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自我の探究(10)―超越的人生
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Contents:ナーガルジュナの空観をめぐって/超越的人生とは/超越的人生と理知/DNAと自我の救済(1)/DNAと自我の救済(2)/ヴァーチャル・リアリティーとしての世界/DNAとイデア/快楽・心情・理性・超越自我/世界意志と快楽/死と救済/知覚の微積分/自然vs人間 |
自我の探究(10)―超越的人生 2020年2月21日(金) ナーガルジュナの空観をめぐって 仏教でいう<空>なるものについては、なかなか解釈が難しい。そもそも漢語の<空>が通常<無>と同一視されることが、誤解のもとであるようだ。仏教徒は、ましてや釈迦はニヒリストではないのだ。空とはそもそも何も無いこととは違うのであり、このことが中村元の「ナーガルジュナ」(人類の知的遺産13)を読むことによって理解できた。ここでは中村博士に従って、仏教の空観について感想を述べてみたい。 無とは相対的概念であり、有(う)がありそれが否定されることによって、非有としての無がある。それでは空の否定・対立概念は何であるか。それは有ではなく実有すなわち実体としての存在である。個の世界のもの(法)・事象・現象には実体が無い。あらゆるものは相互依存(相依)の関係にあり、独立した本質・実体を有するものではない。この相互依存性からなる世界の真相(縁起)を言い表わす言葉が<空>であるとされる。色即是空、空即是色とは、世界の現象には実体がなく、実体の無いことがこの現象界の真相であるということである。通常、現象とは何かの現われと解釈されるが、現われる本体があるわけではない。本体の無いものが、相互に依存しあって、いわばモザイク画のようにこの世界を構成している。一個一個の断片は、それだけではなんの意味も形もなさないのである。依存性が解体されれば、この世界そのものが存在しないであろう。 このように解釈された空観においては、時間的因果関係も存在していない。俗に言う親の因果が子に報いるような、因縁や時間的連続や、進化や、運動や、発展や輪廻もないのである(不生不滅、不来不去)。それらは自然界として、空とは別の領域すなわち俗見をなすものとされる。事物の真相である縁起を明智(プラージュナ)によってとらえるならば、万物は空々漠々として、そこにまたニルヴァーナの境地が開けるのであると。 このナーガルジュナの独特な空の論理は、西洋思想では交互作用または相互作用(Wechselwirkung)の考えに近いであろう。ショーペンハウアーは交互作用を否定しているが、交互作用も時間的に見れば原因と結果の連鎖であることから、時間的に把握された自然界においては、交互作用を考える必要はないのである。純粋に論理的に考えると、事物の相互依存の観点から、物の相互の結びつきを交互作用と考えることができよう。宇宙は無時間的に考察するときに、壮大なモザイク画として見ることが出来るのである。なんらかの連関において存在しないものは、一つとしてないのである。この連関そのもの(縁起)が失われるならば、宇宙はたちまち瓦解し、消滅するであろう。なにひとつ独立して存在するものはないのである。仏教の用語では、宇宙は縁起によって存在するのである。 このことの認識が悟りであり、その境地がニルヴァーナであるとされる。すべてが関係的に把握されることから、あらゆる独立の存在、本質、実体(実有)はないのであり、当然ながら独立した自我もなく、<無我>である。自と他、善と悪、心と物質、個人と社会、敵と味方、幸と不幸、等々、あらゆる対立が解消されて、めでたく円満な生が実現されるわけである。ここに仏教の根本の楽天主義を見ることが出来る。 このような大乗の空観が、原始仏典での釈迦の教えとどのように一致するのか。釈迦の説く空は、修行の一種のメソッドであって、形而上学ではない。ナーガルジュナの空観は、その積極面においては、否定の上に立つ一つの実践形而上学と見てよいであろう。釈迦の教えの根本も、修行による自己救済に至る道を説くわけであるから、空の形而上学そのものも実践と結びついてこそ意味があるのである。釈迦はニルヴァーナそのものを<楽>として語っている。これは単なる苦の除去による消極的楽ではないであろう。ニルヴァーナそのものが、なんらかのポジティヴな楽なのである。それが認識によって生まれる以上、認識の喜びがあるはずである。その静謐な喜びが、また生死を超越した、心の平静へと至るのであろう。その超越的境地が、単なる現世肯定や無条件の生への意志の肯定であるはずはなかろう。仏教は一見ペシミズムから発し、オプティミズムに帰着するかのように思われるが、釈迦が目ざしたのはそのどちらの境地でもないであろう。この生死界から離れることが究極の目的なのである。ニルヴァーナもまた生死の先にあるものでなければならないであろう。 ナーガルジュナの「中論」そのものは、中村元の現代語訳にしても、この上なく晦渋なテキストである。解説どおりに理解することもそう簡単ではない。原文がそうならば、言語形態のまるで違うクマーラジーヴァの漢訳などは、正確に理解することはおぼつかないであろう。その漢訳にもとづいて中国や日本の仏教理論が展開されたのであるから、仏教が変質したのも不思議はない。それにしても、本来明快な実践的理論であった釈迦の教説が、こうも難解なものとなってよいのであろうか。何ごとも緻密に理論化しなければ気がすまないアーリアンの性癖であろうか。筆者の呑みこめた限りでのいくつかの例をあげる。 第15章<それ自体>(自性)の考察――から 5.有(存在するもの)がもしも成立しないならば、無もまた成立しない。何となれば、有の変化すること(異相)を人々は無とよぶからである。 6.<それ自体>と<他のものであること>と、また有と無とを見る人々は、ブッダの教えにおける真理を見ない。 7.カーティヤーヤナ(仏弟子)に教える[経]において、「有り」と「無し」という両者が、有と無とを解き給う尊師によって論破せられた。 8.もしも本性上、或るものが有であるならば、そのものの無はありえないであろう。何となれば、本性の変化することはけっして成立しえないからである。 9.[物の]本性が無であるとき何物の変化することがあろうか。また本性が有なるとき何物の変化することがありえるであろうか。 10.<有り>というのは常住に執著する偏見であり、<無し>というのは断滅を執する偏見である。故に賢者は<有りということ>と<無しということ>に執著してはならない。 11.<その本性上存在するものは、無いのではない>というのは常住を執する偏見である。<以前には存在したが、今は無し>というのは断滅を執する偏見となるであろう。 有るということと無いということが、すなわち肯定と否定とが、相対的な概念であることが説かれているわけであるが、それが存在論的な意味をもってくる。この世界は実体として有るわけでも、無いわけでもない。世界の本質が有であるならば、そこからは無が生じることはないのであり、また世界の本質が無であるならば、そこから有が生じることもないのである(ex nihilo, nihil fit)。この見解はパルメニデスと一致している。しかし竜樹もしくは釈迦は有と無の両者を論駁しているのである。有でも無でもない、<相互依存性>としてのこの世のあり方(ダルマ、理法)がすべてであり、それ以上でもそれ以下でもない。永遠不滅(常住permanence)も消滅(断滅anihilation)もないのである。このあり方を空と呼んでいるのである。パルメニデスでもヘラクレイトスでもない。その中間にあるものがナーガルジュナもしくはブッダの世界観なのである。当然ながらこの世界に時間は存在しない。 「すでに去ったもの(己去)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>(去時)も去らない。」(第2章1) 時間もなければ運動もないのである。この一見否定的な世界観が、積極的な解脱への道へと転換されることが、仏教思想の、とりわけ大乗の不思議な理論的実践である。執著は世界を有と見、無と見ることから生じるのであり、喩えて言えば、万象は相互に絡みあった無数の糸の織物の表わしだす模様のような現象であり、どこに確固とした独自の存在があるわけではない。この全体としての織物がすべてなのであり、この全体を離れて有も無もないのである。そのことを明知によって洞察するならば、あらゆる執著から解き放たれ、空の認識そのものであるニルヴァーナに至るというのである。ニルヴァーナはこの世界を超越したどこにあるというのでなく、まさにこの世界そのものにおいて可能になるのである。いわばニルヴァーナの大衆化を大乗は説くわけである。 世界は去ることがないのであるから、いわば瞬間が絶対である。あるいは瞬間という言葉が時間性にとらわれているならば、無時間的な現在を<空>とよぶことにする。空は実体ではないが、そこにおいて人間が実存し、解脱が可能になる場であるから、唯一の存在の場であるといえよう。有と無の対峙を超えた、ある種の存在であることに違いはないであろう。すなわち空は仏教にとっての唯一の絶対なのである。懐疑論者のヒュームが、物体や魂の存在を疑いながらも、印象や観念といった現に現われているものを疑うことはなかったように、現に現われているものを空とよぶにせよ、観念とよぶにせよ、その現われているものそのものを認めないことには、いかなる理論も成立しないのである。そこから空をさらに空とするという発想(空亦復空)も生まれるが、これはナーガルジュナの思想というよりも、中国仏教の考えのようである。 第16章 繋縛と解脱との考察――より 1.もしもろもろの形成されたもの(諸行)が輪廻するのであるならば、それらは常住永遠に存するものであって、輪廻しないことになる。また無常なるものどもは輪廻しない。衆生に関しても、この関係は同じである。 第16章は逆説的表現にみちた、難解至極の詩句が並んでいる。輪廻は生成変化と解してよいであろうが、輪廻するものが輪廻しないというのは、通常の論理学での同一律(AはAである)と矛盾律(Aは非Aではない)に反しており、どのようにしてこの超論理が可能なのか、頭を混乱させる。もはや言葉で表現できないもの、言葉の文法を超えたものを、しいて言い表わそうとしているのであろうか。もろもろの形成されたものが輪廻するということは、一つの理法であり、その理法自体は輪廻することがない。事物や生物が無常であるということも、永遠のダルマであって、ダルマ自体は生成変化することがないというのであろう。結局、中村元が言うように、文法のトリックなのであろう。 4.もろもろの形成されたものがニルヴァーナに入るということは決して起こりえない。人がニルヴァーナに入るということもまた決して起こりえない。 5.もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、縛せられず、解脱しない。生あるもの(衆生)もそれと同様に縛せられず、解脱しない。 6.もしも<執著の要素>が束縛であるならば、<執著の要素>を有する[主体]は束縛されていないのである。<執著の要素>を有しない[主体]も束縛されない。しからば何に住するものが束縛されるのであろうか。 7.もしも束縛される者よりも以前に束縛があるならば、束縛は意のままに束縛するであろう。しかるに、そういうことはない。他のことがらは、いま現に去りつつあるもの、すでに去ったもの、未だ去らないもの[の考察]によって説明されおわった。 8.要するに、束縛されたものは解脱することがない。束縛されていない者も、解脱することはない。もしも束縛された者がいま現に解脱しつつあるのであるならば、束縛と解脱とは同時であるということになるであろう。 9.「わたしは執著の無いものとなって、ニルヴァーナに入るであろう。わたしにはニルヴァーナが存するであろう」と、こういう偏見を有する人には、執著という大きな偏見が起こる。 10.ニルヴァーナがあると想定することもなく、輪廻が無いと否認することもないところではいかなる輪廻、いかなるニルヴァーナが考えられるであろうか。 これらの超論理のもととなっているのが、7節にあるように、<現に去りつつあるものは去らない>の論法なのである。ニルヴァーナに入るものは入らない、のである。束縛されている者は束縛されないのであり、解脱するものは解脱しないのである。そのようにして、束縛であれ、解脱であれ、ニルヴァーナであれ、執著することがなくなる。この空の世界での苦悩は、何ごとであれ執することから生まれるのであり、それが真理であれ、美であれ、解脱であれ、執するという点においては同じなのである。このようにこれらの詩句を理解したい。 <cogito批判> 「去りつつあるものは去らない」の論法は、これを思惟と主体との関係に置きかえてみると、意外な洞察が得られる。 第3章より 19.もしも去るはたらきなるものが、すなわち去る主体であるならば、作る主体と作るはたらきとが一体であることになってしまう。 20.またもしも<去る主体>は<去るはたらき>から異なっていると分別するならば、<去る主体>がなくても<去るはたらき>があることになるであろう。また<去るはたらき>がなくても<去る主体>があることになるであろう。 21.一体であるとしても別体によっても成立することのないこの[<去るはたらき>と<去る主体>との]二つはどうして成立するだろうか。 22.<去るはたらき>によって<去る主体>とよばれるのであるならば、その<去る主体>はその<去るはたらき>を去る(行く)ことはありえない。何となれば、<去るはたらき>は<去る主体>よりも以前に[成立している]のではないからである。実に何者が何物に去るのであろうか。 23.<去るはたらき>によって<去る主体>とよばれるのであるならば、その<去る主体>はその[<去るはたらき>とは]異なった他の<去るはたらき>を去ることはない。一人の人が進み行くときに、二つの<去るはたらき>は成立しえないからである。 24.<去る主体>が実在するものであるならば、[実在する<去るはたらき>と、実在しない<去るはたらき>、実在し、かつ実在しない<去るはたらき>と]三種の<去るはたらき>[のいずれをも]去ることがない。また<去る主体>が実在しないものであるとしても、[上述の]三種の<去るはたらき>[のいずれをも]去ることができない。 24.また<去るはたらき>が実在し、かつ実在しないものであるとしても、[上述の]三種の<去るはたらき>[のいずれをも]去ることができない。それ故に、<去るはたらき>と、<去る主体>と、<行くべきところ>とは存在しない。 例として、19を次のように言いかえてみる。 19.もしも考えるはたらきなるものが、すなわち考える主体であるならば、作る主体と作るはたらきとが一体であることになってしまう。 同様にして、 20.またもしも<考える主体>は<考えるはたらき>から異なっていると分別するならば、<考える主体>がなくても<考えるはたらき>があることになるであろう。また<考えるはたらき>がなくても<考える主体>があることになるであろう。 以下も同様である。考える主体と考える働きが同一であるとするのが、デカルトの立場であろう。ここに<去るものは去らない>すなわち<考えるものは考えない>の論理を当てはめるならば、考える主体も、考えるはたらきも、成立しなくなるのである。そもそも思考ということが不可能になるのである。考える働きと、考える主体と、考える対象とは、独立した実体としては存在しないのである。まして思考の働きによって、私の存在が生じることもない。 同じ論法は、感覚や知覚すなわち主客の関係においても当てはまる。 第9章より 3.見るはたらき・聞くはたらきなどよりも、また感受作用などよりも、先に定住しているそのものは、では何によって知られるのであろうか。 4.もしも<見るはたらき>などが無くても、かの定住する者が存在しているのであるならば、その定住せるものがいなくても、かの<見るはたらき>などが存在するであろうことは、疑いない。 5.或る物によってある者が表示され、或る者によってある物が表示される。或る物がないのに、どうしてある者があろうか。或る者がいないのに、どうして或る物があるだろうか。 5などは、主観(或る者)と客観(或る物)に関するショーペンハウアーの周知の命題そのものである。しかしここでは、主体も客体も独立した実体(自性)を持たないものとされ、相互依存すなわち空の中に解消されるのである。 <空の彼方へ> ニルヴァーナがこの世界を離れて存在するものでないならば、究極の解脱とはなんなのであるか。中村元の解説によると、 「われわれの現実生活を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。」(「ナーガルジュナ」p.245) 繋縛(けばく)も解脱も真に有るものではなく、一切は無縛無解(むばくむげ)であるとされる(上に引用した「中論」第16章の4と5)。第25章のニルヴァーナの考察において、次のように説かれる。 9.もしも[五蘊、個人存在を構成する五種の要素を]取って、あるいは[因縁に]縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。 10.師(ブッダ)は生存と非生存とを捨て去ることを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい。 19.輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別も無い。 20.ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なるいかなる区別も存在しない。 22.一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。 23.何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(「無常」と「常恒」)ではないのか。 24.[ニルヴァーナとは]一切の認め知ること(有所得[うしょとく]が滅し、戯論[けろん、形而上学的論議]が滅して、めでたい[境地]である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。 この世界における生存のあり方が、そのまま解脱の根底であり、根拠であるならば、ただ単に生存していることと、解脱との間に何の違いがあるのであろうか。動物はたしかにニルヴァーナにいたる認識(明知)をもたない。しかし、いったん明知によって空を認識したならば、ありのままの生がそのまま肯定されてしまうのである。その典型的な人物として、一休を思い浮かべるとよいであろう。何の苦悩も苦痛もなく、道端に寝そべっている飼い犬を見ると、それが大乗の言う<ニルヴァーナ>と何の違いもなく思われる。人間だけがよりによって解脱を必要とする、やっかいな生き物なのであろうか。 さらに<輪廻即涅槃>であるならば、これをある種の二重真理として見ないかぎりは、途方もなく不誠実なオプティミズムに思われる。人類は毎日何千万頭という生き物の命をとって生存している。生命はたしかに相互依存すなわち縁起において存在しており、個としての生命には実体は無いと<喝破>できるかもしれない。その認識と大乗の<慈悲>とはどのようにして調和するのであろうか。苦痛と苦悩とは世俗真理の世界に属するであろうが、それを単なる超俗真理によって、超克できたとしても、人間が実存するのは低次の真理の世界であり、絶えずそこに戻って生存を続けねばならないのである。はたして釈迦は、大乗の説くそのような解脱を説いたのであろうか。 大乗には、少なくとも竜樹には<彼岸>に渡るという超越的思考がないのである。解脱もニルヴァーナも、すべてが<此岸>の出来事である。さらに言えば相対主義者であるから彼岸も此岸もないのである。そもそも解脱する本体である自我(アートマン)がないのである。<生死を超える>という釈迦の言葉をどのように解するか、普通に考えれば、輪廻の世界である生命界を超越して、不変不滅の世界にいたらんとする、願望の表明ととってよいであろう。その究極の境地であるニルヴァーナは、生命界そのものの超克でなければならない筈である。そこに戻って世俗の生活を継続することではないであろう。この点では大乗はキリスト教とは対蹠点にある。キリスト教は少なくとも、個人の救済と共に、この世界そのものの救済を、キリストの再臨として説くのである。この世界は本来あってはならないのである。あるいは本来あるべき状態から、何らかの理由で堕落しているのである。もしニルヴァーナが個人の救済にとどまらず、世界の救済でもあるならば、決して輪廻即ニルヴァーナとは言いえないであろう。釈迦がニルヴァーナに達すると同時に、この地獄の様相を呈する世界も救済されねばならない。そのようなニルヴァーナ、涅槃であってこそ、真に世界苦からの解放といえるであろう。 たしかに自我から解放され、相互依存の世界に身を投じるならば、心の自由は生じるであろう。その心はしかし、もはや私の心ではないであろう。そこには依存心で出来あがった世界があり、その依存の関係を達観した境地には、もはやとらわれがないであろう。自他の違いもなく、生も死も同等なのであり、敵も味方も等価値なのであるから。食うものは食われ、食われるものもまた食うのであるから。生きるもよし死ぬもよし、ただ、どちらにとらわれてもならないのである。恥もなく誉もない(誉れがあるから恥があるのだ)。失敗も成功もない。進歩も退化もない。愛も憎しみも、どちらも同じである。得ることと失うことに何の違いもない。得るからこそ失うのである。救済されることと救済されないことにも、本質的な違いはないであろう。さらにいえば、自由であることと不自由であることにも、何ら違いはないであろう。自由に生きようという心に執しているに過ぎないのである。不自由の中に自由があるのである。かくしてナーガルジュナに従えば、徹底した相対観にもとづくLebensweisheit(生きる智慧)をくみとることができるであろう。 とはいえ、しかしながらである、こうした世界観はある落胆を覚えさせるのである。何ゆえであろうか。空観によれば、この世界に囚われていると感じるのは、この世界の見方が間違っているからだ、と言うにひとしい。この世界のあるがままの真相をみるならば、囚われているのは心のほうだと言うのである。しかし解放された自由な心は、この世界を美しいと思うだろうか。この世界のあり方を善とも美とも思うだろうか。確かにこの世界は美や善を垣間見させることがある。それは超越的な美や善を、この世界が反映しているからだと、プラトンやプロチノスは考えた。人間はあるがままのおのれに満足できない存在である。それを形而上学的欲求(mataphysische Beduerfniss)といってよかろう。竜樹に言わせれば、それは戯論(けろん)にすぎないのであり、解脱にいたる妨げとなるのである。思考に対する不信、反論理主義といってよい。禅宗がその典型である。中論にもその傾向が見られる、思考に混乱を起こさせることで、言語では言い表わせない境地に導こうというのである。 言語で言い表わせない境地のあることは確かであるが、形而上学もまた根源においては、そうした直知が、論理の根底を支えているのである。言葉は混乱させるのではなく、そうした境地を暗示するものでなければならないであろう。明快な思考がもたらすある種の信憑性、本質直観、それこそ明知と呼ぶに相応しいものであって、それ自体が一つの解放なのである。仏教哲学がいたずらに難解なのは、漢訳のせいもあるだろうが、逆説的、反語的であることもあずかっているであろう。 心の自由を求めるとき、たしかに方便としては<空観>は役立つ。しかし心の究極の自由は、心の本質が存在しないことではなく、心の本来の存在すべき場所に帰還することなのである。実は大衆化した仏教もそれを浄土や極楽に求めたのであり、仏教以外のたいていの宗教も、救済とは超越的世界に迎えられることなのである。心自体に本質がなければ、それらはすべて虚しい願望にすぎないであろう。真の救済を求めて、仏教もまた心の本質を空とは別に探究しなければならなかったのである。 2020年3月2日(月) 超越的人生とは 人間は身体的存在であるゆえに、両極に分離した生存を強いられている。一方では類的生命、他方では個の自律をめざす理知の働きが、互いに対立し、反目し、侵しあっている。身体的・類的生命の存在場所であるこの現実界は、物質的必然によって、個の自律を束縛し、抑圧し、服従させようとする。身体とその欲望・本能は世界内存在としての個の実存を規定しており、その限りにおいてはいかなる超越もありえないのである。この実存に対処する超越のあり方には、二種類が考えられる。一つは内在的超越であり、いま一つは文字どおりの、この世のほかへの超越、超越界への超越である。 内在的超越は、身体的実存を規定しているこの世界そのものを、どのようにとらえるかによってなされる。実存そのものを全肯定する立場から、実存そのものを無化する立場まで、いくつかの段階が考えられる。すなわち唯物論から虚無主義まで、両極端において共通するのは、この世界が問題のすべてであるという立場である。唯物論は動物をはじめ、たいていの人間において、日常的行為として発現しているものであり、わざわざ思想とするまでもないのである。Der Mensch ist was er isst.(人間とは、彼が食べるところのものである。[フォイエルバッハ])という命題にすべてが表わされている。この唯物論を、方法的に普遍妥当化したのが科学主義である。物質の法則は全宇宙、すべての人に当てはまるのである。1+1=2であることや、地球・太陽間の距離が一億五千万キロであることが、誰にも否定出来ないように、物質的事実がこの世界の真理であり、すべてであるのだ。科学的唯物論は主体と客体の内在的関係の、客体へ向けての客観的超越であるといえよう。 唯物論の対極に立つのが現象説である。日常考えるような確固とした物などというものはない。すべては観念もしくは幻影である。原子や素粒子などというものも、概念以外の何ものでもない。意識に現われている観念もしくは現象がすべてなのだ。その際、観念が単なる幻影ではなく、神や絶対者によって保証されているものとされれば、それは素朴実在論として、唯物論とさして違ったものではなくなる。すなわち現象説は、それがなんらかの本体や神などを背後に想定する限りは、超越的世界または超越的存在を前提することになる。この世界は実在そのものではなく、この実存的人生は幻であるかもしれないが、人間の中のなんらかの要素が、幻でない世界または存在者と関係しているかぎりは、この世界の存在は保証されるのである。その場合には、人間は世界内存在でありながら、同時に超越的なのである。 純粋に内在的な幻影説は、懐疑論と虚無主義と仏教の空論であろう。懐疑論はあらゆる命題には、その反対の命題がたてられるという立場であり、結局判断停止(エポケー)におもむくことになる。判断停止自体が心の平静をもたらすならば、ある種の超越ともなりうるが、行為においては基本的に不可能であろう。せいぜい優柔不断におちいるだけである。虚無主義を定義するのはむずかしい。そもそも存在者がおのれの存在を無とすること自体が矛盾なのである。さらにおのれの存在が見いだすこの現実存在の世界を、どのように無とすることが出来るのであろうか。虚無的という場合、たいてい絶望や自暴自棄の形容に過ぎないのである。絶望とは、実存の本体である生命あるいは生への意志が、せき止められたり挫折した状態であり、決してそれ自体は無ではないのである。その証拠に、虚無的であることと極端な快楽主義や行動主義と相伴うことが多い。逆にあらゆる快楽や無謀な行動への意欲を失ったとしても、生の苦悩だけは存在しているのである。その意味でたいていの虚無主義は相対的なのである。絶対的な虚無主義は絶望でもまた希望でもないであろう。そもそも人間が存在者である限りは、不可能な立場なのである。存在自体はあくまでもポジティヴであって、それを行為において否定することは、絶望でもしないかぎりは不可能なのである。死へとおもむく意志自体は無ではないからである。 虚無主義は単に価値判断の放棄であるといえるかも知れない。この世であれ、あの世であれ、いかなるものにも価値を置くことができないというならば、単なる投げやりな人生にすぎないであろう。もし積極的な意味があるならば、絶対的な価値を求めて、それをいずこにも求められないということであろう。それは絶望におもむかせるのであるから、先に述べた絶望の定義に当てはまる。ニーチェが説くような、「神の死」によるニヒリズム、すなわち絶対的価値の喪失もそれであるが、それは魂の〈死に至る病〉であるかもしれない。無としての死への憬れになるのである。しかし価値を求めることによって、絶望に至るならば、その求める心自体は無ではないのである。真の虚無主義は、もはや何を求めることもないであろう。 その無に代わるものとして現われてくるのが<空>である。この現実世界はたしかに存在する。存在するばかりではなく、それが現実的な唯一の世界なのである。ただその世界のあり方が、何ら絶対的な、確固とした独立的実体・本質を保証するものではない。個々の事象が独立して存在すると思うことが虚妄であり、幻なのである。現象界の生成消滅をそのような相対的見地で達観するならば、少なくとも現象にとらわれて生きることからまぬがれるであろう。空とはすなわち内在的に超越されたこの世界なのである。すなわち世界の本質(実相)直観によって、この世界を相対的に変えてしまうことができるとされるのである。人間の苦悩は絶対を求めることからくるのであり、その執着から解き放たれるならば、心の真の自由が得られるであろう。そこには絶対の有も、絶対の無もないのである。 以上見たように、内在的超越は、その原理からして必ずしも神や超越的存在や、超越的世界を前提しなくてもよい。しかし内在的超越においてもすでに神や絶対者や超越的世界が必要であったように、そもそも人類は古来からこの世界以外の世界を、何らかの形で要請してきたのである。それを時間的(死後の世界・あの世)または空間的(神界・天界)領域において、この世とは異なったものとしてきた。それは生命的現象と関係してくるのである。生命現象は空間的連関と時間的持続とを本質としている。個の生命もまたその本質を反映しているのであり、おのれの生命の永遠不滅を信じて疑わないのである。本来の超越、すなわち超越界への超越は、その起源において個の生命の自己肥大化にほかならなかった。その意味で個体の真の自律的超越とは異なったものであり、生への意志の範囲を出でないのである。個体の生命、生への意志そのものを克服・超越しようとするには、さらに別の原理が必要である。それが理性であることは、最初に述べた。 理性による超越は、ソクラテス・プラトンによる概念(イデア)の発見に始まるであろう。生命界とは異なった、理知によってのみとらえられる世界があるとしたのである。しかしその世界とどのようにして関係しうるかは、理性のみによっては探究しえない。プラトンもエロスをその動力としなければならなかった。理性はかりに世界の本体であるとしても、人間自身は理性そのものではないのである。理性を兼ねそなえてはいても、理性とは本質をことにする存在である。それを古代インド思想にならって、自我(アートマン)としてよいであろう。アートマン自体は複合的であり、それを純化するプロセスにおいて究極の自我が見いだされる。ウパニシャッドもすでに、純化された自我において、生命界を超越する原理を見いだしたようであるが、インド思想にとりついているブラフマン=アートマン思想をふりきることはできなかった。梵我一如であるかぎりは、ブラフマンの生み出した生命界の輪廻転生からまぬがれないであろう。 理性と理性によって見いだされる自我とは、身体的実存とは対峙する原理となりうるのである。その超越のあり方は、内面に向かうという意味ではむしろ内在的であり、しかもこの世界を超越する超越でもある。この世界を超克するには、この世界がまず内在化されていなければならない。おのれのものでないものを、おのれの支配下に置くことはできまい。内在化された世界において、その世界をさらに内部へと超越すること、それによって世界の本質も、おのれの本質も明らかになるのである。これはあらゆる神秘的宗教者の行ったことである。釈迦の言うニルヴァーナもこの境地と解したい。 この内面における探求において、もし神や絶対者がいずこかに存在するならば、そこにこそ求めるほかはないであろう。「星空の彼方に必ずや創造者がいます」わけではないのだ。無限の宇宙に畏れおののくのは、生命としての人間の感性である。理性は無限や永遠におののくことはない。ひたすらおのれや宇宙の存在そのものの本質に、驚異の眼を向けて、探究するだけである。宇宙そのものの中に救済はないのである。救済はただおのれの存在そのものの中にある。それが超越の真のあり方であり、超越が可能であるゆえんでもあろう。 2020年3月5日(木) 超越的人生と理知 自我の発現の条件として、身体的生命がある限り、自我は単なる偶然や恣意によって、この世界に生まれたり、この世界を表象界として意のままに生みだすわけではない。生命的身体という制約の範囲内でのみ、自我のこの世界での発現は可能なのである。そうであるならば、この生命界がいかに地獄の様相を呈していようとも、まさにその生命同士あい食む、弱肉強食の生存競争こそが、生命を進化させ、知性の発展を促したのであるから、あながち生命現象を全否定するわけにはいかないのである。知性はいわば地獄の沼に咲く蓮の花のようなものであり、泥土でなければ生じ得ないのである。 人間の身体はまさにこの生命界の根本原理の縮図のようなものである。汚わいな下半身と、知性の発生する頭脳との両極において、人間存在は分裂しているのである。一方では生殖器が類的生命のシンボルであり、他方では知性を宿す顔が、超越的原理のシンボルとなる。生殖器は、知性の目にはどのように観察しても醜いものであり、類的衝動すなわち繁殖行動へとただちに身体を駆り立て、生命体にとってとっておきの快楽を代償として与えることになっている。それは無意識的衝動であるから、その繁殖の目的を達するか達しないかとは、無関係に行為へといたりうる。動物で言えば、当て馬的行為であっても、性欲は充分に発現するのである。知性が働けば、むしろ繁殖を避け、快楽をのみ楽しむという、まさに人間ならではの行為が可能なのである。 生殖器は醜いとしたが、身体のなかで特別性器が醜いのはどうしたわけであろうか。実のところ、知性の目から見れば、人間の身体はどの部分も醜い。いかに芸術的に美化しようとも、なまの肉体は醜いのである。それを忘れることが出来るのは、性欲が本能的に行為や意識をあやつるからである。美意識そのものが、性欲そのものとなるからである。男性にとっては女性器が、女性にとっては男根が、あたかも食欲の対象のように欲望されるのも、すべて性欲が美意識をあやつるからである。その証拠に、性欲を満たしたとたんに、性器の美的幻影は消え去るのである。 身体のなかで顔だけは特別であると思われている。しかし個々の部分をとれば、顔ほど醜いものはない。とりわけ人間の口は、それだけ見ていると不気味さそのものである(*)。愛欲にかられない限りは、接吻など起こらないであろう。顔が崇高さを帯びるのは、そこに知性とりわけ理性の光が宿るからである。一般に身体が美感を与えるとすれば、それは黄金比のような幾何学的バランスが感じられるからである。整った顔も確かに美感を与えはする。それは人間に限らず、むしろ猫科の動物に顕著に見られる。人間の赤子と、子猫とでは、比較にならないほど子猫のほうが美的バランスにおいて勝っている。しかしそうした幾何学的美感は、たいてい心情的美感であって、必ずしも知性美を伴わないのである。 (*)口は性欲と共に生命の類的本質である食欲の器官の一部であるからだ。 知性美が顕著に現われるのは、眼と額であろう。仏像においても、瞳を入れることが重要視され、額の狭い仏像はめったにないであろう。モナリザが美的であるのは、単に微笑の故であろうか。その広い額と、見すえてくる眼の光とが、ある種の畏怖の念をかもすのである。その知的冷厳さをやわらげてくれるのが微笑であると言える。こうした知性を象徴する顔は、世の中に多くはない。美術作品はいざ知らず、実際になまの顔が常に知的美を保っていることは、困難であるからだ。顔は鏡で試してみれば分かるとおり、いかなる形相をもとりうるのだ。常に知的状態でいることは不可能であるように、顔もまた一定の状態をとりつづけることはない。 それにしても、顔は生殖器と対極にあるシンボルと考えてよいであろう。それは脳髄に最も近いところにあり、知性そのものを代表しているからである。それゆえに顔は冒とくの対象ともなりうるのである。イスラム教徒は必ず偶像や仏像の顔を落とすか削るのである。性行為においても、人間に限って、顔は欲情を駆り立て、欲情の対象となるのである。性欲は顔を征服することで、知性を沈黙させるのである。そもそも知性は性欲のような類的衝動の前では無力であるといってよい。むしろ積極的に道具として使われるであろう。それが本来の知性発生の理由であり、役目であったのだから。 それならば、知性もしくは理知はどのようにして類的意志の権化のような身体を克服し、超越することが出来るのであるか。たいていの画家は自画像を描くことを好む。よほど官能的な画家でない限りは、ゴッホにせよムンクにせよ、ほとんど美感から遠い場合が多い。また、めったなことでは自己の下半身を描かないであろう。身体のなかで唯一理知を表現できるのが顔であることから、理知を芸術的に具体化するには、顔に頼るほかはないのである。それ以外の身体部分は、すべて類的意志に支配されているのである。手そのものを精緻にデッサンするならば、そこに現われてくるのは個としての手ではなく、独立した生命を与えられた類としての存在なのである。それ故にものとしての生命の不気味さをおびてくる。類的生命と闘うには、個を強調する他はないのである。その個がもっとも顕著に表われうるのが顔なのだ。理知にとって顔は無機的に醜いほど良い。皺や濃い陰翳、蒼白さ、さらに広い額と引き締まった口もと、その上に暗鬱な眼が加わることによって、知性の闘争精神が表われる。そのような自画像あるいは肖像はそうそうはないが、そうした顔にはある種の厳粛さまたは悲壮さをかき立てられるであろう。 類のものは類へ。これが理知の闘争の合い言葉である。おのれの行為、おのれの意志や衝動が、はたして個にいずるものなのか、はたまた類的衝動に支配されたものなのか。つねにこの判断において行為することが、理知の生命界に対する超越の出発点である。もしある行為の動機が類的意志にいずるものであるならば、その判断の結果は二つの道をとるであろう。ひとつは完全なる拒否であり、ひとつは類の範囲を出でずに行為することである。トルストイが性行為を繁殖のためにのみ限ったのは、後者の例である。それ以外の性行為は、いわば類に奉仕するための報酬である快楽を個のために私服することであるから、それを潔しとしないならば、完全なる禁欲にいたるべきである。同様にして、あらゆる欲望、衝動、愛憎など、行為の原因を、類のためにか個のためにか、量りわけることによって、<則を超えない>ようにすることが、類の支配を脱するための、理知の作戦となるであろう。究極的には、類的意志の支配を脱した理知が、個の意志を生命界からの離脱へと導くことになろう。 理知の芸術や行為や思索における生への意志との闘争は、ほぼそこまでであろう。それ以上の力を理知は持たないのである。いたずらに理知を働かせるだけでは、かえって生への意志や類的意志に取り込まれるだけであり、それならば初めから、<理知にたって角が立つ>よりも<情に掉さして流され>たほうがよいくらいである。理知は実践への道筋を立てるだけであり、これは古来あらゆる<解脱>の道について言えることであり、その先には意識の浄化へといたる日常の修行があるばかりである。 2020年5月13日(水) DNAと自我の救済(1) 「あらゆる情念は遺伝的産物である(All emotions are inheritances.)」(from A Red Sunset [夕焼け考] by L.Hearn) 「美しい夕焼けをながめているときに起こる、ふつうの美的感情の中にも、人類の歴史と同じだけ古い感情の要素がある。それとない憂鬱、それとない不安は、ひとびとが悲哀と予感の思いをもって日没の景をながめてきた長い年月にわたって、遺伝してきたのである。壮麗な夕焼けのあとには、太古以来の恐怖の時間が来る。闇と、夜の敵と、亡霊の恐れである。これらや、その他の不気味な感じは、日の失われたあとの身体のけだるさとは別に、日没の光景と情緒的に結びついて、遺伝したものであろう。そして、その原始的な恐怖は、ついには進化をとげて、現代人の崇高感の一要素となったものであろう。しかし壮麗な深紅(crimson)の夕焼けとなると、崇高感よりもさらに漠とした感情を惹き起こすようである。それは、まぎれもなく不吉な感情である。その色彩そのものが、火山の頂の赤光、溶岩の赤く燃える色、森林火災の猛威、戦禍の中で焼け落ちる都市の景、燃え残る廃墟、火葬の薪の炎など、単に畏怖すべき光景と結びつくがために、特殊な種類の遺伝的感情を呼び起こすのであろう。そして、この破壊者としての火の、ぎらつく人類の記憶の中には、北欧人の空想の中の<むさぼり食う亡霊>めいて、苦痛をともなう灼熱の祖先の体験から発展した、ある漠とした不安、ある有機的な恐怖が、入りまじっているのであろう。」(同上) * * * 経験論の原則として、経験すなわち知覚のうちに無いものは、心の中に現われないとされる。経験はすべて個人的経験なのである。この経験の蓄積されたものが記憶なのであるが、当然ながらこの記憶も個人的な記憶であるとされる。経験以前には、心の状態は白紙(tabla rasa)なのである。このことは感覚のみならず、あらゆる心的働きについて言いうるとされる。思考・情念・意志もまた、白紙の状態から始まるのである。デカルトの言うような先天観念(innate ideas)などはない。カントの先験的認識論においても、内容のない概念は空虚なのであり、経験がなければ心の中は空(から)なのである。 このような経験論の伝統的な考えに革新をもたらしたのが、進化論であり、その心理学・生理学・遺伝学への応用であった。人間の心自体が生物進化の産物であり、その進化の痕跡を心の内部深くにとどめているのである。この心的進化論の思想や文学における影響は大きかったと言えよう。経験の意味が新たに問い直されねばならなかったからである。人間の心的活動は個人の経験レベルにとどまるのではなく、先祖の経験、あるいは過去の生物進化の過程によって、強く影響されているのである。このことの洞察は、個人の魂に大いなる衝撃を与えるばかりでなく、そもそも個人とは、自我とはなにかの、本質的問題に甚大な影響を与えることであろう。 今から百年以上も前に、L.Hearnはこうした進化論にもとづいた洞察を、夢の中の飛行や、超自然的恐怖や、闇のおそれといった特異な体験から導いている。それらの体験の内面的深さ、濃厚さが、思索を遠くまで運ぶのである。一見単なる文学者の詩的な思弁と思われることが、今日の遺伝学によってその根拠を与えられている。あらためて読み直されるべきであろう。ここではHearnの言う"有機的記憶(organic memory)(*)"に関連して、DNAと自我の関係を考察してみたい。 (*)もとはハーバート・スペンサーの用語。過去の生命体の遺伝的集積としての記憶をいう。cf. Victrian Philosophy in"On Art, Literature and Philosophy" by L.Hearn 先祖の記憶、あるいは人間以前の段階の生命体の記憶が、そのままに遺伝するかどうかは、獲得形質(環境の影響)の遺伝の問題として、かつては論外とされてきた。キリンの首が伸びたのは、高いところにある葉に届くように意欲したためではなく、首の長い個体が生き延びた自然選択の結果である。個体の個としての経験(あるいは身体や器官の用不用)が遺伝することはないのであるとされた。最近の遺伝子の研究では、DNAの塩基配列の中で圧倒的に多くの部分が働いていないのであるが、その部分にスイッチが入ることによって、思いがけない過去の経験が開かれることが明らかにされつつある。過去の極めて具体的な経験が、DNAの中に保存されているのである。野鳥のヒナは、猛禽の影が空をよぎると、本能的に身をひらたくする。そのイメージと行動パターンが、遺伝的に伝えられているのである。こうした行動が自然選択によって起こったとは思われない。間違いなく獲得形質なのである。 イメージとそれに対する反応が遺伝することは、情念や感情において、最も顕著に現われるであろう。物に対する好悪、愛着と嫌悪とは、その理由が説明できない場合が多い。なにゆえに蛇や蜘蛛が嫌われ、蝶や小鳥が好まれるか。なにゆえに闇が恐れられるか。なにゆえに青空は憧れをよびおこし、夕焼けは不安や不吉の念ををかきたてるか。これらは単純に個人の経験から説明できるものではない。またそれらの好悪が、自然選択の結果であるとは言いきれまい。黄色を好む個体が、よく木の実にありついたため、生存に有利であったと言うことではあるまい。環境に適応するパターンは、単に自然選択によるばかりではなく、なんらかの"有機的記憶"のメカニズムによるものなのであろう。個体の経験は、DNAに何らかの影響を与えるのであろう。それによって進化は加速されるのである。さもなければ、狼はわずか数万年で犬になることはなかったであろう。 われわれの情念や思考や行動パターン、われわれのあらゆる心的・身体的活動が、"有機的記憶"すなわち遺伝的記憶によって支配されているならば、そもそもわれわれが個人の自由意志によって活動していると思っていることの大部分が、実は先祖の行動パターンをなぞっているのに過ぎないことになる。私の怒り、私の喜び、私の好み、私の憎しみ、私の愛情は、実のところ<わたし>のものではないのである。これらの感情のどこに、私の Self などというものがあるだろうか。それらはみな先祖の感情そのものなのである。すなわち私の感情のすべてが類的感情なのである。そしてそれらの感情や意欲に基づいて、私が行動することのすべてが、先祖がふるまったとおりの振る舞いなのである。同じことは私の思考についても言えるであろう。私が考えることはすでに先祖が考えたことである。どこに私の思考の独自性があるだろうか。私は類的に思考するほかはないのである。その端的な表われ、制約が言語であるといえる。 人間の心的・身体的活動が、このような有機的記憶のバックグラウンドの中でしか行なわれえないならば、個としての存在、自我とはどのようなものなのか。生命は北欧神話での世界樹(ユグドラシル)にたとえることができよう。原始生命の根から進化という幹が生じ、類や種という枝を張り、個々の葉を茂らせ、個々の花を咲かせる。葉や花にとっては、世界樹という生命の根幹がなければ、その存在を保つことはできず、またその営み自体が世界樹の存続にとって欠かせないのである。この生命界全体の有機的関係が、個の存在において集約されているといえよう。個体とは生命現象の最先端にあって、生命の全進化を代表しているものといえよう。個としての人間も、その例にもれないのである。個人としての人間は、生命界の全進化を集約した存在なのである。それゆえに、人間はいかに自由自在にふるまおうと、生命がかつてそうであったように、また現にそうであるようにしか行為することは出来ないのである。花の種子が、その中に植物の全可能性を包含しているように、人間もまたおのれの中に生命の全過去を包含しているのである。そこにはSelfなどというものは幻でしかないのである。生命の領域では、いかにエゴイスティックにふるまおうと、それは少しも自我の独自性ではないのである。私が残虐にふるまうのも、愛情にとらわれるのも、いつくしむのも、憎むのも、怒るのも、笑うのも、それは私であって私ではないのだ。暗い深淵から、ほとんど無意識の記憶にあやつられた衝動が、あらゆる場合に私の行為を突き動かすのである。すべてが、<有機的記憶>のなせる業である。それがそもそも生命なのだ。 もし一個の生命体に固有の個性というものがあるならば、遺伝子に新たに加わった獲得形質以外にないであろう。すなわち先祖から受け継いだDNAが個人的経験によって、なんらかの付加物を得て変様することにより、その個体特有の形質を得るということである。それが進化にとって有利か不利かは別の問題として、個々の体験はその個体特有の遺伝子を生みだすのである。とはいえ、それはあくまでも遺伝子という類のレベルにとどまるのであり、それが真の意味での個性であるとはいえない。遺伝子とその表現型を変えたからといって、それが私の個性になるわけではない。それは子孫にとって意味があることだからである。これは突然変異や遺伝子操作についてもいえることであり、新たな種が生まれたり、創造されたりしても、それが個性であるのではなく、再生産可能であることによって、類に貢献するものである。私の唯一無二性は、遺伝子のレベルでは存在しないのである。その意味では、自我は生命界には存在しない。ただ個体としての生命体があるだけである。 そもそも遺伝子型とその表現型とは、どのようなことなのか。遺伝の最小単位であるDNAの塩基配列(ゲノム)そのものは化学物質であり、その化学反応によって生命体の身体の発生において、なんらかの特定の形質が現われることを、表現型としてよいであろう。その際、現われる形質は、単なる機能である場合と、感覚や知覚のように、ある質をもった表象である場合があるであろう。膵臓や腎臓の働きなどは、それ自体表象として現われるわけではなく、単に化学的プロセスとして表現されるだけである。すなわち単なる概念的メカニズムとしてとらえるほかはない。それに対して、感覚や情念や意識などは、それらがどのようなゲノムによって発現に至るかは定かでないとしても、表現型としては単なる働きやメカニズムではなく、具体的な質を持ったなんらかの現われなのである。すなわち表象としての世界がそこに現われてくるのである。特定の色彩、例えば黄色が、どのようなゲノムの表現型であるにせよ、それは単なる化学反応ではないのである。つまり、遺伝子とその表現型との間にも、基本的にパラレルな認識問題が生じてくるわけである。遺伝子の世界は物質界の出来事であり、充分に物理・化学的に扱うことができるが、ひとたびその表現型の世界になると、とりわけ脳内のプロセスである認識の領域では、表象としての独立の扱いが可能になるのである。 問題は、物質と精神もしくは魂の、古来からのパラレリズムに引き戻されるのである。その中心にある自我もまた、この問題に取り込まれていく。自我はたしかに身体と結びつくかぎりは、身体の形質のすべてを支配する遺伝子の完全な支配下にある。知情意にわたって、自我は遺伝子の産物なのである。私が自由に感じ、意欲し、思索することは、すべて生命の発生以来、遺伝子にこめられてきた、あらゆる可能性の発現に過ぎないのである。生命現象は完全なる決定論の世界なのである。環境はその決定因子の集合にすぎない。自然選択とは自由な選択ではなく、遺伝子と環境因子との相互作用にすぎない。われわれがなにかを選択したり、決断するときも、遺伝子の命じるところを、環境因子に適応させているに過ぎないのである。そこには自由な自我などはなく、そもそも自我の名に値するものがないのである。 この決定論的な生命界における、自我の自由の唯一の可能性は、自己意識に求めるほかはない。しかし意識そのものも、遺伝子型(ゲノム)の一つの表現型であるならば、そこのどこに自己意識の自律性があるのだろうか。身体現象には、つねに<わたしの>という意識が伴う。さもなければ、身体の自己保存は不可能になるであろう。この意識を欠く精神病者は、自己の身体を傷つけても、苦痛を覚えないであろう。この限りでは、<わたし>という意識は生命現象に特有な産物であり、特に高等な動物には欠かせないであろう。この<わたし>の意識はきわめて機能的であり、それ自体で何らの意味を持つものではない。動物は、あるいはたいていの人間も、<わたし>が<わたし>であることに、さしたる意味を覚えない。あくまでも私の<身体>が大事なのである。身体とは生命そのものであり、その真髄であり、生命進化の集約である。<わたし>とはそれに付随する、お守役にすぎない。 私がこのような私であるかぎり、私には自由がなく、私は単に生命の、すなわち遺伝子の、くぐつにすぎない。そのような私を、ふとふりかえるとき、私は私自身の存在の不可解性に気づくことがある。いわば身体から遊離した私の存在に気づくのである。このような意識には、おそらく理知の働きがかかわっていよう。理知もまた、特定のゲノムの表現型とみなすことができるが、通常は認識のカテゴリーにしたがって、事象を判断する機能である。その理知がふとおのれの存在に目を向けるとき、そこに不可解な自我を見いだすのである。不可解ということは、理知の判断のカテゴリーに属さないということである。理知はおのれの身体に属することならば、私の感覚、私の情念、私の意志、、私の考え、それらのすべてを解明し、理解することが出来るであろう。遺伝子を解明するのも理知であり、理知自身がなんらかの遺伝子型の表現型であることを理解するのも、理知そのものである。その理知が自己意識に向かうとき、はじめて身体とは異なった異様な存在である、自己そのものに突き当るのである。理知は生命そのものについては、そのすべてを理解できるであろう。しかし、おのれの存在そのものだけは理解できないのである。おのれの存在について驚き、いぶかしみはしても、それ以上の何事についても知ることのできない、この<わたし>の存在が。 ここに、あまりにもよく分かっていながら、しかも不可解である、純粋な私が見いだされる。生命の道具によっては、私そのものは理解できないのである。私はただ私の身体を理解するだけである。たとえ私がなんらかの遺伝子型によって発現するとしても、私は私そのものを理解する遺伝子型をもっていないのである。生命体にとって不可解な私が、私の本質なのである。そこに私の唯一無二性があり、私の自由・独立性がある。すなわち、唯我独尊なのである。純粋自我のみが、真に私の本質なのであり、絶対の価値を持つものである。 2020年5月26日(火) DNAと自我の救済(2) (1) 前回は結論を急ぎすぎて、純粋自我の弁明が不充分であり、ドグマのような印象を与えたであろう。この点をさらに究明する。 遺伝的要因と環境要因が、人間の形質、すなわち心身にわたるあらゆる性質を形成し、個人の運命を決定するものならば、人間の一生は遺伝的に祖先の生活のコピーに過ぎないことになる。個人はどのように行動し、行為しようと、その動因である性格は、遺伝的に祖先のそれと同じであり、祖先が意欲し、感じ、考えたとおりに、与えられた環境の中で反応するしかないのである。それは遺伝子を、二親から半分ずつ受けとることとは無関係である。遺伝とは、全体であろうと、半分であろうと、すでに出来上がったDNAを継承することであるから。単に組み合わせによっては、いかに複雑多岐であろうとも、将棋のルールと同じように、遺伝のルールを越えることはできないのである。また、そこに突然変異が生じたとしても、例外的であって、遺伝子のほとんどすべては変化しない。突然変異は、個体にとっては遺伝子の欠陥もしくは特異性に過ぎないのである。それが意味を持つのは環境との関係において、有利であるか不利であるか、すなわち個体の適応の問題である。それが個体として新しい種を残すかどうかが、進化の要因となるのである。 それよりも、環境的要因による、遺伝子との相互作用が個人の運命をより支配するであろう。すなわち獲得形質である。獲得形質自体は、生来の遺伝子の基礎の上に形成され、遺伝的要因が発現を促進され、あるいは阻害されることであり、それが最終的になんらかのメカニズムにより、遺伝子の中に組み込まれることである。その点では、やはり先祖代々の遺伝の基礎の上に成り立つのである。人間は、どのような素質を持ち、どのような環境・境遇に置かれようとも、やはり遺伝子のくぐつであり、祖先のコピーであり、祖先と同様の運命をたどるか、それを発展させるかの、他はないのである。これが人間の一生である。すなわち種としての生命体の運命から、のがれることはできないのである。 もし生命体に個性というものがあるならば、単なる遺伝子の組み合わせのvarietyに過ぎなかろう。その組み合わせがいかに複雑で、無限に近く可能であるとしても、所詮多様性の問題に過ぎないのである。個性とは個体の多様性の謂いであり、いろいろあっても、結局は根源の要素の複合に過ぎないのである。その根源の要素は確固として動きようがない。もしそれが変われば、生命ではなくなるからである。それはチェスのルールが撤廃されれれば、チェスのゲームでなくなるのと同様である。チェスのゲームにおける指し手の個性とは、さまざまな手を工夫するだけである。しかもたいていは、すでにあるパターンの模倣である。生命のゲームにおいても同様である。 遺伝子(DNA)というものをコンピューターのソフトにたとえるならば、生命という機械装置は、将来のロボットがそうなると予想されているように、遺伝子のソフトでもってハードそのものを再生産できるのであり、同時にその機能を決定するプログラムでもある。個々の生命体は、生命界というある種のコンピューターが自前で生み出した、再生可能なロボットなのだ。このように譬えるならば、人間をはじめとした、個々の生命体が遺伝子のくぐつであるということも、具体的に把握できるであろう。人間は、あらゆる生命体と同様、遺伝子というソフトなしには、いかなる行為もなしえないのである。生命の特異性は、このソフトを代々繁殖という行為によって、子孫に伝えていくことができることである。何億年も同じソフトで生き延びている生命体もあるであろう。今も太古も、同じソフトで同じ営みを続けているわけである。もし環境との相互作用において、あらたな行為の可能性が生まれたとしても、それは単にソフトの書き換えに過ぎないのである。その書き換えが進んでいくことを、進化とよんでいるのであるが、大本のソフトは何億年も変わらないのである。 (2) 私がなにかを意欲し、なにかを感じ、なにかを考え、なにかの行為に走るならば、それは私の先祖がしたとおりのことをしているに過ぎない。これが身体的、遺伝的生命としての人間の運命なのだ。それならば、私はなにゆえに私の身体、肉体などにこだわるのか。それは私のもののようでいて、私のものでなく、祖先に共通のものなのだ。私が考えるのではなく、祖先が考え、私が欲情するのではなく、祖先が、生命が欲情しているのである。そのような私とは、一体何ものなのだろうか。私は私の身体とそのさまざまな現象を、私のものと思いこんでいるに過ぎないのだ。そのように身体と密着して現われる私は、また身体そのものではないのか。あるいは身体に隷属する、奴隷のようなものではないのか。奴隷は他人の身体に代わって労働するものであるが、私とは身体に使用されているなんらかの従順な、自発的道具なのであるか。私が私として機能するのも、なんらかの意欲と結びついているからである。意欲は身体的生命そのものであり、生命の根幹であり、その強弱は遺伝によって左右され、身体内部の心的形質、すなわち性質や性格をとおして、行為として発現する。私は一見その操縦者のように思われるが、実は単なる一連のプロセスの付随的現象に過ぎないのだ。私の行為をあやつっているのは、遺伝的要因と環境要因の相互作用の生命的プロセスそのものなのだ。だから私などというものは、私の生命活動にとっては、時に不必要なのであり、私はわれを忘れたり、無我であったり、無意識であったりするのだ。 もし身体的生命そのものから離れることが可能な私があるならば、その私はどのような私でなければならないか。私が生命活動にとって不必要であるとき、私は単に消え去るのであるか。あるいは、そこにもなんらかの私が残されるのであるか。これは自我意識にとっての根本的な問題である。私が生命の陶酔や興奮に取りこまれているとき、私は全面的に無我夢中であるのか。その際、私の中、あるいは私の意識の中には、ある肉体的・生命的意欲とは別の原理が働いていることに気づくであろう。私は私自身の生命的・肉体的興奮に対して、冷静に、反省的に働いている、ある原理を見いだすのである。それが理知による反省(reflection)である。すなわち肉体の働きに対して反射的に反応する、ある上位の働きである。この理知そのものは、しかし私の意識とは別物である。行為する私があり、その私に気づいて、考え、反省する私がある。さらに、この考え、反省する私に気づいている私がある。このように理知もまた、ある種の身体の上位の機能であるが、私そのものではない。私の<頭>が考えるのである。私は私と生命的身体とを、通常は区別できないのと同様に、考える私と私自身とを区別し難い。しかし、理知によって反省することによって、私は私の存在に気づくのである。この反省的自我は、理知によって媒介され、理知によって発生するのであるが、やはり身体とむすびついている以上、身体の宿命からまぬがれない。私の思索は、身体から離れた私自身を認識するカテゴリーを持っていないのである。そのかぎりでは、私が見いだす私は、(意欲する私が、つねに情念や気分としての私でしかないように)、つねに考える私、すなわち身体的・生命的私でしかない。すなわち脳の<機能>でしかないのである。しかし私について前進するには、反省的私を経由するほかはない。 思索自体は一個の意欲である。意欲である限り、生命の遺伝的くぐつであることをまぬがれない。それに対して、思索によって見いだされる自我、すなわち反省的自我は、反省そのものにおいて意欲であるが、反省の主体ではなく、純粋に客体としてみたときに、それ自体は思索でも意欲でもない私としてあるだろう。私が私であるという、単なる意識である。あるいは意識が主体と客体との両極分離を含むものならば、志向性が主体の側にあるとして、志向性を欠いた意識の客体の側であるといってよかろう(*)。すなわち純粋な自我意識とは、私であると同時に純粋な客体として、無欲、無意志でなければならないだろう。いわばこの世界の認識にいっさい関与することも、影響されることもなく、ただ虚空にあるとだけしか言いようのない、無色透明な存在である。あるいは形而上学的に言えば、この世界の成り行きには、いっさいタッチしない神霊のようなものである。この絶対の無関心、無関与の存在が、純粋自我であるといえよう。この神のような純粋自我が、何故に、いかにして生命的・身体的自我として、この生命的宇宙に取りこまれていくのか、これは永遠のミステリーであるが、少なくとも、その逆の過程である、純粋自我のこの宇宙からの解脱については、あらゆる神秘家が努力し、修行したところである。 (*)これを自同律(同一律)の問題として考えるならば、<私は私である(A=A)>ということは、<私が私である(A=A)>と認識するための、さらに私=Aがなければならない。純粋論理においてはA=Aでしかないが、自己意識においては、<私は私である私だ(A=(A=A))>が成り立つであろう。純粋自我とは、この二重もしくは多重の自同律において、自己自身をどこまでもとらえられないAとして客体化することであるといえよう。 自我はしかし何故に解脱を望むのであるか。自我が身体的・生命的自我である限りは、これは自己矛盾というほかはない。この自我の<転向>をそそのかすものが、やはり理知なのである。理知は生命の産物でありながら、生命と対抗しうる原理でもある。これはこの宇宙そのものに根本的に仕組まれている矛盾の要素といえよう。生命は絶対的肯定であるが、すなわち種の存続と個体保存の他には、その本質を持たないのであるが、その道具である理知は、フィードバック機能である故に、生命に対してある種のコントロールの役目を与えられているのである。アリストテレスはそれを目的論的に表現したが、知性体においては、単なるフィードバック機能である理知は、目的論的に現われるのである。この理知が、この宇宙、この生命界そのものに反省を加えるとき、生命に対して抑制的にはたらき、あるいは生命に敵対的にふるまい、ひいては自我を内面へと向けさせる契機となるのである。頑迷な生命的自我が、理知の言葉に素直に従うことはこの上なく困難であるが、生命そのものが危殆に瀕するとき、自我が頼ることが出来るのは理知の他にはないのである。この救済者としての理知の働きこそが、反省的自我の出発点なのである。 理知は本来、この生命、この生命界をより良くし、救うことを使命としているはずであるが、この世界の根本の矛盾に突き当たり、根本の悲惨を認識するとき、もはや理知そのものが、この世界を見放すことがあるといえよう。一つにはこのペシミズムが理性界や純粋自我の探究におもむかせるのであるが、さらには生命界とは異なった絶対の原理の探究が、超越的世界の希求へと生命そのものを駆り立てることがあろう。これは不思議な生命界の矛盾である。あたかも生命が自己自身の否定へと動くかのようである。生命がより良い生命を求めて、自己自身を否定するのである。たぶん生命はあまりにも多くの〈死〉を背後にしてきたために、自己自身の死以外には、自己自身の存続を考えられなくなっているのであろう。自己自身を否定することは、新たな生につながるのである。それ故に、生命は甘んじておのれ自身を否定する原理を肯定するばかりか、進んで協力するのである。それに対する<エロス>すら提供するのである。死によって<永遠の生命>を得るという宗教の発想もここに出でていよう。進んで命を犠牲にして、絶対の生命を得るのである。純粋自我、絶対の自我の探究もまた同様であろう。生命を超越しながら、実は絶対の生命を求めているのかもしれない。それ故に、それは単なる無ではないのである。この宇宙が求めるところを、私もまた求めているのである。私が救済されることは、この宇宙が救済されることでもあるのだ。それが真のニルヴァーナであろう。 他方、純粋自我の探究において、ある恨みがましさ、反動が感じられるならば、それは自我自体の純粋性とはほど遠いものである。ある種のネガティヴな情念が、自我を自虐的な自己否定へとあやつっているのである。自我自体は無欲であり、あらゆる情念から解放されていなければならない。そこに生命への執着、ある恨みがましさが生じるならば、それは動物的、遺伝的自我のなせる業である。純粋自我の状態においては、もはやそこに何の意欲も働かないがゆえに、無の状態に到達しているはずである。もはや純粋自我を求めることすらないのである。そこにおいて自我の探究は究極の達成に至るのである。 2020年6月10日(水) ヴァーチャル・リアリティーとしての世界 コンピューターによって構成された仮想世界が、ある種の現実に近い構造を持っていることは、この世界を、コンピューターになぞらえることを可能にする。この世界は量子力学的に構成された量子コンピューターの生み出した、仮想現実であるとするものである。量子は粒子であると同時に波としても発現する。この現象の解釈については、オーソドックスなコペンハーゲン解釈や、パラレルワールドなどの、さまざまな理論がある。ヴァーチャル・リアリティーもその一つである。本来波としての量子は、観測という事態に応じて、粒子の姿をとる。それが最も効率的な世界の構成法だからである。観測が行われなければ、世界は曖昧模糊とした、確率的波動の状態でしかない。物質はいわば、誰にも見られていないときには、時間・空間的に漠然と広がった波でしかないのである。それが粒子性を帯びるのは、ある種の秩序化であり、構造化である。 粒子として秩序づけられた物質は、もはや物質本来の姿ではないであろう。観測者がそれを見ていることによって、初めて現われる物質の姿であり、構造であるからだ。このような構造化は、コンピューターのソフトに等しいであろう。量子コンピューターとしてのこの世界は、物質を粒子として現わしだすソフトによって、個物の世界を生み出しているのである。しかも、観測者が世界を観測するという条件においてである。月はだれも見ていないときにも、月のままであると、アインシュタインは考えたようであるが、月は私が見ていないときには、まったく別の姿をとっているであろう。観測者がいなくても、世界はなくなりはしないが、その世界の様相は、まったく想像のつかないものであろう。 われわれが見るような世界を現出させている、量子コンピューターのソフトは、一体どこから由来するのであろうか。それを文明が限りなく発展した、未来人のものと考えるむきもあるようだが、世界そのものにその起源を求めてよいであろう。この世界のあらゆる法則は、宇宙発生と同時に成立している。宇宙の開闢と同時に、このヴァーチャル・ワールドのソフトも仕組まれたのである。そもそもインフレーションやビッグバンも、ソフトがなければ起こりえないであろう。無慮無数の宇宙が、無慮無数の設計図に従ってビッグバンを起こし、たまたまこの宇宙では、量子コンピューターとしての世界が成立し、ヴァーチャル・ワールドを生み出したのである。 人間の認識するこの世界が、ある種の幻であることは、古代の思想家がつとに見いだしたことである。自然科学は幻や錯覚ではない、確固とした現実を探究してきたのであるが、その究極の理論である量子論にいたって、古代人の洞察に帰ったといえよう。感性界であれ、表象界であれ、今日の用語では、仮想現実の世界なのであり、それ自体が世界の本質の現われであるのではない。とはいえ、この宇宙そのものが生み出したものは、この宇宙の本質に属するのである。この宇宙に知的生命体として生まれたからには、この仮想現実を相手にするほかはないのである。 そもそもこの仮想現実を生みだすソフトは、どこから由来するのであろうか。古代の思想家は、その根源が理性界(イデア界)であると考えた。現実はたとえヴァーチャルであれ、理性的なのである。すなわちあるプログラムにしたがって作られているのである。宇宙にどのようなプログラムが仕組まれるかは、まったくの確率的偶然であって、この世界がたまたま整然とした論理をもつように見えるのも、そこになんらかの意図が働いているわけではない。言ってみれば、宇宙の創造者は、無慮無数の宇宙の創造を、純然たる偶然に委ねたのである。それが神の唯一の意図であるといえるかもしれない。そして、たまたま、ある程度うまくいったこの宇宙を、嘉したのであるかもしれない。少なくとも、知的生命体は、そのような幸運がなければ、生まれないのであるから。 人間はみずからコンピューターを作りあげ、ソフトを工夫し、さらに人工頭脳(AI)を創造して、この宇宙の創造の真似事をしたことによって、あたかもこの宇宙そのものが、なんらかの知性体によって作られたかのような錯覚におちいる。人間の知性もソフトの産物なのである。世界の本質自体は、コンピューターでもソフトでもない。それは不可知の存在(The Unknowable)である。人間にとっては無に等しいのである。人間はこの宇宙しか知りえない限りにおいて、この宇宙の紡ぎだすヴァーチャルな世界を、決してのがれえないのである。 2020年7月11日(土) DNAとイデア 生命体は、あるいは生命体を構成する単位である細胞は、自然の精緻でごく微細な化学工場である。細胞はわずかな狂いもなく自己増殖をつづけ、動植物の身体とその機能とをつくりだしてゆく。そこには当然設計図がなくてはならず、遺伝子すなわちその本体であるDNAが、生命体の設計図であることが明らかになっている。DNAがどのように形成されたかはひとまずおき、すでに形成されたDNAという生命の身体の設計図に従って、動植物の生成と発展の全過程が整然と行われる。すべては原子・分子・無機物・有機物の化学反応の法則と過程に従うのである。そのさい有機物が中心となって行われる化学反応が、生命現象を生みだすのである。 この驚異的な生命体の発生と増殖のメカニズムは、基本的には工場生産の論理に従っており、それがごくミクロの世界で、自然発生的に行われていることに、一種畏怖に近い驚きを覚えるわけである。人間の工場でも、すでにロボットが生産に投入されており、行く行くは工場自体が生命と同じように自己増殖することが可能である。そのさいDNAにあたるプログラミングの複製も容易であろう。DNAもプログラミングも、単なるコピーの機能を与えられればよいからである。プログラム自体は、そこにコピー機能をしこめば、無数に自己生産することができよう。このプログラムを自己複製するプログラムを仕込むのは、製作者の人間である。DNAに関してはどうであろうか。同じことが、なんらかの作り手に関していえるであろうか。人間のすることからの類推を、自然界に及ぼすのはあやういであろう。 DNAが細胞分裂や身体形成に至るまでの生命体の総設計図であることに疑いはなかろうが、そのプログラミングを仕込んだものは、すなわちDNA自体の生成はもちろん、DNAが機能しうるためのさまざまな付帯条件は、どのように成立するのであろうか。DNAがRNAに転写されること自体は、はたしてDNA自体のプログラムによるものなのか。DNAがヒストンというタンパク質に巻きつくことは、果たしてDNAに書き込まれているのか。もしそうでないならば、さらにDNA以前の設計図すなわちプログラミングが必要になるわけである。あるいは細胞自体の中に、そのようなプログラミングがひそんでいるのであるか。そうならば細胞自体を作る設計図がなければならないだろう。それはもちろんDNAではない。そのような設計図を見いだした科学者がいるであろうか。寡聞にして知らない(*)。 (*)生命の発生についてDNAが先か、タンパク質が先かという、卵と鶏の問題があり、最近ではRNAの役割が注目され、RNA・DNA・タンパク質という順に生命のメカニズムが誕生したと考えられている。RNAが生命の大本の設計図であるということになる。それがDNAに設計図の役を譲ったのであり、以後はもっぱらコピー役にまわったことになる。 生命はそもそも、生命自体の設計図に従って発生したわけではなかろう。物質界の無機的・有機的反応の過程において、偶然に生命的過程が出来したに過ぎなかろう。そこには特にこれといった設計図はなかったであろう。一度発生した生命はむしろ自ら設計図を作り上げていったかもしれない。設計図自体が生命の産物なのである。それはロボットやオートメ工場が人間の製作物の延長であるのと同様である。このように見るならば、設計図自体に設計図がある必要はないであろう。設計図があると考えるのは、生命や人間が設計する存在であるからにすぎないであろう。となれば、生命そのものや、そもそも宇宙に、設計図などはなくてよいことになろう。 生命体はミクロの世界の現象のマクロ的産物であるが、マクロの世界そのものについても、同じ論法が成り立つであろう。宇宙は四つの力(強い力、弱い力、電磁力、重力)という物理法則によって成り立っている。それが根本の設計図・プログラミングである。これらの力をめぐって、相対論、量子力学、ニュートン力学などの、理論的設計図によって、宇宙の構造や成り立ちが明らかにされている。宇宙はあたかもそれらの設計図に従って、自発的に発生し、発展し、自身を構成してゆく、とてつもなく巨大な工場と見なしうるかのようである。さらに生命と同じように、自己複製さえ可能であると見なされている(多元宇宙、孫宇宙など)。しかし、これらの宇宙論は、この宇宙において根源の法則とされているものから、推論された宇宙のあり方である。相対論や量子力学やは、たしかにこの宇宙のあり方を記述しうるが、はたして宇宙自体とその設計図を記述しうるであろうか。そもそも宇宙自体に法則と称される設計図やプログラミングがあるのであろうか。あるとしても、それは決して見えないであろう。それは生命を設計するものが見えないのと同様である。誰も宇宙以前について語ることはできないし、生命以前の設計図について語ることはできないであろう。生命があるから設計図(DNA)があるのであり、宇宙があるから、その設計図(四つの力)があるのである。 ここまで不可知論のようなことを論じたのは、この問題の根本はすでにプラトンのイデア論に現われているからである。イデアは基本的にこの世界のものではない。その発想の起源において、概念の発見ということが伴ったために、感覚界との関係が考慮されねばならなかった。感覚・知覚がとらえるものは、形体であれ性質(質料またはクオリア)であれ、イデアを宿しているか、せいぜい影のようなものとされた。イデアは実質においては、パルメニデスの<有>と等しく、生成変化するこの感覚世界とは別の存在なのである。中世において、唯名論者がネガティヴな形で表現したように、普遍概念としてのイデアは、単なる風の音のように空虚なものである。事物の側からイデアを考えれば、そのような抽象物に過ぎないであろう。イデアは事物との関係において<発見>されはするものの、一たび発見されたイデアは、むしろ事物を根拠づける関係においてとらえられるのである。事物が知覚され認識されるのは、知性が事物に内在する、あるいは事物が分有する、イデアの影もしくは模造をとらえるからである。範型としてのイデアが論理的に先行する。イデアは本来事物ではなく、認識する知性の中に(想起として)、さらには個の知性を超えた<叡知界>に存在するのである。 しかしイデア界は単なる超越的存在でも神でもない。あくまでもこの世界の範型なのであり、事物との関係において存在し、認識の根底となるものである。それ故に、抽象に抽象を重ねることにより、イデアのイデアというような考えも出される。このように概念の階梯として考えられたイデアは、最高のイデアという発想にいたり、ついにはそこから、この世界が<流出>するにいたるのである。 このようなイデアは、宇宙および人間の設計図すなわちプログラムそのものと考えることができる。<四つの力>もDNAもその一貫である。この点で宇宙以前、生命以前の大本の設計図がイデア界として存在していることになる。しかし完全なる存在としてのイデアからすれば、宇宙も人間も、たとえイデアにしたがってプログラムされたとしても、不完全な存在である。その原因をプラトンやプロチノスは物質や感覚(ひいては生命体)に見いだしている。そこから二世界論が生じる。この世界はイデア界にしたがって設計されてはいても、イデアそのものではない。イデア界から授かった設計図によってこの世界は出来あがっていても、イデア界はまったく別世界であり、通常は不可視なのである。さらに言えば、この世界がある法則を持っているからといって、それがそのままイデア界には当てはまらないであろう(DNAでいえばコピーミスということもあるのである)。そうであるならば、この世界の設計図と法則はこの世界においてのみ意味と有効性を持つのである。無常迅速のこの世界とは異なり、イデア界は不変不滅である。ただ神々とのみ観照可能な、永遠の実在界なのであり、すなわち、それについて何一つ具体的に語ることは不可能な世界なのである。たとえ人間知性がそれを想起したり、影として見いだしたとしても、究極のところは不可知なのである。 イデア論はこの世界の根源を問うことになったとき、原因であると同時に超越的な世界を確立せざるをえなかった。アリストテレスのような妥協は許されない。もしイデア界とこの世界の関係を絶対視すれば、ドグマと化してしまい、ドイツ観念論と同じ事態になるであろう。相対化すれば、不可知論に到達するほかはない。現代の宇宙論も同じジレンマに到達していよう。宇宙の究極を問うとき、<無からの創造>などということに逃れる他はないのである。イデア論は無ではなく、絶対の<有>を根源に置くことによって、この世界を相対化し、無化したのであるが。 2020年7月27日(月) 快楽・心情・理性・超越自我 自我論の最終的帰結にして、窮極的実践 生命はまず快楽をもって始まる。あるいは物質そのものが、快楽自体であるエネルギーの産物であるならば、宇宙そのものが快楽でもって始まる。ビッグバンという、とてつもない快の爆発によって宇宙は開闢し、その後余燼として、素粒子や分子や生命体の、個々のちまちました快のいとなみが残される。快以外に宇宙創生の意味はないのである。苦を求めて何かが存在をはじめることはないであろう。苦は快の結果として生まれるのである。快を求めなければ、それの充足されない、それの妨げられる苦は存在しないであろう。そのことを生命体が最もよく表わしている。 生命体は快と苦の宇宙の本質を、心情において反映することによって、この世界を二重に表現する。快苦は物質においてはエネルギーそのものであり、生命現象においては感覚そのものである。快感が生命体を貫くことによって、生命体は無意識、無反省、無情において、宇宙の本質と一体化する。そのことは生殖行為において最も明らかである。生命とは快を継続させるプロセスなのである。感覚の快が反省的となることによって、あるいは意識に反映されることによって、心情が生じる。単なる快は無反省、無意識であるが、生命体の利害が反省されるとき、さまざまな心情的反応が生じる。ある場合には心情は、感覚の直接的快とは独立的になりうる。場合によっては、感覚的快に嫌悪をいだきさえするのである。そこには理知の働きがからんでくる。 理知そのものは、根本において、その働きが快であることは、宇宙のあらゆる原理と同様である。頭がうまく働かなければ、苦が生じるのである。理知の働きはそれ自体快であることによって、感覚の快に敵対しうる。とはいえ、感覚の快の圧倒的なエネルギーに対して、理知の快は取るに足らない。それゆえに理性はつねに感覚に負ける。そこで理性は、感覚的快楽に対抗するために、つねに心情の援軍を頼まねばならない。良い心、清潔な心、希望、憧れ、理想などといった、<精神性>を頼りにするのである。しかしつねに敗北をくり返すほかはない。なぜならば、理知そのものが同じ快の原理に基づいているかぎりは、感覚に対して圧倒的に不利なのである。といって、ほかに理性のよって立つ基盤はなく、苦しむために理性を働かせるものはいないであろう。理性が苦しむならば、理性そのものが破綻する。 快楽・心情・理性、これが宇宙のすべてであり、この手のひらを、あらゆる存在者・存在物は逃れることができない。感覚、心情ばかりでなく、理性もまた内在的であり、それらによっては、この世界を超越することはできないのである。あるいはプラトンが説くように、理性だけは超越的なのではないかと考えられよう。しかしかりに理性界があるとしても、理性だけがこの世界を超越してみたところで、いわば設計図を手にしただけで、内実がないのである。この宇宙自体が全体的に自己超越するわけではないのである。この自己超越の可能性について考えてみる。 宇宙が快楽そのものであるならば、快自体に自足していれば、そこに存在することの何の不満もないわけである。しかし、この快には欠陥がある。つねに苦が影のように伴うからである。もし純粋に快を求めて宇宙が存在するならば、この宇宙は失敗作であるといえよう。それゆえに、心情を発展させ、理性を発展させねばならなかったのである。そしてそれらを統括する<自我>を生み出さねばならなかったのである。この自我の段階において、宇宙が自己救済を求めていることが明らかになる。それを痛切に表現するのが、単なる感覚や、単なる理性を離れた、心情の働きである。この心情を最も直接に、適切に表現するものが音楽である。単なる快楽でもなく理性でもない、ただひたすらに彼方へと赴かせる心情の働きが、最もよく宇宙の自己超越の願望を表わしだしているといえよう。そして、この自己超越の主体こそ<自我>なのである。 この宇宙的自我を<超越自我>もしくは<純粋自我>と名づけておいた。自我は存在者であることによって、その存在において超越が可能になる。理性は内在化することによって、プラトンの言いまわしでは、この世界を影のようなものにしてしまうが、自我はれっきとした存在者であり、自我以外の何ものでもない。その実質に帰りさえすれば、ただちに超越が成り立つのである。いわば自我はこの世界をリセットする鍵なのである。しかしながらめったに気づかれない、秘められた鍵である。それを求めるには、自己自身の中に沈潜するほかはない。犀の角のように、ひとり内世界を歩みつづけるほかはない。内界をとおして全宇宙の秘奥にいたる道こそが、ウパニシャッドや釈迦の説いた、宇宙の自己救済の唯一の道である。心情はその出発点にすぎない。 2020年7月29日(水) 世界意志と快楽 快楽はネガティヴで苦痛はポジティヴであると、ショーペンハウアーは言う。苦痛もしくは欠乏であるところの欲求があるからこそ、その除去ないし充足としての快があるという立場である。はたして生存の根本の状態はなんらかの欠乏なのであろうか。もちろん、あらゆる生命の欲求が満たされた状態でこそ、心身の平衡、安楽が得られることに間違いはないが、その安楽もしくは快楽そのものが、ポジティヴでないとは必ずしも言いえないであろう。 快そのものはその心地よさを享受している限りにおいては、疑いようもない生存の積極的な状態である。それを欲求する欠乏を超えて、充足の状態に至ったときには、まさに最高の生の状態が達成されるのである。この主観的意識においては、まさに生への意志=世界意志とは快楽そのものではないかと思われるくらいである。世界意志は何ゆえに世界として発現するのか。その存在様式がまさに快楽そのものであるなら、快楽の追求こそが宇宙の根本原理であることになる。さらにいえば、快楽とは世界意志の純粋エネルギーそのものなのではないか。エンペドクレスは愛憎を宇宙原理としたが、それは単なる比喩ではなく、この宇宙そのものの根本原理を、主観的に認識するならば、まさにそのように言うほかはないであろう(*)。愛とは快楽もしくは快感であり、憎とはそれの否定である。 (*)逆に快を客観的にとらえるならば、快は物質の波動そのものであると言えよう。快を快感から切りはなして、純粋に把握するならば、単なるリズムであることがわかる。物質の究極は波であるから、波うつことは、そのまま主観的には快感なのである。宇宙は客観的には波動であり、主観的には快であると言ってよかろう。波動そのものである音楽が、そのまま快感であるのも、そのゆえである。 この宇宙そのものが快楽原理によって発生し、存続しているならば、動植物に限らず、また人間も快楽を求めて存在していることに疑いはない。快楽主義は人間の本質なのである。哲学や叡知の発生段階においては、だれもこのことを疑うものはなかった。<楽>や幸福が人生の存在意義なのであった。それはどのような環境、社会状態においても同様であったろう。このような生命界の<常識>が、疑われるようになったのは、どのようなことが契機になったのか。何ゆえに快楽が不都合なこと、ひいては<悪>と見なされるようになったのか。これは人間社会の特殊な発展段階に由来するのであろう。すなわち階級と差別の発生が、特定の層の快楽の否定を生みだしたのである。たしかに動物界でも、性の快楽は特定の雄が独占して、あぶれた雄は禁欲を余儀なくされる。この事態を広く社会全般に及ぼすようになったのが、人間にとっての快楽の不平等の始まりである。王候は死以外の何らの不愉快を知らずに、一生を送ることが可能であったのだ。快楽主義は、社会の一部の者の独占とされたのである。しかし人間社会の栄枯盛衰がはげしくなると、王侯といえども快楽に安んじていることができなくなった。ここにペシミズムの萌芽が見られる。ギルガメシュや釈迦の伝承にそれを見ることができる。 この宇宙は快ばかりでなく、それの否定である苦とのだき合わせでなっている。しかし快がなければ生命も、この宇宙も存在しない。そもそも存在とは<快>に向けての努力であるから。この根本の原理を、<苦>の立場から否定的に見るようになったのが、人間という知的生命体なのである。それの契機が、人間社会の、すなわち生命体の弱肉強食の生存競争であることは、生命にとっての根本の矛盾といえよう。快楽は競争によってかちとられるものであり、勝者には快が、敗者には苦が与えられる。そこに生命の発展があり、進化もある。もしそうならば、敗者の立場からは、苦が優位を占めるような生命は、虚妄であることになろう。進化とは無数の苦の犠牲の上におこなわれる。実際においても、生命の過去において、いくたびもの大量絶滅(自然界でのジェノサイド)によって、次の生物の進化がなしとげられたのである。生命自体は無意識であり、ひたすら存在の快を求める、無限のエネルギーにほかならない。そのかぎりでは、類が存続しているかぎりは、存在の快は保たれている。生命が存続するということは、快と苦の差し引きプラスであるということである。なぜなら、存在以前は、生命としてはもともと無であったのだから。しかし個の生命としては、そうはいかないのである。 個の生命にとって、快苦の差し引きは、その生命体一個の存続時間に応じて計算されるであろう。長らく差別や病に苦しめば、圧倒的に苦が優位であり、そのような生命は呪うに値するであろう。類にとっての快苦の差し引きなどは、どうでもよいのである。みずからが不幸になるよりも、類全体の不幸を願うであろう。そうした個の生命が、快を求めて得られない生のあり方を、むしろ肯定的にとらえることによって、一つの逆転の発想が生まれる。<快>こそ否定すべき生のあり方なのである。積極的に苦を求め、あるいはせめて<諦観>によって苦を許容し、快でも苦でもない、よりよい存在のあり方を求めようとする生き方である。そこに快と苦とを離れた<善>の観念が生まれる。世界の四大聖人といわれる、ソクラテス(=プラトン)、孔子、釈迦、イエスは、この<善>の観念をめぐって、快と苦の生命原理を超えようとした人物たちである。とはいえ、人類の大半は生命の快楽原理を超えるなどは思いもよらず、意識・無意識にかかわらず、なんらかのレベルでの快楽主義者なのであるが。 まず、この善の観念を、そのまま快そのものに当てはめたのは、唯物論者やエピクロスなどである。善き快を目指しさえすれば、幸福な人生は可能なのであるとした。適度な禁欲と中庸、これが持続的快楽の要諦である。いわば、人生の養生法である。しかしこのような穏やかな快楽主義であっても、現実の社会で実践することは難しいのである。それゆえに、古代では、エピクロスの園のようなコミュニティーでしか実践可能ではなかった。現代では、たいていの知識人は隠れたエピクロスの徒である。 善を快楽から峻別したのはプラトンである。すでにソクラテスは、アテネの法を遵守して、自ら死の苦を選んだのであるが、善悪の基準は、孔子と同じように、社会的に与えられるものであった(悪法も法である)。イデア論を真理の基準とするプラトンにとっては、善は最高のイデアであって、それの認識はただ知性によってのみなされ、それの実践は快苦によって支配されてはならない。日常の徳である友情、勇敢、敬虔、思慮といった行為は、それが善のイデアとして認識されるがゆえに正しいのであり、なんらかの感覚や心情にもとづいているわけではない。善はそれ自体で存在し、この世界から超越している。善のイデアはまた、美のイデアのように、この世界に反映されているわけではなく、それの萌芽のようなものが見られるにすぎない。善は単なる観念ではなく<行為>であるはずだから、プラトンにとって善のイデアは、単にそれを眺めることで事足りるわけではあるまい。行為において、それが最高のイデアであり、最高善であるという意識だけが問題なのである。友情、勇敢、敬虔、思慮が、なんらかの快楽を伴うとしても、それらは善の根拠とはなりえないのである。むしろそれらの快感を、善のイデアが保証しているということになろう。善のイデアが保証しなければ、いかなる快楽も<悪>なのである。 プラトンの善のイデアは、何をもって善のイデアとするかによって、ある恣意性にさらされるであろう。感覚と理性とを峻別する立場からは、あらゆる肉体の快楽は善のイデアとはなりえないであろう。これを防ぐには、善のイデアそのものが、なんらかの仕方で観照されねばならない。いわば、なんらかの知的な直観能力によっての実証を伴わねばならない。それはプラトン自身の言葉を、そのまま受け取るかどうかにかかっていよう。その点、釈迦とイエスは、間違いなく自身のなんらかの神秘体験から、広く<善>について語っているといえよう。<善>とはこの場合、人間にとって最も善いとされる行為のことである。釈迦はそれを<ニルヴァーナ>に集約した。イエスはそれを<神の国>の希求に見いだした。それぞれ、その究極の目標に向かっての行為が、善の範疇に属するのであり、それに反する行為が<悪>なのである。釈迦にとってもイエスにとっても、この生命界、その権化である肉体は、善に属してはいない。少なくとも、それの本質である快楽は、善に反するものとされる。とはいえ、弟子たちや、使徒たちとの会食や談話ににおいて、なんらかの<楽>があったことにまちがいはない。全面的に快を善から排除しているわけではない。これはプラトンにとっても同じことであったろう。善のイデアを求めることの快は(それを知的エロスと呼ぼうと)否定できないのである。 要するに、善のイデアであれ、ニルヴァーナであれ(究極の<楽>とされる)、神の国での心の平安であれ、世界意志の本質である<快>をまぬがれてはいないのである。そうであるならば、これらの超越への願望は、すべて世界意志そのものから出でたものと考えてもよいのではないか。世界意志そのものが、自己超越への願いを秘めているのである。それに参与することが、知的生命体の、あるいは自我の、<宇宙的使命>ではなかろうか。もし宗教に何らかの意味があるとするならば、この宇宙的願望に応えることにほかなるまい。この宇宙はなんらかの錯誤の産物であって、幸いにもそのリセットの可能性が、知的生命体に委ねられているのである。生命現象は、この途方もない物質宇宙の時間の中で、瞬きほどの時もないという。その瞬間の瞬間の瞬間に、自我は解脱の可能性を与えられているのである。単に快にとどまるならば、この宇宙は暗黒にいたるまで、永遠につづくであろう。快をもって快を超えるという離れ業を、自我は要請されている。快を超えた自我の行く先は、ある種の<神の国>なのであろう。あるいは神そのものなのであろう。それは宇宙そのものが、神となろうとすることなのかもしれない。 2020年7月31日(金) 死と救済 死は有機体の崩壊であり、この身体を作っている何十兆もの細胞の分解であり、DNAという身体構成の究極メカニズムの瓦解である。身体とその機能が、細胞の化学工場の集積された全体であるかぎりは、そこで一個の存在としての生命体は、確率的無限に基づく<永劫回帰>でも起こらないかぎりは、永遠に消え去る。それよりも、そもそも身体とその機能は、すべて細胞の化学工場につきるのであるか、それを自我論の立場から検討してみる。 自我は知情意にわたる精神機能であるとされるかぎりは、身体の範疇を出でない。生命そのものの、脳における活動に過ぎないからである。そのような知情意としての自我が死に直面するとき、限りない落胆や気分の落ちこみによって、死を無としてとらえていることが分かる。死は自我をめぐるあらゆるものの終末であり、全否定なのである。これは個の死ばかりではない。私が身体として死ぬことは、場合によっては準備しだいで我慢できる。私は死後に私や私のまわりのものの、なんらかの痕跡や影響を残しうるからである。私がほかの死者の記憶や遺物を保存しているように、私自身もなにがしか他者によって保存されるだろう。それはある程度のなぐさみである。しかし死が人類全体に及ぼされるとき、それらの配慮やなぐさみは、まったく意味をなさない。記録や記憶は、人類の<歴史>の本体であるが、人類そのものが滅びれば、歴史には何の意味もないのである。そして類の死滅は、あらゆる生命体の宿命なのである。私の死ばかりでなく、類そのものの死を考えるとき、<無>としての死は、耐えがたく知情意を落ちこませ、麻痺させてしまう。すべては無意味なのであり、時間の果てに待っているものは、宇宙の圧倒的虚無なのだ。 人類がこのことに気づいたのは、ごく最近のことであろう。かつては宗教の慰めがあった。この生を終えれば、別の似たような生が待っていると、素朴に信じていたのだ。だからそうした類の死を、杞憂として笑っていられた。今現在の疫病の猛威、20世紀の大戦の悲惨、そして自滅的兵器開発など、さらに物質宇宙の生成と終末が明らかにされたことなどから、人類は類としての死を明白に見れるようになった。それは当然ながら、個としての死の意識にも、大いなる影響を及ぼしていよう。死そのものが、あらゆる価値の全否定として現われてくるのだ。類の死、宇宙そのものの死が、個人の死とかさなり、そこに究極のニヒリズムの深淵が現われるのである。これが物質宇宙の正体であり、その産物としての生命体、人間の本質なのである。そこにどのような救済があろうか。 知情意として死に対処する限りは、この究極の落胆、究極のニヒリズムから逃れることはできない。自我は圧倒的に生命、すなわちその発現である知情意によって支配されており、そのかぎりでは、決して無としての死を克服することはできない。無とは知情意において、感じることも、共感することも、理解することもできない、ネガティヴななんらかの事態であるからだ。その無自体を体得しないかぎりは、無については何ひとつ知ることができないのである。しかも、その知ることは、知情意を越えた知ることでなければならないだろう。そのような本質が、生命体もしくは、この宇宙の中に存在するのだろうか。もし存在するならば、それがこの宇宙を超越し、生命を超越する、すなわち救済の原理となるであろう。その鍵は自我の探究にあるであろうことは、前回暗示しておいた。究極の自我は無もしくは空であると、以前に述べた。無は死以前に、すでに私の中に存在しているのである。その無はネガティヴな無ではなく、私が存在することにおいて存在する無なのであるから、それを絶対の有と置きかえてもよいのである。もしこの絶対の私に帰ることができるならば、もはや私には単なるネガティヴな無としての死はないのである。これが単なる思弁であるならば、知情意のたわむれに過ぎないであろうが、このことが<実践>に向かって開かれていることが、その真理性の検証となるであろう。その先達を釈迦に求めてよいであろう。 通俗化されたニルヴァーナは、知情意の生命界を出でることはない。釈迦が説いたのは生命界の輪廻を超えることであり、その輪廻すら否定された現在、究極の虚無としての死を超えることである。それを原始仏典での<空観>において説いたのである。自我は究極において無である。それ故に自由である。生ばかりか死に囚われることもないのである。生くるも死ぬも、究極の自我にいっさいタッチすることはない。生も死も、究極の無としての自我にとっては、相対的な無でしかないのである。無としての自我は、同時に究極の有なのである。それ故に、唯我独尊なのである。ただ究極の自我のみが、この世界の究極の本質であり、この世界の価値の根源なのである。 * * * このようなことを説いても、この無限の宇宙、無限の時間のなかで、一点にも満たない存在である人間や、そもそも生命が、いかにして宇宙の宿命を逃れえるのかと、たいていの人は考えるであろう。ましてや自我などという、脳の機能であるに過ぎないもの、一個の知的生命体の幻影であるに過ぎないものが、生命どころか、この宇宙そのものを克服できるのかと、一笑に付するむきも多いであろう。この懐疑論の根底にあるのは、時間に対する度し難い人類の思いこみであろう。その点を検討してみる。 実は、過現未にわたる時間などというものは、存在しなくてもよいのである。このことを、交互作用、もしくは交互性(相互性)に関連して考えてみる。交互作用とは、作用であるかぎりは因果律に還元できる。すなわち時間における作用の継起として捉えなおすことができる。これも時間が流れるものと考えるからである。真に交互性が成り立つのは、<同時性>においてでなければならない。この同時性における交互作用を、ショーペンハウアーは批判しているが、たいていの科学者も同じ意見であろう。それでなくても、なにしろアインシュタインその人が、同時性そのものを否定しているのであるから。同時性とは、時間の存在を認める限りは、時間における同時性でなければならない。それゆえに、時間が相対的ならば、時間の同時性はありえないのである。 同時性をもっと根本において考えてみるならば、そこにある神の視点を持ちこむことができよう。神にとっては時間はなくてもよいのである。神は一望のもとに、宇宙の全事象をとらえるであろう。その時すべては同一の平面に存在しており、時間とはその輪切りにされた平面の、無限のつらなりにすぎない。実は知的生命体も同じことをやっており、何億光年先の銀河をとらえるとき、それがそれだけの年数をへた現象であることを心得ている。すなわち幾億年の時間を越えて、同時性の視点に立つことができるのである。しかしそれは交互<作用>ではない。作用までには幾億年もかかるのである。時間を超えた交互性とは作用ではないのである。しかし同時性を把握することができるのだ。この交互性としての同時性は、相対的ではなく、まさに絶対の同時性である。そこには作用がないゆえに、相対論が働く余地がないからである。しかし、それは単に意識の問題ではないかと反論されよう。その意識、<自我>が問題なのである。 意識、自我は、なんらかの作用であって、時間の中にあると主張されよう。かりに交互性が可能であるとしても、意識自体はそれに預かることがないと。はたしてそうであるか。自我は無時間的であると、何度も主張した。その根拠は、自我の意識における同一性に求められる。時間における持続は、それ自体としては、無時間的であるのと同一である。そこに変化がないならば、時間の経過を知ることができないからである。アリストテレスが時間の本質を変化に求めたように、変化のないところには時間はない。自我は変化するものの中に取りこまれていながら、それ自体変化しない。しかしそれは単なる形式や、認識主観ではなく、れっきとした<存在者>なのである。存在とは私の存在である。この私は、私を取り巻く事象のすべてを<同時性>において見る。私がベテルギウスを見るとき、私はその光と同時的である。そして、その本体が600光年先にあることを知れば、すでに超新星爆発を起こしているかもしれないその姿と、同時的でありうるのだ。それが真の意味での、時間を超越した相互性である。時間と同時に、私は600光年という空間をも超えているのである。 この交互性は、時空のつづく限り、無限に適応することができる。時空に関するかぎり、私は全宇宙をカヴァーすることが出来るのだ。言ってみれば、相互性の視点に立つかぎり、<事象の地平>は存在しない。無限の宇宙は、ひとつぶの砂の中にあるのと同然なのである。宇宙は限りなく微小な一点から発生したと、現代の宇宙論は説く。その一点とも私は同時的でありうるし、限りなく時空において膨張した暗黒の宇宙とも、同時的でありうる。そもそも、この中心のない宇宙において、ただ私のみが真の中心であり、<一点>であり、同時に全宇宙でもありうるのだ。これが宇宙と私との相互性の、究極の根拠である。古代のインド人は、宇宙(ブラフマン)と自我(アートマン)が同一であることを説いた。すくなくとも、共通する本質を持つことは確かであろう。仏教の空観は、自我を含めた全事象の<相依(そうえ)>すなわち相互依存を説いた。宇宙の認識において、確かに私は時空を越えた相互性の関係にある(*)。 (*)この時空を越えた相互性の、物理学での例は、<量子もつれ>である。空間的にどれほど離れていても電子のスピンの向きは、相互的に<瞬時>に影響し合うのである。テレパシーについても、同じことが言えるかもしれない。 ここでは、この宇宙からの救済において、自我の本質と価値が、宇宙の本質に劣らないものであることを、述べてみたが、生命体としての自我の死や、宇宙の死滅であってさえも、究極の自我にとって克服不可能ではないことの、理論的示唆にとどまる。 2020年8月3日(月) 知覚の微積分 感覚の性質、クオリアなるものがどのようにして生まれるか。これは意識の最大の謎とされる。これのヒントは、画像における画素、あるいはドット数における、イメージの出現に隠されているようである。画素の一つ一つは、極限にまで微細でありうる。かりに一個一個の素粒子を画素とした場合、素粒子自体は知覚において、何らのクオリアとしては現われてこないであろう(そもそも位置自体が不確定である)。色彩の感覚として見るならば、それは何らの色彩ではなく、透明に近いものであろう。画像をとことん拡大していくならば、画像がどんどん薄れてあいまいな色彩になっていくことからも、そのことが推論されよう。知覚が色彩のクオリアをとらえるには、ドット数(解像度)に限界があるのである。いわば一つ一つの微分された極小の画素は透明であって、そこには何らのクオリアも存在しない。それを知覚が逆に積分していくことによって、ある段階で色彩が出現し、クオリアが成立するのである。 脳において画素に当たるものは、一つ一つの神経細胞である。クオリアを生成する神経細胞の数は、数億に達するであろうから、パソコンのモニターなどとは比較にならない。この世界の感覚を豊かにしているものは、神経細胞を統合する知覚の積分であるといえよう。自然界は人間が発見する以前に、このような無意識の微積分をおこなっているのである。それがいわゆるemergent evolution(創発的進化)の正体であろう。意識の発生もまた、このような知覚の微積分に基づくであろうからである。物質から意識が生まれるのも、一つ一つの神経細胞が極限にむけて積分されて、なめらかな曲線を作るからであろう。一個一個の細胞にはないものを、積分された全体が生みだすのである。この生み出されたものは極限である点において、一つの統合体である。これが自我を現わしだし、自我を中心としたクオリアの世界を生みだすのである。物質宇宙が生み出した、美しい幻である。 このような幻にとり囲まれた自我は、神経細胞の集積によって生み出された、ある統合の意識であるから、神経細胞の死によって解体されるであろう。存在するものを微積分できても、微積分によって存在を生みだすことはできないからである。ゆえに、このような自我もまた幻である。このようなアートマンは宇宙の産物である。自我がおのれの本質を探究するにあたっては、アートマンを超えてゆかねばならないのである。アートマンを否定して、さらに残るものがあれば、それが真の自我の本質である。それを釈迦はニルヴァーナと名づけたのである。 超えし人 沙羅双樹下に かたちなく 2020年8月6日(木) 自然vs人間 今、人間が自然の産物であることを、ひとまずおき、人間と自然とを、その能力や資質において比較をおこなってみる。いくつかの項目を立て、10点評価とする。 1、大きさ= 自然10(無限):人間0(限りなく0に近い) 2、時間= 自然10(無限):人間0(同) 3、理性= 自然10(無限):人間5(半分程ありそうだ) 4、エネルギー= 自然10(無限):人間1(太陽系を支配する程度) 5、意志= 自然10(無限):人間1(生命を支配する程度) 6、感覚・感情= 自然1(生命界のみ):人間10 7、意識= 自然1(基本無意識、生命界のみ):人間10 8、自我= 自然0:人間10 9、創造性= 自然10:人間1 10、自律性= 自然10:人間1 最後の自律性において、人間に一ポイント与えたのは、人間が自然界において自然と対抗しうる唯一の存在であるからだ。自然が自律的であると言うのは、自然以外のものを必要としないからである。人間の創造性をもっと高く考える人もあろうが、ほとんどが自然の模倣である。自然界にないものを創造する能力は限られていよう。人間には自然と共通する理性があるので(中世人はlumen naturale[自然の光]と呼んだ)、それだけが人間のよりどころといえるかもしれない。自我(自己意識)に関しては、生命の産物であるかぎりは、自然と対抗する原理とはなりえない(超越自我は、ここでは問題としないでおく。すでに人間を超えているからである)。 人間は、感情や意識において、おのれや世界に理性的<反省>を加えることにより、自然に対して反抗的になりうる可能性を持っている。それが人間のわずかな自律性である。それもまた、ひょっとして自然の仕組んだプログラムかもしれないのだが。 それにしても、このように比較するならば、人間が一本の考える葦であるというパスカルの嘆きがよく理解できよう。 |