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自我の探究(11)―純粋相互性と自我

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自我の探究(11)―純粋相互性と自我

2020年8月8日(土)
相互性・再論

 以前に「死と救済」においてふれた相互性に関しては、類似した考え方があるので、さらに考察をつづけたい。相互性(または交互性 reciprocity)の基本は、時間・空間の概念の根本的転換である。現代ではアインシュタインの理論にもとづき、時空の四次元がこの世界の舞台であるとされる。さらに<ひも理論>によれば、11次元の時空であるとされる。時空が連続していることは、時間だけを独立して考えることが不可能であることからも分かる。時間にせよ空間にせよ、絶対の実在ではなく、運動や加速度と連動して、伸びちぢみする。すなわち相対的なのである。この相対的な時空が、運動や変化の舞台であり、因果律によって把握される事象の場である。さらにこの時空連続体の特徴としては、<観測者>の視点が、時空の相対性を生みだすということである。観測とは必ずしも主観すなわち意識である必要はなく、なんらかの作用があれば、作用と被作用の関係において、観測が成立するであろう。すなわち観測機械で充分なのである。それゆえに、時空の相対性は客観的現象であるといえる。
 以上の現代物理学での時空観を背景にして、相互性ということの根本的意味を考えてみる。まず同時性ということの正確な定義である。現代物理学では、絶対的同時性ということはありえない。観測者ごとに固有の時空があるのである。あるいは観測するごとに固有の時空が生まれるといってよいだろう。時空はいわば<ある>のではなく、<発生>するのである。ある時点の発生が、観測者ごとに違うということが、同時性を不可能にしている。観測者にとって観測の瞬間における時だけが存在している。その時は、独自の<今>でしかない。今は各観測者にとってのみ存在し、今と今を比較することは不可能であり、そのような同時性は存在しないのである。
 相互性を同時性としてとらえると、言葉の矛盾ばかりか、本質においても誤解が生じるであろう。相互性は時間における同時性(simultaneity)ではないのだ。似た言葉として<共時性 synchronicity>がある。共時性が同時性の意味ならば、やはり時間概念の混乱をもたらすであろう。共時性は、因果律とは異なった時空における作用の概念であるならば、その時空そのものが再定義されるべきであろう。そもそも時空における同時的作用ということは、言葉の矛盾であり、現実にもありえない。少なくとも観測者はそのように把握できないのである。
 ここで作用ということを、厳密に考えてみる。この概念が生じるには、因果律のカテゴリーがなければならない。作用とはすなわち原因と結果との関係である。この関係はたんに論理的ではなく、必ず時間の観念を伴う(作用が伝わる速度には、電磁波であれ重力であれ、光速という限界があるからである)。物理的実体においては、エネルギー保存則によって保証された関係である。この意味での作用は、ここで考察する相互性や、共時性においても成り立たない。相互性や共時性においては、時間の連続性がないために、因果的作用の関係は成立しないからである。それでは、相互性や共時性が主張する、作用でない作用、とはどのような関係ないし影響なのであるか。
 相互性の本質を探究するには、時空の根本を考え直さねばならないであろう。ひとまず時空が存在しないものと考えてみるのである。これを<神の視点>と呼んでみた。神の視点においては、時空は存在しないのであるから、宇宙の創造もない。宇宙はあるがままに完成してある。神はその宇宙をどのように把握するか。それを同時的といってはならないであろう。神は宇宙の全貌を、そのあらゆる連関において<相互的>にとらえる。神にとっては構造の把握がすべてなのであって、時間的連関などはどうでもよいのである。あるいは、時間的連関そのものも、神にとっては単なる構造なのである。この宇宙の構造的把握においては、すべては相関しており、個々の独立した事象というものは存在しない。仏教でいう<相依>の関係である。
 さて、この相互性が現実の宇宙においてどのように現われているかである。その片鱗が量子論に見られることはすでに述べた。アインシュタインが量子論の矛盾として思考実験した<量子もつれ>が、実験によって確かめられている。しかし量子もつれは、必ずしも絶対の同時性があるということではないであろう。絶対の同時性があるならば、それはもはや時間ではなく、また時間における作用ではないからである。ではどのような影響なのか。時空を超えた相互関係と言うほかはないであろう。時間がなければ作用はない。時間がなければ、空間的距離も存在しないのである。これは時空観の根本的転換である。その影響するところは大きいであろう。たぶんこの時空観の転換が、文明のnext stageへの入口となるであろう。
 とりあえず、先行する考察をするならば、未来も過去も実体としてはないのであるから、人間は<現在>に生きているわけではない。過現未をひとつのものとして生きているのである。人間は時間の迷妄にとらわれなければ、過去ばかりか未来も把握することが出来るのである。しかも一個の存在としての過去や未来ばかりではない。相互性(相依)の原理に基づき、あらゆる事象との時空を超えた相関を把握できるのである。テレパシー能力などが、その一つの例証である。子供たちの中には、前世なるものを記憶するケースがあるという。これは生まれ変わりというよりは、時空を超えた相依の一つの例なのであろう。ユングが取りあげているcoincidenceなども、ごくありふれた現象といえるだろう(co-incideとは相互性そのものである)。さらに、一見いかがわしい予知や預言なども、必ずしも原理的に不可能ではない。ただし人間的願望や欲望や絶望がまじるために、正しい<神の視点>とはなりえないのである。
 未開人は現代人よりも、万物の相互性をより多く感じ取っていたようである。それを生活の原理としていたのである。ひとくちに<呪術>として片づけられてしまうが、より効率的な世界把握である、時間的因果性の観念の発達する以前には、あるていど有効な認識であった。アマゾンの奥地には、時間観念のない部族も存在するというが、宇宙を全体的に把握するならば、時間観念は不要なのである。たいていの動物は、そうした自然の連関の中に、無時間的に生きているのであろう。人間のようにカレンダーなどは必要なく、季節そのものが動物の生命と一体化しているのである。
 宇宙全体は無時間的構造物であるから、相互性はどちらの方向へも働きうる。存在者が与えられた一点から、(神の視点で)宇宙を見まわすとき、次元の数だけの相互性が成立するであろう。この宇宙が四次元時空として発現しているならば、そのどの次元へも、相互性は及ぼされる。そして相互性を及ぼすことによって、その次元の特異性は消失するのである。すなわち相互性そのものは無次元なのである。このことを仏教では<空>と称している。宇宙全体を把握するには、宇宙を無化しなければならないのである。しかしこの無は相対的な無ではなく、絶対無であるゆえに、同時に絶対の有でもありうるのだ。相互性とは、宇宙を無化することによって、絶対の有に参与することなのである。

2020年8月13日(木)
相互性・続

 たぶん日常的事象の中で、最もよく知られている相互性の例は、ギャンブルや投資などの確率的事象であろう。ただそれを<相互性>といった特別な原理において扱わないだけである。<ギャンブラーの誤謬>というものがある。コイン投げやルーレットの赤と黒の場合、個々の事象は独立しており、なんどトスしたあとでも各二分の一の確率である。ということは、表裏、赤黒は、原則としてなん連続でもつづきうるということである。しかし連続して出る確率は、二分の一の掛け算であるから、三度連続すれば、その現象は八分の一の確率で起こったことになる。次に四度連続するには十六分の一であるから、その反対に賭けるのが有利であるというのが、典型的な<ギャンブラーの誤謬>であるとされる。この世界での純粋にランダムな事象は、<独立的>であるため、じつはどこまでいっても、各出目は、確率50%である以上、二分の一を減りも増えもしない。たしかにそのとおりであろう。
 ちなみに、ここでたいていのギャンブラーの誤謬で触れられていない、ある確率事象について述べておく。じつは各事象が二分の一の確率であることは、実際のギャンブルや投資においては、たいして意味をなさない。問題は同じ目がなん連続、どれだけの確率で生じるかである。そうなると20数連続などということは、限りなくわずかな確率であり、それどころか、確率50%ならば、たいてい3回か、4回連続の範囲で、80%程度の確率で収まってしまうのである。ということは、4回まで同じ目で掛けつづければ、80%の勝率で的中するということである。うまく掛け金のマネージメントをすれば、ある種の必勝法である。4回を越えて外れたら、その先は決して手出ししないことである。どこまで同じ目が出てはずれ続けるとも、予想不能であるからだ。これは逆に考えると、賭けるのは四回以上同じ目が出て、次に目が変わったときに、初めて手を出せばよい。80%の確率でくるものが、二回連続して外れる確率は(かりに心理的であるとしても)少ないからである。晴れ予報80%が、突然雨になるようなものである。実際この方法で賭けてみると、不気味なくらいにぴたりと的中することに、驚かされることがある。
 さて、ここでギャンブラーの誤謬に触れたのは、ギャンブルや投資そのものの方法論よりも、そもそも確率的事象は、本質において<独立的>な事象なのかどうかという考察の入口とするためである。二分の一の確率で、ある事象が起こるということは、一方が起こった場合、他方は必ずその反対になるということである。確率自体は不変であっても、各二分の一の確率で起こる両事象の間には、抜き差しならない関係もしくは関連があるはずである。これはもちろん、時間空間的な因果関係とは別物である。単に一方が決まれば、他方もまた必然的に決まるという関係である。このことは、物理学における周知の現象を、ただちに思い起こさせるであろう。すなわち<量子もつれ>である。ただし、ここでは、あることが起こるということと、起こらないということが、ペアになっているのである。そうなるとすぐさま思い浮かぶのが、例の<シュレージンガーの猫>の思考実験である。この思考実験について考えてみる。
 自然界における最もランダムな現象である元素崩壊を用いて、特別な毒ガス発生装置を作り、密閉した箱の中に猫とともに入れる。元素の崩壊はランダムであるから、ある時間の後に猫が生きているか、死んでいるかは、箱を開けてみるまでは分からないというのである。箱を明けるまでは、猫は<半分死んで、半分生きている>ということになる。すなわちギャンブルでおなじみの、典型的な確率的事象なのである。ここで丁(生)に賭ける者と、半(死)に賭ける者とがいたとする。彼らの行なう判断は、まったく、ギャンブラーの確率的判断と同じである。決定していない未来の事象を、因果的にではなく、単なる相関的事象として、確率的に判断しているのである。確率的事象の判断は、いわば未来までの時間経過を存在しないものとみなすのと同様である。それまでの時間が存在しないのであるから、猫は死んでいるわけでも、生きているわけでもなく、端的に<存在していない>のである。箱の中の猫は、箱を開けて見るまでは、その存在を喪失しており、あるいはその存在を認識することはできない。これは時空を超越した<相互性>の連関そのものではないか。
 この相互的連関は、確率的事象が<非独立的>であることを意味している。箱を開けたときに、死んだ、または生きた、猫が現われるならば、猫の生死は確率的に二分の一であるとしても、箱に入る前の猫と、事象においてつながっている。確率が独立的であることは、単に数学的であり、事象としては、二つの現象は連続しているのである。しかしその間に因果関係を整合的に持ち込むことはできない。ある人が猫の死に賭けて、損失をこうむったならば、そこには彼が賭けた行為が、損失を生んだという、観察者の側の因果性があるばかりである。猫そのものにとってはどうか。猫そのものに意識があるならば、ラッシャン・ルーレットと同じであろう。自分が助かるか死ぬかは、二分の一という、不確かな偶然性に委ねられているのである。死をもたらすメカニズムについては因果的に理解できる。しかし結果との間には、確率以外にはなんの合理的連関もないのである。しかし結果は、必ずもたらされる。必然的な相互性の関係にあるからである。その間の時間がどのように長くてもである。時間は無関係なのである。
 <量子もつれ>は、一つの素粒子が、他の素粒子と、そのふるまいにおいて相互連関するということであるが、これは確率の介在なしに、直接に事象が時空を超えて連関しあうことの例である。じつはもっと日常的な例においても、似たようなことが起こっている。それは音楽鑑賞における知覚の働きである。もし知覚が単に瞬間のみの印象で成立していたならば、音楽のような連続的な印象の流れは、とても把握することが不可能であろう。音を音楽としてとらえるとき、知覚は時間的に過去と未来とを、現在と綜合して、全体的に把握しているのである。このような綜合的・全体的時間は、もはや通常の時間ではないであろう。現在と過去と未来とは、相互的に統一されているのである。この全体的時間は、過現未の物理的時間とはまったく異なるものである。音楽はこの全体的時間の相互性の中で、初めて成立するからである。そこに単なる現在印象を超えた、音楽の豊かさがあるのだ。
 さらに言えば、この時間の全体性は、生命そのものの持つ特性であると考えられよう。リスや熊などの野生動物は、意識せずして季節をおのれの中に取りこんでいる。動物にとって時間とは、おのれの全体的生命そのものなのである。その相互性があるために、自然界との調和がおのずと生まれてくる。生命進化もつねに、自然界との全体的相互性において、成し遂げられてきたであろう。自然選択が単なる因果関係でないことも、このことから理解されよう。鳥たちが一斉に飛び立ったり、魚たちが一斉にシンクロして行動するのも、この生命界の相互性があるゆえの現象であろう。人類もまた、その<全体への意志>において、よかれ悪しかれ相互性に支配されているのである。
  相互性と言葉が似ている物理原理に、相補性(complimentarity又はreciprocity))がある。相補性とは、「光や電子の粒子性と波動性や、古典論における因果的な運動の記述と量子論における確率的な運動の記述のように、互いに排他的な性質を統合する認識論的な性質であり、排他的な性質が相互に補うことで初めて系の完全な記述が得られるという考え」(Wikipedia)をいう。この定義からすると、相補性とは、ここでいう相互性を認識論の見地からとらえた原理であるといえよう。素粒子は波であると同時に粒子性をもつ。この両者を<同時に>見ることはできないのである。物体は波であるか粒子であるかのいずれかである。世界は無時間的構造をもつが、それを時空において認識するとき、波もしくは粒子の構造として現われるのである。因果的性質がまさる時は粒子として、確率的性質がまさる時は波として、この表象世界は発現するのであると考えてよかろう。どちらがより本質的であるか。相互性の見地に立てば、確率的事象が相互性そのものであることから、世界の根本は波動であるといってもよかろう。それを因果的認識が、時空における個物の世界として構造化するのである。

 この世界は、古典物理的に考えさえしなければ、その存在自体において時空を超越している。これが<相互性>の原理の根本命題であり、仏教の<相依>の考え方である。生命もまた、その根本において時空を超越しているのであり、あるいはその可能性を有しているのである。人類は近代において、あまりに深く因果性にとらわれてきたので、この世界の本質を見抜けなくなっている。あるいは、不都合を避けるために、見て見ぬふりをしている。ガリレオの望遠鏡をのぞくことを拒否した、頑迷な僧侶と同様である。しかし科学においては量子力学が、その突破口をなしているようだ。科学的真理は、物質界への応用にとどまるが、本来の<相互性>の認識は、人間の超越界への飛躍を可能にするものである。すなわち<救済>の原理であることは、すでに述べておいた。人間が自己自身を拡張し、超越界へと飛翔することを可能にする原理の一つが、ここでの<相互性>なのであることを、改めて強調しておく。

2020年8月15日(土)
相互性と自我

 この宇宙での自我のあり方、存在様式は、根本において無時間的な相互性の関係にあることを明らかにした。じつは日常的にだれもがこのことを感じているのだが、<現在>という時の圧倒的な印象にわざわいされて、この宇宙の根本的連関を意識的に認識することができずにいる。なによりも<実存 Dasein>という時間性の迷妄の中に、自我はとらわれているのである。自我は宇宙の中にある(in der Welt sein)のではなく、宇宙とともにある(mit der Welt sein)のである。この迷妄は自我そのものにいずるというよりも、世界意志の生命戦略であると言えよう。個体性を生みだすためには、個体は時間・空間的に孤立していなければならない。他と自との区別は、時間的・空間的におこなうほかはない。この自他の区別は、この世界に多様性を生みだし、知性を発達させ、意識を発現させる。世界意志が自己認識にいたるには、時空における存在様式と、認識の形式が必要なのである。その認識の頂点において、すなわち知的生命体において、世界意志はおのれの創造物を、初めておのれの目で、客観的に見ることが出来るのである。知的生命体は、言ってみれば、そのための生け贄にすぎないのである。ここに自我の救済の必然性がある。この世界にとどまる限り、自我は世界意志への捧げ物にすぎない。世界意志の道具なのである。しかし、自我はこの<宇宙的使命>を果たしてしまいさえすれば、世界意志から自由になる可能性を秘めている。それには、この宇宙の本質を見抜くことが必要なのである。
 それには段階があることは、すでになんども論じたし、仏教などの修行も、<悟り>までには、細かな手順をへることになっている。ここでは宇宙の相互性の自覚が、自我の救済にいたる道筋を述べてみたい。一言でいえば、相互性の自覚は、<実存>の克服である。実存とは時間性における存在であるから、その時間性を超えた認識である<相互性>において、すでに実存の克服の基礎がある。この世界での自我は、そこにある(da sein)のでも、投げ出されてある(geworfen sein) のでもない。世界とともにある(Mit-Sein)のである。これを古代人は運命とか宿命と呼んだ。しかし古代人の運命観は、いまだ時間にとらわれており、因縁や因果といった、過現未での必然的連関にとどまっていた。そのかぎりでは、生への意志にあやつられた、世界観である。
 過現未は、今ここに、共にあるという洞察にいたったのは、修行者や神秘主義者である。中世神秘家の nunc stans はその例である。<とどまる今>とは永遠を意味しているが、それは時間的永遠ではなく、また運動する意味においての空間でもない。時空を超越したある状態なのである。もしそれが、この宇宙の永遠であるならば、この宇宙のあらゆる事象は無時間的であり、かつ無次元であることになる。それは相互性そのものである。仏教の<相依(そうえ)>は、あらゆる個別の事象は相互に依存しており、独立性を持たないという洞察である。この洞察を徹底するならば、空間的区別ばかりでなく、時間的区別も存在しないことになろう。何億光年先の事象と、今ここに存在する私とは、なんらかの時空を超えた連関でつながれている。数億年前の恐竜たちと、また数万年後の人類とも、今ここで私はなんらかの連関でつながっている。それは今私がここで食事をしたり、物事を考えたりするのと同じほど、リアルな現実なのである。この洞察によって、私は全宇宙と一体化することが出来るであろう。その苦悩と歓喜とを私のものとし、そして共に救済への道を歩むであろう。これが宇宙的な宗教としての、釈迦の説いた仏教であろう。
 相互性の洞察によって目覚めた自我は、もはや時空によって支配された自我ではない。私は生まれもしないし、死にもしない。私はただ<有る>。宇宙と共にある。しかし宇宙と共にあるかぎりは、私は宇宙の宿命から逃れられないのである。宇宙と私とは相互性によって、必然的に結びつけられているからである。しかし宇宙と私とは共に無時間的であり、時空を超越している。言ってみれば、宇宙と私とは、なんらの因果関係によって結びつけられているのではない。私と宇宙との相互関係は<自由>な関係なのだ。私はいつでもそれを解消することが出来る。宇宙と共にあるかぎりは、私は相互的に必然的であるが、宇宙からみずからを解放するならば、私は絶対的に自由なのだ。その解放にいたるプロセスを、<解脱>と呼んでいるのである。
 自我の究極にいたる状態は、無とも空とも称される。しかし、なんども述べたように、絶対の無は絶対の有なのだ。時空における相対的な無ではなく、時空そのものが克服された状態での、絶対無は、同時に絶対の有なのだ。世界意志がそれであり、純粋自我もまたそれである。表象や現象や、また意識ですらない状態において、無でない何ものがあるのか、と反論されよう。表象や現象や意識に対して相対的な無は、無以外の何ものでもないであろう。その無は単に否定でしかないからである。宇宙には無限に膨張させる力としての、ダークエネルギーなるものが仮定されており、宇宙の物質の70%近くを占める。この正体は空間の(量子ゆらぎの)エネルギーであるとされる。膨張のある段階で、空間のエネルギーが宇宙の全重力にまさり、宇宙は加速膨張を始めるのであるとされる。空間という何もない<無>であるものから、途方もないエネルギーが生まれるのである。この無はエネルギーを生むことにおいて、なんらかの<有>なのである。
 宇宙を生みだす<無>があるならば、それは同時に絶対の<有>である。自我がこの宇宙に発現するならば、それの根源である<無>は、同時にそれを生みだす絶対の<有>である。この無が、生死を超えた状態、輪廻を超えた状態とされるのも、この故である。宇宙も自我も根源においては、絶対の有であることによって、同等の立場において相互連関の関係に入りうるのである。それゆえに、それを解消する可能性が、いつでも与えられているのである。

2020年8月24日(月)
純粋相互性から見た物質・時間・空間・自我

 相互性における相互連関を誤解なく言い表わす言葉は、簡単には見つからない。そもそも時空を超越した関係であるものを表す言語は、存在しないのがふつうである。必ず時間か空間かの観念が、そこに介入してくるのである。<相依=相互依存〉という仏教語も、空間的関係はまだしも、因果や因縁といった時間性をまぬがれることは出来ないのである。そもそも、時空を超越した全体的連関を表わす言葉を、人類はもっていないのではないか。それならば、あらたに作るほかはない。
 無とか空は、相対的に使われることが多いので、誤解を招きやすい。無関係とか、空想などという言葉がそうである。無や空が絶対であることを、そのつど強調しなければならないのである。<相互性>そのものは、仮の命名であり、これも単なる時空における相互作用と誤解されやすいが、とりあえず相互連関を強調するために用いている。時空を超えた相互連関を表わすには、もっと適切な言葉が必要なのである。
 <永遠>は時間観念と結びつきやすい。スピノザが使う意味での<永遠の相>を理解する人は少ないであろう。<純粋>は、認識論的な意味あいが濃い。とりあえず、純粋相互性という言い方をすれば、純論理的関係となるであろうか。先験的かつ論理的関係は、無時間的であるからだ。そもそも、ここでいう相互性は、カントの用語を用いるならば、超越論的(transzendental)な認識なのだ。いわば全体的相互連関というカテゴリーによって、この世界の成立を論じるのである。そこでとりあえず、<純粋相互性>を用いることとする。
 純粋相互性から見た物質とは何であるか。作用(wirken)はすでに時間概念を伴うので、使うことができない。Wirken(またはエネルギー)は、物質の時間・空間における発現の相なのである。物理学では、物質とは質量であり、時空における<質点>とみなされる。質量の集まった、数学的な点なのである。それが空間および時間と連動もしくは連関し、この物質宇宙のあらゆる現象の基本となる。質量があれば時空が存在し、質量(物質)と時空とは切り離すことができないのである。これを逆に考えてみる。時空がなければ、質量すなわち物質は存在しない。少なくとも、時空との連関における物質は存在しないのである。それでは、そもそも時空がなければ物質は存在しないのか。そうならば、物質の無いところで、どのようにして相互性が成り立つのか。
 相互性の成り立つのは、物質においてではないと考えればよいであろう。すくなくとも、時空と連関する物質の世界においてではない。それはどのような世界か。古代の哲学者は、地水火風以前の存在として、無限定者(ト・アペイロン)のようなものを考えていた。物質以前の物質あるいは存在(ト・オン)である。質量や時空によって限定されていない、物質以前の物質を考えたのである。そこからこの現象的な物質界が発生したと考えたのであるが、じつは真に有るものは、この物質以前の物質であると考えてもよいのである。これをカントは、先験的認識論の立場からDing an sichとし、<叡知的な>すなわち単なる概念の存在であるとした。これをUr-materie(根源物質)と考えるならば、純粋相互性が成り立つのは、そこにおいてであると言ってよかろう。
 純粋相互性は、Ding an sich(物自体、根源物質)の世界で成り立つ。このように見るならば、自然界がまったくの無意識であることも、当然のこととして納得がいく。世界は時空の認識によって作られているのではない。全体的・相互的に時空を超えて構成されているのである。インフレーション=ビッグバンから、宇宙の暗黒の終末にいたるまで、宇宙はすでに相互に連関した全体として構成されているのである。これはある点で、人間がコンピュータにおいて仮想的に作り出す、完成された世界と似ていよう。ただ人間知性が、宇宙の模倣をしているにすぎないのであるが。
 それならば、時間・空間において発現しているこの物質宇宙は、そも何ものなのであるか。それは知性の発展と関連している。この世界を<理解>しようとする努力が、この世界が時空において展開されるものと見なすのである。この世界は、根本において全体における相互の連関からなるのであり、そこには何の理解の必要もない。その連関を時空において解きほぐすことが、この現象世界を発現させるのである。根源物質は、時空における素粒子として、波動として把握される。それらの因果的もしくは確率的連関が、この宇宙の理解にほかならない。この<理解>はしかし、単なる幻ではないであろう。イデア界の存在が、その根拠を与えているからである。この現象界は、ある種のイデア的構成物なのである。それ故にそこには、美と調和があるのである。本来無意識である、根源物質の相互連関の世界は、イデアという美の衣につつまれて、この世界をある程度住むに値するものとして見せかけるのである。
 しかし、時空における存在の認識は、苦としても現われてくる。世界は相互連関においては、ライプニッツが主張したように、窮極的に調和にみちていよう。しかし時空においては、闘争と苦痛の世界でもある。わざわざ調和にみちたものを、なにゆえに苦の世界として顕現しなければならないのか。相互性の認識によって、苦のない世界に帰ることができるのであるか。苦も楽も時間的現象であるならば、時空を超えた認識において、苦楽を超えることが出来るのであろうか。現象的に苦に見えるもの、破壊や死は、全体的相互性において、苦でも楽でもないものになるのか。そもそも根源物質が<善>であるという根拠はあるのだろうか。
 もし釈迦が<ニルヴァーナ>において、これらの懐疑を解消しなかったならば、永遠の逡巡があるばかりだろう。自我は根源物質に立ち返ることによって、単なる理解を超えて、宇宙の根本を洞察し、苦楽を超えた相互性の認識にいたるであろう。時空の認識を持つかぎり、苦痛からはまぬがれない。この宇宙との超越的連関において、自我は宇宙そのものとなる。時空を超越した、どのような粒子とも共鳴するであろう。さらに宇宙そのものをつつみこむことによって、宇宙をも超えてゆく。もはや根源物質をもこえ、根源物質とは異なったおのれ自身を見いだすであろう。

2020年8月27日(木)
永遠・無限・相互性

 相互性のはたらく場は物自体としての根源物質であるとした。根源物質においては、経験を構成する時空や因果律は成り立たない。すなわち、経験的世界とは、まったく原理を異にしている。とはいえ、その世界の存在は経験からの類推によって、場合によっては経験世界でのなんらかの現象によって知られるのである。物理学が探究する素粒子やクオークが、現象的存在であって、物自体ではないことは、それらが実験によって、経験的知識の範囲に属することから明らかである。クオークにいたっては、単なる概念といってもよいのであり、経験を説明する適切な理論に過ぎないのである。時空におけるなんらかの因果的作用をもたらす限りにおいて、それらは物自体ではない。それらの現象の根底にある、なんらかの存在根拠を<物自体>と呼んでいるのである。それは現象をafficierenしたり、なんらかの作用で物質を生みだすわけではない。現象を生みだすのは<主観>の側にあって、その根源におけるStoffが物自体であり、イオニア哲学で言うarcheであり、無限定者(ト・アペイロン)である。
 現象の根拠が主観の側にあるのであるから、もしその主観が変化するならば、現象の姿も変わる。この主観のはたらきは先験的であって、すなわち種において共通する一般性を有しており、そのかぎりでは、カントの言うように<自然に法則を押しつけている>のである。この押しつけられた法則は、しかし事情によっては通用しなくなる。時空や因果律が当てはまらない事態が生じるならば、自然界はまったく異なった様相で現われてくるのである。量子力学は、その限界的状況にゆきあたっていると言えよう。もはや主観の法則ではなく、物自体そのものと直面しなければならなくなっているのである。
 この物自体を表わす言葉として、カント以前の形而上学や神学は、永遠とか無限とかいう言葉を用いた。これはまた<神>を指示する言葉であったが、ここでは根源物質および相互性との関連で、永遠および無限の観念にふれてみたい。永遠は、これを絶対者に適用するとき、その意味は限定されてくる。時間的には変化なく持続することであり、すなわち時間は無いに等しく、無時間的存在者をあらわすことになる。変化することがないのであるから、運動や静止といったことのない、絶対的に完成された存在である。そこからは何ものも生まれないし、何ものも滅びることはない。絶対者は部分として存在するのではないゆえに、全体者であり、一者であり、それゆえに分割可能な空間的存在者ではない。根源物質がこのような絶対者であるならば、それの構成する宇宙はどのような構造でなければならないか。これを考えるには無限の観念が必要になってくる。
 無限とは基本的に数学的概念であり、単に限りがないという想像力の限界を表わす意味での無限は、心理的であり、ここであつかう問題ではない。ある直線を無限に分割して、極小にまでたっしたとしても、それは物理的極小であって、数理的にはどこまでも無限に分割が可能である。また数直線を無限に延ばしていくとき、物理的極大に達したとしても、数理的には極大はない。物理的極小や極大は、空間や時間における表象であり、そのものとして無限大や無限小がありえたとしても、どこかで果てを想像することが出来る。それに対して数理的無限は果てがないのである。宇宙はどちらの構造をとるのであろうか。無限もまた時空を超えた観念であるからには、当然後者の無限でなければならない。宇宙の相互連関における構造は、数理的無限において成立するのである。無限のものが無限において無限の構造を有するのが、根源物質における宇宙のあり方である。無限どうしは、一々対応において、等しく無限である。たとえ無限に<濃度>の違いがあるとはいえ、一つの無限は他のすべての無限に対応する。それが相互性の根本原理である。
 無限にして永遠の全体者である根源物質は、無限の組み合わせによる無限の可能性において、無限の宇宙を構造化しているのであり、たぶんその真の姿は無限の数学によって解かれるのであろう。すでに哲学的思弁の及ばない世界である。ピタゴラスやプラトンが数学を尊重したように、数学そのものが哲学であるのならば、数理が究極の形而上学であるのかもしれない。そうした無限の数学が存在しない今、思弁の範囲での永遠と無限と相互性について考えるほかはないが。
 この宇宙は無限者であることは、すでにスピノザが述べているが(deus sive natura神もしくは自然)、永遠にして無限の全体者が、この宇宙のあらゆる連関を無時間的、没空間的に、構成もしくは構造化しているのであり、そのことの洞察は<永遠の相 sub specie aeternitatis>においてはじめて可能となる。すなわち<神の眼>でもってこの宇宙を見なければならない。スピノザは永遠無限者の視点からこの宇宙の構造を説いたのであるが、逆に相互性の洞察から、永遠無限者にいたろうというのが、ここでの考察である。相互性が成立するのは、ゆいいつ物自体としての根源物質においてであること、根源物質が無時間的・没空間的に世界を構造化するにはどのような原理が必要であるか、そのような構造化をなしうる根源物質の本質とは何であるか、そこから永遠無限者に到達できるのである。
 じつはこの永遠無限者とは、ショーペンハウアーの形而上学の<世界意志>にあたるものであり、筆者もスピノザの理性的神ではなく、盲目的原動力としての世界の根源を頭においている。ショーペンハウアーの段階的な宇宙構造論は、前にも指摘したように、無時間的であって少しもさしつかえない。この点単なる自然科学ではないのである。低次のものが高次のものを支えるという関係(Stufenbau)は、単に構造的であって、必ずしも進化的である必要はない。それゆえに、意志の救済が成り立った暁には、全宇宙が一瞬にして消滅する可能性がありうるのである。
 相互性については、経験的世界においても、その例を求めることとが出来るのであるから、個々の具体例でもって論証するのが、さらに納得がいくであろう。それらについては、おいおい取り上げることとする。

2020年9月3日(木)
純粋相互性としての宇宙と自我の救済――根拠の原理をめぐって

 現象の構造

 時間が存在しないということは、物理学における相対論や、時間の矢の存在しないことから、比較的容易に理解できるであろう。空間が存在しないということはどうか。これには大きな思考の抵抗があるであろう。数はまだしも、量ということはどう説明できるのか。数直線は量ではないが、量を表わすには空間的面積が必要である。2は1の二倍であるということは、どのように理解できるか。空間表象のないところで、どのようにしてこのような思考あるいは構造が可能なのか。空間は次元で表わすことが出来る。空間が存在しないということは、そも次元が存在しないということである。この世界が4次元であれ、11次元であれ、そのようなものは相互性の世界では存在しない。次元のない世界の思考とは、どのようなものであるか。それが可能だとすれば、人間にとっては、どのような能力が必要なのであるか。
 このような考察をする前に、まず人間は現象界においてどのような認識をしているかを、おさらいしておかねばならない。これを明快に解き明かしてくれたのが、ショーペンハウアーの根拠の原理(Der Satz vom Grunde)に関する著名の論文である。人間がなんらかの物事を認識したり考えたり、行為したりするさいに、意識的であるかぎり、なんらかの根拠(Grund)に基づいておこなうことは疑いないであろう。あるいは少なくとも、なんらかの探究をしたり、議論したりするときに、それぞれの場合に根拠付け(Begruendung)をおこなうことは、ごくふつうである。その根拠または根拠付けが正しいとされるには、なんらかの必然性がなければならない。この必然性を言い表わすものが<根拠の原理、または根拠命題>である。ショーペンハウアーによれば、それは四つの根(Wurzel)に分かれる。
 その1は、<生成根拠の原理>または因果律である。これは時間における変化と状態に関する原理であり、もっぱら感性的、経験的現象に当てはまる。これは自然科学において強力な原理であり、因果律なしには科学は成立しないといってよい。この原理を、ショーペンハウアーは、無機界における純粋な原因と、植物界での刺激と、動物・人間界での動機とに分けているが、基本は同じ原理である。動機に関しては、その内面性によって特別に根拠原理の一つとしている。
 その2は、<認識根拠の原理>である。ここで認識といっているのは伝統的な命名なのであろうが、抽象概念による思考の原理である。思考がその中でおこなわれる概念の関係や判断をあつかうものである。判断の行なわれる根拠には、4つの種類がある。
 a.一つは論理的、形式的判断において、他の判断を根拠とするものである。
 b.二つは質料的判断において、感覚によって媒介された直観において、経験を根拠とするものである。
 c.三つは、先天的(a priori)な判断、あるいは先験的な(transzendental)判断において、先天的に直観された時空の形式において、あるいは先天的に知られた因果律においてする、根拠付けである。純粋数学や純粋自然科学がこれにあたる。
 d.四つは、メタロジカルな判断において、理性にそなわっている、あらゆる思考の形式的条件(思考の法則)を根拠とするものである。
 さて次にくる三つ目の根拠の原理は、
 その3、<存在根拠の原理>とされるものである。経験的実在界における具体的対象の形式的部分である表象において、空間および時間の先天的直観を根拠とするものである。例えば、三角形の辺が等しいという判断は、因果律や認識根拠によって生じるものではなく、直観的に<そのようにあるSo-sein>という根拠に基づくのであるとされる。時間の継起もまた同様である。
 その4は、<行為の根拠の原理>または動機付けの法則である。これは内感あるいは自己意識において生じる表象である動機Motivを根拠とするものである。意志のはたらきや、決断や、行動において、原因となるものであり、厳密には因果律に属するが、これが内面的・直接的であり、かつ最終的動機にさかのぼることができるので、独自の根拠命題としたのである。

 さて、このように根拠命題をならべてみたのだが、一見たんなる認識理論に思われるかもしれない。根拠命題あるいは根拠の原理は、認識論としてみれば、現象界における人間の認識能力の限界を定めたもので、ショーペンハウアーの形而上学もこの範囲を極力出でないようにしている。しかし、これを客観的に対象の側から見るならば、この現象界の構造分析でもあり、あるいは、この現象界がどのような原理で構造化されているかの、マニュアルであるといえる。対象であるとは同時に主観の側から規定されているということであり、主観にそなわった能力を分析すれば、おのずと世界のとるべき姿が現われてくるのである。もし世界が今とは異なった姿で現われるならば、同時に主観もそれに応じてその能力を変化させているということである。もし時空を超えた世界を人間が認識できるものならば、それに応じた能力を、人間自身の中に探すことができるであろう。ショーペンハウアーが考えなかった、新たな根拠の原理を付加することができるであろう。
 とりあえず、彼の根拠の原理の中にその可能性を探ってみよう。

 相対性と相互性

 根拠の原理自体は、何らの根拠にもとづくものでも、証明されうるものでもない。まさに根拠そのものであり、そこから証明のなされうるものであるから。ユークリッド幾何学の公理のようなものであるといえよう。この公理系に属するのは、根拠の原理の四つの根ばかりではなく、その前提となるいくつかのアプリオリな、あるいは先験的な原理がある。ひとつは主客の関係と、それによって生まれる表象もしくは対象の存在である。主観と客観とは相互に規定しあう、のっぴきならない関係にあり、表象あるいは対象であるとは、つねに主観との関係において、表象であり、対象であり、主観のない対象、あるいは対象のない主観は、原理的にありえない。対象そのもの、表象そのもの、主観そのもの、などは、現象世界においては意味のない言葉であることになる。まさに主客の関係が、現象の根底にあるからである。この主客の関係性は、さらに表象、対象間の関係性にまで及ぼされる。独立した表象、単独の対象は、現象界では存在せず、すべての表象、対象は、他の表象・対象との関係性において存在する。すなわちロックの言うような単純観念(simple idea)は、現象界では存在していない。すべての表象・対象は相対的(relativ)なのである。
 さらに公理系に属するものとして、時間・空間・因果律の先験的原理がある。実はこれらから根拠の原理も演繹されているのである。時間・空間・因果律の先天的性質が、人間の認識の性格を規定しており、客観世界の対象の現われ方を規定しているのである。それゆえに根拠の原理もアプリオリであり、先験的原理なのである。
 さて、主客の関係において発現する表象もしくは対象は、時空と因果律によって相対的に関係づけられ、この現象界を形成する。これはある種の相互性でもある。ここで相対性(relativity)と相互性(reciprocity)とを厳密に区別しておかねばならない。一般にほぼ同じ意味で使われることが多い。どちらも関係的であり、相互依存しており、独立した個としての存在を考慮されない。ここで相互性に関して、ショーペンハウアーが空間におけるAnalogon(類比物)と言っているものを考えてみる。一つの直線は他の直線を規定しているとも、また他の直線から規定されているとも言える。ここには規定に絶対的な基準はない。しかし、このことを時間の観念に及ぼして、原因と結果が相互に規定しあっていると考えることはできない。結果が原因に作用することはないからである。空間の規定は、時間の規定に当てはめることはできないのである。すると相対性と相互性とを分かつものは、時間における因果性にあることになる。
 相対論においても、時間が相対的であるのは、運動の関係において観察者が、他者の時間を観察するゆえに、時間のずれが生じるのである。これは一方から他方への相対的関係である。もし相互的であるならば、相互に規定しあうことによって、時間のずれは生じないはずである。いや、そもそも時間自体が存在していないはずである。自然界における相互性は、因果の一方的な関係においては成立しない。物理学において、時間が可逆的でありうるのは、力もしくはエネルギーの保存則が、時間の方向性とは無関係に成立するからである。
 空間的には相互性は現象界においても成立する。相互性が現象界を超えて成り立つのは、時間とは無関係に、その関係が成立するからである。時間が無いということは、それと連続する空間も無いということであり、本来の相互性は時空を超えた世界で成り立つということになる。これが現象界における相対性と、純粋相互性の根本的な区別である。
 時間性と無関係に成立しうる根拠命題は、認識根拠の原理である。これは四種に分かたれているが、そのうち経験に基づくbは別として、すべて概念間の関係における推論の根拠となるものである。三段論法を例にとれば、ソクラテスは死ぬ、という命題もしくは言表は、大前提、小前提との関係において、概念を操作することによって、はじめて推論として成立する。その際すべての人間は死ぬという大前提も、ソクラテスは人間であるという小前提も、必ずしも経験的事実である必要はなく、概念の関係が正しければ、すべて三段論法として成立するのである。内包や外延といった、ある種の空間的直観以外には、その相互的関係を知る必要はないのである。この推論の方向は一方的であるが、これは時間における因果性とはまったく別物である。しかし、ソクラテスは死ぬという個別の事象から、あらゆる個別のケースを枚挙すれば、すべての人間は死ぬという一般命題に<帰納的に>たどりつくことはできる。そのかぎりでは、この論法は相互的でありうる。
 概念自体は主観の対象であるかぎりは相対的であり、他の概念との関係においてのみ把握される。A=Aのような同一律においても、A以外の他の概念と区別されることによって、はじめて成立するのであり、その限りにおいて相対的である。矛盾律と排中律は、Aと非Aとが同時に成立しえないことによって、相互に規定しあっている。A=Aならば同時にA=非Aではありえないし、そのどちらかであるほかはないのである。その意味では相互的であって、〈思考の法則〉は単独では成立しない。ショーペンハウアーが言うように、排中律で代表できるのである。
 論理的・数理的関係が、この現象世界で最もよく相互性を現わしだすようである。そこから考えられることは、時空を超えた純粋相互性の世界においても、論理的・数理的関係が支配しているのではないかということである。時間・空間は経験の具体的世界を成立させる要件であるが、時間・空間の直観にもとづく<存在の根拠>が、純粋相互性をおおうことによって、この世界を時空によって形成される次元において発現する構造として把握させるのである。この現象的構造自体は、世界理解にとっては必要であるが、さらに世界の根底に向かっての探究を進めるときには、ある種の目くらましとなるのである。ピタゴラスは世界の根底を数もしくは数理と見たが、プラトン以後のアカデメイアでも、イデアを数と見なしている。今日の論理学においても、記号化や数理化がおこなわれており、論理的・数理的関係は、すべて数学に統一されるであろう。数学者の中には、世界は文字どおり数式から出来ていると、となえる人もいるようだ。時空を超えた世界を探究する唯一の方法は、数学なのであろう。もはや哲学や形而上学を超えてゆくか、あるいは数学そのものが形而上学であるというほかはないであろう。そうであるならば、純粋相互性の世界は、数理によってのみとらえられる、プラトンのイデア界そのものであるといえよう()。

)物自体と現象界とを媒介するものとしてのイデアとその認識についてのショーペンハウアーの考えは、別の論考であつかうこととする。

 この世界は、世界意志とイデアと自我の<三一体>からなるというのが、筆者の形而上学であるが、相互性の根底は、世界意志とイデアの融合した、根源の物自体の世界であるということになろう。すでに物自体の<叡知的>な世界において、この宇宙は相互的な連関において構造化されており、現象はただそれをあぶり出すに過ぎないのである。物自体の世界は、もはや根拠命題によっては、その実相をとらえることはできないが、その世界を垣間見させる現象については、すでにいくつかあげた。確率的事象や、音楽における知覚や、記憶の構造や、coincidenceやテレパシーなどの例によって、それを暗示したつもりである。さらに物理学における量子もつれや、トンネル効果なども、物自体の世界を垣間見させるであろう。それがどのような<根拠の原理>をもつものか、いまだ確実なことを言える人は少なかろう。しかし応用や実践がそれに先立っているのである。つぎに自我の救済との関連で、それを論じたい。

 相互性と自我の救済

 純粋相互性から見た自我は、相互連関によってがんじがらめに縛られた、なんの独立性もない一個体である。これを仏教では<縁>と呼んでいるが、この縁に縛られて、個としての自我は、この世界で四苦八苦の生存を余儀なくされるのである。まずこの相互性の認識によって、世界の苦の根源を見抜いたのちに、解脱(liberation)への道が始まるのである。この相互性によって縛られた自我は、単なる経験的自我ではなく、世界意志の根源において、その世界構造の中に取り込まれているのであるから、そこから脱するためには、世界の根源に向かっての洞察と自己克服が必要なのである。この世界の根源が、全宇宙の個物の間の相互的<縁>からなること、そのモザイクのような連関から脱するためには、あらゆる縁からの離脱を図ること、さらに真に独立的な自己を探究すること、これが仏教の教えた修行の道である。その際相手は、時空における現象的な世界ではなく、時空を超越した物自体としての<世界意志>であるから、その困難は並大抵のものではない。たぶんそのことを徹底してなしとげたのは、釈迦や少数の修行者だけであったろう。
 たぶんこの困難さが、次善の策として、空の思想を生み出したのであろう。この空観は相互性(相依)としての世界よりも、その相互性のなかにある個の存在を、無化することによって、自我の相対的救済を図ったのである。相互連関の〈縁〉の中で、もはやもがくことをやめさえすれば、自我は全体的構造の中に相互依存的に埋没してしまうであろう。それが大乗の説く<無我>である。さらに空観をこの世界自体に及ぼせば、何一つ絶対な物はなく、すべてが相互依存的に相対的な存在であり、そこに時間表象が加われば、なにひとつ変化しないものはなく、世界そのものが空々漠漠として、自我もまた空でしかない。本来は現象界のみに当てはまる<無常観>である。
 凡愚の身として救済を願うならば、たしかに大乗の教えは大衆的であり、比較的容易な修行であろう。凡愚の身として解脱するには、唯一の可能性が残されていることを以前に論じた。それは死の瞬間における解脱の可能性である。生への意志を、死というネガティヴな出来事において、徹底的に克服する心構えを日ごろにおいて培うならば、いわば即席の解脱が可能なのではないかという、願望に近いものであろうか。いずれにしても自我の救済への道は困難にみちている。

2020年9月17日(木)
ショーペンハウアーのイデア論をめぐって

 イデアはどのようにして認識されるのか、ショーペンハウアーの学説に従って考察する。まず概念(der Begriff)とイデア(die Idee)とはどのようにして区別されるか。どちらも普遍者(universalia)であり、個物もしくは個物の概念とは別物である。この違いは一般化のプロセスに求められる。概念は個物から抽象によって普遍者へと進むのに対して、イデアはまず普遍者として存在し、それが個物に反映されるものとされる。プラトンにおいては、この両者は厳密には区別されていなかったであろう。そこでイデア論には二通りの解釈が生じるわけである。一方は唯名論に傾き、他方は実在論の立場を取る。概念の抽象化をとことん進めるならば、単なる内容のない言葉になってしまい、普遍者が最初から実在しなければ、その反映も、それの分有もありえないわけである。概念とイデアは、同じ普遍者でありながら、性質をことにするのである。しかし普遍者が、現われ方によっては、二つの相を持つということは、考えられないことではない。光が粒子であると同時に、波動であるように、両者は必ずしも異なったものではないかもしれない。このことを考えるには、概念とイデアとが認識されるのは、どのような能力によってであるかを考慮する必要がある。
 概念をあつかう能力は、ショーペンハウアーによれば理性(Venunft)である(カントでは理性は理念をあつかう特別な能力であり、悟性[Verstand]が概念の能力であるとされる)。理性は個物から抽象によって概念を生みだす。それに対してイデアを認識する能力は、純粋感性(reine Sinnlichkeit)にあるものとされる。すなわち経験の素材を生みだす感性直観の中に、イデアを認識する能力もひそんでいるのである。それゆえに、イデアは個物において反映されうる。感性界は個物の世界であるからだ。
 このように見るならば、普遍者としてのイデアは、理性においては概念として、感性界での純粋直観においては、そのままイデアの反映として現われるとしてもよいわけである。しかし理性によって把握される概念は、現象界の把握であって、<根拠の原理>に厳密に従うのである。それに対してイデアは、現象界に対してさらに積極的な働きかけをする。現象界の最初の根本的形式は、主客の関係であって、現象とは主観に対して対象となることと同義である。この形式の中にイデアが介入することによって、物自体(世界意志)が客観態(Objektitaet)となることが出来るというのが、ショーペンハウアーの形而上学における世界構造の要である。いわばイデアは物自体と現象との媒介者なのである。
 ここでイデアが意志の完全なる(adequat)客観態として発現しえない事態の理由として、根拠の原理の存在がある。人間の認識を制限しているこの原理によって、イデアは個別化され、限定され、相対化され、曖昧化されるのである。この事態はもっぱら人間の認識能力の側にあるのである。逆に、もし主観の側において何らかの変化、純化が生じるならば、イデアはその純粋な姿において、意志の完全なる客観態を現わすであろう。あらゆる個人的な意志の束縛を脱して(willenlos)、主観そのものが客観を純粋にとらえることができるならば、そこにイデアの純粋観照(reine Anschauung)が生じるわけである。しかしそれはまれな瞬間においてである。
 人間の純粋な感性直観において、イデアの認識能力がひそんでいるということは、現象の認識能力の形式である根拠の原理とは別に、ある種の認識原理を立てることをゆるすであろう。根拠の原理が現象という普遍的なものをあつかい、人間精神全般に適用の利くものであるのに対して、<イデアの認識の原理>は特殊であり、だれにも可能性としてはそなわっているとしても、だれもに発揮できるわけではない。いわば未来の人類の原理である。あるいは永遠に人類は、その境地に達することはないのかもしれない。プラトン以来、人類は精神的に少しも進歩していないからである。
 個別化されたイデアが、現象として根拠の原理によって把握されるとき、イデアは概念として現われるといってよかろう。個物は抽象化によって普遍者としての姿を取りもどすことができるが、それはもはや物自体の十全なる発現ではないのである。それは関係的、相関的な思考の姿であり、それ自体としてはもはやリアリティを持たないのである。唯一のリアリティは物自体と、それを現象界に媒介するイデアのほかにはないのである。この物自体とイデアとの融合した姿は、ただ純粋直観によってのみとらえられる。この主客の形式以前の世界のあり方は、もはや根拠の原理の範囲外であり、新たな原理が発見されないかぎりは、不可知の世界である。その不可知の世界において、世界は根本的に構成されているのであるから、その認識の原理を発見することが、科学もしくは形而上学の究極の課題となるであろう。その世界のadequatな認識が、この宇宙のあらゆる謎を解き明かすのであるから。

2020年9月18日(金)
相互性各論(空間・数・意識〉

 空間とはなにか―空間の時間化

 空間を言葉で定義することはむずかしい。とりあえず数学的に次元と考えておく。次元とは、ユークリッド幾何学で定義されている、点や線や面と考えればよかろう。ユークリッドの定義によれば、

1) 点とは,部分をもたないものである.
2) 線とは,幅のない長さである.
3) 線の端は点である.
4) 直線とは,その上にある点について,一様に横たわる線である.
5) 面とは,長さと幅のみをもつものである.
6) 面の端は線である.
7) 平面とは,その上にある直線について,一様に横たわる面である.

 部分(大きさ)を持たない点とは、ゼロ次元と考えればよいであろう。部分を持たないということは、原子でないかぎりは、空間以前といえよう。線は一次元を構成する。線の端が点であるということは、線とはゼロ次元の点から構成されていると考えてよかろう。空間的でない点から構成されているのであるから、幅がないのであり、線自体も実体的な長さを持たないと考えてよいであろう。面は二次元を構成するが、その構成要素は線であり、線が無限に増殖したものが二次元平面なのであろう。線自体が実体がないのであるから、面もまた物理的物体でないかぎりは、実体としては存在しない。さらに面に面が広がって、無限に増殖したものが、三次元の立体空間であろう。面そのものが実体がないのであるから、三次元空間も実体がない。このように考えると、空間とは実体のない構成物であることになる。
 それでは相対論における四次元時空とは、何なのであるか。空間的四次元は、三次元空間の延長であるから、それ自体実体のない、なんらかの構成物である。空間的次元は、どこまで行っても、同様なものと考えればよかろう。そこに時間の次元が加わるとは、どういうことなのか。時間は一次元であるということは、空間に一次元足せば時空間となることから、ほぼ確かであろう。この一次元としての時間は、空間の一次元である線と、どのように異なるのか。はたして区別できるのであろうか。
 空間の一次元、すなわち線を時間として考えるためには、空間には存在しない<順序>がなければならない。空間はどの次元であっても、相互規定的であるから、そこに前後や左右や上下などの絶対的順序はない。この順序を与えるものは、基本的に運動であって、運動は時間軸に沿っておこなわれる。ごく広い意味での運動は、変化と置きかえてもよいであろう。私がキーボードの上で指を動かす時は、私の指の位置が変わるのである。そこで相対的であった空間は、変化に応じてなんらかの方向性、すなわち順序を与えられるのである。これが空間に対する時間の影響である。時間とは変化のいいであり、変化の順序を定めるものだからである。
 すると、一次元の線とは、私がそれを想像したり、実際に平面に描いてみるときは、同時に時間表象であるといってよかろう。時間的な方向性を加えなければ、私は線を想像することも、描くこともできないのである。それでは、二次元の平面や、三次元の空間についてはどうか。やはり同じことが言えるのではないか。これらの平面や、立体空間は運動と変化によって、すなわち時間表象によって作られているのではないか。ヴァークレイは、三次元の空間は単に視覚によってではなく、触覚や運動感覚によって成立していると説いたが(「視覚新論」)、これを時間表象によって成立していると考えてもよいであろう。
 すべての次元、すなわちすべての空間表象は、時間の表象によって成立する。もしこのことが正しいならば、次元はすべて時間によって説明できるということである。ここからさらに言うならば、もし時間が実体として存在していないならば、この空間的宇宙も、実体としては存在しなくなるであろう。時間は相対的であり、その相対的時間によって成立する空間もまた相対的である。それゆえに空間は、実体的大きさも幅も持たなくてすむのである。
 それならば、唯一時間において現象するこの宇宙は、なにものであるか。単に時間によって順序と構造を与えられた、幻に過ぎないのか。この現象界の構造が時間からなるということは、その根源は変化と運動であるということになる。この変化と運動、すなわちWerdenをもたらすものは、さらにその根源にあるなんらかの原理、筆者のいう<根源物質>であるということになる。その根源における構造が、表象として発現するのが、この時間によって秩序づけられた宇宙なのである。時間も、その派生物である空間も、この宇宙原理の産物である。それゆえに、時間がなければこの現象界は無に帰する。この時間の無い世界において、なおも成立する物理学や形而上学があるならば、それらが宇宙の究極の真理であるといえよう。

 *    *    *

 数と相互性

 数は時間において成立する。自然数において、どんな数も前後の数によって規定されている。3が成立するためには、その前に2がなければならず、4が成立するのは、前に3があるからである。この基礎になっているものが、一次元としての時間の継起である。数を数えるとは、記憶において時間の継起をなぞることにほかならない。未来へ進むほど数は大きくなり、過去へ遡るほど小さくなる。しかしこの大小の比較は、すでに単に数えることではない。空間的量がここに入ってきている。これを単なる数列と、その数列の上に碁石を並べた場合とで比べてみる。1から10までの数列は、単に時間的継起に過ぎないが、10個並んだ碁石は一個の碁石と比べて10倍の量を表わしている。単なる数を数えることが、量の表象と化しているのである。しかし単に碁石が空間にあるだけでは、それを数量としてとらえることはできない。数列が基本となっているのである。数は空間において、なんらかの量をもった個物を表象させるのである。いわば、時間における数が空間において量化したものが、個物であるといえる。Individuationが時空からなるという、ショーペンハウアーの洞察も、この辺から出ていよう。この量を持った個物が、時間的規定および空間的規定において、相互に連関して、全体的表象界を形成しているのである。
 数の数え方には、さまざまな方式がある。通常の十進法、十二進法、六十進法など、自然数であるかぎり、すべて時間表象を基礎としている。一つだけ例外なのは二進法である。これは0と1からなり、零という自然界では表わせない数からなる。零とは何であるか。これは本来計算上の都合で作られた記号にすぎない。現実界では表わす対象がないのである。量が無いということは、表象としては存在しないということである。しかしこの0を用いた二進法において、この現象界のすべてを、数理的にあらわすことができるのである。すなわち、量を捨象して、単にあるかないかの計算だけで、この世界の現象を記述できるのである。物理現象としては、電流が流れるか、流れないか、作用するか、しないかの、二者択一によって、現象界のすべてが記述できるのである。ここでは時間がすべてである。ということは、量としての個物が存在していないことになる。0と1との関係は、ホワイトヘッドの用語を用いれば、単なるeventである。世界は個物ではなく、個々のeventからなるのである。このeventの相互連関が、この宇宙を構成していることになる。
 この宇宙を記述するのに、空間が必要ないことになれば、空間は時間に還元でき、さらに時間もまた、無時間的相互性の中に還元されて、時空なるものはもはや存在しなくなるであろう。無時間的相互性の物理学または数理がどのようなものになるか、数理に暗い筆者にはなんともいえない。少なくとも人類の知識の根底をくつがえす、画期的な発見となるであろう。形而上学の見地からは、実践においてそれに先んじることが出来るであろう。時空が無いということは、宇宙は完成された構造として存在しているということであり、このことを前提として、これまで不可能視されていた、さまざまな神秘現象が現実となるであろう。物理的にも精神的にも、<超人>への道が開かれてくるのである。

*   *    *

 意識と純粋相互性

 私が<今ここに>存在しているということの、根本的意味とはなんであろうか。それを相互性の見地から考えてみたい。根源物質においては時間も空間もなく、今ここということは、なんらの意味をもたないのであるから、私が今ここにあるということも、同様に無意味であるはずである。それにもかかわらず、今ここにある私は、間違いようのない確信をもって、今ここに存在している。何ゆえであるか。
 ここで、<今ここ>ということは、根源物質においてばかりか、私自身においても、意味がないということを、よく考えてみるべきであろう。私にとって今とは何であるか、私が本質において無時間的であるなら、この今という言葉は私自身に適用できないはずである。私は<いま>存在しているのではないのである。私はただ、端的に存在しているにすぎない。<ここ>についてはどうか。<ここ>とはどこなのか、私は知らない。私は<ここ>には存在していないのである。わたしは<いつどこに>存在するというような存在ではないのである。相互性について、深く思いをいたせば、私が無時間的かつ没空間的存在であることが実感できてくる。
 私が今ここにあるということは、少しの謎でもない。なぜなら私は存在すべくして存在しているからである。それは宇宙が存在すべくして存在しているのと同様である。私の存在以外には存在はなく、私の存在が同時に宇宙の存在なのである。これが純粋相互性における、私の存在の唯一の意味である。私は私であることによって、全宇宙でもあるからだ。これはある意味で私が神に等しい存在であるということだが、この言い方が不遜であるならば、私は時空を超越した存在であるということだ。私がどの時点、どの空間に、現象的に現われようと、私が全宇宙であることに違いはない。この認識へといたることが、ある種の超越なのであり、ニルヴァーナなのである。
 私が純粋相互性において全宇宙をカヴァーし、全宇宙と一体化しているという洞察に達したとき、はじめて私の存在の本質が開けてくる。 この宇宙と共に苦悩することによって、この宇宙の本質を洞察し、宇宙と共に自己自身の救済へと向かう意志が開けるのである。この宇宙を解消する鍵を、ひょっとして私は握っているかもしれないのである。少なくともそのような可能性を、聖人たちは説いたのである。
 見神といったような特別な意識状態が必要というわけではない。自我の存在そのものが根源において、相互性の世界に深く取りこまれていることが、すでにして自我の無時間性と没空間性を前提としており、自我が自己自身を意識することが、すでにある種の見神なのであるから。自我の存在自体が神秘なのであり、その神秘性に気づくことが、見神そのものなのである。それ故に神秘家は<私が神である>と言いうるのである。

2020年9月22日(火)
夢と相互性

 夢の表象は、覚醒時の表象と違って、時空における連続性を保証されていない。夢はいわばcut upされた表象の世界である。時空の連関から解き放たれて、コラージュもしくは切り貼りされた表象が、それぞれ一見独立した時空をしめている。一連の表象と表象の間には、統覚の先験的統一、すなわち同一の自我の意識の連続が失われているのである。このように曖昧な自我意識の中では、覚醒時のような確固とした現実感が失われるのがふつうである。しかし、このことがかえって好都合な場合がある。
 相互性の世界は時空を超越しているのであるから、時空の観念が曖昧であればあるほど、相互性は意識を超えて、あるいは意識の背後において、発現しやすくなるはずである。夢の世界は表象の世界と、相互性の世界とが、渾沌と入りまじった世界なのである。ネルヴァルはそれを<第二の世界>であるとしたが、表象界と相互性とを媒介する<第三の世界>であるとしてよいであろう。第一の世界である純粋相互性の世界は、世界意志とイデアとが融合した<根源物質Arche>の世界であり、第二の世界はその客観態である表象の世界すなわち、いわゆる現象界もしくは経験界である。
 第一の世界に到達するためには、内的経験いがいにないことは、(自然科学者はいざ知らず)あらゆる哲学者、神秘家の同意するところであろう。たとえ概念であっても、概念を理解するには、内的経験いがいにないのである。哲学者は、少なくとも形而上学をこととする哲学者は、内的に知られる、概念や<意志>をもって、世界の究極の本体に迫ろうとする。しかし通常の経験の中で見落とされている、もっとも手近な、世界の根源にせまる現象がある。それが夢の世界である。ネルヴァルの言葉を引用しよう。

<夢は第二の人生である。目に見えない世界からわれわれを分かっている、この象牙や角の門口をくぐりぬける時、私は身震いを覚えずにはいない。眠りの最初の数瞬は、死に似ている。ぼんやりとした無感覚な状態がわれわれの思考をとらえ、われわれは、自己がいまひとつの形態のもとに存在のいとなみを始める、正確な瞬間を決定できないのである。それはわずかずつ明るみを増す地下の空洞である。そこでは暗闇と夜とから、地獄の辺土に住む蒼白い亡者が、いかめしくも身を固くしてたち現われる。それから場面が開ける。新たな光が照らし、これらの奇怪な幻影を演じさせる。つまり、我々のために精霊の世界が開けるのである。
     ――ジェラール・ド・ネルヴァル「オーレリア」>

 ここでネルヴァルが<精霊の世界>と言っているのが、根源物質(Arche)の世界からのさまざまな影響が、夢の表象の中に潜み現われるものである。それについて若干の例をあげてみたい。夢においては意識の幅が狭まる。通常は夢の意識は漠然としているが、ある場合に意識の集中が起こり、空間の範囲が狭まると同時に、急激に知覚の明るさが増していく。いわゆるvivid dream(明瞭夢)である。場合によっては現実以上に現実感を覚える。むしろこの現実を超えた現実感が、これは夢ではないかという疑念を起こさせるのである。この明瞭夢においては不思議な出来事が多々起こるのである。夢における浮揚がその一つである。
 この夢中浮揚についてはラフカディオ・ハーンのエッセイに詳しいが、若干つけ加えると、どうもこの夢中浮揚はエロスとの結びつきが強いようである。飛翔している最中に、だんだん体が重くなってくる。心臓に痛みを覚え、ふと目が醒めると、たいていは性感を覚えている。どうやら夢中飛行は男性器との結びつき強いようである。性エネルギーが浮揚感をあやつっているのであり、それが飛行の夢となるのである。魔女が箒にまたがって飛行するというのも、男根に代わる箒が、性エネルギーを象徴しているからである。性衝動は、世界の根源から発現するのであるから、夢の表象をあやつる最大の力であるといってもよいのである。
 この浮揚感はまた、身体感覚の曖昧さを知らしめる。特に就眠時において、身体が異様にふくれあがって感じられる。知覚が身体のオリエンティーリングを失って、どこまでが身体の限界であるかを明瞭にとらえられなくなっているのである。これがいわゆる幽体離脱の正体である。この状態において浮揚しているとき、あえて眼をあけてみると、普通に布団に寝ているおのれを見いだすであろう。
 夢ではしばしば幽霊が現われる。幽霊であると分かるのは、押しころされた恐怖感がどこかに漂っているからである。死者の霊が夢において現われるのは、当然ながら、死者はすでに根源物質アルケーの世界に葬られているのであり、それの一番発現しやすいのは夢においてであるからだ。それが幻覚にまで高まるのはまれであり、あるいは病的な状態においてである。幽霊とは何であるか。それを考えるには、そもそも死者とは何であるかを考えねばならない。死とは現象的な出来事であり、根源物質の世界では、生も死も出来事としては存在しない。すべては相互的連関のなかでの、世界構造の一部にすぎないのであり、そこでは生きることも死ぬことも、個々の現象としてはないのである。死者は死なないといってもよい。一個の人生としては、生も死もないのである。それゆえに、アルケーの世界では、死者も生者もない。夢の世界ではそのことを反映して、死者が現われても、通常は死者として扱うことはないのである。死者であることに気づくときは、すでに醒めている。

 )亡くなった親しいものが夢の中に現われるとき、たいていは若返っていたり、あるいは病気が回復して、以前のような状態で活動しているものである。ただし、ふと居なくなったり、行方が分からなくなり、一体どこへ出かけたのだろうと、いぶかしさと不安にとらわれはする。未開人は、死者の行く先として、祖霊の世界を考えた。生者の立場から、行く先を定めたのである。現代人も時として、祖霊の世界(いわば霊化されたアルケーである)に思いをいたすとき、不気味さとともに、そこに親しい者たちがいるという思いに、あるゆかしさと安堵を覚えるであろう。

 幽霊は特別な死者である。死者を死者として扱わないのが、通常の死者の夢であるが、幽霊はほぼ明瞭に死者であることがわかっている。その背後には特別に強力な情念が働いている。その愛憎が死者を幽霊として選別するのである。憎しみや恐怖は、自ずと幽霊を呼び出す。子供のころ、夜ごとお岩さんの幽霊に悩まされたのは、恐怖そのものが生み出した幻影であった。その恐怖の根源には、自己自身の内的世界に無雑作にふみいってくるものとしての死者の怨念に対する、深い憎しみがあったろう。いまだひよわな自我のバリアーが破られることに対する、深い恐れである。
 転じて、死者になんらかの愛を抱けば、やはり幽霊として発現するであろう。ある女の幽霊と数年つき合ったことがある。たいていは、言葉として、寝ても醒めても語りかけてくるのであるが、あるとき自分の正体について詳細に語り始めたとき、極力耳をかたむけないようにした。聞き知ったとしても、彼女に何一つしてやれる自信がなかったからである。一度だけ、布団の中に入ってきたことがある。うつぶせになって、その黒髪を右手で撫でていた。直接見ることが怖かったのであるが、撫でていると、その手の先から髑髏が浮かび上がってきた。目覚めると、うつぶせに防禦の姿勢を取っていたと思ったのが、仰向けに寝ていた。夢のなかでは気づかなかったが、胸がはげしく鼓動して、恐怖がわだかまっていた。
 死者の夢も、幽霊の夢も、夢の世界が相互性の世界の影響を強く受けることから理解できる。夢の世界は時空を超越した世界を垣間見せるのである。いわば相互性の世界は、一冊のとてつもなく厖大な書物であり、その書物を読むには、夢の書を読むしかないのである。そこには死者も生者もない。書物そのものは永遠だからである。人生そのものは、永遠にその書の中に封じられているのである。さいわいにも、それが一度限りの人生であることが、救いといえよう。あらゆる幽霊、亡霊も、二度同じ人生をくりかえすことはない。これが宇宙の慈悲であろう。

 夢における、より直接的な恩恵は、夢において発現する特殊な能力である。これらも相互性において解明できるであろう。予知夢がその例である。予知能力はテレパシーや透視と深く関連しているが、ひとまず別の能力としておく。夢の中で未来の出来事が象徴的に現われることは、夢が相互性の世界を反映した表象であることから、当然ありうべきことである。具体例をあげても、個人的な意識内の出来事であるから、いたずらに不信を招くだけである。しかし、こんな風なものだということだけは述べておく。ある夜明け方の夢に、よくあることだが、火事の夢を見ていた。一つの大きな町が、いたるところ燃えているのである。その日は一日テレビを見ずにいたが、夕方、テレビニュースをつけたとたん、町じゅうに火の手の上がっている映像が飛び込んだ。神戸の市街であった。朝方襲った震災で、二次火災が起きたのであった。そのこと自体夢に思われた。これなどは単なるコインシデンスで片づけられるであろう。しかも、遠く離れているとはいえ、地震を感じているであろうから、その連想で火事の夢を見たのであろう、ということになるかもしれない。もっと直接的な例をあげることが出来るが、控えておく。
 実のところ、夢の予知には実利的な面があるとはいえ、そもそもすでに決まっている未来を知ったところで、これといったメリットはないのである。たとえ災害を予知できたとしても、それを阻止できるわけでもなく、良い未来を予知しても、それを知ろうと知るまいと、良い未来は来るのである。予知ということ自体が、すでに必然の中に組み込まれているからである。
 テレパシーは、夢の中で他者の想念が、言葉やイメージとなって伝達されることで、超心理学の統計的な実験よりも、具体的に納得しやすいであろう。その逆に、他者の夢におのれの想念を送ることもできるのだが、これを意図的にすればいわゆる<呪術>となってしまい、めったにするべきことではない。通常は、他者の想念は無意識に送られてくるものであり、相手は気づいていないであろう。<生霊>という幽霊現象があるが、これの正体が、無意識におけるテレパシーのはたらきで、相手を呪うことである。相互性の世界においては、個と個の区別は存在しないのであるから、スエーデンボルグがいみじくも述べているように、彼のいう霊界、すなわちアルケーの世界では、どのような個人の想念も相互に伝わりあい、どのような隠しだても不可能なのである。この相互性の世界を介して、この時空によって制約された世界においても、直接想念の伝達が、時として無意識に、あるいは呪詛によって生じるのである。これがテレパシーの正体である。
 夢とは離れるが、透視に関してふれておくと、透視はテレパシーと区別しがたい場合も多いであろうが、五感以外での事物の認識の可能性である。他者の表象による感応が排除される場合にも、物との純粋な感応が起こりうるであろう。この場合、なんらかの意志の働きが、物へとほとんど無意識に知覚をひきつけてゆくのである。そのさい五感もまた同時にとぎすまされてゆき、普通以上の鋭敏さで物をとらえるのである。たとえば、ものを探す場合に、五感いがいにある種の<かん>に頼るのは、そのケースである。さらには触覚(指先)でもって文字をとらえることが可能になる。物を見るのは単に視覚だけではなく、最新の脳科学では、脳自体が物を見ているのである。その場合に、五感のように間接的な器官ではなく、脳神経そのものが物をとらえるのであるから、はるかに相互性の世界に近いであろう。これはテレパシーや予知の能力についても同じことなのであるが、脳の機能そのものが、直接根源物質にかかわることによって、これらのいわゆる超能力が可能になるのである。

 純粋相互性の世界においては、万物が相互に連関して、一つのモザイク画を作っており、一個のパートは他のすべてのパートと相互に依存しあっているのであるから、情報の伝達などというまどろこしいこと(光速という限界がある)はないであろう。あえて時空の用語を用いれば、一つは全体と瞬時にして、無限の時間と、無限のへだたりにおいて、感応しあうのである。予知もテレパシーも透視も、この相互性の世界に同じ根を持っている。知的生命体は、このような宇宙の無限の感応を、時空に翻訳して認識し、理解するほかはないのである。人間は実のところ、無意識に予知やテレパシーを働かせ、おのれの宿命そのものをたどっているのだといえなくもない。人間はあらゆる生命と同様、その根源においては無時間的であり、没空間的である。それを時間・空間的に躍動させて生きることが、生命に課せられた宿命であり、使命であるといえるかもしれない。それが究極において宇宙を理解することにつながるからである。宇宙を理解することによって、そこから救済への道が開かれるのである。

2020年9月29日(火)
イデアと相互性

 生命体において世界意志とイデアとの類比を求めるならば、高等動物における生殖器と頭脳とがそれであろう。人間の身体において見るならば、生殖器は生への意志を代表し、脳は概念としてのイデアの座である。この両者が身体において両極に位置するということは、意志とイデアとの根本原理における対峙を示唆していよう。頭脳と性器との間には、食欲に代表される生への意志が、口腔から内臓へとつらなっている。身体は食と性という圧倒的な生への意志に占められており、イデアを代表する部分は、たいていの動物においては、かつがつ頭部において貧弱な営みをなすにすぎない。人間もまた例外ではない。顔の中心部は、鼻口といった、生の営みによって占められており、せいぜい耳や目において、なんらかの精神の働きが行われるにすぎない。おまけに、目や耳の主要な働きは、やはり生命維持に圧倒的に奉仕している。デカルトは、精神は松果体に宿るとしたが、なんとも貧弱な部分にしか、精神の居場所はないものか。
 この世界はイデアの設計図から造られている。それにしても、世界意志とイデアの産物である動物や人間は、圧倒的に意志によって支配されているのである。イデアについて思索したり、反省したりすることは、実は生命界全体ではまれなことなのである。そのことが、生命にとってなんらメリットをもたらさないからである。思索や反省によって、この世界の根源を変えることができるわけではないからである。思索はたしかに生命にとって有利な条件をもたらす。しかし道具としての思索は、すでにイデアによって設計されており、イデアの設計図そのものを変えることはできないのである。思索はイデアそのものを対象とするものではないからである。
 知的生命体、すなわち理知が対象とする現象界におけるイデアは、すでに述べたように単なる<概念>である。概念の正体は、言葉(記号)によってつつまれた、単なる抽象物にすぎない。この抽象物の世界において成立するのは、論理と数理である。人間の理知は、この論理と数理によってイデアをとらえるほかはないのである。そのようにとらえられたイデアは、イデアそのものであるという保証はない。単に根源物質アルケーの世界が、数理もしくは論理によって表わされうるというに過ぎないのである。もしイデアの真の姿が、ショーペンハウアーの言うように、感性直観(reine Sinnlichkeit)においてとらえられるものとするならば、それは概念とは別のものと言わねばならない。それは全体的相互性の世界である。それは時空を超えた直観においてのみ現われる、全宇宙のなんらかの根源的イメージ(あるいはイメージとして現象可能なもの)である。それが世界意志とイデアとの、根源において融合した姿であるといえよう。そこではイデアは純粋相互性そのものである。
 イデアによって相互性の世界に発現する世界意志は、単なる可能性にすぎないイデアに、現実性を与える。あるいは世界意志は、イデアの設計図を実現する、(アリストテレス風にいえば)動力因および質料因をなしている。イデアは形相因として意志と合体し、全宇宙が無時間的、没空間的に構成される。この根源物質アルケーにおいては、両者は同等の現実性を持っている。イデアは世界意志とともに実在(das Reale)であり、ともにこの世界における唯一の現実(Aktualitaet)をになっている。この根源的実在界が、時空において現象するとき、イデアは全体的相互性の世界としては現われず、単なる概念としての姿をとるのであることは、すでに論じた。いわばイデアの影であるこの現象界では、イデアはお忍びで、概念として表象界に紛れこむのである。その概念の場が、生命体においては脳なのである。身体の片隅で、ひっそりと、意志によって実現されたおのれの姿を、思索によってとらえるのである。同時にそれは意志にとっての反省の機会であり、さらに言えば、自我にとっての反省の機会でもある。この反省において<三一体>が出合うことによって、いわば宇宙的なコムニオンが可能になる。これの媒介をなすものが理知、すなわちイデア界の脳における反映である思索にほかならないのである。