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contents:焼津にて/伊豆の山中にて/旧東海道をてくる(1)/旧東海道をてくる(2)ー島田から小夜の中山へ/箱根旧街道の杉並木/岐阜・大垣/雲巌寺へ/七月の海/須賀川へー芭蕉旅/旧中山道・奈良井宿/旅の偶感


2006年8月14日(月)
<焼津にて>(K)

   

 「古くからの漁業の町焼津は、明るい陽ざしの下で、色彩のない独特の魅力を現わしだす。小さな入り江に沿って延びるこの町は、灰色の粗い浜辺の種々の灰色を蜥蜴のように写し取る。この町は大石を積み上げた厖大な波よけによって、大波から護られている。この波よけは、海の側では階段状に造られていて、それを構成する丸石は、地中深く打ち込まれた杭の列の間に張られた、一種籠状の構造によって固定されている。それぞれの段を、それぞれの杭の列が維持している。この築造物の上に登って陸の方を望むと、町全体が見渡せる。灰色の瓦屋根と、風雨に曝された灰色の木造家屋が遠く広がり、所々に寺の境内を示す松林がある。海の方は何海里にも渡って、広大な眺望が開けている。鋸状の青い山並が鋭く押し合うように水平線を埋める様は、まるで紫水晶の奇跡である。そして山並の左手彼方に、すべてを圧して聳え立つ富士の麗しさは、幻を見るようである。波よけの堤と海との間には砂浜はなく、ただごろごろした石の灰色の斜面があるばかりである。これらの石は磯波と共に転がるので、荒天の日に砕け波を渡ろうとするのは剣呑なことである。石まじりの波に一度打たれてみると――私は何度も打たれたが――すぐにはその体験を忘れまい。」(小泉八雲「焼津にて(At Yaidzu)」)

 以上は八雲の名作「焼津にて」の冒頭部分である。この作品を初めて戦前の翻訳で読んだ青年期以来、焼津と言う変哲もない漁業の町の海岸は、一種特別の文学的幻影を与えられてしまったようである。八雲が毎年の夏をこの浜に過ごしたのは明治も終りの頃(明治30年から37年にかけて)であるから、すでに遙かな時代の面影をそこに髣髴させるばかりでない。このIllusion の名人がそこにつむぎ出した夢想のヴェールが、一見写実的な描写をも包みこんでいる。浜に沿って広がる町の有り様を蜥蜴に譬えた所から、たちまちにこの町は現実から夢想に変貌する。リアリズムは単にこの夢想を持続させるためのトリックである。選別されたリアリズムはそれ自体が夢想である。簡明にして華麗な比喩が写実の上にそそり立つ。夢想された外界から、内面の瞑想へと向かう道筋が準備されていく。
 こうした作品の性質上、この‘漁師町’に特別な思いを寄せながらも、長年訪ねてみる事がなかった。夢想以外にそこには何ものも見出せないであろうことは、判りきっていたからである。たまたま沼津の海岸の松林を見に行くことになって、少し足を延ばし、焼津で一泊することを思い立った。夜八時に駅を下り立って、人も車も閑散とした通りを宿まで歩く。閑散としているのはお盆休みのせいであるらしいが、それにしても静かで暗いビル街である。飲食店のないことだけを気にして歩く、何とも散文的な第一印象であった。
 翌日、何はともあれ、くまんぜみの鳴く中を漁港へ向かった。途中、白装束に脚半、地下足袋といういでたちの祭りの衆が、何事か叫びながら奇妙な山車を引いてくるところに出くわした。八雲の読者でありながら、お祭にはさして関心のない身として、山車に載せられたアニメのキャラらしきものには呆気にとられた。八雲の描く祭りは、エトランジェとしての視点で祖国を見るものの心を和ませてくれるが、現実の祭りにその幻影をかぶせることは愚かである。やがて今では遠洋漁業の港であるコンクリートの海岸へ出る。やはりお盆休みで閑散としている魚市場の横から水際に出てみる。岸には三々五々釣り客の姿が見られるばかり。日差しはあっても曇り気味であるから、駿河湾のかなたに紫水晶の奇跡(prodigious amethyst )を見ることなど思いも寄らない。左手に入り江に佇むようにして、小さな茶碗を伏せたような山が見えるのが唯一の見もの。漁船の姿は、コンクリートの岸の少し先に一隻だけ、遠洋漁業のものらしいペイントも真新しく見える瀟洒な船が停泊していた。それを近くから眺め、逞しい乗り組みの漁師に訝しがられる前に、市街へと歩を返した。
 緑色に濁った小さな川の手前の変哲もない狭い通りを行くと、目ざす物が見つかった。八雲が滞在した家は今は明治村(愛知県犬山市)に移されて、その跡に黒い石づくりのそっけない記念碑が、普通の民家の前に立てられている。この八雲通りと名づけられた通りを歩みながら、明治の昔に思いを致すことは難しい。せいぜい八雲の作品の世界に、思いをあそばせるばかりである。
 再び漁港に出て、岸沿いに歩く。釣り船程度からちょっとした大きさの漁船まで、たくさん並んだところを眺め過ぎる。先程の茶碗を伏せたような小山が近づいてくる。そこまで行くと、当目海岸と言う海水浴場が現われた。八雲は専ら海水浴のために夏の間焼津に滞在したのだが、この当目海岸まで足を延ばしたそうである。波消しブロックで保護されたこの穏やかな海水浴場は、子供たちを始めとしてほどほどの水浴客で賑わっていた。遠浅を嫌い、波の荒い海岸を好んだ八雲には、今の様は物足りないであろう。海水は冷たく、身をしずめると水風呂である。泳ぎの苦手な身、早々に上がった。
 旅と文学と言う取り合わせは、芭蕉の昔から日本人の好むところである。松江を訪れた時もそうであるが、焼津を訪ねてみて、私自身気おくれする人間であるためもあろうが、やはりある違和感をぬぐいきれない。文学の与えるものはすべて文学の中にある。これが私の相変わらずの確信である。松江にしろ焼津にしろ、私にとってその魅力は八雲の文学の中にあるのであって、現実の日本人の住むそれらの町ではない。同じことはひょっとして八雲の見た日本そのものについても言えるであろう。読者はそこに美しいイリュージョンを楽しむのであって、決して玉手箱を開けてからくりを見てはならないのである。

2007年9月9日(日)
伊豆の山中にて(K)

    

 人影のまれな山道をバックパックを背負って黙々と歩いていると、頭の中も心の中も空っぽの状態が生じてくる。とりわけ夏の暑熱の中を肌に汗をにじませながらのぼりの道をたどっている時のなんとも苦役のような状態は、何か積極的にものを思うことも感じることも拒否させる。こんな時、なぜ無意味に近い山歩きをするのだろうと深い徒労感だけが残される。心身を徒にさいなむ事によって何が得られるのか。人生そのものの無意味さが浮き彫りにされるだけではないか。そこから逆説的に希望が生まれてくるとでもいうのか。
 昔、一緒にハイキングをした人が、長い下りをひたすら急ぎながら、「何でこんなことをしているのか分からない。早く麓に着くのが目的だ」と言ったことを思い出す。人は無意味に苦しむ時、その無意味を終わらせることを目的とするほかはない。とにかく、どこかにたどり着くことによって労苦も一時的な意味を持つ。しかし人生の労苦には麓がない。ひたすら歩み続けるか、立ち止まるほかはないのだ。
  目的のない人生は、少なくとも青少年期には考えられなかろう。人は頂や麓を目ざす。目指すこと自体が喜びであり、とにかくどこかのゴールに着けば達成感の喜びがある。しかし達成したとたんに新たな目的が生まれる。一つの道標を過ぎれば、次の道標が待っている。その度に最後の目標があるかのように励まされる。こうして道標をたどっていくことが人生の意味であるかのように、人は思い込まされていく。最後の道標が墓標であることを知りながら・・・。
 平坦な道を歩めば退屈が、起伏のある道を歩めば徒に心身をさいなむ徒労感が人を襲う。目的を目指す限りは達成感があり、喜びがある。しかし感動も一時的である。突如現われた美しい景色に佇んでも、何かに追われるようにすぐさま背を向けねばならない。いかに名残惜しかろうと。感動は一瞬であり、その一瞬を大切にするならば立ち去らねばならない。
 人はなぜ無意味を避け、徒労を厭うのか。人を歩ませるものはただ道標や目標だけなのか。
 山道の起伏を、時に体力の限界まで歩く時、徒労感も無意味感もうせ、ただ空白が残る。何も考えず何も感じず、ただひたすら重い足を引きずる。そして時にばったりと倒れて、道に寝転がってみる。何の目的もなく、何の意味もなく、しかし心は不思議と自由である。午後の翳りの差した空の色のように、不安ではあるが自由である。人間にとりついている様々な執着から自由である。少なくともその瞬間は・・・。
 千日行の行者はたぶん、ただ歩くということのほかには何の目的も持たないのであろう。一見無意味なことの中に意味を求めているかのようである。それでもって聖人になれるかどうかは凡知のおよぶかぎりではないが、少なくとも人生の意味とは異なった意味があることを教えている。
 
  水音とほくちかくおのれをあゆます
  ここまでを来し水飲んで去る (平泉)
  このみちをたどるほかない草のふかくも

 こんな詩を作りつづけた山頭火も無意味の中に意味を求めて、行乞放浪の人生を送ったのであろう。

 夏の午後の山道は思いのほか静かである。鳥の声も蝉の声もとだえて、はるかに耳を澄まさなければつくつく法師にも気づかずにいる。歩く人はまれで、時たま車とすれちがう。ただどこかへ向かうことが目的であるなら、車ほど目的にかなった移動手段はなかろう。無目的と目的とが、無意味と意味とがすれ違う。一見公園かと見まがう、大きな木々の林立した平坦地にさしかかる。木々のざらざらした樹皮を見上げた時、ふと既視感にとらわれた。ただ風景として見やっていただけの木々であったが、そうした観照の視点とは違った、近視的ではあるが心ときめく視線で樹皮をたどりながら、梢の薄暗がりまでまなこをひからせている少年の私がそこにいた。山の木々は珍しい蝉や昆虫が誘いかけてくる魔法の領域なのであった。あらゆる動物の持つ狩猟本能が少しも美的とは思えない、おぞましくすらある、めくれ上がった樹皮の連なりの世界に、好奇心にみちた欲望を燃やしているのだ。そしてそれは純真な欲求である。迷いも疑いもなく、目的も失望もなく、ただ木の上までよじ登れないおのれをふがいなく思う。子供の頃にはただ歩きつづける無意味さもなく、ひたすら目的に向かう律儀さもない。小さな世界であっても、その世界を知ろうとする強烈な好奇心がすべてであった。無目的で、無意味ではあったが、真剣であった。その意味でUnschuldの世界にいた。Schuldを負うことによって人は目的や意味を人生に課せられる。それが人の原罪であるかもしれない。

  空へ若竹のなやみなし  山頭火

2009年11月21日(土)
旧東海道をてくる―田子の浦から薩た峠越え(K)

   

 田子の浦から吉原へ
 東海自然歩道を歩くことと富士山頂に登ることがウォーカーとしての長年の目標であったが、だんだんに気力が萎えてきて、その妥協策として旧東海道の見所を歩くのが楽そうだという所に落ち着いた。以前沼津からの海岸の松林を歩いたことがあったが、その先の旧東海道を、田子の浦から歩いてみようということに決した。富士を見るには秋から冬にかけての晴天でなければならず、時季はよし天候だけが気がかりであったが、先月半ば過ぎの当日はよく晴れてくれた。旧東海道自体は今では変哲もないアスファルトの自動車道であり、両側にはどこの街路にも見られる店舗や住宅が並んでいるにすぎない。所々その隙間に忽然と富士の姿が現われる。初めてここが駿河湾沿いをゆく東海道であることが、驚きをもって意識される。もちろん、かつては家並などがほとんどない田畑の中の道であったから、こういう驚きは現代人のものである。明治の初め頃までの旅人は、富士とともに旅をしたのである。
 心ゆくまで富士を眺めるには街道をそれねばならない。まず海岸へ向かって折れてみた。沼津からの松林はここまでもつづいていて、残念なことにコンクリートの堤防の上からも富士を望むことはほとんどかなわない。わずかに松の梢が低まったところにちいさく顔を出している。南の駿河湾の海は昼の陽ざしに照り映えている。東海道が海沿いの道であることを改めて確認して、もとの街道に戻り、今度は北へよぎって東海道線の線路を越え、工場の空き地などが広がるところへ出る。ここに出て初めて富士とまともに対面できた清々しさを感じた。このような富士とともに、古代から旅人は東海道を行き来したのである。
 「渡る日の影も隠らひ、照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり」――赤人のいかにも宮廷歌人らしい誇張気味の panegyric(讃辞)が自然と浮かんでくる。古代から変わらないであろう、流麗な単純さと、四時に、また一日の間にも変化する様相とは、現代人にも同じインスピレーションを与えつづけているようだ。それは自然界の偉大さに接する時に、どう否定しようもなく単純に感動を強いる力である。それを告白することは、それを自分自身に認めることすら、近代人には羞恥感を伴う。あまりにも自然から遊離し、自然を克服し、支配したつもりでいる近代人には。
 「素朴な、自然なもの、したがって簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動でつかまえて、そのままに紙にうつしとること、それよりほかにはないと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目に映る。この姿は、この表現は、結局私の考えている『単一表現』の美しさなのかもしれない。と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これがいいなら、ほていさまの置き物だっていいはずだ、ほていさまの置き物はどうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこかまちがっている、これはちがう、と再び思い惑うのである。」(太宰治「富岳百景」より)
 富士もまた置き物として観賞すれば、布袋さんと選ぶところはないのかもしれない。しかし芸術家はまず、富士を芸術にしようとする前に、眼前に見るありのままの富士に感動したことであろう。そこから得るインスピレーションは芸術に限らず、人生の全般にわたったことであろう。子供の頃から富士を見る清々しさは、青空を見る清々しさと似かよった気持ちの解放を感じさせた。どこまでも単純に大きさや広がりを感じさせるものが、自然界に対する驚異の出発点なのである。青空や富士は常にそのことを思い起こさせる。
 同伴者の趣味に合わせて、街道沿いの神社や寺に道草をしながらゆっくりと歩く。橋の上から、山門の上から、坂の上から、至るところで富士を望みながら、やがて夕暮れ時に、旧街道は北へ折れ、吉原の宿へと向かう。夕景のせいばかりでなく、富士は目に見えて大きくなるようだ。正面にうすく紫を帯びて幻のように聳えている。それに向かってまっすぐに歩いているうちに道を間違えたが、かえって広々とした工場地帯の森閑とした夕暮れ時を富士とともに歩む寂寥感は、旧街道にはないものである。旧街道へ戻り、いっ時左に富士を見る左富士を過ぎ、やがて左に折れて夕暮れの侘しい街を行くと、突如としてまばゆいアーケード街に入る。この今では普通の商店街である吉原の宿に、江戸時代から一軒だけ残された旅籠にその夜は泊まり、翌朝宿のご主人の火打石!に送られて、次の行程に向かう。

 由比から峠を越え興津へ
 二日目の目標は薩た(土偏に垂)峠であるが、体力と時間に限りがあるので、岳南鉄道という一両きりの電車で東海道線へ出、由比までゆき、そこから駅前の旧東海道を西へ歩き始めた。ここまで来ると、富士が小さく遠ざかる心細さを覚えるが、駿河湾の東端に望む富士は笠雲をただよわせて、海の広大と一対をなしている。旧東海道は、海に突き出した岬のような山の峠へと向かう、趣のある街路へ入る(写真右)。右手には山、左手には海に挟まれたこの狭い街路の両側に並ぶ家々は、江戸期のものではなかろうが、どことない時代色がある。旧街道には、こうした時代色のノスタルジーを感じさせる民家などが、所々に見かけられるのである。その中で、これだけは江戸期以前から続くという望岳亭に寄り、品のよい老婦人から説明を受けた。座敷から望む駿河湾は青みを帯び、首を伸ばして左手を見ると富士が小さく見えた。眼前には国道一号線、東名高速、及び東海道線という、近代の騒音がかまびすしい。東名高速によって砂浜が見えなくなったが、沖では昔ながらの置き網漁が行われているという、老婦人の淡々とした話し振りであった。この街道だけが変わらないでいるのも、海と山に挟まれて、発展の仕様がないことが幸いしたとも。
 望岳亭を辞していよいよ山道にかかる。坂の途中で振り返ると、富士がせりあがってきた。海岸の水の色も緑を帯びている。立ち止まっては振り返ることをくり返しながら、やがてハイキングコースに入り、広重が描いたという駿河湾と富士を一望できるポイントに来る。西から下る旅人はこの辺で初めて富士を目にし、はるばると東国へ旅する感慨に打たれたことであろう。東から西へ上る者は、富士と最後の別れを交わしたことであろう。そこを過ぎて、道は海岸から遠ざかり、初めて近代の騒音から解放された山道の静けさの中を、興津へと下ってゆく。
 興津では、旧街道はなぜか北へ迂回し、里山の風情のある町外れの街路を抜けて、南へ戻る。かつて渡し場であった橋を越えて、しばらく行った先の清見寺を終点とする。修行の部屋なのであろうか、広々とした畳敷きの部屋の隅に坐って、裏庭を眺めながら疲れをいやす。血なまぐさい戦闘に明け暮れる戦国の武将も、明日知れぬ我が身の一時のいやしを、このように静寂な空間に求めたのであろうか、そんな空想に耽りながら、時を忘れている。

2010年9月5日(日)
旧東海道をてくる(2)

   

 去年につづいて、この夏の終わりに旧東海道をウォーキングする計画を立てた。もっともスケジュールそのものは同伴者に委ねたので、一日で20キロ歩くという予定には少々体力に懸念があった。今年の夏の暑さは尋常ではないので、8月の終わりとはいえ、真夏と少しも変わるところはなかった。一日目は、出発点の島田へ着く前に、富士川や静岡で途中下車をした。炎天下の富士川河畔では、案のじょう富士は夏雲に隠されて、いっ時その稜線の一部をかいま見ただけであった。初めて下車した静岡では、駿府城へ向かった。再現されたまだ真新しい城門をくぐると公園になっている。城というよりも城跡の公園である。

 島田から大井川を越える
 島田で一泊して、翌朝、ホテルのすぐ近くの旧東海道を西へ歩き出した。ガイドブックでそれと知らなければ、どこにでもある往来である。日ざしは早くも強烈で、なるべく陰のある側を歩く。先ず大井神社へ寄る。池や庭のたたずまい、馴致された樹木が、街道を行くウォーカーには一時のくつろぎとなる。寺社は、旅人にとっての公園に代わる、昔からのパブリック・ドメインと言える。
 20分ほど歩いて、車通りをそれ、平日のためか歩く人のまるで通らない裏道を行くと、再現された渡し場の宿が両側に並ぶ、川越遺跡に出た。人足たちの詰め所と宿とをかねた平屋の家である。その先の博物館で休憩かたがた、川越しの歴史をジオラマで学ぶ。そこを出て、大井川にかかる現代の橋に向かう。歩行者・自転車のための橋が車道の横に取り付けられている。
 橋の上から東西南北を眺めわたすと、南の一角を除いて、低山や丘陵で囲まれた巨大なアンフィシアターをなしている。目ざす西の丘陵の斜面のあちこちに、杉林と交錯して開けているのは茶畑である。空には夏雲がわき、秋の気配はまるでない。雲から日が出ると、橋下からいかにも夏らしい草いきれが立ち昇ってくる。大井川そのものは、裸になりさえすれば、どこからでも渡れそうである。かつて、そうした不心得者をどうやって防いだことであろうか。
 橋を越えると、大井川鉄道が道と交差していているので、新金谷駅へ行き、金谷までの行程をはしょることにした。ちょうど黒い車体のSLが入れ違いに到着して、どこやら山奥へと向かうらしいその列車に乗り換えたいような羨望を覚える。金谷まで丘を登るローカル鉄道の数分の旅は、しかし眺望と言い、山肌を登る面白さと言い、申しぶんのないものであった。
 
 金屋から小夜の中山へ
 金谷は丘の中腹にある東海道線の駅で、ホームの先にトンネルが見えている。旧東海道は線路下を抜け、上りの勾配のくねった道に変わる。もともと余り人の通りそうもない田舎道であるし、時々車とすれちがうほかは、炎天下の昼下がりを歩く人影はまるでない。  金谷坂の石畳に差し掛かるともはやハイキングである。江戸時代の盗賊日本左衛門がたむろしたという庚申の祠や、滑らず地蔵を過ぎ、石畳を無事登りきると、再び日ざしの強烈な台地に出る。諏訪原城跡の林の中で、ひと涼みし、菊川坂石畳のとっぱなに出る。先を見ると、どうやら丘陵また丘陵の中を旧街道はくねくねとつづいていくようである。石畳の横には舗装路が並走していて、せっかくの石畳をわざわざ歩く人は少ないと見えて、草が繁茂している。そこをあえて下りてゆく。
 間(あい)の宿である菊川の里まで石畳はつづいている。去年の薩た(土へんに垂)峠越えでも実感したが、旧東海道は街道とは言え、山また山の地域ではハイキングコースとさして変わらない。昔の旅人はハイカーでもあったわけだ。山もしくは丘は、ほとんどが茶畑であり、杉林が間に点在している。茶畑と林業によって馴致された里山なのだ。とは言え、強烈な夏の日ざしの下で見るこれらの緑は、体の芯から nature をかきたててくれる。
 菊川の宿を抜けて、道は呆れるほどの急勾配でまっすぐに丘をのぼって行く。いよいよ小夜の中山越えである。坂の途中で立ち止まって、茶畑の小山と暑さを忘れて向き合う。今回の旅で唯一残る記憶があるとすれば、この瞬間であろうと思われた。
 小夜の中山の西行の歌の石碑は、道の左手にさり気なく現われた。現われ方はさり気なかったが、石碑そのものはいかにも現代風に大仰であった。公園と称する林の中で、しばしとてやすらい、茶畑の間の道を日坂の宿へと下った。路傍にはいくつもの歌碑や句碑があったが、それを見るのは同伴者に委ねた。国道1号沿いの日坂に着くと、さすがに疲労を覚え、事任(ことのまま)八満宮まで来るとバス停を見つけ、ことのままに残りの行程を断念した。掛川までの2時間の行程を、バスは20分ほどで運んでくれた。
 ひとの手によって馴致された自然とは言え、昔の街道沿いには、季節ごとに変化する風景や、景観や、田畑や、林や、山岳や、川や、海が寄りそっていた。それらをパノラマのように展開してくれるのが、旧街道ウォーキングの魅力であることを、今回も知った。

 (画像:左=大井川、中=金谷坂石畳、右=菊川坂石畳)

2011年8月22日(日)
箱根旧街道の杉並木

   

 旧東海道の手近なところで、今年の夏は箱根越えをしてみようと思い立った。夏である必然性はないのだが、炎天の中で汗みずくになって歩くことが、生命の源である太陽のもとで、体力と活力を授けられているような、再生の思いを抱かせるのである。人の姿のまれな、真夏の昼下がりを、あえて歩き回ることで、その年を越すに必要なエネルギーを充電される、そうした熱のようなものが体内に蓄積される気がする。
 小田原では城の天守閣からの眺望を楽しんだ。城の主には、庶民には日常許されない、世界を見る視野が独占されていたのであろう。それが戦争や争いのためであろうと、認識と情報の独占が支配の原理であった。今では誰もがその気になれば、高みから世界を見ることができる。
 海洋は平地生まれのものには、いつでも心を高揚させる。何もない広漠とした青が空と共に空間を分けあっている。頼山陽の「水天髣髴青一髪」(注1)という矛盾した表現が、その大仰さと共に思いだされる。海と空とは同じ青でありながら、やはり住み分けしているようである。城の公園を出て、その太平洋の海辺まで出てみた。思ったほど海水浴客は多くなく、足に当たる波は荒い。寄せる波と、引き返す波とにはさまれて、立ち往生してしまう。子供たちがその波と果敢に戯れている。
 夜は箱根湯本の民宿に泊った。酒を控えているので、広い湯舟だけが唯一の楽しみである。翌朝は、まず付近の早雲寺や、曽我兄弟の墓を眺めた。曽我兄弟は子供の頃親しんだ名であるが、もはやその仇討ちの次第は忘れてしまった。その近辺でわずかに残された石畳を歩くと、後は舗装された道を車に遠慮しながら歩くことになる。体調も考えて、途中をバスではしょることに。
 畑宿で降りて、山中の石畳の道に入る。かつての東海道の山越えの道にようやく踏み入った。日差しは杉の木に遮られて、去年の小夜の中山越えのような猛烈な暑気はない。ここからだと、芦の湖畔へ出るまでに2時間とかからない。箱根八里は馬でも越したようであるが、人の足にはむしろ石畳は負担のように思われる。雨に濡れれば別であろうが、土の道が足にフィットする。やや物足りないハイキングではあるが、芦ノ湖に近づくにつれ、杉並木が際立ってくる。平地に出ると、幹まわりの巨大な見上げるばかりの古木が、延々とつづいている。
 その巨木にタッチして、梢を見上げていると、かつてよく見た巨木の夢のイメージと重なってきた。夢の中では見上げていると、大地が揺らぎだして、その巨木が倒れだす。どこまで逃げてもその範囲からぬけられない戦きを覚えた。ただ夢の中の巨木は広葉樹であり、冬の景色では葉を落とした姿であった。今見る梢は目眩がするほどの高みにあったが、針葉樹の安定感があった。
          
   

  Bottomless vales and boundless floods,
  And chasms, and caves, and Titan wooods,

 とPoeの詩(注2)にもあるように、自然界は夢魔の宝庫である。いかに科学がその仕組みを解き明かしても、それはそれで驚異に満ちた世界であるが、自然の中に身を置く時、折々不条理な不安が現実感を失わせるのである。

   *       *        *

 (注1)  泊天草洋 (天草なだに泊ス)   頼襄(らいのぼる)

   雲耶山耶呉耶越 (雲か山か呉か越か)
   水天髣髴青一髪 (水天ほうふつ青いっぱつ)
   万里泊舟天草洋 (万里舟を泊す天草の洋)
   煙横篷窓日漸没 (煙は篷窓に横たはりて日ようやく没す)
   瞥見大魚波間跳 (瞥見す大魚の波間に跳るを)
   太白当船明似月 (太白船に当たりて月よりも明らかなり)

 (注2)  底なしの谷、果てしない大水、
      地の裂け目、洞窟、巨木の森

   「夢幻郷(Dreamland)」より。italicは筆者。 


2013年8月29日(木)
岐阜・大垣

   

 岐阜県という土地を長く避けてきたのは、母方の出身地であるからだ。自らの出自を忘れていたいという、ぬき難い感情のしこりが今もある。近親への反感が、それに関するすべてとの関わりを拒否してきたのである。それを少しずつ氷解させてきたことで、やっと岐阜という地に足を踏み入れることが出来た。それも専ら観光という目的で。
 名古屋から岐阜までの東海道線の車窓は、林立する馬鹿げたほどのビル街から、すぐに郊外住宅の光景に変わる。名古屋が思ったほど大きな都会ではないという印象だ。どこにでもある郊外風景ではあるが、昔は一面の田園であったことを思わせて、それが歴史的旅情のよすがとなる。
 岐阜では直ちにバスで公園に赴く。金華山を背景にした林間のほどよい広がりは、ここが昔は城の範囲であったことを思えば、人工とも自然ともつかない光景である。山の頂にぽつねんと立つ、下からは小さく見える天守閣も、山の飾り物のようである。全体がハイキングコースになっていて、茂った森をのぼる山道が誘惑的である。朝早く出た睡眠不足の疲労から、それは諦め、博物館に入る。畳何枚分もありそうな美濃の古地図が展示されている。江戸時代の役人の製作であろうか、地理的好奇心はこの時代に実に旺盛であったことがうかがわれる。一里の路程ばかりか、北緯までも書かれているのを見ると、早くも国際的な知識を身につけていたようだ。細かな地名の迷路には地理的イマジネーションが籠められている。
 長良川へと歩き、対岸から金華山を眺めつつ、鵜飼の時を待つ。鵜の飼われている喫茶へ寄り、いつもは海岸から遠く見るだけの鵜を、間近に見る。その独特な体形は遠くからもわかるのであるが、間近で見ても同じである。ただ泣き声が甲高く、犬のそれのようであった。鵜飼の屋形船の乗り場に戻り、いかにも絵図から取り出したような老鵜師の解説を聞き、実演を見てから、乗船する。雨もよいで雷も鳴ったが、食事をしながら一時間も我慢するうちに、暗くなった川の上を鵜飼舟が、篝火を巨大な目玉のように揺らめかせながら、意外と速いスピードでやってきた。鵜師の持つ十本ほどのロープが、舟の前にぴんと張っている。そのロープの先には先導するように鵜が走っている。<走っている>というのは文字どおりの印象であって、時々鵜の姿が水面下にもぐりこむ。それがいかにも生き生きと愉快そうで、喫茶店で見た鵜と違って、水というエレメントに帰ったという溌剌さを感じさせる。闇の中に、篝火の灯りで、遠くから見てもそれが分かるのである。人間に操られていることなどはすっかり忘れている。やがて悲しいのは人ばかりか。
 最初、流動感から流鏑馬を思い出し、ついで競走馬の運命を思い、この完全に観光のショー化された鵜飼の中でのスターである鵜の運命を思った。人もまた何かに操られながら、おのれの運命を懸命に生きる他はないのであれば、鵜飼は人生の縮図であろう。
 翌日はバスで伊吹山の山頂近くまで登った。不順な天候で、登るほど霧が深まり、最初ちらと見えていた琵琶湖も隠れてしまった。山頂では眺望は諦め、高山植物を丹念に見てまわった。さすがに低山では見られない、色とりどりの花々に興をそそられた。わがbotanyのとぼしさが嘆かわしかった。それでも、われもこうなどの知っている植物に出会うと、親しかった旧知にであったような気がする。それを山で最初に見た場所までも思い出される。
 予定より早めのバスで下山し、その日の宿泊地である大垣へ行き、明るい間の散策をする。岐阜ではのぼらなかった、城の天守を見学してから、芭蕉と曽良の像のあるところまで歩く。奥の細道の終焉の地であることから、芭蕉を町興しのシンボルとしている。そうした歴史や文学に関しては連れに任せ、今の街並の緑の豊かな風致を楽しむ。途中で休んだ公園では、赤トンボが群れ飛んでいた。その無邪気な飛翔を見ていると、昨夜の鵜と同じように、与えられた生命を何思うことなく、溌剌と生きる昆虫や動物が、少しも人間に劣らないと思われてくる。  

2017年5月9日(火)
雲巌寺へ

   



 (写真:左=芭蕉像(黒羽)、中と右=雲巌寺)

 芭蕉好きの家内に誘われて、北関東へ一泊の旅に出る。鉄道で北へ向かうことはそうそうないので、どこまでも平地がつづく車窓のながめに、あらためて関東平野の広がりの厖大さに感じ入る。裏返せば、どこまで行っても、風景に変わりばえがないのだ。小さな山並が近づいてきても、すぐに遠ざかり、まるで近隣の風景と大差はない。みちのくの旅といっても、芭蕉はこのあたり、那須野までは、ひたすら平地を歩いていたということだ。
 宇都宮で一泊して、かつての東北本線で那須塩原へ向かう。早苗を植えはじめた水田と、青い穂の麦畑とが交互に広がる立夏である。芭蕉の昔の道は、今の鉄道のしかれた平野の東の果てを通っていたはずである。その方面にはかすかに低山が見える。那須塩原駅は、おもに那須のリゾート方面への玄関口であるようだ。ホテル以外には目立った建物も商店もない。めざす黒羽は大田原市に属していて、一日にいく本かの、東方面へのバスに頼るほかはない。その雲巌寺行きのバスは、黒羽の住人の唯一の公共の足なのであろう、一時間ほどの行程でも、200円という格安であった。半分もゆかないうちに、乗客は同行二人ということになった。チャーターしたのも同然の、ちょっときまりの悪さがある。田畑を長く走ったのち、とつぜん町並みが現われる。かつての宿駅黒羽町であった。黒羽藩という小さな藩の城下町でもある。メインの鉄道から離れた、辺鄙なところに、とつぜんある程度の賑わいのある町に出るという驚きは、旧街道を歩いている時などに経験する。旧東海道の吉原もそうであった。
 黒羽の芭蕉館は帰路による予定で、そのまま終点の雲巌寺をめざす。バスは山中へはいり、くねりながら走ってゆく。山の中に小さな集落と田圃が開けてきて、少し山に入った先の、寺の門前が終点である。渓流にかかった赤いてすりの太鼓橋から見あげると、緑のグラデーションの山の背景と、山門と、本堂の屋根との調和が見事である。奥の細道では、芭蕉は知人の禅僧の庵のあとを尋ねて、この寺へのぼったことになっている。その跡は今はないが、ちょうどこの季節、寺は大正期に鎌倉時代風に修復されたものだそうだが、なによりも青葉若葉の中での寺の景観が、圧倒的に心をさわやかにする。芭蕉のことはほとんど忘れている。思うに、芭蕉が求め、心惹かれたのは自然美などではなかったのだろう。自然美を求めて旅をするのは都会の人間である。芭蕉は元来山深い伊賀の出であり、自然よりも人に惹かれている。天性の社交人であり、その文学は典型的な社交文芸である。いたるところに社交文芸のパトロンを持ち、奥への旅でも、連句という文芸的連想ゲームを楽しんでいる。その連想の中心を成すのが、<古人>への思いである。ここでも歴史的人間が中心であり、芭蕉の文芸の本質、特に奥の細道のコンセプトが歴史的時間性にあることが、近代文芸との際立った対比をなしている。
 近代文芸の時間性は、基本的に<自己>の過去に向かう。社交文芸における時間性は、<古人>の時間性である。芭蕉の憧憬が向かうのは、西行であり、宗祇であり、杜甫でありして、けっして自己自身の個人史ではない。他者の時間に自己を重ねる、そうした憧憬は、芭蕉ばかりでなく、日本文芸の古来からの固定観念的な伝統となっていて、そこにしか詩を見い出せないくらいである。この点が近代文芸から見て、古典的な日本文芸の異質性であり、それの理解はますます難しくなっていこう。
 「草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」(*1)と、さすがに芭蕉が訪ねた庵の主の禅僧の隠遁精神は徹底している。方丈記などを読むと、なにか庵というものが孤独者の理想の棲み処のように思われてくるが、それは修行者にとっての罠でもある。長明にとっても、閑居の気味などにいつまでも耽っているのは、忸怩たる思いであったであろう。ささやかな棲み処であっても、それに執着するならば、必ずそこから苦悩が生まれる。一所不住とはどこでのたれ死んでも良いということである。芭蕉もその思いで奥に旅立ったのであろう。しかし文芸者であるからには、曽良が芭蕉に同行したように、<古人>が旅の友として芭蕉の傍らにいたはずである。それは修行者の旅ではない。
 <古人>の文学は<自我>の文学の対極にある。自我はひたすら自己の時間性に生きるが、他者の時間性に重ねる文学は、それが自我の時間性に投影されるまでの迂回路をへなければ、自己のものとはならない。芭蕉の生き方ではなく、芭蕉の文学のあるものが、自我の中に消化されていく、そうした古典の味わい方でなければ、古典の近代文芸における意味はないであろう。だれしもある作家の作品のすべてを知りたいと思い、彼の生きざまを模範にしたいと思うであろう。しかし自己自身の時間の中で、いかにすぐれた作家をモデルにしても、いつかその作家とはべつの人生を生きてゆくのである。場合によってはまったく別の自己を見い出すであろう。それが近代文学の価値である。もし交響曲作家としてのシューベルトが、モーツァルトやベートーベンの模倣者にとどまって、際立って独創的な第8や第9を残さなかったならば、後世における彼の評価はなかったであろう。芭蕉もまた、伝統という土俵の上で、ある種の独創性を発揮したシューベルトであったと言えるかもしれない(**2)。しかしそれは近代文学とはあまりにもかけはなれた地平においてである。
 雲巌寺では、牡丹や山吹に似た白い花が咲いていた。山吹はふつう黄色であり、花弁の数も違うので、名も分からずにいると、寺僧が出てきて、苗をくれるという。実生のごく小さな苗をスコップで掘り、苗用のポットにいれてお土産にしてくれた。あとで調べると、名前は白山吹だが、山吹とは属が別の花であった。埼玉から来て17年寺におり、冬は寒いというような話をした。
 黒羽までもどって、神社や大雄(おう)寺という寺を見、芭蕉の館を訪ねた。神社には芭蕉の像があり、寺では白い羽のようなものが実だか花だかをつつむようにしてたれている、変わった木を見て、家内がハンカチの木だという。妙な名をつけたものだが、うなづけないこともない。芭蕉の館は黒羽の歴史をかねた資料館になっている。蕪村の洒脱な挿絵入りの奥の細道写本のコピーなどを見てくつろぐ。

   


   
 (写真:左=大雄寺山門、中=ハンカチの木、右=芭蕉の館)

  *  *  *

追記:解りにくいかもしれない点を、注の形で追記します。(2017.5.12)
*1:もとの和歌は「縦横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」。その意は、「雨なかりせば」のあとに(むすばざらまし)と補います(反実仮想)。受験に出そうですね。
**2:定説となっている芭蕉の独創性とは、よく知られた一例を挙げると、「古池やかはづ飛びこむ水の音」。かわずは鳴き声を聞くものという古今以来の伝統をくつがえした諧謔と、古池を配したことによる禅味が、当時の人には革新的であったのでしょう。近代文学の感性からは、そのイメージ性(イマジズム)に強く引かれることでしょう。子規の俳句の革新も、そこに中心をおいたわけですから。  

2017年8月4日(金)
七月の海

   

   

 今年の夏は、七月の半ばでピークを迎えたのであろうか。下旬から八月はじめにかけて、曇り日や雨の日が多く、いまは早くも秋の涼しさである。天気図を見ると、夏の太平洋高気圧はどこへ消えてしまったのか、全土が低気圧に覆われている。毎年夏になると、烈日のもとで海を見たくなる。泳ぐわけではないが、海岸沿いにハイクや、ウォーキングをする。紫外線には閉口だが、暑い日光が身内にエネルギーを補給するようで、一年が健康に過ごせる。今年は早めに、七月の連休に出かけた。
 関東のめぼしい海岸ハイキングのコースの中で、残っているのは伊豆の城ガ崎海岸だけであった。そこへ行くまえに、大磯の高麗山へよった。ここは昔、高麗人が開拓した土地で、麓に神社があり、そこから小さな山々の縦走コースになっている。高麗山は200メートルほどの小さな山であったが、意外とアップダウンにとみ、体力的に油断はできなかった。途中も頂上も見晴らしはよくないのだが、下から祭りの太鼓が聞こえ、遠くに海が垣間見えた。この海の広がりを眺望するには、湘南平という見晴らしにでなければならない。夏の低山ハイキングは、蒸し暑いだけで、あまり気持ちの良いものではないが、木蔭がほとんどで、快適に歩んでゆける。二時間ほども木々の間のアップダウンをくり返して、いきなり湘南の海が一望できる高台にでる。日差しは七月半ばにしては強烈で、それを忘れてしばらく呆然と眺めている。そこには展望台もあって、高くのぼるほど海は広がる。風も強いが、塩の香りはここまでは届かない。呆然という言葉を使ったが、広大な自然に接すると、言葉などは無意味に思われてくる。ただ黙って見ているほかはない。誰もが沈黙して見ている。あるいは自身の中のなんらかの思いにひたっている。言葉をかけたくなるが、自身をも他人をもけがすことになる。黙って立去るほかはない。海の反対側は山の方面であるが、富士山はそれらしい雲いがいに見あたらない。
 当日は伊東で宿泊した。貧乏旅行なので、今どきめずらしい鍵のかからないホテルである。大きなお風呂が取り柄で、たっぷりと湯を張ることができた。翌日はバスで城ガ崎口まで行き、そこから海岸ウォークを始める。ここの海岸は流れ出た溶岩が侵食されてできた、険しい崖がつづく。崖の下にのぞく海は、また昨日の遠望とは違い、身近な感覚をかきたてる。高所恐怖気味なのでなおさらである。どこか見えない奥まったところでぶつかっては咆える、波の声に不安をいだかせられる。近くから接する自然は、恵みであると同時に脅威でもあるからだ。遠くから見る自然はイデアであっても、身近にせまる自然は暴戻なる世界意志なのである。最初ほかのウォーカーはほとんどいなかったのが、崖の間にかけられた吊り橋のところまで来ると、観光客だらけであった。たいていの人は近くにある駐車場から橋見物に来るのであるらしい。そのさきを少し行くと、海洋公園という、花の園と、プールとダイビングで賑わうところをすぎて、自然研究路に入る。そこからはアップダウンのはげしい、海岸沿いの、ほとんど人の姿のない自然路であった。前日につづくハイキングになるので、さすがに疲れを覚え、イガイガ根というところで折れて、伊豆高原駅へ向かう。距離的にはたいしたことはないのだが、名前のとおり高台にあり、予想外に疲労するのぼり道であった。駅の近くの日帰り温泉でくつろげたのはさいわいであった。

  

  

2018年5月4日(金)
須賀川へ――芭蕉旅

 

  
 
  (画像:左から、芭蕉記念館内部、可伸庵、可伸庵の縁)

 四月も末の連休の初日、奥への旅で心残りのあるという家内に誘われ、去年についで北へ向かった。須賀川には、芭蕉記念館があり、彼は何日か逗留して、地元の有力な人物と連句(歌仙)を楽しんだりしたようである。田圃や畑や野原が延々とつづく中を、何を好きこのんで、彼ははるばると旅をしたのであるか。<風流の痴れ者>と芭蕉自らが使った言葉が、俳諧を語るにふさわしい。
 民衆文化というものがこの国に昔から存在していたとするならば、俳諧こそがその名にふさわしいであろう。芭蕉が旅した至るところにその拠点があるのである。下は放浪者や生活破綻者や、商人や職人や、上は須賀川での等窮のような名士や大商人や、下級および上級武士に至るまでを網羅した大衆性を、ある種の文芸が持ちえたということは、日本語と日本文化、日本社会の特殊性に発しているのであろう。
 俳諧がその基本に、詩歌(和歌・漢詩など)の伝統をおいており、その伝統の教養をめぐっての文芸的社交のやり取りであるということは、ある種の囲碁や将棋のようなゲーム性を帯びており、人々を惹きつける大きな要素となっていよう。いわば文芸的ギルドのようなものである。そのギルドに支えられての、芭蕉の奥への旅なのである。ただこの場合旅をするのは徒弟ではなく、マイスターとしての師匠なのであり、至るところで歓迎され、手厚いもてなしを受けている。
 須賀川で作った句、
 「世の人の見つけぬ花や軒の栗」
 は、この地の隠者の庵での歌仙の集いにおいて、発句となされたものである。この庵の主人もまた栗斎(可伸)と名のる俳人であり、いわゆる挨拶の句だったのであり、もとは、
 「かくれ家や目だたぬ花を軒の栗」
 であった。芭蕉始め、栗斎、等窮、曽良、等七人で連歌した(歌仙を巻く)のである。栗斎は、
 「まれに蛍のとまる露草」と受けている。
 芭蕉を蛍に、わが庵を露草に例えているのであろう。こうした連想的な応対の面白さが、社交文芸としての俳諧の妙味なのであろう。会のあとには、<そばきり>でもてなされている。
 この可伸庵はNTTの大きな建物の裏手の路地に、一部がひっそりと復元されていた。栗の木は今はない。
 須賀川には、芭蕉をもてなした相楽等窮のほかにも、江戸末期に市原多代女という女流俳人もいて、道端のとあるベンチで休んでいると、
 「また一人来て座る団扇かな」
 と図星を当てられてしまった。
 この女性の立てた芭蕉の、同じく須賀川での作「奥の田植え唄」の大きな句碑と、自らの辞世の句碑が、十念寺の門内近くにある。
 「風流の初めや奥の田植え唄 芭蕉」
 「終に行く道はいづくぞ花の雲  多代女」

 翌日は猪苗代湖へまわり、遊覧船から磐梯山(表磐梯)をながめ、小山の上の、明治初期に皇族の建てた、天鏡閣という洋館内を見物し、帰路についた。

  
 
(画像:左から猪苗代湖と磐梯山、天鏡閣) 

2018年9月8日(土)
旧中山道・奈良井宿

  
 
  
 
 先月の中旬のこと、今年の夏の旅は、かねがね予定していた旧中山道ウオーキングの手始めとして、少し遠いが、木曽路におもむくこととした。中山道は、日本橋から高崎辺りまでの平地は別として、ほとんどが山間である。少々暗いイメージがあるので、どうしても海沿いの明るい東海道へ出てしまう。碓氷峠あたりを考えていたのだが、一足飛びに、江戸期の名残りを残している、木曽路の奈良井宿ということになった。こちらは中央線で特急あずさを利用し、塩尻で降り、一時間一本ほどの、鈍行に乗りかえる。あずさは狭軌なので、新幹線ほどの快適さはないが、昔の特急のおもむきで、それなりの興趣がある。
 奈良井宿までは、閑散とした田舎の電車である。駅で降りたとたんに、江戸期の宿場の光景が目に入る。土産物屋の連なる観光地などの俗っぽさはない。人の群も適度である。一キロほどにわたって、古い宿場の建物がつづくのである。西に向かって、右手は山であり、左は少し開けたところに奈良井川と、国道がとおっていて、やはり山がふさいでいる。全体が谷間なのである。今夏は猛暑がつづいたが、さすがに山間であって、40度を越えることはなく、宿場のはずれの峠の山からは、冷たい空気が吹き降ろしていた。
 ウォーキングというよりは、ぶらぶらと散策して、資料館のような建物を二軒見物する。ひとつは上問屋という所で、宿場を仕切っていた家で、どのような画家かは知れないが、見事な屏風絵がたくさん見られた。二階から格子ごしに通りをのぞくと、歩いているのは現代の観光客であるが、想像の中で昔の宿屋の風俗を髣髴とさせる。もう一軒は、櫛などを商っていた店で、当時つくられていた櫛や、簪(かんざし)や、笄(こうがい)が陳列されていた。そこでは店の建物のつくりなども説明を受けた。軒の垂木の先の飾りが猿の顔をしているという。
 その晩はいかりやという宿場の民宿に泊まった。宿場の建物は間口の幅によって税をかけられたので、どの家も奥が長い。いわゆる鰻の寝床である。その一番奥の部屋に案内される。二人には広すぎるほどの、十畳以上ある部屋である。窓からは川向こうの山が見える(画像)。さすがに江戸時代の宿泊の風情というわけにはいかないが、大きな風呂も独占状態で、翌朝の和食の朝食も美味しかった(期待していたイナゴは出なかったが)。
 翌日は、ひととおり宿場を歩きなおしてから、宿場の裏手や、奈良井川の方へ出てみた。川にかかった太鼓橋は新しいものである。この辺でないと見られない山野草が咲いているが、名前は知らない。宿場の裏手に、二百地蔵という場所があって、そこへ登るわずかな山道が杉並木になっている。地蔵さんは本尊の数体だけで、あとはみな供養塔であった観音像である。二百石仏と言うべきであろう。近くの専念寺へ寄ると、住職が招き入れて、寺の標語の話をしてくれた。
 午後は松本へ出て、松本城内を見物してから、帰路についた。

  

  

  

  

2019年5月25日(土)
旅の偶感

  

  

 老年期においても若い頃の習性が未だに通用すると思いがちである。旅においてその誤りがもっともよく痛感される。若い頃の旅は行き当たりばったりで、たいした計画や目標がなくても、それなりに旅すること自体が楽しめた。その旅の自由とロマンを老年期になって求めようとしても、身体的にも心理的にも、苦行に近いむりが伴う。そもそも旅自体にロマンを感じることが、もはやないのである。人間(じんかん)いたるところ同じような風景があり、同じような人間が暮らしている。海外でよほど異なった風土にでも接しない限りは、そこにたいした感動がないのである。老年になると海外におもむくだけの体力も気力も失われている。
 要するに老年期にはいると否応なしにnihil admirariの境地に陥るのである。そこから無理やり脱するために、若年期のような旅をしようとしても、体力も気力も伴ってゆかない。まさに苦行そのものとなるのである。そもそも何のために旅をするのかという、目標すらはっきりしない。スポーツでも教養でも研究でも探究でもなく、けっきょく物見遊山の気晴らしのための散財に過ぎないことになる。そのためのもっともふさわしい場所が、神社仏閣や温泉と言うことになるのである。自然の光景も、国内に関してはたいして変わり映えがしない。畑と田と山地と湖と海岸と海といった、どこにでも見られる景観だ。かえって近隣の自然が見直されるくらいである。けっきょく老年期では全てに見飽きているのである。
 多少まともな旅の目的は、博物館や美術館を訪れることであるが、科学館は子供や家族づれの遊び場となっているし、けっきょく静かに過ごすには考古学か歴史学か美術の展示館ということになる。しかし旅にまで出て頭のなかを知識や教養でいっぱいにする必要があるのだろうか。旅の解放感、自由感はどこにあるのか。芸術や知識からも解放されたいという気分が、旅の魅力なのではないか。要するに心を空っぽにしたいのである。余計な好奇心や知識欲や、物見高さから離れて、とにかく日常の心のせせこましさから逃れたいのである。それがたぶん老年期の旅の唯一の意義なのであろう。しかし旅のスケジュールがそれをも許さない。そうしたせせこましいスケジュールの旅をしなければ良いのであるが・・・。
 若い頃とちがって、ある程度の計画性が老年期の旅には絶対に必要であるが、ただ放浪してみても仕方なく、呆然と自由の時間、無為の時間を過ごせることが旅の意義なのである。登山やスポーツはもはや論外である。芭蕉のようにひたすら歩く旅も無意味である。神社仏閣は立ち寄るだけでよい。人間いたるところ青山ありの心境になれることが、旅の意義である。そうして帰宅すると、それまでの日常が異様なものに思えてくる。住む町も住む場所も異様であり、あらためてその意味が問い直されることになる。生活そのものが少なくともなんらかの変化をこうむらなければ、旅をした意義はない。日常に対する新しい眼が開かれるのである。

  

  

 

写真:上左豊橋の庭園、上中・上右・安土城址/
中左・安土城博物館古民家、中の中・右・石山寺紫式部像、庭園/
下左・琵琶湖竹生島、下中・余呉の湖、下右・日本海(青海川)