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自我の探究7――自我と今

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Contents:無からの非創造/時空とは何か・再論/自我と今(およびカントの時間論)/総体人格について(1)/総体人格について(2)/不可知の真理とWerden/アートマンについて


自我の探究7―自我と今

2018年10月27日(土)
無からの非創造

 無からはなにものも生じない(ex nihilo nihil)というのは、古代の哲学者の洞察したこの世界の真理である。

 「まず第一には、有らぬもの(ト・メー・オン)からは何ものも生じない、ということである。なぜなら、もしそうでないとすれば、何でもが何からでも任意に生じるということになって、種子などはまったく必要でないことになるだろうから。もしまた、ものが見えなくなったとき、それはそのものが消滅して有らぬものに帰したとすれば、あらゆる事物はとうになくなってしまっているはずである。なぜなら、それらが分解されていったさきのものは、有るものではないのだから。」(「エピクロス教説と手紙」p.11-12 岩波文庫)

 存在には原因もしくは根拠があるというのが、古代の哲学者一般の一致した見解である。この世界の現象は恣意的ではないのである。ある必然性が、それは運命と同義であるが、この世界を支配している。<存在>もまたそれから免れないのである。「有るものはあり、無いものはない」と、パルメニデスが言うとき、同じ思想がある。そもそも<存在>があって、この世界があるのであり、<存在>がなにも無いところから存在し始めたのではなく、<存在>が無いものに変化することもない。
 変化が起こって、なにかが存在しなくなると見ることから、ある種の錯誤が生まれる。いまあったものが消滅するならば、あるいは様態を変えるならば、それは有るものが存在しなくなったことではないか、と考えられるのである。たとえば、足にある痛みを感じていた場合、それが消え去ったときに、その痛みは有るものから無いものに変わったではないかと。しかし、それは単に痛みの感覚が消え去ったのではなく、別の感覚に変化したに過ぎない。感覚そのものは、有りつづけているのである。そうでなければ、痛みが消え去ったことさえ気づかないであろう。
 単なる変容は存在の消滅ではなく、いわゆる<偶有性contingens, accidentia>とされるものである。変化する様態は、いわば二次的存在であり、それ自体は確かに消滅して無に帰するものと言えようが、その本体に有るものは有りつづけるのである。しかも、その変化を引き起こす原因ないし根拠とされるものは、少しも変化しない。感覚自体がなければ、感覚の特殊な性質は、生じることも消滅することもないのである。この感覚自体を、エピクロスは原子の運動と捉えている。たとえ痛みは消えても、原子そのものはどこへ消えたわけでもない。痛みとして凝集した原子が、離散しただけのことである。
 無からは何ものも生じず、本質的存在は無に帰することはない。これは、自然科学であれ、形而上学であれ、あらゆる学の基本となっていよう。人間知性の根本にある<要請>であると言えるかもしれない。原因と根拠が無ければ、人間知性は何事も思索しえないのである。この要請に対して、二方面からの<無からの創造>なるものの主張がある。ひとつは、キリスト教神学におけるそれであり、いまひとつは今日の科学的宇宙論における一つの立場である。神が無からこの宇宙を創造したというのは、キリスト教のドグマであるが、神なるものをこの宇宙とは別個の、絶対的存在と見なす立場から、この世界の相対的無が対置されるのである。アリストテレスは謙虚に、この世界のfirst mover(第一原因) としての神を設定したが、キリスト教の神は原因ですらないのである。超越的神が、おせっかいにも、この世界を何もないところから存在へともたらしたというのである。その関係は、なんらの直接的原因ではないのであるから、いわば奇蹟のようなものである。神はこの世界を創っても創らなくてもよかった。まったくの神の気まぐれである。もし直接的関係があるとするならば、神は絶対の<有>であるから、有から有が生じるのであるから、それは少なくとも無からの創造ではない。
 このような神学的たわごととは別に、現代の宇宙論における無からの創造は、ビッグバンもしくはインフレーション宇宙論において、ビッグバンあるいはインフレーション以前の宇宙においては、物質も空間も時間も、あらゆる物理的原理が存在しない状態があり、そこから、すなわち物理的な無から、宇宙が発生したとするものである。宇宙発生と同時に、それらの物理的特性も生まれたのである。しかし、人間知性が知っている物理的原理が、この宇宙のすべてであるという保証はなく、ただ単に人間知性にとって無に思われる、というだけかもしれないのである。
 同じくインフレーション宇宙論からの帰結として、マルチ・ユニヴァース(マルチヴァース)の考えがある。この宇宙は他の宇宙から派生したものであり、またこの宇宙もさらに他の宇宙を生み出していく。親宇宙があり、子宇宙があり、孫宇宙がある。それぞれの宇宙は因果的にはまったく無関係であり、交流することも観測することも出来ない。しかし、とにかくどこかに存在する他の宇宙から、この宇宙が生じたのであるから、有が有を生んだことになる。しかも、宇宙は無限の広さと、無限の時間を持ち、始まりもなく、終わりも無い。インフレーションを無限の時と空間において、無限につづけていくのであるから、無限数の宇宙が際限なく生まれていくことになる。空恐ろしいほどの宇宙の連鎖反応である。ここで思い出されるのは、かつてスェーデンボルグのとなえた段階宇宙論である。

 「我が星辰界は、大は即ち大なりといえども、恐らく無限中に有限なる一小球をなすに過ぎざるべく、我が太陽系の渦巻は、更にその一小部を構成す。恐らく、我等の看ると同様なる世界は、外にも無数に、しかもなほ巨大なるものあり。これらに比すれば、我等の世界は、単に一つの点たるに過ぎざらん。」(「天文と宇宙」荒木俊馬著より)

 スェーデンボルグの時代の星辰界とは、天の川銀河のことであり、それが外にも無数にあるということを推測しているのである。一千億個の銀河からなるとされる現代の宇宙も、さらに一段階上の、無数の宇宙の世界に包摂された、<一つの点>をなすものであることが想像される。ただこの宇宙からは、上部の段階にある宇宙は考えることはできても、見ることも交流することも出来ないのである。この巨大なレベルにおける存在の連鎖は、宇宙が空間的・時間的に無限である限りは、とどまる果てを知らないであろう。そこのどこにも<無>の入りこむ余地は無い。同じ考えは、ミクロの領域においても成り立つであろう。長さの最小の単位や、時間の最小の単位が絶対である保証はないのである。無限小の世界にも、また限りはないかもしれない。人間の知性は、単にバリオンやその他の観測可能な素粒子をあつかっているだけであるから。あるいは、この宇宙にのみ通用する物理的原理に従っているだけであるから。

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 そもそも<無>の観念はどのようにして生じるのであるか。その起源を解明するには、空間および時間の観念が大いに影響しているようであるから、まず時空とはなんであるかを、明らかにしておかねばならない。空間を考えるには、それを次元として捉えるのが解りやすいであろう。人間の感覚もしくは知覚は、基本的に一次元及び二次元であると言えよう。ある感覚が生じる時、たとえばそれが痛みである場合、それが認識主体から見てどの場所にあるかを知覚するには、二次元までで十分である。それがある方向で、ある広がりを持った感覚であることが判ればよいのである。これは幾何学的には、直線および平面である。それ以上の次元は感覚にとって必要ないのである。では、知覚にとって世界は何ゆえに三次元であるか。それはバークレーが明らかにしたように、身体の運動などによって、経験的に生み出された次元である。本来平面である視覚が、奥行きを持った次元として形成されるのは、そこに運動、もしくは変化を伴う運動の感覚がつけ加わるからである。
 変化は即ち、アリストテレスが言うように、時間の観念が成り立つための基本条件でもある。運動と変化が、三次元の空間とともに、時間をも生み出すことになる。時間についてはさておき、このように生み出された三次元の知覚の世界が、人間知性の把握する空間なるものである。数学的には三次元以上の高次元の空間も考えられ、実際にその実在も物理的に可能とされている。ともあれこの三次元までの空間が、人間の存在する世界の枠組みであり、それ以外の空間は人間知性には直観できないのである。直観できないことは<無>もしくは空虚と同様であり、かりになんらかの想像力を働かせたとしても、結局三次元的なイメージを出でることはない。単なる認識の限界なのである。
 ここで<点>について考えてみると、直線を極限にまで分割して小さくしていった所で、やはり究極の点に到達することはないであろう。もしそこに、もはや大きさを持たないものを、即ち無を、考えるならば、それはもはや空間でも次元でもない。そのような無は、不可思惟性であり、ここでの無の観念の発生とは無関係である。無が観念として発生するのは、空間概念が時間の概念と組み合わさる時である。つぎに、時間について考察しながら、その点を明らかにする。
 時間は空間のような次元ではない。少なくとも空間的に表象される時間は、本来の時間ではない。これはベルグソンが明らかにしたところである。しかし時間が表象されるためには、空間的に何らかの<変化>が知覚されねばならない。この変化とはなんであるか。たとえば赤い色が黄色に変わったとする。この変化を認識するには、赤と黄色の二つの表象が、知覚において同時に存在していなければならない。しかも、一方は記憶像として、他方は現在的印象として。この現在的印象と、記憶像との比較において、初めて過去と現在という、観念間の関係、すなわち時間観念が生まれる。時間は、この限りでは、単なる比較もしくは関係の概念なのである。しかし、観念同士の間に、何の違いもなく、あるいは何の変化も生じていないならば、そこに時の経過は認識されない。たとえ純粋持続としての時が存在したとしても、認識主体は時間の存在に気づくことはないであろう。
 この変化としての時間観念は、現在を基準とした観念の関係であり、現在を唯一の実在の時とし、過去や未来を、すでに存在して今はないもの、またこの先に存在可能なものとして、一次元の空間に投影することによって成立する。過去はすでになく、未来はいまだない。ここに二重の無にはさまれた、人間の現実存在(Dasein)のありかたがある。ないものがあるものになり、あるものがないものになる。この現実存在の不安定が、無の観念を生み出すのである。そしてその根底には、現在もしくは今というものの不可思議な、唯一無二の実在性・現実性がある。そこで時の観念の基準となる、この今について解明しておかねばならない。
 <今>は何によって決定される時なのであるか。あらゆる時点が今であってならない理由があろうか。物理学的には、それは可能であるばかりか、今の特殊性は存在しないのである。今の特殊性を決定するものは自我にあるといえよう。自我のあるところに今が発生し、自我の無いところには今はないのである。それはニュートンの自我であっても、私の自我であっても、誰の自我であってもよい。自我の確固たる唯一無二性が、今の確固たる実在性を決定し、保証しているのである。自我をさらに一般化し、認識主観とするならば、認識主観のあるところ、すなわち認識の行なわれるところに、今が発生し、そこから過現未の時間が成立すると言って良いだろう。これは物理学の主張と一致する。時間は観測者の立場ごとに存在するのであり、同時性ということはありえない。
 もしこの<今>の確固とした実在性に時間観念がもとづくならば、ベルグソンが言うような純粋持続としての時間は無くてもよいことになるであろう。時間そのものは実在性を持たないのである。もちろんニュートンのいうような絶対時間はなく、時空連続体としての時間についても、再考が必要である。時間はいま一つの次元であるとして、時空連続体としての四次元がこの物理的世界であるとされる。時間はそれ自体としては空間的表象とは異なるものであるにもかかわらず、空間的に表示されうるならば、単に運動を表わすための便宜的表象に過ぎないものとなる。運動によって時空が縮むということも、時間を空間的に実体化していることになる。このことは運動を時間概念の基本とするかぎりは、そうするほかはないのである。
 今という時が、自我の無時間的実在性にもとづくならば、そこから生まれる時間は流れる存在である必要はなく、あらゆる時が、そのまま実在であっても良いのである。変化や運動に結びついた時間を生みだすのは、認識主体の働きであり、科学的にいえば<観測>が時間の流れを生み出すのである。それでは、変化や運動は何ゆえに生じるのであるか。それらを認識主観はコントロールできないし、現われるがままに甘受するほかはないのであるが。すなわち、時間が流れないならば、この世界の生成(Werden)をどのように理解したらよいのか。万物は流転しないのであるか。
 必ずしも、流転を考えなくてもよいということである。物理学における時間がそうである。時間は可逆的であり、物理法則は未来から過去へ向かっても成立するのであり、時間は単なる論理的関係に還元できるのである。しかし現実には<時間の矢>と言うものがあるではないか、と反論がなされよう。エントロピーの増大の不可逆性が、その根拠とされる。それは人間の認識自体がエントロピーの法則に従っているからであるかもしれない。人間の認識が時間の流れを生み出すのも、認識そのものがエントロピーを増大させているからであろう。これは単なる仮説に過ぎないが、生成を生みだすのは、人間の認識の側であると言えるかもしれない。パルメニデスやゼノンがこの立場に立っている。変化や運動、すなわち時間は存在しないのである。
 世界は永遠のイメージからなるといってもよいだろう。その一つ一つのコマが、一つ一つの今であり、nunc stans(とどまる今、永遠の今)である。それを実在的に体現しているのが自我にほかならない。自我の無時間性はここから来るのであり、たとえ認識主観が時間を生み出して、世界を流転させようと、自我は永遠の今にとどまっているのである。世界はすでに無限の時にわたって完成されており、自我が存在する限りは、そのどの部分をも映しだすことが出来る。Werdenは幻であり、宇宙は変化することも運動することもなく、永遠に存在しつづけている。その宇宙は無限の多様性をもち、無限の領域に渡っており、すべてが可能態であるばかりでなく、現実態である(注*)。永劫回帰でさえ、永劫にくり返されるであろう。このような宇宙には流れる時間はないのである。同時に<無>ということもないのである。変化も運動もなければ、なにものも無くなることはなく、なにものも無からは生じない。そもそも創造などということもないであろう。時間というものが無ければ、創造もないのである。天地は創造されたのではなく、永劫の昔から存在しつづけているのである。「有るものはあり、無いものはない。」それがこの全宇宙の実相であるかもしれない。

  *ライプニッツも無限に多様な宇宙の可能性を考えたが、その中で唯一実在する宇宙がこの宇宙であるとした。その他の無慮無数の宇宙は、神の思念の中の可能性にとどまるのである。神はこの宇宙を最善の宇宙として選択したのであると。現代宇宙論では、この宇宙の存在は単に確率的に稀な偶然によるものとされる。その他の無慮無数の多様な宇宙も実在が考えられている。偶然とはいえ、無限の時と無限の空間においては、現われるべくして現われる宇宙といえよう。

2018年10月31日(水)
時空とは何か・再論

 時空について無との関連で論じたが、元来は問題の難しさから、それ自体で考察すべき課題である。あらためて時空について考える。
 時間と空間は、今日の物理学では、時空連続体として、不可分のものとして扱われる。そもそも空間については比較的に理解しやすく、大体において常識が通用するのであるが、時間そのものとなると、空間概念もしくは表象を通じて、具体性を与えられてきたのである。ある表象が現在であるか、過去であるか、または未来であるかという判断は、単に表象の性質であるばかりでなく、それらを時間系列に並べることによって、初めて判断がつくことである。もしそうでなければ、どれが先(前)で、どれが後かということは、単なる論理的関係に過ぎなくなる。論理的関係は、前件とか後件とかいうことが言われるが、それは必ずしも時間的に推移する事柄である必要はない。単なる思考上の規則に過ぎないのである。それは思考の方向を表わしてはいても、その点では思考の流れではあるが、流れそのものではないのである。マクタガートが言うように、流れそのものとしての時間は、また別のものである。
 この流れを表わすために、空間表象が用いられる。時間は過去から未来へ流れるものとしてであれ、未来から過去へ流れるものとしてであれ、直線で表象される。たとえ天体の運行や、時計のディスクによって表象されるにせよ、やはり線には違いない。単なる線が何ゆえに時間を表象しえるのか。ここに変化とか生成・消滅とかの、表象もしくは概念が結びつくからである。それらはまた、運動の概念と切りはなせない。変化と運動、それらがなければ、そもそも時間は、線としてであれなんであれ、表象し得ないのである。表象し得ない時間として、ベルグソンは<純粋持続>のようなものを考えているが、そもそもどのような概念なのか。概念であるとすれば、なんらかの表象に還元できるので、いわば現象に対する物自体に当たる、時間現象の本体としての<時間自体Zeit an sich>のようなものであろうか。そうであるならば、それがどのようにして現象し得るのか、あるいは客体化し得るのか。そもそも時間は本体的な存在なのであるかどうかが、問題となろう。
 物理学では、時間は宇宙生成において、空間とともに発生したものであるとされ、物理的法則もしくはその条件なのである。しかも空間とともに伸縮し、物質的なふるまいを見せるのである。先験的認識論では、時間は直観の多様がその中で統覚によって把握されるための内的形式にほかならない。どちらの立場でも、時間は絶対の存在物ではない。時間は異なった宇宙、または異なった知性においては、存在していなくても良いのである。それにしても、この宇宙、または人間知性において現われる時間とは、どのようなものか。すでに述べたように、変化や運動と時間の概念は切りはなせないのである。変化が知覚されるためには、時間における過現未の判断がなされていなければならない。これが論理的関係でないこともすでに述べた。しかしある種の関係の概念であるとはいえよう。それが今あること、すでにないこと、これからあること、の前後の順序で理解されることによって、独特の時間判断が生まれるのである。あるいは、今あることは、あったことになり、いまだなかったことが、いまあることになる。表象の関係はどのようであれ、時間的順序の判断が、この世界の生々流転を言い表わしているのである。ここで基準となっているのが現在である。
 時間がもし本体的存在ではなく、単なる現象(あるいはその先験的形式)であるとするならば、その解明の鍵は、<今>にあるといえよう。今のみは移り行かないからである。万物は流転しても、ひとり今のみは、現存する。今は刻々時間によって移動するではないかと、反論されよう。これに対しては、今とはなんであるかを掘りさげる必要がある。人間知性にとって、時間の中で唯一実在と言えるのは、現在のほかにはない。今私が存在しているこの時が、私の唯一の存在の時なのである。もし私が今を失うならば、それは私の存在の消失を意味する。逆に、私が存在しつづける限り、今は失われることはない。私の存在と今とは、存在論的に同一なのである。この今ある私の確固とした実在性・現実性、それらが失われたものが過去であり、いまだないものが未来である。それ故に私は、私と同一でなくなった時間への愛惜と執着を抱き、いまだ同一でない時間への憧憬や願望を抱くのである。
 私はなぜこの今に充足せず、過去に執着し、未来に希望を抱くのであるか。それは単に私の認識主観の問題ではないであろう。そのようにして、過現未の時を生みだすのは、私の認識の根源に生への意志が働いているからである。生への意志、すなわちその現われである生命は、類の存続と個体保存との二大原理によって、太古から連綿と存続をつづけるある種の物質の連鎖反応による現象である。生命そのものはその統一的組織によって、自然界一般よりもエントロピーの低い状態なのであるが、個体生命はその物質循環によって、やはり最終的にはエントロピーを増大させて死にいたる。そのような生命のあり方は、唯一の実在の時である<今>の中に、物理的自然界には存在しない、ある方向性を生み出すものと考えられる。生命にとって前にある状態を保持し、後にある状態を予測することは、連鎖反応を持続するための有利な条件である。とりわけそれが意識に反映することによって、不可逆的な時間意識の根源となるのである。
 今という実在の時を私が持つのは、世界そのものの事情ではない。世界には、そのような唯一の実在の時としての現在などは存在していないからである。今はいたるところにあって、どこという一時点をもたないのである。この今が私にとって実在であるのは、単に私にとっての事情に過ぎない。その事情が、私にとって時間を要請させるのである。私の意識が、私の主観が、過現未をこの世界に構成するのである。その根底においては、私の意識も、私の主観も、生への意志によって支配されており、その生命の都合が、時間そのものを生み出しているのである。
 時間が生命の産物であるならば、この宇宙における時間とはなんであるか。不可逆的時間は、自然界にも存在しているではないか、と反論されるであろう。その典型が熱力学第二法則であり、熱の現象は不可逆的であり、エントロピーの増大が時間の矢を生み出している。その他にも、素粒子の世界における対称性の破れや、もし宇宙が加速膨張をつづけるならば、宇宙論的時間の矢も考えられる。さらに生命進化における時間の矢は否定しようがない。しかし、不可逆的現象がそのまま時間の矢であるとするのは、果たして正しいであろうか。現象が不可逆であるということは、そのまま時間の存在を要請するのであるか。時間が存在しなくても、不可逆な論理的関係はいくらでもあるのであるし、もちろん可逆的であってもよい(注*)。たまたま時間においては、その関係がつねに不可逆であるというに過ぎないのである。

 *たとえば三段論法をとってみる。

 人間は死すべき存在である。
 ソクラテスは人間である。
 故に、ソクラテスは死すべき存在である。

 これを逆にして、ソクラテスは死すべき存在である、から、人間は死すべき存在である、が結論として導出できるであろうか。それにはソクラテスという個物から、人間という普遍概念が直観できなければならないが、これは科学の方法に反している。馬や犬や鳥やの動物の中に、ソクラテスに似た生きものがたくさんいて、それらから人間という概念が抽象されるか、あるいは実在論に立てば、発見されるのでない限り、ソクラテスは人間であるという断定はできないのである。すなわち、それは帰納法であるから、三段論法としての演繹は不可逆的である。

 この宇宙にはそもそも時間などはなくてもよいのである。あるいは、そもそも時間などを考えなくても、この宇宙は存在するのである。物理学でいう時空における運動である世界線は、いわば空間の一種であり、今と今をつなぐ一つの次元にほかならない。それは可逆的であり、時間のような一方的方向性を持たない。また、エントロピーの増大や対称性の破れや、宇宙論的矢なども、論理的関係に還元できるであろう。そうであるならば、宇宙はすでに全体として完成した状態で存在しているのであり、そのどこにも特殊な時点というものはないといえる。すなわち変化はおろか、発展も進化もないのである。もし造物主というものがあって、宇宙を創造したならば、始めから完成した状態で、しかも六日間などという中途半端な時ではなく、瞬時にして生み出したことであろう。宇宙は根本において無時間的なのである。無時間的で、かつあらゆる可能性が同時に現実であり、無限の存在として同時に存在しているのである。
 この同時性ということは、物理学の否定するところである。観測者ごとにそれぞれの時間があり、同時性ということはありえない。しかし<永遠の視点>から見て、この全宇宙は同時的に、不動のまま、永遠に存在しているのである。それが真の意味でのnunc stans 永遠の今であると言えよう。この今は、実はこの宇宙的nunc stans にあずかった今に過ぎない。全宇宙を貫く永遠の今があるからこそ、この私の今における存在が不動のままにあるのである。移り行かない時が、私の存在の場であると同時に、全宇宙のあり方なのである。
 世界は進化も発展もしない。ただこの世界の段階的構造(Stufenbau)があるばかりである。世界意志は瞬時にして全宇宙の構造を発現させたのであり、それを時間的順序において見るのは、生命の産物である人間知性の都合に過ぎない。宇宙は非歴史的であり、そのことを認識できないのは、私が無数の今の中から、ただこの今にしか存在し得ないからである。しかし、この今の中に宇宙の本質があるのであり、それを洞察する眼が開けるならば、真の意味での永遠の今に参与できるようになるであろう。


 *   *   *

 時間は物理的にはある種の空間であると述べたが、次に空間についての考察を加える。空間は次元として考えるのが最も一般的であろう。しかし古代では、空間は空虚(真空)の問題と関連した。空間はすべて物質で満たされているという考えと、何もない空虚であるという説が対立した。デモクリトスやエピクロスの原子論は後者であり、アリストテレスや後にデカルトは前者の立場であった。これは同時に空間における運動の問題であった。物質を全宇宙を満たす基体と考えるか、原子論者のように微細な粒子と考えるかで、空間と運動の考えも異なったのである。後にニュートンが、絶対空間の中での引力の法則を立てたときにも、デカルトが渦動説で対立した。光の伝播に関しても、その媒体としてエーテルのような物質が空間を満たしているものとされたが、マイケルソン・モーレーの実験で決定的に否定された。自然界での空間は、基本的に真空なのである。
 現代の物理学では、空間は何もない空虚ではなく、絶えず粒子のわきたっては対消滅をしている、物質の温床のような場所である。さらに空間自身の持つエネルギーが、この宇宙を加速膨張させている原因(ダークエネルギー)であるともされている。このように空間の性質に関しては、さまざまな理論や仮説や発見がなされたが、空間そのものの存在を疑うものはいなかったようである。この点は、その実在性が疑われうる時間と異なっている。そもそも実体としての物質の属性として、唯一<延長Ausdehnung, extension>なるものが考えられたのも、この世界の実質は空間と共にあると考えられたからである。空間を否定すれば、物質もしくは物体は、この世界から消えてしまう。
 感覚に与えられている次元は、一次元と二次元であると先に述べたが、それでは知覚において生まれる三次元の空間は、単なる主観的産物なのであるか。これは三次元の運動が可能であることから、単に知覚だけの問題でなく、物体(身体)のあり方であるといってよかろう。この三次元空間が、この宇宙の物質の場であると言える。そして物質は空間的性質を持つ物体として発現する。物質自体は必ずしも空間的ではなく、たとえばショーペンハウアーが定義したように、<作用一般 das Wirken ueberhaupt>であるならば、むしろ時間的もしくは因果的なのである。それが空間に発現することによって、空間の性質を帯びるのである。すなわち限定的、個体的なものとなり、個体間で作用しあう関係に入る。
 現代物理学では、物質は空間に影響を与える。物質の質量によって空間はゆがむのである。それが重力の正体である。それは光が太陽のような天体のそばで曲がることと、巨大銀河団による重力レンズの効果などによって、観測的に証明されている。空間は物質の作用を受ける点で、実在的なのである。単なる直観の形式ではない。
 この宇宙は物質の世界であるかぎり、空間的構造を持っていることは間違いないであろう。しかも宇宙によっては三次元にかぎらず、もっと多くの次元の宇宙があるとされる。この宇宙でさえ、実は十次元であるとも、十一次元であるともされる。どこかに余剰の次元が畳み込まれているというのである。宇宙とその次元によって、物質のあり方も異なるであろう。あるいは次元、すなわち空間こそが、最も基本的な物質のあり方であり、それによって本来の物質のあり方も決まると言えるかもしれない。始めに空間ありと言うべきなのかもしれない。
 先験的認識論が、空間を直観の形式とするのは、三次元までは正しいであろう。四次元以上はその形式を持たないのであり、したがって空間が存在しても、認識にはかからないのであり、きわめて貧弱な形式であることになる。実際に三次元空間が存在する以上は、それは形式というよりも、反映と言ったほうがよいであろう。実在を最も反映しているのが、空間認識なのだ。しかし微妙な点ではさまざまな錯視や錯誤が生じていることは、心理学が明らかにしている。人間の知覚は、実在をそのまま映すよりも、効率的、実践的なのであるから。

2018年11月9日(金)
自我と今(およびカントの時間論)

 自我と今は存在論的に同一であると述べた。そのことをさらに考察する。自我は無時間的であり無根拠であるが、単なる概念でも、先験的認識主観でもなく、れっきとした存在である。そのような自我を純粋自我あるいは超越的自我(das transzendente Ich)と名づけておいたが、その超越性は自我をとことん内観することによって、ネガティヴにもしくは無限背進的に得られるものであった。そのどこまでも後退していく<私の私>を、突如としてある平面で実在化するものが、疑うことの出来ない私の存在である。このアウグスチヌス=デカルト的な反省する私の絶対的存在は、同時にこの今の絶対的存在と重なっている。私の存在は、時間的に今として表象されるのである。
 時間において真に存在するのは今でしかないことは、アウグスチヌスが、時間を<魂の延長>と考えたことにも現われている。魂(意識)には現在しかなく、それが過去と未来に伸びることによって、時間概念が生み出されるのである。このことをより厳密に考えた、現象学の時間論をここで参考にする。現象学では、意識における時間の未来方向をProtention(未来予持)、過去方向をRetention(過去把持)ととらえる。今その図式化したものを、多少変更してかかげてみる。(滝浦静雄「時間―哲学的考察」p.157)

 

 横線のO,P,Q,Rはそれぞれの今であり、Oの時点で考えると、未来にProtentionされていた(P)(Q)等が、今の中を一段ずつ現在から過去方面(下)へと移動(沈下)していく。Oであった今は、PではOxとしてRetentionされる。これで見るように、過去把持も未来予持も、推移する時間の中にはなく、今そのものの中に保持されているのである。保持されながら、O,P,Q等の今の時点において、いわばスライドしていくのである。
 この図表で多少奇妙に感じるのは、意識における時間の流れが、ProtentionやRetentionといった、現在的な用語が用いられ、そのように表示されている反面、流れる時というものが、別に設定されているかのように見えることである。今は果たして流れていくのであるか。もちろんこれを単に論理的設定と考えれば問題ないのであるが。つまり、この図で横に流れるように見える<今>の順序も、時間表象にもとづいた、二重の時間ではないとするならばである。
 いずれにしても、意識における時間は今から生み出されていく。時の流れは相対的であるから、今が流れに乗っていくと考えても、未来や過去が今の中を流れると考えても、大差はないであろう。問題は時間の中での、今という時点の特異性なのである。この特異性が現われるのは意識においてのみであって、今という時点を客観化すれば、単なる数列や、順序に過ぎないものとなる。意識とはすなわち自己意識であり、すなわち自我そのものである。今の特異性は、自我の特異性と一致している。しかしながら、根本の違いは、自我はその根源において、なんら時間意識を持たないことである。自我は過去や未来によっておのれを意識するのではなく、まさに己自身の存在そのものの意識によって、おのれの存在を(あるいはその不可解性を)端的に知るのである。そのような根源の自我からは、時間は生まれてこないであろう。それではどのような意識が時間を生み出すのであろうか。そもそもそれは意識であるのか。
 ここで現象学でいう、超越論的自我(das transzendentale Ich)というもののあり方を考えてみる。これは個々の自我を捨象し、実体概念なども<かっこ>に入れられる。個々の自我ではないにもかかわらず、なおかつ意識を論じることが出来るとされるのであるが、意識に現われてくる現象を考察する場合に、その主観とされるものは、やはり超越論的主観であり、そのようなものが果たして具体的意識とどのようにして結びつくのであるか。ここでカント哲学での先験的(超越論的)主観との類似性を考える。統覚の先験的統一が、認識一般を可能にするとされるのであるが、この統一を行なう先験的主体が認識主観なのであり、そこから意識そのものさえ発現すると考えられる。すなわち先験的主観は意識の存在の条件と考えてよいであろう。もちろんこのような先験主義は、現象学では<かっこ>に入れられているのであるが、時間を生み出す主体を考える時、それが単なる意識ではないことは確かであろう。時間は意識に現われてくるのである。
 このカント的な意味での先験的主観は、認識が可能になる条件であって、認識の対象とはなりえない。具体的な自我意識とは別のものであるが、自我意識もまた意識であるからには、この先験的主観と同一の視点をもっているばかりか、この認識主観がなければ発現することがないとも言えるであろう。自我はその意味で目覚めさせられるのである。同じことは、時間意識についても言えるであろう。内的時間を生みだすのは、無意識的機能である先験的主観であり、それゆえに時間は自我に対してあたかも自律性を持つのである(カントの時間論については補説「時間と先験的図式」参照のこと)。
 先験的主観は、形而上学的に見れば、生への意志が道具として生み出した認識の機能であり、類の存続と個体保存にとって有利な世界認識を生み出すための、知性のあり方なのである。それが一方では自我=意識を生み出し、他方では時間意識を生み出す。それによって独自の表象世界を構築した知的生命体は、生命界の頂点に達し、宇宙意識にまで到達しえたのである。
 先験的主観は認識の根本の形式であるから、それ自体は無時間的であり、存在ではなく単なる機能であるともいえよう。しかしその機能において意識を生み出し、時間を生み出す点において、存在や時間となんらかのつながりを持つであろう。その機能の根本にある形而上学的本体が、意識や時間において発現するための、なんらかの媒体を務めているのである。意識において自我が発現し、時間(及び空間)において世界が発現する。自我が今という唯一の時しか持ち得ないのも、この認識主観の生み出す意識の制約によるであろう。認識主観は個体に備わった機能であるために、個の見地しか持ち得ないのである。個体はその置かれた場所からしか、認識の視点を持ち得ないのである。それは生命の存続にとっては有利であるが、認識自体にとっては大いなる制約である。
 しかしながら、自我の見地から見て、時間的に今という制約を持つことは、純粋な自己意識に到達するための有利な条件である。神のごとく、すべての時間がその存在の場であったならば、自我は発現することがないであろう。今という制約の中に発現することによって、自我はその存在の意識をもつことが出来るのである。今が唯一の実在であることによって、その実在にあずかっているおのれを見いだすのである。そして、この世界の存在のように、時間の中に過ぎ去ることのない、無時間的な存在であるおのれを見いだすのである。
 自我が形而上学的に、この世界の産物であるのか、あるいは真の意味での超越的存在であるのか、最後に考察する。自我がもし単なる自我意識であって、意識現象と異なったものでないならば、意識を生み出すのが先験的主観であり、このものは生への意志、ひいては世界意志の産物であってみれば、自我を生み出したのは世界意志そのものに他ならないことになる。自我のもっとも顕著な現われである、動物的=身体的自我においては、自我は生への意志そのものであることを、これまでにもくり返し述べた。そこから反省的自我が目覚める時、自我はおのれの内面に向かい、そこに自我の本体とも言える不可解なおのれ自身を見いだし、それが唯一無二の、無時間的かつ無根拠の存在であることを知る。無根拠(Ungrund)であるとは、宗教者はそれをなくてもよい存在者と見なすのであるが、そうした不安ではなく、不可解な存在でありながら、それが存在することの驚異においてとらえられた無根拠である。この意識において、自我はこの世界を超越し、この世界の判定者となりうるのである。
 自我は何ゆえにこの世界に発現しなければならなかったか。その条件はすべて世界の側にあり、私自身は何ひとつそれを変えることは出来ない。私自身もまたこの世界の道具として、奴隷として生み出されたのであろうか。そのような自我には自由はない。たとえ私がこの世界の判定者としての地位を与えられたとしても、それがこの世界での存在の代償に価しようか。たとえそれが私の存在の宇宙的使命であるとしても、私の存在の究極的意味ではありえない。自我が真に超越的であるためには、プラトンが概念の実在性のためにイデア界を要請したように、純粋自我のための超越的世界を、いずこかに求めるほかはないであろう。

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 カントの時間論:時間と純粋悟性概念の図式について

 時間は、生命としての人間の意識が生み出したある種の幻影であるということを主張したが、その具体的なプロセスについては、まだ明らかにされてはいない。その一つのヒントとして、時間が認識の先天的形式であることを、その先験的認識論によって明らかにしようとしたカントの、時間に関しての考え方を、「純粋理性批判」から探ってみたい。特に、その先験的図式の理論(Schematismus)が重要であるが、その前に、先験的感性論における、直観の形式としての時間について触れておく。
 時間は空間と対比されて、前者が外感の、後者が内感の、形式とされるが、いま空間はさておき、時間が内感の形式とされるのはどのような意味か、<内感der innere Sinn>の意味について考察する。カントは内感について、「心性がおのれ自身、またはその内的状態を直観するもの」(B37)と以外には、特に詳しい定義はしていないようであるが、ふつうに内感と考えられるものは、情念や感情や想像や、さらには臓器感覚や熱などのの内面の感覚、また思考や記憶なども感性を伴う限り、人間の内面として、内感に加えることが出来るであろう。すなわち、すでに対象化された用語を用いるならば、<身体>内部の感覚的意識のあり方である。それに対して<外感der aeussere Sinn>とは、やはり身体表象を用いなければ、正確に区別できない、自己の身体を始めとした、対象化された世界に向けられた感性の内容であるといえよう。先験的感性論の立場からは、すでに成立した対象を扱うわけにはいかないので、あえて定義するならば、内感とは、意識そのものとしての感覚意識であるといえよう。その場合にも、意識が成立するためには、すでにある方向性を持たねばならないので、すなわち最低でも一次元の空間が、そこに形式としてなければならない。その一次元は、同時に時間の次元でもあるので、時間がもっぱら内感の形式であると言うのは、成り立つことになる。二次元三次元の空間が成立するのは、その形式によってすでに対象化された外感、すなわち外界においてである。
 時間がこのように内感の形式とされるのは、単に感性直観の特性として考察されるのみではなく、もっと根本的な問題、すなわちこの後「純粋理性批判」において展開される純粋悟性概念、すなわちカテゴリーの問題と関連してくるのである。 感性界の多様な素材を、先験的な総合的統一へもたらして、認識の対象とするためには、単に感性直観の形式である、空間と時間のフォルムだけでは十分ではなく、カテゴリーと称される純粋悟性概念が、それら直観の形式と結びつかねばならないものとされる。問題は、カントに特有な問の形式において、「純粋悟性概念はいかにして現象一般に適用されることが可能であるか」としてたてられる。ここで現象と言っているのは、感性に与えられた雑多な内容のことである。

 「今や明らかなのは、一方ではカテゴリーに対して、他方では現象に対して、同種の関係にあり、前者の後者への適用を可能にする、第三のものがなければならないことだ。この媒介的な表象は純粋(すなわちいかなる経験的なものをも含まない)であらねばならず、しかし一方では悟性的(intellektuell)で、他方では感性的(sinnlich)でなければならない。そのようなものが先験的図式である。」(Kritik der Reinen Vernunft B177)

 ここで注目されるのは、内界の能動的機能である悟性と、まったくの受動性である外感の中間にある、内感のフォルムとしての時間である。カント自身の説明がつづく。

 「悟性概念は多様なもの一般の純粋な総合的統一を含む。時間は、内感の多様なものの、すなわちあらゆる表象の結合の、形式的条件として、純粋直観において、一つの多様なものを先天的に含む。さて、先験的な時間規定は、それが普遍的であり、かつ先天的な一つの規則に基づくかぎりにおいて、(それの統一をなす)カテゴリーと同種のものである。それはまた他方において、時間が多様なものの各々の経験的表象に含まれているかぎりにおいて、現象と同種のものである。それ故に、悟性概念の図式として、現象をカテゴリーのもとに包摂することを媒介する、先験的時間規定の媒介により、カテゴリーの現象への適応は可能になるであろう。」(K.d.R.V.B177-178)

 図式は、カテゴリーに従って、分量、性質、実体、因果性、交互性、可能性、現実性、必然性のそれらが挙げられている。それらは、それぞれ時間的継起としての数、時間における連続的斉一的生産としての感覚の度、実在的なものの持続性、また規則的継起としての因果性、同時存在としての交互性、ある時間、特定の時間、あらゆる時間における表象ないし存在、というふうに、すべて<時間規定Zeitbestimmung>として定義される。時間規定とは、時間における存在の三様態である、持続性、継起、同時存在、に対応するものである。時間そのものについては、時間は流れず、時間の中において変化しうるものの存在が流れるとされる。現象においては、変化しないものとしての実体概念に対応する。時間はフォルムであるからには、自ら流れないのは当然である。
 純粋悟性概念は、時間において感性的存在を規定することによって、初めて感性界の雑多な内容と関係し、それを統覚(Apperzeptionすなわち自己意識)の先験的統一のうちに、認識可能な対象(Gegenstand)として構成することが出来るのである。時間がこの現象界の成立の根本の原理であるといっても良いほどである。しかし、この現象界の基本的素材である表象を生み出すのは、悟性概念でも時間でもなく、先験的Einbildungskraft(経験的心理的想像力と区別して、構想力と訳される)であるとされる。この構想力は、文字どおりに、Bild(像、イメージ、表象)を生みだす能力であるが、それだけではいまだ対象とはならないのである。構想力によって生み出された混沌とした表象すなわち現象に、認識可能な形を与えるのが、図式によって媒介された純粋悟性概念なのである。このような形式的区別は、いかにもカントの潔癖な、悟性と経験との区別にもとづく。純粋悟性が感性界にタッチするのも、図式という手袋が必要なのである。
 しかしながら、その媒介を時間に求めたところに、カントの深い洞察があるであろう。それによって機械的な認識論から、Werdenが可能になるばかりか、表象世界の創造に時間が重要な役割をしていることが看取されるのである。時間は空間的表象と結びついて発現するが、単なる空間では生まれえない、持続や、継起や、同時の観念を現象すなわち表象に対して付け加える。この点では悟性概念そのものとも見なされうるのであるが、空間的直観において表わされ、理解される点において、やはり感性界に属しており、この二重性が、単なる悟性概念とも異なるのである。この両者にまたがり、さらには変化や生成の観念を生みだす基本フォルムである点において、両者よりもさらに根源的であるといっても良いのである。構想力が世界を表象として生みだす能力であるならば、時間は世界を流転させる原理であるといってよかろう。この両者、構想力と時間とが、根源を同じくすると考えることに、特に妨げはないであろう。構想力こそが時間を介して、純粋悟性概念を一気に感性的表象に結びつけるのであると。人間精神(Seele)の、根源的動力としては、悟性や感性は単なる機能と見なされうるであろう。構想力の根底には生命の働きがあるであろう。客観的に言って、認識をつかさどる脳髄は生命の産物なのであり、その現われである人間精神は、生命の欲動によって動かされているのである。この生命が、自己に都合のよい表象界を生みだすにあたって、時間の形式を原理とする構想力の働きによって、悟性概念を駆使しながら、感性界の雑多を、現象としての統一的世界へとまとめあげているのである。その結果、実在界には存在しない、変化や生成といった現象を、生命界特有の世界のあり方として構成したのである。
 カントの先験的認識論を援用したこのような考え方には、反論もあるであろうが、カント自身は、さらに果敢に、この自然界(Natur)に対して、法則を与えるのは人間精神であるとして、コペルニクスの立場におのれをなぞらえたのである。カントは現象界をNaturとしているのであるから、この言い方は当然といえば当然である。自然の根底に有るものは、人間精神には知り得ないのである。それにしても雲霞のような人の群を見ていると、これらの貧弱な脳髄の持ち主たちが、それぞれに自然に法則性を与えて、おのれの世界を構築しているのだとは信じられないであろう。天上なる星ぼしの運行が、それ自身の法則によってでなく、人間精神の与えた法則にしたがっていると考えることは、確かにめざましい発想の転換ではあるが、<汝自身を知れ>の哲学の原則に反しているであろう。人間精神の中に、ある永遠なるものを認め、それとの合一をはかった古代の哲学者はより謙虚であったといえる。カントはしかし、純粋理性批判の範囲においては、経験の批判、すなわち経験における自然科学的認識の確立、の範囲を出でなかったといえよう。それ以上に、形而上学的原理を(その<越権>の批判以外には)立てることをしなかったからである。フィヒテのような学説は論外であったのである。

2018年11月20日(火)
総体人格について(1)

 人格が多重的であることは、これまでにも究明したが、その実践的帰結について、さらに考察する。人格は世界意志(生への意志)に対応する部分と、イデア界に対応する部分とに従って、三分されうることを以前に述べた。一般に知情意と称されるものが、その区分に当たるが、そこでは媒介的部分である心情(Gemuet)によるものが、行為において最も重要であることを説いた。それらの点に関して、若干の補足をする。
 人間はその人格の多重性によって、最も低次の動物的衝動から、心情的、理知的昂揚に至るまで、とてつもない階梯の幅を持った心的存在であると言える――通常はその可能性の幅が、なんらかの内的・外的障壁によって、全面的に直接の行為として現われることが妨げられてはいるが。いわば人間の人格は、マルキ・ド・サドとカントと聖フランシスとを、一つの身体の中に同居させているのである。このような人格的複合を、どのようにしてコントロールし、統合的人格へともたらすことが出来るのであるか。これが自我にとっての、行為における、もっとも根本的な倫理的問題(エゴイストの倫理)となるであろう。
 もっとも強力な人格の衝動は、性衝動であるとしたが、もっと一般的に、第一の人格はあらゆる本能的欲動において現われる人格としておく。一言でいえば、生への意志そのものの発現である、あらゆる身体的・心的意欲を、その原動力(Ur-Antrieb)としている人格である。心情も、中間の人格としたが、厳密に言えばこれに属するのである。心情は、それ自体ではなんら本質的意欲ではなく、実のところ、意欲の表われを映し出し、質的に計量しているバロメーター(晴雨計)のようなものに過ぎないのである。しかしこのバロメーターとしての心情の役割は、行為の判断において、とりわけ理知が関係する場合に、大いなる効力を発揮する。行為は単に心情、すなわち情念を抑え、コントロールするだけでは成立しない。情念そのものは単なる表われなのであり、それがそのまま行為をもたらすわけではない。行為は情念を判断材料とするだけなのである。ビアスの皮肉にならえば、晴雨計そのものが天気をもたらすわけではない。
 とはいえ、自我が自己自身の状態を察知し、または観察するためには、心情におけるおのれ自身の表われを見るほかはない。自我の動物的状態では、自我は情念とともに行動しているといってよい。それは反射的、本能的であり、恐怖は逃避へ、快感は接近へと、すぐさま行為を引き起こす。これが最も効率的な情念の働きであるが、反射的であるために、錯誤や失策におちいりやすい。さらには、無反省であるために、本能のなかでも最も強力なものが意志を支配し、暴発や残虐やの動物的行為へとおもむかせる。こうした行為が、種の持続、個体の保存にとって不利をもたらすゆえに、高等な動物では理知が発達してゆく。理知の発達とともに、自我は情念に対してある距離がとれるようになる。それを情報として見られるようになるのである。
 理知的人格はもっとも非力な人格であるとしたが、情念に対してある距離をおくには、理知による反省が必要なのである。種の維持と自己保存の本能に発する盲目的、反射的行為に対して、まず情念による情報の迂回路が生まれ、それに対してさらに情報処理機能である理知が生まれることによって、人格の三機能が確立したといってよかろう。この機能の中でもっとも強力なのは、言うまでもなく、行為の直接の動因である本能的意欲である。心情も、さらには、理知も、それ自体では何の動力も持たないのであり、それらを動かし、発現させるものもまた、生への意志そのものなのである。心情ばかりか、理知も、生への意志をコントロールする本源的力を持たないのであり、その力は借り物なのである。それでは、心情や理性はどのようにして人格的独立性を持ちうるのであるか。単なる道具としての、付随的存在もしくは機能に過ぎないのではないか。
 生への意志はこの世界の現象においては、因果的力として働く。生命現象として、もっとも強力な欲求である、食欲や性欲を生み出し、個体保存の原理である身体的自我を生みだす。自我の発生は同時に意識の発生であり、意識において情念は本能と分離し、さらに情念から理知が分離する。この関係はすべて因果的である。結果であるものは、フィードバックの関係においてのみ、原因に対して作用を及ぼしうる。それ自体としては道具でありながら、無意識に対して意識という優位な立場に身をおくことによって、心情も理知も、本能的人格に対して、ある独立的立場を取りうるのである。しかし、それは本源的動力においての優位ではないのであるから、その働きは必然的因果的であるよりも、カントの用語を借りるならば、統制的ないし統御的(regulatif)であるといえよう。形而上学的に言っても、生への意志の優位の立場から、それへの心情や理知の影響は、せいぜい統御的でしかないのである。
 理知は理念(イデア)もしくは理想(イデアール)によって、生への意志、そしてそのモニターである心情に対して、あるべき方向へ向かわせることが可能である。その理想は人格の全体的統一であり、それを総体人格(Ganzheit-Person)と名づけておく。理知そのものは、生への意志の道具であるからには、そのような要求を持つことはできない。理知と心情をそのように統制的に働かせようとするのは、反省的自我そのものである。世界意志と根源において本質をことにするものがなければ、そのような大胆な企ては不可能であるからだ。純粋自我は理知と結びつくことにより、そのイデア界における理念の目的的働きによって、おのれ自身の統制的働きを意志に対して及ぼそうとするのである。純粋自我が人格に対して、唯一積極的に働きかけるのは、この総体人格としての身体的自我の統御の要求においてのほかにはない。それによって、少なくとも、この人生における苦悩を軽減し、幸福の実現にまでは至らなくても、我慢できる人生を送ることができるのである。さもなければ、人格の多元性の前に混乱した自我は、絶望と無謀の間で、人生を棒に振るか、マインレンダーのように、禁欲と自殺の間の選択に立たされ、後者を選ぶことにもなるだろう。
 心情はこの総体人格の実現のバロメーターとして、つねに、あるべき理想の状態を自我に告げる(古代の哲学者の言うアタラクシア[心の平静])。理知はそれによって取るべき策を講じ、意志に対して理念を掲げるであろう。それにしても、人類や、人類史や、世の中の、あらゆる不合理、暴力や戦争や、悲惨や災禍が、たえず心情を揺れ動かす。たとえ内面の統一と調和が図られたにしても、外からのあらゆる刺激や情報が、それをかき乱すであろう。自我は内に対しては統制者たりえても、外に対してはまったく無力である。かといって、人格の統合をもっとも危険にさらすものは、この世界のあり方そのものなのである。人類愛や共感や集団の利益や国家目的などといったものも、人格の統合のためには犠牲にしなければならない(古代の哲学者の言うアジャホラ[どうでもよいこと])。他我がもし自我と同じものであるならば、すべての自我が総体人格を実現することによってのみ、少なくとも人類の恒久平和は可能になるであろう。それが不可能であるならば、少なくとも自我の自己認識において、その究極に見いだされる純粋自我の解脱において、この世界の解体を目指すほかはないであろう。自我の解脱と同時に、

 「われわれはむしろ率直に次のことを認める――意志を完全に廃棄した後に残るものは、だれでもいまだに意志にあふれている者にとっては、もちろん無である。しかし、その反対に、意志が転向し、自己否定を遂げた人にとっては、このわれわれのはなはだ実在的な世界が、無数の太陽や銀河と共に、――無に帰するのであると。」
   ――アルトゥーア・ショーペンハウアー「意志と表象としての世界(第71節)」より
 (Wir bekennen es vielmehr frei: was nach gaenzlicher Aufhebung des Willens uebrig bleibt, ist fuer alle Die, welche noch des Willens voll sind, allerdings Nichts. Aber auch umgekehrt ist Denen, in welchen der Wille sich gewendet und verneint hat, diese unsere so sehr reale Welt mit allen ihren Sonnen und Milchstrassen- Nichts.
 ----Aus Die Welt als Wille und Vorstellung abt.71 von Arthur Schopenhauer)

2018年12月1日(土)
総体人格について(2)

総体人格と性格

 総体人格の形成がエゴイストの基本的な自己に対する倫理であると述べたが、これから帰結する行為のあり方を、具体的に人生の原則として立てることが出来る。この世界に身体を持った存在者として生み出されたことが、自我の最初の悲劇であるが、その存在のありようを、最小限の苦悩と苦痛で済ませようという、流刑者の心掛けが、いわば自我の処世訓であり、心術である。このことに気づくまでには、多くの悲惨な体験をへて、純粋自我の自覚に達するのであるが、ひとたびこの自覚に達したならば、まず自己の混乱した人格を立て直すことが、何よりも肝要である。無知蒙昧な青春期にはこのことは不可能であり、放蕩無頼な社会人生活においてはなおさら不可能である。人生の半ばを越して、初めて到達しえる自覚なのである。
 人格を考えるには、行為の源にある性格 Charakter というものを考察しておかねばならない。人格は行為において初めて認識されうるものであり、その行為を生みだす源が性格と称される、身体的自我の、すなわち人間の、根源の属性ないし性質である。この性格は生得的であり、変えることができない。科学的に言えば、遺伝子すなわちDNAによって決定されており、すなわち祖先の性質をそのまま受け継いでいるのである。人格の多元性の理由の一つは、この遺伝子が両親という二方面から受け継がれることによる、性質の乖離がある。ショーペンハウアーが言うように、両親の性格が異なるほど、個人の人格の不調和は大きいのである。ショーペンハウアーはこの変えることのできない根本の性格を、カントに倣って<叡知的性格der intelligible Charakter>と呼んでおり、その根底には世界意志、すなわち生への意志をおいている。その時空における現われを<経験的性格>としており、このものも基本的には不変であり、単に偶然的要素や、理知の認識が変化するに過ぎないとする。性格が不変であるかぎりは、行為は、物体が自然法則に従うのと同様に、動機によって必然的に決まるのである。ただし、この性格の認識はa priori(先天的)には与えられていないのであり、したがって、性格も人格も、行為の結果として経験的a posterioriに認識されるほかはないとされる。
 自我は何よりもまず、おのれの経験的に知られた性格の把握に努めねばならない。たいていは、遺伝子の混合からなるための、矛盾と対立において現われており、たとえば大胆と臆病、尊大と卑屈、内向と外向、攻撃性と甘え、躁と鬱などの衝動的行為に典型的に見られる。これらの矛盾・対立した性格の中から、行為においてもっとも有利なものを発現させることによって、環境、とりわけ社会環境の中での、人格は選択的に形成されてゆく。どれか一つの性格に偏ってしまうと、環境の中での適合性が失われ、衝突と敵意によって、社会の中で不利な立場におかれる。それを避けるには、いわば自己の性格という手駒を、うまく使いこなすほかはない。さもなければ、そもそもそうした人格転換を必要とする社会環境をぬけだすほかはないだろう。
 自己の性格の多様性から行為の多様性が生まれ、それらに応じて心情の常ならぬ動揺が生まれる。自己にとってどの性格が最重要であり、どの性格を抑えるべきであるかという判断の目安となるのが心情のあり方であり、その心情もまたどのような動機によって生じたものであるかによって、また評価が分かれるのである。卑劣なことをしたことによって心情が乱れるならば、卑劣な性格を呪うであろうし、しかしそれが自己の利益にもとづくものであったならば、それをよしとする判断が生まれ、心情も説得によって落ち着くであろう。こうした多様な性格ないし性質や、心情の動揺を、理知によってコントロールするためには、ある一定の原理がなければならない。それは自我にとってもっとも根本的な原理でなければならない。同時に、世界意志に属する叡知的性格のなかでも、最も強力なものでなければならない。それはすべての性格の根源にあるものであり、すべての性格を貫いているものでなければならない。すなわち、それはこれまでにも生への意志の本質であるとした個体保存と、類の存続の意志にほかならない。この両者が性格の根源なのである。
 自我にとって、さしあたり問題となるのは個体保存のみであって、類の存続は個の独自性の解消へと至るのであるから、ここでは前者をおもに考察する。個体保存の本能は、これを心理的に言い換えれば<自己愛amour propre>と言ってよいだろう。自我にとっての根源的性格は自己愛である。この自己愛を満たすかどうかが、あらゆる行為、あらゆる心情の基準となるのである。この自己愛を満たすために、自我はあるときには尊大に、あるときには卑屈に、あるときには大胆に、あるときには臆病に、あるときには攻撃的に、あるときには甘えるのである。もし自己愛がおのれの肉体を嫌悪したとしても、どこかでその自己愛を精神的に満たそうとしているのである。このことを忌憚なく探究したのが、フランスのモラリスト、ラ・ロシュフーコーである。

 「自己愛はあらゆる追従者のなかでも最大の者である。(2)
 自己愛は世間で最も有能な者よりもさらに有能である。(3)
 愛はその結果の大多数から判断すると、友好よりも憎しみに似ている。(72)
 真実の愛は幽霊のようなものである。誰もがそれについて口にするが、それを見た人はめったにない。(76)
 自己愛が善意の鴨にされているように見える場合がある。他人の利益のために労する時に、自己愛はおのれを忘れているようにも見える。しかしながら、それは自己愛がその目的を達するために取る最も確かな道なのであり、与えるという口実のもとに、利子を取るようなものである。それは結局、巧妙で、微妙な仕方で世間を意のままにすることである。(236)
 利害はあらゆる種類の言葉をしゃべり、あらゆる種類の人格を演じる。利害に関心のない人の振りさえするのである。(39)
 利害は人を盲目にしもすれば、他方人の目を開かせる。(40)」
       ――ラ・ロシュフーコー「箴言」より
(L'amour-propre est le plus grand de tous les flatteurs.(2)
L'amour-propre est plus habile que le plus habile homme du monde.(4)
Si on juge de l'amour par la plupart de ses effets, il ressemble plus a la haine qu'a l'amitie.(72)
Il est du veritable amour comme de l'apparition des esprits: tout le monde en parle, mais peu de gens en ont vu.(76)
Il semble que l'amour-propre soit la dupe de la bonte, et qu'il s'oublie lui-meme lorsque nous travaillons pour l'avantage des autres. Cependant c'est prendre le chemin le plus assure pour arriver a ses fins; c'est preter a usure sous pretexte de donner; c'est enfin s'acquerir tout le monde par un moyen subtil et delicat.(236)
L'interet parle toutes sortes de langues, et joue toutes sortes de personnages, meme celui de desinteresse.(39)
L'interet, qui aveugle les uns, fait la lumiere des autres.(40)
     ―― Maximes par La Rochefoucauld)

 自己愛はエゴイストにとっての、他者や社会に対する基本的倫理の原則であると言える。自己愛がエゴイストの、というよりはあらゆる人間の行動の原則であることを認識し、それに適合するかどうかが行動の倫理の基準となるのである。この場合勘違いしてはならないことは、エゴイストはただおのれの自己愛をのみ考慮して行動しては、必ず他者や社会からの反撥や抵抗を受けるのであり、常にあらゆる人間が自己愛の持ち主であることを考慮しながら、おのれの自己愛を充足させることに努めるのが、そもそも<倫理>の意味なのである。そこにロシュフーコーが描いたような、さまざまな自己愛の姿が生まれるのである。
 自己愛はすでに動物において顕著に見られる。動物が求めるのは、つねに自己自身の快適さである。幼獣は飢えに襲われれば、その充足をひたすら他者に求める。決してそこには感謝などはない。親は子育ての中に自己自身の心情の本能的快適さを求めている。たとえ親の本能が類的意志にもとづくとしても、その現われ自体は自己愛そのものなのである。いわば動物は本能的にエゴイストであり、そのエゴイズムを類的意志が巧妙にあやつっているのである。人間もまた基本においては動物であるから、この無意識のエゴイズムが、その全行動の基礎となっている。ただ人間においては社会制度の複雑さが、そのことを見えなくさせており、類の意志が個の意志を支配することによって、すなわち道徳や法律や宗教が<超自我>として自我の上に君臨することにより、あたかも純粋な無私の行為が可能であるかのような錯誤におちいらせるのである。もし類的意志が、個の犠牲を要求するならば、個のエゴイズムはすすんでそこに集団への愛としての自己愛を見いだすのであり、自己愛を普遍の愛とすることによって、自己愛の絶対化をはかろうとするのである。これまた、類の意志=全体への意志が、個の自我に仕掛けた巧妙なトリックなのである。神は愛であるという言い方の裏には、私が神であるという自己愛が潜んでいるのである。

 とはいえ、単なる自己愛は、自我の全面的充足とはならないことは確かである。自我の中には、他者へと向かおうとするある空虚さがつねに存在している。純粋な自己愛としてのナルティシズムは、つねにある空しさを伴っている。子供のころ、鏡に映ったおのれの姿に接吻してみたものならば、だれしもそのことに気づいたであろう。自我は他者を必要とする、これが身体的自我の宿命である。他者を必要としながらも、つねにその必要とする他者を得られない、このことが自我にとっての大いなる苦悩であることは疑い得ない。兼好のいわゆる、<同じ心の友>は、永遠に得られることはないのである。このことはしかし、自我を自己愛からはなれた純粋自我に向かわせるよすがとなる。釈迦が言うように、すべての苦悩は愛からいずるのである。ここでは、このエゴイストの究極の救済についてはさておき、煩悩の世界でのエゴイストの生き方を、さらに考察する。
 他者を求める心の空虚は、世界意志の根源にさかのぼるであろう。もし知性と認識の発達が、世界原理の自己認識のために必要な条件であるならば、世界意志は、あるいはこの場合創造神(デミウルゴス)としてもよいが、自己を顕現しただけでは満足せず、それをなんらかの他者の立場から認識され、承認されることを欲したのだと言えよう。この世界は神の自己顕示であるならば、それを承認する存在が同時に必要なのである。この神もしくは世界原理と、個としての自我が、被造物としてのなんらかの共通の本質を持つならば、自我の自己顕示欲は心の空虚として表われ、その承認者をつねに求めざるを得ないことになろう。子供は回りの大人に対して、自己のしている行為を、つねに<見て、見て>というものだが、それがこの世界の認識の根本原理なのであるかもしれない。
 この自己顕示と、承認願望が、自我の強力な欲望であることは、このようにして説明されうるとして、それに対して自我はどのように対処したらよいのか。それらがあまりにも強力であると、自我の独立性がつねに揺らいでしまうことになる。これらの強力な欲望に打ち克つには、他の欲望をもってしては不可能で、すべてが空であるという永遠の視点による諦観が必要になる。この世界、この宇宙そのものが空なのであるという、あらゆる欲望の空しさ、その根源である世界意志の幻影を生み出す力の洞察、それによってのみ克服が可能になる。その意味では、生者は迷いの世界に生き、死者は少なくとも無にやすらっている限り、その迷いから免れている。すなわち、とりあえず死がすべてを解消し、解決してくれる。それまでは欲望に迷いつつ生きるほかはないのであろう。


総体人格と身体

 単に人格が形成されただけでは、実人生ではほとんど無力である。人格はそれだけで人間を作るものでも、生命としての全体をなすものでもない。生命の根幹をなすものはなんといっても肉体であり、身体であるからだ。肉体=身体はいわば人間のハードウエアであり、それに対するソフトウエアが、ここで言う総体人格なのである。身体の健康ということは、何よりも人間の生存の基本条件である。それは必ずしも頑健であるとか、特別の能力や力を備えている必要はない。身体・肉体の条件も遺伝的に決定されているので、その範囲で健康の維持、鍛錬や、出来るかぎりのセルフメディケーションをおこなえばよいのである。子供にはこれは困難であるが、大人としてはまっとうな人生を送るための、最低限必要な心がけである。エドガー・アラン・ポーも、この作家としては意外に思われようが、身体の健康のためのスポーツを、人生の幸福の最初の条件に挙げている。

 「彼は幸福に関して四つの基本的な原理、または正確に言えば条件を認めたに過ぎなかった。彼が第一の条件と見なしたものは(風変わりにも!)、野外における気ままな運動という単純で、純粋に身体的な条件であった。その他の手段で得られる健康などは、ほとんどその名に値しない――と言うのであった。彼は例として、狐狩りをする人の爽快感をあげ、また大地を耕すものたちについて、一階層として、彼らだけが他のものたちよりもずっと幸福であると見なした。」
  ――E・A・ポオ「アルンハイムの地所」より
(He admited but four elementary principles, or more strictry conditions, of bliss. That which he considered chief was (strange to say !) the simple and purely physical one of free exercise in the open air. “The health,” he said, “attainable by other means is scarcely worth the name.”He instanced the ecstasies of the fox-hunter, and pointed to the tillers of the earth, the only people who, as a class, can be fairly considered happier than others.
  ――E・A・Poe: The Domain Of Arnheim )

 自己の身体・肉体の世話ということが、この世界で自我が独立的に生きてゆくための第一の条件なのである。そのことをいかに早いうちから学ぶかということが、人生の有利不利を決める。不幸にも、そのことを誰からも学ばなかった青少年は、人生の発端から躓くことになる。自己の身体の世話ということは、何よりも自我に独立心と自信とを与える源であるからだ。もちろん自己の身体には限界がある。その限界を知り、その限界内での自我の発展を図ることが出来さえすれば良いのである。身体の不足や不満足は、いくらでも外の方面で補えるからである。最低限、身体・肉体の衛生と健康に気をくばるだけで十分である。このような身体的基礎の上に、総体人格の統合の可能性が生まれる。
 身体はまた、他者に対して直接的関係を持つ、自我の客観的発現であるから、(それ故にこのような自我を身体的自我とするのであるが、)身体に付属するものにも、それなりの注意を払わねばならない。すなわち人間は裸ではなく衣装をまとっており、それが身体的自我の一部と見なされるからである。どのような衣装をまとうかが、また、人格あるいは人となりの表われとされるのである。それゆえに画一的人格を理想とする全体社会においては、だれもが同じ衣装を着ることになる。衣装が人格の代理をするのである。その点では衣装をコントロールすることは、人格をコントロールすることである。それが模倣であるならば、模倣的人格の表われであり、画一的な衣装であるならば、集団的人格、あるいはその中におのれの人格を隠そうとする人格の表われとなる。自己の総体人格に自信をもてるものだけが、衣装に自信をもてると言える。

総体人格と社会

 身体を養うためには、現代では否応なしに、経済的社会に身をおかねばならない。かつては自然界が人間の身体を養う場であったが、国家が発生して以来、自我は自然的身体と、経済的・政治的組織である社会の中に、二重に身をおかねばならなくなった。自我は単に身体であるばかりでなく、経済・政治組織の中において一つの単位として存在しなければならなくなったのである。この単位については、最も抽象的な呼び名は<番号>である。自我は、現在ではこの納税番号としての身体的存在でもあるのだ。自我はこの合理的、功利的存在として、自己の身体を養うほかはなくなっている。野獣や神でない限りは、このポリス的存在(zoon politikon)としての人類の宿命を逃れえないのだ。
 この自己の身体・肉体を養うという経済活動の犠牲の上に、自我のその他の活動は成り立っている。余裕があれば他者の身体・肉体(家族)をも養うであろうし、肉体以上に人生に価値をもたらすものとしての、精神的営みに時間と労力をさくことが出来る。経済的安定ということは、人生全体にばかりか、総体人格の形成にとって大きな影響力を及ぼすのである。幸福の条件の第一にあげなければならないものなのである。
 しかしながらこの経済活動が、総体人格の形成には破滅的影響を及ぼしていることも、世の中の勤労者の姿を観察すれば直ぐに分かることである。それは単に資本主義や社会主義という制度の問題だけではないであろう。その点では人類はこの数千年来、何の変化も進歩も遂げていないのである。人類社会は基本的に、どのような制度であっても、全体主義社会であり、その中で行なわれる経済制度は、利害の争いであり、富者と貧者、勝ち組と負け組の階層社会であることには、大した違いはない。そうした社会全体の分裂、対立と矛盾が、個々の人間の人格に反映して、たいていの勤労者は混乱した人格の持ち主なのである。このような社会で、おのれの身を労働によって養いながら、人格の統一を保ち、総体人格を形成してゆくのは、並大抵のことではないのである。ましてや、生まれながらに、分裂した性格をもちあわせたものにおいてをやである。
 エゴイストがこうした不具な社会の中で、おのれの総体人格を守りつつ、独立的に生きていくためには、出来るだけ少なく社会と交渉し、出来るだけ早く類的本能と欲望に支配された社会から卒業することを目指すほかはない。人類社会は、その<叡知的性格>が不変であるかぎり、いかなる制度や、いかなる改革や、いかなる革命によっても、<進歩>することはないのであるから。それは人類史がこの数千年来、<人間>として少しも進歩を見せていないことからも証明されるのである。単なる知識や、科学技術は、少しも<人間>を改良することなく、かえってその根本的性質や欲望を倍増させて示したに過ぎないのであるから。

2018年12月11日(火)
不可知の真理とWerden

 どのような学術であれ、人間知性に限界がある限りは、その見いだした真理が絶対である保証はない。少なくともポジティヴに主張しうる真理には、人間知性にとってという限定がつくのである。これは形而上学においても同様である。世界意志がなんであるか、それがどのような本質を持つものであるか、それが単に理知にとって考えられうるという相対的な真理性しか持たないものである限り、不可知であると言うほかはない。基本的には世界意志の存在は、人間知性もしくは理性の限界から来る、単なるもっともらしい要請(Postulat)に過ぎないのである。
 イデア界についてはどうか。今日のもっとも有力なイデア論である自然科学を例にとると、自然法則がこの宇宙の絶対的真理であるという保証はどこにもないのであり、単なる普遍妥当性の要請に過ぎないのである。宇宙のほかの場所で、それが成り立っていないという可能性は否定できないのである(*注)。人間の認識が探究したこの現象界の法則が、イデア界の法則そのものである保証は、どこにもないのである。そうとするならば、プラトンはこの直観的世界をイデアの影であるとしたが、理知が客観的にとらえた概念的世界もまたイデアの影に過ぎないのであるから、人間の認識は、さらには知識そのものが、影や影の影を相手にしていることになる。イデアそのもの、イデアの本体が何であるかは、人間知性にとっては不可知の領域にあるのである。それが人間的理知に適合するものである保証は、どこにもないのである。

 (*たとえば宇宙の平坦性問題という謎がある。この宇宙空間が平坦一様である理由として、我々の知る宇宙が極端に小さな領域に限られているからであるという解決がなされている。大地が平面に見えるのと同様であり、この宇宙全体はでこぼこした空間でありうるのである。)

 それでは、人間の認識が相手にしているこの世界、このWerden(ヴェルデン)の世界は、この生成消滅の世界は、一体どのような本質を持っているのか。それは現象である限りは、世界意志とは本質を異にしており、すなわち物自体である世界意志とは、次元をことにした存在のありようであり、またイデア界の影や影の影である以上は、イデアの本質とは異なった存在のありようである。そもそもWerdenは単なる存在ではなく、存在から存在への変化なのである。この存在のあり方は、本質に対して偶有性と呼ばれる存在のあり方であり、本質が不変であるのに対して、変化と消滅にさらされている存在のあり方である。本質もしくは実体は不変であり、それの偶有的性質は変化し、生成し、消滅する。これがWerdenの本質である。すなわち生成消滅を不変の本質とするものが、Werdenなのであり、この現象界のあり方である。
 この現象界の認識は、カントが先験的認識論において確立したように、人間知性にとってもっとも確実な知識のありようである。人間の知識は基本的に現象界に限られるといってよい。それは物自体にも、イデア界にも直接及ぶことはないのである。Werdenが人間にとってもっとも確実な知識の対象であることは、そもそも人間自体がこのWerdenの世界に(ショーペンハウアーの用語を用いれば)投げ出されたgeworfen存在であるからだ。右も左もわからずにこの世に生み出される幼い生命体の、闇雲の行為を導く認識は、この現象界にいかに適応するかを唯一の原理として形成された、先天的形式によるものいがいにはないのである。人間の基本的認識はそれ以上でも、それ以下でもない。自然科学も、またあらゆる学問も、それ以上には出でないのである。
 自我もまた、身体的現象としておのれを見いだし、身体として生きていく限りにおいて、現象的存在(いわゆるDasein)のありようを免れることはない。すなわち生命的人間としての存在を、自己の存在とする以上は、このWerdenのなかに身をおき、生成し、消滅する存在として、自己を認識するほかはないのである。その限りにおいて、自我は自己自身について、現象的知識を得るに過ぎない。そのことは、この宇宙や物質に関して得る知識と、なんら本質的に違ったものではない。そこには何ひとつ不可知なものはない。カントが言うように、現象そのものに、おのれ自身の法則を与えるようなものだからである。
それならば、自我もまた現象そのものとして、なんらの本質を持たずに、存在から非在へと移り行くだけのものなのであるか。ここに自我の特異な性質が注目されるべきである。
 世界意志も、イデア界も、その本質においては不可知であり、なんら直接的認識が与えられていないのに対して、自我は自我であることによって、ある種の直知がそこに与えられていることである。そもそも現象界が成立するためには、カントの言う先験的統覚の条件である、<私の意識>があらゆる対象にともなっていなければならない。この自己意識は、それが明瞭に自覚されるとき、独特の存在の意識となって、私自身を私の内面へと向かわせる。私の存在を私は疑うことが出来ない。それが現象的にいかにひよわで、不安に満ち、また、さまざまな欲望に動かされるものであろうとも。この身体的Daseinを直知することが、私の自己意識なのである。この自己意識は、どこまでも私の内面へと自己を探究していくことが出来る。しかし私が私をとらえる限りでは、私は私の身体をとらえているのであるが、ある平面でふと私の存在の不可解性が目覚める。私が私の本質をつかもうとすると、もはやそこには私の理知が及ばないのである。私は私自身にとって不可解な存在、すなわち不可知者として現れる。直知によってこれほどよく知られている私が、究極において不可知であるということ、これはどのようなことなのか。もはや私の本質が現象界に属していないことの表われではないのか。以前に、私すなわち純粋自我の本質は、意欲でも、思考でも、意識ですらもないだろうと述べたが、思考によってはとらえられず、意識そのものも、それが現象の認識の条件であるかぎりは、私の存在そのものの本質にまでは及ばないのである。私もまた不可知の存在者(the Unknowable)なのである。
 世界意志とイデア界と、そして純粋自我としての私の存在も、それぞれに不可知である。この宇宙の本質には、三体の不可知の存在、スペンサーの用語でいえば、the Unknowable(不可知者)が存在する。この三者が、この現象界に、統一して発現している姿こそが、Werden にほかならない。自我は、以前に述べたように、この空漠とした無限の宇宙において、唯一の実在的点をなしている。もし宇宙に中心というものがあるならば、この実在的点としての自我のほかにはないのである。あらゆるWerdenは、この実在的点を中心にして展開されるのである。その原理は時間であることもすでに明らかにした。自我は時間のイデアによって、世界意志の本質の発現であるWerdenを現象させる。それによって不可知なもの(the Unknowable)を知りうるもの(the Knowable)とする。この現象としての世界創造に参与することによって、自我は何を得るのであるか。少なくともなにかを得るからには、自己自身においてはないものでなければならない。たとえ自己自身に自足することが、自我にとっては最高の存在のあり方であったとしても、そこから揺り動かされるには、なんらかの欠乏がなければならない。その意味では自我は絶対者ではない。同様にして、世界意志も、それが世界創造への渇望であるかぎりは、絶対的に自足した存在ではない。イデア界も、それ自身にとどまることが出来ないならば、なんらかの要因によって、現象界にその影を映す必要に駆られているであろう。この三者の条件が、何らかの形で一致した現われが、この現象界、すなわちこの生成消滅、万物流転の世界であると言えよう。
 自我はおのれに欠けているものを、世界意志、およびイデア界に見いだしていると言えよう。一つには生成の喜びなのであり、一つには自己認識の欲求である。これらはともに世界意志から出でて、イデアによってなしとげられることである。この世界がいかに苦痛に満ちた、地獄の相を見せようと、ライプニッツが言うように、あらゆる不協和音にもかかわらず、むしろその故に、全体としては調和した壮大な交響曲をなしているのである。このイデアと世界意志との壮大な音楽である、Werdenの波うつままに、その流れに乗って存在を謳歌することが、自我にとってのこの世界でのつかのまの存在の意味なのである。それは、もはや生への意志の肯定と否定という二者択一を超えた、この現象界を永遠の見地から見る超越的観点である。そして、このWerdenとの遊戯に遊び疲れたならば、自我には帰るべきおのれの世界があるのである。それはみずから見いだすことも出来るし、死という最終の秘儀を待ってもよい。

2018年12月17日(月)
アートマンについて

 ウパニシャッドで説かれるアートマンとはなんであるか。さまざまなウパニシャッドの中で説かれるアートマンは実に漠然としていて、ましてやそれがブラフマンと同一である(梵我一如)などどいわれても、同語反復に過ぎないような印象を受ける。この古代人の思想においては、いまだ概念のはっきりとした区別がなく、今日単純に自我として明白にとらえられるものと、混沌としたアートマンとを同一視するわけにはいかない。

 「1.ブラフマンは実にこのすべてである。寂静となった者はそれを『わたくしが知るべきもの』として念想すべきである。つぎに、人間は実に意向よりなる。人間はこの世界において意向のままになるように、この世界を去ってからそのようになる。かれは(そのために次のように)意向を作るべきである。
 2. 思考作用よりなり、気息を身体とし、光を姿とし、真実をその思索とし、虚空をアートマンとし、すべてのものをその行為とし、すべてをその欲望とし、すべてをその香りとし、すべてをその味とし、このすべてを包含し、言葉をもたず、関心なきもの。
 3.これは、心臓の内部にあるわたくしのアートマンである。それは米粒よりも、大麦の粒よりも、からしの粒よりも、きびの粒よりも、あるいはきび粒の核よりもいっそう小さい。これは心臓の内部にあるわたくしのアートマンである。それは地よりもいっそう大きく、虚空よりもいっそう大きく、天よりもいっそう大きく、もろもろの世界よりも大きい。
 4.すべてのものをその行為とし、すべてをその欲望とし、すべてをその香りとし、すべてをその味とし、このすべてを包含し、ことばをもたず、関心なきもの、これは、わたくしの心臓の内部にあるアートマンである。これはブラフマンである。この世界を去ってから、わたくしはこれに到達するであろう。このように考える者には、疑念はまさにありえないと、シャーンディリヤはかたった。シャーンディリヤは語った。」
 ――「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」第三編・第11章・第1−4節(「ウパニシャッドの哲人」松濤誠達著より)

 古代のインド・アーリアンの思想家にとって、今日われわれが頭脳と言うべき部分を、心臓においているのであろう。心臓が考えたり、知覚したり、意欲したりする働きの中心なのである。そしてこれらの働きは明白に区別されることはなく、すべてがアートマンとして一括されるのである。そのアートマンは同時に、この宇宙の見えざる根源的存在であるブラフマンと死後において、あるいは観想において同一であることが認識され、あるいは同一物として一体化するのである。これはショーペンハウアーの世界意志の学説と類似した点がある。アートマン=ブラフマンは認識においてとらえられることがない。どんな粒よりも小さく、天地よりも大きい。要するに人間の知覚や思考の及ぶところではない、叡知的・超越的存在なのである。それが万物ばかりか、人間自身をもつらぬいている。

 「1.つぎに、ウシャスタ・チャークラーヤナがかれ(ヤージュナヴァルキャ)に質問した。
 『ヤージュナヴァルキャよ』とかれは言った。
 『目の前に、まぎれもなく存在しているブラフマンなるもの、〔すなわち〕すべてのもののうちに内在するアートマンなるもの、それをわたくしに説明してほしい』
〔ヤージュナヴァルキャは答えた。〕『あなたのこのアートマンがすべてのもののうちに内在しているのである。』
 『ヤージュナヴァルキャよ、すべてのもののうちに内在するものとは、いったいどのようなものなのだろうか』〔とチャークラーヤナがたずねた。〕
〔ヤージュナヴァルキャが答えた。〕『プラーナ(気息の一つで、吸気)によって息づくもの、それがすべてのもののうちに内在するあなたのアートマンである。アパーナ(気息の一つで、呼気)によって息づくもの、それがすべてのもののうちに内在するあなたのアートマンである。ヴィヤーナ(気息の一つ)によって息づくもの、それがすべてのもののうちに内在するあなたのアートマンである。ウダーナ(気息の一つ)によって息づくもの、それがすべてのもののうちに内在するあなたのアートマンである。サマーナ(気息の一つ)によって息づくもの、それがすべてのもののうちに内在するあなたのアートマンである。』
かのウシャスタ・チャークラーヤナが言った。
 『〈そこに牛がいる〉、〈そこに馬がいる〉と人が言うのとまったく同様にそのことが説明された。(まるで実物を見るように明確に説明された)。ほかならぬ目の前に、まぎれもなく存在しているブラフマンなるもの、〔すなわち〕すべてのもののうちに内在するアートマンなるもの、それをわたくしに説明してほしい』
〔ヤージュナヴァルキャは答えた。〕『あなたのこのアートマンがすべてのもののうちに内在しているのである。』
〔チャークラーヤナがたずねた。〕『ヤージュナヴァルキャよ、すべてのもののうちに内在するものとは、いったいどのようなものだろうか』
〔ヤージュナヴァルキャは答えた。〕『あなたは視覚作用の視る主体を目に見ることはできないであろう。あなたは聴覚作用の聴く主体を耳に聞くことはできないであろう。あなたは思考作用の思考の主体を考えることはできないであろう。あなたは認識作用の認識の主体を認識することはできないであろう。それが(視覚作用、聴覚作用、思考作用、認識作用の主体)すべてのもののうちに内在するあなたのアートマンである。これ以外のものは〔苦悩に〕さいなまれているのである。』
そこでウシャスタ・チャークラーヤナは質問をやめた。」
 ――「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」第三編第5章(前掲書より)

 視覚・聴覚・思考・認識などの見えざる主体の中にアートマンがあるという洞察は、近代の認識論に通じるものがある。いわゆる超越論的主観である。これはもはや意識のレベルでの話ではないのである。したがってわれわれの経験的自我とは異なったものである。しかし、アートマンを気息としてとらえている点に、古代的思考の即物性が表われていよう。気息は五種類に分かれて、全体としては得体の知れないものであるが、これをアリストテレスの霊魂論に比較することが出来るであろう。
 アリストテレスによれば、霊魂(psyche,anima)は、植物的と、動物的と、人間的との三種の段階がある。人間霊魂の中にはこの三つの段階が存在している。

「生魂(プシュケー)を持つものの中の或るもの、すなわち生物の或るものは、栄養能力、感覚能力、欲求能力、場所的運動能力、思考能力の全部をもっているが、或るものはその中の幾つか、また或るものはその中の一つしか持たないというものもある。」(「霊魂論」414a29-32。「アリストテレス」今道友信著より)

 プシュケーは生命体と結びついており、この引用では生魂と訳されている。植物の霊魂は、栄養と感覚の能力に限られるであろう。動物ではそれ以外に、欲求や場所的運動能力、さらには思考能力が加わるであろう。この思考能力を理性を頂点として高度のレベルで持つのが人間の霊魂である。この総体としての霊魂は、身体とは異なったものであり、「瞳と視力とで眼であるように、プシュケーと身体とで生物である」(霊魂論413a2-3)。

「『プシュケーとは、可能的に生命(zoe)を持つ自然的物体の第一の完全現実態(entelecheia)である。』(霊魂論412a27-28) この場合に生命とあるのは、括弧内にも示したように、ギリシャ語ではゾーエー(zoe)と言い、アリストテレスの説明によると、それは『それ自らによる栄養摂取、成長、衰弱のことである』(412a14-15)。それは・・・自らの生成変化を、自らの内部からの力で類種的規定性に於いて展開してゆくことという意味なのである。このような生命を有する物体はプシュケーではないと言われるのは、プシュケーがこの生命を持つ物体の実体として一応その肉体とは別個のものと考えられているからである。このようにして生物体を質料、霊魂的生命を形相とみているのがアリストテレスの特色ということができる。」(前掲書p.239)

 もちろんウパニシャッドには、形相(イデア、エイドス)、質料(ヒューレ)という考え方はない。しかし知性や理性を一方ではアートマンという総称の中に、他方ではプシュケーという生命と結びついた実体の中に、包括する点においては、古代的思考の類似性をみることができよう。インド・アーリアンにおいては、さらに無機的自然と、有機的自然との区別もないようである。アートマンは、人体や生命の中ばかりでなく、風や、火や、虚空や、天体や、とりわけ太陽の中に内在するとされる。それらはまた、身体以外の自然界から出発した場合の、神的存在であるブラフマンでもある。これは原始信仰における、マナの観念に近いものであろう。あるいはその発展と見ることができよう。万物に神霊が宿り、人間自身の心身もそれに連なっている。ウパニシャッドは、その点では、アニミズムやアニマティズムからそれほど離れてはいないのかもしれない。
 ウパニシャッドはさらに、四種のヴェーダに付属することから、祭儀的要素や、神話的物語性、呪術的要素が渾然となったものであり、純粋な精神性と現世利益とがともに見られる。このような背景の下では、自我を純粋に探究するというレベルの思想は見られない。そもそもアートマン自体を、その最も広い意味で<自我>とすべきなのであるか。アートマンを身体的自我と、宇宙的自我と、二重に使っている(アートマンのアートマン)テキストも見受けられる。

 「30.自己(アートマン)の中に存続しつつ自己とは別のものであり、自己がそれを知ることなく、自己がそのものの肉体であり、内部にあって自己を統制するもの、それがあなたの内部の統制者であり、不死なる、アートマンである。
29.精液の中に存続しつつ精液とは別のものであり、精液がそれを知ることなく、精液がそのものの肉体であり、内部にあって精液を統制するもの、それがあなたの内部の統制者であり、不死なる、アートマンである。
13.月と星の中に存続しつつ月と星とは別のものであり、月と星がそれを知ることなく、月と星がそのものの肉体であり、内部にあって月と星を統制するもの、それがあなたの内部の統制者であり、不死なる、アートマンである。」
 ――――「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」第三編第7章(前掲書より)

 このように使われるアートマンは、むしろ近代人の考える自我よりも、アリストテレスのプシュケーに近いのではないか。ただアリストテレスとは違って、全宇宙に生命を満ちわたらせた、古代的なVitalismus(汎生命論)なのであるが。これはデミウルゴスが創造した世界を、ひとつの有機体と見る、プラトンの宇宙論とも類似していよう。しかしインド・アーリアンでは、世界原理ブラフマンは不可知、不可視の存在であり、それが全宇宙をつらぬく点においてアートマンなのである。個体の本質が全宇宙の本質と全面的に一致する、これが梵我一如なのであり、インド・アーリアンの楽天観が率直にあらわしだされたものといえよう。ちなみにインド的肉体観にもとづいたこの宇宙原理としてのアートマンを否定した、釈迦のアンチテーゼとしての教説は、実に大胆な試みであったと言えよう。仏教がインドから脱出したのも、バラモン、クシャトリアと言う支配層の生みだした、このヴェーダ=ウパニシャッドの強固な楽天的思想に打ち勝てなかったからであろう。