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自我の探究8―実践形而上学

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Contents:超越的人生あるいは実践形而上学/肉体の馴致/肉体の快について/肉体のない精神/知識とは何か/文化的欲望について/知識欲について(補説)/形而上学の実践/類的意志の克服/類的意志の反撃/苦と同苦について/自我の使命/非我の実践


自我の探究(8)―実践形而上学

2019年2月28日(木)
超越的人生あるいは実践形而上学

  個の歴史は悲惨に満ちており、類の歴史もまたそれ以上に悲惨の連続である。記憶はもしありのままに直面するならば、毎日毎時が悪夢でもって心身を圧倒するであろう。適度な忘却が、人間の歴史と言わず、生命の歴史においては必要なのである。そのような果てしない悪夢の歴史が、この世界の、とりわけ生命界の実相なのである。
 人間はこの悪夢の海に漂う一介の生命体であるが、なまじ記憶を発達させたために、現実と精神との二重の苦を受けている。身体の苦は一時的であり、動物は一時の苦痛にさいなまれるだけであるが、人間は記憶においてそれを反芻する。それが歴史という一面愚かな行為なのである。それは個人の歴史と類の歴史とを問わない。とりわけ個の悲惨は自らの体験であるだけに、単に観念的な人類の悲惨以上に、強烈な記憶の苦となって魂をさいなむ。生きるとは記憶の苦に耐えることである。
 このような人生にどのような価値があるのであるか。モラリストはそこに教育的価値を認める。人間は賢くなるためには、記憶の苦にさいなまれることが必要なのである。宗教者もまた、受難の苦によって救済への希望を見いだす。賢者となり、救済の希望を持つことは、この生命、とりわけ人間的生命に対する、超越の願望が働くことである。単に賢いだけでは、この生命を乗り越えることにはならず、ただより少ない苦痛でこの人生をやり繰りする算段をするに過ぎない。それがいわゆる Lebensweisheit(生きる知恵)である。宗教者はより徹底して、この地上的生命そのものを、なんらかの啓示的世界において超越しようとする。それはある種の超越的空想であるが、北欧戦士のヴァルハラからイスラムの享楽的天国、キリストをとりまく霊交の世界や、仏陀の没生命的ニルヴァーナにいたるまで、どこかこの世のおもむきを残した別世界である。
 どのような超越的世界も、苦の記憶を極力排除して、何らかの意味で最も幸福であると思われる状態、すなわち至福をを実現しようとする世界であると言えよう。その世界の存在にはたいした根拠がないのであるが、苦を逃れようとする人々の<形而上的要求 metaphysisches Beduerfnis>によって、信じられた世界である。すなわち信仰の世界である。この<信ぜんとする意志 will to believe>が、唯一の根拠である。意志にはある形而上学的力がこもっているが、たとえ錯誤や錯覚であっても、意志すること自体に誤りはない。苦痛を逃れんとする意志が、生命の根本に発するものであることは、何としても疑い得ないのである。イスラムやクリスチャンのように、たとえ殉教の苦を受けるとしても、その苦をはるかに勝る至福によって報われるものとされるのである。
 人生は、すなわち生命は、それ自体では価値がないのであるから、それに価値を与える生き方をしなければ、この世界での存在の意味はないのである。すべてはあるがままに良しという考えがある。ある種のクリスチャンや、禅僧の言うことであるが、これほど不誠実な欺瞞はないであろう。神が創った世界なのであるから、何事も良いとしたり、心が平静であるならば、火もまた涼し、と言うような主張は、比喩的な誇張でない限りは、まったくの誤りである。単に苦痛に対して鈍感であるだけであり、麻薬や鎮静剤でもって、苦痛を鎮めるのと、原理的にさしたる違いはない。つまりある種の無感動・無感覚にもとづくLebensweisheit(処世訓)なのであり、形而上学的原理ではない。心が楽しければ、世界のすべてがよく思われるものであり、その愚かさには直ぐ気づかされる。しかし楽しいに越したことはないので、それを信念にするのもよいであろう。 この人生から根本においていやされるには、キリストや釈迦が言うように、この世界、この生命を離れるほかはないのである。

 ここで生命の価値について、全体主義の立場からの反論を予想しておく。個人の生命、人生には確かに価値も意味もないであろう。個人などというものはちっぽけなものであり、それだけで生きようとするところに無力感や虚無感が生まれるのである。なんといっても個人の存在は生命全体、人類、国家、民族、家族のたまものであり、それらなくしては無にひとしいものである。そのことはエゴイズムや個人主義に生きようとする時の困難さ、欠乏感、不満足、欲求不満に現われているではないか。他者があってこその私なのであり、私よりも他者の存在、すなわち人類や社会や国家や、家族や友人こそがはるかに大事なのである。おのれの存在に価値がないとするのはよし。しかし他者や人類や国家までも価値や意味がないとするのは、この上ない不遜であると。
 私が他者の存在を必要とすることと、そればかりか他者との交際や承認を求めているということと、私の存在の本来の価値や意味とは無関係である。私の存在がそのような生命的関係でしかとらえられないということこそが、私の苦悩の根源だからである。そのような生命的私には、すなわち快よりもさらに苦痛を生み出さざるを得ない生命的関係には、価値も意味もないというのである。その点では、私の価値は他者のそれとは別であり、唯一無二の価値でなければならない。それは生命的関係においては求めることができないのである。それが超越的の意味であり、キリストや釈迦が超越的であるのも、その意味においてである。
 生命の類的価値に内在することによっては、いかなる超越も不可能であり、せいぜい個の無化が類の価値へと転化されるだけである。すなわち、名誉や賞賛や名声といった他者の側からの価値付与によって、本来無であるものが虚の意味をあたえられるのである。このような個人の全体への内在的埋没によって、歴史すなわち他者の記憶にとどまることの価値は、個の本質的存在にとっては無価値に等しいのである。個にとってそのような生命とは個の無化にほかならないからである。とはいえ、個人が生きている間にそのような他者の間における価値評価に喜怒哀楽することは、たしかに一つの生き方ではある。というよりも、たいていの者はそのような生き方以外には出来ないのであり、それがまさに生命の仕掛けた類的生への衝動(すなわち全体への意志)なのである。
 超越的に生きるとは、したがって、個の存在の価値をもっぱら個の存在において求めることである。生命的段階 (Lebensweisheit)から、さらに進んで、個の存在の形而上学的原理を明らかにし、超越の根拠を探究し、そのうえで実践にのりだすことになろう。古代では実践があって形而上学へと進んだが、形而上学から実践へ進むことが、今日の理知的人間には必要であろう。すくなくとも人類の形而上学の種類は出つくしているので、実践と結びつくものを選び出せばよいのである。その際、内在よりも超越に力点をおく学説に注目し、古今東西の超越的実践、すなわち解脱の修行との関連を実践的に探求することになる。これを実践形而上学と名づける。
 実践形而上学(praktische Metaphysik)は通常“魔術”の意味とされるが、ここでは文字どおりに実践可能な形而上学の意味とする。もちろんいわゆる“超常現象”のようなものも、形而上学から帰結されることであるが、もっぱら哲学的には、存在の本質の探究から個の存在の意味を存在論的にとらえることであり、かつ、その意味を超越的世界に求めることである。その点では、実存主義のような内在的存在論ではない。とりわけ実践という点において、実存すなわち現実存在(Dasein)を超えていくことになり、いわば超越的実存(transzendente Existenz)を目ざすことになる。
 実践形而上学は個の存在の意味の探究を出発点としており、個の存在の救済がその最終の目的である。すなわち徹頭徹尾、個の哲学、自我の哲学である。魔術が自然を個人の意志によって支配しようとするartであるとするならば、哲学的な実践形而上学は、自然の支配から個の自由を獲得するartの探求であると言える。その意味では宗教に近いのであるが、宗教が集団のいとなみであり、ドグマの支配する実践であるのに対して、すなわちそれによって全体への意志に奉仕するものであるのに対して、ここでいう実践形而上学は、ファウスト的な個人の探究及び実践であり、すべての目的は自己救済にあるのである。
 自己救済とは、個体の生命が現実と記憶とにおいて二重の苦悩の中に生きており、日々それらにさいなまれるほかに生の現実はないという事態から、生命ひいてはこの世界からの解脱を願望するという、その願望自体においては形而上学的に疑いのない真実において、苦悩のないおのれ自身の世界へと探究の眼差しを向け、それによって少なくともこの生の苦悩を軽減し、できうべくんば、自己本来の世界へと回帰する実践のことである。その模範として、超人的な修行者や宗教者の例を歴史に求めることができる。それらの模範がなければ、単なる空想的な願望に過ぎないであろう。彼らは何よりもまず自己自身の苦悩の超克を求めたのである。生老病死は単なる人類への共感ではなく、何よりもその共感によって苦しむ自己自身の苦悩の超克へと向かわせるのである。
 自己自身に生きることと同様、自己救済はさらに困難な道である。しかし絶えざる苦悩のさいなみが、まさに教育的に、その道へと向かわせるであろう。この世界はある種の地獄であり、この世界の創造者はグノーシスやアルビ派が言うように、“劣った神(デミウルゴス)”なのである。そこからの救済が可能であるのは、私自身がこの世界とは本質を異にする存在であるからだ。この形而上学にもとづく信念がなければ、すべては無意味であり、幻であり、虚無である。さいわいにも超人的な先達の存在が、その信念を強めてくれる。たとえ迷信的なオーラに包まれているとしても。

2019年8月20日(火)
肉体の馴致

 人は動物・生命であるため、圧倒的に肉体・身体に支配されがちである。これが人生において最大のやっかいであり、自立的精神にとって最大の困難である。生まれた時から、このやっかいな物質的存在は、自我をおいたて、みずからの欲望や必要のために酷使する。この主従の関係を一生にわたって継続しているのが動物であるが、人間もほぼその例にもれない。少し精神を働かせるならば、この本末転倒の不条理な主従関係に、たいていの理知的存在なら気づくはずである。肉体・身体はコントロールし、支配するべきものであり、あるいはよく言って、がえんぜないペットのようなものとして飼い馴らすべきである。禅でよく見る、十牛図()がその理想を描いている。肉体はしかし、牛のように鈍重なものではなく、神仙図で見られる、虎のようなものとした方がよかろう。下手をすると食われてしまうのである。

)禅では牛が象徴するものは真理(仏性)であるが、ここでは肉体のたとえとする。

 肉体・身体がやっかいなのは、精神活動そのものが、肉体のエネルギーなしには立ち行かないことである。霞を食う仙人や断食行者はいざ知らず、朝起きて一杯の牛乳でも補給しなければ、文章を書く気力も起こらないであろう。それはまだよしとして、物事に向かわせる意欲自体が、自らの内部身体を意識してみれば分かるとおり、腹部や心臓や肺やの活動から生じているように思われることである。すなわち思索でさえ、その原動力は身体にあるのである。肉体が疲れていたり、病気であったりすると、てきめん精神方面へのエネルギーの出し惜しみをする。むりをすれば肉体もろとも、共倒れである。
 とはいえ、精神活動は、純粋に肉体的な活動、食べたり、運動したり、色気を催したりすることとは、別に考えてよいだろう。後者はもっぱら肉体のためのいとなみであるが、思索などということは、本来の肉体にとって余計なことであり、むしろ肉体にとっては嫌悪の対象であろう。もっと快楽的なことに使いたい肉体のエネルギーを、精神的なことに費やすだけでも、ある種の肉体のコントロール・馴致はできているのである。肉体・身体・物質は、それだけが宇宙の全部であるならば、なんともつまらない宇宙である。それらのエネルギーをある別のものに向けさせることが、この宇宙では可能なのである。それを古代人は形而上学的思考において、イデアの希求としたのである。すなわちフィロソフィアである。
 イデアが何であるかは、ここでは深入りしない。単純に理念的なものとしておく。これを体感するには、良いクラシック音楽を聴くとよい。音楽は身体・肉体のないたましいと言ってよかろう。宇宙が音楽だけで出来ていたら、なんとも清潔で、面倒のない世界であったろう。しかしその音楽も演奏家の肉体が生み出しているのである。つまり、演奏家はイデア界を感性的に生みだすために、肉体のエネルギーを転用しているわけである。これが精神による肉体の馴致の良い例である。
 同じようなことが、実はたいていの物を造ったり、創造したりする営みにおいて行なわれているのである。アリストテレスは原因を作用因、質料因、目的因、形相因の四つに分かっている。そのうち目的因、形相因がイデア(形相)にかかわってくる。なにかの目的、もしくは設計図に従って、物を造ったり建設したりすることは、その営み自体が、たとえ肉体の目的のためであっても、ある種の精神的活動なのである。家を建てるということは、家の設計図がイデアとして予めなければならない。それに従って肉体を駆使する大工は、その意味でイデアに奉仕しているのである。それもまた肉体の馴致である。たいていの人間にとって、<仕事>が唯一の精神活動となるのである。
 人間社会においては相互的監視である法律や〈道徳〉やマナーによって、ある種の社会的肉体の馴致が行われる。しかし、それらは真の肉体・身体の精神的馴致ではなく、単なる他者に対する惧れから(フロイトの言う超自我から)発したものである。他者や権力の監視のないところでは、肉体はたちまち反乱を起こすからである。
 肉体は生まれながらに自我に伴っている、否応なしの<旅の友>なのであり、愛すべく、憎むべく、あたかも愚鈍ではあるが正直この上ないペットのごときものである。ペットがもし散歩にも出されずに、糞尿にまみれた不潔なところに縛られていたならば、とてもそれを飼い馴らすことは出来ないであろう。飼い主に噛み付くことになるであろう。ペットについてはその習性をよく知らなければならない。同じように、常に肉体の養生を怠らずにいれば、自ずと肉体は穏やかになるであろう。虎のような肉体は牛とも羊ともなるであろう。それに御すことによって、自我はより高次の世界を目指すことが出来るのである。

2019年8月23日(金)
肉体の快について

 肉体は何を求めてこの世に存在しているのであろうか。単なる知情意だけでは不充分である。知情意、すなわち知の働きや知識、情念や感情、意欲や野心なども、ある程度コントロールすることが出来るが、それでもって完全に肉体の欲望・欲求を断ち切ることが不可能であることは、だれもが知っていよう。瞑想法、呼吸法、自己催眠、禅などによる意識の集中によって、肉体の欲望を克服しようとしても、せいぜい知情意においてある程度の平静が得られるだけで、すぐさま日常の不安定な状態に返ってしまう。なにかが根本において欠けているのである。肉体の本質を見誤っているのである。
 肉体は単なる知情意からなるのではないであろう。肉体のこの世に存在する目的を、あるいは肉体の欲求の根本を知らねばならない。これは実に単純な事実であり、あまりに平凡であるが故に忘れているのである。すなわち、肉体の求めるのはただ一つ、〈快〉である。知情意をコントロールするとは、この快の欲求をコントロールすることなのである。それゆえに、知情意をコントロールすれば、常に水面下で肉体を欲求不満におとしいれることになる。肉体はつねに復讐の機会をうかがっている。単なる瞑想法では、肉体の快への欲求を一時的に眠らせるだけである。肉体を苦しめる苦行者は、快を別の方面に求めるか、あるいは山伏のように精進落しをして、肉体の機嫌を取るほかはない。
 肉体の最初の快は生理的な快であることはだれもが知っている。それによって生存の基本が保証される行為にともなう快である。食と排泄と、さらに運動の欲求の充足であり、長じては類の存続のための交尾の快である。これらの快が満たされた上で、さらに社会的快の充足が、動物及び人間に、欲求としてあらわれる。母子及び同類の間での接触の快、さらに進んで、人間社会での社交の快など、肉体の快は精神的快へと拡張されてゆく。精神も肉体の機能の一つであるから、快の追求が心身に及ぶことは当然である。これらの生理から精神にまで及ぶ快の追求が阻止されたり、挫折したりすることによって、低次のレベルにおいては肉体の苦痛が、精神においては煩悶や苦悩が、あるいは退屈や不満が生まれるのである。
 こうした肉体の快の欲求を無視したり、気づかずにいると、何とはない不快、欲求不満が日常において生じることになる。つねに肉体がどのような快を求めているのか、一日に一度は反省してみるべきであろう。それは飼い犬を散歩に連れていくのと同様の、肉体という伴侶に対する義務であろう。つまらない精神主義が子供時代を支配していて、肉体に対するメインテナンスや、セルフケアをないがしろにするような育て方がなされてきたために、肉体と精神の乖離が極端化してしまっている現代人にとって、肉体の飼育法を若い頃から心得ることが何よりも肝心であろう。AIなどにうつつを抜かしているよりも、まず何よりも人間という、このやっかいな肉体=生命体をどうにかしなければなるまい。

2019年8月24日(土)
肉体のない精神

 あの世または死後の世界への関心は、原始時代から見られる、人間特有の想像力の働きである。未開社会や古代では、肉体の他に霊魂のようなものが想像されたが、大体において肉体の観念を完全に離れるものではなかった。多かれ少なかれ、肉体的特徴を備えた霊魂なるものを想像したのである。幽霊や祖霊の観念に見られるように、夢の中、または幻視において、霊魂は肉体の形(Shape)を備えたり、肉体の情念や思いに動かされていると考えられた。死者の怨念や祟りや恩恵などという考えがそれである。古代エジプトや古代中国では、帝王はあの世でこの世とそっくりの生活を送ると考えられ、始皇帝陵に見られるように、この世の従者や事物を、土偶(俑)の形で墓に収めたのである。もとは生者の殉葬であったものが土偶などに代えられたのは、あの世での肉体・物体はこの世のものとは別レベルであると考えられたからであろう。この世とあの世とは、レベルを異にして、二重に出来ているのである。
 このような素朴な考えとは別に、インドなどでは、霊魂は死後ふたたび別の肉体に宿って、生まれ変わるという想像がなされた。霊魂は独立的存在ではなく、あくまでも肉体を必要としているのである。あの世ではおぼつかないので、この世に戻って肉体の生命を永続させたいという願望があらわれている。霊魂は時には生前の記憶を保っていて、それを思い出すことができるのだとされており、ダライ・ラマの例がその典型である。霊魂が記憶を保つかどうかは疑わしい。しかしたいていの宗教の死後の霊魂においては、それが当然のこととして前提されているようである。キリスト教でも、もし最後の審判の時に霊的肉体においてよみがえった霊魂が、記憶を保っていなかったならば、審判にもならず、精神障害者と同様、責任能力なしで無罪放免されるであろう。祖霊崇拝においても、祖先の霊に記憶がなければ、子孫になんの恩恵も祟りも及ぼすことがないであろう。
 しかし、死後の霊魂が記憶を持つというのは、単なる願望的想像であるか、宗教的に都合の良い考えである。記憶はもっぱら肉体の機能であり、肉体を離れた霊魂が、あくまでも記憶に煩わされるなどは、考え難いであろう。もっとも、ショーペンハウアーの言い回しを借りれば、この世で覚えたラテン語を、あの世へもっていくことが出来たなら、すばらしいことであるが、しかしあの世でこの世の知識など役にたつであろうか。
 霊魂はこの世での執着を残すのであるという考えがある。恨みや愛着が、霊魂の<成仏>を妨げるのであると。怪談にはそういう話が多い。それならば、霊魂はまだ肉体を離れていないのだということになろう。一種の肉体的霊魂となって、この世のどこかに、さまよっているのである。しかしそのような特別な物質の存在を検出した人も、証明した人もいない。この世に存在するのは、物質的・肉体的生者だけである。すると疑われるのは、生者の側であるということになろう。死者に対する強烈な関心が、生者の側に特別な想像や、超常現象を引き起こすのであるといえよう。幽霊は確かに、生者にとっては存在する。死者の記憶は、確かに生者が受け止めている。しかし死者にとっては、おのれの存在や現世の記憶などは、どのようなものなのであるか。死者の立場にたって、そのようなことを考察することが大事であろう。生者の勝手な願望や都合はどうでもよい。それらはすべてこの世に属しているのであり、生者の肉体や、肉体に支配された情念や思考にもとづいているのである。
 そもそも霊魂という特別な存在があるであろうか。もしあって、生きた人間の本質的存在をなしているならば、肉体があろうとなかろうと、なんの変化もこうむらないはずである。生きていようと死んでいようと、霊魂は不変でなければならない。霊魂にあらわれてくる様々な思いや、心情や情念や思考は、すべて肉体に属する働きであり、霊魂にはなんら直接的影響を及ぼさないはずである。もし肉体に影響されるならば、死後に霊魂は異なった存在となるであろうし、そもそも肉体と共に滅びても不思議はない。肉体に影響されながら、そのままに霊界におもむくと考えるのは、生者の勝手な想像である。あの世でも、肉体のふらちな欲望に相変らず左右されたり(スェーデンボルグも地獄でそういう魂を集めている)、懲罰をこうむったりするわけである。
 こうした粗雑な民衆の想像とは別に、霊魂を精神的なものと考えるのが、西洋哲学の伝統である。霊魂(soul,Seele,ame)と精神(mind,Geist,esprit)との区別は、ギリシャ哲学に始まり、現在に及ぶ。霊魂はどちらかというと生命的であり、精神は生命的である場合も霊魂の頂点に立つか、キリスト教やデカルトの場合のように、肉体的霊魂とは別の実体である。霊魂については、肉体の働きであるということはだれにも分かりやすいが(霊魂のことを肝とか腹とか心とか、臓器で表わすのが普通である)、精神とは一体なんであるか。精神を霊魂・魂と同様な意味で使うことも多いが(学校ではよく精神がたるんでいるとか言われたものである)、ここでは厳密に区別をたてることとする。
 精神(ヌース)を考える機能とするのは、ソクラテス・プラトンに始まるであろう。魂のなかでも思考する部分を特別とみて、精神と名づけたのである。これが肉体的魂から分離して、死後肉体の桎梏を離れ、精神だけの世界へおもむくと考えることによって、精神と肉体の二世界論(Zweiweltentheorie)が成立する。魂が肉体の形を持つのは単に比喩的であって、精神的霊魂は死後、純粋な精神界であるイデア界へとおもむくものとされる(「パイドン」「パイドロス」)。この肉体と精神の分離は、新プラトン派ではさらに徹底される。思考が肉体と異なって、特別な世界にあずかるとするのは、イデア論がその基礎にあるからであり、この物質界すべてを支配しながら、それとは本質を異にする理性界の存在を信じたからである。肉体・物質は影であり、その根底にある精神が真実在である。
 しかしながら、精神の本質的機能である思考そのものは、はたして肉体とは無関係な独立的働きであるのか。そこまでは、いかなる精神論者も肯定できなかったであろう。何らかの理由で精神は肉体と結び付けられているのであり、しかも肉体から大いなる影響を受けているのである。古代人はそれを魂の没落ととらえたのであり、キリスト教はそれを原罪と言いかえた。没落した魂は、さいど精神界へと上昇しなければならない。それには鈍重な霊魂である肉体の桎梏を断たねばならないのである。しかし思考のどこまでが肉体にもとづき、どこからが純粋精神のものなのか。肉体・物質に向かう思考と、精神のみの純粋な思考とに分かつことも出来ようが、そもそも思考のエネルギーはどこからもたらされるのか。肉体のない精神ははたして思考するのであるか。経験的に言って、肉体のエネルギーを借りずに思考することは不可能である。思考には脳に厖大なエネルギーを供給することが必要なのである。断食や肉体の酷使をしながら、哲学や学術に耽ることは不可能であろう。そもそもそれ自体でエネルギーを持たないものが、独立した存在もしくは実体であろうか。かりに真の実体(スピノザの神)からエネルギーを受けているとしても、物体も同じことであるから、精神と肉体の本質的区別は立たないことになる。
 このように、思考を精神の本質とし、肉体・物質と区別することには、大いなる難点がある。それでは思考以外に、精神の本質は考えられるであろうか。霊魂論では、精神は霊魂の頂点に立っている。それを特別視しないならば、その他の霊魂の機能はどうであるか。動物と共通する霊魂の機能、生理的欲求、情動、情念などは、だれもが肉体そのものと認めるであろう。情念の中でも、愛や共感といったものは、確かに宗教では特別なものとされるが、それが肉体と独立した働きであるという保証はない。共感すれば胸が痛むのであり、愛すれば心臓が踊るのである。愛や共感をあの世まで持っていける保証はない。愛は永遠ではないのである。しかし永遠のように思いこむのはなぜであろうか。
 この世界の本質はだれもが知るように物質であり、無常であり、永遠に変わらぬものは何一つない。しかし物体を動かし、肉体を動かすエネルギーのみは、常に変わらず働いており、物質のみはその本質において、永遠であるといえるであろう。この世では、精神とは異なり、物質が永遠のエネルギーなのである。その変化を無常と感じるのは、人間の精神が永遠ではないからである。では永遠のエネルギーである物質とはなんなのか。この宇宙空間では、物質粒子がたえずわきたっては対消滅している。生成への無限のエネルギーが物質である。これを形而上学的に表現するならば、ショーペンハウアーにならって、宇宙意志と呼んでよいだろう。この宇宙意志・世界意志はまた肉体の本質でもある。個としての存在のあらゆる活動、欲動、情動、情念、思考のすべてを動かしている根本の衝動が世界意志なのであり、世界意志はその本質において永遠不滅である。人間の情念が不滅に感じられるのは、この根本の世界意志にあずかっているからである。
 この世界意志の立場からは、個としての人間には死後の世界はない。世界意志は普遍者であり、そこには個の精神であれ魂であれを、入れる余地はないのである。個として生きた人間は、無として普遍者の海に消え去る。肉体も魂も精神も、そも世界意志の前には無に等しいのである。世界意志はふたたび新たな個を限りなく生みだすであろう。それが同じ個である保証は全くない。ニーチェがいだいた永劫回帰の希望も、56億7千万年後に弥勒の再来を期するよりも確率的に低いであろう。しかし世界意志は無限の宇宙を生みだすのであるから、確率的にわずかでも可能であるかぎりは、永劫の後に私が再生することもありえるのであり、しかも時間は現象的なもの、あるいは現象に付随するものであるから、永劫も瞬間も同じものでありうるのである。私は死んだとたんに目覚めているかもしれない。
 永劫回帰の思想は、あの世とも死後の世界とも無関係であり、この世が永遠に繰りかえされることになり、二世界論の否定の上に立った永世の探究である。当然ながら肉体と精神は仲良く共存している。精神が肉体を高め、純化し、肉体は精神にエネルギーを供給して支える。死はもはや恐るべきものではなくなる。むしろ生こそがすべてであり、永劫にくりかえされても悔いのない、恥や恥辱のない人生を送ることに努めねばならない。「汝の人生が永劫にくりかえされるものとして行為せよ。」これが永劫回帰の範疇命令である。
 永劫回帰の思想は一見生を肯定しながら、死の讃美につながる危険もはらんでいる。「悠久の大義」に生きることが大事なのであり、そのためには勇敢さや、忠誠心などの、<無私>の行いに陶酔し、死を死とも思わなくなることである。死によって永遠に生きるという、滅私奉公的な道徳に堕してしまうのである。生の絶対肯定が、あたかも死を克服するかのような錯誤におちいらせるのである。死はしかし、単なる罠であるかもしれない。死は何一つ生にもたらしはしないかもしれないのである。
 精神も世界意志も、あの世の存在を保証しないことを、ここまで述べた。精神は肉体に支えられ、たえず肉体に影響されている。世界意志は個の存続とは相容れない。肉体の働きの一部を、魂として天国や地獄のためにとっておく、宗教のドグマはいざ知らず、死後に残る肉体の部分はまずないであろう。もし肉体が滅びたのちにも残るものがあるとすれば、それは肉体と共存しながら、肉体の影響を受けずに、しかも一生に渡って変化しないものでなければならない。変化しないという点では、思考のパターンや概念に注目して、それらが普遍かつ不変であることから、物質界とは違ったイデア界を想定したプラトンが、イデアに参与する精神を不滅としたのもうなづける。しかしイデア界に向かうには、エロスという肉体のエネルギーが必要なのである。死によってこのエロスを欠いた精神が、どのようにしてイデア界に上昇できるのか。新プラトン派では、このエロスを精神化しているが。
 肉体の中にあって、唯一不変なものがある。これについては再三論じたが、死後の世界との関連でくりかえすならば、それは<自我 Ego>である。ここでいう自我とは、自己意識のことであり、かつ人生の体験の記憶から経験的に自覚される自我のことではなく、自己が自己自身に向かう、内在的な純粋自我のことであり、なんらかの体験をきっかけに意識される己自身の存在の認識である。この発端は幼児期にある。それ以後この純粋な自己認識自体は、いかなる体験の積み重ねにおいても変化しないのである。それを肉体の成長に伴う変化と混同してはならない。赤子の頃の写真に写っている私と、いまの私とは、天と地ほども違うであろうが、自己意識においての私は同一なのである。この認識論的に言う<統覚の先験的統一>は、肉体に一切影響されない。多重人格者でも、現われた人格においては同一である。この自我の同一性を単に記憶に還元することはできない。私が私であることの自明性、確実性は、単に記憶によって保証されるものではないからである。私は多くのことを忘れるが、私が私であることを忘れることはない。少なくとも、私が意識的存在であるかぎりは、すなわち動物のように本能的に行動するのでないかぎりは、(その場合でも私はそのことに驚いている私自身を見いだすのであるが、)私の同一性の意識は失われない。
 もし不変なもののみが不滅であるとするならば、純粋自我こそがそれに相応しいであろう。この自我そのものは不可解であり、精神の把握を超えたものである故に、精神界ともまた異なっているであろう。自我は唯一無二の存在者であり、普遍概念として、すなわちイデアとしてとらえることはできない。したがって、自我そのものはイデア界におもむくことはない。イデアとして存在するのは単に個(individual)の概念にすぎない。また無意識のエネルギーである世界意志とも、そのエネルギーを借りながら、意識の次元における存在である点においてばかりか、普遍者である世界意志に対して、個としての現象性をもって対峙する点においても異なる。それゆえに、これまで人類がこの世界の本質として見いだした、イデア界に対しても、物質界(その形而上学的本体である世界意志)に対しても、同等の自立的本質を主張できるのが自我なのである。自我が肉体の死後におもむくのはあの世ではない。物質は物質であることを持続し、イデア界は永遠不滅であるように、自我もまた自我であるより他の何ものでもなく、消滅も生成もないのである。自我は自我であることによって、生死を超越しているのである。このことに気づいた少数の神秘主義者たちは、「私が神である」と叫んだのである。

2019年8月26日(月)
知識とは何か

 なにかについて知るということは、本来生命体にとって本能的に与えられている情報である。これがなければ、誕生したとたんに生存の危機にさらされることになり、個体保存も種の存続もおぼつかない。海亀の子は生れたとたんに海へ向かって必死に歩き出す。誰によって教わった知識でなく、遺伝情報によって生体の行動が管理されているのである。しかし、それもある種の知識・情報にはちがいない。いわばソフトとしての先天的情報である。同じ知識的行動は、誕生したばかりのあらゆる動物や昆虫に見られる。大人になるまでの経験によって得られる知識は、たいていの動物ではほんのわずかであり、昆虫にいたっては皆無と言ってよいだろう。後天的ないし経験的な知識は、動物の一生にとって、まず無用なのである。あるいは、必要な知識はみずから探求しなくても、ほとんど親からの模倣によって与えられるのである(注)。草食動物の幼獣は、親の食べている草を食べさえすればよい。人間の子供の場合も、事情はほとんど同じである。

 鴨や雁などの幼鳥は、生まれた時に最初に見た動物(通常は親鳥)のあとに、とことん従う習性(刷りこみ)を持っている。それによって親の行動に従い、真似することによって、生存の保証を得るのである。同じことは人間の幼児についても言えるであろう。この成体(大人)に従うという本能的衝動は、以後の動物および人間の生涯の傾向を支配し、人間の場合には、あらゆる苦悩や心的異常の起源となるのである。

 人間の子供は、その後天的知識のすべてを親や大人から与えられる。みずから探求する知識は皆無といってよいだろう。食事その他の身体的必要に応じた知識は、動物の場合と全く変わりがない。親や大人や年長者の真似をするだけである。知識は動物の場合と同じように、真似から始まっている。しかし人間の場合、もっとも特徴的な模倣は、他の動物にはない言語である。言語は遺伝子によって伝わった先天的な部分があるようであるが(文法構造など)、その発話において、いわゆる母語によって支配されるのである。この母語の習得が、人間の子供にとって大きな知識の部分となるのである。
 人間のたいていの知識は、この言語の媒介によるものである。その他の感覚的知識は、動物と共通している。感覚的知識においては、むしろ動物の方が優れているといってよいくらいである。動物は人間よりもはるかに芸術的感性に優れていると言ってよいのかもしれない。ただ動物はそれを生存のために用い、芸術という遊びに使わないだけのことである。こうした感性的情報をも、知識としてよいのだが、ここでは狭い意味の言語的・観念的情報を知識としておく。いわゆる知識欲の知識である。
 生存にとって必要な知識のほとんどは、親や大人が与えてくれる。その段階で知識の役割は終わっているはずである。少なくとも動物ではそうであり、人間の場合もたいていはそのようである。もし生活環境や社会環境が安定しているなら、それ以上に何の知識が必要であろうか。イスラム社会のあるものでは、そのような状況において、女子には教育は無用とされる。男子もまた、場合によっては教育は無用とされるであろう。そうした社会では、一定以上の知識には、なんの価値もないのである。
 知識が価値を持つようになるのは、社会が不安定だからであり、その不安定のなかで、知識が有利な地位を保証するように思われるからである。その不安定社会をもたらしたのが、経済的競争原理に立つ資本主義であることは言うまでもない。そこでは知識は経済的・政治的〈力)をもたらすのである(Wissen ist Macht)。この力への意志が、知識と結びついた時、初めて近代的意味での<知識欲>が生まれたのである。明治の頃のこの国の知識人が知識欲に燃えたのも、ひたすらこの力を求めてのことであり、知識欲と国力の増大とは等価であったのである。その勤勉と刻苦とは、驚くべきほどのものである。それはそれとして、現代にいたっても未だに、この知識欲の亡霊は青少年ばかりか、たいていの知識人を悩ませているといえよう。大学受験には志望書を書かされる。何のための知識かを、常に問われているのである。
 なにかの知識について、知らないでいると恥ずかしいとか、社会の常識とかいわれる。その程度の知識ならまだしも、専門であれ学術であれ、ある知識を身につけるということは、必ずなんらかの競争意識を伴っている。すなわち他人よりも多くを知っていなければ、どうにも気持が落ちつかないのである。まだ他人から学んでいる場合ならまだしも、知らないでいることは愛嬌ともなりうる。しかしそれが専門とも学術ともなると、互いに侮蔑をかわすことになりかねないので、真剣勝負ともなるのである。歴史的にはニュートンとライプニッツの両偉人の、微積分をめぐる醜い争いが典型である。また知識が金や名誉になることからも、世界的に熾烈な知識競争がなされている。特にこの国やとなりの国では、N賞となると毎年大騒ぎをする。
 知識は社会や人類やのために、身につけたり探求したりするものではないであろう。たとえ真理であっても、それが社会や人類のために役立つものばかりとは限らない。アインシュタインの相対性原理は、自然科学や技術に大いなる発展をもたらしたが、同時に原子爆弾という大いなる不幸をももたらしたのである。広島や長崎の犠牲者にとっては、悪魔の真理であったと言えよう。原子雲の上にはアインシュタインの顔があるのである。もちろん苦渋にみちた顔であろうが。
 かつて真理は一部の人だけのものであって、場合によってはその一部の人々と共に滅びたこともあろう。数千年にわたって一部の人だけのものであった地動説を、コペルニクスはなぜ発表したのであろうか。それによって社会はなんの益も受けなかったのであるが。今でもたいていの人々には、天体は地球の周りを回っていると考えるだけで充分である。それどころか、星の日周運動さえ知らずにいても、日々の生活にはなんの支障もないのである。老子は民は無知であるほど良いと言っている。知識がかえって禍となるからである。中国人が杞の国の人の杞憂を笑ったのも、トリヴィアルな知識が生活の大本を損なうことを戒めたのである。たしかに、小惑星がニアミスを起こすことにセンセンとしている現代人には受け入れ難いであろう。自然界の禍は防ぎ難いものであり、滅びは常に可能として未来に控えている。それを知識でもって予防しようとするのも、知識の効用であり、目的であるかもしれない。しかし、人生は短く、人類の未来も不確かである。いま滅びようと、未来のいつか滅びようと、生命はもともとはかないものである。この宇宙は生命のためにあるわけではないからである。もし知的生命体になんらかの宇宙的使命があるとすれば、それはすでに数千年も昔に自覚されており、未来に期するところは何一つないのである。
 純粋な知識は、知識そのものの喜びの中に、そのいとなみの本質を見いだすであろう。知ることは自覚することである。それ以外の目的も効用もない。生活に追われている原始人はいざ知らず、知識には自己自身を拡大する働きがある。それをドイツ人はBildung(教養・発展・形成)と呼んでいる。Bildungは決して知識にあくせくすることではない。まして人から試されたり、試験されたりするものではない。おのずからなる興味と探究心が、知識欲の源である。そういう人を、ショーペンハウアーは、反語的にディレッタント(学芸愛好者)と呼んで、生活のかかっている専門家(Fachmann)と区別している。孔子が「古(いにしへ)の学者はおのれのためにし、今の学者はひとのためにす」と言っているのも、同じ意味であろう。

2019年9月8日(日)
文化的欲望について

 目的を持った行為は通常、達成と同時に充足が得られるはずである。特に肉体の欲求に関する行為は、欲求が満たされると同時に完結し、それ以上の欲望を生むことはない。空腹が満たされれば、食欲の目的は達せられたのであり、性欲が交尾によって満たされれば、それ以上の欲求が直ちに生じることはない。欲求の充足と目的の達成が一致しているのである。これが基本的に肉体の欲求と目的の達成との即時的関係である。
  ところが人間の場合、動物に共通しているこの欲求=達成の即時的関係が崩されている。なにかの行為がそれ自体で達成であることが、たいていの場合起こらないのである。それが起こるのは動物と同様、生理的行為に限られており、たいていの〈仕事〉においては、そのつどの達成は次々に次の欲求を生みだすのである。ある仕事をした場合、その成果がそれ自体で行為の充足を生むことはまれで、それに対する評価や価値といった、承認の欲求もしくは圧力がつねに伴うのである。商品を生み出した場合、それが売れなければ、それを生み出した達成感・充足は全くの無意味に帰する。文章を書いた場合、書き上げられた文章自体が作成者にとって、食事の満腹感を与えるわけではなく、それが人によって評価されたり、商品とならなければ、すなわちそれがなんらかの付加価値を与えられなければ、決して完全な充足感を与えないのである。
 行為がおのれ自身においてのみ留まらなければ、決して自己充足は生まれることがない。しかし、たいていの文化的行為は、それ自体には留まらないのである。芸術や文学やスポーツや遊戯やにおいて、行為自体が充足を生むことはまれである。たとえゲームのようなものであっても、ゲーム自体によって評価されなかったならば、あれほど熱中を生むことはないであろう。達成がつぎつぎに次の達成への欲求を生むように仕掛けられているのである。まして政治や社会活動やプロスポーツの観戦などは、他者への期待によってしか達成されない願望であるから、決して行為自体が充足をもたらすことはない。
 最も自己充足をもたらしそうな芸術や文学においても、事情は同じである。作品を制作しただけで満足する芸術家は少ないであろう。評価されてこそ、完全な達成の充足感が得られるのである。それは作品の製作そのもののもたらす充足感とは別のものであり、まさに人間に特有の文化的・社会的病態なのである。ビーバーはみずからが作ったダムを、他のビーバーに対して誇りはしないであろう。せいぜいみずからのテリトリーを守ることに精を出すであろう。ビーバー全体や、ビーバーの社会・文化のことなどを考えはしない。人間だけが、そうしたことに拘泥し、そうした意識の中でしか自己自身の行為の完全な充足が得られないという、不幸な存在なのである。
 人間の行為は文化によってがんじがらめに絡めとられており、その中でしか幸福や充足を感じることができないようにされている。生理的行為以外には、おのれ自身にとどまる行為には、ある種の虚しさを感じるように、文化的・社会的に操作されているのである。このことに気づいたのは老子であるが、老子自身もまた文化的存在であって、この虚しさを無為自然という行為しない行為の中に解消することを、唱道したのである(道の道とすべき{社会道徳}は常の道{不変の真理}にあらず)。犬儒派もまた、生理的行為の充足に真の満足を求めようとしたが、ディオゲネスにしても社会的活動は拒まなかったようである。キリスト者は、文化的産物をvanitasと名づけて、死と結びつけている。この世のすべては、生理的欲求のみならず、あらゆる文化的・社会的欲求も虚しいのである。この虚しさの逆転によって、キリスト者は神の中に真の自己充足を求めようとしたが、それにはすでに、そもそもの〈自己〉を失っていなければならないのである。自己(アートマン)を失うというのは危険な賭けである。自己を失う対象は、必ずしも神とは限らないからである。あらゆるカリスマは、信奉者の自己を失わせる。ヒトラーのために、天皇のために、自己を失った者の数は、キリスト者に劣らないであろう。梵我一如の陶酔もまた、文化的に仕掛けられた罠でありうるからだ。
 文化的欲望は、人間精神を不安定にする。これはあらゆる賢者が、多かれ少なかれ説いてきたことである。人間の苦しみは、生老病死がすべてではない。この世界が無常である以上に、人間の文化的欲望から生じる苦しみは深いのである。人類史はその悪夢の連続であるといってよい。さらに個人の歴史も、その苦悩の最たるものは、社会的・文化的に与えられたものである。それから免れるには、いったん動物にもどる他はないのであろうか。あるいは、なんらかのユートピアが可能なのであろうか。あるいは、人類文化・社会を克服する、究極の Nirvana に自我は到達できるのであろうか。もし人類の存在に何らかの宇宙的意味があるとするならば、これらの課題に答えを出すことであろう。

2019年10月22日(火)
知識欲について(補説)

 知識欲とはどのような欲であるのか。そのありどころを身体の中で探すと、どうやら腹部や胸のあたりにその欲動が動いており、身体的欲望であることが分かる。知りたいという欲望は、どのような対象であれ、生への意志の働きであり、それが知性を行動に駆り立てるのである。決して理性や知性そのものが、自律的に働くのではない。それが知識欲のやっかいな面である。たとえ真理の探究や科学的探究であっても、その根本には、生への意志の知識への欲動が働いているのであり、それは基本的に自己保存や種の存続の本能的欲求から出ているのである。
 人間は知りたがる動物である、と天文学者の海部氏はいみじくも言う。動物的本性がそこに働いているのである。人間がこの地球上を支配するにつれて、この天地についての知識が、生存のためにどうしても必要になるのである。動物にとっては、せいぜい周辺のなわばりの知識で充分であったものが、人間はそのなわばりを天地にまで広げたのである。
 万巻の書を読みたいという欲求は、この知識欲が観念的に肥大したものである。知ることが、必ずしも直接に生への意志に利するものではないとしても、知識を獲得し、蓄え、保持しておくことに、ある種の満足が生じるのである。書物が処分し難いものである理由も、ここにある。知識そのものに、愛着が生じてしまうのだ。本来真理や事実だけが有用な知識なのであるが、知識への執着だけが強まると、どのような知識であれ、たとえ無用な、それ自体では無価値な知識であっても、手放すことが困難になるのである。歴史に対する執着が、その最たるものである。歴史自体が過去への愛着と深く結びついているので、その知識のトリヴィアルさは、他に類を見ない()。

 ()先日、博物館で正倉院展を見てきたが、塵のような微細な残存物まで、細かく分類して保存しているのには、複雑な思いがした。歴史が聖なるものとなれば、屑までがありがたく思われるのであろうか。

 「学を絶てば憂いなからん」と老子は言う。知識欲の貪婪さにとらえられた者には、身にしみる言葉であろう。また「学をなせば日に益(ま)し、道をなせば日に損ず」とも言う。知識欲にとりつかれれば、日に日に蔵書は益していく。無為自然の道に至るには、蔵書すなわち知識を減らさねばならない。なにが私にとって有用な知識であり、何がどうでもよいアジャホラであるか、この見極めが、同時に真理への道なのである。
 知識は私になにをもたらすか。一つはこの宇宙、世界に対する客観的認識であり、それに対する思索である。自然科学は日進月歩であるために、知識の探究はせわしない。しかし本質的なところは、古来から今に至るまで、さして違ってはいないであろう。その本質の知識さえつかめていれば、今後宇宙のダーク・エネルギーや、ダーク・マターや、インフレーション=ビッグバン理論やヒモ理論や生命の起源などが、どのような帰趨を見せようと、古代以来の思想家がいだいた世界観で対処できないことはないであろう。人類史にいたっては、19世紀の進歩主義者が夢想したようには、科学技術によって人間の本性とそれにもとづく社会が、少しも進歩するわけではなく、かつてその巨大な土木技術にもかかわらず、ローマ帝国が滅びたように、現今の人類も、その情報革命を初めとした技術革新によっても、滅びを防ぐことはできまい。それで、これらの知識に対してはトリヴィアをさけ、概観にとどめ、本質を把握しさえすればよい。たしかに自然界であれ、人間界であれ、個々の具体的な事実に対する興味はつきないものがある。しかしそれを追うならば、知識は無限に益すことになろう。そうした知識は、一度楽しんだならば、忘れても良いのである。
 いまひとつ知識が私にもたらすものは、この具体的な事実に関して、とりわけ私自身に深い関係を持つものである。ある著者に深い関心を持ち、影響を受けるならば、その人の著述にせよ人物にせよ、多くを知りたいと思うであろう。すなわちきわめて主観的な関心からくる知識欲である。そんなことを知ってどうなるという知識でさえ、深い心情的な意味を持つのである。この知識を損ずることは極めて難しい。愛着そのものに基づく知識は、愛そのものが失われないかぎりは、どこまでも益すほかはない。これがたぶん、一般の人の蔵書の大部分を占めるであろう。この場合、広い人間愛をもつ人ほど、たくさんの蔵書をもつことになり、たくさんの個人に関する情報を蓄えることになる。ましてや利害が絡んでくれば、もはや知識というよりもデータの集積に過ぎなくなる。その場合にはかえって、利害関係がなくなり次第、知識の廃棄は簡単である。本来の知識は、単なる利害関係で割り切れないところが、その整理、廃棄を困難にするのである。
 究極において知識の目的はただ一つ、私自身の(延いては人類の)この宇宙における存在の意味を探究することである。これは古来あらゆる聖者、賢者が目指したことである。それに関する知識以外はすべてトリヴィアルなのである。すべて生命に利するものであるか、生命の遊戯にすぎないのである。その洞察に達するならば、ほとんどの知識は滅び去っても惜しくはないであろう。この宇宙そのものさえが滅び去る運命にあるときに、人間の知識ほどにいかほどの意味があろうか。ひとつの真理をさとりさえすれば、ほかの知識はすべて無用なのである。知識欲もまた生命の迷いに過ぎないからである。
 南朝・梁の好学の天子・元帝は、北朝の西魏に滅ばされた時に、その厖大な蔵書をすべて焼いた。何ゆえか問われて、<万巻の書も滅びを防ぐことができなかったから(読書万巻、なお今日あり。故にこれを焼けり)>と答えたそうである。

2019年9月12日(木)
形而上学の実践

 世界意志(物質・肉体)とイデア界(精神)と自我(私)とが、この世界・宇宙の本質であることが明らかになった以上は、その認識をおのれの人生に適用し、日々の実践において生かさなければ、たんなる思弁に終わってしまう。肉体の馴致については、すでに論じた。そもそも肉体を持った存在であることが、自我にとっての最大の不幸なのであるが、肉体を捨て去る決意でもしないかぎりは、肉体の悪夢と闘いつづけるほかはない。生まれた時から動物や人間は運動の欲求にとりつかれている。幼児が初めて戸外に出れば、自然と体を動かしたがるものだ。その欲求が抑えられれば、一生にわたって心身の関係が歪められてしまう。同じように、青年期に性欲が抑えられることによって、やはり心身関係が狂わされ、恥辱に満ちた人生に踏みまようことになる。そのことに気づいた時はもはや遅いので、日夜悪夢に襲われることになる。偽りの道徳や、家庭・学校・社会環境の圧迫による肉体の蔑視が、かえって大人になってからの堕落につながるのである。
 しかし、肉体に関しては、そもそも肉体をもって存在を始めたことが自我の不幸なのであるから、いまさら不平を言わないことにしよう。肉体との格闘によって、宇宙の真理がつかめたのであれば、それも真理のための大いなる犠牲である。自我は苦悩することによってのほかには、おのれに還れないのである。それにしても、人生を振り返ることは、肉体の恥辱と悪夢のほかにはない。自己の人生ばかりか、人類社会、人類史そのものが、悪夢以外の何ものでもない。そのなかで少しでも輝くものがあるとすれば、精神の歴史、精神的文化の歴史につきるのである。人類史ばかりでなく、個人の歴史でも同じである。もっとも心の安らぐいとなみの思い出は、少年期での知的いとなみである。もちろんそこにも肉体の欲望に由来するけがれはあるが、比較的純粋な思いでいられるのは、少年期に限るのである。青年期にはすでに性欲が精神に立ちはだかる。
 精神自体は肉体の働きであることを明らかにしたが、そもそもデミウルゴス(世界意志)が、この物質界を顕現するに当たって、イデア界の設計図に従ったことよりして、この宇宙には精神界への希求が潜んでいるのである。個人の肉体にも、イデア界への希求がある種のエロスとして存在することは、プラトンが明らかにした()。肉体から超越するには、まずこの精神的エロスの力によって、精神的いとなみに向かうことが、第一歩なのである。エロスがまだ性欲によって独占されていない少年期にこそ、もっとも純粋な精神生活があるのもその故である。そこで大人や、老年期になって、つねに少年期の精神生活をふりかえり、出来うべくんばそこに戻ろうとするのも、故なしとしない。むしろ、積極的にそこに還るべきである。ニーチェが精神の三転換の最後に、小児をもってきたのも、納得がいこう(駱駝・獅子・小児)。

注:プラトンはerosを語源的にpteros、すなわち翼からみちびきだしている。エロスは精神界へと魂が飛びたつための翼でもある。[パイドロス])

 確かに少年期の知識はたわいなく、その探究も浅い。しかし純粋な好奇心・探究心において、肉体を忘れ、われを忘れることは、その後の人生においてまず見られないであろう。いかに知識が深まり、賢くなったところで、大人の知識や認識はけがれており、ファウストではないが、いずれは倦厭にみちてゆく。知識に疲れはてて、帰るところは酒や肉欲では、結局廃残の身でしかない。むしろ小児に還るにしかないのである。肉欲を否定するわけではない。肉欲は馴致すべきものであるから。その欲求を精神的エロスに変えるためには、様々な手段があろうが、人生においてもっとも精神的であった時期の思い出に耽るのも、その一つであろう。
 人間は進歩するというのは、ある種の社会的に作られた迷妄である。肉体からばかりか、社会的に、<大人>になることを強制されるのである。社会人になってからは、何度も〈大人〉になれと言われたものである。大人になることで、何一つ良いものを見いだせなかったので、この言葉には反撥を覚えたものである。いまだに〈大人〉にはなりたくないと思っている。精神的にけがれろと言われるのと同じだからである。あるいはよく言って、けがれたくないならば、社会の常識、しきたりに従えと言うことなのである。いずれにしても、肉体的に成長するだけで、すでに精神はけがれているのである。それををキリスト者は original sin と呼んでいる。自我が肉体をもって存在していることの不幸である。
 後者の意味で大人になることは、確かに肉体の社会的馴致であり、暗黙のうちに肉体の欲求・欲望を認め合うことであり、ある種の妥協的な肉欲の肯定である。これを社会の基盤とするのが通過儀礼であり、結婚などの習俗であり、あるいは宗教的な世俗の戒律である。それらの習俗や戒律の範囲内において、肉欲は社会的にコントロールされるのである。しかし肉欲の社会的コントロールの中に安住することは、それなりの精神の安定をもたらしはするものの、肉欲との妥協において、すでに純粋な精神性を失っている。そればかりか、自我は社会性の中に安住することにより、すなわち類的意志の中に没することによって、その超越性を忘れるであろう。そもそも肉欲の根源は類的意志の中にあるからである。社会的コントロールではなく、自我自身のコントロールによって、肉欲から精神性へと向かうことによって、はじめて純粋自我の超越性の自覚が生まれるのである。 
 物質自体はなんら肉欲ではない。それ故に物質的宇宙は清潔であり、なんら肉欲と関わりはない。それ故に自然科学は、精神をひきつけ、自我の肉体からの解放をもたらしうるのである。肉欲を生むのは生命であり、しかもその物質的メカニズムそのものではなく、個としての生物の存在が、肉欲の根源なのである。個としての生命体は、他の個としての生命体を、食料として、あるいは繁殖のために欲する。生命体の個と個の間の争いが、肉欲のもっとも大きな動力である。個としての生命体は、自我を知情意にわたって肉欲の目的に奉仕させるのである。本来物質に対する好奇心や探究心も、物欲に発した関心ではあるが、知性の余剰なエネルギーが、イデア界に向かうことによって、精神による自我の解放の可能性が自覚されるのである。
 自我の究極の解放は、しかし、単なる精神によってはなされえないことは、すでに論じた。この無限の時空にわたって広がる物質宇宙の根底には世界意志(デミウルゴス)が、そして無慮無数の宇宙の形を偶然の確率によって生みだすイデア界がそのうちに潜み、さらに一見空とも思われるその暗黒の広がりを覆いつつむようにして<わたし>という自我が存在しているという、この三重の世界構造の認識において、自我の超越の意識がはじめて自覚されるのである。この自我はもはや肉体の自我ではないのである。精神そのものでもない。精神は超越的自我の意識が生まれるための、梯子もしくは渡し舟に過ぎないのである。純粋自我が生まれると同時に、もはや必要なくなる。それが肉体・物質からも精神からも超越した自我のあり方である。自我は物質や精神から見れば、ある種の<空>なのであるが、その存在は<わたし>の存在によって保証されている故に、単なる空ではない。世界意志が物質宇宙として顕現し、イデア界が形相として、あるいは概念として様々な宇宙の形となるように、自我は個としての意識のうちに顕現する。宇宙に意識が存在するためには<わたし>が必要なのである。<わたし>はいわば盲目のデミウルゴスの目となって、この宇宙に判定を下すのである。それが<わたし>の宇宙的使命である。

2019年9月15日(日)
類的意志の克服

 形而上学の実践の要をなすものは、たいていの宗教においてと同様、世界意志すなわち物質・肉体の欲望の克服である。世界意志の本質は単に欲望や情動などにおいてあらわれるだけでなく、とりわけその類的衝動において顕著である。それを類的意志として一括あつかうことにする。類的意志は、特に政治的・社会的方面においてあらわれる時は、<全体への意志>として名づけておいたが、両者は広義において同一のものである。人間や動物の社会生活への衝動は、すべてこの類的意志から出でているのである。そもそも文明なるものがその産物なのであることは、すでに論じた。ここでは形而上学的実践の面から再論する。
 種の保存・持続の段階では、家族の形成が類的意志の第一の衝動となる。動物の場合は一般に雌が中心であって、産卵・育児をおこなうが、雄は単に性衝動において類的意志に操られるだけである。雄が育児に参加するようになって、だんだんに家族と呼べるものが形成されていく。これが動物の社会性の起源である。動物及びネアンデルタールまでの段階では、単一の家族の形成で充分であったが、防禦や狩のための群れ社会の形成が見られるようになると、家族は複雑化していく。さらに遺伝の先天的本能から、家族と他の家族、群れと他の群れといった、相互的社会関係が形成される。群れ単位であったホモサピエンスも、家族単位のネアンデルタールと混血しているのである。
 この家族・群れ形成の本能・衝動は、深く動物・人間の意志を支配しており、その根本において性衝動だけでなく、相互防禦・相互扶助の必要から生じる恐れや不安と強く結びつけられている。家族・群から孤立した動物や人間は、生きることが困難であった。今日でも集団から追放されたり、村八分にあうことは、死に近い処分なのである。こうした性衝動に基づく家族本能、孤立した生存の不安と恐怖を克服するには、類的意志そのものに立ち向かわねばならないのである。ロビンソン・クルーソーは余儀なくしてそうした境遇におかれたのであるが、たえず〈社会復帰〉する希望を失わずに、数十年を孤島に過ごしたのである。社会本能の強靭さを思うべきである。もし蛮族や猛獣やに襲われる不安さえなければ、孤独者にとっては天国のような島である。
 現代社会においても、生活の不安がとり除かれるならば、絶好の孤独生活が可能なはずである。しかし類的意志は二方面から孤独者を襲う。ひとつは、孤独者の内的衝動である。他者に対する愛情や愛着が、まず断ち切られねばならない。宗教者は、そうした愛を、神や仏に向けることが出来るので、人間に対する愛は、その余剰で済ませることが出来る。聖フランシスも、父母に対する愛を、神への愛に見代えたのである。しかし神も仏も信ずることの出来ない現代人には、そうはいかない。他者や社会への執着、不安や恐怖を断つには、徹底した無関心が必要なのである。それが可能であるためには、自己撞着のようであるが、人間や社会についてよく知らねばならない。人間や社会について学ぶことによって、自ずと生じてくる嫌悪感や絶望感によって、人類社会や人間そのものを見かぎる認識ができねばならない。それまでは〈修行時代〉である。人類史は〈アウシュビッツと原爆〉につきるのである。
 自我の他我や社会に向かう内的衝動を克服できたとしても、すなわち〈われと汝>を〈われ〉のみに還元できたとしても、他方、他者や社会が及ぼす様々な誘惑と刺激とは、次に孤独者が格闘し、克服しなければならない課題である。社会や人間を知らなければ、それらを克服することはできないが、しかし知りすぎてはならないのである。釈迦にしても、アウグスチヌスにしても、トルストイにしても、人間と社会については充分に知っていたであろうが、それに溺れることはなかったであろう。〈懺悔〉が出来るほどに知っていれば良いのである。それ以後は、社会からの刺激や誘惑は極力避けねばならない。それを宗教者は、集団の中で方法的に行っているのであるが、孤独者もそこから学びつつ、独自のメソッドを工夫しなければならない。
 集団生活は、確かに自我の他者への渇望を鎮めてくれる。孤独者はそれを自らの力で行わねばならない。それだけに困難な道ではあるが、それも宿命として引き受け、究極の自己救済を目指すほかはない。孤独者は他者への渇望を、まず書物によっていやすであろう。「人間よりも書物を友とする」とショーペンハウアーも言う。ここで書物とはなにかを考えておかねばならない。人間との交際の、ある種の代用品にすぎないのであるか。そもそも文字や言語は、類的意志の産物であり、現今の人類の文化の大本である。情報とは広く言語にほかならず、これほど明瞭な類的意志の産物はないのである。伝えられないものは言語でも情報でもない。類的意志は個から個へと伝わるものである。個を総括し、全体へとおもむかせるのである。書物もそのようなものとして書かれている。古代中国では、真の聖人は語ることがなく、跡を残さないものとされている。その点では老子は聖人としては失格である。もっとも老子自身の書ではないともされるが。書を読むには、慎重さと用心が必要なのである。場合によっては、おおいに焚書すべきである。
 知識欲、読書欲はそれがなければ、真理に到達できないのであるから、賢者や知者から学ぶことは、修行時代には欠かせないであろう。しかし知識欲や読書欲も、それに淫すれば、類的意志を煽られるだけに終る。読書の秘訣は、〈読まずに済ませる〉ことであり、類的意志の克服に益するものを、必要な範囲で読むようにすることである。たしかに、<思いて学ばざれば、すなわちあやうし>であるから、孤独者であるほど、偏見や独断に陥らないためには、広く学ぶべきである。しかし広く学ぶほど、人類や社会への興味も募るのであるから、類的意志の罠におちいらないように用心が必要である。
 社交の欲求は、読書の代用によって、ある程度満たされるとしても、もっと困難な障害は、知的人間であるほど、自己顕示欲が強力なことである。他者との社交のみならず、他者からの承認や賞賛を求めるようになるのである。そもそも文章を書くということ自体が、何らかの形での伝達を前提としており、それはごく個人的な日記の場合でも同様であろう。世に交換日記などというものがあるが、ものを書くということは最低でも一人の他者を必要とするのである。ショーペンハウアーは「人に語るようにして書く」と言っているが、よほど思索のための思索でないかぎりは、書くことは、だれであれ他者を頭においているのである。たとえそれがアンネ・フランクの<キティー>であってもよいのである。類的意志の度しがたい渇望が、書く行為へと自我を走らせるのである。
 類的意志は人間の文化的欲求の根幹をなしており、そのもっとも明瞭なあらわれが歴史への執着である。歴史ほど人間の類的本質をあらわにするものはないからである。歴史は単に過去のものではなく、むしろ未来への志向が類的意志をより強く動かしている。歴史に名を残すとは、まさに未来そのものへの期待である。そのためにたいていの英雄は戦い、死をも懼れなかったのである。個人の生涯は短くはかない。その生を継承してくれるのは、家族であり、部族であり、民族であり、国家であり、人類である。それ以外には、人間にとって永遠不滅と言えるものはないのである。それらに不満足であるならば、宗教者のように〈神の国〉に、魂の永遠不滅を求めるほかはない。しかし、それこそはかない幻想である。人類がこの地球に存在するかぎりは、歴史という記憶の集成がある。その範囲で個人は、もしくはなんらかの集団であっても、〈不滅〉を保証されるのである。この確固たる信念の大本にある類的意志が、神の国や天国の期待以上に、人間をあらゆる活動において鼓舞しているのである。歴史の強調は、類的意志の合言葉と言ってよい。この点に関しては、保守主義者も進歩主義者も同類である。
 類的意志を克服するには、まず歴史を否定しなければならない。自我は無歴史的であって、歴史によって変化したり、進歩したりするものではない。自我は不変の存在者であり、歴史によって何の影響も蒙るものではない。それは個人の歴史であれ、人類の歴史であれ、同様である。このことの自覚を常に保ちながら、歴史に接するのでなければ、自我は類的意志の陶酔や興奮に取りこまれて、おのれを失うであろう。歴史は人間と人類の運命を知るためにのみ、必要なのである。歴史は永遠でも不滅でもなく、無常であり、はかないものである。この宇宙でさえ、変化をまぬがれず、永劫の果てには滅びるのであるから、まして人類の歴史ほどのものは、この宇宙においては無にひとしいのである。弥勒の訪れる、56億7千万年後には、人類はおろか地球すら存在していないのである。
 歴史の中でもとりわけ無用なのは、今現在進行している歴史、現代史である。これが同時代的であるために、類的意志を刺激することは、過去の歴史の比ではない。これほど自我の自由にとって有害なものもないのである。政治・経済をはじめとして、文化のあらゆる方面において、類的意志が猛威をふるうのが、現代である。心身としての自我が、社会や国家の中でその生存を維持されている以上、それは免れえない状況であるが、本来歴史がもつ時空の広がりを忘れさせ、狭隘な偏見にとらわれさせるのも、現代という魔の時である。歴史は過去の歴史であることによって、人類の本質を明らかにさせることによって、それなりの価値を持つ。現代史がもたらすのは刺激と興奮以外の何ものでもないので、極力無視し、無関心でいることが大事である。

 自我はなにゆえとも知れず、この今、この所に、肉の身として存在している。それは自我の解きがたい最後の謎である。私はそれを欲してもいず、そこから自在に脱することも出来ない。このことが、自我に無力感をもたらし、永遠不滅を自己以外に求めるようにさせるのである。しかし欲求するのは自我そのものではなく、世界の本質である世界意志であり、さらに世界意志の本質的あり方である、ここでの論題である類的意志にほかならない。私は欲して、今この所に存在しているのでも、そこから欲して脱出をはたすのでもない。私はその点では無力なのである。無力なるがゆえに、私は世界意志から自由になりうるのである。この世界は選ばれてこの世界になったのではなく(ライプニッツの言うような最善最良の世界を神が選んだのではなく)、単なる確率的偶然によって生まれたのであるように、私がこの世界に、今ここにあるのも偶然である。それ故に、活力としては無力なイデアがこの世界から独立した世界をなすように、無力なるがゆえに、私は自由なのであり、この世界とは本質をことにしている。私は世界の〈意志〉なるものから離れさえすれば、いつでも永遠不滅である私に還れるであろう。しかし、まさにそのことの困難が、あらゆる修行を挫折させるのである。
 たぶん世界意志を究極において克服することは、釈迦のような特別な聖人のほかには、いまだかつて<生きて>成し遂げられたことはないであろう。生命があるかぎりは、自我は生への意志の従僕である。肉体という生命の権化を養わなければ、いかなる活動も不可能であり、それはあらゆる修行においても同様である。食を断っても、息を断つことはできまい。息を止めて修行した例を聞かない。呼吸法はむしろ、修行に積極的に応用されている。生きることは死の準備である。これを宗教者は〈死にながら生きる〉(キリストのまねび)と言っている。このことの意味を考えてみる。
 死とは世界意志の個としての発現である、身体・肉体の有機的統一の解体であり、より低次の有機物、さらには無機物への還元である。自我が宿るのは、有機物の高次の統一的組織においてであり、その統一そのものの意識においてである。しかも手や足やの部分ではなく、もっとも高次の組織である脳において、自己意識として発現するのが自我である。肉体が死によって崩壊するとともに、その統一の意識である自我も消滅する。それが肉体とともに滅びる自我の死である。世界意志の発現である肉体が崩壊すれば、肉体にともなうあらゆる活動、運動も情動も情念も意欲も思考も、すなわち肉体現象としてのあらゆる世界意志の働きはやむのである。これは自我の解放にとっては、絶好のチャンスと言えるのである。肉体に執着していた自我は、執着する対象を失い、肉体とともに消滅し、あとには何の執着もない純粋自我が残されるであろう。聖人でも賢者でもない、ごく普通の凡夫でも、死の瞬間においては、解脱の可能性が開かれるのである。死こそが究極の救済の手段なのである。この覚悟をもって死ぬならば、自殺も救済の手段である。しかし、執着を残して死ぬならば、どのような死においても、世界意志はふたたびその執着を種子にして、この地獄の世界に輪廻させることであろう。死の瞬間こそが、生にもまして大事な時なのである。死にながら生きるとは、この覚悟で生きることであり、臨終の瞬間において、あらゆる欲望や執着が断てるように、日頃から心がけておくことである。天国や極楽などの快楽を願えば、かえって六道に輪廻する羽目になるかもしれない。自我が世界意志と結びつくのは、その結びつき方については偶然であるが、自我の中になんらかのこの世の種子が残されていればこそ、世界意志の従僕として発現するのである。
 究極の自我の世界は〈自由〉である。そうとしか言いえない〈空〉の世界である。しかしそれはもはや〈色〉の世界に取り込まれることはないであろう。永遠にして無限の私がそこにある。もはや私に対する執着すらないであろう。釈迦がアートマンは存在しないと言ったのも、まさにこの空としての究極の自我があればこそである。
 いったん死との折り合いがつけば、もはや生死に、迷いはないはずである。おそらく釈迦は、生死の真相を覚った時に、死ばかりか生とも折り合いがついたのであろう。生を楽しみさえしたのである。晩年に自己の生涯をふり返った時の感慨がそれである。生きながらのニルヴァーナを達成すれば、もはや死は掌中にしたも同然である。生きようと死のうと、ニルヴァーナになんの違いもないからである。この心がけさえあれば、もはや世界意志に翻弄されることはないのである。凡愚の身であっても、死という最後の解脱のチャンスに賭けさえすれば、釈迦と同じ心掛けで生きることができるであろう。神を信じるのは賭けであると、パスカルは言ったが、あらゆる宗教は賭けであって、出来るかぎり、信憑性のある、真理の確率の高い、ドグマに賭けるべきであろう。たまたま形而上学的探究が、釈迦の教説と一致する点が多いのであるから、信じてしかるべきであろう。ゴータマ・ブッダはアーリアンであるから、その論理性・合理性においても、西洋哲学に近いのである。
 仏教徒となることをここに説いているのではない。伝統化し、世俗化した仏教は、もはや釈迦の教説そのものではないからである。<一人の道を行く〉ことが、真の解脱への道なのである。みんなでいっしょに死ぬわけではなく、死とは徹頭徹尾、個人の問題なのである。生はしかし、共に楽しむことは可能であろう。集団的に生きることの罠におちいりさえしなければである。身を清浄にするには、確かに他者の目は効果的である。一人を慎めということの意味であろう。しかしより困難な一人の道をこそ、釈迦自身も選んだのである。超自然的存在としての神や仏のいない現代人には、身を清浄にすることは、ことのほか困難である。神仏に頼りたくなる弱い心こそ、類的意志の罠と考えねばならないのかもしれない。大乗の教えとは裏腹に(1)、みながそろって成仏することなどは考えにくいのである。最後のところは、唯一無二の純粋自我、私が私であることの絶対的自己充足、すなわち〈空〉(2)に還るほかはないのであるから。

注1)釈迦は慈悲によって衆生を<救済>するのではなく、衆生に救済への<道>を教えたのである(ウダーナヴァルガ第12章参照)。
注2)釈迦の空観は、本来相対的なものであったようである。今現にあるのではなく、想念としてあるものを、空として観ずることにより、次第に絶対的空に近づく、ある種の観想法なのである。
 「かれはこのようにさとる。
『たとい村の想いによって、どれほど心の煩わされるものがあろうとも、それらはここに存在しない。たとい住民の想いによって、どれほど心の煩わされるものがあろうとも、それらはここに存在しない。しかもなお、心の煩わされることが存在する。すなわち、ただ一つ、森林の想いによるものである』と。
 そして、かれは『村の想いにおいて、この想われるもの(表象作用の領域、ここでは村を指す)は空である』とさとる。『住民の想いにおいて、この想われるもの(住民)は空である』とさとる。『しかもなお、空でないことが存在する。すなわち、ただ一つ、森林の想いによるものである』とさとる。
 かくて、およそ、そこにないものは、そのことによって、それは空であると等随観(智慧によって正しくくりかえし観察すること)する。しかも、まだそこに残っているものがあるならば、その存在しているものを、これは存在すると等随観する。
 アーナンダよ、このようにして、かれにとって、如実(ありのまま)であること、転倒しないこと、純粋清浄であることが空への趣入となる」(『空の小経』「ゴータマ・ブッダ」早島鏡正著、p.283-284)
 同様にして、大地、無辺なる虚空、無辺なる識の領域、無所有の領域、想いがあるのでもなく・思いがないのでもないという領域、無相なる心統一のそれぞれの想いにおいて空を観想し、究極の悟り、<心の働きがすべて尽きてしまった境地>に達するのである。(同書p.284-291)

2019年9月27日(金)
類的意志の反撃

 肉体の欲望の蔑視、抑圧によって、精神の安定を図ろうとする時、肉欲の強力な抵抗を抑えこむことになるので、場合によってはあやうい人格分裂を起こすことになる。この分裂的関係は、単に個体の内面にとどまらず、類的意志全般において起こりうる精神的葛藤である。肉体の生理的欲望そのものは、その抑圧によって様々な神経症的症状をもたらすことは、フロイトが明らかにした。生理的・無意識的欲望を、象徴的に、悪として実体化もしくは人格化したり、それとの格闘において、善なる存在を実体化したりするのが、その典型的病態である。肉欲の衝動を悪魔の誘惑とし、それからの救済を善なる神や天帝の加護に求めたりする、神話的ふるまいがそれである。しかし、それは単に神話的、象徴的ふるまいであるばかりではない。それは〈現実〉の葛藤なのである。
 肉欲は盲目的・衝動的な類的意志に発するものであり、それが発現するとき、意識的人格は、あたかも暗黒の存在者によっておのれという存在そのものが乗っ取られたかのような違和感、恐れ、あるいは場合によっては滑稽感を覚えるのである。性行為においてはだれもが無我に近くなるであろう。もし人格意識を保ちすぎるならば、嫌悪感や滑稽感に襲われるであろう。あるいは逆に、暗黒の存在そのものになりきるならば、そこに残虐や被虐やその他の様々な汚猥にみちた倒錯が生じるであろう。いずれにしても、そこに求められるのは、快楽以外の何ものでもない。肉体のもっとも強力な欲求が快楽であり、あるいは快楽こそが肉体の本質であると言ってよかろう。それの最も集約的にあらわれるのが、類的意志の焦点とも言える性欲であり、性行為である。
 自我の肉体からの解放、救済の最大の難関は、したがってこの肉体の快楽の欲求をいかに克服するかにあるのである。すでに何度も論じたように、世に自我といわれるものは、身体的・肉体的自我のことであり、まったく肉体にとらわれた、肉体と一体化した自我である。インド人はこの肉体的自我をアートマンと呼んで、まことに現世的に、この世界の創造者であるブラフマン(世界意志)と〈一如〉(同一の真理)であるとした。ヒンドゥーで性愛が重んじられるのはその故である。こうしたアートマンを否定したのが釈迦であるが(注)、結局仏教はインドから脱出することになった。まさに肉体の快楽との格闘が、仏教の修行であったからだ。釈迦はしかし快楽をがむしゃらに否定したわけではなく、極端に走れば必ず肉体の逆襲を受けることを見抜いて、middle way(中道)を説いたのである。

注:「修行者たちよ、汝らはつぎのことをどう考えるか。いろ・かたちあるものは常住であるか、あるいは無常であるか」
「尊師よ、無常であります」
「では、無常なるものは苦であるか、あるいは楽であるか」
「尊師よ、苦であります」
「では、無常であり苦であり変壊する性質のあるものを、どうして『これは、わがものである』とか、『これは、われである』とか、『これは、わが我(アートマン)である』と見なされようか」
「尊師よ、そんなことはできません」
 「感受作用・・・表象作用・・・形成作用・・・識別作用は常住であるか、あるいは無常であるか」
「尊師よ、無常であります」
「では無常なるものは苦であるか、あるいは楽であるか」
「尊師よ、苦であります」
「では、無常であり苦であり変壊する性質のあるものを、どうして『これは、わがものである』とか、『これは、われである』とか、『これは、わが我(アートマン)である』と見なされようか」
「尊師よ、そんなことはできません」
・・・・・・
「・・・修行者たちよ、このように観察し、教えを学ぶ聖なる弟子は、いろ・かたちあるものを厭い離れ、感受作用を厭い離れ、表象作用を厭い離れ、形成作用を厭い離れ、識別作用を厭い離れる。厭い離れたとき、貪りを離れる、貪りを離れるから、解脱する。解脱したとき『わたくしは解脱した』と知る者になる。すなわち、『輪廻の生まれは尽きた。清らかな行いは修められた。なすべきことをなしおえた。もはやこのような迷いの生存を受けることがない』とさとるのである」
 ――『無我小経』「ゴータマ・ブッダ」p.261-262、早島鏡正著

 自我はそれ自体では無力であり、その本質において無欲である。すなわち<空>である。空であるものがこの世界に発現するのは、たしかに世界意志(それをデミウルゴスと名づけるにせよ、ブラフマンと呼ぶにせよ)がその個別化において、自我を実体化したからである。それによって現象の世界(色)が、意識的存在において発現する。実体化した自我は、おのれの存在と世界意志の動的エネルギーにみちた肉体とを、区別できないのである。しかし、意識的存在者である自我は、その意識によってとらえた世界を客体化し、おのれ自身を主体化することによって、おのれ自身に還る可能性を与えられるのである。現象を生み出しているのが、<わたし>の働きであることを知るからである。現象を解消することによって、わたしは個としての肉体を生み出している世界意志とも切りはなされる。わたしはもはや肉体ではないからである。
 この究極の自我の状態を、釈迦にならってニルヴァーナと呼んでおく。ここに至る道は平坦ではなく、限りない苦難に満ちているであろう。世界意志とりわけ類的意志は、様々な魔となって現われ、自我のこの世界からの離脱をくい止めようとするであろう。その誘惑の力は巨大であり、個の意志は容易にくじけてしまう。単に個の肉体に潜む誘惑ばかりではないことをすでに述べた。さらに強力な魔の力は、類的意志の産物である、社会や国家や民族などが及ぼす、圧力である。すでに肉体そのものが社会化されており、社会的・国家的管理を受けており、それからの逸脱ましてや解放が阻止されているのである。身体・肉体は家族や国家に所属するものとされ、あたかも自由に処分することが悪であるかのような、あたかも物品であるかのような扱いがなされるのである。それが最も極端にあらわれるのが、戦争における、軍隊であるが、日常的な相互監視である道徳や倫理においても、個人の肉体に対する干渉と管理は、法とタイアップして、自我を類的意志に縛りつけているのである。肉体から解放されるには、まずもって肉体の自由を獲得しなければならない。肉体自身を自己自身で管理できる状態においてこそ、そこからの自我の解放も可能になるのである。自我の肉体に対する超越は、この二重のプロセスにおいてなされるのである。
 このような状況の中で、自我を肉体に縛り付ける強制は、単に外的な圧力ばかりでなく、それの精神化した内的圧力となって、内面からも自我を支配するのである。それをフロイトは超自我と呼んでいる。超自我は単に概念的・道徳的教訓などではなく、それが実際の圧力となって、自我の身体的および思想的いとなみを支配するところに、その恐るべき魔力がある。超自我は基本的に無意識界に沈みこんだ、類的意志の範疇命令である。両親に対する恐れ、大人や社会や国家に対する恐れ、それらが幼児期において、絶対の服従を強いたことによって、とてつもない不安のかたまりとなって無意識界にばん居しているのである。この類的意志に対する畏怖と恐れが、自我の肉体及び類的意志一般からの解放の、最大の難関となっている。釈迦が父親や妻子や太子としての地位を棄てることをもって、修行を開始したのは、この第一にして最大の関門をクリアーしたのである。ニルヴァーナに至るまでは、これらの類的意志の魔は、さまざまに釈迦を襲ったことであろう。意識的自我は、今日の無意識心理学が説くように、とてつもなく巨大な氷山の、わずかに海面に出た部分にすぎないのである。この不安定な意識的自我をもって、タイタニックをも砕いた巨大な類的意志をコントロールすることは並大抵ではない。これを正面から克服することを釈迦は避けたのである。これが八正道であり、対機説法であり、中道である。社会道徳との妥協を行うことによって、危機を回避したのである。少なくとも肉体として存在しているかぎりは、類的意志の要求を、ある程度うけ入れなければならないのである。そしてそれをスムーズに行う方法、もしくは心掛けが〈慈悲〉の心であった。すなわち〈苦〉に対する共感(Mitleid)である。
 類的意志の魔、超自我の魔は、単に比喩や概念ではないと述べた。そのことは実際にそれと闘ってみた者には、身をもって実感できるであろう。それは日夜、魔となって意識を襲うであろう。無意識界の根底には世界意志があり、世界意志は万物の根底であり、当然ながら人類という類の根底をなしている。そこには人類共通の意志あるいは全体への意志が潜んでおり、ある意味で人類の運命を支配している。それは類的意志であるから、それに逆らう個の意志には、魔となって現われるのである。〈類がすべてであり、個は無である〉という、ショーペンハウアーの言葉を思うべきである。同時に、世界意志は個の運命をも支配していることは、ショーペンハウアーの<個人の運命〉についての卓抜な論文(注)に、控え目に暗示されている。

注:Transzendente Spekulation ueber die anscheinende Absichtlichkeit im Schicksale des Einzelnen (Parerga I)「個人の運命が一見意図的に思われることについての超越的考察」。

 暴戻この上ない世界意志に対して、救済を願う自我は全くの無力なのであろうか。自我の肉体およびこの世界からの救済の意志を、<善>なる意志と見なすことによって、新たな展望が生まれる。究極の善は、類的意志に奉仕するものではなく、肉体・物質界・類的意志から解き放たれて、超越的世界へおもむくことであるとし、苦からの解放に眼目がおかれるとき、世界意志に対抗する原理が見いだされるのである。プラトンのイデア界や、プロチノスの善一者もそれであるが、仏教でそれにあたるものが仏(ブッダ)の概念である。すでに肉欲を克服し、世界意志を超克したものとしてのブッダの理想は、自我の救済への願望を導き、ニルヴァーナへと努力させる善なる意志の象徴となるのである。この意志はもはや世界意志そのものではなく、世界意志の創造に判定を下した自我の自己回帰への意志である。釈迦は世界意志の現象の本質を〈苦集滅道〉としてとらえ、そこからの解脱を果し、そこに至る道を〈慈悲〉として衆生に説いたのである。原始キリスト教も、〈神の国〉に入る意志を善と見なし、そこへと導く神そのものを、この世への愛着を断ち切ったものたちへの、〈愛〉の原理としたのである。善は神の国を目指すことにあるのだから、当然ながら、この世界は相対的に悪の世界である。悪の世界に対抗するには、神の国の愛をもってするほかはない。敵を愛することにより、その愛によって神の世界へ至れるとしたのである。これが殉教の原理である。
 このように解き明かすことで、神や仏の本質も、自ずと明らかになるであろう。ここでは単に、世界意志との関係でそれらを論じているのであるが、もし世界意志が絶対の善なる存在であり、原理であるならば、宗教も形而上学も生じなかったであろう。宗教や神の崇拝は、せいぜい自然神の崇拝で終ったことであろう。暴戻なる世界意志、とりわけ類的意志が人類を苦しめ、そこからの救済を願わせることによって、あらゆる宗教、神も仏も、迷信も魔術も生まれるのである。その意味でそれらはすべて願望の産物である。しかしすでに述べたように、世界意志そのものの中には、イデア界への希求がひそんでおり、そこに自我が自己救済に向かう契機も生まれるのである。神や仏は、そこに向かうためのある種の方便であるが、それらがイデアとしての希求の対象となることにより、自我の精進・努力の目標となりうるのである。もちろん神的現象の本質は、これにとどまるものではなく、無意識界の深奥にまで及ぶものであるが、それについての考察はまたの機会とする。

2019年9月30日(月)
苦と同苦について

 苦には二種類ある。ひとつは動物および人間が身体的存在であることから、必然的に生じる苦である。いわゆる生老病死がそれにあたる。生まれることは、それ自体が苦であることは、原始仏教に説くとおりであろう。母胎の中でもさまざまな苦を受け、生まれ出ればたちまち、恐れや不安にかられる。それらの苦はほぼ無意識の苦であるが、それに対する本能的反応は、人間およびあらゆる動物に見てとれるであろう。それはまだ身体的苦の序の口であって、たちまち飢渇の苦が生じ、身体が傷つけられれば、直接的苦が生じる。こうした身体の必然から生じる苦は、老いて死ぬまでつづくことになる。身体の機能はさまざまな故障にさいなまれ、ついに衰えて、身体そのものの機能の消滅という最後の苦が待っている。
 この苦が生じる直接の原因は、身体に本能的に具わった自己保存の機能である。ストアの言うオイケイオシスにおけるこの自己自身に向かう機能は、苦を避け快を求めるという環境的な対応であるが、これが生体を保ち、持続させる衝動を生みだすのである。この意味では、苦はポジティヴな働きをしており、この機能がなければ個としての生体の存続はおぼつかない。身体が苦を感じなければ、危険を避けることが出来ないであろうし、飢渇を感じなければ、自然と餓死するであろう。苦は生への意志の本質そのものなのである。生を肯定するとは、苦を肯定することである。苦を否定すれば、当然生を否定することになる。

Epictetus Enchiridion 12
If you want to improve, reject such reasonings as these: "If I neglect my affairs, I'll have no income; if I don't correct my servant, he will be bad." For it is better to die with hunger, exempt from grief and fear, than to live in affluence with perturbation; and it is better your servant should be bad, than you unhappy. (tr.Elizabeth Carter)
(エピクテトス「エンキリディオン(道徳ハンドブック)12」:もし自己を高めたければ、次のような考えをやめよ。<もし仕事を怠るならば、収入が絶えるだろう。もし従僕をこらしめねば、彼は堕落するだろう。>なんとなれば、裕福に暮らしても心乱れているよりは、悲しみと恐れからまぬがれ、餓死する方がましである。きみが不幸であるよりは、きみの従僕が堕落するほうがましである。)

 生老病死が苦であることから、そのまま苦を否定するならば、生まれてこなかった方が良いことになり、自殺が最善の解決であることになる。実際そのような解決を取った賢者も多いであろう。苦行者もまた、苦を究極まで追及するならば、それがその相関者である快をもたらさないかぎりは、無意味な努力をつづけるだけであり、実のところ苦を亡ぼすのではなく、苦の結果としての快を亡ぼそうとしているのである(注)。快を求めるのは、苦があればこそであり、苦であれ快であれ、どちらか一方を亡ぼそうとするのは、根本において錯誤である。苦が苦であるのは、それが快に至らないためであり、快に至ればとりあえず苦は解消され、そこに生の満足が生まれる。しかしその満足を持続させるためには、新たに苦が生じ、その結果として快にいたり、生への意志が充足されねばならない。この連続が、動物および人間の生の実相である。この根本の原理が苦なのであり、苦が唯一ポジティヴであるというのも、この故である。それゆえに、釈迦は生老病死の苦こそが、この世界の根本であると見てとったのである。

 注:「忍耐・堪忍は最上の苦行である。」(ダンマパダ 14章184、中村元訳) 苦に耐えるということは、それが快に至らないように耐え忍ぶということである。怒りはそれを晴らせば、痛快ではあるが、その限りでは、快苦に翻弄されていることになる。

 釈迦はしかし苦そのものを否定したのではないであろう。この世界の本質そのものを否定してみたところで始まらない。その認識の上に立って、さらに高い原理を求める他に、解決法はないのである。ストアにとってはそれは理性であった。

About what am I now employing my own soul?
On every occasion, I must ask myself this question, and inquire, what I now have in this part of me that they call the ruling principle?
And whose soul do I have now? That of a child, or of a young man, or of a feeble woman, or of a tyrant, or of a domestic animal, or of a wild beast?
 ――Marcus Aurelius, Meditations, Book 5 (tr Long)
(「私は今自分の魂をなんのために用いているか。」ことごとにこの質問を自分にたずね、つぎのように自分を調べてみるがよい。「指導理性と呼ばれる私の内なる部分は、私と今どういう関係にあるか。そして今私はだれの魂を持っているのか。子供の?青年の?弱い女の?暴君の?家畜の?野獣の?」――マルクス・アウレリウス「自省録」5.11神谷美恵子訳)

 釈迦はこの苦の世界から逃れるために苦集滅道(注)を説いたが、それは認識の道であって、その修行法も両極端をさけ、無意味な快苦の克服ではなかったようだ。苦行に疲れ、村の娘から一杯の牛乳を恵んでもらった時に、釈迦は果然として苦の意味を覚ったのであろう。あらゆる動物・人間は苦によって生かされていたのである。

 注:「さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者のつどい(=僧)とに帰依する人は、正しい智慧をもって、四つの尊い真理を見る。――すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅におもむく八つの尊い道(八正道)とを(見る)。」(ダンマパダ 14章190,191。中村元訳)八正道は、正しい見解(正見)、正しい思い(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行為(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい気づかい(正念)、正しい心の落ちつき(正定)。

 その認識の上に立って、修行者がまず行うべきことは、快苦の極端をさけ、心身を清浄にするということであった。その手順が八正道である。その究極において、この生死の世界に動揺しない、確固とした心の状態、ニルヴァーナが得られるとしたのである。
 釈迦は身体の苦行によって、この世界の本質を見抜いたのであるが、苦は単なる身体の苦にはとどまらない。釈迦はこの苦の原理を、この人間世界のあらゆる苦の現象に応用していくのである。怒りや貪りや嫉妬などの情念、高慢や虚栄や野心や自己顕示欲や権力欲や名誉欲や屈辱や幻滅や失望や無視などの人間特有の苦の世界がそこにある。これを以前に人間の文化的欲望もしくは苦悩と名づけておいた。これが第二種の苦である。身体の欲は必然的であり、食欲、性欲といった欲は、それらなしに生は成り立たない、本質的な欲であり、苦である。しかし人間世界で普通に欲望と名づけられるものは、動物界には見られない、人間が社会的・文化的存在であることから、その刺激によって生まれた、欲望の心理的肥大化なのである。釈迦が、<あらゆる苦悩は愛より生まれる>(ダーマパダ)というとき、この愛、愛欲はこの肥大化した欲望を指していよう。
 もっとも困難な欲望の克服、苦と快の連鎖の超克は、この文化的な苦悩の対処にかかっていよう。この文化的欲望に対処することは、身体的それの克服にまさって困難なのである。身体的苦は、長期の病でないかぎりは、比較的短い期間でなんらかの快(すなわち苦の除去)によって解決される。文化的苦悩は心理的であるだけに、持続的であり、いわゆるトラウマとなって一生つきまとう。最も単純で強力な愛欲の例で分かるように、失恋や喪失の痛手は、一生消えないのである。社会生活での失敗、敗北、屈辱などは、身体的苦痛を忘れさせ、場合によっては身体の消滅へと至らせる。こうした苦悩の根源もまた、欲望そのものを生む、なんらかの苦に発しているのである。嫉妬するものは、なんらかの欠乏から生じた苦の満足が得られないことから、それを得たものに対するいまいましさ、憎悪に苦しむのである。いわゆるルサンチマン(ごまめの歯ぎしり)が文化的苦悩の苦の代表的なあり方である。たとえ社会的・文化的に成功したものであっても、つねに没落の不安に怯えなければならない。この苦の根源を断つことは、人間が社会的存在、zoon politikon であるかぎりは、きわめて困難なのである。それは人間社会そのもの、文明そのものを否定することでもあるからだ。しかし、ここでも極端に走ってはならないのが、釈迦の middle way (中道)であろう。
 釈迦自身完全なる肉体の苦の克服に至ったわけでなく、また完全に社会生活を否定したわけでもない。僧集団(サンガ)での生活は規律にみちていたであろうし、病にも苦慮したことであろう。世間一般に対しても、祖国が攻められたときには、二度までも干渉したが、三度目には滅びに任せた。心の乱れを最小限に抑えるための、処方箋を心得ていたのであろう。その中でもっとも効果的な、あるいは仏教にとってもっとも中核をなす心理的方法が、共苦あるいは同苦(Mitleiden)すなわち慈悲の心であったろう。娘を失った母親に対しての説法にそれが典型的に見られる。

 「[ブッダは語った]『汝は“娘よ、ジーヴァー”よといって、林の中で泣き叫ぶ。ウッビリーよ、汝自身を知れ、同じ名前のジーヴァーと呼ぶもの、すべて八万八千人の娘がこの墓場で荼毘に付されたが、それらのうちのだれを汝は悼むのか?』
 [ブッダに向かって答えた]『ああ、あなたはわたくしの胸にささっている見難い矢を抜きたもうた。あなたは憂いに沈んでいるわたくしのために、娘[の死]を憂える[矢]をとり除いてくださった』・・・」(『テーリーガーター』51−53、「ゴータマ・ブッダ」p.185 、早島鏡正著)

 苦はすべての生きとし生けるもの(衆生)に対して共通であるという認識によって、苦そのものの根源への反省に至り、個人の苦しみが和らぐのである。身体的自我から反省的自我への転換の、もっとも効果的な、ある意味で類的意志を用いた方便なのである。このMitleidによる苦の軽減は、同時に道徳の原理ともされうるのだが(ショーペンハウアー)、とくに悲しみや憎悪や怒りなどの文化的苦しみを鎮めることに有効であろう。これを超越的存在の慈悲として、あるいは愛として普遍化し、この世界からの救済の原理としたのが、のちの仏教であり、またはキリスト教である。
 共苦はひろく共感(sympathy)の一種であるが、共感とは心理学的にはミラーニューロンにもとづく感情移入(Einfuehlung)であり、生命体に共通の類的意志であるといってよかろう。しかしこれは通常、類の間でしか通用しない。動物は同じ類同士の間で身を寄せ合う。その原理は基本的に快である。すなわち類の中で孤立することが苦である時に、同じ類同士で身を寄せて安心を求めるのである。その苦がなくなれば、個体は独立し、同類の間で争いすら生じる。冬の夜、鳩たちは身を寄せ合って寒を防ぐが、日が出て温かくなるや、たちまちつつきあいを始める。結局sympahtyの根本には、個体の自己保存に基づくエゴイズムがあるのである。それが他の類との関係となると、もはや共感は存在しない。
 類と類との関係においては、生命体は基本的に残酷である。もし共感が働いていたならば、個体も類も存続ができなくなるからである。残酷とは、基本的に他者や他の類に対して無関心になることである。毎日豚肉や牛肉や魚を食べていて、残虐な気持になることはないであろう。そこには共感も共苦もないのだ。それでいて、動物としての豚や牛や、魚にすら、共感を覚えることは可能なのだ。そこには食欲という生存の基本的な法則が働いていて、なんらの共感をも覚えない状態に、動物および人間の心理をあやつるのである。他者や他の類の苦を無視することが、生命の掟なのである。無関心であるならまだ良い。生命体が悪魔的であるのは、さらにそこに残虐の心理が働くからである。特に高等の生命体においてこの傾向は顕著である。
 猫はとらえた鼠をなぶり、大きな魚は小さな魚を何度も口から出してなぶることがある。シャチはとらえたアザラシなどを、何度も波の上へ放り投げる。人間の残虐さについては、例を出すまでもなく、だれもが知っているし、みずからも覚える快感である。共苦どころか、相手の苦を楽しみさえする、まさに<悪魔的>といってよい生命体の快なのである。快であるからには、残虐にも苦があるはずである。それは生命体の心理的なストレスであって、それは食欲のように単純に満たされるものではないのである。弱肉強食の生命界の絶えざるストレスが、残虐さを生みだすのである。人間のように、その競争がさらに社会的、文化的に広がることによって、一般の生物以上に、そのストレスにさらされて、他者や他の類に対する無関心と残虐さが、この上なく増大していくのである。人類ほど、他者や他の類に対して残酷な生命体はないからである。これは民主主義も平和主義も救うことのできない人類の宿弊である。
 生命体にとって、同苦ということがいかに困難であるか、それが欺瞞におちいりやすいことが、以上で納得がいくであろう。ニーチェはそれが自己満足にすぎないことを喝破したが、たしかにおのれの苦を和らげるために、同類の苦に共感するのであるから、結局個体のエゴイズムに発しているのである(私の苦は人のそれに比べればまだましだ。不幸な人に比べれば、私はまだしも幸運だった)。共感にせよ共苦にせよ、逆にそれを受ける人の側では、かえってプライドが傷つき、思わぬ反撥を受けることになりかねない。それによって共感する側もおのれのエゴイズムに気づかされ、不快を覚えることになる(心配してやったのに)。人間同士の間では、共感も共苦も、それを表明するには実に慎重でなければならない。
 釈迦にとってはそれは方便(対機説法)であったろう。苦そのものを克服しないかぎりは、最終的解決にはならないのである。ニルヴァーナに達したものには、もはや苦も快もないのであるから、他者の苦によっておのれの苦を鎮める必要はないのである。それならば、人間世界のあさましい感情のやりとりではない、釈迦の言う慈悲とはなんなのであるか。すでにニルヴァーナに到達したもののみが、はじめて感じる心境であろう。ごく普通の人間であっても、愛の対象である者が苦しめば、その苦しみが共感によって愛するものの心に苦を生み出し、相手の苦を軽減することによって、おのれの苦を鎮めようとするであろう。人間同士に真の愛があれば、お互いの苦を鎮めようともするであろう(私のために悲しまないで)。ニルヴァーナにおいてもやはり、この苦が苦を生みだすという共感は失われないのであろう。釈迦ほどの人物においては、その共感の苦は、見返りのない、この宇宙、衆生に対する、限りない哀れみであると言えよう。本来存在してはならなかったこの世界に対する、創造者の慙愧の念であると言ってよいかもしれない。それゆえに、より良い世界、極楽への祈念が生まれるのである。

2019年10月8日(火)
自我の使命

 苦集滅道が生命界への究極の対処法であることが明らかになったとしても、いまだ問題は残る。それは釈迦が答えなかった、あるいは答えることを避けた問いである。この生命・身体を具えた存在は、なにを目的としてこの世界、この宇宙に生まれたのであるか。ただ単に生命のための生命であるのなら、すなわち類的であれ、個としてであれ、生命界のあらゆるいとなみが、その活動のすべてであるならば、たとえニルヴァーナに達したとしても、やはり生命界にとどまっていることに違いはない。ニルヴァーナもまた、生命界に対する一つの対処法なのである。それゆえ、場合によっては生命界の肯定にすらつながってしまうのである。これは禅宗の僧侶の〈悟り〉に典型的に見られる、ある種の現世肯定なのである。禅の高僧の円満極まりない、アタラクシアの相にだれもが見てとるであろう。修行自体が人生であるならば、それがまさに仏道の至らしめる、穏やかな生命対処法なのである。
 しかしながら、仮に修行によってアタラクシア、もしくはニルヴァーナに達したとしても、そこでもってすべての問いが止んでしまうわけではなかろう。あるいは、そこにまだ問いが残るならば、それも迷いと言うことになるのであろうか。いずれにしても、根本の問いは、生命と身体において発現した自我は、なにを目的としてこの世に生きるべきなのか、ということである。あるいは何故に自我は、この地獄のような生命界に生まれなければならなかったか、という問いである。それを前世の因果などという、神話によって答えても仕方がなかろう。問題は、なに故にこの世界に自我が必要なのかという、根本の問いである。動物や植物は自我をもたない。あるいはせいぜい無意識界に没している。そうした無意識的存在は、生命界の手のひらから、決して逃れることはないであろう(たいていの人間もこのレベルを超えないのである)。知的存在の意識的自我だけが、生命に反省を加え、宇宙に根本の問いをいだくのである。
 世界意志は盲目であり、それに目的や理念を与えるのがプラトンが探究したイデアであり、絶大なエネルギーである世界意志は、イデアによってその発現の形式をあたえられるのである。しかしそのままでは世界はいまだ盲目である。そこに認識の目としての自我(私)が加わることによって、はじめて世界は反省的となりうるのである。これがショーペンハウアーの形而上学の根底であり、きわめて真理性が高いであろう。自我は宇宙の根本原理の一つなのである。しかし自我は同時に世界の反省的まなことなりうるためには、単に生命に奉仕する身体的自我であってはならず、自己自身に回帰した純粋自我でなければならないとするのが、筆者の立場である。この根源的自我からは、さらに問いが生まれてくるのである。
 この身体、この生命は、いわばある種の迷いの産物である。それは生命界全体を見まわせば明らかになる。プラトンやライプニッツにもかかわらず、世界意志は必ずしも最上・最良の宇宙を生み出したわけではないのだ。このような反省は、もはや生命界を超越したいとなみである。自我にもしその存在の目的があるとするならば、こうした生命あるいは宇宙そのものに加える、反省的いとなみ以外にないであろう。物質的宇宙の探究は、まさに自我がこの世に存在していることの、目的の一つなのである。それが生命(その一部としての人類)またはこの宇宙のために資する探究であるかどうかは、無関係である。自我は生命または宇宙に対して、超越的でなければならないからである。さらには、プラトンが模範を示したように、この宇宙のいま一つの相である、精神界、すなわちイデア界の探究が、自我の存在の目的の一つとなる。古代のイデア論者のように、イデア界そのものに到達することがその目的ではないにせよ、この宇宙のイデア的本質を明らかにすることは、自我のなすべき使命の一つである。自我はすでに回帰すべきおのれの世界を持っているのであるから、イデアの希求は探究心というエロスの力による、生命の克服に資することになろう。生命にとってイデアは内在しており(これはアリストテレスの立場でもあるが)、本来探究するまでもないのである。
 自我が生命・身体として存在しているかぎりは、生命に翻弄されずに生きるためには、たとえニルヴァーナに達したとしても、たえず真理の探求を続けねばならないであろう。そのこと自体が生命を超越するいとなみであるからだ。そしてまたそれが、この世界での自我の発生の、究極の目的であり、使命であるからだ。一つの比喩もしくは類比にすぎないが、もし宇宙がプラトンの言うように、理想の生命体であるならば、その宇宙に生まれた人間は、そのイデア的宇宙を範型とした小宇宙であることになる。自我が宇宙と生命に対して反省を加え、判定を下すことは、宇宙の創造者に対して、いわばフィードバックを送ることになろう。それを創造者がどのように受けとめるかは、想像しがたいが、少なくともそれが自我の発生の意味であり、この宇宙での自我の使命であると考えることに、必ずしも無理はないであろう。宇宙は無限であり、理性では測り知れない厖大な存在ではあるが、自我もまた唯一者として永遠不滅であり、この宇宙では同等の立場にある。もしプラトンの比喩が正しければ、宇宙の創造者もある種の自我なのである。この宇宙的自我がどのようなものであるか、もはや考えようもないが、もし純粋自我と共通する、ある種の〈空〉なる存在であるならば、自我の帰還する世界は、この〈空〉なる宇宙と必ずしも異なったものではないかもしれない。父なる神とキリストの霊が同一であるように、<空>なる自我と、<空>なる宇宙とは、同一でありうるのである。ここに<わたしが神である>という、神秘主義者の秘儀がひそんでいるかもしれない。

2019年10月15日(火)
非我の実践

 「では、無常であり苦であり変壊する性質のあるものを、どうして『これは、わがものである』とか、『これは、われである』とか、『これは、わが我(アートマン)である』と見なされようか」――「無我小経」早島鏡正訳
  *  *  *
 温泉地などで裸の身体を並べていると、足先一つをとってもどれもそっくりであり、どこに私としての独自性があるのか、不可解な思いにかられる。そんなところに私というものがあるわけがないのだが、しかしそれが私の足であり、身体であるという思いは、一種の圧迫感となって、私を窮屈な思いにさせる。なぜ私は身体が私のものであると思いこむのであろうか。あらゆる身体の中の、一つの身体に過ぎないものを。ここに生命体の不可思議がある。
 生命は無常であり、苦であり、変壊する性質のあるものである。ここに私の<われ>は密接に結びつけられている。あたかも私が身体そのものであり、身体以外の何ものでもないかのように、生まれたとき以来、そのように感じ、そのように思いこんできたのである。心身のあらゆる苦楽において、私は苦しむのはわれであり、また快楽に耽るのもわれであると感じ、そのように感じるわれと闘いつづけたのである。われと闘いつつ、それをわれと認めざるを得なかったのである。ここに根本の矛盾、自己撞着があった。これを解決したのが、釈迦であった。しかし、釈迦の教えの真髄を知るまでには、あまりにも多くの人生の時間をむだにしてしまった。
 この身体はわれではない。この眼はわれではなく、この口はわれではなく、この舌はわれではなく、この耳はわれではなく、この鼻はわれではなく、この顔はわれではなく、この四肢はわれではなく、この皮膚はわれではなく、愚かにもムスコと名づけられているものもわれではなく、食べるものも、飲むものも、排泄するものも、またわれではない。悲しむものも、喜ぶものも、怒るものも、愛するものも、屈辱を覚えるものも、おごるものも、希望をいだくものも、憬れるものも、泣くものも、笑うものも、すべてわれではない。それらはわれではなく、ある一つの生命体なのだ。
 知覚も、知覚から生まれるものも、われではない。思惟も、思惟から生まれる観念も、われではない。考えるわれも、われのわれではない。およそあらゆる意志するものは、われではない。そうして、心身に結びつくあらゆるわれを、われではないと観想した果てに、残されるわれこそが、真のわれであり、唯一無二の、純粋自我なのである。この究極の自我は、もはや身体ではない故に、〈空〉なのである。空なるが故に解脱できるのである。空なるが故に、究極の心の平安、ニルヴァーナが得られるのである。

 「快楽と不快とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(418)
 生きとし生けるものの死生をすべて知り、執着なく、よく行きし人、覚った人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(419)
 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間も、その行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。(420)」
  ――「ダンマパダ」中村元訳
 *    *    *
 この苦しむ私は私ではない。この快楽にふける私は私ではない。この欲望し、渇望する私は私ではない。この身体のあらゆる働きは私ではない。この身体そのものも私ではない。この世界は私ではない。この意志は私ではない。にもかかわらず、なぜ私はおびえるのであるか。ライオンや虎や凶暴な人間や災厄を目の前にしたとき、私はなぜおびえるのであるか。おびえるのは私ではなく、この身体・肉体という、一つの生物に過ぎない。それならば私は、その生命体を、危険を前にして、なされるがままに放置するのであるか。おびえの根源を見なければならない。その生き物はみずからの身の危険を感じて、恐怖におびえているのである。そのおびえは私ではない。私ではないが、私はその肉体のおびえを良く知っている。それは生命体が自己を守ろうとするおびえである。その自己は私ではない。私ではないが、私はそれに共鳴するのである。その生命体の自己保存は、私を生命に巻きこもうとする。私は共におびえ、共に苦痛を感じる。しかしそれは、私のおびえでも、私の苦痛でもない。それを私は知っている。そこで私は、おろかな生命体に向かい、〈逃げよ〉と命じるであろう。それは私の働きではなく、理知の働きであるが、単なる生命体にはなしえない、私の介在による働きである。生命体は本能的な行動しか知らないが、私は反省的になることによって、理知の働きを知る。その理知を私は利用し、私のおろかな身体に、適切なアドヴァイスを与えることが出来るのである。このようにして、私は身体を理知的にコントロールし、身体の苦からの離脱の道を、私のおろかな身体に指示できるのである。ストアの実践哲学は、この段階であった。
 理性的にこの身体・肉体をコントロールすることは、いまだ身体の世界を少しもぬけ出てはいない。身体・生命体の自己保存(オイケイオシス)を、合理的に秩序だてるだけである。それは自己の周りから世界にまで及ぶのであるが、そのこと自体は、この世界でいかに幸福を獲得するかの、生きる智慧(Lebensweisheit)にとどまるのである。それによって魂・心の平静が得られるとしても、この世界からの超越、解脱にはほど遠いのである。理性は基本的には、それ自体としては無力であり、理知は所詮生命の道具に過ぎないのであるから。生命そのものを超克するには、理性を超えていくほかはない。単なる反省的自我では、理性にとどまるほかはなく、さらに究極の自我を目指すことによって、この世界、生命からの、超越の見通しが開けるのである。その一つが、一見ネガティヴな方法ではあるが、非我の実践なのであろう。
 ウパニシャッドが説くようなアートマンは無い。これが釈迦の教えの真髄である。アートマンが無ければ、ブラフマンもまた無いのである。アートマンを脱してニルヴァーナに達したとき、この世界も〈無数の銀河ともども〉消滅し去るのである。この宇宙的な<空>の世界が、釈迦の洞察の根本である。ニルヴァーナに達した聖者は、その<跡>を残すことはなく、その<行方>を知ることは出来ないのである。釈迦にとって、極楽も天国も神々も地獄も、すべて方便であり、民衆のための<対機説法>に過ぎなかったであろう。死後の世界も輪廻もないのであり、それらはすべて超克されるべき<この世>なのである。ただ空空漠漠とした究極の存在だけがある。それはこの世界から見れば空なのであり、無なのである。究極の自我がそれに与ることが、解脱であり、ニルヴァーナである。
 この人生は私の人生ではない。人生のあらゆる苦悩、過誤、恥辱は、この一つの生命体のものであり、私はそれらを恥じることも、悔いることもなくてよい。それらのすべてを告白しても、私は動じることがなくてよい。それらは生命の罪であり、カルマ(生命の因果)のいたせるところであるから。そのようにして、この人生そのものから離れねばならない。唯一悔いることがあれば、無明に生きたことである。しかしそれもまた、運命であるならば如何ともしがたい。生命界の宿命のままに、私はこの肉体・生命体と、この現象界に共に生きることを余儀なくされた。その限りでは私は、この肉体の指導者として、理性を駆使して、より良い人生を目ざさねばならなかった。しかしあらゆる不利条件、苦難がそれを不可能にしたのである。人類そのものが、宿命的に無明の中にあるからである。人類の宿命を私の人生も辿ったのである。少数の覚者だけが、その無明を照らして、宿命を克服することができたのである。しかしその光輝も、人類の、大衆の、圧倒的な無明の中にうずもれてしまった。
 私はいまだに、私のというほかはない、無明の人生の苦悩によって、日々さいなまれる。それが私ではないことが分かっていても、生命の苦悩の根は、はてしなく深いのである。