バロン・ナイトのゲストルーム

第一夜 風の中の家

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 ゲスト:羽和戸玄人(はわどくろと)

バロン 「今夜は永遠のseclusionist(世捨て人) 羽和戸玄人氏をお招きした。お久しぶりですな、玄人さん。森の中の宿で初めてお会いしたのは、数世紀も昔のことであったか。あれ以来お変わりないようで、なによりのことでござる」
玄人 「今晩は、バロン。今お変わりないないようでとのご挨拶でしたが、少々苦情を申し上げたくて今夜は参上いたしました。バロンに森の中の眠りを妨げられてからというものは、長年不眠症に悩まされております。おかげで、眠られぬ夜は文学などというものに耽っております」
バロン 「美しいお姫様でなくて失礼いたした。And they lived happily ever after. という訳には参りませぬな。それにしても、不眠症と文学とは相性がよいようでござる」
玄人 「私にとって、眠りこそ人生で最大の快楽であったのですが」
バロン 「人は目覚めるべくして目覚めるのですな。私があなたを目覚めさせたのは偶然の契機であって、あなたの中の何かがあなたをこの世に呼び戻したのでござる」
玄人 「たしかに不安の夢にさいなまれていました。浅い眠りの中で夢見つづけて、無の陶酔に落ちることも、うつつに帰ることもなく、数百年を過ごしておりました。覚めれば、それも夢なのですが、かつて見知った場所を、黄昏の中、浦島のように彷徨っていました。そこでバロンに出逢ったのです」
バロン 「人生は夢のまた夢、こうして語り合っているのも、お互いの夢の中かも知れませぬなあ」
玄人 「そうして、いったい、われわれ二人はだれの夢の中にいるのでしょうか」
バロン 「ブラフマンか、マリネンコ殿か、それともいったい・・・」
玄人 「サロンを時々のぞかせてもらっていますが、この先どうなるのでしょうか」
バロン 「われわれを操っているものが、われわれにも分からんのじゃ。とりあえず管理人のKai 氏に聞いてみるがよかろうと思う」

管理人(特別登場) 「ご用ですか」
バロン 「久しぶりに顔を出したね。羽和戸玄人氏がサロンを愛読なさって、今後の成り行きを気にかけていらっしゃる。管理人として、何か知っていることはなかろうか」
管理人 「かりに知っていても、うかうかと喋れないのが管理人の役目なのです。でも、ここは裏サイトですから、少しばかり耳打ちしておきましょう。ほかのサロンの面々には内緒にしておいてください」
バロン 「ずいぶんもったいぶるね。めったなことでは、われわれのサイトを覗きにくるサーファーはなかろうというのに」
管理人 「皆さん、バロンのような目立ちたがり屋ではありませんから、それでよいのです」
バロン 「これでも、私は遠慮して、屋根裏に引っ込んでおるのじゃが」
管理人 「もっとよい部屋を準備できないで、失礼いたしました」
バロン 「居所に不満があるわけではない。余も玄人氏と同じように、サロンの遅々たる歩みに、少々じれったさを覚えておるわけじゃ。そんなわけで、裏サイトも作ってみたくなるのでござる」
管理人 「今第6章の構築途上ですが、ブルフローラ嬢の‘ムーンファーム’に関して、まだアノ方の許可が下りないものですから・・・」
バロン 「そこは管理人の権限というものがあるじゃろうに」
管理人 「判断が熟すまで待っています。その先はスムーズに行くことと思います。モーグルさんの‘フェイブルズ’で一夜が終り、ついでバロン、あなたの‘リューリシェス・インテルメッツォー(抒情的間奏)’で二日目が始まります。サロン・ウラノボルグのラグナロクを予兆します。それに関連して、カイメラさんの‘エッダ’の講座がつづきます。これ以上は言わないほうがよいでしょう」
バロン 「メルシー ボクー」
管理人(退場) 「それでは私は。羽和戸玄人さんごゆっくり」

バロン 「Kai 氏はなかなか慎重な男でな、余のネロポリスもみごとにbowdlerize されておりましたな」
玄人 「どうりで、私の好きな人魚姫の詩も見当たりませんでしたね」
バロン 「ネット向き、人畜無害にemasculate されてしもうたわい。しかし、それもまたよかろう」
玄人 「覚えている限りをリサイトさせてください。アンデルセンに捧げられていましたね」
バロン 「アンデルセンには迷惑なことじゃろう」
玄人 「おさしつかえなければ」
バロン 「少しならば」
玄人 「では<人魚姫>を。

     波音静かに打ち寄せる
     人住まない浜辺に
     貝殻と砂の間で
     夢のように囁く声
     おお 人魚姫
          人魚姫
            人魚姫
     人住まない浜辺に
     あるかないかの波音
     夢のようで
     松風のあい間に囁く声
     おお 人魚姫
          人魚姫
            人魚姫
     陽はやわらかに
     そよ風は眠り
     浜辺は沈黙し
     砂は温かなしとね
     夢のようで
     遠い沖に
     はじける波の泡
     おお 人魚姫
          人魚姫
            人魚姫
     君の髪は緑の藻草
     君の乳房は鱗に覆われ
     君の真珠は――
     おお 君の真珠はどこに――
     君の心は魚の心
     君の思いは海の思い
     おお 人魚姫
          人魚姫
            人魚姫
     人住まない孤島に
     波音静かに打ち寄せ
     貝殻と砂の間に
     情欲のすすり泣き
     陽は温かに照り
     風は死んでいる
     おお 人魚姫
          人魚姫
           人魚姫
     波の底深く
     海藻の森ざわめき
     灰色のさんごそびえ
     歌う白骨の群
     夢のようで
     君の真珠のいざない
     男達をほろぼし
     シレーネの唄は
     沖の白波にむせび泣く
     おお 人魚姫
          人魚姫
           人魚姫
     心ない君よ
     男の心を奪え
     魚の裸身を波打たせ
     心の偽善を哂うかに
     陽の光温かな砂浜に
     冷たい真珠を輝かせ
     男の情欲結晶し
     本能と本能のむつみあい
     陽は温かに浜辺を照らし
     無垢の楽園に
     そよ風は目醒めた
     おお 人魚姫
           人魚姫
             人魚姫

バロン 「うまくかわしてくれましたな。Kai さんの好意を無にしてはいかんからのう」
玄人 「いつか完全版ネロポリスにお目にかかりたいものです」
バロン 「それはそうと、君の大長編はいかがされた。不眠の夜に相応しいタイトルであったと思うが、たしか、夜のなんとやら」
玄人 「<夜の中心への旅>ですか、一応は書き上げて、Kai さんに預けておきました。私としては発表するつもりはなかったので、なくさないために預けたまでです。Kai さんとは旧い知り合いですから」
バロン 「Kai 氏に預けたのでは、容易に日の目をみんな。当分ウラノボルグ図書室に蔵
(しま)われておるだろうから、そのうち読ませていただこう」
玄人 「どうぞ。素人の作ですから、とても読めるようなものではないかもしれませんが」
バロン 「素人であっても、真摯な作は心を打つものじゃ。おまけに打算や妥協がないので、純粋に創造そのものの喜びが味わえるのじゃ」
玄人 「私もアマチュアこそ、真に文学の喜びや悲しみが味わえるものと考えています。これは文学の才能や作品の出来とは別に言えることです」
バロン 「文学も芸術であるからには、もって生まれた才能と、それを磨くことは大切であるが、文学の営みそのものは、ある種の人々には、生きることと同様に必然なのじゃな」
玄人 「そうですね。私も大長編を書くことによって、人生のくぎりをつけたような気がします。それ以後一度も読み返していませんが、書ききったことが一番大事だったと思います。それが芸術であるかどうかは二の次でしたね」
バロン 「世の中にはそうした無数の作品が、作者と共に生き、共に滅びて行ったことであろうと思う。仮に作品とならなくても、無数の見えざる傑作が世の中には作者と共に生きていることであろう。詩人は詩を書いて詩人となるのではない。あらゆる人間は人生を創作する限り作家なのじゃ」
玄人 「おっしゃるとおりです。私は恥ずかしながら、創作に値するほどの人生を生きていないのですが、人生そのものが表現を要求するままに、書きなぐってみたくなるのです。書くことによって人生を確かめてみたくなるのです」
バロン 「そうしたものもまたよろしかろうが、それだけではおのれを唯一の読者とする外はあるまい。しかし他者を意識するならば、どんな創作も芸術でなければなるまい。少なくとも芸術を志さねばなるまい。芸術とは他者に読ませるためのクッションもしくは口実のようなものといおうか、自己探求と芸術との違いはその辺にあろうな」
玄人 「たぶん私は自己探求に急で、他者に読ませるテクニックなどは考えなかったと思います」
バロン 「それはジェイムズ・ジョイスのような天才にのみ許されたことであろう、作品を解読するのに、その人のすべてを知らねばならないなどという難儀を読者に課すなどということは。芸術であるからには、作品自体がそのもので完結していることが求められるのじゃ」
玄人 「芸術とは確かにそのようなものでしょう。しかし芸術は必ずしも表現意欲に追いついてこないのです。これは単に私の無能の弁解に過ぎないでしょうが、仮に芸術でなければ他者の理解を求められないとしても、私は人に理解されることよりも、私自身が私自身を理解することを欲したのです」
バロン 「他者は作品を理解することで君を理解しようとするだろう。君が他者の理解に無関心ならば、どんな文章を書くのも勝手だが、他者の理解を拒むというならば、それはある意味で君の自尊心というものかもしれんな。人から理解された途端、君自身を小さく感じてしまうのじゃ。君を理解できるものは君一人でなければならない」
玄人 「バロンの言うことは当たらずとも遠からずです。確かに私は、自尊心と自己憐憫の間を揺れ動いている人間です。惨めな私をつねに冷たい目で見ていますし、かといってその冷たい私にもなりきれません。たぶんそれをカヴァーすることが、私にとっての唯一の芸術です。私は自分を滑稽に見せたくないのです。だからフィクションにも頼ります」
バロン 「今夜は、君の大長編を載せるには、この屋根裏部屋は狭すぎるのじゃが」
玄人 「短いものを持参しました。バロンとお逢いした前後の心境を、連作としてまとめたのですが、今なお未完成です。最初の一篇をバロンのお部屋に保管してもらえれば幸いです」
バロン 「ほう、<風の中の家>とな。余の部屋は置き場でしかないが、悦んでお預かりしよう」



               風の中の家

                    
羽和戸玄人作

序章

 風の中の家について書こうと思う。いやむしろ風の中の部屋というべきだろう。その家について解っていることといえば、その部屋ばかりなのだから。その部屋はかなり高い所にあって、ということは下の階があるということなのだがそれは定かでなく、ただ部屋から覗いた戸外はどの方面もこれといって視界をさえぎるものがなく、この家だけ、或いはこの部屋だけ、ひどく孤立した印象を与えるのだ。部屋の広さはちょっとした教室くらいあって、畳敷きである。もちろん仕切りなどはなくただ広い一間である。この部屋の特徴といえるのは四囲すべてに窓がいくつもあることだ。すべてガラス窓を開け閉てするようになっている。窓の外にはたえず風が吹いている。窓の外にと言ったがそれは正確ではない。というのは、沢山ある窓のどれかはいつも必ず開いているからである。そこから風が吹き込む。風は低いうなりをあげて四六時中止むことはない。妙に重量感のある風で、膚にひたひたとまといつく。だが問題は風ではなく、それが暗示する背後にある何ものかである。それはつねに風を先ぶれとしてこの部屋に侵入をはかっている。そのものの姿を見たわけではない。いつでも鳥の翼が投げる影のようなものだ。が、そのものは入ってきてはならない。それ以上の深い理由は知らない。そこにこの部屋のミステリーがあり、不安がある。不安は檻に閉じこめられた獣のようなものであるかもしれない。だが獣は閉じこめられることに不安を覚える。この部屋ではあるものと一緒に閉じこめられることに不安がある。だからそのものは絶えず侵入を防がれねばならない。絶えず! ・・・
 風は家のまわりで鳴っている。その低い絶え間ない振動を伝えた空気の圧力に、ひよわなガラス窓がけなげに耐えているのは奇蹟のように思われる。それはカタリともふるえることはない。不滅のバリヤーのように耐えている。だがどこからか思いがけなく、ひょうひょうと無色のヒダを波打たせた気流が部屋にうずまくのはどうしたことだろう。見回すと閉てきったはずの窓の一箇所がいつの間にか開いている。軽いパニックにとらえられ、いざるようにしてその窓を閉めに行く。ホッと息をつく。と間もなく風がひょうと鳴って、部屋の中を透明な気流がかけぬける。つのるパニックのうちに、その音もなく開いた窓に、なぜか重くなった体をひきずりはせ寄る。身にふきつける風には不安の予兆がある。一体何を恐れているのか、それは自分がなぜこの部屋にいるのか同様、漠とした根拠しか与えない。それがこの風の中の部屋の永遠のミステリーだ。

第一話 風の中の家

 風が吹いている。重く圧倒的に無辺の際から無辺の果てへ吹いている。透明に、沈黙して、岩を洗う水のように融通無碍に流れている。その轟きを躯が感じ、そのまといつく触手を皮膚が覚える。宇宙は共に洗われ、共にねとつく肌になぶられる。風はどこから吹いて来たのか――知らない。風はどこまで吹いて行くのか。この黄昏のエレメント
(領分)に風は生まれ、大気とは異なった生きものとして彷徨する。愛撫し、囁き、戦かせる生きものとして・・・。風には耳がない。風には口がない、目がない。くらげのように透明で大気に溶け合っていながら、謬りない意志をそこからかたちづくる。風の意志とわたしは対話し、耳傾け、惧れ、苛まれる。物言わないものがわたしを圧倒し、貫き、壊れた器械のような骸にしてしまう。わたしは風を拒む。風は大気の川床を走り、量感をもった沈黙の固まりとなって襲ってくる。鳴るのは風ではない。鳴るのは枯木のような骨であり、うつろな存在の共鳴板だ。そうして風がわたしの中を流れる時、わたしは虚空を落ちている。難破した探査機(ラウムゾンデ)となって、無用な雑音を発しながら宇宙を彷徨っている。手荒に蹂躙された肉体を無力な霊魂が眺めている・・・。
 わたしは自分の生れを記憶しない。わたしがどこで、どのように育ったか自ら知らなければ、わたしに教える人もいない。故郷や家族や友人や職場や、それらのものは曾て私のものであったことがあるかもしれないが、私の記憶は沈黙している。記憶ばかりでなく、人が普通に悟性と呼ぶもの、あることと他のことを区別し、あることとあることが同一であるなど、さまざまに判定する能力が、わたしにはすこぶる衰弱してしまったようである。しかもわたしは、そういう判断停止の状態に何ら痛痒を感じないままに日々を送ってきた。あげくは記憶の中に嘗てあったままの位置におかれていなければならない事柄どもが勝手に他の序列の中に割りこんだり、またひとりでに自己増殖を始めたりなどして、哲学者の説くようにわたしたちの観念を秩序づけるものが時間と空間の座標軸であるならば、わたしの頭の中ではもはやそれらの純粋観念は失われたものと見なさねばならないかのようであった。要するにわたしはいつからか自分の記憶を全く信用できなくなってしまったのである。あることを確かなこととして思い出したところで、わたしにはその記憶がなぜ確かなのかの証明ができないのである。
 たとえばわたしはある友人を思い出す時、彼は今とある会社で戸別訪問のセールスをやっているという確信を同時に抱く。その印象は間違いようのない確かさを持っている。しかしまた翻って考えると、その友人とは大学以来一度も会っていないのである。そして彼がそういう仕事をやっているという消息を一体どこから手に入れたものか、わたしにはすこぶる怪しく感じられる。手紙一本受けとらず、また他の人から噂を聞いたという確証もない。つらつら思い返してみるに、この記憶の確信はある小さな出来事をきっかけに発生したようなのである。その出来事自体がもはや曖昧模糊としている。わたしはある時木々の繁った道を歩いていた。そこは漠然とある市の東の方としか言うよりほかはない場所であって、おまけに何の用でそんな所を歩いていたのか今では完全に失念している。その道でわたしは一人の男とすれ違ったのであるが、そこは丁度森が切れて浅い谷のようになった、道がかなりのスロープで向いの繁みに隠れていく挟間であったことをなぜか鮮やかに記憶する。その向いの繁みから下りてきた男がわたしのかつての友人であったのである。木々の蔭にあって友人の姿は黒ずんでいた。一目見てセールスマンか何かと知れる出立ちで、手に革鞄を下げていた。わたしは彼の姿が道に現われた時から直感的に彼であることを認めたつもりであった。だが彼の服装にとまどって足を止めたまま黙って彼の近づくのを待っていた。意外なことに彼はわたしに気づかないようなのであった。彼はなるたけ木陰を選
(よ)るように歩きながら傍らを過ぎて行こうとする。わたしはもう一度男の顔を見直してみた。その影のさした顔かたちは友人のそれのようでも、他人のそれのようでもあり、わたしは確信を失った。そしてその時浮かんだ直感は、彼はセールスマンという職業に誇りを持っておらず、わたしと話をして傷つくのを惧れ、意図的に他人顔をしたのであるということだ。今ではわたしはこの出来事が実際にあったことか、わたしの空想の作り事であるか――人家の稀な森の中でセールスマンと出逢うというのも変ではある――確信をもって判定できないが、ただその時の悲哀がかの友人のイメージといつのまにか重なっていて、彼を思い出す時には、身にそまない仕事にあがいている彼の悩ましさが、同時に強い印象となってわたしの意識に刻印されるというわけなのだろう。こうしたわたしの記憶の誤謬を――なぜならわたしのかの友人が戸別訪問のセールスをやっているという証拠は何一つないし、彼は人生の成功者となっているかもしれないではないか――正すことは容易いであろう。わたしは彼に音信を送るなり、共通の友人から噂なりと聞けばよいわけである。わたしがそれをしないのはなぜであるか・・・。あることが事実として誤謬であるかどうかということは、わたしにはすでにそれほどどうでもよいことになってしまったのか。
 わたしの記憶の不確かさを長いこと放置した結果は、単に観念の斉合性を撹乱させたばかりか、人間の意識で最も確実な事柄といわれる自我の存在の明証性にまで曖昧さを来たしたようである。わたしはわたしが何者であるかをしばしば忘れるようになった。早い話がわたしは自分の名を呼ばれても、それが自分の名とは認められない。わたしに名前などがあるということは、額に瘤でもできたように滑稽なのである。わたしとて名前というものの効用について知らないわけではない。現に隣に飼われている犬は、わたしが‘ポチ!’と呼びかければいそいそと尻尾をふる。彼は自分とポチが同一であることを疑わない。パブロフ博士の犬がベルを聞いて涎を垂らすのと本質的には変わらない条件反射をそこに見ることは容易い。しかしわたしがわたしの名前を呼ばれて尻尾をふらなければならない理由がどこにあろうか。bapu だとか dododa などという純粋な音がわたしと同一のものであるとはどうしても思えないのである。しかし私の知っている人たちはそれらの音を聞いて、ポチにおとらずいそいそと尻尾をふる。もしわたしにだって確信が持てたなら、たとえば popopu という音が確かにわたし自身であると納得がいった時には、どうして悦びいさんで尻尾をふらないことがあろう。しかしながら、わたしは自分が何者であるかを知らないし、はたして自分にも名前などというものが判で押すようにわたしの魂に刻印されてあったのかどうかも知らない。といって、わたしがわたしの名前を失ったからといって、わたしがわたし自身を失ったと考えるのは当っていない。
 確かにわたしからはたくさんの事柄が、玉ネギの皮を一枚一枚剥がすように剥落していったような気がする。記憶という機能によってわたしというパンドラの箱の中に蓄えられたあらゆる災いが飛びさり、最後に希望という胡蝶が飛びたったあとに、自然の厭う真空が残されたとでも言おうか。哲学者は記憶によってとどめられたものの他には‘わたし’の属性として残そうとはしない。‘わたし’は経験によって与えられた観念の集合であり、それらの観念が欠落する時、また‘わたし’という観念も欠落するであろうと。わたしが何者であるかは確かに私は知らない。私のアイデンティティを構成する諸観念が不養生の果てに脱落したがためである。しかしやはりわたしはわたしであることに違いはない。わたしは確かにわたしがわたしであることを知っている。これには何の疑いもない。わたしはデカルト博士とともに‘わたしは在る’と確言して憚らない。だが実を言うと、わたしにはそのわたしというものが、わたしは在るということ以外何も知れてはいないような気がするのである。わたしが在るというのは結構なことである。だが在るところのわたしは何者であるか。わたしは考える――私はわたし自身について考える。するとやがて私の胸は狭まりだし、呼吸がにわかに意識されて、酸欠を訴えるかのように早まってくる。何ということであろう。おのれ自身を考えることが、あたかも暗い廃坑をのぞきこみでもするように不安の蝙蝠を一斉に飛び立たせようとは。それはわたしがアイデンティティを喪ったことに基因する――つまり記憶喪失者の不安であろうか。そういう不安がわたしにないとは言わない。だがわたしがわたしを見つめることによって起こるパニックは、どうやらわたしがわたし自身をふとしたはずみでわたし自身とは思えなくなり、わたし自身によそよそしい怖れを抱くことから生じるらしいのである。わたしの見つめているこのわたしという他人は誰だ。こんなに赤裸で飾りもなく面と面とを突き合わせてわたしを見返しているこのわたしは何者だと。わたしは本の中に恐い写真を見つけた子供があわてて頁を閉じるように、わたしから目をそらす。しかし恐い写真の載った本はそこにあるだけで子供を脅かすように、わたしはわたしの素気ないわたしを、できればいろいろな観念のガラクタ箱の奥に抛りこんでしまいたいだろう。わたしはわたしが何者かであるならばわたしを怖れないですむ。しかしわたしは何者だろう・・・・・・
 わたしが自分が何者であるかを知らないとはいえ、せいぜいわたしが何者であったかぐらいのことは判りそうなものだと思う人もあろう。この点は大いに区別する必要のあることをわたしも認める。なるほど人はおのれが何者であるかを直視して覚ることは困難であろう。しかし人はおのれについて思い出すことができると(わたしのように記憶が衰弱してしまわないならばだが)。普通にアイデンティティと称されるものは、わたしにおいて起こり、わたしに対して加えられた、そしてわたしがわたしのものであると見なしてきたそれらの経験に対するわたしの反応の総体を追憶することであろう。つまりわたしとは過去においてあったわたしでしかない。より正確に言えば、私の記憶の中に蓄積されたわたしに関する意識のデータにほかならない。だが果たしてそれがわたしだろうか・・・。こういう疑問を呈するのはわたし自身もはやそういうわたしを持たないからである。わたしは常に今あるところのわたしに外ならず、わたしは回顧されたわたしではない。たとえ人が後者をわたしのアイデンティティと呼び、わたしがそれを喪ったために、わたしはわたしという人格の時間的連続性の中で一個の破片のようなものになってしまったのだと診断を下すにしても、少なくともわたしは喪ったわたしの人格に対していささかの痛痒も感じていないことは確かである。そしてそのわたしに付加される過去のわたしなるものが、はたしてこのわたしと同一なものであるかどうかをわたしは疑うのである。私の記憶が衰弱しはじめると、わたしからそうした虚偽のわたしは惜しみなく剥落していった。わたしは記憶というものから独立したわたしを発見した。わたしはわたしを探すために記憶の迷宮にもぐりこむことはしなかった。わたしは絶えずわたしの目の前にあった。そのわたしはわたしのようではなく、わたしの探る眼差によそよそしい横顔を見せた。わたしはこれまでわたしについてはこの世の誰よりもよく知っていると思っていた。なにしろこのわたしがわたしなのだから、わたしがわたしであることなど考えてみるまでもないと思っていた。ところがそこに油断があったようなのである。
 わたしがわたしをそこにあるものとして意識し、考えようと努めだすや、わたしはわたしをわたしでありながら妙に心細い存在として、しかもわたしをわたしと考えることに反撥させるとげとげしさをもった眼として感じるのである。これはどういうことであろうか。同じものをある時は心細さとして、またある時は敵意を持ったものとして感じるというのは。思うにこれはわたし自身の意識の視線の方向の交替が、わたしの中に違ったものを見させるために起るのであるらしい。わたしがわたしを考える時、わたしは身を静止させて、いわば無念無想の状態におく。そしてその平静を破って現われてくるものを私の現象とみなすわけである。わたしはまず呼吸しているわたしを感じる。ついで心臓のあたりに流れる血の生温かさを情緒として感じる。さらに床についている足裏の感触や考えているわたしの脳のかすかな疼きを覚える。また例えば戸外に降る雨の音などが、外から来るものとして私の意識を叩いている。またわたしの目の前にある机や本や光は、そこにあるものとして私の意識に描かれている。だがわたしは音や光などをわたしとして感じているわけではない。わたしはそれらのものに取り囲まれているわたしを見いだすのである。わたしはわたしの手をみる。見える手は単なる物にすぎないが、見られる手はわたしの手と感覚される。わたしの?・・・わたしの意識の視線はわたしの身体に向けられている。身体とその運動の意識をわたしはわたしとして見ている。わたし?・・・だがこのわたしは、見ているこのわたしの視線の前で猛禽の眼にさらされた子兎のように身震いしなかったろうか。この‘わたし’を構成するのはわたしという意識のデータの総体であることに疑いはないだろう。わたしの心臓を、わたしの足を、わたしの脳髄をわたしのものと呼んでよいであろう。もっともそれらのものがわたし自身というわけではないが。たとえば知らないうちに他人の心臓や他人の足が私のものと交換されてしまったとしても、それらはやはり私の意識に参画する限りわたしのものであることに違いはない。だがわたしがそれら身体的意識を妙に頼りないもの、弱々しいものと感じ、そして見るわたしの仮借ない視線に対して見られるわたしが身も世もなくうろたえるのは何事であろう。わたしの目の前でわたしはあらゆる虚飾を剥ぎとられた裸体の身をさらす。わたしはわたしの目をあたかも嘲弄に口許を歪めた他人の目のように感じる。わたしはあられもない姿でいる所をふいを襲われ、狼狽し、羞恥に身を焼かれ、そして身を丸めた棘だらけの動物のように最後には強情の針で抵抗する。それが‘わたし’だろうか。わたしは悪魔のように平静に、神のように無関心に、そういうわたしを見ているわたしではないのか。
 わたしがわたしの身体的意識の中に‘世界の中に投げ出された’わたしの不安を覚え、そしてそんな不安定なわたしによそよそしい眼差を投げ、そしてその眼差しに傷ついたわたしがかえって反抗的になるのを見、そして檻の中の一個の不合理な動物でも見るようにわたしを見放した後、次いでそんな風に冷静にわたしを眺めているわたしに気づき、視線を上昇させてどこか私の両眼の背後あたりに働いている思考の工場に眼差を移す時、わたしの意識は妙な不快感に染まるのを覚える。わたしはわたしの身体意識を眺めている分には冷静でありえたものを、今わたし自身の思考に目を向ける時,、あたかも意欲と感情の荒廃の中をロゴスだけが歩むような鉄錆のようにざらついた感覚に包まれるのである。これがコギトーというものであろうか。わたしはわたしをあたかも仇敵
(かたき)のように見つめているのだ。わたしの胸は狭まり、また拡張し、深い息をつく度に呼吸困難は増していくようだ。わたしは何者かに見つめられているわたしを感じている。身体に対しては勝利した私の思考はわたしの思考自体を思考しようとするや、ある見えない敵の視線の前に萎縮し、圧倒されている。思うに人間が考える存在であるなどというのはたわけた自惚なのであろう。おのれの思考について考えることさえできない思考にいかほどのことがあろうか。思考はおのれが思考であること以外に何を知ることができようか。わたしは頭蓋の暗い夜の中で思考が照らしえない淵を見る。なんという不快であるか。わたしの両眼から差しこむ昼の光もその深淵にまでは届かない。人はおのれの頭蓋の中にいつでもどこでも暗黒を持ち回っていることに気づいているだろうか。わたしの眼が絶えず外へ向おうとしているのも、その深淵から逃れようとする怖れ以外の何物でもない。わたしは‘自己疎外’以外の何物でもないのだ。
 認識しうるすべてを認識するが、何ものによっても認識されないのが主観であると哲学者は説く。主観が主観を認識することは原理的にはありえないことであろう。それにもかかわらずわたしは、主観が主観の本質を直観する瞬間があると信じる。その直観は瞬時にして自足的知のモナド的世界を打ち砕く。そも創造とは無からの逃走であり、存在とは真空の恐怖の謂ではないか。同じく知とは――思考する私とは、何ものかからの逃避であるに違いない。おのれの本質からの盲目的脱走に外なるまい。知が盲目? わたしは一体何を言おうとしているのであるか。わたしは古代以来言い慣わされてきた‘わたし’についての無知をことさらに駄弁をふるって再説しているにすぎないのか。わたしは哲学論文を書いているのではない。知を弁護し、知について疑い、あるいは何か真理というものを求めたり、またはそれの存在しないゆえんを証明しようなどという魂胆ではさらさらない。そういうことはわたしの衰弱した脳髄のよく果たしうるところではない。わたしはただ私自身の状態を語っているにすぎない。私の置かれた環境がわたしの意識の方向をわたしの内部に向けさせることに大いに与り、如上の独白をなさしめているのである。わたしは意識の波立つプールの中へダイヴィングしたが、ダイヴィングしたわたしも、プールの水の持つ意識も、共にわたしであった。わたしは潜水しか泳ぎを知らず、水の底へ潜っていったが水圧の抵抗は増すばかりであった。ついに肺腑の中の酸素が尽きようとした時、わたしはわたしの意識の中でふいと‘われ’に返ったのである。一本の針のようにわたし自身の意識をつらぬいていたわたしは、一本の針のもろさを覚えたのであった。わたしはわたしに対して何者であろうか。わたしはわたしについて何を知っているのか。一本の針が枯葉のように落ちていくのは底無しの深淵ではないのか。
 わたしは無我の大我とか無底とかいう何か形而上的、神学的概念とたわむれるつもりはない。わたしがわたしについて言えることは、わたしが絶えずわたしの本性から逃避し、わたしの視線を絶えず私の外へ向けるよう意欲させ、従ってわたしの本質は何らそれ自体では積極的な存在ではありえないということである。何者によっても認識されないのが主観であるとしても、また何ら認識する対象のない所では主観はおのれの存在を持ちこたえることができないであろう。即自存在などというのは意識にとっては全くのナンセンスである。もし世界の始めに意識が存在したとするならば、その世界意識と同時に対象としての世界が存在しなければならない。そしてそれらを生み出した窮極的根拠は、少なくとも意識であってはならない筈である。意識であることは宿命的に二元的であり、もし主観と客観が一元的に統一された自己自身を考える神などというものが想定されるとすれば、神がおのれの身体を人間との類推上持つのでない限り、その即時体としての神は意識とは違ったあり方をしている筈であり、その思考は思考であってはならない筈である。意識がおのれ自身からの逃走である以上、存在は意識である限り自足を知らないであろう。わたしが考えるということは、わたしがわたし自身を怖れるというのと同断であり、
わたしはわたしという隠れ蓑に隠れて、わたしの本性の虚無的な眼差をわが身から遮ったつもりでいる。わたしはわたしの意識を隠れ蓑であるという。なぜなら光は光であることによって闇を隠すからである。すべてを隈なく照らす光をわたしは持たない。それは不幸であるか、幸であるか。わたしは光の強烈さよりも、その光の照らし出すものによって打ちのめされるだろう。大きな松明を手にするには、人は超人でなければならない。そして超人であるとは闇に目を慣らすことである・・・。
 わたしがわたしが何者であるかを知らないと言った意味が、これで両様に理解されただろうか。わたしは記憶の衰弱によって過去から切り離されることでわたしのアイデンティティを失い、次いで私自身の本性に眼を向け、明晰判明とされる自我の意識の中にかえって暗黒を見た時、わたしにはあんなにも自明であったわたしの存在というものが、ただ存在するということだけを除いては何一つ不分明でないところのない存在であることが感知されてきたのである。だがわたしはソクラテスのようにおのれについての無知を謙虚に誇ることはしない。わたしについて知らないということは、わたしにとっては私自身を失うことと同一である。わたし自身を失いながらもなおかつわたし自身が存在しつづける――これは苦痛でなくて何であろう。わたしが誰であるかを知らず、何であるかを知らずしても、わたしが存在しつづける・・・何のために? わたしはわたしの失われた時間直観の残滓と思しきあたりに遠い眼差を注ぐ。わたしがまだ確信をもってわたしであった頃のはるかな遠望の中に、何かを探し求めるかのように。荒廃と無為との一面の荒野をかすかな苦痛に疼きながら霧の中に一望した後に、わたしは衰弱したタイム・トラヴェラーのようにひたすらわたしの出発点へと還っていく。
 木枯らしが吹いていた。就寝の床はいつでも至福の時であった。少年はいつもの通り一日でもっとも悦楽に満ちた現と夢との挟間の世界に心遊ばせようと、厚い冬布団にもぐりこんでいた。けれどもその夜の悦楽はいつもと違っていて、ヒーローやスーパーマンや片思いの勇者ではなかった。家の裏の欅の大木を鳴らせて吹きつのっている寒風から隔てられて、ぬくぬくとした布団に包まれているわが身そのものが、この上ないGeborgenheit(保護されていること) の心地よさを覚えさせていたのである。心地よさそのものに浸っていた少年は、、ふとその心地よさに浸っている自己自身を顧みて訝しく思ったのである。うつぶせに寝ていた少年は、余りの訝しさに身を起して布団の上に坐った。自身がそこに存在していることの不思議さが、どう考えようとしても解けないのであった。それは思い出そうとしても思い出せないじれったさにも似ていたが、それにしても思い出すべき本人はそこにいるのである。この不思議さはしかし次の瞬間には驚嘆に変り、驚嘆はそのまま喜悦に変っていた。自己自身が存在している不可解さとは裏腹に、その不可解さに触発されて、少年は自己の存在というものを明瞭に意識できたのである。何はともあれ自己が存在しているということは喜ぶべきことであり、少年は思いがけず何か秘密の宝物を手に入れたような気がして、布団の上に身を起したままにこにこしていた。自己が存在していることを思うだけで喜びがこみ上げてきた。この世で自己が存在していることほどに意味があることはなく思われた。この不可思議、この不可解がある限りは、この世界は、この宇宙は、その中に生きる価値を輝かせるであろうと。それは少年の人生にとっての一大発見であった・・・・・・
 まことにわたしはわたしであることで幸福だった。わたしの存在を訝しみ、驚嘆し、嘉(よみ)しはしても、わたし自身について疑いはしなかった。わたしはあくまでもわたしだった。わたしにもし過去がなく未来がなくても、わたしはわたしであるに違いなかった。それは存在することの純粋の陶酔だった。あるいはわたしは存在するよりもむしろ生きていたのかもしれない。わたしの生命の充溢が懐疑などというものを手もなく押し流していたのだ。少年がいつでも生きる喜びを見いだすためには、自己自身の存在の不可解を思いさえすれば充分なのだった・・・・・・。人生の最高の瞬間は少年期にのみ訪れる。少年は老い、賢くなることによって、いつしかそうした存在の純粋無垢な陶酔を失っていく。生命は生きることに汲々として、もはや自己の存在の奇蹟などは顧みなくなる。わたしが存在することの‘懐疑’を再び拾いあげたのは、わたしのペシミストの眼だった。わたしの堰きとめられた生命はわたし自身に反逆し、逆流していた。わたしはわたしを疑い、返す刀で世界を疑っていた。しかしわたしを疑うということはもはやわたしに対する不可思議の驚嘆ではなく、ただすべてを疑いうるための予備的方法にすぎなかった。デカルト博士の懐疑が彼のドグマを強化したように、わたしもまたわたし自身を強化することに努めていた。わたしは世界をわたしの目でわたしの中に再現しようと企んだ。わたしはその観念世界で王たるべき者であった。わたしへの疑いはわたしへの逃避であった・・・。けれどもわたしはここでわたしの独我論的思弁に脇道するつもりはない。それよりもわたしはわたしの最大の敵と、わたし自身について行ったある実験について語ろうと思う。
 わたしは相変らず‘わたし’という存在に驚かされる。しかしそれはもはやわたしに対する素朴な驚嘆でないことは上に述べた通りだ。今ではわたしはわたしのふてぶてしさ、不遜さに見つめられて辟易すること度々である。そしてわたしはそれもわたしであることを認め、その言い分を聞き、その意欲するところにわたしを従わしめる。わたしはもはやわたしの何者であるかを問わない。かつてわたしを悩ませたわたしがわたしであることの意味は、他人がやはり‘わたし’という他人であることが少しもわたしを悩ませないのと同様、わたしの嘲笑に出会ってすごすご後退する。わたしはわたしについて知らない、ましてやわたしの存在の意味においてをや。とはいえ、わたしに関するあらゆる懐疑にも拘らず、わたしが存在しつづけることには何の違いもない。わたしは存在しており、このことはわたしがいかほどわたしを拒否し、わたしをわたしでないとしても、ついに否定できず、わたしは発狂するのでない限りわたしの存在から逃れることはできない。たとえ発狂した所で、単に一時的にわたしを忘れるだけのことだろう。わたしの存在を全面的に消し去ることはできない。死?死こそはわたしの存在の解決だろうか。ゴルディアン・ノットのような存在の懐疑を解消する利刀だろうか。だが死とは何とわたしの存在とはあい容れない事柄だろう。わたしはただ死に打ち負かされるだけで、わたしはそこにいかなる審判官も見ることはできない。死とはわたしの見知らない何かで、そしてわたしの意識が絶えず逃れようと努めている背後の深淵と共通するものがある。死をはたしてわたしは未来において見ているのだろうか。わたしはわたしの背後から追いかけてくる圧倒的な恐怖を、不条理を、死と名づけているのではないか・・・。
 わたしが死を抱擁することは決してないであろう。死はわたしの存在にとっては矛盾そのものである。わたしはわたしを擁護する。わたしはわたしの非在ということを考えることができても、非在であるわたしを想像することはいかにしてもできない。わたしはわたしを存在すると考えることで、わたしの思考を端的に存在と感じることによって、わたし自身を見いだす。わたしはその意味で、わたしに関してはあらゆる合理主義者と共に最大の確信を抱いているわけであろう。わたしの存在以外にわたしは何を知っていよう。神? 霊魂? 物質? 死? わたしは言葉の真の意味でエゴイストである。しかしまたわたしはわたしの存在についても、わたしが存在することを知っている外には何一つ知らないのである。果たしてわたしの存在がわたしであるかどうかも、わたしは先ほど疑ったばかりである・・・。
 他方、わたしが死について何一つ知らないということは、しかしわたしが死を惧れないということではない。惧れにおいてわたしは死を知っているともいえる。死はわたしという存在をパニックにおとしいれる。わたしはわたしであることの決定的抹殺を死において見る。しかしわたしの非在化の予想がなぜわたしに理不尽な不安を強いるのか。わたしはわたしの身体的意識の存在へのあがきを見てとる。試みにわたしはわたしの首を絞めてみた。わたしの呼吸は阻止され、血流は上行を妨げられる。わたしはわたしの本気を疑っており、その限りでは気楽である。やがて胸郭に窮屈さを覚え、脳髄は血の不足を訴えて耳鳴りを高まらせる。わたしはまだわたしの善意を疑わずに安心している。わたしはマゾヒストが覚える被虐の快楽すら感じかねない。ひときわ窒息の苦しみがこみ上げてくる。わたしはまだわたしの安全を確信している。そしてその苦痛が一過すると不思議に陶然とした気分がわたしをひたした。もはやわたしは苦痛を惧れていない。わたしは苦痛のために死を惧れることはないであろう。
 するとその時であった。陶然とした恍惚状態にあったわたしを実験者の目で観察していたわたしの耳元で、鈴のような声が誰かの名を呼んだのである。聞き覚えのある声であったが、その人であるという確信はなかった。わたしは一瞬ハッとしたが、すぐさま甘い絶望感のようなものが身を浸していった。その声には警告と叱責の響きがこもっていたのであるが、わたしはかえってこのまま実験をつづける気持に傾いた。死んでみるがよい――わたしはわたしに囁いた。窒息の苦悶は間をおいて恍惚と交互にやってきた。わたしは波間に浮かぶ溺死人のように、わたしの感覚の苦悶のあがきを波打つにまかせていた。すると波の谷間に沈みこんんで、ふいにあたりの静寂が増したような間隙がおとずれた。わたしは次にくる途方もない大波を予想した。わたしは最後の陣痛を乗り切ることができるだろうか。乗り切る? 死を乗り切る? 何という不条理だろう。わたしは何か死を積極的なものと勘違いしたらしい。わたしの見ているのは死ではなく、わたし自身の苦痛でしかないではないか。わたしは索然として興味を失っていった。わたしは非在をわたしの存在と交換するに値しないものと見なしていた。その心の虚に乗じて、不安が苦痛に入りまじってきた。不安はかえって苦痛の恍惚を増すかと思われたが、死の常識的な恐怖が実験を中断させた。わたしは何か自身を騙したようなもの足りない気持だった。わたしは死の崖ぶちまで行ってみなかったことが悔やまれたが、繰り返すだけの熱意を失っていた。
 わたしの恣意的な死の実験が教えることはたいして無い。言えることは、わたしが生の享楽者であり、死の苦悶もたわむれである限りにおいて許容するというぐらいのことであろう。それがエゴイストという者であろう。自己保存を何よりも意味あるものとして第一原理に据える者には、自己の否定である死は第一の敵でなければならない。彼は死を敬遠し、死と闘いはするが、死と和解することは決してないであろう。死が彼を打ち負かす時も、彼は決して死の勝利を認めることはないであろう。その限りにおいてエゴイストは誇り高い人種であり、また他面十分に臆病な人間でもある・・・・・・・・・

copyright: hawado kuroto 2009
up: 2009.3.5