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Contents:文学はカネくい虫?/文学と人生/ベオウルフ他/詩人を名のる/アンナ・マリア協奏曲/音楽と世界意志(デミウルゴス)/ラ・ストラヴァガンツァ/ヴィヴァルディ再入門/闇の力/文学とは何か/幽霊と人生(怪談について)/文芸の観察について


2007年2月11日(日)
文学(文芸)はカネくい虫?(K)

 今年の最初が既に二月となってしまいました。
 遅ればせながら、今年も、ねこひよともども、エポス文学館とよろしくお付き合いください。
 妙なタイトルをつけましたが、ある同人雑誌で、文芸はカネくい虫というようなことを読みましたので、それについての感想を書いてみようと思います。私自身はこれまで同人誌に関係したことはなく、言ってみれば一匹猫なのですが、その場合どうしても発表の場がありません。
 それでもたいして困らなかったのは、もともと書くものは、常に習作の意識段階を出ないからです。たまに良いものが書けたと思うことがあっても、書いたことだけである種の満足感を覚えてしまって(例えばそれによってトラウマが克服できたりすることで)、読み返すことすらしません。何年も経ってから読み返してみて、ある種の感動を覚えることがありすが、既に過去の私とは違った私になっていますので、いまさらの発表はためらわれてしまいます。まして、稚拙さが目につけばなおさらです。
 自らエゴ小説と名づける、そんな習作を何篇も書きましたが、それはそれ自体で私の人生にある機能を果たしていました。私自身を客観視する手段であると共に、創作することによる陶酔もしくは慰撫を与えてくれたからです。創作の行為そのものが充分に報酬でした。発表するかどうかは、その先の別次元の問題です。
 ある人は、自分の作品の客観的評価がほしいから発表するのだと言います。私は、十年も経てば自分の作品の客観的価値はそれなりに分かるものだ、と考えています。その時なお読むにたるものであるならば、万難を排して発表しても遅くはないでしょう。またある人は、創作する時は人に語りかけるのだと言います。私は、少なくともこれまでは、創作する時はおのれに語りかけました。こうすることで、おのれ以外の読者を排除できるからです。これがエゴ小説たるゆえんです。
 そういうわけで、私にとっては、文芸は、いかに発表を考えずに創作できるかと言う問題一つでした。それなのになぜ努力できるか。ある人は、誰にも読まれないならば書く意味はないと言います。私は少なくとも、ただ一人の読者(私自身)があればよいとします。もともと私にとって、純文学はいわば日記の延長のようなものですから、その動機は、日記がそもそもそうであるように、個人的領域に発しています。私にとって日記とは、身辺雑事の記録ではなく、おのれの本質が最も赤裸に吐露されうる場所です。そこから文学への根本的衝動も生まれてきます。
 もともと文芸趣味と言うものは、たいていの場合、世にある文学作品を読む喜びから始まります。そして、一生読むことの喜びだけで終わるならば、それにこした事はないのでしょう。それなのになぜ作る側に回る必要があるのか。私は海辺の一軒家で、何の生活の心配もなく、毎日「アーサー・ゴードン・ピム」や「白鯨」や「氷のスフィンクス」などを読みふけっていられる老後が、昔から理想として浮かびました。そうした作品を自ら書こうなどとは夢にも思いませんし、めったに書けるものではないでしょう。一読者であることの幸福感で充分です。 しかしその理想は、決して実現することはないでしょう。一つの文学世界で満足できた若年期の理想を、老年期に投影しているだけなのですから。リチャード・ジェフリーズではありませんが、この巨大な宇宙と言えども彼の自我の膨張には及ばなかったように、おのれのすべてを尽くしてくれる文学は、厖大な世界文学と言えどもそうそう簡単には見つからないのです。
 誰も書いてくれないことは自分が書くしかありません。これがあらゆる真摯な創作のきっかけだと思います。
 もしそれが発表の必要があるものなら、出版の費用は少しも惜しくはないでしょう。おのれが生きてきたことの証しとして、国会図書館に一部残しておくのも愉快かもしれません。
 幸いインターネットと言う金のかからない媒体が生まれたため、アマチュア作家にとって、文芸は金がかかるという嘆きも、少しは緩和されるかもしれません。

2007年4月8日(日)
文学と人生(K)

 前回の記事は、文学趣味と金の問題という、アマチュアにとっては頭の(ふところの?)痛い、とはいえあまり本質的でない無粋な話題から入りましたので、今回は正面きって、文学の意味を考えて見たいと思います。
 今日、文学は個人的いとなみとされることが多いのですが、そして私自身もそのように考えますが、古来、文学の発生などを見ますと、今日よりもずっと実社会に近いところで、社会的機能を果たしていたようです。神話伝説なども、今日我々が文学として読んで楽しむような、単なるファンタジーの世界ではなかったはずで、共同体全体の想像力がそこに参加して、ひとつの社会的集合意識を作り上げていたことでしょう。
 文学は本来、共同体の集合的想像力の産物でした。それが今日のように、個人的想像力の産物となって行った過程には、文学の享受の媒体が耳から目へと移って行ったことと、社会と個人とが必ずしも調和しなくなったことが、大きな分岐点となっています。一方では文字の発明、印刷術の発明、他方では社会の際立った階層化、知識人の孤立、などが、今日の文学の享受と創作のあり方を生み出してゆきました。
 人間が世界と交渉する仕方には二とおりあります。デイヴィド・ヒュームはそれを哲学的に印象と観念に分かちましたが、簡単に言えば、一方はオリジナルな世界であり、他方はそれの影もしくは写しであります。我々が普通に世界と呼んでいるものは、印象によって伝えられる、いわゆる実在界であり、外界です。それに対して観念とは、記憶や想像力によって生み出される世界のこととしてよいでしょう。人間はもとより、この二つの世界を行き来しつつ、ホモ・サピエンスとしてのあらゆる生活を営んでいるのですが、この二世界を長く分離しなかったばかりか、時には混同さえしたのです。
 古代の神話伝説の世界は、この二世界の意識の未分化の段階の産物と言えます。ここでは神々や英雄の世界が観念の創出であるという意識はなかったことでしょう。おそらく、人類文化において、この二世界の分化を強力にもたらした第一の要因は、書物の出現であったと思います。皮肉なことに、人間の観念界は、文字というれっきとした実在物を媒介とすることによって、より観念性を高めていったと言えるでしょう。 ミヒャエル・エンデの物語では、書物そのものが架空世界への入口であることによって、書物のこの意識分化の役割を二重に暗示しています。
 少年期や青年期に受ける書物からの圧倒的影響の大きな部分は、この意識分化の完成にあると言えます。読書にふけることによって、自己自身をも含めた周囲の現実世界がいかに貧しいものであるかに気づいてゆきます。青少年期に特有の強力なイマジネーションによって、現実よりも書物の世界の方がはるかに魅力的に映ります。
 特に文学の読書は青少年期の意識分化の過程において、強力な役割を果たしています。空想力豊かな子供時代に読む物語は、写実的であれ空想的であれ、子供にとって決して現実の代用品ではありません。子供の生命力は物語の中に、現実と勝るとも劣らない世界を見出します。むしろ子供の情念は物語りの中にこそ、より強烈な執着の対象を見出すほどです。この段階では、子供にとって想像力の世界は現実界に見いだされる一つの喜びの可能性にすぎません。それが現実でないなどという意識は、子供にとって無意味なのです。観念界が、と言うよりも空想界が現実界を覆いつくしています。その意味では、未開人や古代人の未分化な意識と通じるものがありますが、今日、書物を媒介として自在に空想と現実を行き来する子供たちは、空想と現実とのすみわけを行なっている点において、もはや未開人ではありません。子供は情念を物語の中に注ぎ込んでも、それを現実界と混同することはまずないのです。
 子供は既にすみわけと言う形で意識分化を行なっているのですが、次第に空想界は現実からの圧迫を受けて、対等の価値を揺るがされてゆきます。この圧迫は外部からと、最終的には内部からの二重の圧力であって、この圧倒的な現実の力と闘うことは並大抵のことではありません。青年期におけるこの格闘によって、人間は生命の欲求によって現実界に縛り付けられた存在であることに気づいて行きます。空想界によってはもはや太刀打ちできない、この圧倒的な生命の力に対抗するためには、総力をあげた観念界の反撃が必要になります。知性や、精神や、理想が援軍としてはせ参じます。終いには、宗教や神までが登場してくることでしょう。しかし、いまだかつて、生命を放棄すること以外によっては、生命に打ち勝つことはできなかったのです。
 青年はこの敗北によって、いったんは生命欲と現実の軍門に下ることでしょう。そうして密かに観念界を温存しておく他はないのです。生活の欲求が唯一の価値として君臨します。かつての知性や精神や理想は生命に奉仕する道具と化します。その時文学もまた、現実に奉仕する観念界の道具となります。リアリズムが合言葉となり、生活を描くことが理想視されます。しかしまさにその地点から、文学のひそかな反撃が始まります。文学はかつて現実界から独立した存在として、楽園に暮らしていた記憶を失ってはいないのです。
 文学は言葉と言う現実界の道具を媒体とした観念の世界です。現実界を言葉で写しとろうとする時、ヒュームの用語で言えば、観念でもって印象を写しとろうと言うのですから、影が実体に代わろうとするようなものです。一つの体験は千万言をもってしても尽くすことは出来ないでしょう。文学は現実に仕えるためには、あまりにも不完全な道具です。それに対して、文学が本来のエレメントである観念界に遊ぶ時、言葉は無限の連想を生み出してゆきます。文学は言葉の媒介によって逆に現実界を取り込み、そのエネルギーによって観念に印象の持つ鮮明さを付与してゆきます。文学は現実に仕えるかのようなふりをしながら、逆に現実をおのれの思うがままに作り変えていったのです。その世界はもはや無垢のエデンではありませんが、文学が現実との闘いにおいて勝ち取った一つの自由の世界であることに違いはありません。

2008年3月8日(土)
同時進行中:<ベオウルフ>他 (K)

 四千のキリ番を越えましたので、今回もカイメラ氏の英雄詩講座を催すことにしました。古英語で書かれた英雄叙事詩<ベオウルフ>の紹介です。叙事詩自体はあまり読みやすいものではありませんので、カイメラ氏に分かりやすく料理してもらいます。
 エポス文学館という看板は単に便宜的なものであって、総合的な文芸というほどの意味合いでしたが、かりに文字通りにとって叙事詩に関心を持つ方が来られたとしても、困らずに済みそうです。epos の語源はギリシャ語の epopoiia (言葉でもって作る)ですから、文芸そのものに代用してみたわけです。
 本来のエポス(叙事詩)は、今日ジャンルとしてはほとんど廃れています。文学史の常識として、小説の隆盛とともに消滅したジャンルです。ただし西洋では、Leseepos(読むための叙事詩)として十九世紀まで様々な詩人が創作していました。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ロングフェロー、テニソンなど、思い出してみてください。
 サロン・ウラノボルグの<虹を追う少年>は途中まで入力して止まっています。そもそも作品を発表するのに枠構成などという面倒なものを取り入れたため、作品に入るまでに骨折ってしまいます。韜晦趣味がわざわいしたようです。自己満足の最たるものかもしれません。
 翻訳では<砂丘の冒険>の第三章を気が向くと訳しています。これも新しいものへ気が行ってしまいますので、いつ終わることやら。
 とにかく、自分が本当に書きたいこと、訳したいものは何かを常に考えて、それを優先させてゆけばよいわけです。それがアマチュアらしさですから。

2009年12月7日(月)
詩人を名のる(K)

 かつては詩人はシャーマンと同じ特殊精神の持主であったようだ。シャーマンの候補者はコミュニティから逸脱した変わり者として注目され、適当な時期にシャーマンの後継者に選ばれ、最終的に原始社会の中で一定の役割を与えられた。森や自然の中での孤独な徘徊、奇矯な言動、病的発作などがシャーマン候補者の資格であった。シャーマンは同時に伝承や物語の語り手でもあった。シャーマンが出入りする夢や祖霊の世界などの異界は、未開社会にとっての知識の宝庫でもあった。シャーマンはトランス状態において、異界の事情を言葉によってこの世界にもたらしたのである。無意識界から発現する夢や祖霊の世界と言語とは、どこかそのメカニズムにおいて共通の根を有するようである。言語もまたその発生において、大いに無意識のメカニズムに依存している。シャーマンは新しい言葉、あるいはひょっとして言語そのもののの創造者でもあった。
 このシャーマン=詩人はれっきとした社会の成員であったばかりか、時にはその社会を代表する存在であった。異界と交流する特殊な精神能力を持ったシャーマンが、精神異常者として社会から排斥されず、社会の中心的存在ですらありえたのは、未開社会そのものがその精神の半分を異界の想像によってどっぷりと浸されていたからである。異界が現実界としだいに分離されていくことによって、シャーマンの価値も影響力も失われていく。もはやシャーマン=詩人は社会的役割を終えたのである。
 シャーマンの末裔である詩人は、シャーマンの精神的特徴を色濃く残している。社会のその他の成員との不協和、孤独癖、異界への並外れた関心もしくは感受性、これらは今日では詩人の社会的不適応の原因となっている。シャーマンは今日では精神異常者もしくは詐欺師に等しいものと見なされ、詩人はたいていは無害である点において夢想家もしくは現実不適応者と見なされている。現実不適応者である点において、詩人は既に職業としては成り立たないのであり、詩人を名のることは現実社会において無能者であることを宣言するようなものである。実際にたいていの詩人の生活は、無能者でなければ性格破綻者のそれである。あなたは詩人ですねと言われて傷つく人がいるのは、そのためである。
 シャーマン=詩人に現実を突きつけてみても無意味である。かつてのようにトランス状態において異界と交流するまでには至らなくとも、彼らにとって夢や想像や憧れや理想が真の世界であり、たいていの人間が営んでいる現実などと言うものは無くてもよいものであるから。かりにおせっかいな人が詩人に対して現実こそ真の世界であると納得させたところで、その失望と落胆は鬱病をもたらし、彼らの精神を更に不安定にさせるだけのことである。現実離れした希望や、想像や、空想こそが彼らの生きる原動力なのであるから。
 こうした詩人が生活する場は、現代社会においては与えられていない。食らうべき詩などと言う勇ましい企てに耽ったのは啄木であるが、詩と食とはミシンの上のコウモリ傘ほどに無関係な事柄である。詩人が詩を営む場は、かつてのシャーマンと同様に異世界とつながる言語空間である。しかし現代人の暮らす世界にはもはや異世界の入りこむ余地はない。誰もがサンタが存在するかのようにふるまっているだけである。かのようにふるまうだけならば、たいていの現実的人間も許容するであろう。おまけにそれが商業的利益をもたらすならば、いかようにもふりをするであろう。詩人だけがそうしたふりのできない不器用な人間なのである。
 パソコンや携帯電話が普及した現在、仮想現実という一見現実と対立しているかのようなゲーム世界が流行している。あたかもかつての異界に若者たちが捉われ出したかのようである。しかしそれがコンピューターと言う器械によって作り出された世界であることは、だれもが知っている。その仮想世界に参入するには、器械を扱えることと、与えられたルールを心得ることなど、誰にも開かれた条件で済む。言ってみれば現実の中の現実の模写である。異界との交流はシャーマン=詩人だけに可能であった。彼らはそれを言葉によって追体験させたのであったが、その体験そのものは俗人には開かれていなかった。
 現代の若者たちが、シャーマン=詩人の原体験にもとずく言葉の仮想空間ではなく、コンピューターの作り出した擬似体験である仮想現実に圧倒的に捉われていることは、詩人の存在をますます稀薄にしている。詩人は絶滅危惧種であり、いずれは詩も詩人も死語となるかもしれない。しかし朱鷺と同じように保護されることによってまで、詩人は生き延びようとすべきではないであろう。滅びの運命を身に担いつつ詩人を名のるべきであろう。

2019年3月20日(水)
アンナ・マリア協奏曲

 ヴィヴァルディー(1678−1741)のあまり知られていない協奏曲集に、「アンナ・マリアのための協奏曲集」というのがある。初めて聴くと、「調和の幻想」や「和声と創意」に比べて、いつものヴィヴァルディーであるが、どちらかというとシンプルで、すぐには面白いと思わない。しかしくり返し聴いているうちに、その独特な曲想やリズムが、しだいに頭についてくるようになり、弦楽器についてはよく知らないのだが、さまざまな技法が駆使されていることが分かってくる。
 朝、寝起きにそれらの曲想が自然に鳴り響いてきて、聴きなおしてみるまでは消え去らないのである。クラシックの作曲家の中で、個性的で独創的な曲想にかけては、ヴィヴァルディーとモーツアルトが一番であろう。ある音楽好きな人に、ヴィヴァルディーとモーツアルトはよく似ているといったら、否定された。そのような発想で音楽を聴く人は少ないからであろう。いずれにせよ、呆気にとられるような曲想が、この二人の作曲家には共通しているのである。
 「アンナ・マリア協奏曲集」であるが、これを通して聴くと、ある共通のリズムや曲想が全体を貫いており、全体をまとまりのある長大な協奏曲とみなすことができるであろう。気分が沈んでいる時や、退屈している時は、この心地よいリズムと変化に富む曲想によって、たちまち生命欲があふれてくる。ヴィヴァルディーの音楽は、人によっては騒音としか聞こえないようで、「四季」などもうるさがられることがある。人間どうしのちまちました関係からはなれて、生命そのものの躍動に身を任せる時、最もよくヴィヴァルディーが理解できるであろう。もっともこの理解とは、共鳴の意味であるが。
 ところで、たまたまテレマン(1681−1767)の「ターフェル・ムジーク」を聴いていたら、ある曲が「アンナ・マリア」の曲にそっくりなのである。どちらがオリジナルなのであろうか。テレマンにしては珍しく活発な曲なので印象に残っていたのだが、たぶん調べるまでもなく、ヴィヴァルディーからの借用なのであろう。バッハ(1685−1750)もオルガンに編曲などして、ドイツ・バロック音楽へのヴィヴァルディーの影響は、よく知られたことであるから。どちらかというと鈍重なドイツのバロック音楽に、南欧の生命にあふれた躍動感をもたらしたのが、ヴィヴァルディーであったのだ。
 ヴィヴァルディーの音楽を千篇一律と見なす人も多い。いわばソネットを500篇書いたようなものである。しかし、そのどの曲にも必ずなんらかの曲想やリズムの変化や工夫が加えられており、協奏曲集を全篇聴いても、おうおうにしてテレマンやアルビノーニの場合のように、単調さに飽きることがないのである。たしかにベートーヴェンやブルックナーやマーラーに比べたら、ヴィヴァルディーはクラシック界の”ポップス”にすぎないかもしれない。しかし最良の詩は、短いのが良い。<音の抒情詩人>であるヴィヴァルディーに、叙事詩を求めるまでもないのである。
 昔、詩などというものを試みていた頃、「夜」を詩にしてみたいと思ったが、とても言葉では及ばないことが分かった。音楽は心情そのもので雄弁に語りかける詩なのである。このことをもっともよく分かっていたのが、<音の抒情詩人>であるヴィヴァルディーなのだ。

2019年6月9日(日)
音楽と世界意志(デミウルゴス)

 「バッハの音楽の中に、非常に複雑で、理智的で、一種の音の数学といった要素があることも否定できない。同時代の大哲学者ライプニッツは、音楽のことを“魂の意識しない数的比例の計算”にたとえている。またバッハの友人で、親戚でもあったヨハン・ゴットフリート・ヴァルター(1684〜1748)は、一七〇八年ごろ著した『作曲法教程』の中で、こう言っている。<作曲とは数学的な知識である。それによって人びとは、美しい純粋な音の調和を作り上げ、それを紙に書きしるす。それが歌われ、演奏される時に、人びとの心は神への敬虔な思いに導かれ、それとともに耳と心のたのしみを得る。>
 しかし、音楽が人間の心の営みの中でもっとも抽象的で合理的な数学的思考を手本にして、神的な調和や秩序をこの世に映し表そうとつとめた時代は急速に過ぎ去っていった。数学的な思考は法則性と体系性を重んじる。鍵盤楽器の黒鍵白鍵の上のすべての調をひとつ残らず用いたバッハの《平均率》や、ひとつのテーマから対位法的な展開のあらゆる可能性を汲み尽くそうとした《フーガの技法》の世界は、この思想の音楽的な記念碑である。だが十八世紀もなかばに近づくと、人びとはもっと軽やかなもの、じかに心に訴えかけるもの、理屈ぬきにたのしめるものを求めるようになった。いわゆる啓蒙された市民社会は、宇宙の数学的な法則や神の定めた秩序によって生きるよりも、自分自身の理性と感情によって生きようとした。」(服部幸三「バロック音楽のたのしみ」p.130-131)

 音楽を宇宙の秩序としてとらえたのは、古代のピタゴラス派であるが、以来西洋では、音楽を特別の技芸として重んじるようになる。キリスト教と結びついて、カトリックのミサや、とくにプロテスタントの宗教音楽として発展し、うえの引用にあるように、バッハにおいて集大成を見る。同時に王侯のたしなみでもあって、王であれ王妃であれ、楽器を演奏することは、東洋のように決して下々のいとなみではなかった。
 そうした伝統の根底には、ライプニッツやヴァルターの言葉にあるように、音楽は単に感覚の愉しみではなく、一種の数の形而上学と結びついた深遠な学であるという思想があるからである。ヴァッケンローダーの「芸術を愛する修道者の心情の吐露」をつうじて音楽理論を展開したショーペンハウアーもその例にもれない。(付説)音楽が宇宙の法則性すなわちロゴスとしてのイデアの発現であるならば、音楽の探究そのものが、同時に宇宙の本質を究めることにもなるのである。音楽は宇宙の本質の感覚的な発現であることになる。
 単に音を数の比例において作曲し、演奏するだけで、調和的なリズムやメロディーが発現するのであるから、たくまずして魂のさまざまな心情や情緒がかもしだされてくる。まさに<魂の無意識の数的比例>である。機械的につくられた音楽が、こうも人間や生き物の心情を直接にとらえることができるのは驚きでもある。ルネッサンス期のダウランドのリュート曲集を聞いていると、とても対位法に従って機械的につくられた曲とは思われず、あたかも作曲者が現代のフォーク歌手や抒情詩人のように思われてくるのである。
 もっとも調和や協和だけが音楽ではない。人間の心情が、不調和や不協和にみちているように、同じものが無調音楽や不協和音によって表わしだされてくるのである。ストラヴィンスキーの<春の祭典>などは不気味さにみちている。不気味ではあるがまぎれもなく人間の、あるいは生き物の暗い情念なのである。さらに西洋とは違った<数の比例>にもとづく音楽もある。日本音階にもとづいた武満徹の<november steps>は、生への意志の否定に向かう黄泉からの呼び声である。あたかも近松の浄瑠璃の道行の、尺八と琵琶による伴奏を聞くかのようである。
 人間および生き物は、暗い類的衝動と、意識に表われる心情と、悟性的・理性的判断との三層からなっている。音楽はこの三層を同時に表現できるのである。生命の根底であると同時に、生命よりもさらに根源的であり、デミウルゴスがイデアを設計図にしてこの宇宙を創ったとするならば、その設計図そのものなのである。さらにこの宇宙がデミウルゴス、すなわち世界意志、の発現そのものであるならば、音楽はまさにデミウルゴスの姿、すなわち神そのものの発現なのである。この神は音楽においてさまざまな姿をとりうるのである。バッハの<平均率>においても、ストラビンスキーの<春の祭典>においても、近松の道行きにおいても、同じ神が発現しているのである。神は野獣としてみずからに呪いをかけることもあれば、贖罪のために十字架にかかることもあるのである。
 音楽がなければ生きられない人間は、無音や沈黙を恐れるであろう。宇宙はBig Bangという騒々しいものから始まったという。以来騒音や音楽は鳴りやまないのである。しかし、時としてデミウルゴスがみずからの創造を悔いるかのように、休息を求める瞬間がある。それが静寂の美学である。静寂は音との対比で得られるが、そこに類的意志からのある種の安らぎが生まれる。静謐とは反宇宙的、反生命的であり、宇宙の創造の果てにある虚無を現わしだす。人が反省的になるのは、この静謐の時の他にはない。静謐の中で、おのれの中にある様々な騒音や、調和的であれ、不協和であれ、生命の音楽に気づかされるであろう。その音や音楽が鳴りやまないかぎりは、この宇宙から逃れることはできないのだ。
 人間の人格の中でもっとも調停的に働くのは、心情の層であると以前に論じた。音楽はこの心情に最も強く働きかけるのであるから、それによって、人間の類的意志を沈静させ、あるいは反省的・理性的にさせる働きを持ちうるのである。すなわち音楽は生への意志を発現させ、生命欲をかきたてるばかりでなく、生への意志を否定する方向へも作用するのである。これは音楽自体の持つ矛盾であるが、世界意志そのものに、ある安定への傾向が働くことから、すなわちシステムや調和といった要素が世界創造において顕著に見られることから、必ずしも矛盾ではない。音楽は心情をつうじて、三層からなる人格を調和的に調停することによって、もっとも強力にして暴戻である生への意志を、ある程度コントロールできるようになすのである。この作用をさらに強めるならば、生への意志を否定し、完全なる沈黙へともたらす音楽も可能となるであろう。音楽から静寂へ、音楽自体がもたらすのである。音が鳴りやむことによって、そこに相対的ばかりでなく、絶対の無が表わしだされる。それが音楽による究極の救済であろう。

付説
 音楽と形而上学
「音楽は有理数と無理数の比例の関係を、算術のように概念の助けによって把握する手段ではなく、同じものをまったく直接的な、同時的な、感覚的認識へともたらす手段である。音楽の形而上的な意味と、音楽のこの物理的かつ算術的根底が結びつくのは、次のようなことにもとづく。われわれの覚知に逆らうもの、無理数的なもの、あるいは不協和音は、われわれの意志の自然の心像に逆らうものとなり、また反対に和音や、有理数は、われわれの把握に容易に適するために、意志の充足の心像となるのである。そこで、さらにこの有理数と無理数は、振動数の比例関係において無数の音程、ニュアンス、進行、乖離をゆるすのであるから、これによって音楽はそのなかで人間の心すなわち意志の動きが、忠実に映し出される質料となるのである。意志の本質的なものは、つねに無数の段階の満足と不満足とから出でるのであるが、意志の動きはそのごく微妙な濃淡や変容をあますところなく再現されるのである。これをなすのがメロディーの創意である。」(ショーペンハウアー主著U513−515)
 音楽と現象界の類比
「和声の最低音部、すなわち基礎低音において、意志の客体化の最低部の段階、すなわち、その上にすべてがもとづき、そこからすべてが発生し、発展する無機的自然、地球の実質が再認識される。低音と主導的なメロディーを奏でる声部との間の、和声をかもしだす総奏においては、その中で世界が客体化するイデアの全階梯が再認識される。低音により近い声部は、より低い、いまだ無機的な階梯であるが、すでにひんぱんに自己を現わす物体である。より高い声部は、植物界・動物界を表わす。メロディーにおいて、すなわち高い声部で、全体を指導し、ひとつの思想の意味深い連関において終始前進し、全体を表わしだす主声部においては、意志の客体化の最高の段階、すなわち人間の意識的生活と努力とが再認識される。メロディーは主音から離れ、さまようことによって、無数の仕方で意志の多様な形の努力を表現するが、つねに最終的に調和的な段階を、さらにそれ以上に主音を再び見いだすことにより、充足を表現する。」(主著T304−308)

 以上はフラウエンシュテット編 Schopenhauer Lexikon より。

2020年3月19日(木)
ラ・ストラヴァガンツァ

 生命体はある種の音楽を発する。昆虫はその典型であり、insekt musician などと言われたりする。昆虫はどちらかというと無機的な音楽であり、風や木々のざわめきに近い。場合によっては心臓に直接痛みのような印象を与える。昆虫どうしの間では単なるシグナルに過ぎないからであろう。鳥類になると、ずっと人間の感情に近いものが伝わってくる。ウグイスの華麗なさえずりは、こころを慰める。椋鳥でも、普段はジャージャーと騒々しいのだが、親が子を呼ぶときは、笛のような柔らかい音を出す。音楽は生命界普遍の現象であるといってよいのだろう。
 そのようなことを思わせるのは、ヴィヴァルディーのLa Stravaganza (風変わりな)という弦楽協奏曲集を聴いていると、繊細で超絶的ではあるが、やはりある種の鳥のさえずりと同じではないかと思われてくるからである。そこには何ら概念的意味はない。ひたすら心情や意欲に訴えてくるのである。それだけに概念のような思考を必要としない、世界の根本のあり方に密着した、共感と共鳴とが自ずと生まれてくるのである。生命とは音楽そのものであると思われてくるのである。
 イタリア合奏団の耳が痛いくらいの透明な高音部の演奏と相まって、生命の喜びと悲哀とが交互にあらわれる、他の音楽家にはまれであろう、ヴィヴァルディー独特のリズムとメロディーの交錯した明快な協奏曲の世界は、青年期にはじめて第2番を聞いた時以来、その魅力をほとんど失っていない。音楽も人の成長と共に成長・変化するものならば、青年期に熱中した音楽は、年を取るにつれて単なる懐メロと化してしまうものなのだが、クラシックばかりは変わらないばかりか、成長しさえする。青年期にはつまらなかったブラームスやシューマンが中年期以後には落ち着いて聴けるようになる。シベリウスが分かるようになったのも最近のことである。それに対して「新世界」などは青年期の感動は甦るものの、あまりに大仰にすぎる。ドヴォルザークはむしろ関心のなかった第8番に引かれる。享受において全く変わっていないのがヴィヴァルディーの協奏曲なのである。あたかもウグイスのさえずりが今も昔も変わらずにいるように。
 さすがに狂熱的なストラヴァガンツァ第2番は、クルト・レーデルのレコード盤の名演奏以来あまりにくり返し聴いたので、他の曲を聴くようにしているが、生命の躍動そのもののようなリズムと、メロディーのせつなさとでは、第9番がそれに次ぐようである。ヴィヴァルディーの音楽は、バッハと違って宮廷の少数のエリートのために作曲されたのではなく、孤児院の少女達の演奏を一般市民が聴くためのものであったから、孤児たちの境遇を鼓舞すると同時に、民衆的な明るさを持っているのである。ヴィヴァルディーの生涯についてはほとんど知らないが、芸術がすべてを語っているようである。

2020年8月31日(月)
ヴィヴァルディー再入門

 パソコンを買いなおしたおかげで、Youtubeで音楽がまともに聴けるようになった。これまで聴いたこともないクラシック音楽が、ふんだんにあることが分かった。ある時、旅の宿で、ヴィヴァルディーの珍しいヴァイオリン協奏曲を聴いた。音はスマートフォンであったが、これまで彼の音楽として聴きなれていたものとは、どこか一風ちがった、近代的な音楽に思われた。まるでロマン派の作品に思われたのである。たぶん一般受けするには、あまりにも洗練されて、玄人好みの作品であろう。
 このヴァイオリン協奏曲E minor RV278は、以来毎日聴く曲になってしまった。聴けば聴くほど、不思議な魅力にとらえられる。メロディーもリズムも単純ではなく、変幻自在に躍動する。たぶん技法においても難曲なのであろう。近代作曲家では、パガニーニを思わせるものがある。形式的には、急緩急の三楽章で、総奏と独奏とがからみあう、典型的バロックであるが、この形式の中であらゆる試みをしたヴィヴァルディーが、究極においてたどりついた境地なのであろう。すでに時代を超え、ロマン派の自由な曲想にたどりついていると言ってもよかろうか。タルティーニの悪魔のトリルと共に、すでに近代なのである。
 Youtubeでヴィヴァルディーを聴くようになってから、最近のテンポの速い演奏に違和感を覚えたが、思えば、一昔前は、バロックと言えばしみじみとした、緩徐な演奏が多かった。アレグロをアレグロのテンポで演奏していないのである。昔のレコード盤でのヴァイオリンとオルガンのための協奏曲ニ短調と、ファビオ・ビオンディの演奏では、まったく別の曲に聞こえる。後者の歯切れのよさは、前者にはまったくなく、昔からしみじみと味わってきた耳には、こうもテンポによって音楽が変わるものかと、あっけにとられる。しかし、本来のテンポはアレグロなのであるから、ヴィヴァルディーが意図したのは、心地よいリズムなのである。後者が正しいとしなければならない。しかし、ヴィオラ・ダモーレ協奏曲A minor RV397に関しては、本来のアレグロも、やはり加減したほうがよさそうに思われる。アレグロを完全に無視すれば、なんとも暗い曲であって、深夜に聴いていると、すでに冥界にいるような気持になる。アレグロが利きすぎれば、まったく情緒が失われる。他方、カラヤンのように、まったく優美な「田園ふう a la rustica」を仕立ててしまうのも、一種の魔術ではある。
  Youtubeではまた、ヴィヴァルディーの宗教曲・賛美歌なども聴くことができる。中世の感情をおしころした聖歌とは違って、歌曲のようなメロディーである。まさに天上の音楽か。バッハの宗教曲と好一対である。

ヴァイオリン協奏曲RV278 (Youtube)
Laudate pueri Dominum (Psalm)

2020年10月16日(金)
闇の力

 人間社会であれ、動物界であれ、常軌を逸した犯罪や残虐さに思いをいたすとき、心は暗く沈んでいく。あらゆる感情が麻痺し、ただ心の奥底にわだかまっている暗い力が、鬱勃とうごめいているのが分かるのである。このようなネガティヴな共鳴は、たぶんあらゆる生命体の根底にあるのであろう。つまりだれもが犯罪者になれ、だれもが残虐になれるのである。これを文学の世界では<闇の力>または<暗い力>と呼んでいる。

 <ああ、心から愛するナタネール、こう思いませんこと。陽気な、こだわりも、気苦労もない人々ですら、私たち自身の中で、私たちを滅ぼそうとして働いている敵対的な、ある暗い力の存在を予感しているのだということを。・・・
 もしそういう暗い力が存在するなら、その力というのは私たちの内心に敵対的な裏切りの糸を仕掛け、それに私たちをしっかりととらえてしまうと、さもなければ踏み迷うこともなかったような危険な、破滅への道へと私たちを引きこんでいくのですが、――もしそういう暗い力が存在するなら、その力は私たち自身の中で私たち自身のように形成されなければならないばかりか、私たち自身にならねばならないのです。というのは、そうであってこそ私たちはその力を信じ、ああいった秘密の作用を実現するために、その力が必要とする地歩を認めてしまうのですから。
    ――E・T・A ホフマン 「砂男」 より>
<「この老人は、」と私は遂に言った。「凶悪な犯罪の象徴であり権化であるのだ。彼は独りでいることが出来ない。彼は群集の人なのだ。後をつけて行っても無駄なことだろう。これ以上私は、彼についても、彼の行為についても、知ることはあるまいから。この世の最悪の心は、Hortulus Animae (魂の小園)などよりももっと気味の悪い書物だ。そして "es laesst sich nicht lesen"(「それはそれ自身を読ましめぬ。」)というのは、恐らく神の大きなお慈悲の一つなのであろう。」
   ――E・A・ポー 「群集の人」(佐々木直次郎訳)より>
<だれの心の奥底にも、一つの墓があり、一つの牢獄がある。ところが、上辺での照明とか、音楽とか、浮かれ騒ぎとかが、それらの存在と、それらが隠している死人や囚人を、忘れさせがちである。しかし、時には、よく真夜中にあることだが、それらの暗い穴ぐらの戸が、いっぱいに開かれる。このような時には、心は受身の感じやすい状態にあり、積極的な活動の力を持っていない。想像力は鏡となり、すべての観念を生き生きと映しだすが、観念を選んだり、統御する力を欠いているのである。そうした時には悲しみが眠りから覚めないよう、一団の悔いが鎖を断ったりしないように、祈るがよい。だが、もう遅い!葬式(とむらい)の行列が、寝台の傍らにただよってくるではないか。
   ――ナサニエル・ホーソーン 「夜半の幻」より>

 ロマン派の文学の穏やかな、暗示的な表現であっても、19世紀から特に20世紀において、人類のあらゆる暗黒の面がさらけだされたのちにも、いまだに目ざまない人類にとっては、少しも古びを感じさせない。むしろ象徴的であるだけに、トルストイの「闇の力」よりも、深く浸透するのである。基本的には<闇の力>は狂気として扱われる。狂気に対抗するのは理性なのであるが、その理性の光の及ばない心の闇の中にうごめく力を、狂気としてしか把握できないのである。その狂気が最も直接的に発現する心の状態が<怒り>であると言えよう。「砂男」のナタネールも、狂気のWutにかられる。「黒猫」の主人公が妻を殺すのも、瞬間のangerである。暗い力が狂気として噴出するとき、怒りがあらゆる感情を圧倒してしまう。表現派の詩人ゲオルク・ハイムの「狂人」も、理由のわからない怒りのままに、殺戮をつづける。理解できない心の奥底の暗い力は、他者からは狂気でしかないのである。しかし「黒猫」の主人公は実に冷静に死体を処理する。怒りそのものを悔いることはない。ある意味で、怒りはごく自然な力なのだ。
 闇の力は、理由のない怒りであると言ってもよかろう。単なる感情であるならば、たいていの場合、その動機となる理由をさぐることが出来る。心が沈みこんでいくとき、あらゆる感情が麻痺し、ただ鬱勃たる暗い力のうごめきを感じるとき、それには心の否定的反応以外には、明確に定まった動機がないのである。理性の反撥は、それに対して決定的な役割を果たしえない。理性よりもさらに深い領域において、いわば無感動な力が、感情をも思考をも麻痺させるのである。このような状態においては、あらゆる行為が善悪を超越している。そこになんらかの動機が加われば、たとえどんなにささいな動機であれ、途方もない怒りとなって噴出するのである。「怒りを語れ」とホメロスは言う。怒りは一つの文明を亡ぼしたばかりでなく、その根源はとてつもなく深いのである。
 人間は、あるいは生命体は、無機界から精神界にまで及ぶ、世界の階層構造において成立している存在物である。精神の根底には生命があり、生命の根底には無機物がある。無機物はこの世界すべての根底である。そこに働く力は、基本的に暗黒の力であり、意識以前、生命以前の、この宇宙の根源のエネルギーのうねりである。生命体はこのエネルギーのうねりによって生かされているのであり、本源において盲目的なのである。盲目的なエネルギーには理由はない。なんらかの原因、機会がありさえすれば、力学的に発現する。その生命体における盲目のelan vitalが、まさに暗い力であり、盲目の怒りなのであると言えよう。暗い力が怒りとして現われるのは、生命現象のストレスに原因があるであろう。ストレスとは、生のエネルギーすなわちelan vitalが、なんらかの環境的原因によってせき止められたり、抑圧されたりすることによる、鬱積である。鬱積した盲目的エネルギーは、あらゆる障害物を破壊してやまないであろう。人類がことのほか残虐で、罪深いのは、そこに理由があるであろう。動物は食欲をみたす以外に、残虐であることはあまりない。動物もしかし、残虐である時は、少しの感情的猶予もない。徹底して無感動なのである。つまり、無機的世界に帰るのである。人間もまた、ある場合には無機的に残虐となりうる。暗い力に身を委ねさえすれば、あらゆる行為が可能となるのである。
 この世界の根源のエネルギーは善悪の彼岸にある。暗い力におののくのは、人間がそれに対して何一つなしえないからである。それを絶対悪としてみたところで、絶対の善があるわけではない。悪魔は自然界そのものであり、その産物である人間には何一つ抵抗しえないのである。生命は究極の生存の選択に迫られたときには、まさに<自然に帰って>、無機的に、無慈悲になるほかはないのである。この宇宙の物質の95%は、暗黒物質と暗黒のエネルギーからなるという。根本において、暗い力の本体が、宇宙の本質から出でるものであるならば、人間の本質の95%は、暗い力であるといえるかもしれない。この暗い力の存在に、ふだんは気づいていないとしても、銀河を引きとめている力がダークマターであり、宇宙を加速膨張させているものがダークエネルギーであるように、人間を生かしているものもまた、闇の力であると言えるかもしれない。

2021年10月20日(水)
文学とは何か

 小説・詩歌・戯曲といった、<文学>と称するものについては、その形式や技巧や構成や表現法やの問題が、いわゆる文学論や文芸批評の中心課題とされることがほとんどであろう。そもそも文学が何故にこの世に存在し、人間がそのようなことを営む本質とは何であるか、を問うことはまれであろう。そのことは文学を創る側にも、享受する側にも、ともに言えることであり、何故に創作者がおり、その作品を求める受容者がいるのであろうか。文学の本質を探究するには、そもそもの文学の人間世界におけるありようを、究明しなければならないであろう。
 需要があって供給があるのは、文学の世界も同じである。では文学を営むとは、どのような需要に基づくのであろうか。ここで文学と、単なる<情報>とを区別する必要があろう。情報の根源は、言語の使用にあり、言語は根本において、情報交換の一つの人間的手段にすぎない。伝えあう知識やニュースがあるから、そこに情報交換の必要が生じる。情報は正確であること、緊急性のあるものを優先することなど、情報独特のありかたが要求される。さらには情報がコントロールされることによって、欺瞞やデマなどということも生じてくる。情報の中心を成すものは<事実>であり、それをめぐってのかけひきが、情報の明暗をなしているのである。情報自体は、事実を中心とする以上、ノンフィクションであれ、デマであれ、操作された報道であれ、文学とは別次元の、人間社会のいとなみであるといえよう。情報を判断する基準は、ただ一つ<事実>であるからだ。その点で、情報は、一般の学術と通じるところがあり、学術的な批判が可能なのである。
 文学は、情報と同様に、言語に基づくものではあるが、情報のように必ずしも事実に基づく必要はないのである。事実を伝えようとするならば、それは単なる情報であって、事実以上でも以下でもない。それでは、人間は事実以外の何を伝えようとするのであるか、あるいは何を伝える必要があるのであろうか。それを知るには、個々の文学ジャンルを見ていくのがよかろう。詩歌は、特に伝えねばならない客観的事実を伝えるものではなく、そこに言葉にされるものは、心情的共感にすぎない。単なる共感は、事実的世界を超えている。たとえ事実について語っても、それが引き起こす心情的反応が、詩歌の本領なのである。場合によっては事実を歪め、主観的偏見へと導いてゆく。そこにはある種の現実否定が働いているのである。叙事詩のような物語詩においても、物語が事実である必要はないのであって、創作者や聞き手の主観に彩られた、事実の脚色や、改変がおこなわれるのである。その意図する効果は、やはり心情的共感であり、さらには興奮である。戯曲も、基本的には叙事詩と同じであり、それが舞台で演じられることによって、事実の見せかけを持つとしても、その効果は、アリストテレス言うところの<カタルシス>であり、やはり心情的満足なのである。小説は叙事詩から生まれ、その発展であるから、叙事詩について言われうることが、すべて当てはまるであろう。
 以上を要するに、文学とは事実を超えた、非現実における感動を求めるものであると言うことができよう。この非現実、もしくは反事実における感動、または心情的満足を求める要求は、人類に本質的なものであると言えよう。これを言い換えれば、文学とは<逃避>の願望を本質とするものである。これに対する反論として、リアリズム文学や自然主義の文学は、この定義には当てはまるまいとされるであろう。リアリズム文学がある種の<理想>であることはだれもが知っている。客観的事実などはどこにもないからである。各人がおのれの知っている事実を伝えるだけである。もしそれに徹底すれば、それは文学ではなく、情報となることはすでに述べた。もし事実の集積を文学として提示するならば、それはすでに文学であることによって、ある非現実性を帯びてくるであろう。それは自然主義文学の実験したところである。日本の自然主義のように、個人の内面や、外面の生活を忠実に報告したとしても、そのような切り取られた現実は、現実そのものではない。現実は作家と作品との関係の中にあるからである。作家は文学の中に逃避しているといってもよいのである。

)アルノー・ホルツの作品は、徹底したリアリズムが、個人の主観的アスペクトにすぎないことを明らかにしている。ゾラの小説にしても、物語性や構成が事実性にまさっている。自然主義ではないが、ビアスの「月光の道」や芥川の「藪の中」やカフカの小説は、客観的事実(真実)というものがいかにとらえ難いものであるかを、文学的に表現したものである。

 文学者は自らの作品の中におのれの逃避願望を充足させ、読者は文学作品の中におのれの現実逃避の願望を充たす世界をみいだし、享受する。供給、需要、いずれの側も反現実、逃避願望において共感し、そこに文学の存在理由があるのである。その根底には、人間は本質的に現実逃避傾向を持つということがある。人間は人間であることに満足できない存在である、と以前に定義したことがあるが、このことの根本の理由は、人間は想像する存在であるということがあろう。人間は想像や空想によって、現在を超え、事実を超え、希望や願望に生きることが出来るからである。事実とは単なる現在の出来事であり、それの過去における記録にすぎないが、それに彩りを与え、改変し、さらに理想化することにより、人間は現実を超越するのである**。この超越願望が文学の根底にあるのである。あらゆる文学は、現実からの<逃避>の願望なのである。

**)この典型的な例を、芭蕉の「奥の細道」で、明瞭に見てとることができる。曾良の「旅日記」は事実の記載であり、<情報>に属する。それは芭蕉が実際の旅をどのように脚色していったかを知る、貴重な文献である。芭蕉の<文学>は、事実の多くの部分を切り捨て、理想とする文学世界を創作したのである。芭蕉の<逃避>する先は、過去の文学的幻影であり、これはまた日本の古典文学の基本的態度でもある。いわば幻影の幻影、倍化された幻影の世界への逃避である。

 文学は必ずしも、逃避にふさわしい快適なものとは限らないではないか、と反論されよう。どんなに不快や恐怖の文学であっても、現実のそれらを超えることは決してないのである。アウシュビッツや震災の悲惨を、どのような文学も表現できないであろう。もし表現したとしても、はるかにマイルドであり、それらを読むものがかえって<いやし>を覚えるならば、その人の現実そのものがそれなりに悲惨だからであろう。ファンタジー漫画を描く小学生が、好んで主人公をいじめにあわせるのも、現実はさらにひどいいじめにあっているからであろう。所詮文学は逃避なのであり、窮極的救済はそこには求められないのである。
 事実は知識の世界に属するが、文学は知識とは無縁であり、基本的に心情的満足といやしを与えるに過ぎない。文学からは、この世界の事実に関しては、たいしたことは学べないのである。アナトール・フランスは人生のすべてを書物から学んだ、と述べているが、人生のすべてを文学から学ぶとしたら、その人の一生は不幸の連続であろう。同じ書物でも、事実に忠実な書物と、文学書とでは、まったく別の世界と考えてよいであろう。若いころは文学によって逃避した人も、年をとれば、事実により惹かれるようになるであろう。しかし逃避の傾向は変わらないであろうから、なるべく世の中の世知辛い事実よりも、広大な宇宙や歴史に目を向けることであろう。逃避願望が生じるのは、所詮人間社会での宿命であるから、出来るかぎり人間社会から離れた、物質界の事実に、想像と空想をおもむかせることであろう。文学のような作り事ではない、<真理>への逃避願望がそこに生まれるであろう。逃避文学の権化といってよいエドガー・アラン・ポーが、その生涯を<ユリーカ>でしめくくったのも、その典型であろう。

 *    *    *

(以下10・21)
 上の文章をある人に読んでもらったところ、次のような批判を受けた。文学は<逃避>ではない。逃避とは臆病な人間のすることであり、文学者はすべて臆病者でも、逃避者でもなく、そうしたネガティヴな言葉を使うべきではないと。逃避(escapism)を筆者は、たしかにネガティヴな意味で用いているが、ネガティヴであることはなにも悪いこととは思わないのである。勇敢であるよりも、むしろ臆病であることが、エゴイストにふさわしいと思っている。臆病はむしろ、褒むべき態度なのである。それはそれとして、ここで逃避といっているのは、この世界の現実に満足できない態度のことであり、それが積極的であれ、ネガティヴであれ、現実を超えようとする願いもしくは意志において、それを逃避と呼んで悪いことはなかろうと思うのである。理想主義者は現実を変えることを夢想し、未来に希望をかけ、すなわち未来の想像に逃れるであろうし、ペシミストは「いずこなりともこの世の外」への脱出を夢想するであろう。
 動物は徹底した現実の中に生きており、もし知性があれば、現実主義を標榜するであろうが、主義以前に、現実的生活は、あらゆる生命体の基本的実存(Existenz)のあり方なのである。この基本的実存を、想像力によって拡張し、過去と未来を意識の場とするのが、人間的実存なのである。それだけであるならば、人間は文学もいらないし、逃避の必要もないだろう。事実を、過現未にわたって拡張しただけのことであるから。人間はしかし、過去・未来への意識の拡張を、現実存在の不安定によって行っているのである。動物のように安定した現実存在に生きているわけではない。セネカの言うように、過去は現在よりも確定しているだけに確かなのだ。現在は不確かであり、未来はさらに不確かである。それは<事実>を確定的にしようとするかぎり、決して実現できない存在の不安定なのである。
 なまじ想像力に恵まれたことによって、人間は現実に充足することが出来なくなったのである。現実存在の不安定は、単なる事実によっては克服できない。事実そのものが、究極的に確定できないものであるからだ。自然科学やその他のもろもろの客観性を標榜する科学は、事実の窮極的探究の可能性を目指してはいるものの、いずれその限界に気づくであろう。宇宙の全情報量は、人知の可能なあらゆる手段による全情報量を凌駕することが、科学者自身によって明らかにされている。宇宙は根本において<不可知>なのである。科学によっては、すなわち単なる情報によっては、人間的実存を超越することは不可能なのである。もし超越が可能であるならば、それはなんらかの想像力による抜け道のほかにはないのである。それを人類は、<文学>において追求してきたのであるといってよかろう。それは<逃避>以外のなにものでもないのである。

 今ひとつ批判されたことは、文学が追求するものは、逃避などというネガティヴなものではなく、精神的<価値>と呼ぶべきものではないかということである。事実には確かにそれなりの<価値>があり、それを否定することはできないが、それと並行して、事実とは違った精神的<価値>もしくは<真実>というものがあるのであり、それが文学の本質ではないかということである。たしかにそうしたものがあることは認めねばならないが、その場合精神的価値なるものは文学に限らず、あらゆる精神的営みに伴うものであり、すなわち哲学や宗教や、もろもろの学問にも当然精神的価値があり、文学独自の本質とは言いえないであろう。そのうえ精神という言葉は非常にあいまいであり、文学では中心的な心的状態である情念や心情や共感といったものが、どこまで<精神>に属するのか、また残酷や恐怖や肉欲の描写が精神的価値といいうるのかどうかという、疑問も起こるであろう。たしかに文学があつかうのはある種の<価値>ではあるが、その価値の性質と本質をここでは問題にしているのである。
 筆者は文学の本質に逃避という、いわば挑発的な言葉を使ってみたのであるが、何事も楽天的、積極的であることがよいとされる社会的風潮に、人間の本来の存在のあり方をもって応えただけである。生への意志は本来衝動的、暴力的であるが、それへの反省はつねにネガティヴで、抑制的になるのは、知的生命体の必然であるといってよい。その知的生命体のあみだしたものが文学であるから、一方では文学は生への意志をかきたて、他方では生への意志を沈静させる。怒りで始まるイリアスが、哀感でもって終わるのである。ヒューマニズムの存在しない世界で、ヒューマニズムの可能性を開くのである。この現実を超える機能が、文学の本質といってよいのである。それを理想といってもよいが、その本質はあくまでも現実逃避なのである。あるいは逃避がいやならば、現実の超越といってもよい。文学は現実超越の世界である(***)

***)この現実超越の態度は、通常は作品と作家の人生との乖離となってあらわれる。一例として、Landorの"Finis"に関して、福原麟太郎は次のように書いている。
「ラムの時代の文人Landorに"Finis"と称する小詩がある。

I strove with none, for none was worth my strife,
Natur I loved and, next to Nature, Art:
I warm'd both hands before the fire of life:
It sinks, and I am ready to depart.
われ人と争いしことなし、争うに足る人なかりしなり。
自然をこそわれは愛しき、自然につぎては芸術を。
われ、人生のいろり火の前に両手をかざし、温めき。
火はおとろえぬ。さらばわれも立ち去らんかな、やがて。

 この四行はまことになだらかに平和な心境を示していて、実に愛すべき小詩である。私はこれを、まとまった一つの生活組織をもった作品として、傑作に数えることを躊躇しない。しかるに、詩人Landorその人は、一生涯がみがみ人と争った人で、決して、「われ、争いしことなし」などと言えたわけのものではなかった。それを考えると、この詩はまた別の光において解釈しなければならないかも知れない。」
(「英文学研究法」p.42)


2022年4月4日(月)
幽霊と人生(怪談について)

  幽霊やそれを扱った怪談は、独特な魅力で人の一生を支配する。一体、幽霊を恐れる恐怖心は、人の生活にどのような影響または関連を持つのであろうか。恐怖そのものは、ネガティヴであり、何の益もないように思われる。無益で、場合によっては有害であるものを、人はなぜ引きつけられ、わざわざ好んで求めたりするのであるか。
 幽霊の恐怖(fear)を物語ることは、文学においては一つのジャンルとして確立している。そうした恐怖を求める人が多いからこそ、ジャンルとして成立するのである。逆に人生の幸福や、安楽をジャンルとする文学があっても良いものだが、そうした幸福談は、怪談ほどはやらないであろう。快楽をジャンルとするもの、ポルノグラフィーやグルメものなどは、たしかにそれを専門とする作家は多いだろう。恋愛ものなどは、ほとんどすべての文学がそれであるといって良いだろう。しかし、恐怖の反対概念である、人生の安楽、幸福そのものをテーマとする文学は少ないばかりか、それを描くことは困難であろう。そもそも天国や極楽の描写ほど、つまらない、退屈なものはないであろうからである。スェーデンボルグの天界に、魅力を感じる人がいるであろうか。ダンテの魅力も、地獄篇に限るであろう。
 つまり、幸福や安楽は、恐怖や不幸との対比があってのみ、それなりの意味のある文学の対象なのである。対して、恐怖はそれ自体で文学ジャンルを作る。この違いは大きい。人が安楽や幸福を感じるためには、その状態だけでは足りないのであり、必ず不幸や不安や恐怖が、下敷きになっていなければならない。これは文学だけではなく、人生の真実なのだ。人生には、幸福を求めるためには、ある意味で恐怖が必要なのだ。
 そこで、もっぱら恐怖の文学である、怪談(ghost story)が、ジャンルとして登場する。幽霊譚には、暗に陽に、必ずなんらかの教訓、寓意が含まれているといってよかろう。それは基本的に人生に対する教訓・寓意である。特に北欧の怪談には、この点が表に目立つようである。クヌト・ハムスンの「ある幽霊」が典型的である。ハムスン自身の体験であるかどうかは知らないが、子供時代に頻繁にある幽霊に悩まされたことが、その後の人生の人格形成に役立ったという結末である。これほどはっきりした効用ではないが、西洋のたいていの幽霊実話は、クロー夫人の Night Side of Nature を始めとして、キリスト教にマッチした「あの世」の存在を補強するものとなっている。その点でつまらない。この伝統は、その後の心霊ものの怪談や実話につながっており、Wellsでさえその影響を受けている。

)Und doch hat er mir vielleicht nicht ausschliesslich Schaden zugefuegt, dieser Gedanke ist mir oft gekommen. Ich koennte mir vorstellen, dass er eine der ersten Ursachen gewesen ist, durch die ich lernte, die Zaehne zusammenzubeissen und mich hart zu machen.In meinem spaeteren Leben habe ich hin und wieder Verwendung dafuer gehabt.――Knut Hamsun : Ein Gespenst
(とはいえ、彼はもっぱら、私に害ばかりをもたらしたのではないだろう。そう私はしばしば思ったものである。私が歯をくいしばって耐えることで、おのれを強くすることを学んだ、最初のきっかけの一つが、この幽霊だったのだと思えたのである。その後の人生で、私はたびたびそれを応用することになったのである。)

 それほどはっきりした「あの世」や Spiritualism の宣伝ではないとしても、キリスト教の根底にある善悪二元論の伝統が、勧善懲悪の怪談となって、現代まで影響している。レ・ファニューの Green Tea や Watcher(Familiar) では、直接言及されてはいないが、なんらかの絶対悪との取り引きが、主人公をさいなむ恐怖の背景に感じ取られる。このパターンに慣れてしまうと、案外つまらないのである。パターン化といえば、吸血鬼や狼男などの伝承に基づいた怪談も、すぐにそのパターンが鼻についてしまう。マリアット、レ・ファニュ、ブラム・ストーカー、ガイ・エンドアまでで充分であろう。ブラックウッドの「犬のキャンプ」は、二度読むには退屈すぎる。
 宗教のドグマから離れると、恐怖の文学は恐怖そのものの効果、あるいは恐怖の心理に向かうことになる。Poe がその嚆矢であるが、モーパッサン、ビアス、ブラックウッド、ラヴクラフトと、もはや恐怖が人生そのものとなるのである。幽霊の恐怖がネガティヴであることを、もはや少しも考慮しないのである。あるいはそのネガティヴな恐怖を、人生と対比するのである。その結果、人生が恐怖に打ち負け、呑みこまれるという結果にもなりかねない。モーパッサンは本人が発狂し、ラヴクラフトの主人公は、たいてい発狂するか、恐怖の存在そのものに加担し、同化することになる。(この点で、「ダンウィッチ・ホラー」は不徹底である。妖怪は退治されてめでたし。)
 超自然の恐怖は人生の上に君臨する。いまだ宗教性のあるうちは、そこになんらかの善の力を導入することが出来る。スイスの作家ゴットヘルフの「黒い蜘蛛 Die Schwarze Spinne」では、十字架や聖水でも倒せなかった妖怪を、清純な少女が柱に封印する。しかしまた、いつ現われてこないとも限らないのである。他方、エーヴァース(H.H.Ewers)の「蜘蛛 Die Spinne」は、ホラーそのものである。善のないところでは、また古来からのマジックや魔道書(ラヴクラフトのネクロノミコンなど)が、恐怖に打ち勝つ手段として復活する。いわば、かつて恐怖せられたものが、近代的恐怖の対抗者として、間に合わせの登場をしているのである。

 幽霊の恐怖あるいは超自然的恐怖の、文学における扱い方の進化を見てみたが、そもそもなにゆえに恐怖はそれほど魅力があるのであろうか。ラヴクラフトのマニアックな「超自然的恐怖の文学論」の冒頭を見てみる。

 The oldest and strongest emotion of mankind is fear,and the oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown. These facts few psychologists will disput, and their admitted truth must establish for all time the genuiness and dignity of the weirdly horrible tale as a literary form.・・・
・・・the fact that uncertanty and danger are always closely allied; thus making any kind of an unknown world a world of peril and evil possibilities. When to this sense of fear and evil the inevitable fascination of wonder and curiosity is superadded, there is born a composite body of keen emotion and imasinative provocation whose vitality must of necessity endure as long as the human race itself.・・・
The true weird tale has something more than secret murder, bloody bones, or a sheeted form clanking chains according to rule. A certain atomosphere of breathless and unexplainable dread of outer unknown forces must be present; and there must be a hint, expressed with a seriousness and portentousness becomming its subject, of that most terrible conception of the human brain - a malign and particular suspention or defeat of those fixed laws of Nature which are our only safeguard aginst the assaults of chaos and the daemons of unplumbed space. 
――H.P.Lovecraft : Supernatural Horror in Literature ch.1
(人類の最も古く、かつ強烈な感情は恐怖であり、また最も古く、かつ強烈な恐怖は、未知なるものの恐れである。この事実を否定する心理学者は少なかろう。そのことが真実として認められている以上、一文学様式としての怪奇と恐怖の物語が真摯でまっとうなものであることを、いつの時代にも確信させるはずである。
 ・・・不確かさと危機感とはつねに密接な結びつきがあるゆえに、どのような種類の未知なるものも、危険と邪悪な可能性の世界に化してしまうものである。この恐怖と悪の意識に、驚異と好奇心が必然的につきまとうために、情念がとぎすまされ、想像がかきたてられることになり、この複合したものの生命力は、人類が続く限り、持続せざるをえないのである。
 真に怪奇な物語は、単なる隠れた殺人や、血まみれの骨や、しきたりどおりの鎖を鳴らす屍衣をまとった幽霊などよりも、もっとましな内容を持っている。外部の未知の世界にひそむ勢力の、一種説明しがたい、息をのむ恐怖の雰囲気が、そこになければならない。人間の脳が考えつく最も恐ろしい観念――自然界の定まった法則が、悪意によって一時停止したり、あるいは打ち負かされたりすること――の暗示が、そのテーマにふさわしい真剣さと不吉さをもって、提示されねばならない。この自然法則こそが、混沌と測り知れない宇宙にひそむ悪鬼の襲撃に対して、唯一防禦してくれるものだからである。) 

 人類の生理的、進化的歴史(今日でいえばDNA)の中に、超自然的恐怖の根源を求めている点は、ごく常識的である。それが快感となる理由は、単なる危険と恐怖の感情に、驚嘆と好奇心の魅惑がともなうからであるとされる。何故に恐怖が魅惑であるのか、そこまで深くは掘り下げられていない。怪談の文学的特質を、atomosphere に求めていることは、怪談の愛好者ならばだれもが同意するであろう。超自然的恐怖、幽霊の恐怖を cosmic fear として一般化していることが注目に値する。これを小泉八雲の「小説における超自然的要素の価値」に説くところと比較してみる。

 There is something ghostly in all great art, whether of literature, music, sculpture, or architecture.
・・・If we do not believe in old-fashioned stories and theories about ghosts, we are nevertheless obliged to recognize to-day that we are ghosts of ourselves― and utterly incomprehensible. The mystery of the universe is now weighing upon us, becoming heavier and heavier, more and more aweful, as our knowledge expands, and it is especially a ghostly mystery. All great art reminds us in some way of this universal riddle ; that is why I say all great art has something ghostly in it. It touches something within us which relates to infinity.When you read a very great thought, when you see a wonderful picture or statue or building, and when you hear certain kinds of music, you feel a thrill in the heart and mind much like the thrill which in all times men felt when they thought they saw a ghost or a god. ・・・The ghostly represents always some shadow of truth, and no amount of disbelief in what used to be called ghosts can ever diminish human interest in what relates to that truth. 
――Lafcadio Hearn : The Value of the Supernatural in Fiction
(文学であれ、音楽であれ、彫刻であれ、建築であれ、あらゆる偉大な芸術には、なんらかの霊的なものが含まれる。
 もし我々が幽霊についての古めかしい物語や理論を信じないとしても、我々は今日においては、我々自身が幽霊のようなものであること、つまり全く不可解な存在であるということを、やはり認めざるを得ないのである。宇宙の謎は今や、我々の知識がすすむにつれ、いっそう重々しく、いっそう畏怖すべきものとして、我々にのしかかっている。しかもそれは、とりわけ霊的な謎である。あらゆる偉大な芸術は、何らかの仕方でこの宇宙的謎を思い起こさせる。あらゆる偉大な芸術は、自らの中に何らかの霊的なものを含む、と私が述べたのも、この故である。それは我々の心の中の、無限と関係するなにかに触れるからである。偉大なる思想を読む時、素晴らしい絵画や、彫像や、建築やを目にする時、あるいはある種の音楽を耳にする時、胸の中や頭の中にある戦慄を覚える。それはあらゆる時代に、人々が幽霊や神を見たと思った時に感じた戦慄と非常によく似たものなのである。
 霊的なものは、つねになんらかの真理の影を宿しており、これまで幽霊と呼ばれてきたものにどれほど疑いをいだこうと、その真理に関する人間的興味を、少しも減じることはないのである。)
 
 ハーンの場合、この ghostly な thrill は多分にスピリチュアルであり、意味が幅広い。超自然的な fear が、下は怪談から、芸術や宗教や世界認識にまで及ぼされており、その本質において同一であるとされるのである。物語としての怪談はずっと身近な心霊的恐怖、あるいは宇宙的恐怖なのである。

 この世界、この宇宙の中での孤立した人間の位置は、〈不安〉そのものであり、宗教はそれを宇宙の根源にあるとされる神、創造者への全面的信頼へと変える。もしその信頼が裏切られれば、その責任は神ではなく、信じる者の側におけるなんらかの咎、罪であるとされる。神を恐れることと、見えない存在を恐れることは、基本的に同一なのである。そして神の信仰が失われれば、残るのは見えない世界への恐れだけとなる。自然科学は神に替わることはできないので、そこにはつねに懐疑と不安とが残る。愚鈍にして果敢な唯物論者でないかぎりは、見えない世界への恐れをまったく失うことはないであろう。それは単に、未来に対する実存的な恐れや不安ばかりではない。それらは観念的に予測でき、場合によっては予防できる恐れである。それに対して、幽霊に対する恐れは、単なる観念ではない。それはある種の感覚なのである。
 夜のしじまの中で、しみじみと怪談に読みふけるとき、そのかもしだされるアトモスフィアの中で、ふいに身体の中ほどからゾクゾクする独特の恐怖感が忍び入ってくる。場合によっては、頭上から、または背後から邪悪な目で見つめられているのを感じる。そしてふいに、おこりのように身体がふるえだすのである。これが幽霊の恐怖の心身的現象である。この恐怖の心身的現象は、怪談を読んでいる時に限らない。普通の状態でいる時にも、とつぜんこの恐怖の感覚がおそうことがある。ある呪詛のようなもの、あるいは不吉なものを感じる場合がある。何の確たる理由もなく、恐怖が忍び入り、心身が麻痺するのである。
 実は物理的な恐怖、人からの心理的圧迫においても、同じような経験をすることがあるであろう。安全がおびやかされ、日常の生活が乱されるとき、人間は動物に共通する心身的恐怖に、本能的におちいるのである。それを日常において、好んで求めるものはなかろう。しかし、幽霊の恐怖だけは、文学であれ実体験であれ、なぜ好んで求められるのであろうか。
 ここで恐怖文学の人生における効用ということを、考えてみるべきなのであろう。ハムスンは幽霊の恐怖体験を、その後の自己陶冶に生かすことができたという。人は物理的であれ、心霊的であれ、恐怖におそわれる時は、集団で寄りそいあってそれを防禦しようとする。恐怖は孤独な立場を浮きあがらせ、集団への依存と帰属を求めさせるのである。幽霊の恐怖は、不信者を信仰へと帰らせる。少なくともそうした意図を持った怪談は多い。孤独なアウトサイダーや犯罪者は、幽霊の恐れによって反社会性をたしなめられる。しかしそうした教訓的幽霊は、宗教や信仰や〈道徳心〉を持たない者には、あまり意味がないのである。
 逆に考えると、孤独者にとって、この世間そのものが敵であり、圧迫的な集団であるから、それに対しておのれを保っていくことは幾多の困難をともなう。その不安と恐怖を、いわば自虐的に幽霊の恐怖として転化するならば、その恐怖に打ち勝つことが、同時に実存的不安を克服することにもなろう。孤独者ほど怪談を好むのは、その故であろう。そうして超自然的恐怖に親しんでいくうちに、そこにある種の恐怖の美学が生まれる。
 この恐怖の美学が、文学としての怪談のバックボーンとなっている。もしなんらかの美的要素がなければ、文学であれ、芸術であれ、あえてネガティヴな心的状態に魅せられることはないであろう。恐怖が発現するシチュエーション、恐怖の条件において、すなわちラヴクラフトのいうアトモスフィアにおいて、どのような美が成立するであろうか。それを明らかにするならば、人がなぜ幽霊や怪談に惹かれるかの、心理的原因が分かるであろう。いくつかの要素がある。

 1、恐怖に襲われる主人公は、原則つねに孤独の立場にある。集団で幽霊に襲われるケースはめったにないのであり、あったとしても、恐怖にとらわれるのは各個人であり、恐怖の心理においてはつねに孤独なのである。つまり、恐怖においてほど、人はおのれが孤立した、孤独の実存にあることを、強烈に意識させられることはないのである。恐怖は実存に目覚めさせる。
 このことから、孤独者が好んで怪談を読む理由がわかる。おのれ自身の実存的不安が、そこに怪奇談の形で象徴的に示されるからである。逆に、孤独な作家ほど、怪談を好んで書くことになる。孤独であること自体は、人間社会においてはネガティヴであるが、孤独に慣れ親しむことによって、ポジティヴな魅力ともなりうるのである。
 2、幼少年期の恐怖体験。子供は幽霊をことのほか恐れる。子供にとって世界はほとんど未知であり、家庭という狭い既知の世界でしか、安心を得ることができない。大人の世界、世間は親とつながっており、親を信頼する限り、世間は不安や恐怖の直接対象とはならない。目に見えるかぎり、世界は経験の対象であり、何らかの合理的知識の範囲におさまる。しかし子供の想像力は、経験の範囲を越えて、見えない世界にまで及ぶ。それが単なるこの世界の延長である空想にとどまるならば、お伽話にすぎないが、そこに未知の領域を持ち込むならば、幽霊への恐怖が生まれる。死者を土中に葬るという埋葬ですら、地中世界の恐れが墓そのものを恐れさせる。踏み切りで轢かれた死者があるならば、その踏み切りそのものが幽霊の出る場所として恐れられる。目に見えない世界、未知の世界には、幽霊が満ちているのである。
 それほどに幽霊を恐れながら、子供はなぜ怪談映画などを見に行くのであろうか。恐がりは、一種のネガティヴな遊戯となるのである。四谷怪談を見たおかげで、いく晩もお岩さんの亡霊に悩まされつづける。しかも、また翌年も見に行くのである。この少年期における恐怖の魅惑とはなんなのであるか。これはある種のマグネティズムといえよう。恐怖に魅せられることによって、心身萎縮することが、ある種の自虐的な快感となるのである。これは生け贄の心境であるといえよう。猛獣に襲われた獲物は、同じ状態で恍惚として死ぬであろう。恐怖の恍惚ともいえるものが、幽霊の恐怖の中にはあるのであろう。いわばある種の死の体験である。猛獣に襲われた人類の祖先も、同じ体験をしたであろう。そしてこの体験をしたあとでは、心身が浄化される。死からよみがえったのであるから。幼少年期の、幽霊の恐怖の効用である。これは大人になっても、ある程度同じかもしれない。
 3.死と崩壊の美学。これは青年期に顕著な、ある種のデカダンス願望である。たいていの人生の挫折は、青年期に始まる。希望が砕かれ、おのれ自身の能力の限界が告知され、未来が暗黒に思われてくるとき、人間社会の輝かしいもの、文明や文化がすべてまやかしに見えてくる。その時、廃墟や退廃が、特別な魅力を持って眼に映るのである。死はもはや幽霊の恐怖とは結びつかない。敗北と悲哀の象徴である。そして廃墟や廃屋もまた、敗残の人生の象徴となる。幽霊屋敷や幽霊そのものが、人生の鬼火でもって敗残者をいざなうのである。Poeの「アッシャー家の崩壊」が典型である。
 4.荒涼とした自然。怪談の背景は、荒野や山奥や人里離れた場所や孤島や荒海である場合が多い。自然界もまた、人間に背を向けているのである。そこには人間界を離れた、ある崇高美がかもしだされるであろう。自然美は恐怖と結びつくことによって、否応なしに孤独者を魅するのである。Poe の「壜の中から出た手記」、モーパッサンの「山小屋」、そしてブラックウッドの神秘的な「Wendigo」を挙げておく。
 5.幽霊との情死。恋愛感情の盲目の衝動の中には、死によって願望を遂げようとする生命体の本能がある。性愛は死と恐怖を超えるのである。これが恋愛怪談の魅力である。円朝の「牡丹灯篭」、八雲の「伊藤資介」「お貞の話」、西洋では何よりもPoeの「ライジーアLigeia」、ブラックウッドの「死の舞踏」、ワシントン・アーヴィングの「ドイツ人学生の奇禍」など。たいていは女の幽霊に男が取りつかれるのであり、男の幽霊に恋する女の話はめったになかろう。この点からして、怪談の趣味は男性のものといってもよかろう。女自体は、幽霊が嫌いなのである。
 6.異界への逃避。ここでの異界は宗教的なそれではなく、狭隘な人間社会に倦み疲れた者たちが、<いずこなりともこの世の外>を求めて、見えない世界や超自然界に、気晴らしの対象を求めるものである。その際、単なる驚異や空想によって成立するファンタジーにとどまらず、ある程度の恐怖がともなわなければ怪談にならない。異界への関心が、同時に不安や恐れをかもしだすことによって、アンニュイが癒されるのである。Poeの「鋸山奇談」、フリードリヒ・ゲルステッカーの「Germelshausen村」、H.G.Wellsの「緑の扉The door in the Wall」、ビアスの「カルコサの住人」、W.H.ホッヂソンの「異界の入口の家The House on the Borderland」など。

 とりあえず、以上の六つの要素によって、怪談の魅力の大半は説明できるであろう。そうした要素を求めて、怪談の読者は結局一生、怪談の魅力と付き合うことになるのである。(なお、犯罪や残酷や推理が怪談と結びつきやすいのであるが、そうした付帯的なものや、合理的に説明のつくことは、怪談本来の興味、すなわち超自然的恐怖の魅力とは別に考えてよいであろう。)

2022年12月」10日〈土〉
文芸の観察について

 文芸を一定の現象と見なすならば、通常の自然現象と同じように、観測や観察ということが考えられよう。自然現象は、直接的には<もの>または個物を対象とする。一個一個のものの現われをとらえ、それを因果的に説明し、法則として一般化する。法則化されたときには、ものは単なる具体的個物から、<概念>へとAufhebenされる。概念のもとに包摂されることが、科学的<説明>と称されるのである。
 文芸を現象としてみるならば、個々のものとして現われるのは、<作品>であり、それらは書かれたもの、活字となったものだけでなく、ネット上の電子的作物であってもよい。一冊の文芸書を手にとるならば、それが文芸の観察の対象である。<もの>の探求においても、ものを見る視点もしくはアスペクトにおいて、探究の層が区別されるように、<作品>においてもいくつかの層が区別できる。ものは、そのものにおいては、一個の対象であり、それ自体において分析と綜合がなされうる。それが対象の<性質>であり、特徴である。さらに他の対象との比較において、<分類>がおこなわれる。いわゆるクラス分け(類別)である。そして分類と対象の性質にもとづいて、因果判断がなされ、一般法則がうち立てられる。
 文芸ではどうであろうか。作品自体は一個の特殊な性質を持っている。それが与えられた作品の<内容>である。それを一般にテキストと名づけている。すなわち文芸の直接対象はtextである。しかしそれだけでは、文芸作品を<観察>したことにはならない。それは物の性質だけでは、物の本質を<説明Erklaeren>したことにならないのと同様である。作品には<創作者>という次の層があるのである。さらには、ほかにも無数の作品が対象として存在しており、<分類>が必要となる。分類はいくらでも細かくなしうる(後述する)。そして、ものの観察と違って、とくべつに付け加わることがある。すなわち<読者>の存在である。自然科学の対象認識、すなわちものの観察においては、観察者もしくは観測者は、一般に直接対象に関与しないものとされる。どんなに対象が美しくても、それは観察者の側の主観的状態にすぎないのであり、物の本質には一切影響しないのである。ところが文芸の読者は、そうではないのである。なぜなら作品そのものが、読者に対して甚大な影響を及ぼすからである。
 そもそも<もの>は観察者のために存在しているのではない。天界の星星は、人の目を楽しませるために存在しているのではない。ところが、文芸作品は、まさに創作者以外の人のために作られるのであり、つまり読者なくしては、文芸は作品として成立しえないのである。神の造った作品である自然界は、人間がいなくても何の違いもなく、作品そのものであろう。人間の作品は、すべて人間のために作られたのである。この創作者と読者との関係が、実は文芸の観察の究極の<意味>となっている。これは自然界の探究においては、ありえないことである。自然は人間に対して語りかけているのではないからである。
 創作者が読者に語りかけるとは、人間が人間に語りかけるということである。文芸で得られる観察は、人間そのものの観察であるといってもよいのである。人間に関して、自然科学で得られる認識は、ものとしての人間の知識であるが、文芸の観察でえられる認識は、具体的な生命体としての人間の、様々なありようをめぐり、それらを創作者と読者との間の共感と反撥という、それ自体もまた具体的な生命現象において把握することなのである。これを哲学では<了解Verstehen>と呼んでいる。あるいは文芸用語では<鑑賞apreciation>と称する。これらはすでに文芸の観察の成果であり、文芸における観察が、結局生命体としての人間の、自己認識のいとなみにすぎないことを表わすであろう。
 自然における人間の位置を考察することは、すでに自然科学ではなく、哲学的思想である。自然界における人間自身のいとなみを、科学の対象とするためには、観察者自身の存在が邪魔になるであろう。自然科学は対象の<意味>を問うものではないからである。それに対して、文芸は人間のいとなみそのものを対象とすることによって、すでに観察者自身が観察の対象の側に属しており、対象に対して単に認識するだけでなく、作用し、かつ反応するのである。その関係は、自然科学のような単なる一方的、知的作用ではなく、知情意すべてにわたる、全人的関係である。人間が人間に接する時の、あらゆる接触の手段をもって、作品という対象を把握するほかはないのである。その結果、了解に達し、作品の鑑賞もしくは評価が生じるのである。それは true でも falseでもなく、単に共感か、不快かの、いずれかでしかない。それが、人間と人間の関係のすべてであるからだ。

 さて、文芸における観察の仕方を、具体的に見てみる。作品が生まれるには、作者が必要である。作者と作品との関係は、直接的に因果関係においてとらえることが出来る。作者の心性、性格などからはじめ、境遇、環境、風土、教育、社会制度、伝統などといった要素によって、作品の<動機>を探ることができよう。つまり、作者という人間を知ることが、作品の動機の解明につながるのである。これは科学的な作業に等しい。適切な資料とその批判、偏りのない判断が必要とされる。このようなことは専門の文芸学者でなければできないことであり、アマチュア文芸愛好家はその判断に従うほかはないであろう。
 文芸の類別は、言語によるものと、テーマによるものとに分かれる。詩歌(韻文〉と散文との区別は、口承文芸の段階に由来する。文芸が歌われ、朗誦された段階では、日常言語とは異なった、音楽や舞踊と結びついた韻文が発達した。文字の発明と記録の発生によって、単なる事実を記す文章としての散文が発達した。このどちらによるにせよ、テキストとしての文芸現象が発生しうる。その性質の違いは、言語そのものの持つ性質の、分化であるといえよう。すなわち一方では音楽性と意味の象徴性が、他方では事実的意味性が強調される。
 テーマによる分類は、対象としてのテキストの内容に関するものであり、創作者がテキストという手段によって、読者または聴者に伝えようとする、いろいろな意味におけるメッセージであり、情報である。それは知情意にわたるものであり、創作者の全人間性がそこに表われるものであり、そこにおいて読者の知情意が触発されるものである。この分類は、全般的なものから、具体的な個々のテーマに至るまで、多様であり、いくらでも立てられるであろう。たとえば、リアリズムや、ロマンティシズムや、古典主義、ヒューマニズムといった、漠然とした類別に始まり、家庭小説、恋愛小説、冒険小説、推理小説といった、具体的内容に及び、さらにはユーモア小説、海洋小説、怪談、SFなどといった、もっと細かなテーマわけもなされうる。テーマによる分類が必要なのは、文芸の観察において、対象選択のオリエンティールングを観察者に与えるからである。どのジャンルにおいても、基本は人間のいとなみの観察である。その観察が読者そのものの生命的いとなみに作用をおよぼすことによって、ジャンルの選択は、読者すなわち観察者にとって関心の中心となりうるのである。

 文芸の観察は、まず作品という対象があり、創作者の社会・歴史的環境がその背景に作用し、創作の前提とされる読者がそれに呼応し、最終的には作品という対象を間にはさんだ、創作者と読者との時空を隔てたメッセージの授受であるという点において、単なる自然観察とは異なることを、以上に述べた。とはいえ、観察の態度においては、自然観察とそう異なるものではない。火星面の観測が、時々、日々異なるであろうように、文芸作品の観察も、日々、年々、変わりうるであろう。作品や作者における事実的認識に変わりはないとしても、それらに対応する読者の側の了解の能力が変わりうるからである。文芸という対象の観察は、人間と人間の間の認識の関係である以上、認識の能力が変われば、作品自体、作者自体の<評価>、すなわち読者にとっての意味も変わるのである。結局、文芸の対象においては、客観的観察や認識というものはありえないのである。ものの認識や観察においては、普遍的真理の探究が可能であるとしても、文芸作品においては、普遍的価値や評価などというものはありえないのである。作品からなにものも受け取ることができなくなったとき、作品は死ぬのであり、あるいは作品は死なないまでも、読者は死ぬのである。

 最後に、観察の対象としての文芸と、実人生との関係を考察する。文芸現象が、人間と人間との間の関係のいとなみであり、その全人的把握のいとなみであるとしても、それは必ずしも文芸に限らず、文芸に特有のことでもなく、まさに実人生そのものがそうであるといえよう。人生は生命体の生のいとなみそのものであり、その人生のいとなみのある部分を、文芸として対象化することの意味が問われねばならないであろう。 文芸現象は人生の縮図であるといってもよいが、どのような点において縮図であるのか。じつは、文芸的いとなみは、一見実人生のような見かけをもっているが、人生そのものから遊離した、いわば派生的現象なのである。創作者は創作のいとなみにおいて、人生そのものを生きているのではなく、人生をテクストの形式で再生産しているのである。その再生産された人生を、読者は作家から受けとり、追体験するのである。このテクストを間にする両者の関係は、それ自体ではある種の生のいとなみではあるが、いわゆるナマの人生la vie vecueではなく、人生の影像、コピー、あるいはフィクションとしての虚構の世界に過ぎないのである。あるいはよく言って、言語が持つ<意味>の範囲において、純粋な意味の世界であるといえよう。文芸は文芸であるかぎり、その意味の世界をぬけ出ることはないのである。もしぬけ出るならば、それはもはや文芸ではなく、<生>そのものである。作家が創作以外の活動をするならば、それはもはや文芸ではなく、作家の実人生である。虚構ではなく、現実の生である。
 現実の生と虚構とのバランスが、作家の生をあやういものとする。虚構から脱け出せば、もはや作家でも文芸家でもなくなる。一介の生命体である。そもそも現実の生の圧迫から、ある意味で<逃避>する傾向を持たなければ、文芸は成立しない。いわば文芸は過酷な現実の生の中での、オアシスのようなものなのである。これは創作者にとっても、その相手である読者にとっても言えることである。場合によっては、作品によって、作家ばかりでなく、読者の生もあやうくされる。自殺する作家も多いが、文芸の影響で自殺する読者も多いのである。ウェルテルやヘッセが危険視されたりするのである。そこまでではないとしても、虚構が現実をゆがめてしまうということが、大いに起こるのである。虚構はありえない現実を渇望させることにもなるからだ。恋愛小説を読みすぎれば、現実の性愛に失望するであろう。ポルノ小説にふけりすぎれば、現実の性愛を過度に歪めるであろう。理想主義の文芸は、現実社会に生きる能力を失わせる。かといって、リアリズムや自然主義やペシミズムは、現実への嫌悪をもよおさせ、やはり適応性を失わせる。
 かつてアイヌには、ユーカラという優れた口承文芸が行なわれていた。本土の日本人に徹底した支配を受けるようになって、ユーカラはすたれたが、このような悠長な文芸に夜ごとふけっているようだから、アイヌはシャモ(和人)に対抗する気概を失ったのであると、アイヌ自身が思ったようである。一民族の存続にとっても、文芸はあやうい位置にあるのである。このことはユーカラに限らず、文芸一般について言えることである。文芸はその内部に自己否定の要素を含んでいるのである。所詮文芸ではないか、単なる小説ではないか、という言い方は、実存的立場からいって、文芸に対しては、もっともきつい現実的人間の態度である。現実に目覚めるほど、創作者は文芸に対して内在批判的になる。二葉亭が、文芸は男子一生の仕事にあらず、といって断筆したのはその例であり、トルストイもまた、晩年自己の作品を全否定している。与謝野晶子が、「やわはだ」を歌ったのは、まさに文芸の自己矛盾であり、気づかずして自己否定をしているのである(もっとも晶子自身は、自作の色紙を売ることで、生計をまかなっていたが)。

)やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 他方、虚構によって現実を歪めるという文芸の機能は、集団的虚構にもとづく行動においては、大いに利用されるのである。特に歌謡や詩歌が、その役目をはたせられる。武勲詩や軍歌、panegyric(権力者讃美)や国歌などというものが、集団の情動や情念をかきたて、現実の理性的判断を失わせるのである。文芸が戦意高揚のために使われた例は、枚挙にいとまない。それが集団的狂気へ向かわせ、生をあやうくするものである限りにおいて、やはり虚構であることに違いないのである。

 観察の対象としての文芸を、ここでは論じているのであるが、文芸のあらゆる機能を明らかにするには、じつは文芸そのものにとどまっていては不可能である。文芸にふけることと、文芸そのものの本質を考察することとは、別の次元であるからだ。たしかに両者は不可分であり、文芸にふけらずして、文芸の本質を知ることはない。しかし単にふけるだけならば、文芸の効用に身を任せ、翻弄されるだけに終わってしまう。たいていの読者はそのようにしているのである。ここで観察という言葉を使ったのは、単に内在的に文芸にふけるだけではない、自然科学に匹敵するような、対象認識の方法を見いだすためであった。単に創作者と読者の関係だけではない、観察者の視点をそこに見いだすためである。そのような視点はあるであろうか。
 それは単に文芸学としての学問ではない。あくまでもアマチュアとして文芸を楽しむ者の視点において、いわば文芸を超越する、メタ文芸、あるいは文芸が人間と人間の間の生の関係であるならば、メタ・ライフの観点を確立することである。そのようにして、文芸そのもののあやうさを、すなわち生のあやうさを、克服することである。文芸そのものが生のいとなみの一環であること、生の連関の中でのみ意味を持つ現象であることを明らかにし、生命現象そのものの中に包括すること、それによって文芸そのものばかりか、生の本質をも明らかにすることである。それをメタ文芸、メタ・ライフと呼ぶのである。
 この観察の視点を、あらゆる文芸に適用すること、あらゆる読書に適用することによって、真の意味で賢い<了解>や<鑑賞>や<批判>が可能になるであろう。それによって真の<教養Bildung>が可能になるはずである。教養とはヘッセによれば無限の進歩であり、文芸や読書がその契機になるのである。単なる生Lebenではない超越的見地を、教養の土台としなければならないのである。生は単なる素材であり、それをテキスト化した文芸によって、<意味>を形成していくのが、真の教養なのである。