テーマ別ねころぐ


人生論

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テーマ別ねころぐ 人生論

2007年5月6日(日)
幻の人生 (K)

 人の人生を作り上げる根本の要素が、先天的性格であるか、後天的境遇であるか、については、人それぞれの考えがあることでしょう。
 一つだけ確実に言えることは、境遇は人間の素質をどのようにでも変更できるということです。おのれのあるがままの本性を、自然に発現させるためには、例外的な好条件が必要である。たいていの人はこの好条件に恵まれることがないため、良かれ悪しかれ、おのれの本性どおりに生きることを妨げられています。
 人間がおのれの本性をほしいままに発展させうる条件とは、おおまかに言って、一つは理想の家庭環境と、いま一つはなに不自由ない経済的ゆとりとが挙げられます。芸術家で言えば、フェリックス・メンデルスゾーンやヨハン・ヴォルフガング・ゲーテが、この条件の下で、おのれの本性を思うがままに発展させた好例と言えます。もちろんこの条件は天才だけに当てはまるものではなく、あらゆる素質の人間について言えることです。いわば花が花となり、虫が虫となるための、絶好の条件と等しいものです。
 ところが、人間の場合に限って、この絶好の条件が自然界のようにはうまく行っていません。さまざまな差別や逆境やが、人間の本性をゆがめて成長させます。場合によっては全く押さえつけてしまいます。本来そうあるはずの本質的おのれとは全く違った、作られた人格が、そこに本当のおのれであるかのように幅を利かせます。
 
 現在(いま)の自分は俺ではない
 本当の俺は
 心の奥底
 意識と無意識の境する所
 ものうげに光っている
 一つの眼
 そ奴は
 存在と不存在を克服しようと
 無限の影をはっきり見ようと
 巨大な怪物に立ち向かったが
 自分のほのおに焼かれちまった
 そうして闇の奥に閉じこめられても
 いつの日にか
 身内に熱い光を感じて
 明るい世界にとびだすことを
 わすれない
 存在の眼

 恥ずかしながら青年期の詩を載せてみましたが、こうした人格的違和感は、青年期において特に強烈に起こるものです。境遇が挫折を生み、または別の方向へと人生を導き、あるべきおのれの本性は影を潜めてゆきます。そうして出来上がっていった自分なるものは、果たして本当の私なのであろうか。
 本来の私と、境遇によって作られた私との間には、自然界には見られない精神的格闘が起こります。本来ありえたかもしれない本質的自分に対して、境遇はこうあらねばならないおのれを打ち立ててくるのです。
 しかしながら、もし絶好の条件の下でおのれが本性のままに形成されていたならば、どのような人生であったかを考えると、たぶんよほどの天才でない限りは、案外と平凡な、ありきたりの人生になりかねないことに気付きます。人間の本性は大部分が共通の本性であるからには、自然界と同様に共通の条件下では平均化に向かうからである。もし境遇に恵まれて、私自身の本性のままに生きたならば、私は決して文芸に惹かれることはなかったろうし、人間について思索することもなかったろう。経済的には幸福で、人間関係においても孤独者にはならなかったろうし、サザエさん一家のような家庭人であったかもしれない。もしくはカサノヴァのような官能の人生を送ったかもしれない。そうしたどこかのパラレル・ワールドにおいてありえたかもしれない本質的私を、しかし、今の作られた幻としての私と、いまさらファウストのように交換したいとは思わない。
 いまの私は境遇によって強いられ、作り出された幻としての私であるが、今でははるかに本来の私よりも魅力あるものである。この私を幻とはいえ、そう簡単には手放したくは思わない。今では本質の私と格闘することは、幸いにもそれほど苦痛ではない。大いに私の本質を認めてあげよう。とはいえ、人類の文明が常に悲惨からかちとられて来たように、境遇の不幸からかちとられたものを、より価値あるものとしてよいだろう。
 たぶん文明も思想も芸術も、人類の本性をゆがめることによってのみ生まれてきた幻なのであろう。この私もゆがめられた本性から、蜃気楼のように立ちのぼった夢なのであるかもしれない。

2008年8月24日(日)
グロテスクな人生(K)

 存在の理想的な状態は、常にそのままの状態であり続けることであると思う。もちろんそれは、不安定や不安や動揺の状態であってはならない。願わくば永遠の自足でなければならない。物質も生命も、究極においてはそうした絶対の安定、いわゆる平衡状態を求めるものであるらしい。人間や動物は、飢えや欲望に駆られていないかぎり、安らぎを必要としている。動物にとっても人間にとっても、安らぎのない生存は悲惨であり、無意味である。ただ生きるために生きる生命には何の意味もなく思われる。時に生存そのものを楽しめる安らぎの時が訪れてこそ、生命には意味がある。
 家畜や、犬や猫を見ていても、そのことは言える。家畜はいずれ人に食われるという最大の犠牲を払ってまでも、ある期間安心できる生存をかち得たのである。しかし、ある時突然にその安心と信頼は奪われる。犬や猫の運命も同様である。飼い主の気紛れにすべてを委ねることによって、野性生活によっては得られない安心をかち得たのである。しかし、ある日突然に生命を断たれないとも限らない。
 人間は文明や文化といわれるものを発展させることによって、生存の安らぎと安心をかちとってきた。それらが時に多くの不都合や、征服や服従をひきおこしたとしても、じゅうぶん償うだけの生存の安定をもたらしたのである。しかし、いつかその信頼と安心は裏切られるかもしれない。そうした不安が、さらに新たな文明や文化を生み出していく。
 人は、田園生活や野性生活の中に心の安らぎを求めがちである。それは単に、文明や文化に対するノスタルジックな反動に過ぎないであろう。真の野生の中では、いかなる生存の安らぎもないことは野生動物を見れば明らかである。それよりもネアンデルタール人や、縄文人の生活を考えればすぐ分かることである。縄文人の平均寿命は30年であったという。あの薄暗い竪穴式住居の中で、どのような生存の安心が得られたことであろうか。
 しかし、文明の中で生命の究極の平衡状態が実現されているかといえば、日々われわれが実感しているように、理想にほど遠いのである。プーシキンの「大尉の娘」であったか、のどかな田園生活の描写の後に、突如野蛮な決闘シーンが描かれる。楽園に憧れるのも人間で、楽園を破壊するのも人間である。文明を創るのも、破壊するのも人間である。いかなる楽園にも、いかなる文明にもあきたらなくさせるものが、人間の、もしくは生命の本質の中にある。
 生命への盲目の陶酔とでも言えるものがそこにある。いかに安住や安定の中に置かれようとも、すぐさま生命の最大の敵の一つである退屈が押し寄せてくる。そこから生命のあらゆる愚行が発している。安定や安住は一時的充足に過ぎず、生命の究極の目的ではないかのようである。さらに大きな欲望や欲求が、さらなる充足を求めてうごめきだす。こうして果てしない循環を生命は繰り返している。その輪廻をどこかで止めねばならないのか。
 充足を求めるという限りにおいて、生命は平衡状態を目ざしている。その平衡状態を乱すものもまた生命である。最も安定した生を送っているように見える植物も、気候変動に左右され、草食動物に食われ、草食獣はまた肉食獣に食われ、あらゆる動植物は人間の欲求に支配される。人間どうしは互いの欲求によって争いあう。こうした生命どうしの闘争が、果たして生命全体の平衡状態を実現しうるのであろうか。そこには何かの根本的な間違い、プログラムの失敗がないと言えるだろうか。
 生命を美しいと見ることは、晩年の釈迦のように、そこに平衡状態を見て取っているからであろう。それは生命そのものではなく、何か生命の見かけの壮麗さに打たれることなのかもしれない。もはや生命を超えた目で見るとき、この壮麗な悲劇もまた美しと言いうるのであろう。はからずも生命そのものが生み出したたくらみとしての美が、生命を超えた生命にとって平衡状態を実現するのである。
(2009・2・21訂正)

2010年12月11日(土)
人生の設計 その1

 近頃の小中学校では、将来の職業の選択を考えさせる授業が行われるようになったようである。特に中学校ではアルバイト体験を授業に組み入れている。かつて学生は勉強さえしていれば、教師からも親からも褒められた時代から、少しは進歩したようである。
 もちろん小中学校で職業教育をすることに関しては、いまだに反論は根強いであろう。かくいう筆者も、中学時代で一番辛い体験は、煎餅屋で好奇心から一日働いた体験である。一と月ほどは煎餅を食べる気にならなかった。とはいえ、小中高生を実社会から完全に隔離してしまうかつての教育が、いろいろなゆがみを人格に及ぼしたことは疑いがない。初めて社会に出た時の違和感とショックは、限りなく大きいのである。
 勉強ができて褒められるのは学校にいる間でのことである。こんなことですら社会に出るまでは気づかずにいる人が、いくらでもいたであろう。社会で求められる勉強は、実務的な、もっぱら生活の向上のための勉強である。そうしたことは確かに義務教育で教える必要はないかもしれない。しかし選択する可能性は与えられねばならない。
 人がどのような人生を生きるかは、その人の自由な決断によって決まることである。しかしどのような人生を生きるにせよ、のたれ死にを選ぶのでない限り、それを支えるのは生活である。少なくとも現代社会においては、人生の理想と生活とが一致することはまれである。一方では自分の人生の理想があり、他方ではそれを実現し支えるための生活の糧をえる仕事が必要である。
 この人生の二重性を教育は教えるべきである。私の人生は私のものであり、それをどう生きるかはすべて私にかかっている。しかし、私の人生を生かすためには、この社会の中でそれを支える生活をいとなまねばならない。一方はもっぱら個人的な課題であり、他方はそれに関連した社会的な課題である。教育は長くこの二つを混同してきたのである。民主主義と称する西欧の制度や経済を物まねしながら、この根本の個人主義を無視してきたのである。
 例えば、道徳教育などというものは個人に向けられてはならないものである。個人の生き方は個人が決めるものであり、道徳などが関与すべきものではない。もし道徳が必要であるならば、それは個人が社会の中で生活していくための心構えやルールの問題であるべきだ。特に生活にとっての最低条件である社交性を培うことにしぼられるべきであろう。基本的に、社会の中で生活していくことは、何らかの意味で人のためになる仕事、一般的にいえば需要のある仕事をすることである。少なくとも人が何を求めているかということへの関心がなければ、仕事は成り立たないのである。これが生活のために最小限必要な道徳である。
 もちろん道徳などは必要ないと言う反論はある。他人のためを考えない金儲けの方法はいくらでもあるだろう。投資や投機やギャンブルや詐欺など、それでもって生活を成り立たせている人や企業もあるだろう。しかし一般的に成功率はごく低いのである。教育はまず着実な生活の方法を教えるべきである。その上でリスクのある投資などを教えるのも良いだろう。
 職業教育=社会教育はあくまでも手段であることを忘れてはならない。社交性を強調するあまり、個人の人生の自由を無視してはならない。学校の中でのいじめは、その弊害の一つであろう。集団からのけものにされることが、自己の存在の否定と感じられるような雰囲気作りを社会教育が生み出すならば、根本が間違っているのである。個としての人生はいかなる集団からも独立した唯一絶対のものである。この民主主義教育の根本から離れてはならない。その上で生活の手段を教えるべきである。
  *       *         *
 最近の高校生や大学生のアルバイトの明るい応対に接すると、上に書いたようなことはもはや老婆心に過ぎないのかもしれない。学校と社会とは少なくとも学生の意識の中では、かつてと比べて限りなく接近しているようである。その点に関しては、未だに社会的不適応の筆者には羨ましい限りである。

2011年2月8日(火)
人生の設計 その2

 親の職業を継ぐ、あるいは親と同種の職に就くということは、封建時代は当たり前として、現代でも珍しくないのは、親との間がうまく行っている限りにおいて、子にとっては一番分かりやすい生活の手段であるからである。かつては家庭が職業教育、または社会教育を担っていた。子は親の仕事または職業を見ながら、おのれの将来について考えたのである。親の生業に対し、肯定するにせよ、反発するにせよ、身近な唯一の職業教育として、人生の設計の出発点となりえたのである。しかしこれがうまく機能したのは、理想的な家庭においてだけである。
 過去においても現代においても、親は必ずしも自分の職業に自信や誇りを持っているわけではない。それによって歪んだ職業観や、社会意識を子供に植え付けてしまうのである。子供には自分の余儀なくされている職にはつけたくない親もいるだろうし、全く語りたがらない親もいるだろう。子供は親が何をしているかも知らず、お金はどう入ってくるのかも知らずに、社会的に無能なままに成長する。無能なままに社会に出て挫折をくり返す。挫折しないまでも、自己の人生に意義を覚えないままに一生を終わる。
 親を見て職業を決められる幸福な子供ばかりではない。子供に一生の設計を準備させるのは公教育でなければならない。それはパイロットになるとか、宇宙飛行士になるとかの空想や、ましてや偉人になるとか、愛国者になるとかの単なる理想を植えつけることではない。生活は現実であり、現実の社会を客観的に見る目を培わせることである。ドイツの教育制度では、子供はすでに中学校の段階で、将来の職業選択を強いられるそうである。もちろん小学校でそれなりの社会教育、職業教育をへたうえでの選択であろう。
 早くから職業教育や職業選択を子どもに強いることには、早々と子どもを挫折させることになるという反論もあるだろう。あらゆる職業が平等であるならば、即ち社会的に同等の見返りが保障されるならば、現今の格差社会が生み出すような挫折感は生じないだろう。大学教授も煙突掃除人も、基本的には同じ報酬が保障される。職業選択は競争ではなく、単なる能力別配置であるべきだろう。職業教育はこうした社会保障と同時に進められるべきものである。
 そうした社会保障のない単なる競争社会では、確かに早期の職業選択は、人生において早期の挫折をもたらすであろう。現今で可能なのは、そうした社会の実態を職業という最も現実的で、最も基本的な社会的営みをとおして教えることである。それは早ければ早いほど良い。矛盾を矛盾のままに教えることによって、それに対する抵抗力を培わせねばならない。社会的に生きようとする限り、あらゆる人間が泳いでゆかねばならない生活の荒波を、子供のうちから少なくとも知識として与えておくべきである。

2012年8月16日(木)
生命の掟

 生命界では長寿による自然死や‘天寿を全うする’などということがごく稀であることは、常識といってよい。どんなに強い動物であっても、病気や怪我などで弱った瞬間に、他の動物の餌食にされる。これは同種の動物間においても同様である。弱った仲間は群れの負担とならないように見捨てられるか、たちまち他の動物の餌食となって、群れの犠牲となる。動物の生命にとって、群れや種の存続が最重要であって、個体は生によってばかりでなく、死によってもそれに貢献する。人間社会においてはどうか。
 基本的に生命界の掟は、人間社会においても、陰に陽に貫徹されているといってよい。‘大往生’などというていのいい言葉によって、いかにそれを隠そうとしても、心の底では誰もが知っている。老人は死ぬのではなく、<死なされる>のであることを。未開社会では、ジャック・ロンドンの「生命の掟(The Law of Life)」に描かれているように、老人は自ら群れを離れて死に赴くこともあったろうし、また伝説化した姥捨ても行われたことであろう。しかし、現代でも、老人は時として自ら死におもむき、それと意識しない周囲からの姥捨てにあっているのである。
 老人の介護がどれほどの負担であるか、実際に介護に当たったものでなければ想像もつかないことであろう。そこには様々な心のスキが生まれる。はたしてこうした心労にどこまで耐え切れるだろうかという、ひそかな(またはあからさまな)思いは、たえず介護者を襲うであろう。愛情があればあるほど、その密かな思いは募るはずである。なぜならその思いに対する反発が、さらに心労を募らせるからである。こうして<楽をしたい>という思いが、安易な方向へとはしらせる。施設へ入れる相談をしている息子たちの横で、母親が心細げな白い顔をしているのがふと目にはいる・・・。死は必ず安堵している介護者を襲う。もし安易な人任せに走らなかったなら、という後悔は既に遅いばかりか、むしろそれを望んでいたおのれの背後の心に気づくであろう。あらゆる<事故>は起こるべくして起こるのであり、こうして老人は介護者によって<死なされる>のである。
 介護される老人たちは不思議な世界に生きている。無言で施設の広間を行ったり来たりする老女。何度目かの往来に出口はどこかと訊かれる。入ってきたときにいくつかのドアを抜けたので、こちらにも分からない。事務室を指差して、そこの何かを書いている女性に訊いてみてはという。老女はそこへ入っていって、同じことを訊ねる。スタッフの女性は目を上げて、心得顔のずるそうな表情で、なにをしに出るのかと訊く。おやつの時間になると、各部屋から老人たちが食事の広間に出てきて、決められたテーブルを囲む。だれ一人言葉を交わすものはいない。黙ったまま、目の前に置かれたささやかな老人向きの、ヨーグルトのかかったパフェのようなものにスプーンを運ぶ。まだ二十歳前後の男女の介護スタッフだけが、生あるものらしく活発に行き来する。ここでは世代の違いということ以上に、別の宇宙が存在していた。
 もういいわよと、付き添っていたこれもかなりの年配の娘に発した凛とした老女の言葉に、老人たちが耐えているものが垣間見えた気がした。生でもなく、死でもない不思議な中間地帯に老人たちは置き去りにされていた。そして生よりも限りなく死に近づいていながら、まだ<生かされている>自分らの定めになすすべもなく従っている。しかしそれはある静謐なゆかしさでもある。この施設の外に、騒々しい世界のあることなどが、青壮年者の溌剌とした世代の活動があることなどが、まるで夢のように遠く思われる、異世界のゆかしさである。介護する律儀な若者たちは、こうしたゆかしさに惹かれているのかもしれない。たとえ経験不足で、不手際であるとしても・・・
 他の老人たちとおやつのテーブルについている母親の姿を遠く眺めたのと、‘仕事’があるから、‘そうか’と会話して施設を出たのが、元気な母親との最後の思い出となった。その日のうちに転倒事故をおこした母親は、病院のベッドに移されたままついに目覚めなかった。葬儀の席で、縁者の若者と平均寿命の話になったとき、‘周りが生かしてくれないよ’と言った言葉には実感がこもっていた。

2012年8月19日(日)
死について

人間が観念的存在、観念的動物であることを、もっとも明瞭に知らされるのは、他者もしくはおのれの死に面したときである。観念として思惟できないものを、人は何とかして観念化しようとする。死ほどまっこうから人の観念的性向に対立するものはないのである。死は無であることは誰もが知っている。動いているものが動かなくなった時、そこにあった何かが失われたことは誰にも分かる。器械ならば、例えば電池を取り換えたり、部品を取り換えたりするだろう。人や動物が死によって失うものは、全的存在である。なすすべもなく見まもるか、待ちうけるほかはないだろう。
 まず脳が徐々に機能を失っていく。真っ先に失われるのは最も脆弱な部分である大脳新皮質の機能であり、次いで感覚が損なわれていく。眼底反応がなくなった時点で<脳死>が始まる。やがて脳幹に及び呼吸が止まる。この時点で延命措置が行われる。人工的に肺呼吸が行われ、それまでの酸素呼吸の苦しげな咽喉音から解放される。この時点で、遺族は文字どおり<生命>と直面させられる。人間としては<脳死>によって死を宣告され、それから先はむき出しの死と生命との格闘を見まもるほかはない。いかに人間が生命をないがしろにせざるを得ないかを痛感させられるのである。生命の最後の砦である心臓が、果敢に命の液を全身に送りつづける。脈拍数も普段の倍はある。それだけの必死の活動も、やがて血圧が低下し、頻繁にアラームを鳴らし、ついには測定不能となり、スーと脈拍数が落ちていく。二度目の死を迎える。 
 こうして存在の代わりに無がそこに出現した時に、人はそれをあらゆる種類の観念化によって補い、つくろうほかはない。思惟や想像の及ばないものを、あたかも生きているかのように表象によって覆うほかはない。人類が古来培ってきた死の儀式がそれである。死者は無であるとしても、残された生者には、彼らは自分らの世界に属する何らかの観念的存在なのである。たとえそれが<死後の世界>として、この世界から隔離された場所に存在するものとして表象されるにせよ。人間はこのようにしてしか、死と向き合うことができないのである。
 人間にとっては、いかに科学が発展しても客観的宇宙はそれほど大事ではない。真理は基本的に人間とは無関係であり、人間を見離す。それでも人は真理を探究するのであるが、そこには大いなる諦観が待ち受けている。その時人は何の感動もなく、無としての死を受け入れるだろう。それまでは、人は観念の世界で、幻と戯れる他はない。観念こそが人間の本質であるのだから。
 人間が動物から人間になるに当たっては、記憶の発達が最も大きな要素であったろう。厖大な観念の貯蔵所である記憶のおかげで、人は独自の観念的世界を作り出すことができるようになったのである。この記憶の貯蔵所を統括する、いわゆる統覚による綜合的統一が、私という自我意識を中心とした一人の人間の人格を生み出すのである。まず記憶の喪失によって、私という人格があやふやになりだすことは誰もが知っている。しかし、人格の中心は最も強力な記憶と結びついており、多少の健忘症では私という人格が失われることはない。むしろ、人格は常におのれのありどころを、最も深い記憶に求めているといってよい。老人が幼年期の記憶だけを失わずにいるのはそのためであり、それは人格の最後の拠り所なのである。
 このように人間の存在の根拠は、記憶によって保証された観念のほかにはないのである。人間は常に観念を求めている。たとえそれが、<いたるところにあってどこにもない>青い花のような観念であっても。人を動かすのは物ではなく、深い衝動を呼び起こす何らかの表象であり、観念であるのだ。それが単なる本能的行動ではない、人の行為の根拠である。死者は無ではなく、この観念界に属している。死者は残されたものの記憶の世界に生きつづけるのである。あたかも観念がそのまま実在であるかのように、死者は天国や極楽や、場合によっては地獄に生きつづける。そうすることによって生者は、死者を観念界に保存しつづけることができる。いわば死の世界は、生ける者のための世界であり、その世界もそのための儀式も、当の死者にとっては全く無縁のことがらである。あたかも子供がぬいぐるみの動物に話しかけるように、人々は死者に語りかける。
 死が客観的に完全なる肉体及び人格の消滅であるならば、単なる死後の世界ではない、すなわち観念の幻ではない、当の死者にとって不滅といえるものは何かあるのだろうか。ある時、夕暮れの街路を帰宅の途につきながら、死について考えていると、夕暮れの心地よさのためであったろうか、ふとおのれの存在が今死んだとしても、次の瞬間にはまたどこかで存在しているかのような、安堵に似たような気分が起こった。死は少しも恐れるものではない。この世への気がかりだけが(それもおのれに関する)邪魔しているのである。この地球などではない、宇宙のいたるところで私はまた存在しているだろう。宇宙の創造者である神が、片田舎の大工のせがれとして誕生したように、私もまたどのような存在であるかは知らないが、また私自身に目覚めているだろう。私は器械の様な身体を持っているかもしれないし、またはゴキブリのような知的生命体かもしれない。いずれにしても、私という意識が不滅であってはならない理由が、主観的には見当たらないのである。単なる自我の肥大化であるのか、形而上学的に根拠のあることなのか、いずれまた探究したい。 

2012年11月14日(水)
希望について

 希望ー希望ー希望とはなんであろうか。私は時にこの言葉を口ずさまねば、生への意欲をかき立てることができなくなる。それは本望なのであろうか。救済は悲哀でも苦痛でもないはずなのだが。単に気持ちが落ちこむだけでは、この世界からの解脱はおぼつかない。救済は希望なのである。それ以外に真の意味の希望はないのである。
 Hoffnung, hope, espoir いずれの言葉もある胸の広がりを覚えさせる。ある空間的・時間的広がりの感覚をこれらの言葉は与える。本来世界意志は時間と空間をおのれのものとした時、絶大なる希望にとらわれたことであろう。ポオの表現によれば、宇宙の創造者は可能な限り広大な空間と、可能な限り無限の時間とのなかで、自己自身であるところの世界を生み出したのであった。この創造の行為自体は盲目の衝動によって担われているのであるが、それにはそれにふさわしい空間と時間が必要だったのである。この盲目の希望が認識者の中で観念化される時、時間的空間的な自己の拡張への欲求として意識されるのである。いわば希望とは観念化され、理想化された生への意志である。その意味では希望は生への意志そのものの克服ではないとはいえ、その理想化を進めることによるある種の昇華であるとはいえる。
 私が悪にかられている時には、それは単なる欲望である。単なる欲望はもちろん本来悪でも善でもない。それは世界意志の本質であるかぎりは善悪を超越している。しかしあえて希望以外の欲望を悪と呼ぼう。希望は自己の解放への願いであり、より高い自己への欲求である。それは生活のささやかな精神的向上であってもよい。それを考えるだけで、胸の広がる思いがすれば、それが希望である。希望は観念化され、理想化された欲求であるから、必ずしもそれが未来において実現するとはかぎらない。むしろ実現しないままに、いわば天上の星のように人生を導く理念にとどまることが多いであろう。単なる企てや計画であるなら、それは努力と実践によって実現を遂げる可能性は高い。それは矢が的に向かうように、既に立てられた目標に到達することである。目標や目的はたしかにそれら自身観念であるが、それらに向かう意欲自体は必ずしも観念化されているわけではない。むしろ生への意志は観念を道具として、目的的にその欲するところを果たすのである。
 生への意志を観念化し、理想化するためには、その欲望の実現が極めて困難であるか、不可能に近い目的が与えられねばならない。むしろ理不尽なくらいの願いへと生への意志を導かねばならない。<あの月を取ってくれろとなく子かな>。一茶の真意とは離れるが、希望とはまさにそのようなものであるかもしれない。

2013年5月6日(月)
人生とは何か―調和の幻想

 人生について、切実に考える存在は、人間以外にはないであろう。あらゆる不協和音に満ちた人間世界において、日々が衝突と、争いの連続である。その中でやはり幸福を求めることをやまない生命の楽天性が、自己自身に逆流することによって、悲哀や、絶望や、諦めや、さらには暴力的な行為へと、人を駆り立てるのである。幸福とは、単に自己と他との、あるいは自己と自然との調和を求めているにすぎないのであるのに、それすらがこの世界では実現不可能な、<調和の幻想>なのである。
 美しい協奏曲が心の中で鳴り響いていながら、これをこの世のどこに求めることのできない、絶望感と疲労が、せめて思索の世界に慰めをもとめるのが、人間に与えられた唯一の逃げ道である。不調和の原因は、私の中にあるのであろうか、他者の中にあるのであろうか。私の中にあるのだとすれば、私は気がつかずに他者を傷つけていたり、世間や世界に対して無知であったりするからなのであろう。
 今、人間関係にしぼって、このことを考えてみよう。私は頑固者である。たぶん、人は多かれ少なかれ頑固なのであろう。それは、個体保存の本能に基づいた、生命にとっての必要な防禦なのである。しかし、度を越すとそれは破滅につながる。ことあるごとに他者と衝突し、世間や社会に不満を抱くことになる。自己自身の性向や要求を、一方的に他者との関係において実現しようとする、いわゆる利己主義である。他者において自己を実現することだけを考える、そうした意識無意識の利己主義は、初めから破綻を運命づけられている。なぜなら、すべての人間が、多かれ少なかれ、頑固者であり、利己主義者であるからだ。
 このことに、私は青年期の挫折以来、よく気づいていながら、今に到るまで改めることができない。たぶん、たいていの人間もそうであろう。意識無意識に、私は私の立場からしかものを考えていないのだ。その結果、人生は人間関係や、社会関係においては、挫折の連続でしかなくなる。そして、その人生において私の得たものは、孤独における私自身の充足と、調和の幻想への願いだけなのである。私が私を棄てない限りは、調和は不可能であることが分かっている以上、私は幻想の世界にのがれるほかはない。
 では、他者に原因があるとしたらどうだろうか。最初の他者である両親が、自我の他者にたいする基本的関係を決定するといってよいだろう。人生における挫折の根本を考えるとき、たいていの人が両親にたどりつくのはそのためである。その両親の影響から抜け出すことが、青年期の社会関係のほぼすべてであるといってよい。一方ではネガティヴな態度をとりながら、他方ではポジティヴな対人関係に向かおうとする、この矛盾が人生を決定するのである。人はこの関係から、一生抜け出すことはできないであろう。そこに、どんなに<和解>が生じたとしてもである。
 何故に両親が、個人の人生にそれほど決定的な影響力を持つのだろうか。一つには、動物界の類比で考えれば解りやすい。ヒナや幼獣にとって、親の存在は自己自身の存在にとって生死を決定する。人間の子も、基本的には同じである。全面的に親に依存することによってのみ、おのれの生命を確保できるのである。そして、この関係が、一生を通じて、あらゆる人間関係の、意識的無意識的な理想なのである。二つには、この理想の関係は、幼児が成長するとともに、次第に、もしくはにわかに崩れてゆく。親もまた、基本的にはエゴイストなのであり、子ばかりでなく、自己自身を保たなければならないのである。そこに、全面的依存と、全面的充足を求める子と、子から距離を置き始める親との間に、心理的ギャップが生じ、特に子供の側に、楽園喪失の思いを抱かせるのである。
 人間関係の理想が、すでに幼児期に形成されたものであるならば、それは非常に特殊な関係であり、決して人間社会全般において求めることのできないものである。ここに、フロイト的に言えば、人間社会のノイローゼ的な様相の原因があるのである。しかし、ここでは個人の人生のノイローゼ的様相に話をしぼる。すでにうしなわれた楽園である、全面的依存と、全面的付与による、自己自身の生存の充足が、絶えず欲求不満として、個人間の人間関係につきまとっている。だれもが同じものを求めているのに、それを自分だけが独占することを、人生の窮極の目的とする以上、そこには幸福ではなく、争いと、挫折が待つばかりである。そして、そこに和解や公平が生じたとしても、それは理想ですらなく、単なる妥協であり、譲歩であるに過ぎない。そこには窮極の調和は存在していないのである。
 窮極の調和とは、与えるものと与えられるものとが、全面的究極的に一致することである。その実現はこの世界では、幼児の一時期をのぞいては絶対に不可能なのであり、宗教的、神話的に言い表わされるほかはない。<神の無限の愛>のほかにはそれを実現する道はないのである。しかし、それもまた一つの<調和の幻想>である。誰も神になれるものはいないし、人は与えるよりも、与えられることを、はるかに強く望むのであるから。
 親もまた結局、子に与えるよりも、子から与えられることを強く望むのである。この関係ほど、子にとって鬱陶しいものはないのである。与え、与えられる関係がうまくいくならば、たしかにこの世界ではまずまずの人間関係の基本が作れるであろう。しかし、たいていはどちらかに偏るために、親子関係は、基本的に不幸の源なのである。その不幸を背負いながら、たいていの人間は、自己自身の人間関係、社会関係を築いていくのである。あるいはそれを築くことに失敗するのである。そして、むしろ失敗する人間が多いからこそ、調和を探求する宗教や、理想や、道徳や、倫理が、あらゆる社会にはびこるのである。
 確かに何らかの形での調和の理想、調和の幻想を抱くことなしには、この人生を生きていくことは困難であろう。私もまた、孤独の中にそれを探求している。いかに親しい間柄でも、窮極の理解は不可能であることを知れば、誰もが兼好法師の心境になるであろう。思いもよらない、考えや感じ方のすれ違いが、争いや憎しみやをうむ、人間関係の根本であることを知れば、だれもがそれを修復する努力に疲れるであろう。そして、その徒労のはてに、兼好の言葉をしみじみと味わうであろう。

 「つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただ独りあるのみこそよけれ。世にしたがへば、心外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よその聞きに随ひて、さながら心にあらず。」 <徒然草75段>

2013年10月23日(水)
心の世界への逃避

 この世界がある種の地獄であることは、すでに何度か述べた。そのことは生命界に最もよく見てとれる。生命が生命の犠牲の上に、互いに弱肉強食の争いをつづけながら進化、存続したことは、言い古された真実である。何万という稚魚の中で、生まれた途端に次々と捕食され、成魚となるものは数匹に過ぎないという。その種や類の間、または個体間の闘争は、人類においても、あるいは人類においてこそ、最も激越であり、地獄の相を呈している。人類においては、その激化は、農耕と共に始まる<文明>によって決定的なものとなった。
 NHKの番組「病の起源」によると、魚も特殊な環境を与えると<鬱病>になることが確かめられている。人類の鬱病の始まりは、文明による富の分配の不平等、階級制の成立によるものであるとされる。平等社会である狩猟採集民には、鬱病は存在しない。弱肉強食の原理を種の内部に持ち込んだ、農耕文明こそが、恐怖や不安といった過剰なストレスを、人類内部にもたらしたのである。自然界という外部のストレスと、富の分配の不平等による内部のストレスが、人類社会を一層の地獄の世界としているのである。
 この世界は唯一の現実であって、人はそこからあらゆる他の世界を類推するほかはない。この世界が地獄であって、どこにも天国などは探し求められないのであってみれば、ましてや現実でない死後の世界や、あの世に、天国なぞあるはずはないであろう。仮に死後の世界や、生前の世界があるとするならば、そこもまたこの世界と似たような、地獄である可能性は高い。世界意志が最も確固として現われているのが、この現実の生命界であるならば、やはり世界意志に属する死後の世界や生前の世界も、この現実界とさして違ったものではないであろう。言ってみれば、人は世界意志という地獄より発し、生まれるも地獄、生きるも地獄、死して後も地獄の存在でしかない。そこには地獄からの救済はないのである。
 それなのに、なぜ人は一見明るく、楽天的に生きられるのであろうか。そこに生への意志のトリックがある。宗教がそのトリックを最もよく表わしている。文明と共に生じた類の宗教は、基本的にペシミスティクである。すなわちほとんどが現世否定的である。それにもかかわらず、現世からの救済を説く点において、あきれるほど楽天的である。仏教の極楽、キリスト教・イスラムの天国、いずれにしても、この世界でそうあってほしいという願望の投影された世界である。もし死後の世界やあの世が可能であるならば、なぜそれがこの世の理想の投影でなければならないのか。古代ギリシャ人は、あの世に関してもっと現実的であった。オデッセウスは黄泉の国で、憂鬱そうな顔をしているアキレスに出会う。黄泉の国は特に良いところでも、特に悪いところでもない。この世の影のような場所である。「古事記」に描かれている黄泉もそのような場所のようである。
 ここに人間が際立って観念的存在であることを考慮すべきである。人間は感覚的現実界と、観念的思念もしくは想像力の世界との、二重の世界に生きているのである。イエスは「野の花、空の鳥を見よ」と言ったが、そうした明日へのわずらいのない生き方は、想像する存在である人間には不可能なのである。「今日もご先祖様のおかげで、獲物にありつけた」と歌う狩猟民とは違って、農耕文明によって、人類は常に明日をわずらわなければ生きてゆけなくなったのである。そしてこのわずらいが、想像力をさらに肥大させていった。ついには現実と想像との区別さえつかなくなってゆくのである。想像力が現実と折り合いをつけていくかぎりは、人類の進歩の原動力であったといってよいだろう。しかし、想像は同時に創造なのである。
 この世が地獄であるならば、人はどこに天国を求めたらよいだろう。いうまでもなく、想像力の世界である。唯一現実から離れることができるのは、この現実界から取り入れた観念を自在に構成できる、想念の世界の他にはないのである。これは世界意志の作り出す客観的現象界である現実世界の上にかかる、虹のようなはかない世界ではある。人類と共に生まれ、人類と共に滅びる世界である。しかし人類にとって唯一の救済の希望なのである。人類はこの想念界において神を創り、天国を創り、祖霊の世界や死後の世界を創りあげた。悪しきものはすべてこの現実界に残しておけば良い。そして、想念において、心において、この創作された世界と実際に感応しあうのである。その意味では、宗教は心の真実である。そこではライオンと羊とが、共に平和に暮らすのである。
 想像力が唯一の救済への希望であるならば、世界意志からの救済もまた想像力の働きに委ねる他はない。宗教は窮極の想像力であるといってよい。しかし単なる天国や極楽の想像では、世界意志の手のひらから抜け出すことはできない。キリストを取り囲んで毎日尊顔を眺めているだけの天国や、この世以上のグルメや快楽にありつける天国や、釈迦とひねもす蓮の上に坐っている極楽やらで、暴戻なる世界意志の煩悩に打ち勝てるだろうか。基本的にこれらは、現実の不満からの逃避願望に過ぎないのである。
 想像力は、世界意志の目的のための一つの道具でもある。その道具を専ら救済のための手段に使うためには、それなりの配慮、工夫が必要である。カトリックの修道僧は、若い女性の姿を見ると逃げ出すという。女性の性的アピールは、男性にとって、世界意志の<産めよ、殖やせよ>という定言命令である。世界意志の根を絶つためには、それの刺激を避けねばならない。世界意志の本能と対峙する心の世界が先ず必要なのだ。それをメルヘンといってよいだろう。メルヘンは救済のための最高の芸術たりうるであろう。傍らに悪魔のいることを常に意識しながら、想念界に理想の世界を作り上げること、その断固とした逃避の営み以外に、救済の望みはないのである。

2013年11月4日(月)
読書一代、作品一代

 一生の間、本当に必要な知識は、体系だった適度な量で良い。無駄にたくさんの本を集めてみても、混乱と、無力感に打たれるだけである。最も処分し難いものが書物であるから、書物に圧倒されないためには、最少の体系だった知識にとどめることである。十冊の内九冊は無駄な本である。千冊の本を、百冊に整理することができよう。人生に真に必要な本は、百冊持てばよい。後は、必要に応じて、図書館や、インターネットで補えばよい。
 知識は、人生一代で消えてゆく。子供の頃からの知識の継続こそが、もっとも有効な知識体系の基となる。その骨格に肉付けし、不要なものは忘れ、新たな知識や洞察を加えてゆく。こうして老年期に達し、人生や世界を見わたす知識体系が築けていれば、理想の教養となるだろう。むやみに書物を買い集めて、老後にそれを読む時間をあてにしていると、最悪の結果になる。読書の習慣自体が忘れ去られてしまい、厖大な蔵書を前にして、途方にくれることになる。
 実用的な知識は、その場かぎりでよい。用が済めば、それが仕事でないかぎりは、忘れてもよい。本はとっておかないこと。できれば、借り出すか、ネットで済ませる。買っても、電子本が良い。
 真に価値のある知識は、この世界と人間に関する知識である。そのすべてにわたることは不可能であるから、おのれの得意とする方面から、及ぶ限り領域を広げてゆく。専門の学者でないかぎりは、一つの方面に深入りすることはない。中心を決めて、興味と関心の範囲を広げてゆく。決して雑学をめざしてはならない。かりに雑学であっても、一本の探究のすじを貫かねばならない。
 こうして築きあげた知識も、最後は失われる。その時なお残るものが、人の人生の価値であったといえよう。晩年のカントは、自らの著作以外は理解できなくなったという。自ら学び、思索したことだけが、人生最後の価値である。
 作品もまた、本当に自らにとって意味のあるものだけを書けば良い。金や名声のために書くことはない。子供時代のたわいのない書き物は、ノスタルジーにとらわれないかぎりは、滅ぼしてもよい。青年期に書いたものは、見所があれば、書き直して、まっとうなものに完成させるのがよい。それ以後の時期の作品は、年齢ごとに感性や考え方や、また筆力そのものが違ってきているので、ほとんど書き直すことは不可能である。訂正程度にとどめるほかはない。
 こうしておのれの一生を、日記であれ、作品であれ、論文であれ、書き残したものを通して、俯瞰することができるようになる。書物を通してえたものと、同等の価値をおくことができよう。それが発表されなかったからといって、その人生にとっての価値が減じるわけではない。その書き物によって、おのれと世界を理解したのであるから。
 もしそれが発表されたとしても、またそれが注目されたとしても、所詮一時的である。特にアマチュア作品は、発表と同時に忘れ去られていく運命である。アマチュアである限り、作品はおのれ一代であり、生前読まれなかったように、死後も読まれることはない。そうした無数の作品と同じ運命であることを肝に銘じて、おのれの作品はおのれの人生一代に価値を置くべきである。
 読書し、ものを書くということは、それ自体で完結した行為であり、それが後々まで、おのれに影響を及ぼすことは同じである。そうした影響の蓄積が、人生を充実させ、自信につながるならば、それだけで充分な価値を持つのである。
 書物も、書き物も、人生の終焉において、自ら滅ぼすことはかなりの決断がいるであろう。しかしその役目は果たしたのであるから、安んじて滅びに委ねてよいであろう。もし上田秋成に倣って、一生の作物を古井戸に棄て難ければ、インターネットに預けておくのがよい。預貯金のように凍結されることなく、自然消滅するであろうから。

2014年7月17日(水)
おのれを空しくすること

 少年期にクラスメートとの関係がうまく行かなかった時、ある一つの発見をした。人と一番うまくいく方法は、人のために何かをすることであることに、気づいたのである。それを初めて衝動的に実践した時、それは単に昼のパンを代わりに買ってあげることではあったが、普段取りつきにくいクラスメートが、顔を赤らめてその押しつけの親切を受け入れたことで、その奉仕が他者に対する抵抗感を思いのほか軽くしたのである。おのれのためよりも、人のために何かをすることが、対人関係をよくするための秘訣であることに、幼いながらも気づいたのであるが、その実践は長くはつづかなかった。
 おのれを空しくすることは、おのれを他者に認めさせるための一つの方法であるが、その心地よさはまた、それが裏切られたり、うまく行かなかった時の、自我の反動によって、自己愛への沈潜をさらに深くしてしまう。あるいは、それが自己愛に基いていることの本性が、かえって露骨に明らかになってしまうのである。裏切られた愛や親切ほど、恨みがましいものはない。それにしても、自我はおのれのためよりも、他者のために生きる方が、生きやすくできているのに違いはない。エゴイストは、最も困難な生き方なのである。中学生の頃、保健委員に選ばれた時、人の世話をするのが嫌いなので、できませんと、はっきりクラスの前で断わったことがある。クラス中がしらけたが、本心を言うことが、少しも悪いこととは思われなかった。人に親切にしなかったが、人からの親切は大いに利用した。最後にはそれもうっとうしくなった。おのれ一人で、充足できる世界を求めた。しかし、世の中はそのようにできてはいなかったのだ。
 おのれを空しくすることの意味は、今では違っている。自己愛を抑えて、または隠して、他者に奉仕することではなく、自己愛そのものを空しくすることである。なるほど、他者のために奉仕する人生ほど楽なものはない。自己という最もやっかいなものを、少なくとも見かけの上で退治できるからである。それは、単なる観念や、理想であっても、充分におのれを欺くことができる。隣人に親切にするよりは、人類の幸福を思うことの方が遙かに楽である。気持においても遙かに“高尚”である。しかし人間嫌いでも、理想主義者になることができるのだ。その偽善に気づいていようといまいと。方便としては非常に良い。子供は自分を抑えることによって、他者から愛されることをよく知っている。しかし、それが上手くいっている間はよいが。
 他者に奉仕するかしないかは、おのれを空しくすることの本質とは無関係である。それをショペンハウアーは interesselos と言っている。いかなる利害からも離れた、何らかの純粋な営みである。自己愛や、他者への愛、類への愛が働くかぎり、そこに何らかの利害が働いている。あらゆる苦悩は愛からいずる、と釈迦の言うことを、額面どおり受けとってよいであろう。生命的な欲求からはじめて、虚栄心や理想主義に至るまで、愛による interesse に浸透されていないものはない。せめて、営み自体の純粋さにおいて、おのれを忘れることはできないであろうか。
  思索や美的観照においても、やはり愛は忍びこんでいる。誰もおのれの愛さない思索をしたくはないであろうし、不愉快なものに美を感じたくはない。思索や美的観照において生じる静謐な喜びも、また自己愛の一つの姿である。学問も芸術も、自己愛から離れることができないとすれば、もはや自己滅却の境地とされるニルヴァーナ(涅槃)のほかにはないのであるか。しかしニルヴァーナの真の本質については、だれ一人知らない。もし釈迦がそこに到達したとしても、語ることはできなかったであろう。釈迦はそこに至る方法について、語っただけである。古来聖賢皆寂寞であって、そこに到達した者は、それについて語ることもしないであろう。釈迦は全くの例外である。ニルヴァーナに至らんとならば、先ず沈黙しなければならない。

2015年2月26日(木)
書物の魔力

 紙の本を手にし読むことと、パソコンないしリーダーの中に保存した電子書籍として読むことには、どんな違いがあるだろうか。ともに直接の対象でないことにおいては、同じ世界に属している。子供の頃、本の世界にひっそりと存在している事物や人物へのいとしさから、思わずページに接吻したことがあった。その時感じたもどかしさ、はかなさは、未だに書物というものの本質を考える時、常によみがえってくる。書物の中の世界は現実ではないのだ。
 現実の世界に暮らしながら、現実以外の世界に惹かれているのが観念的存在(ideational being)としての人間の宿命である。その象徴的存在が書物であり、広く言って文字などによる記録である。その根源にあるのが、人間が過去というものに強く引かれる存在であり、その保存場所としての記憶に絶大な価値をおくことである。人間が言葉をしゃべるのも、ある点ではこの記憶による保存のための手段であるといえるかもしれない。動物は自らしゃべったことをすぐさま忘れもするであろう。それを意味あるものとして記憶にとどめておくことが言語の役割である。
 記憶自体が既に非現実である。それは意味であって現実そのものではない。意味のない記憶は記憶とは認知されないであろう。記憶の媒体である言語は、従ってその意味が本質である限り非現実であり、非現実の世界を生み出す。人間が言語的コミュニケーションによって文明を築いているといえるならば、その文明は非現実であり、架空の世界なのである。それはこの現実界のどこにも存在していない。ただ記憶という観念の広大な広がりの中に築かれた幻のバベルの塔なのである。
 だから、あらゆる言語的情報が、パソコンなどの電子機器の中に保存されたとしても、それは人間の記憶の代用品であり、少しも違和感を与えることはないであろう。言語が記憶による保存のための道具に過ぎないのであるから、それを記すものが石であろうと、紙であろうと、シリコンであろうと、何の違いもないはずである。そこから立ち上がる観念の世界は、本質的に同じである。
 とはいえ、紙の本にはなにか魔法的な魅力がある。美しい書物にほお擦りすることはあっても、nexus7を抱きしめたいとは思わないであろう。一個の書物は個としての魅力を持っている。その中には著者その人の人格と、ひとつの完結した世界が封じこめられている。もちろんそうした魅力のある書物であっての話だが。そしてその世界と人格とが、人生の伴侶として、つねにそばに存在しているという観念的であって、同時に物質的確かさが、紙の本を手放せなくさせているのである。
 観念の世界はそれ自体でははかない。モーゼの十戒も記憶ではなく、石に刻まれなければならなかった。文明が、観念的存在としての人間の生存そのものが、空中楼閣を築くことに他ならないとしても、それにしても実在界に投げ込まれた現実存在である限りは、現実界につながる錨のようなものが常に必要なのである。あらゆる情報を、脳内の記憶と化してしまうような究極の書物が出来上がるまでは、まだまだ物質の援けが必要なのである。

2015年4月5日(日)
<志さない>人生・その1

 今年の大河ドラマを見ていて気になるのは、登場人物がやたらと<こころざし>という言葉を口にすることだ。吉田松陰という前時代的思想の持ち主を中心としたドラマであるが、この頃やたらと維新の頃がもてはやされるのは、世の中がどこか全体主義的な過去へ回帰していくさきぶれのようでもあり、その右傾化の象徴的人物がこの松蔭であるらしい。松蔭の<志>というのは単純で、‘国を守る’の一言に尽きるであろう。これは今現在政権のトップに立つ人物がしきりに口にしていることである。NHKという準国営放送が、その中枢を政権に乗っ取られて、ソフト・ファシズムのおさき棒をかつがされているのである。
 NHKは過度に上品な(近頃はそう上品でもなくなったが)報道の自主規制と、政権順応体質が昔から変わっていないようだ。このドラマも暗に政権の意向を受けて、あるいは政権の意向をくみ取って、露骨な国家主義の人物を中心に仕立て上げたのであろう。松蔭の国家主義はもちろん天皇主義である。勝者の歴史である明治維新では、松蔭は維新の立役者としての偉人であり、彼を処刑する井伊直弼は社会の進歩を妨げる悪党として描かれる。徳川体制も、天皇制も、どちらもtotalismへの志向を持っているから、どちらが勝っても大した違いはなかったかもしれない。
 <こころざし>という言葉はそれ自体ではそう悪い言葉ではない。人はなにかの計画や企図を立てることによって、生活を整え、場合によっては人生に意味をあたえることが出来る。問題はこの言葉が、幕末の勤皇志士などによって使われたことによって、特殊なニュアンスを帯びることになったことだ。つまり、世の中や国家など、集団のために働く、モラル的な意味を持つようになったことだ。<少年よ、大志をいだけ>などは、いかにも日本的な訳し方である。自分のために、世の中でなりあがったり、金持ちになることは、大志の中に含まれていないのである。まして美的生活だとか、快楽主義などは、大志に含まれないであろう。
 <こころざし>に代わる良いことばはないものだろうか。特定のイデオロギーやモラルに奉仕するものではなく、人が生きるにあたって、希望を与え、生活に拠り所と活力を与える根本的なことばはないものだろうか。実存主義の企投などというのは、学者の一人よがりである。ことばがないというのは、そうした思想が一般ではないということである。
 子供の頃から、おのれの存在が人の存在によって成り立っているということに強い反撥を覚えたものである。確かに群や集団に向かう意志には強力なものがあった。それに挫折することによって、疎外感にさいなまれはしたものの、己を見つめなおすことがそれによって可能になった。そこに見い出した自己自身は他者とは無関係であった。親であれ、兄弟であれ、クラスメイトであれ、国であれ、そも人類であれ、私とは別であった。両親は仲が悪かったが、ある時母親が子供の私にぐちをこぼすので、結婚しなければよかったのにと言ったところ、そしたらHちゃんは生まれてこなかったよと、いかにも恩着せがましい言い方をしたのには、非常な不快を覚えたものであった。私という存在は両親から生まれたのではない。その頃からそうした確信のようなものがあった。いかに私の身体が両親や、そのまた祖先から受け継がれたものであろうとも、私の存在そのものはそこに求めることができない。それは唯一無二であり、無根拠である。まして国や、天皇などというものとは無関係である。日本人であることなどは何の価値もない。たまたま日本に生まれ、不幸にも日本語を使わねばならない。私は火星人であってもよかったのである。
 私が唯一無二の私を生きるにあたって、価値があるのは私自身の自己目的性以外にはない。私は本来何一つ必要としない存在なのであるが、シュティルナーの用語を用いれば、身体という所有物を持っている。その所有物をいかに用いるかが、私の人生の内容をなすのである。それを所有しないという選択もありうるが、この所有物の魅力と、強力な意欲とが何はともあれ生へとおもむかせるのである。この生命界は何よりも種の時間的存続を本質としている。個としての身体はそのための道具に過ぎない。個は全体への意志に奉仕する。私の<意志>や<こころざし>が、得てして集団の安全や、繁栄への自己犠牲にとらわれるのは、この所有物たる身体に翻弄された私の末人的な姿である。
 私の<意志>や身体を、もっぱら私のために使用することが、私の人生をよりよく導くことになる。それには常に全体への意志と格闘していなければならない。格闘するだけではなく、それを上手く籠絡して、馴致しなければならない。釈迦はその方法を説いたのであるが、何も宗教者である必要はない。性欲を断つために独身者である必要もないし、食欲を断つために断食する必要もない。性欲も食欲も私の所有物であり、それに翻弄されさえしなければ良いのである。家族や社会や国も、言ってみれば私の身体につながる私の所有物であり、所有するものに所有されないように心がければよいのである。その本末転倒を、全体への意志によっていとも容易に行なってしまうのが、これまでの人類史であった。ヘーゲルのいわゆる<承認願望>が歴史を牽引したのである。
 孔子は「人知らずしてうらみず(いきどおらず)」と述べているが、こう語ったことで承認願望のいかに克服し難いかを暗に告げている。真の隠士であるならば、このように語ることさえしないであろう。こう語ったことで彼は世に知られたのである。<こころざし>やambitionや他からの承認や、世間での評判・名誉などと言ったものと、全く無関係に、意識することなく人生を計画でき、一人おのれに生きることができたならば、何と穏やかな一生を送ることができることであろう。末人たちの跋扈するこの世界では、<こころざし>にはやる者たちが、<戦争の出来る国> を作り上げようとしているのであるから、不快感に耐えねばならないのであろうか。

2015年4月7日(火)
<志さない>人生・その2

 「いつものあなたらしい主張ですね。国に価値を置かないというのは、私も同感だけど、人類まで否定してしまうのはどうかしら。人類全体、地球に帰属するという意識は、必要ではないかしら。」
 「そもそも帰属するという意識そのものが間違いなのだ。国に帰属するとか、人類に帰属するとか、アイデンティティがどうのこうのという、そういうことを私は否定したいのだ」
 「また揚足取りをする。あなたが読めというから読んであげたのに、すぐ反論するからいやになるのよ。地球生命に属しているということまで否定できないでしょう。この宇宙でほかに生命が見つからない限り、地球を離れるのは無意味です。」
 「それはたとえであって、実際に火星人はいないだろうが、地球人であることに特別の意味はないということだ。まして日本国民においてをやだ。なにかに帰属することを希求したり、ありがたがっていることは、なんといっても人類の度し難い欠点だよ。国家、宗教、神、みなしかり。それらはもし必要ならば所有すべきものであって、従属したり、帰属したりするものではないということを私は言いたいのだ。君のおかげで、言い足りない点を補えばそうなる」
 「人間にはほかの生命と違って、理想というものがあります。単なる物質を離れて、歴史とか文化とかいうものがあるではないですか。そうしたものを尊重し、それに連なっているということは、価値のあることではないですか。それを帰属といっているのです。」
 「確かに一個の身体的人間は、そのものとしては弱い。生命の法則の中に取り込まれているから、その法則に従うほかはない。しかしそれを所有している私という存在まで、生命の法則に従属する必要があるだろうか。同じことは、社会や、国や、人類全体についても言える。いや、この宇宙そのものについても言える。私は私の身体を所有することによって、この宇宙と関与せざるを得ないが、ある意味でこの宇宙は私の身体の延長なのだ。その意味で私の所有物だ。実にやっかいな、扱いがたい所有物ではあるがね。」
 「いつものあなたの妄想です。妄想です。妄想です。」
 「そう何度もくり返さないでくれ。デカルトも妄想だというのかい。デカルトはこの世の中で唯一信じられる、確実な存在は、この考える私のほかにはないということを発見したのだ。それは唯一確実な事実だ」
 「確実なのは、科学的で、客観的な事実だけです。あなたの言うのは主観的な妄想です」
 「確かに普通事実というと、客観的に証明された事柄でなければならない。宇宙人が乗ったUFOなどはその証明がないから事実ではない。ではことばを替えて、データ(所与)とでも言おうか。意識の直接所与としての私の存在は、絶対に疑い得ないのだ。」
 「でも所詮意識ではないですか。意識は脳の産物であり、脳がなければ存在しないでしょう。身体の機能の中で、意識だけが特別であるわけがない。それならば、呼吸する肺が絶対の存在で、消化する胃もまた絶対の存在であってもいいわけでしょう。」
 「まいったね。私も自信を失いかけるよ。客観的方法がすべてだとは思わない。科学では探究できないこともあるだろうし。逃げ口上のようだが、私は意識の事実をもとにした形而上学を探究しているのだ。しかも単なる理論ではなく、実践的な形而上学をね」
 「またテレパシーとか、超能力とか言い出すんでしょう」
 「いや、究極においては神現象の本質を暴きたいと思っている。宗教はメルヘンであって、その背後にあるものを明るみに出したいのだ。もっとも相当に精神的危険を伴うがね」
 「それもまた妄想です。それよりも早く引越が出来るように、我が家の経済を何とかしてください。超能力でも何でも使って。」
 「それではギャンブルでもやろうか」
 「でてゆきます」
 「ちょっと待ちな。冗談だよ。」

2015年4月29日(水)
蔵書一代

 蔵書は一代限りということは、若い頃から分かっていても、なかなか抑制が利かない。それでも引越などを何度もしているうちに、昔の岩波文庫ではないが、百冊だけを残してあとは処分してしまいたい気がする。その百冊を選び出そうとしても、たちまち数百冊にふくれあがってしまい、お手上げである。あきらめて本の山に埋もれている他はない。これは自分の蔵書だけではない。
 身内の蔵書を整理するときにも、衣類や家具などのように簡単にはほうむれない。興味や関心がわいてきて、つい残してしまうのである。しかも蔵書にはその人の一生の思想や趣味がしみついている。それをゴミ捨て場に出すのは、よほどの思い切りがいる。かつては庭で燃やすことができたが、今は環境問題がうるさいので、紙一枚燃やすのも近所に気兼ねする。蔵書は自ら火葬にするのが一番よいと、若い頃から思っていたのであるが。
 物理的存在としての書物の価値は、それを所有し読む人の、思いや愛着の加わった付加価値に過ぎない。他人にとってはただの紙くずである。内容そのものに価値をおくなら、図書館で借り出して読めばよい。今ではたいていの本はそうしている。電子書籍の価値もそこにある。そこで蔵書の廃棄の仕方で最も抵抗の少ないものは、電子書籍として自炊することであるということになる。
 業者に売却するということもあるが、古本業者は基本的に屑屋と見てよい。廃鉄のような屑を集めて高く売る商売である。だから書物を屑としか見ていない。よほど良心的な専門店に、専門書を売るのでない限りは、業者は避けるべきだ。そもそも金銭としての価値に変えようとすること自体が、愛書家にとっては不快であろう。その場合は駄書に対する懲罰の意味もあるが、そんな手間をかけるなら捨てた方がよい。
 それにしても、ゴミ捨て場に司馬遼太郎全集などが無雑作に捨てられているのを見ると、書物の世界の無常を感じる。書物にもそれなりの葬儀が必要である。捨てるならカバーや表紙は剥がしておくべきだろう。白無垢の姿で、ゴミ処理場という墓場に送るべきだろう。知っている人の本や自分の書いた本ならなおさらである。自費出版したものの山のように残った在庫を見て、絶望感にとらわれない人はいないだろう。それを処分するにはある種の自虐的な非情さが必要である。そうした処分できずに死後まで残った身内の本を処分しながら、わが身を削るような苦行者の気分になる。
 若い頃読んだ本を手にしながら、ふと死後にはこれがただの紙くずになるということを思うと、なんともやりきれない気分になる。それが人間の所有欲の果てに待つ虚無なのである。誰かが読んでくれるという気休めなどは考えない方がよい。その書物はおのれが読んだからこそ価値があるのである。誰もおのれの愛着までは引き継がない。人にあげたところで、迷惑になるだけで、書物は少しも救われない。むしろおのれの思いをけがされさえするだろう。だから少年の頃のわたしは、死ぬ時にはおのれの愛蔵書とともに燃やされたいと願ったものである。
 いまはそこまで執着を引きずることはない。すべては無に帰する、この身体としてのわたしも、人類も、宇宙も、それらの行き着く究極には虚無が待っている。そう思うことによって、書物もわたしも成仏できるのである。そう思うことで、わたし自身の始末さえつけば、蔵書の始末などはどうにでもなるといえるのだ。所詮わたしの肉体が脱殻であるように、わたし亡き後の書物も脱殻である。せいぜい残された者の迷惑にならないように整理しておけばよいのである。

2017年3月12日(日)
パラレルワールドとしての夢 

 人出でにぎわう、どこか土手の上を歩いている。自転車でここまで来て、原っぱに置いた。なんのイベントともしれない。ただ人々がたくさん、そぞろ歩いている。それにまじって歩いているだけであるが、日ざしは明るく、春であろうか、緑の草が土手一面に萌え、その葉の一本一本があざやかに目に映る。どこかで連れとはぐれてしまったようである。自転車まで戻って探そうと思う。置いたあたりへ戻ってみると、見あたらない。似たものはあってもどこか違って、他人のものである。ここに置いたはずなのに、盗まれたのであろうか。さらに歩いているうちに、はたしてこれは現実なのだろうかという気が、ふとする。この赫々(あかあか)とした真昼の日ざし、太陽は見えないが、すべてが明瞭に、疑いなく存在している。それなのになにか胸をふさぐような不安がある。現実なのか夢なのか区別がつかない、このままの状態でいるのは困ったことだ、とつぶやきながら歩いているうちに、ふと眠りから抜け出しているおのれに気づく。
 この夢の場合、夢のなかで、もしかしたら夢ではないかと考えることがなかったなら、そしてその夢の中に永遠に閉じこめられることに対する、胸苦しい不安がなかったならば、その現実以上に現実的な世界は、この世界と区別ができなかったであろう。そもそも比較すること自体が不可能である。もし現実というものに階層構造があるとすれば、この世界からは夢の世界を比較することはできても、夢の世界からはこの世界を見渡すことはできないのである。現実の意識は少なくとも、夢に対して上位の世界に当たる。しかし夢もまた、それ自体で独立した世界と考えることはできないであろうか。この点に関して、物理学で明らかにされようとしている、パラレルワールドが示唆するところがある。
 膜理論(ブレーンシオリー)によれば、この宇宙は次元を異にするいくつもの膜(ブレーン)からできている。膜と膜は重力によって引かれあっていて、膜と膜とが接触すると、強大なエネルギーが発生し、新たなビッグバン宇宙が生まれる。個々の宇宙の間はまったくの別世界であり、発生の順序はあっても、直接の関係はない。この世界からは隣の膜宇宙を見ることはできないが、それについて考えることはできる。
 夢はこの世界の現実が生み出したものであるかもしれないが、この世界と意識において両立することのない別世界である。両者の間を行き来することはできても、両者が直接関係することはないのである。夢を生み出すのは脳のエネルギーであり、いわば脳のブラックホールから、夢のホワイトホールへと意識が噴きだすのである。それは一方向であり、夢からこの世界が生みだされることはない。しかしこの関係は、より高次の意識が、この世界の現実の意識を生み出している可能性を考えさせる。原意識というものがどこかにあるならば、そこからエネルギーが噴出して、つぎつぎと子意識、孫意識を生み出していくのである。
 意識はふだんは徹底してこの現実の世界に存在しているので、それから目覚めるということは、まずもってない。もしそれができれば、ある時ふと高次の意識界に、この現実の眠りから抜け出していることであろう。この世界が夢であったことに気づくであろう。その体験が語れる人は、ふたたび夢に戻って、あなた方は私の夢であると告げるであろう。そのようなブラーマに会ってみたいものである。しかし、この世界を夢と見る高次の意識は、神秘思想において比喩的に語られている。神秘家はその意識に達したおのれを、神と意識するのである。私自身が神なのであるから、この肉体を持った存在は、神の夢にほかならない。高次の意識に達した私の意識は、この世界とは別個の世界における存在として目覚めるのである。それはこの世界以上に<現実>であるに違いない。その現実が、この現実を生み、さらにこの現実が次のべつの現実を生むからである。
 それでは、夢の生みだす次の意識の世界はあるのだろうか。それは徹底して夢に生きてみるほかに、確かめようがないであろう。そして、夢の世界に徹底して生きる者は、もはやこの世界に戻ってはこないであろう。それが彼にとって唯一の現実となるからである。彼らはすでに異世界の存在と見なすほかはない。そして、夢からさらに、べつの夢に生きる。その時彼らは、夢の世界からも消え去る。もしかしたら、死とはそのようなものであるかもしれない・・・。
 (ちなみに、この考えをテーマにしたボルヘスの短編「円形の廃墟」がある。)

2017年6月21日(水)
孤独論

 From childhood's hour I have not been
 As ohters were ; I have not seen
 As others saw ; I could not bring
 My passions from a common spring.
 From the same source I have not taken
 My sorrow ; I could not awaken
 My heart to joy at the same tone ;
 And all I loved , I loved alone.
       ――E・A・Poe Alone
 [子供のころから
 変わりもののわたしだった
 わたしのもの見る目は
 ひととは違っていた
 ひととおなじ泉からは
 こころのたかぶりを覚えなかった
 ひととおなじ源からは
 かなしみの情をくみあげなかった
 ひととおなじ音色には
 こころを悦ばせなかった
 わたしのいつくしむものは
 わたしひとりがいつくしんだ
   ――E・A・ポオ 「ひとり」]

 孤独がポジティヴな生き方であるためには、人は何らかの意味での自覚したエゴイストでなければならない。人は天性と社会的環境(いわゆる境遇)によって、エゴイストとなり、その結果孤独な人生を選択することを余儀なくされる。人は生まれながらにエゴイストであることは稀であろう。動物と同様に、その本能的行動は、同種の他者に対して共感するように、脳によって定められている。さもなければ生命界にサヴァイヴァルできないからである。同一種や、同一グループに対しては、同一行動をとるということが、本能をつかさどる脳によって定められている。他方、他種や他グループに対しては、嫌悪や恐れを抱き、攻撃的になるように、これもまた脳によって本能的にプログラムされている。こうした心理学や脳科学で明らかにされた、動物及び人間の本能的社会行動からは、本来エゴイズムは種対種、グループ対グループの間で発現する、敵対行動であることが分かる。人類集団は、歴史的に見て、エゴイズムの闘争によって、文化や文明を作ってきたといえる。しかし近代のエゴイズムは、こうした集団間、部族や、民族や、国家間のエゴイズム、一言で言えば、全体への意志に支配されたエゴイズムではなく、まさにその対極に立つ、個人のエゴイズムである。普通にエゴイストを非難するときは、その対象は個人としてのエゴイストであり、集団のエゴイズムから抜け出した、<よそ者・逸脱者>としてのエゴイストを、全体への意志にそむくものとして、本能的に嫌悪し、道徳や宗教といった集団の意志によって断罪するのである。まさにその点で、エゴイストは孤独なのであり、きわめて困難な人生を歩むことになる。
 人は天性よりも、むしろ社会環境によって、エゴイストになり、孤独者になるといって良いだろう。そのきっかけは多く家庭での虐待であることが、心理学で明らかにされている。これを広く、社会的虐待または孤立といってよいだろう。エゴイストはその発端において、強いられた社会的不適応者である。親から見離されたサルの子が、ひたすら自己快楽に耽るように、社会的に孤立した幼児や青少年は、ひたすら自己自身の中に存在の意味を求める外はなくなる。そして最初に見い出す自己価値は、サルの子と同じく身体の自己快楽である。快楽は、孤立におかれた生命の、最初で最後の避難所となっているのである。そこから抜け出せるかどうかは、すべて社会的刺激にかかっている。それを禁止するものが、フロイトのいわゆる<超自我>である。親またはそれに当たる者が自己快楽を禁じなければ、それを罪悪と感じることはないであろう。
 エゴイストが唯一の存在の拠り所とする自己快楽までが、悪として断罪されるとき、彼はそれを自己自身の内奥に秘めるようになる。すなわち、エゴイストは秘密を持つようになるのである。社会的組織の中では、個々の成員が秘密を持つことは、もっとも嫌われ、警戒される。特に幼少年期の教育組織の中では、秘密は最大の敵、悪とされる。その秘密の中で、エゴイストは、自己のエゴを守ろうとするのである。エゴイストは、すでに幼少年期において孤独のなかに生きている。エゴイストは、幼少年期においては、秘密の快楽主義者であるほかはないのだ。その快楽を、単に身体的なものから、知的なものへ昇華できるかどうかは、境遇よりも天性が決めるであろう。知性のないエゴイストは、一生涯、身体的快楽主義者で終わるであろう。
 エゴイストはその出発点において、孤独者、もしくは孤立した生命であり、それ故に生命の避難所としての快楽に身を委ねる、快楽主義者であることを述べた。自己自身を楽しむということが、一生の原理となるのである。しかしその生き方は、社会的承認を得ることは稀であり、ましてやそれによって適応できるようには、社会組織は作られてはいない。そのことをもっとも思い知らされるのは、青年期における、自立においてである。エゴイストがもっとも厭うのは、他者によって、あるいは他者のグループによって、利用されることである。おのれ自身の価値を他者に譲ることである。社会はまさにそのことを彼に要求するのである。彼は社会的生活の出発点において、まったくどこにも適応のしようのない、人間集団の組織を見い出すのである。そこにエゴイスト=孤独者の最大の危機がある。追いつめられたエゴイスト=孤独者は、鬱積した情動を、社会に対する攻撃的な犯罪において発散するか、弱者の場合には、自殺に追い込まれたりもするのである。犯罪や自殺にいたらずに、エゴイストとして、孤独者として、幸福を求める道は、まったく閉ざされているのであろうか。そもそもエゴイスト=孤独者として生きる者は少数者であるが、たいていはもっと賢い道を模索するであろう。この社会のシステムを何とか利用して、そのニッチでの適応の道、手段を探るのである。生命はいたるところで適応の可能性を探りつつ、40億年以上に渡って存続して来た。その強靭な生命力は、すべての個体の中に根づいているはずである。孤独者のエゴイズムもまた、その適応の一つのあり方なのであり、生命の可能性の一つである。
  *    *     *
 孤独者(der Einsame, the solitary)について、その生存の条件や、人生の設計について考える前に、個人もしくは個体(das Individuum,the individual)とはなにかということを考察しておく。個人(もしくは個体)は、ショーペンハウアーが言うように、関係的な存在であって、決してそれだけで孤立しているのではない。個はつねに他との関係において個であるのであって、個がもしあらゆる関係からまぬがれて、それ自体で存在しているのなら、それはもはや個ではなく、一つの全体者であり、唯一者である。このような全体者は個ではありえないし、そもそも自己自身において自足した絶対者であるから、孤独者というニュアンスでとらえられる存在ではありえないのである。孤独(Einsamkeit)とは本来関係的である個が、関係性を失って自己自身の中に閉じこもった状態をいう。全体者は一者(Einheit,das Eine)であって、他との関係を必要としないのである。孤独が問題となりうるのは、人間が(自我が)身体を持った個人だからである。
 身体的自我は、おのれの身体を発見すると同時に、個人性(Person,Persoenlichkeit,personality)としてのおのれを見いだす。Personは身体であると同時に仮面であって、まさに個人としての人間の関係性を表わす言葉であり、その象徴であるといえる。自我は自己自身を他者の前に、Personとして(すなわち、<だれそれ>として)あらわしださねばならないのである。身体的自我、すなわち生命としての自我は、この関係性の中でしか自己を維持できないように造られているのである。生命において、関係性は個々の細胞間についてはもちろん、個体としての全体においてもつらぬかれており、種という関係性がなければ、個体はたちまち滅びてしまうであろうし、もしその関係性から排除されれば、たいていの個は、その存在意義を失ってしまうのである。巣から離れた蟻や蜜蜂は、もはや個としては生への意志を持ち得ないのである。たいていの動物は、種から孤立すれば、その生存の確率を低くする。人間の場合でも、定年退職したサラリーマンが、ぬけがらのようになってしまう例に、それがあらわれている。それゆえに、孤独とは、個としての生命にとって、非常に危険で困難な生き方であるといえる。それにもかかわらず、孤独が人間界においてポジティヴな意味を持ちうる、その事情をここでは考察してゆく。
 孤独者は、普通に考えられるように、決して孤立して生きているのではない。孤立とはあらゆる関係性を失うことであるが、いかな孤独者でも、まったくの関係性をかいたところでは、空気のないところで生きるのと同じで、生存の希望はない。孤独者は失った関係性にかわって、つねに新たな関係性を求め、その中に希望をつなぐのである。人間社会が、彼にとって苦痛でしかない場合は、彼は必要最小限の社会性をうけいれ、かれにとってより良い関係性を、他の方面に求めるのである。それは動物や自然との関係性であるかもしれない。動物との親密な関係に生きがいを見いだしたり、ちっぽけな人類の営みから目をそむけ、広大な自然界に思いをはせることで、宇宙的な関係性を結べるであろう。あるいは、それは過去の人類との歴史における関係性であるかもしれない。同時代の人間を憎みながらも、過去や未来に知己を求めることで、人類と和解することができるであろう。あるいはこの国の人間や歴史に違和感を覚えても、世界にはもっと親近感を覚える民族や国があるであろう。それらの人々との心の中での関係性を結ぶことで、孤立からまぬがれるであろう。(あるいは、超自然的存在や、神との関係性の中に、孤独の解決を求めるということもあろう。しかし、それは孤独者にとって精神的に危険な罠であって、ここでは勧められない。)
 その国や、社会や、周囲の人間関係において、なんらかの事情から批判的、傍観的になることによって、人は必然的に孤独を余儀なくされる。それはネガティヴな生き方のようではあるが、国家や社会や人間関係に対して、客観的な眼を持つためには、孤独が必要なのである。単に異端者、狂人、奇人、弱者として排斥されるから孤独者になるのではなく、孤独においてはじめて人類社会の客観的評価が可能になるのである。人類社会との関係性を見直すことによって、孤独者は新たな関係性を築き、個としての人間の可能性を広げていくのである。孤独は全体への意志に支配された人間社会においては、困難で危険な人生の道ではあるが、それによって人類の運命を超える道が見いだされるかもしれない。いわば<超人>への道である。
 *   *   *
 その境遇や性格やによって、孤独の人生を運命づけられていると感じた人は、普通以上に綿密な人生計画を立てていかねばならない。自己の運命を他者に委ねるような、軽率な若者のまねをしてはならないのである。酒や集団的娯楽といったものは、おのれをみじめにするだけであって、禁物である。経済的には最小限の労働と需要で間に合わせる(そもそも孤独者はこの世で成功することはまれなのであるから)。他人の世話になるようなことは、病気にでもならないかぎり、極力避ける。世の中には散髪などという無駄なものがあるが、髪ぐらいは自分で刈れるようにしておく。孤独者はうさんくさい眼で見られやすいので、服装その他は、極力普通を心がけ、目立たないようにする。若い頃は、孤独でいることはそうとうな緊張をともなうが、その結果極端に攻撃的になり、かえって他者の反発をかうことになる。孤独者は人々の中では、群衆の中の一人として、隠れるようにふるまうのがよい。(快の自己充足を人生の目的としたエピキュロスのモットーも、<隠れて生きよ>であった。)やむをえず目立ってしまった場合は、早々に退散する。孤独者の社交は、そもそも友達を作ることが苦手なので、ぎこちないものにならざるを得ないが、他人には社交的な親切を心がけるようにする。周囲の人間との関係性よりも、おのれの心の中の関係性を大事にする以上、人間関係は表面的なものにならざるを得ない。そうした要領は、年を重ねるうちにできていくであろう。
 孤独者の仕事の選択は、以上の条件から、非常に難しいものになる。さいわい、今の時代では、フリーターという最適の仕事の仕方がある。おのれの適性で選ぶなどということは、孤独者にはほぼ不可能であるから、必要最小限の労働と需要という、条件がみたせればよしとする。将来のためには、年金だけは確保できるようにする(免除制度も利用する)。結婚については、なるべく晩婚がよい。同じようなフリーターの相手が見つかるはずである。恋愛に越したことはないが、経済的共同を最優先する。結婚しても、所詮人は孤独である。孤独者であっても、配偶者がいれば、世間的には目立たずに生きられる。孤独者(特に独身者)は世間ではうさんくさく、差別される生き方であることを、つねづね心得ているべきである。
 以上、若い頃の人生の失敗から、もし私が今の時代に、孤独者としての人生を始めたなら、このように計画的に準備したであろうことを、同じ人生を歩もうとしている人の参考にと、書きつらねてみた。もちろん、人それぞれの素質によって、孤独者の生き方もさまざまであろう。孤独者は群を作ることも、連帯もしないので、一人で悩むことが多いであろう。世に、孤独者にとっての人生のマニュアルなどというものは、ないのであるから。さいわいにも、さまざまな解決法が、インターネットにあふれているので、孤独者も昔に較べて、ずっと生きやすくなっているといえよう。

2017年8月18日(金)
人生の悪夢(1)

 人は高齢になるほど、賢く、冷静になると思われている。こうした老境に対する誤解や、理想主義は、どのようにして生じるのであろうか。たぶん若年期の誤った老年観に由来するのであろう。青少年期のはげしい生への意欲と苦悩が、遠い将来における憧れとしての、平静な老年期を夢想させるのであろう。逆説的だが、若年期ほど老荘や仏教や、僧院生活や、徒然・方丈にひかれる時期はないのである。そして大いに誤解している。若年期に夢想する老境は外見の見せかけに過ぎないのであり、その奥には若年期に勝るともおとらない、人生の苦悩がうごめいている。
 長生きすれば恥が多いと、兼好は書いているが、長生きするほど人生の垢は溜まるばかりか、それを拭い落とせなかった過去は、夜ごと悪夢となって襲ってくる。もし長生きして賢くなるとしても、それによって過去の恥の意識や、悪の意識は、倍増されることになる。遠い記憶の中に眠っていた、古傷や、恥辱や、罪悪感が、眠りの中で復活し、あるいは覚めていても、思いがけなく意識を襲い、いたたまれない思いにおとしいれる。かつてなんらかの仕方で正当化したことも、再度悪夢となって、反省的な意識をとがめだてるのである。老年期の記憶は若年期に比べて、柔軟性を欠いている。それだけに一つの古い記憶がいつまでも頭に、ひいては心身に、こびりつくのである。記憶には忘れる能力が必要なのであるが、人生の悪夢に関しては、老年期ほどそれが失われる。かえって再生力が強化されるのである。それは人生の行きづまりと関係するであろう。
 老年になると、人生の先の可能性はかぎられてくる。俗な表現をすれば、<終わっている>のであり、一冊の読了された本のようなものである。それをくり返し読み直すほかはないのである。それは完成されていようと、中途半端であろうと同じである。それ以上続けようがないのであるから。たいていの人生の本は、失望と悲惨と恥と悪事と悔恨に満ちている。たとえ幸福の思いがいくぶんかあろうとも、不幸の苦痛によって圧倒されてしまうのである。人が賢く、まっとうになるほど、人生の悪夢は深まるのである。それがすでに終わってしまったことであるならば、どう回復しようもないだけに、なおさらである。
 すべては記憶の問題である、とわりきることができるならば、いくぶんの救いになろう。個人の歴史も、ひいては人類の歴史も、記憶という脳の軟弱な組織にもとづいている。人類が滅びれば、人類の歴史も消える。個人の歴史も、単に当人と、その周囲、あるいは社会の中での、個々人の記憶に保存されているにすぎない。そこで、老年期においては、周囲や社会において関係した人間たちの存在が消えるごとに、なんらかの安堵がもたらされるだろう。個人の歴史は、自他の記憶からなるのであるから、すくなくとも他者の記憶が少なくなるほど、悪夢の圧迫感は緩和されることであろう。そして究極的には、人類の記憶がすべて消え去る時が来るのであるから、未来を恐れることもないであろう。人類史上どんな強大な悪事も恥辱も、数億年後には、いや数万年後には、あとかたもなく失われているであろうから。ましてや、個人史における悪夢などは、数世代で消え去るであろう。
 老年期においては、周囲の人間が死ぬことを、必ずしも悲しむばかりではないことが分かるであろう。しかし、おのれが生きている限りは、そして賢くなろうとする限りは、人生の悪夢は消え去らない。しかし自然は人の老年期にある恵みを与えているのだ。それが老年期にある種の理想的な老境のイメージを与えている。さきほど、老年期の記憶は柔軟性を欠くと書いたが、一般には老年というと記憶の衰えがまず問題視される。日々の記憶が衰えることは、生活を不便にするが、頑固に執着する記憶こそが、老年期の本当の問題である。執着と衰えという、この両面はたぶんあい関係していて、それが記憶の柔軟性をもそこなっているのであろう。通常不快なことから思いをそらすためには、新しい記憶や想念が必要である。これが<忘れる能力>と大いに関係するのである。単なる記憶の衰えは、このネガティヴにしてポジティヴな記憶の働きをもそこなうのであろう。それゆえに老年期の悪夢は強烈なのである。
 しかし、記憶の衰えは最終的に、新しい記憶ばかりでなく、古い記憶にいたる、記憶全般に及ぶことになる。そこに老年期における、ある種の恍惚状態が生まれる。これを至福とみなすことによって、老年期の理想のイメージが生み出されるのである。自然の恵みとしての<認知症が>老年期を悪夢から解放するのである。
 私の父が晩年に認知症になつてから、しきりに母方の祖父の話をした。母との結婚後、実家に会いにいったときのことを、とてもいい人であった、と楽しそうに語った。ある時母にそのことを聞いてみると、とんでもない、私の父は祖父に一度も会ったことがなく、母の父は、わしの目の黒いうちは絶対に会わない、と言っていたという。父は戦前とびきりの左翼であり、母の父は田舎のかたぶつの小学校長であり、死ぬまで結婚を認めなかったそうだ。この二人が、老境の父の頭の中では談笑していたわけである。

2018年5月9日(水)
世の中の不合理

 哲学のような合理的思考を旨とする学問や教養を、日頃心がけている者には、一歩世の中に眼を向け、足を向けてみると、その不合理さ、でたらめ加減、あいまいさに、めまいを起こすほどの頭の混乱を覚えるであろう。すべてが整然とした論理の世界である哲学や自然科学の世界に、どっぷりとひたっていると、この世の中の人間とその生活とが、実にいい加減で、効率を欠いた、あぶなかしいものに思われてくるのであり、思われるばかりでなく、実際にそうした危ない目に、うかうかすると遇わされるのである。
 世界は合理的に、整然としていなければならないのに、人間の曖昧さ、いい加減さが、その合理性についていけないばかりか、そもそも世間一般の人はそういうことを考えさえしていないようである。思想というものが、世間的生活において、いかに無力であるかが、世間に一歩踏み出てみれば、たちまち実感されるのである。思想において、自己自身において、いかに合理性を好もうと、世間に踏み出したとたん、そうしたことは一切忘れねばならない。いつ不合理性に不意打ちを食らわないとも限らないのであるから、あたかも得体の知れない動物を相手にするかのような心構えで、世間に接しなければならないのである。
 哲学は、その点では、合理的であるかぎり、世間とは無縁の学問である。現実的なものは不合理であり、理性的なものは非現実である。それ故に、理性は無力であり、無力であるゆえに、現実とは無縁の理性界において、ひたすら論証だけを相手に出来るのである。これほど清潔で、無機的で、理想的な学問はない。現実的であることから解放され、なおかつ、それが生き甲斐となっているのならば、homo sapiens にとって理想の人生かもしれない。しかし不合理性の根源は、生命そのものの中にあるのであるから、おのれの中の世間とも常に闘っていなくてはならないのである。そもそも、世間に眼が向き、足が向くこと自体が、すでに不合理な衝動なのである。自らが脱してきた不合理を、そうしたことを考えもしない世間の人々の間で、再確認するのである。
 たいていの人間はいい加減に生まれ、いい加減に生き、いい加減に死んでゆく。それが世間であり、生命の、人間の本質である。理性的に生きようとするものだけが、その運命に逆らおうとする。当然世間からは嫌われ、煙たがれ、のけ者にされる。それが哲学者、愛知者の、運命に逆らったことの運命である。たぶんこの世界に何ひとつもたらさなかった学問の筆頭は、哲学であろう。何しろこの世界以外に目を向けているのであり、しかも宗教とは違って愚人禁制であるからである。愚人や悪人は、哲学とは無縁である。彼らは人間の本質そのものだからである。
 哲学者あるいは愛知者であることは、非常に特殊な人間の生き方であり、苦難に満ちている。それ故に絶えず心の平静を求めるのである。人間の不合理、世間の不合理に背を向けて、ひたすら理知の可能性に賭ける理想主義者なのであり、克服者であり、超人を目指す者である。したがって、たいていは世間に知られることはないであろう。静かに、おのれ自身の人生をまっとうして、生きかつ死ぬのである。

2018年5月13日(日)
死はなぜ暗黒なのか

 夜中にふと胸苦しさを覚え、目覚めるとき、死の不安がきざし、心が暗いふちに沈んでいくような暗澹とした気持になる。死はそこに何があるとも知れない暗黒として現われ、どんな望みも救いもそこにはなさそうに思われる。単なる無ならば、まだましであるだろう。心の臓から発するこの暗い恐れは、一体何故に起こるのであろう。それはもとよりヘッド(理知)からではなく、ハート(心情)からわきおこるのである。この死に対する不条理な恐れは、たぶん生命の根源に発しているのであろう。
 死が暗黒であるのは、それの反対である光への渇望が、生命の根底にあるからであろう。種子が地中の闇の中から、光を求めて発芽するように、たいていの生命は光(太陽)の恩恵によって存在している。死はその逆の過程であって、光を失い、地中の闇の中に解体されることである。あらゆる存在は光を目指し、死はもとの暗黒にもどることである。この宇宙はフォトンのエネルギーによって維持されており、宇宙の発展とはより多くのフォトンを生み出し、より多くのフォトンにあずかることである。そこに星が生まれ、生命が生まれる。その光への盲目の衝動が、世界の根源の動力なのであろう。存在とは光へ向かっての、無限の努力である。これが世界の本質であるならば、死は敗退であり、闇への後退である。死が暗黒であり、闇への恐れであることは、生命の宿命なのかもしれない。
 この宿命との闘いが、知的生命体のこの宇宙に対する反抗であり、自らに課した宇宙的使命であるといえるかもしれない。死を闇から逆転して、あたかも光の世界であるかのように、<希望>を生み出すのである。少なくとも、心情的恐れを克服し、理知の働きによって恐れを<希望>に変える心術を生み出すのである。恐れているのは生命的根源から発するハートのおののきであり、そのような動物的自我から、おのれ自身の本体である反省的自我に返るならば、そこにはなんの恐れもないことに気づくであろう。心臓は痛んでも、頭脳は痛まない。「苦痛について思索することは苦痛ではない」(ショーペンハウアー)のである。
 また、死の恐れ、暗黒の恐れは、人間に限らず、生命体を集団的に近づける。一人では克服できぬものを、集団で克服する。死は集団化することによって、恐れを盲目的な勇気に変える。生命の不可解な逆説であるが、集団化は死以上のものをもたらすのである。生命の死の宿命に対する戦略といえるかもしれない。鮭は集団で川を遡り、繁殖の行為の乱舞のなかで、死の宿命を忘れ去る。同様なことは、他の生物にも、人類においても、頻繁に見られよう。これらは、生命体の盲目的な死の克服のあり方なのである。だからと言って、死が暗黒であり、闇への消滅であるという、死の本質が失われるわけではない。ただそれを、生命的陶酔の中で忘れ去るだけである。
 理知によるにせよ、集団的陶酔によるにせよ、死の克服が知的生命体の永遠の課題であることにちがいはない。そのことがを、夜半の目醒めにおける、死の暗黒への恐れとして、一人一人の胸に夢魔となって告知されるのである。

2018年7月26日(木)
希望について(その1)

 現在は自我の実在の場であることにまちがいはない。しかし生命にとって、現在とは単なる通過点に過ぎない。生命にとって本質的な時は、過程processなのであり、すなわち現在から未来へ向かう発展あるいは衰微が時間の意味なのである。生命は数十億年むかしから現在に至る、物質の連鎖反応であり、それがどこかの時点で途絶えれば、もはやその系列の生命はない。私の身体は数十億年の生命の連鎖反応の結果としてここにあるのである。種の中の個としての私の身体はそのようなものである。私の身体は繁殖によって、他の個に受け継がれていく。その連鎖反応が種の保存である。個はその途上で滅びる。もとの有機的・無機的物質に帰る。少なくとも生命としての個体はそこで終焉をむかえる。個の保存は、個体の一代かぎりのものである。
 希望とは自己自身の時間における保存の欲求であるといえる。明日も今日のごとくに、おのれが存在していることを願うのである。もし明日私が存在していなければ、明日へのいかなる願望も無意味であろう。明日何かが実現する望みがあるということは、明日そのものが無条件に前提されているのである。このことは不治の病気にでもなれば、誰でも気づくことである。その時初めて、現在が唯一の実在の時であることに気づくのである。それでも、希望がなく現在を生きるということが可能なのであろうか。明日がなくても、やはりこの現在を明日のために生きるのではないか。それほど、希望というものは、生命の日常的習性となってしまっているのではないか。私はもし明日死ぬとしても、やはり語学の勉強をしているかもしれない。それが何の役にたつのかも考えずに、その面白さだけにとらわれて。
 たしかに明日がなければ、人生において何が大事かということが、大胆な切り捨てによって見えてこよう。明日に期待する出来事や予定はすべて捨て去ることが出来る。それがどんな未練や執着を残していようと、諦観が勝るであろう。そして残されたものは、過去においても現在においても、もっとも心を静謐な悦びで満たしたものにしぼられてこよう。単に過去にすがるだけではなく、それが今に生きていなければならない。そして生きているということは、そこに希望があるのである。たとえわずかな瞬間でも未来があるのである。生命は最後の瞬間まで、時間を貪欲に味わいつくすのである。希望は生命の根本の原理なのである。

2018年8月21日(火)
希望について(その2)、併せて現在・過去について

 希望の根底には、今日あるごとくに明日も存在しているはずだ、という期待があると述べたが、この点についてさらに考察を進めてみる。この時間に対する手放しの信頼は、生命が数十億年むかしから連綿として続く化学反応であることに、その根底があるであろう。生命は未来への絶対の信頼に基づくものなのである。それは物質的であることによって、無意識のメカニズムであるが、それが意識に反映することによって、期待や希望という心的態度となって現われるのである。
  生命は物質の化学的反応であると同時に、個体の保存、類の存続として現われる連鎖反応のメカニズムであることから、精神現象もまたそのメカニズムの根底の上に成り立つ以上、生命の法則にはずれることはない。時間と関係した意識のもっとも顕著な現象である希望は、連鎖反応を可能にする時間的メカニズムにしたがう生命現象そのものの反映である。あらゆる欲望、願望、本能の充足、それらはすべて時間における実現を目指しており、それらが単なる欲求、願望として実現に至らない間は、それらの精神化した希望にとどまっている。もし生命現象に何の無駄もないとするならば、生命欲から生まれた希望もまた、なんらかの生命的必然性を持っているはずである。欲望や欲求を観念化することは、知的生命体にのみ可能なことなのであるが、希望が単なる願望にとどまるのではなく、未来に対するなんらかの計画や実現可能性に対する考慮を伴うことによって、それは未来のあり方を確実にする、生命にとっては好都合な能力となるのである。それを本来の希望と呼んでよいであろう。未来に対して何かを企てることのない単なる願望は、消極的な運命への服従であり、それに対して希望は未来を形成しようとする積極的意志であると言える。この積極的意志の働かないところでは、希望は何の意味もないのである。希望は同時に行為であり、あるいは行為へと動かす力である。どのようなささやかな期待であっても、明日を作ろうとする努力である。
 今日あるごとくに明日もあるであろうという期待が、つねに裏切られる可能性にさらされているところに、また希望の希望たる、理念性がある。それを古代人は運命や宿命と呼んだ。個の存続が危殆にさらされている時、どのような希望が可能であるか。明日処刑されたり、なんらかの人生の破綻が生じる時、希望の反対である絶望以外にないのではないか。それでも、死の瞬間、破綻の瞬間までは、生命は時間に期待をかけ続けている。あるいは、死や破綻を超えた、新たな希望を生み出そうとしている。希望は死や苦痛そのものさえも、克服しようと願うのだ。死や苦痛が恐怖であるならば、その恐怖を恐怖と感じなければ良い。そう古代の哲学者は教える。今平静な心が生まれるならば、たとえどのような事態が生じたとしても、たとえ時間そのものが停止したとしても、それを克服する希望が生まれる。時間の中にある生命は、時間を超えて存続する可能性を生み出すのだ。そのことに気づいたのはソクラテスであり、プラトンであり、古代の賢人たちであった。彼らにとって、個体の存続は類としてのそれではなく、まさに個そのものにおける永続の可能性であった。
  生命において永遠に存続するものは、類であって個体ではない。個の複製が類の存続であるが、複製された個体は、もはやもとの個の存続ではない。個体は限られた時間における存続を許されており、一定の期間ののちの消滅を運命づけられている。この生命における個体の従属性、無常(Hinfaellichkeit)が、個体の存在の時間における不安定性を生むのである。永遠なのは物質宇宙や生命や、人類や国家といった類であり、全体であり、時間もまた、この全体や類にとってのみ絶対の価値を持つものとされる。そこから、すなわち個体の無力感から、本来個体のものであるべき<希望>を、類的全体に譲り渡してしまうという、全体への意志への服従も生まれてくるのである。存在の意義は、個人ではなく、全体へ、神や国家や民族への帰属に求められてしまう。<希望>とは、本来人類や社会が存続することに置かれるのではない。個としての生命が、明日もまた今日のごとくあるのを願うのが、生命の根本の原理としての希望なのである。その個の生命を放棄したところに、希望は無いのである。米軍に追いつめられて、子とともに崖から飛び降りる沖縄婦人の、どこに明日への希望があるのか。

*    *    *

 未来はもっとも不確かな時であると、古代の賢者は教える。もっとも明証性があり、唯一の現実である現在に生き、おのれ自身の不安定な過去ではなく、いにしえの叡知の集積である過去の精神的遺産に最も価値ある時を見いだすようにせよと。そのもっとも不確かな時である未来が、実は最も生命にとって根本の意義を持った時なのであることが、希望の分析によって明らかにされるであろう。すでに述べたように、希望とは時間に対する絶対の信頼なのであり、これなくしては生命は存続し得ない。未来は不確かであり、基本的に見通しが利かないことによって、生命を未来へと押しやる少なくとも理念的動因となるのである。ここに意識における意志の自由の錯覚も生じるのであるが、すくなくとも人生は結果的には決定されていても(それを運命と呼んでよいだろう)、事前にはあたかも不確定で、自由な選択が可能であるかのように思われるのである。希望はこの不確定性に対する意識の反応であり、結果においては<運命>を見いだすのである。その意味で、希望とは良き運命への願望であるとも言えよう。人生の終りにおいて、おのれの人生を見渡す時、そこに見いだされるのはある必然性であり、環境的・境遇的・素質的条件によってどう変えようもなく決定されていたことに気づくであろう。その運命、ストアで言う<神慮>を、肯定しようと否定しようと、それを甘受するほかはないことに違いはない。人はどのように希望しようと、その希望自体が、実は運命的なのである。

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 個体の生命には限りがある。希望はいつか裏切られる。それが個体の死である。個体の死を超える希望は、少なくとも個体が生命体である限りは不可能である。個体は個体を生むことによって、種としての生命の存続をになう。別の個体、次の世代に、種としての生命の存続に希望をかける。生命とともに、希望もまた次の世代にバトンタッチさせるのである。少なくともそのような希望を、個体は次の世代の個体にかける。そのようにして希望を持続させようとするのである。そのような種の未来にかける希望、類的希望は、果たして真の意味の希望なのであるか。子孫が繁栄したり、人類が発展したりすることを願う希望は、個体が明日の存続のために願う希望とは、生命のあり方において根本的に違っている。個体の希望はあくまでも自己保存にもとづいており、自我の完全なる展開を望んでいる。類的希望は自我の生命力の減退による、<自己犠牲>や自己否定にもとづいた、いわば絶望の反転なのである。自己自身の生命の価値をもはや望めなくなる時、人は身内の生命に、さらには民族や国家の存続に、価値を置くようになる。自己自身を生命的に無化することによって、類的生命の昂揚に預かろうとするのである。そこにはもはや個としての希望はないのである。もしあるとしても、それは名誉や名声といった、まったく個体とは別の次元にある、類的記憶や想像の世界に、おのれを永遠化しようとする、生者の最後の希望のあがきなのである。
 純粋な希望は個としての生命にのみ積極的に表われる。それは明日といわず、今この時を生きるための生命力をかきたてる、個体の根本的願望なのである。その願望が未来へと個体の生命を躍動させる。死の直前まで、個体は未来的に生きつづけるであろう。それは決して死を受け入れないであろう。まして他者のために死ぬことなどはない。自我の不滅の信念も、まさにこの死を克服せんとする根本的な願望に支えられているのである。逆説的であるが、死を超えるには生命力が必要なのだ。そのことが可能になるのは、もともと自我と生命とは、この世界の根本原理として、抜き差しならない関係にあるからである。自我=個体=生命は、個としての現象において、すなわち個別化Individuationにおいて、初めて結びつきうる。自我が個体を離れ、生命を離れる時、その分離の原動力もまた、生命自体がネガティブに担っているのであり、自我はそのエネルギーをポジティブに用いるのである。自我の究極の希望は、そのエネルギーを用いて、おのれ自身の本質的存在に帰ることである。それが自我にとっての死の克服であり、この世界からの解脱である。


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 希望は、今日あるごとくに明日もあるはずであるという、時間への絶対の信頼に基づいた信念であるという命題を、以上のように展開したが、それが状況によって様々なヴァリエーションを生むことも述べた。単なる現在的存在であっても、すでにそれは単一の現在ではなく、すなわち点でも断面でもない、連続であることを、生命の観点から明らかにした。生命は本来的に未来を志向するプロセスなのである。この観点から、現在と過去という時間について、その本性を考察するならば、希望という意識現象の時間におけるPrimatがさらに明らかになるであろう。
 現在は感覚的意識、すなわちエピクロスの言うAeshtet(感性)においてのみ現実的に与えられており、人間の意識はそれ以外に実在の場所を持たないばかりか、感性がもっとも確実な存在なのである。この現在の安定性の根底には、個体の生命における物質的安定性、すなわち生理学で言うhomeostasis、あるいは心理学で言う<恒常性>が大きくあずかっていよう。個体は現在という時間的持続において、つねに同一であろうとする、物質的・生命的根拠を有しているのである。その現在にどっぷりとひたって、快や苦や、さまざまな欲求・情動・情念が現われては消える。その限りでは、人間はじめ動物は、徹底して現在的存在である。この現在的生き方では、苦へと導くものを極力抑えることが、人生のWeisheit(生きる知恵)となる。そこから生まれる快とは、その意味で消極的なものである。適度に欲望(すなわち快の欠如としての苦)を満たし、苦となる原因を排除する。これがエピクロスやストアの幸福論であった。快はもっぱら現在における充足であるから、現在が最も重要な時となる。
 しかし現在によっては満たされる状況にない快も多々ある。その充足は未来に求めるほかはないのである。欲望が大きければ大きいほど、快は未来に先延ばしにされる。それは未来の不確かさによって、場合によっては愚かな延引となる。また逆に、期待によってより大きな快ともなりうる。簡単にえられるものよりは、苦労してえられるものの喜びは大きいのである。また、不確かな未来に備えて、未来の快を保障するものとしての、いわば快の備蓄がなされる。現在の快を抑えて、未来の快を保障するのである。このような現在の快の未来への投影をなさしめるものは、まさに生命の時間性にもとづく、実存主義の用語で言えば、未来へのEntwurf(企投)である。希望はその原理の一つなのである。
 すべての快苦は現在にその場を持つ。その点では、現在が最も重要な時点であるが、その現在を時間において自在に移動させ、少なくとも観念的に投影すること、これが知的生命体の意識のあり方である。言いかえれば、知的生命体は現在に安んずることが出来ないのである。実のところ、現在的存在は、知的生命体にとっては退屈であり、ennuiをもたらす。一日中鎖につながれてのんびりと寝そべっていられる、犬の生活はうらやましくても、実際にはとても耐えられるものではない。それゆえに絶えずなんらかの快楽を、気晴らしとして求めるようになる。それにも肉体的・身体的限界がある。人間の胃の容量は決まっており、性欲にも無限の反復は不可能である。スポーツや娯楽にしても、やがて疲労がそれらを苦痛にかえる。今現在満たされる欲求や欲望には、限りがあるのである。その限度を越えようとすれば、快は苦に転じる。このことは肉体の快ばかりか、精神的快についても言いうるのである。一日中音楽を聞かされれば、やがてどんな音楽も苦痛になり、あるいは無感動になるであろう。刺激や興奮を求めれば、やがてそれらに対して鈍感になり、嫌気さえ覚えるであろう。これは肉体と精神の両方面に言えることである。快をセーブすること、それを未来にわけ残しておくこと、実はそれこそが節制の意義なのである。エピクロスやストアが言うようには、人間は快楽主義者であれ、禁欲主義者であれ、現在だけに生きることはできないのである。
 過去についてはどうか。過去は単なる時間としては、もはや現在として存在しなくなったあらゆるものを、その中に包含する総体としての時間を意味する。過去が過去として認識されるためには、記憶が最も重要な要素であり、それなしには時間意識そのものすらないであろう。その点では、未来は意識以前の生命のあり方であって、必ずしもイマジネーションを必要とはしない。リスはたぶん冬を想像せずして、どんぐりを貯めるであろうし、冬眠の準備をするであろう。生命そのものが未来を含んでいるのである。それに対して、過去は記憶されねば(少なくとも意識として)発現することはない。記憶においてはじめて時間意識が生まれるといってよいだろう。すなわちまず現在があり、そこから過去が発現する。過去の意識が未来に投影されて、未来の意識が生じる。
 記憶とは記録であって、それは脳細胞であれ、石の上であれ、紙の上であれ、かつて起こったことの刻印である。脳における記録が、狭義の記憶であるが、いったん時間意識が出来上がれば、あらゆる過去の刻印が、記憶となりうるのである。この万物の記憶をとらえることが過去であり、時間における万物の復元が過去の想起である。過去は現在と較べて比較にならない厖大な時の記録を蔵しており、それはセネカの言い回しを用いれば、すでに確定したものであり、未来のように不確かなものではない。それを探究することはすでに与えられた対象を扱うことであり、同じく与えられていても、転変極まりない現在や、いまだ到来していない未来の事象を対象とするよりも、はるかに確実な知識が得られる。実のところ、人類の知識の大半は、過去の探究から得られているのである。人類がこの宇宙について知りうるのは、宇宙の現在の姿からではなく、宇宙に刻印された過去の記録からなのである。
 過去はまた、生命にとって二重の意味を持つ。類的記憶と個にとっての記憶である。個にとって記憶の発生は、自己自身の存続の記録を脳細胞に刻むことである。これを個体発生の意識における記憶と言ってよかろう。個体の存在を時間的に記録もしくは記憶すること、これが個人にとっての過去である。これが最も根源的な時間意識における過去であると言って良い。一言で言えば、過去とは何よりも私の過去である。この意識がなければ、過去ばかりか時間意識そのものもないのである。私の存在の時間的記録の意識、すなわち私の人生の記憶は、私に何をもたらすか。それは私の現在との対比において、快よりも、より多く苦をもたらすのである。たとえ幸福な過去の追憶であっても、それがもはや過ぎ去ってないという意識において、苦の意識に変わるのである。快はつねに現在的であって、過ぎ去った快は、それが現在的でないことによって、もはや快としては、その反響のごときものでしかない。それが追憶のはかなさである。しかしながら、過去の幸福は、もし可能ならば、現在において再現しようという意志において、幸福の原点となりうるのである。たいていの場合、幸福の原点は幼少年期にある。幸福とは、もっとも幸福であった状態を再現しようという努力につきるのである。それが、個の人生における過去の究極的意味である。
 もし個人の過去の記憶が、圧倒的に苦の記憶であるならば、忘却こそがそれに対して最も良い処置であろう。さいわい、記憶には忘れる能力が具わっているのである。現在的、さらには未来的に生きるためには、過去に対する防禦が必要なのである。もちろん、経験という意味では、過去は現在のあり方、未来の構築に対して、積極的な意義を持つ。しかしそれはたいてい苦痛に満ちた記憶なのであり、もし幸福が達成されたならば、何よりも忘却の対象とすべきものである。あの災い、あの不幸があったから、今の私があると、よく言われるが、幸福は不幸に対抗できるほど強力ではなく、不幸の記憶につねに対処していなければ、いつでも崩れ去るのである。
 個にとっての過去、すなわち個体発生における記憶は、それがなんらかの外部記憶に記録されるのでない限り、もっぱら個人の脳細胞に記録されるに過ぎない。それは個人の人生以外には意味を持たないのである。それに対して、類の系統発生の記憶といってよい、類的過去は、なんらかの外物に刻まれた記録である。それらが個々の脳細胞によって解読されることによって、類の記憶となる。生命の連続が個体の存続によってになわれているように、類の記憶も、個体の記憶能力によってになわれているのである。類の記憶は、一言で言えば、自己以外の存在の記録である。生命が何故に自己以外の存在に対して、記憶の能力を持つか、それは個体としての自己の存在が、圧倒的に他の個体の存在によって制約されており、それらとの闘争または協力において、生命を維持するほかはないからである。それゆえに、たぶん記憶はまず類の記憶として始まったのであろう。その痕跡が本能と呼ばれる無意識の行為のパターンを生み出す、遺伝的記憶である。人類においては、言語が類の記憶の代表である。道具の使用、生活様式、風習といったものも、類の記憶そのものである。それらのミームと称せられる、文化的遺伝子は、個人の記憶の中で圧倒的な量を占めている。とりわけ言語が、まさに記憶そのものとも言える、類的遺産となって、脳細胞を支配しているのである。

2018年9月24日(月)
何が幸福をもたらすか

 *生活全般の快:日々の生活の効率化・簡素化。居住の快適。収入と支出・金銭に不安のないこと。
 *肉体の快:食欲・性欲の充足。身体の健康のための運動・その他の配慮。
 *心情の快:安定した人間関係または最小限必要な人間関係。趣味的・芸術的享楽。音楽・絵画・小説・詩・散策・動植物とのかかわり・旅・歴史・自然界。
 *知性の快:思索と探究。科学研究・思想・哲学。

 第一の生活全般の快が、最も基本的な幸福の条件であるが、これを実現するために、最も労力を必要とするものであり、このための労働だけで一生を終えてしまうことにもなりかねない。幸いにもこれを得られて、初めてその他の快も十全に得られるようになる。
 第二の肉体の快は、第一の快の条件に大きく依存するが、食欲は生命の基本条件であり、これだけは欠かすことが出来ない。衛生と健康がそれに次ぐ。
 第三の心情の快は、人間関係によって左右されがちであり、共感が大きく関係する。単なる性欲は、心情において性愛に変わる。人間関係を安定させるには、最小限にしぼるのが良い。それでも、夫婦・親子でも、たいていうまくいかないのであるから、孤独が理想である。芸術的・趣味的享楽を深めるには孤独が必要である。
 第四の知性の快は、その他の快の充足の上での、余剰としての探究心にもとづく、知識欲の充足である。これは必ずしも一般的快ではない。

 これらの幸福の四条件は、すでに恵まれた年少期に現われており、その場合には、成年後に自らの努力で拡大再生産するだけである。それのできない場合は、すなわち幸福の四条件を知らずに人生に乗り出すものは、あるいは知っていても、みずから作り出せないものは、永遠に幸福を失うのである。
 これらの幸福の四条件を満たせないものが、世の中に多ければ多いほど、人の世は不安定である。酒・色に溺れたり、ギャンブル的な経済にふけったり、麻薬的な宗教に救いを求めたり、権力欲に駆られて政治を牛耳ったり、ルサンチマンに駆られて民族間の憎悪や戦争をあおったり、不幸がまさに世の中をさらに不幸にするのである。
 いわゆる志とか野心とかをあおる、まさに不安定な心情を人生の意義と見るような幸福論は、他からあやつられた人生観であり、その幸福はもっぱら他に依存するゆえに、真の幸福からは排除すべきである。幸福は自己自身において求めるべきであり、他からの承認や、賞賛や、名誉などによって、左右されるものではない。人から褒められることが嬉しかった小学生ならいざ知らず、自ら幸福の条件を実現するためには、それが心情的に、国家であれ社会であれ、他からの毀誉褒貶によって条件づけられてはならないのである。
 幸福の条件を自己自身に見いだすためには、集団や社会や国家や宗教といった、全体への服従を強いる勢力に対して、十分な内的・外的防禦がなされていなければならない。そのためには集団的本能や社会や国家や宗教に対する十分な認識が必要であり、それらの本質を批判的に探究することによって、強力な個人的意志を培わねばならない。
 宗教や道徳や義務のようなものを排除するならば、たいていの幸福論がゆきつくところも、おのれ自身において幸福の条件を見いだすことである。神や国家や家族のような全体への奉仕や、義務感への陶酔などは、所詮見せかけの幸福であり、幸福の思い込みであり、あるいは幸福そのものに反しさえする。その条件は盲目的であることだからである。神や国家や義務だけを見すえていれば、それ以外のすべてが見えなくなる。
 愛情を幸福の条件とする幸福論は、一面においては、心情の満足において憎悪に勝っているのであるが、やはり他者から愛されることを条件とする限りは、真の幸福を保証しない。自ら抱く愛情もまた、相手が誰であれ、親子であれ夫婦であれ親友であれ、いずれは裏切られる宿命にあるのであるから、幸福の究極の条件とはなり得ない。(それ故に宗教者は、決して裏切られないキリストの愛が必要なのである。)
 幸福の四条件は、身体と精神の快を基本としているので、身体と精神の能力の衰えとともに、幸福の絶対量も減ることになる。人間が求めうる幸福には限りがあるのである。幸福は最後に幸福自体を否定することによって、その最後の段階にいたる。もはや幸福を求めないことに、究極の幸福が見いだされる。肉体の快、心情の快、知性の快が、知性・心情・肉体の順で、最小にまで縮小することによって、もはや快そのものの希求が消滅していくであろう。その時、生活全般は最も簡素なものとなり、動物のレベルに近づくであろう。動物は空腹さえ免れていれば、存在するだけで幸福なのである。その存在の快が、人間にとっても最後の幸福である。
 その存在の快さえも否定する境地に達するならば、最高の幸福、あるいは幸・不幸を超越した<空無>の域に達するであろう。アタラクシアとかニルバーナと称される境地がそれである。生命が快と苦の連続であるならば、生命を超越する境地に達した究極の<幸福>のありかたである。

2018年11月14日(水)
続・人生の悪夢

 過去は年齢を重ねるにつれ蓄積されてゆき、記憶の重荷となっていく。それに対する抵抗として、人は現在に没頭するか、未来にのがれるほかはない。動物は余計な記憶をたくわえないし、未来の意識を持たない代わりに、ひたすら現在に没入できる。現在的な欲求に悩まされることはあっても、過去に責めたてられることはない。日常の約束や予定にしても、それらを結んだり立てたりしたという過去の事実によって、すでに記憶によって責めたてられているのであるが、たとえ記憶がなんら行為を求めないとしても、記憶自体が意識の棘となって、つねに現在に生きる存在である人を苦しめるのである。
 過去はたいての人間にとって、愚行と過失と不幸とのかたまりである。特に若年期においては、後年振りかえれば、その記憶は悪夢の連続のように映るであろう。楽しい記憶を少しでも残している者は幸いである。そのような悪夢のジャングルをかきわけて、まがりなりにもまっとうな人生に達したとしても、待っているのは、悔いと羞恥という悪夢の再現である。
 人は若年期においては、何ゆえに愚かな人生しか送れないのであるか。若者が馬鹿げたまねをしていても、周囲の大人は笑って見まもるだけで、自分らも若い頃はそうであったと、悪く寛大な態度をとる。たとえ賢い大人が忠告したところで、人生経験の浅い若者は、理解できないであろうし、余計なお世話という反撥を抱くであろう。若者は自ら人生の悪夢を生きていくほかはないのである。そのことに本当に気づくのは、破綻した人生においてか、それを乗り越えて、安定した老年期に達してからである。しかし、そのようにして達した老年期には一体何が待っているのであるか。おのれの人生に対する、悔いと羞恥のほかにはないのである。たいていの老人は、日夜、そのような悪夢にさいなまれて生きているのである。
 中年期には、そのような悪夢は酒や色欲やギャンブルなどによって紛らわすこともできよう。若者はエネルギーに任せた暴発的な行為によって、それを忘れようとするであろう。心身的に、sober(しらふ)にならざるを得ない老境においては、すでに過去となったものの、寝ても覚めても、日夜おしよせる人生の悪夢に、何をもって対抗し得るのか。その手段は、基本的に動物と同じであるといえる。
 日々をなにかに没頭して、充実させて過ごすほかはないのである。現在の充実によって、過去の悪夢をふりはらうのである。しかしそれによっても、深く刻印された過去は、ちょっとした連想によって顔をのぞかせる。現在という時は波立ち、苦渋で満たされる。過去はどのようにしても消しがたいのである。ましてそれが深刻な罪の意識であるならば、尋常の方法では対抗できない。かりに過去を何らかの形で償ってみたところで、過去の罪悪の記憶は消え去らないのである。人がゆるそうと、神がゆるそうと、記憶は消えないのである。
 時が悪夢をふりはらう、悪夢から逃れる先であったのは、まだ人生の間のあるころである。逃れたと思った悪夢は、何年先になろうと、ちゃっかり存在しているのである。そしてまた未来に逃れる。そして、未来に死という先が見えてきたときにも、やはり逃げつづけねばならない。死が最後の希望になるのだ。死が悪夢からの究極の救済なのである。かといって、自殺が解決であるというのではない。生がある限りは逃げつづければよいのである。これを希望と呼んでよいであろう。人生の罪びとにも希望はあるのである。希望を抱きつつ、現在を充実させる――これ以外に人生の悪夢に対抗する手段はない。そして最後に、死という生命界の最大の秘儀が開示され、救済へと至るのである。

2019年1月2日(水)
昔を今に

 昔を今に返すよしもがな、と古人は言った。良い記憶はとどめておきたい、不快な記憶は出来るかぎり忘れたい。人間の、というよりも生命体の、都合の良い願望である。しかし、それだけではない。流転の中におかれている生命体の、究極の願望である、自己保存、種の保存とは、おのれ自身を永遠化することの欲求であり、時間がその最大の敵であることは、生命体にとっての根本の矛盾である。生命は時間的現象であり、物質の化学的連鎖反応を、とことん継続していく過程に過ぎない。時間がなければ、そこで生命体は停止し滅びるのである。しかしながら、この時間に抵抗することが、また生命体の普遍的本質としての自己保存、自己持続の欲求なのである。自己が所有するものを、何ひとつ失いたくない、おのれがあるがままの状態を、永遠に保ちたい、この欲求が現象界における生命の本質であるといってよかろう。その端的な現われが遺伝子、すなわちDNAなのである。
 生命が時間とともに流れてゆく時、あるいは時間のプロセスの中に身をおく時、生命はかえって時を忘れる。そのような現在的生命には、未来も過去もないのである。生命が自己自身を振りかえるとき、はじめて時間意識が生まれる。それは止められた時間であり、その止められた現在において、未来の見通しや希望、過去への回顧や執着が生まれる。それは同時に時間への抵抗であり、時間そのものを敵とする反抗である。生命は、少なくとも自己意識においては、生命であることに自足できないのである。生命は生命自体を超えようとする。生命は時間におけるおのれの存在を苦痛と感じる。時間における生成物でありながら、その時間の制約の中で生きることが我慢ならないのである。これが生命としての人間の根本の苦悩である。(注*)

 *古代の中国の皇帝の言として、「人生はなんと楽しいのだろう、死さえなければ」と伝えられている。

 生命は時間を超えておのれのすべてを所有しようとする。その空しい努力が人生のすべてなのである。宗教者は、せめて神の帳簿の中に、おのれの人生のすべてが記載されていることを願う。もっとも、不都合なことは、帳消しにされることを願うのであるが。そのような信仰による慰めの失われた現代においては、生命としての人間は、むき出しの時間と闘うほかはない。時間の子でありながら、時間に反抗する、その矛盾の苦しみが、人生なのである。すべては空であると割り切るのはたやすい。しかし生きている限り、その割りきりには無理がある。自己自身を保つことは、少しも空ではないからだ。自己否定しても始まらない。否定するものもまた、否定に追い込まれる自己だからだ。
 究極の救済は、動物に帰ること以外にないのである。すなわち、時間とともに生きることである。生命のプロセスそのものになりきることである。一匹のハエも、一個の人間も、生命としては同等の価値である。冬の蝿が自ずと生命をやめるように、人間もまた時がくれば、自ずと生命をやめる。そのわかりきった救済以外にはないのである。とはいえ・・・・・。
 昔を今に返すよしもがな、この嘆きは消えることがない。存在の根本にある願望なのである。人間は単に存在しているだけでは不幸なのだ。つねに最もよい幸福の時を求めている。それはたいてい過去のある一時期のほかにはないのであるが。人間が迷う時は、常に過去の最も良い時に、おのれの行為や思想の基準を求めるのである。人間は未来に生きているのではなく、過去のままに生きているのである。ただその素材が変わってゆくに過ぎない。
 しかしながら、求める過去はどこにあるのか。どこにそれを回復できるのか。それが単に記憶に過ぎないことが、過去のはかなさ、空しさの根本原因である。しかし、それなしには、生きることの意味が失われる。最も生命欲に満ちた一時期の記憶、それが全生命を支えるのであるから。生命の純粋な喜びは一瞬で良い。それが一生の記憶として、どのように悲惨な人生をも支えるのである。過去は今に返さなくても良いであろう。実のところ、過去は単なる記憶ではなく、今の中に生きているのである。今私が生きているのも、過去一瞬ではあれ、真の幸福と言うものを知ったからである。それが、ここまで私を支えてきたものであることを、つねに私は知っていたはずであるから。その幸福を、なおも私は探求しつづければ良いのである。この今において・・・。

2019年1月19日(木)
自足ということ―あるいは人生の星の時

 自己自身において満ち足りること、すなわち自足(self-satisfaction, Selbstgenuegsamkeit)は、幸福の第一の条件と言えよう。なにひとつ他に求めない、あるいは少なくとも、自己自身の存在に何ひとつ他者への顧慮をまじえないこと、その状態において、なんの苦痛もなければ、それが存在の最高のあり方であるといえよう。そのような理想の、究極的存在のあり方として、神学者は神を想定する。神は実のところ、この世界を創造する必要すらないのであるが、現に存在している世界を説明するには、神のその自足を破らねばならないことになる。それだけを考えても、神は存在しないといえるのであるが、あるいは少なくとも、神はこの世界とは無関係であるといえるのである。
 それはさておき、この究極の自足を、生命もまた知らないわけではない。しかしその自足は、無数の個の中の個としての生命体にとって、せいぜい一瞬の間の状態に過ぎない。たちまち、他の個体によってかき乱される。生命はつねに他者に対して気をくばっていなければならないのである。生まれた時から、他者に依存することによっておのれを維持する他はない人間にとって、自足は他者の存在の上に成り立っているのである。これを徹底するならば、日本人のよく口にする、「あなたまかせの私」ということになる。こうしたあなたまかせの自足では、自足という意識すらないであろう。
 真の自足は独立独歩(self-reliance)の自足である。他人の犠牲の上に、おのれ自身を確立してゆく、その他人が両親であれ、兄弟であれ、友人であれ、夫婦であれ、社会であれ、国家であれ、神であれ、そうしたものは私の自足のために存在しているのである。といって他人に対して残酷であれと言うのではない。誰もがおのれを確立するために、他者を必要としているということに過ぎない。この相互的エゴイズムが、人間というよりも生命体の本質なのである。そこに感謝があろうと、非情さがあろうと、さしたる違いはない。人間が幸福を求める限り、他者を拠り所として、おのれの確立と自足を図るほかはないのである。
 この自足を求めるエゴイズムの争いに敗北したもの、あるいはそうした相互的エゴイズムを理解して、うまく立ち回ることのできないもの、あるいはさらにエゴイズムそのものの相互性を理解せずに、ひたすら自己のエゴに拘泥するもの(世に言う普通のエゴイスト)は、この世界では失敗と不幸を運命づけられている。この相互的エゴイズムを早くから理解して、独立独歩の精神のもとにおのれの人生を築くものが、人生の可能的な幸福、すなわちおのれ自身にのみかかわる純粋な自足を実現しうるであろう。最終的には他者への依存を超えた、自己自身の可能性にのみもとづいた、人生の幸福の設計である。こうした幸福は、あなたまかせの無為自然では実現できない。自己自身の可能性にもとづいた、有為自然でなければならない。
  他者に依存しすぎることによって、自足はつねに傷つけられる。他者もまたエゴイストで、おのれの自足を求めているからである。子供は周囲の大人から、つねにそれを感じている。その欲求不満から、ある種の甘えや、人格崩壊が生じる。これは子供に限らず、大人もそうである。この社会でまがりなりにも自足を求めるためには、人格の妥協が必要なのであり、それが独立独歩を難しくしている。不幸にも、融通の利かない人格の持ち主は、社会において敗者となり、自足すらもそのルサンチマンによって損なわれることになる。挫折と敗北の後に、はじめて理想の人格が形成される。それは自己の人格を隠す人格であり、人格的にもまた、内なる人格において自足することが、幸福の条件となる。社会的人格と、自足する人格とを使い分けること、なおかつself-relianceを失わずにそれをおこなうこと、それが理想のエゴイストの人格である。 

 真の自足がどのようなものであるかは、だれもが幼少年期の体験から知っているであろう。幼少年期には、親の庇護が幸福の条件であることを、本能的に感じてはいても、明瞭に理解しているわけではない。それだけに、子供が物事に熱中する時には、すべてを忘れて自己自身の快感や満足のみを求めることになる。その極端なエゴイズムが、大人のエゴイズムと衝突することによって、子供はかしこくなる。子供は自己のエゴイズム、自足の願望を心の奥に隠すようになるのである。子供は自足に対して罪悪感を覚えるようにさえなるのである。それはあたかも、マスターベーションにひとしいものとなる。子供はこのようにして、独立独歩の精神を損なわれてゆく。あるいは、陰険なエゴイストとなって、相互的エゴイズムからなる社会において不利な立場におかれる。ひらたくいえば、人間関係においてうまくいかなくなり、不幸な人生を運命づけられる。
 しかしながら、このように、自足、すなわち一人で楽しむという、生命の根本の要求を心の奥に秘めるようになると、そのひそかな昂揚や満足が、子供にとって最高の幸福の時となるのである。それは秘密であることによって、誰にも破られないのである。これが幼少年期における幸福感の心理的事情であり、この体験が一生にわたって、幸福と言うものの原イメージとなるのである。不幸にして肉体的快楽がその原イメージである場合は、幸福の探求は性的快楽の飽くなき探求となるであろう。幸いそれが精神的イメージであるならば、心の究極の安らぎが、すなわちニルヴァーナが、人生の最終目的となるであろう。いずれにしても、人生の<星の時 Sternenstunde>は、幼少年期にあるのである。
 少年の頃、星座に興味をおぼえ、冬でも明け方には夏の星座が見られるということを知って、夜明け方にそっと蒲団をぬけ出て戸外に立った時、空に見知らぬ星座がきらめいているのを見て、驚嘆したことがある。その感動から朝まで起きていた。その時の美に満たされた静謐な心の状態が、少年期における最初の至福であった。これを人に語れば、至福をこわしてしまったことであろう。自足的幸福は、他者とは共有できないのである。ムンクに、「メランコリー」という絵がある。四五人の若者が、海辺で物思いに耽っている図である。そろって同じ思いに耽ることなどはありえないのであり、画家の思いの増幅である。幸福もメランコリーも、個人の内奥の思いなのである。
 少年期に知った至福は、長じるにつれ、青年となり、大人となることによって失われる。人生の嵐が、彼方にきらめく星明りを閉ざしてしまう。

 ああ、星にも似た望みよ、昇るとみえて雲におおわれ!
   未来より声のして叫ぶ
   “進め、進め”と――けれども目くらめく深淵 過去の上に
   わが魂(たま)はただよいとどまる
   声もなく 身を固くして、茫然と

 ――エドガー・アラン・ポー「天国へみまかりし人に」より

2019年7月11日(木)
<ぼっち>

 ひとりでいられないという、この大いなる不幸 ―― ラ・ブリュィエール

 人出で賑わっている学校とおぼしきあたりを散歩していると、いつの間にか一人の少年が側に連れそっている。何となくどこかで知っているような少年で、体操着を着ていて、この学校の生徒らしい。学園祭であるか、体育祭であるか、あちこちで何かの催しやスポーツなどが行われている。学校時代を思い出し、懐かしいような、胸苦しいような気持になっていると、ダンスだか組み体操だかの演技が、男子だけで行われているところにさしかかる。すると傍らの少年が、おじさん、ダンスをしたことがある、と訊くので、フォークダンスならあると答える。少年は学校の中では、これといった活動に属していないらしく、その孤独な焦燥感のようなものが痛いほど伝わってくる。
 二人で脚を止めて、組み体操のようなダンスの演舞を見ていると、あの中に友達がいるのだと少年が言う。それなら一緒にやりな、と励ますと、ちょうど演舞の切れ目で、少年は少し高くなった土の舞台に飛び上がって、なにやら友達と交渉していた。どうやら相手をしてくれるようで、ふたたび見るからに乱暴な演舞が始まった。四五十人ほどが二人ずつ組になって、見方によっては格闘技のようなダンスをする。少年は相手に振り回され、たたきつけられて、いかにも苦しそうである。首に腕をまわされ、足先を絡まれ、烏賊のように引き伸ばされている。首を締めつけられて、少年の顔は苦痛にゆがんでいる。それでも耐えて、演舞から逃れようとはしない。見ると、全員が全く同じような、苦しめる者と、苦しめれれる者との、整然としたダンスなのだ。少年の苦痛の表情は、むしろ孤独から逃れた快感のようにも思われた。
 人は、特に若年期においては、集団から疎外されることをことのほか恐れる。たとえ集団が暴力や苦痛の温床であってもである。場合によっては集団は死を命じ、死に追いやりさえするのである。それにもかかわらず、一人<ぼっち>でいることの苦痛に比べれば、集団の与える苦痛は、死でさえも、物の数ではないのである。少年はひたすら暴力的ダンスの苦痛に耐えながら、そこから降りようとも、逃げようともしない。そしていつか苦痛を与える側に回るであろう。それ以外の快楽を知らなくなるのである。

2019年10月13日(日)
第二のおのれ

 おのれに対して優しくなること。
 何に苦しむにせよ、他者は何一つそれを和らげてくれるものではない。他者もまた苦しみを持ち、あるいは共感があっても理解がなく、心の表面しか知ることが出来ない。どのように親しい他者や両親であっても、それは同じである。
 おのれの苦しみに対して真に共感し、優しくなれるのは、おのれだけである。苦しむものはまさにその優しさを求めているのであるから。
 おのれに対して優しい言葉を語りかけることである。決しておのれに厳しくしてはならない。世間や他者は、おのれに対して充分に過酷で、鈍感で、あるいは愛情があっても、人の苦しみに何をしてよいのか分からないのであるから、みずからがみずからに同情するほかはないのである。これは自己憐憫ではない。自己憐憫はある種の泣き寝入りであるが、すなわち自己が自己に甘えることであるが、おのれに優しくあることは、もう一人のおのれに気づくことである。
 それをストアは心の中の ruling principle と言っている。すなわち理性的おのれである。それに語りかけるのではなく、それをもっておのれに語りかけるのである。その場合、決しておのれをとがめてはならない。優しくおのれにアドヴァイスすることである。苦しむ胸を、みずから撫でさせるように、優しく語りかけるのである。実はこれは自己暗示の極意でもあるのだ。決して命令してはならない。穏やかな言葉で、説得することである。怒れる心、いまいましがる心、悔いる心、欲望にとらわれる心、懺悔する心、不安な心、すべてそうした苦そのものである心を、みずから理性の言葉でもって優しく慰撫して、苦しみから心を逸らさせることである。
 おのれの中にそうした第二のおのれを持つならば、もはや他者に甘えることも、依存しようという心もなくなるであろうし、そうなれば人を恐れることもなくなるであろう。この世界で唯一頼ることのでき、おのれのすべてを知っているものは、おのれ自身のほかにはないのであるから。たぶん神とは理想のおのれなのであろう。神であるおのれがおのれに語りかけるとき、そこには完全なる理解と共感とがあり、その言葉に素直に従うことが、他者の言葉よりもはるかに容易なのである。

2020年3月20日(金)
死と滅亡(その1)

 オリオン座の一等星の一つベテルギウスが、光度を下げて二等星になった。天界の歴史においては、一生の間でそうそうない現象であろう。この赤色超巨星が超新星爆発を起こすのではないかと、天文学ファンの中で話題になっている。800光年以上離れているので、その光や影響が届くまでにはそれだけの年数がかかるのであるが、すでに爆発を起こしていれば、いつ地球にその光が届いて、満月の半分程の明るさで輝きだしても不思議はないとされている。その際、星の極方向にガンマ線バーストなる強力な放射線が放たれて、地球生命に影響をもたらすのではないかという危惧もなされている。実際太陽系の過去において、近傍の超新星爆発が影響を及ぼした可能性も考えられているようだ。
 かと思うと、今年に入って得体の知れないコロナ・ウイルスが全世界に蔓延している。数ヶ月で罹患者が20万人を越え、死者も一万人にせまる。人類70億の人口に比べれば、確率的に微々たるものだが、日々罹患者の数が増えることで全世界の国々でパニックが起こっている。ドイツの首相は人類の6割が罹患するといっている。その根拠はともあれ、先の見えない不安が、あらゆる人々を滅亡の不安に駆り立てていることに違いはない。
 自然界は特に生命現象のために存在しているわけではない。とりわけ人類の存在などは歯牙にもかけていない。あらゆる自然的災厄や災害が人類と生命を襲ったにもかかわらず、生命そのものは根本において懲りることはない。災厄が去った後には、思い切り楽天的なのである。それが生命のしたたかさであり、しぶとさでもあるのだが、それを逆に考えると、死と滅亡はつねに目の前にぶら下がっているのに、それが見えずにいるのが生命であるといえる。
 見通しの立たない現象が起こると、人間に限らず生命体はパニックにおちいる。生命の根本の条件である自然環境への適応ということが不可能になったとき、ひたすら盲目的・衝動的になるのが生命である。蜂や蜘蛛に襲われたみみずは、ひたすらのたうつだけである。運良く危機から逃れるかもしれない。しかし衝動的行動は十中八九、失敗と破滅をもたらす。日々数十人の罹患者が出るからといって、極端に不安がることは、かえって危険を増すかもしれない。その失敗が豪華客船での隔離措置であった。国境を閉ざしたりすることがどれほどの効果を生むのか、かえってウイルスを培養することにならないのか、その結果は今のところ分からない。
 こうした災厄のもたらす意識への影響は、死と滅亡がつねに生命にとって隣り合わせに存在するということを、改めて思い起こされることである。私は明日どんなことがあって死ぬとも知れないし、人類もまたなんらかの天変地異によって滅びないとも限らない。そうした意識を常日頃いだいていることは、生命の根本的楽天性からして不可能に近いが、この機会に身辺整理ぐらいは心がけるようにしたいものである。天災だけではなく、ある日突然の熱線によって、影だけ残して瞬時に消えてしまった広島や長崎の人々の運命を思うと、死や滅亡はまさにひと事ではないのである。

2020年4月2日(木)
死と滅亡(その2)

 前回、同じテーマでコロナウイルスについて書いた時には、まだ蔓延初期であったのが、二週間ほどした現在、WHOの発表では感染者は100万人に迫り、死者は5万人を越えるという。このままの勢いでは、人類の半数が感染するというのも、あながち無いことではなかろう。スペイン風邪では5億人が感染し、5千万人以上の死者が出たそうである。当時の人口からすると、かなりの感染率である(約四分の一)。今現在70億の人口からして、100万人が感染しても、まだ感染初期といえるであろう。しかし単なる確率ですまないのが疫病である。
 今現在、発展途上国で毎年コレラに罹患する人の数は数百万とされ、十数万人が死亡する。しかしめったに話題になることも、恐怖を起こすこともない。それに較べれば、いまだ少ない感染率であるコロナウイルスが、これほどまでにパニックを引き起こすのは、もっぱら文明国の社会・経済上の都合であるといってもよかろう。ブラジルの大統領は、コロナ対策は無用であるとして反発をかっているが、たしかに<人はいつかは死ぬ>のである。トルクメニスタンでは、コロナウイルスの名を口にしたり、マスクをするものは逮捕されるという。かといって蔓延していないわけではない。中国やその他の国でも、感染者数をなるべく少なめに発表したりしている。
 伝染病が不安とパニックを引き起こすのは、単なる感染率と死亡率の問題ではないであろう。それは不幸の手紙と似ていて、誰かから受けとることによって広まるのである。インドでは、カーストの国だけあって、コロナウイルスに感染すること自体が、差別と迫害の対象となる。そうした国ではまともな医療も受けられないであろう。アメリカのような大国でも、感染者の急増によって、医療危機におちいっている。そもそも病気の率が抑えられているのが文明国であり、疫病の急速な蔓延は<想定外>なのである。こうした人類の日常的楽天観が、ふいのカタストロフィー(破局)に対する警戒を怠らせるのである。
 数日前に、富士山噴火についての被害の予想が出されたが、火山灰が首都圏を襲うと、交通・電力・水道他すべての日常的機能がまひするという。文明が文明なるがゆえに、暗黒におちいるのである。東北から関東を襲った大震災と津波の被害も<想定外>であったが、その教訓が今回のコロナ騒ぎでどこまで生かされるかである。中世におけるペストの世界的流行は、モンゴル帝国による世界的交通網の発展によるとされるが、現代文明の大動脈がまさにウイルス感染の危機を増大させているのである。それを泥縄式の隔離や都市封鎖によって対応しようとしているのが、<文明国>の現状である。もとから医療体制のととのわない国では、これまでどおりあらゆる疾病や疫病に対して、運命にゆだねる他はないのであろう。
 死と滅亡、人類のカタストロフィーはいつでも起こりうるのであり、その百年に一度の例をまのあたりに見ることになるのであろうか。このような事態に個人はどう対処したらよいのであるか。まず疫病感染の確率を見極めることから始まる。古代から中世の、さまざまな文明の衰退と滅亡をもたらした疫病は、まさに見えない悪魔であり、人類への鞭であったろうが、今日ではウイルスの正体はある程度知れている。衛生に気をつけさえすれば日常の対処はできる。そのうえで、人から人へと伝染する確率を頭において行動すれば良い。かりに世界の感染者が一千万人に達したとしても、0.14%、単純に千人に一人である。宝くじが当たるようなものである。組み合わせの問題としても、千人に一人の感染者に出遭うことはまずあるまい。感染者が一億に増えても、まだ1.4%、百人に一人二人である。とはいえ、そこまでいけば安閑としてはいられない。感染者が増えるほど、急速に感染者と接する確率は増す。しかも一度感染すれば、陰性に変わるか死亡するまでは、他者に感染するのであるから、単純な組み合わせではないのである。その期間をひと月と考えても、罹患する人が治癒する人よりも多いことになる。感染爆発ということになれば、まわりがほとんど感染者ということにもなりかねない。この際、隠遁者となることが一番である。

 死と滅亡は生命体にはつきものである。人類はなにかおのれに特別なプラスαが具わっているかのように思いこんでいる。それに文明や精神や理念などの名をつけている。生命体の中で<人生>などというものにこだわっているのは、人間だけであろう。猫にも犬にも鳥にも、猫生や犬生や鳥生などと言うものがあるわけではない。人間だけが特別に自己の人生や人類の生命や歴史にこだわる、もしくは価値をおくのである。もとから生命に無いものを、生命に求めることができるだろうか。すべてが人間の、人類の<妄念>なのである。精神も理念も文明も妄念に過ぎないのである。ただ生命ばかりが真実であり、実在である。あらゆる生命は生命そのままに生きている。<生まれ、生まれ、生まれ、死に、死に、死に>するのが生命である。それ以上でも、それ以下でもない。それだけでは<虚しい>と感じるのが人間であるが、その虚しさ自体が妄念を生みだす元なのである。その虚しさに徹するならば、そこに逆説的ではあるが、あらゆる妄念を超えた境地が生まれてくる。そのことを説いたのが釈迦であり、キリストであったろう。死も滅亡も、妄念から生まれる迷いである。死と滅亡は生命の属性であるといってもよいのであり、生命を超越した境地には、もはや死も滅亡もないのである。かといってあの世や天国や永生があるわけではない。釈迦やキリストが求めたのは絶対的存在であり、絶対的存在であるおのれである。あらゆる不安や恐怖やパニックから遠いところにある<空>としてのおのれである。その超越者の視点こそが、死と滅亡に冷静に対処するための、究極のGesinnung(心術)である。