年頃のものとされる写本が残されています。文字という便宜がある以上、幾晩にもわたって演じなければ歌い終えることのない長い詩は、最初から書き下ろされることもあったでしょう。要は書き下ろされたものが今日の詩のように読むためのものではなく、演劇やオペラの台本に相当するものであったことで、これは<ホメロス>の場合でも同じです。アテネ人によるテキストの制定が、アテネの祭典での<ホメロス>の朗誦に端を発していることにも明らかです。もちろん台本として定まった時には、オーラル・エピックの口承的伝統、発展はそこで完結します。他のヴァージョンがいくら存在しても、ある段階で文字として沈殿したものは(筆写による影響を考えなければ)そのままの形をとりつづけます。こういう幸運な保存は、口承文芸の厖大な世界の中ではほんの例外的なことと言えます。
 <ベオウルフ>と並行して、今では失われたたくさんのオーラルな伝承が存在したであろうことは、<ベオウルフ>にとり入れられている様々なエピソードから見てとれます。<ベオウルフ>870行あたりで、王の歌人(うたびと)が今なされたばかりのベオウルフの武勇を、技巧をこらした言葉で新しい物語に歌いあげています。これが当時の宮廷詩人のなりわいを反映しているとすれば、彼らは実にすばやく、即興的に歌物語を作ったことになります。部族の長が凱旋したり、戦捷がもたらされたりした時、祝いの宴で彼らはその日の武勇を歌にしたのでしょう。それらの歌はその場限りで忘れられてしまうかもしれません。しかし一部族の興亡や、長い戦役の血わき肉おどる歴史などが物語られる時には、それらは聞くものたちに深い印象を残し、文字どおり人口に膾炙(かいしゃ)して、長く人々の間に伝承され、記憶されることでしょう。
 <ベオウルフ>の知られざる作者は、当時のアングロ・サクソンの間でポピュラーなものであったろう、そうした“英雄歌謡”を数々とり入れています。これは今日の読者からすれば、この物語を非常に読みにくくしているわけですが、当時の聴衆にとっては、すでによく知られた歌謡が、ややフィクション気味の人物である主人公の武勇伝にさしはさまれることで、この物語により親近感を覚えたことでしょう。これは叙事詩人の側からする、聴衆へのサーヴィスであって、叙事詩におけるエピソードというものの一つのあり方です。
 <ベオウルフ>にはまた、<ホメロス>と同じように、エピテタ(和歌の枕詞のような修辞法)やフォーミュラ(きまり文句的フレーズ)が見られます。これらもオーラル・エピックに特徴的な技法です。叙事詩人は本来が聴衆を前にして即興的に創作するため、“苦吟”するわけには行かず、たくさんのレディ・メイド(出来合い)の文句を蓄えておくことが、詩人の修業のいろはに属することだったからです。ベオウルフのフォーミュラは、エピテタは別として、ハーフラインからなるものが多数あります。これはゲルマンの頭韻詩の作詩法に伴う特徴とされ、短行が“マトリックス”となって即興的詩作を容易にするのであるということです。(参照: Bowra ‘Heroic Poetry’ p.243 )
 <ベオウルフ>のもう一つ知っておいてよい修辞法に、北欧文学に共通のケニング(Kenning)があります。これはある事柄を、その部分的な特徴を取って、回りくどく又は比喩的に言い換えたものであります。これを約束事として心得ておくと、なかなか詩的な味わいがあります。<ベオウルフ>の代表的なケニングを挙げておきますと、

 海=“鯨の道”“白鳥の道”“塩の道”“波(わた)の原”
 剣=“やすりのたくみ”“戦の氷”
 船=“海の木材”“波上の放浪者”
 太陽=“天の宝”“天のろうそく”
 血=“刀の露”“戦いの汗”“勝利の汗”

 これらをすべて翻訳にとりいれることは、翻訳者もあえてしないようです。
 その外、<ベオウルフ>で目立つ技法は、同じ事柄を言葉を変えて何度もくり返す言い回しです。例えば、
 「天の支配者を知らなかった。行為の裁き手、神の力を知らなかった。まことに、天の守護者、栄光を司る神を、彼らは讃美するすべも知らなかったのだ。」(170-180行)
 頭韻法については他にふれる機会もあるでしょうから(<エッダ>)、ここでは古代英語の原詩が一体どのようなものであるかを眺めることで、満足するにとどめたいと思います。(工藤好美「叙事詩と抒情詩」より。訳も工藤氏のもの。102-104行。)
 
 Waes se grimma gaest Grendel haten
 maere mearcstapa, se the moras heold
 fen and faesten.

 おそろしき訪問者(おとないて)はグレンデルと呼ばれ、
 辺疆をさまよい、荒地や沼や砦を占むる
 したたか者。

 なおゲンツマーはゲルマンの詩の特徴をまとめて、ゲルマン語では、語調、詩の音調、意味の重心の三者が、手に手を取って統一しており、これによってゲルマンの詩は、他民族の詩型には比類を見ない表現力を発揮すると言っています。頭韻法はこの表現力をさらに強調すべく、行の統一を保ち、拍のくる部分をいやが上にも高揚させるということです。一般に考えられているように、頭韻法は単に音韻だけの問題ではなさそうです。

 最後に、ベオウルフの原型(プロトタイプ)とされるゲトランドの“熊の子伝説”にふれて、この解説を終わりたいと思います。
 ゲトランドの王の息子ビエルン(熊)は、継母によって熊に変えられてしまいました。しかし夜になると、彼は人間の姿をとり戻すのでありました。村の百姓の娘ベラ(雌熊)はそんな彼を哀れんだのでありましょう、夫婦(めおと)になり、洞穴の中で一人の息子をもうけました。彼はビウルフと名づけられますが、やがて父親がある日狩りにあって殺されてしまいますと、母親のベラは王宮に下婢として住みこみ、ビウルフもまた、母親と一緒に王宮に育つことになりました。しかし、だれも彼の素性について知る者はいません。ビウルフは、のろくさくてなまけ者でありましたので、みなから馬鹿にされました。ところがある日のこと、若者たちの間で水泳の大会が行なわれたのですが、彼は飛び入り出場して、国一番の泳ぎ手を打ち負かしてしまいました(荒筋では省きましたが、<ベオウルフ>の中にも水泳競争のエピソードがあります)。そこで彼の素性は明らかにされ、王もビウルフを甥として認めました。ビウルフはその後、屈強な武者に成長しました。
 さて、王は人々に命じて豪壮な大広間を建てさせ、臣下たちと日夜酒宴をもよおし、楽しんだのでありました。ところが、ここに不思議な出来事が起こるようになりました。毎年、大広間で冬至の祭を祝ったあと、武者が一人ずつ消えていくのです。三年目の冬至祭の夜、ビウルフは十二人の仲間と一緒に見張っていると、真夜中に巨人(トロル)が現われたのでした。武者たちは斬りかかりましたが、剣では歯が立ちません。そこでビウルフは素手で格闘し、巨人の右腕をもぎ取ってしまいます。巨人は逃げ去りましたが、翌朝ビウルフは仲間とともに血の跡をたどってゆきますと、それは滝のある所で終っていました。綱をつたって滝口に下りてみますと、そこには洞窟があり、女巨人が見張っていました。ビウルフは洞窟の壁にかかっていた巨剣をとり、女巨人を打ち殺し、昨夜の傷ついた巨人を見つけてその首を落し、意気揚々と帰路につきました。
 また、ある山の洞穴に竜が棲んでいて、宝を守っていました。ビウルフは竜を殺して宝をとろうと思いたち、十二人の仲間と出かけます。いざ竜が現われれると、外の者たちは逃げてしまい、ただ忠実な家来であるウェットとビウルフだけが残されます。ビウルフは剣の一撃を竜に加えますが、固いうろこのため折れてしまいます。怒った竜はビウルフを噛み殺します。しかしウェットは竜の腹に剣を突き立て、主人のあだを討ちます。ビウルフは丁重に葬られ、竜の宝は彼の塚の中に納められました。

 ゲトランドの王国がスウェーデンによって滅ぼされ、生き残った者たちがデンマークに渡った時、この民話も一緒について渡り、さらにそこから、アングロ・サクソンの英国へ伝わったのであろうと、ゲンツマーは推測しています。なおまた、ビウルフの冒険はノルウェーを経由して、アイスランドの“グレティルのサガ”にも取り入れられているといいます。この物語を核にして、更にデンマークやスウェーデンの王家のサガをからませ、ある名の知れない作者は、独自の脚色をほどこした“ベオウルフのサガ”を編集したのでありました。
 ここでは主に叙事詩としての<ベオウルフ>を概観してみたのでありますが、古代の叙事詩の基本的な精神である階級的な共同意識(<ホメロス>も<ベオウルフ>も貴族階級(戦士貴族)の叙事詩であります)、宿命としての人生観(これは神話の形をとります)、一面的ではありますが人間性の極限的な開示(これは特に英雄の武勇における死において)、峻厳なリアリズムと空想的なロマンスの混交、一口に言えば、一定の時間・空間の中における人間とその集団との可能的なあらゆる営みがその中に包括されるところの文学現象、こうした特徴をキリスト教という中世的な息吹によって包まれかけているとはいえ、<ベオウルフ>の中にはまだ充分に見つけることができるでありましょう。

 [なお邦訳にはここで用いた大場啓蔵訳(篠崎書林)の外に、戦前の厨川文夫訳(岩波書店)、長埜盛訳(吾妻書房)があります。] 

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入力:甲斐修二(エポス文学館)
Up:2008.3.17