夜男爵の部屋 第4夜

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         風の中の家 第4話    公園

                        羽和戸玄人 作


プレリュード

 蒸し暑い夜だった。いつのことか定かでない。昨夜のようでもある。あれがやって来るには最適の夜だった。疲れていたのだろう、しかし眠れない。シーツにべっとりと四肢の汗がねとつく。両方面開け放した窓から風が吹きこみだしている。なま温かい風だ。顔の面した側の窓には、半分だけカーテンが引かれている。外の夜空は部屋の闇に較べて明るい。ぽっかりと長方形の微光が、目を開けるたびに浮かんでいる。夜の底から絶え間ない幻聴が起こる。遠くを走行する車のうなりだろう。しかしそれもしだいに沈黙に溶けこんでいく。眠りの沈黙に。はたして眠りがやって来たようだった。いつの間にか眠りに落ちたのだろう。いや、それとも眠りと覚醒の薄いヴェールの間に漂っていただけで、やはり半分は覚めていたのかもしれない。どちらにせよまだ眼球は閉ざされていなかった。いや、やはり眠りこんでいたのが、何かの拍子にふいと眼を開けたのかもしれない・・・。とにかく眼はほの白い窓枠をとらえていた。するとその静止したままであるべきはずの長方形が、突然飴かなにかのようにぐにゃっとなって、ずんずん下のほうへ沈み始めたのだ。それは異様な燐光を放っているように見え、全く個体性を失ったしなやかな曲線に熔解して、下方へ沈んでいくのだった。そしてたちまちに小さな光の点となって、やがて闇が支配した。闇の中で発狂の恐怖が心をつかんだ。このままでいれば二度とこの闇からは逃れられまい。もがいた。そして不思議な力が身体を束縛しているのに気づいた。すでに肉体は何かに操られる機械のように硬直して、それを心がいわば外から眺めているのだ。何とも奇怪な、同時に苦痛に満ちた感覚。闇の中にいながら身体をはっきり見ることができる。そしてその身体は異様にうごめき始める。あたかも操縦者がそこにのり移って、ほしいままな運動を四肢に命じるかのように。それはある意志の意のままになる、肉体というロボットに過ぎなかった。そしてその侵入者の意志とは・・・。ここで意外な発見をした。この肉塊に襲いかかり、ほしいままな使役を加えている眼に見えない操縦者とは、この自分、こうやって外からおのれの身体を眺めている自分に他ならないではないか。そして可虐者であると共に被虐者でもある――この分裂の感覚はいよいよ不安をつのらせた。どうしてもこの狂気から醒めなければ・・・。不安におし迫られて、なんとか片方の眼をこじ開けるように開けた。片目!その右の眼は、白くほの浮かぶ窓枠の長方形をとらえていた。左の目は・・・いまだ眠りの淵にどっぷり浸かっている。そして、そして、右の眼がかろうじてとらえた世界も・・・長方形の白い微光はまるで飴のように自在な曲線にとろけだし・・・ゆらめき、崩れながら下方の深淵へ落ちてゆく・・・一点の光の像となって・・・。やがて暗黒が眠りと覚醒のヴェールにとって代り、ビロードの翼を広げてゆく。

公園 その1

 夢一つない深い眠りからのふいの覚醒は記憶があわただしく働き始めるまでの間怖れに似た空白の空間を持つ 意識の見つめるものが深夜の漆黒であろうと真昼のしらけた光であろうと一瞬間そこに妙によそよそしくかつふてぶてしい世界が凝視されることに違いはない それはあたかも意識の眼から不注意に仮象のヴェールが取りはずされたままに世界のあるがままの無意味さが垣間見られてしまったとでもいった当惑と不安に満ちた瞬間である 意識はそこに現われているものをおのれ自身の中に呼応する運動を見いだすことによってすでに親しいものであるとする安堵を求めようとする 意識と意識に侵入するものとはこうして馴れ合うことを学びあたかも認知することが存在のすべてを尽くしているかのような錯覚のヴェールをおのれと事物とに投げかけるのである 意識は物との共犯の中に生きる 事物を馴致することで事物に馴致される 物とおのれとの間の底なしの淵を一瞬でも意識することは世界が根柢から意味を失うような不安を覚えさせるのである 意識は覚醒しつつ夢見る 夜遊病者の崖ぶちを怖れることなく歩むように存在の深淵にかかる幻の橋を踊りつつ行く
 意識の仮象のメカニズムが世界を再認させるプロセスを意識は覚醒の瞬間に絶えずくり返さねばならない あたかも覚醒において夜の夢から真昼の夢へと単に舞台が暗転するかのようにそこで演じられていることはやはりフィクションのつづきである 意識はシュールレアリストのように眠ることを仕事とする 時として夢から夢へのはざまに意識のメカニズムのほんの一瞬の虚をついた空隙に事物のUrphaenomen (ウルフェノメーン)が根源的な無意味として顔をのぞかせることがある その突然の啓示は意識の囚われている虚妄の網のいかに誘惑的で快適であるかを悟らせる 意識はその瞬間に存在の不毛の荒野を見るからである 意識は虚妄の中に生きることを選択したのであり世界とは虚妄の牢獄に生成をくり返すことである だが意識はそのことを悟ってはならないのである・・・意識の苦悶が意識のもともとの素性が逃亡者であることを告げている 意識は生成することによって何ものより逃れたのであるか しかも意識の避難所がすでに虚妄の牢獄であってみれば意識が逃れたと思うこと自体虚妄であり犯罪者が追跡を断つために進んで監獄に入るのと違いはない 意識はさまざまな枷をそれらがおのれの正体をおのれの目からさえ隠蔽してくれる限りにおいて枷とはみなさない すすんで枷を担いそのことを悦びとし自らにこの避難所を授けられたことを何ものかに感謝しさえするだろう そして逃亡者であることすら忘れている ついに発見される日まで・・・
 意識の牢獄は牢獄であるためにはあまりにも光に満ちていた 意識がそこに楽園を見たとしても不思議はない まず意識の中核にまでにぶくとどろく何とは知れない振動が一つあった それが鳴りやむと軽い疑いが意識の中に目覚め 滅びていった印象のあたりにおぼつかなくわだかまっている そのままとぎれも強くなりもしないままに探偵のように小声でつぶやいている所へ再び意識をにぶく揺るがす振動が前よりもはっきりととどろいた 探偵はたちまちわれに返ったとみると彼は目覚めたのである それは麻酔から醒めた時のように不意のことであって空白がその背後にどこまでも広がっている中で得体の知れない乱暴なものが彼の前に立ちふさがって圧迫していた それは輪郭のはっきりしない濃淡のあつまりとしか言えないものでそれが不思議に輝いて彼にのしかかってくるのである その形をよく見ようとするともやもやとした不吉な顔や姿が現われだしてはたちまちに変貌する 彼の不安がそのままそこに具象したかのように 彼の心臓の鼓動が高鳴るにつれてそれはいよいよ険悪さを増していく 彼は目を閉じたがそれは意図だけに終ったのであったか それとも怪物は彼の心の中にもひそんでいたのであろう 息をつく間もなくとぐろを巻くきらきらした物象が不定形の形をとりだす その時彼は警鐘のように耳もとでパシャと水の鳴る音を聞いた それはたしかに水に物の落ちる音であってそのことを理解した時にあたかも魔の退散する合図であったかのように彼の前から光るもののけは立ち去っていた もののけと見たのは彼の上を蔽っている緑の葉をしげらせた樹木の枝ぶりであった
 丸木を二つに断ち割って脚をつけただけの公園の林にふさわしいロハ台から彼は深く寝入った後のような木の堅さに応じて硬くこわばった体をものうげに起こした 陽はまだ沈むには遠く雲が不穏に集まりだしていたが枝のすき間にのぞく空はことのほか明るかった 風はなくどこか樹木のはるか梢の方で鳥の羽搏くかすかな気配の外は全く静かである するとかさかさと葉が鳴って地面が湿った響きをたてた もちでもつくようにくぬぎの実が落ちたのである 尾長であるか梢の葉の間にちっぽけに見え隠れする鳥が実をつつくたびに大地は自然の杵をうけいれて実の大きさのわりにはずっしりした響きをたてる 樹木は枝の一方を池の上に張りだしていてそちらで落ちる実は水音をたてている 不毛な響きであった 水の墓で腐れるために落ちる実の絶叫とでも言った 彼は木の実を再生と死に追いやる鳥の境遇に興味を覚えて起した身をまた倒し空のまばゆさのもれてくる隙間に黒っぽくすばやく飛び回る生きものをしばらくながめ やがて飽きたのであるか鳥の方で彼の好奇心に充分応える親切を持ちあわせなかったのであるか首を回して池のほうへ視線を移した 雲のいつしか空をいぶし銀にとざしていくのに呼応して池水は淀んだ不透明のシーツを広げている 対岸沿いには濃緑のまだらを深く静謐に沈めている その緑は絵のようなという形容が陳腐ながらも首肯される一種言いがたい深みをもって目にしみてくる このような自然でありながら自然からそのタイトルを幻夢の中に移行させるかの印象は彼がそれをながめている特別なアングルに大いに負うところがあるようだった その緑の印象のえもいわれぬ深さに彼が当惑して身を起しながめかえした時には風景はその魅力の幾分かを減じたように思われ ありきたりの構図がまず鼻についたからである 彼はもとの仰臥にかえり首を斜めに半ば上目づかいに目をやりながら奇蹟を見ると破壊せずにはいない疲れた好奇心を笑った
 地上の赤松と灌木の渾然とした緑の団塊はその仮象を岸に沿って池水に沈めている その緑の虚実の延長は彼の頭の方向に無限に伸び広がっているように思われたことが特殊な感覚の秘密であった それはすべて上方を意志するものにそなわっている不思議な解放の予感に満ちた感覚にあずかっている 地上へ伸び広がっている緑ならば必ずそこにある蒼古の憂鬱がある 目はおのずと屈服するものから離れてたとえば針葉樹の幾何学へと憧れる 自然のピラミッドが表象する意志について思うのである その鋭角の果てには囚人の夢をはらんだ無限の曇り空がある
 彼は風景から純粋の感覚にあきたらず思想をくみとってしまう貪婪な眼に疲労して首を正面に戻ししばらく瞑目した 遠く梢の上を渡っていく尾長の奇怪な叫びも静寂をきわだたせる ふとかすかな針のような冷気が顔にふれる それはほんの予感のような感覚であったが彼は雨とつぶやいていた 空は雨をもよおすほどに暗く厚い雲におおわれてはいずかえって輝いて見えたが 砂粒のような雨滴がちらほら池の面に波紋を散らしていた 幾重もの葉の空隙を通して彼の顔に到達する頻度は奇蹟のように思われた ちょうど顔の上方にはそれらしい空隙が空へと通じていた 雨滴がどのようにその狭い通路をくぐりぬけてくるか彼は見たいと思った それは宇宙線を待ちうける霧箱のような少々スリリングな期待であった その空隙は上の方はやや葉がまばらであるようで時々ちらりと光るものがかいまみえて葉の間に失われていった そのたびに彼は落胆し安堵した ついにひとすじの透明で冷ややかな光の粒が流星のようにするすると軌跡をひいて見るまに空隙をぬけて彼の頬をかすかに打った その瞬間彼は堕天使の姿をかいまみたように思った 隕ちてしまったものにはすでに命はない 空隙を流星のようにぬけてくる瞬間の姿が彼の全存在である 隕ちてくるものの意志もまた崇高であった 果ての予想されるだけに悲愴でさえある 彼の頬を死に場所とした針の先ほどの雨の粒の実在感とはそのようなものであった 彼は満足して身を起した 雨脚はしげくもならずに池の波紋は思いだしたように間遠である くぬぎの実はやはりしたたかな音をたてて地面に 池の水に しめし合わせたようにある間隔をおいて交互に落ちている 彼は地面に落ちた実を一つ二つ拾って栗色の表面に擦れや疵のあるのを見 そり返った切れ込みのあるお椀が堅果にしっかりと付着しているのをたしかめてから何となしにポケットにいれすぐに思い直したように取りだし地面にもどした どんぐりとはいえ所有することによって何かのかかわりを身に負うような気がしたのである そうしてから彼は池の岸に沿っておもむろに歩きだした

公園 その2

 池からほど遠くない所にその昔からある建物はあった その辺は公園の北にあたり心なしか赤松の蔭も湿りを帯びて光の代りに陰翳を吸収した空気は水の底のように澱んで重たく肺腑を喘がせるのだった いつ来てみても といってこの前訪れたのは いつのことであったか 市のめぐりの野原をあてもなく歩いていて気がつくとこの建物を見いだしていたあの最後の時以来不思議に長い時間を経たような気がする その時も建物は暗く沈んで人などはまるでいそうになく ただ死ばかりが雄弁に沈黙していた 死はしかしひどく薬品くさい死であって しかも乾燥した死であった 彼はこの館を昆虫館と名づけていた はたしてそれが正式の名であるかどうかは知らない いつか館の二階で昆虫標本の部屋を見つけて以来 彼はその部屋が館の中心であるように思われてつねに館とフォルマリンの臭いとを結びつけるようになった はじめて来た時はしかし 彼はただ館の部分のみを知っていたにすぎず 今でも彼にとって館は彼の知らない暗い領域を残した部分にしかすぎないが 遠いあの頃の彼はただ書物というよりも読書への欲求からこの館を訪れたのだった 朽ちた木造校舎のような建物の薄明のただよう玄関の広間には どこやらで発掘された先史時代の独木舟がぽつねんと置かれていて その先へ踏み入る者に時と空間の境のおぼろとなった迷宮への没入を約束していた しかし図書室は玄関のホールを左に曲った最初の部屋であった かつて不思議な女人がその部屋の守護神であった その部屋では と言うよりもこの館中で彼女以外の人物に出会ったことがない 薄暗い廊下の奥から彼女は訪いの気配を唯一の合図に思い出された記憶の連合のように現われる 彼女はただ顔だけの存在であった 彼女はいつも頬笑んでいて 頬笑みが彼女のすべてを後光のように包んでいたから 彼はどうして自分の足音や書庫での気配を“おばさん”に感じとられたのか不思議に思うまもなく 彼女の頬笑みに接すると手もなくはにかみのよそ行きのぎこちなさを覚えてしまいながらも心の内でほっとするのだった 彼女は彼が借りる本を選ぶ間入口の机にしんぼう強く坐って何か本を読んでいる 彼はその頃の彼には難しい本ばかりならぶ書架からなんとなしに読めそうなもの興味のわきそうなものを苦労して選んで自分が選んだ本が一体大人の目にはどのようなものであるかも予感せずに彼女の前にさしだすのだった 彼女は本をうけとる時もきまって頬笑んだ と言うよりも帳面に日付や番号を記入する時も本を再び彼に手渡す時も頬笑みはたえなかったのであって 彼は本よりもまったくその頬笑みのためにここへやって来たような気がするのだった 年月の垢で黄ばんだ本が日当たりの悪い小部屋に少年の身にも圧迫するように狭苦しく感じられる間隔でならぶ書架に秩序らしい秩序もなくつめこまれているその沈滞した雰囲気が それだけで彼を日光を避けて羊歯の繁茂する林の下生えの暗にもぐりこむ昆虫の一種のようにそのhomogeneityによっておびき寄せたとは思われなかった 夜の星が暗にのみ輝くようにその雰囲気の中で仙女のように神秘的に清められた彼女の頬笑みがなかったならば・・・
 時は過ぎさり 過ぎさることで彼の中に永遠が生まれた 時の暴行を彼は認めない 廃墟はいよいよ意味深げにその姿を変える なにげなく拾いあげた瓦礫の一片さえ真昼の疲れた陽光の中へ無窮の建築を憧憬させる 日輪は彼の中で沈み星のない夜を夢がさまよいだす 昼は夜の反映でしかない 昼は過ぎゆき夜は過ぎゆかないのであるから 少年の日々と遠く遠く心理の断層を隔てて見つめあう時がくるまでそもそもそこを訪れたことさえたちまち追憶でしかなくなってしまった館の記憶は 長く少年時代のがらくたと一緒に机の引き出しの奥底に蔵われていた そこでは時は澱み乾燥し剥離したかすかな塵がものの上に付着してものの色を喪失で染め すぐれて追憶の器官である嗅覚に悲哀をふきこむ 忘却することが成長であった頃は過ぎ 歩むことが徒労であることを知った者の背後に音もなく羽搏く不吉なものの影が追いすがる 市の中心をのがれつつなおも惑星のように目に見えない力をふりきることができず 郊外の野や林の中を貫く道をひたすらあてもなく歩いていた彼はとある林の中に白く塗られた木造の二階家を見た なぜか無人の館のような気がして彼は近づいていった 近づくとかなり大きな造りであって人の住む家のようではなく画家のアトリエか博物館のように思われた そのかつて人声によって破られたことのないような静謐はただ無私の知識と芸術にのみふさわしいものであった 入口は扉というものを知らぬげに開いていて ホールを入るとすぐ左手に二階への階段があり 階上から日の光のような反映が差しこんでいる アトリエにしろ標本室にしろ二階にあるに違いなかった 階段をのぼるとそこはそのまま採光のよい部屋になっていて 壁は白く塗られ 窓は広く 林の中とは思われないほど翳りのない透明な昼の光があふれていた 部屋の中央また壁ぞいにはテーブルが置かれ その上に平たい硝子ケースがいくつも並んでいた 乾いた死を予感させる薬品の臭いが薄くただよっている 蝶類や甲虫があまりに透明な陽光の中で身動きを忘れたかのように磔刑の姿をさらしている 彼は腐朽を停止された虫たちの中にかえっておぞましい影響がみなぎっているのを感じてケースのそばへは近づけなかった ふいに気配がしてふりむくと女が立っていた 足音も息づかいも聞かなかったが彼はここで彼女に逢うのがごく自然のような気がした 彼女は白衣をまとっていていかにも実験室の助手か看護婦のように見え その面には日常的でないことを日常的に行うことを慣いとする者の無表情の防禦がうかがわれた 彼女は胸の所に硝子の蓋のついた硝子ビンを両手でささげもち それをテーブルの上に置いた 中には雀蛾を巨大にしたような蛾が入っていて 彼女は蓋をとってそれを無造作につかみだし手の平の上にのせた 完全に死んでいるのかと思うと尖った羽の先がかすかに震えていて彼はそれがふいに蘇生して飛び立つのではないかと怖れた 盲目的に輪を描いて飛びまわる蛾はきっと彼と衝突せずにはいまい 彼の怖れを知らぬ気に女は注射器を取りだし針を蛾の腹に刺した その刹那彼の方をちらりと見てかすかに頬笑んだ 彼は女が誰であったかを それはすでに漠とながらも分かっていたことであったが改めて知った そして今いる部屋が昔決して上に上がる勇気のなかった館の二階の一室であることをも・・・
 彼は彼にとっては単なる記憶の一エピソードにすぎない女と図書室と昆虫標本とが今もあの館にあたかも防腐剤をほどこされて朽ちぬままに見いだされるものか多少の興味を覚えないではなかった 鳥の声は静まり枝のそよぎも絶えた赤松の林の砂利道を踏んで果たして館がこの方向であったかあやぶみながら歩むと 案外容易に建物は木立の間に黒々と沈んだ姿を現わした 記憶は決してそのものがかつて知っていたものと同一であることを証明しない むしろ記憶は目の前にあるものの拒みがたい説得力に屈服するのである 確かにこの建物であるとは彼はおのれの記憶に徴して確信できなかったが一目見た時の漠とした既知の感じはあらゆる詮索的な不信をねむらせてしまった 建物はリアリティと化した追憶であって もはや他の記憶とのいかなる比較をも許さない 木造の古校舎のような建物 かつて鎖されたことがないかのようにぽっかりとあいたままの玄関口 その薄明を漂わせる空洞へふみいると通路のように細長いホール 左右の壁ぞいには外光の届かない天井へ消えている背高い粗末な下駄箱の列 長い休暇の最中のように埃臭く 黴臭く ひからびたシューズがところどころに主もなげに見捨てられている それらのディテイルを追いながら彼は彼の記憶の中に信じられている建物の観念を再認することも またそれらのディテイルを否認することもしない それらはあるがままに彼にとって既知のものである 建物は追憶に見離された家のように長く人の気配から遠ざかって森の沈黙の中に立ち腐れていた 逃れていった時の行末から再び帰り来る訪れをかすかな触手のふるえによって予感しつつ建物は埃の原子を木洩れ日の乾いた光線に浮べて待ちうけていた 彼はその無数の時の断層を隔ててめぐりあった再会のメロディーを建物の中に感じた あたかもたちまちに砂のように崩れ去って彼の前に怨嗟するかのような追憶のもろいトレモロを そして一つの負債のような観念が彼を執念く悩ませ始めた 長いこと忘れていたことの記憶が暗い深淵の向う岸から彼に呼びかける 彼はそのこと その負債を果たすためにここへ惹き寄せられたのではなかったか 時は 永遠に近い時は彼の忘れたことを忘れずにいた 彼は借りを返しにゆかねばならない それは返し忘れていたたった一冊の本ではなかったか 返しそびれたがために建物は森の奥にいつまでも朽ちずにいて彼の帰還を待っている
 図書室へ入る時彼はひどく気後れがした 物理学の本を借りだしたままいつか忘れてしまい といって長い年月をへた今更どう言って返したらよいものか たった今思い出したことであるから手元に携えてもいない 放浪のたびに書物は路傍の草むらにリンゴ箱に入れて放っておかれた その中の一冊がどうもそれらしく思われる それを返さなければ新しく借りることもためらわれる 閲覧室は廊下より床が一米ほど低くなっていて そこへ下りる狭い階段から見わたすと実験室のそれのような分厚い板の無骨な長方形の卓がいくつも置いてある 卓の端にはフラスコを固定する金具さえ付いていて部屋の隅にはコンクリートの流し台と蛇口が見える ガラス窓には黄色くなったカーテンが垂れ下がっていて通気はおろか光さえこの部屋の長い不在を乱していない 実験台のような卓の間をゆくと空気の中のかすかな分子となって残っている失われた日常の秘密が彼の肌にささやきをしみ入らせる 書庫はこの部屋よりも更に一段低くなった部屋であった 書庫を隔てるようにしてガラス窓のついた小部屋があり その前を通ると書庫へ下りる小階段があった ガラス窓のうしろは今は姿のない貸出し係のいる所であって書庫の床よりずっと高く造られているので彼らは見張台からのように書庫を見下ろすことになる 書庫に下りる者はあたかも深海魚のように背高い書架の足許を漂い 通気窓からかすかに漏れる明りで古びた書物の背文字の群をあさる 書物の殆どはすでに黄ばみをこえて塵埃に黒ずんでいた 整理もつかず書架の足許のあちこちに形もなく山とつまれた本の堆積のひとつに腰をかけて手当り次第に一冊を棚から引きぬいてそのかさばった重さに閉口しながら頁をひるがえしてみると腐朽は外観ばかりでなく内容にも及んでいて 歳月の悪意はかつて鮮明であった文字の列を粗末な和文タイプの印刷物のようにかすれさせてしまっていて どんなに視力をこらしても虫のくった布地のように言葉を読みとることができなかった どの本を引きぬいてみても皆文字まで腐朽は及んでいて それは部分的である場合もあったが 何か悪疫に侵されて肉体の朽ちていく生きもののような嫌悪を覚えさせた その中に彼の知人の書いた本があった 書いたという噂だけを聞いて手にしたことはなかったのであったが その文芸論を見つけて彼は嬉しくもあり まずは目次に目を通し その体系的な論理癖に感心し さてぱらぱらと頁をくっていくうちに次第に文字が記憶のように薄れてゆき ついには雨にうたれた廃墟の壁の模様のように失われてゆくのを嘆息するばかりであった はたして彼が本を書いたのであるか疑わしくさえあった また今では時代後れの天文学の本が並べられている書棚があった 腕にかかえるほどのものを引きだして披見すると太陽系生成の遭遇説がもっともらしく説かれている 古い革袋におさまった古い知識は妙に彼を惹きつけた 重ささえ苦にならなかったら彼はその比較的腐朽の止まっている本を持ちだしたかった
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作品名:公園
作者:羽和戸玄人
copyright: hawado kuroto 2010
up: 2010.5.2
入力:マリネンコ文学の城