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自我の探究(1)――世界意志・イデア・自我

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自我の探究(1)―― 世界意志・イデア・自我

2009年3月18日(水)
快楽と禁欲・その1 (K)

 人類は生き方の観点から二種類に分けることができよう。快楽に生きる人間と、苦を求める人間、即ち快楽主義者と禁欲主義者とである。大多数の人間は前者であり、あえて苦に生きる者は少数である。これは生の本質からして当然のことである。種の保存にせよ自己保存にせよ、それを保障するものは快の報酬であるからだ。生は現象的には盲目的なのではなく、快を求め、苦を避けることによって、即ち快苦の原理によって導かれているのである。人間の生もまた例外ではない。かつて自然の状態において、あらゆる人類は快楽主義者であったといってよい。宗教もまた原初においては快を保障するための儀式であった。食を保障し、繁殖を保障するであろうという願望にもとづく営みであった。
 快を求める人類の願望はこの世界での存在にとどまらなかった。死後にまで生命の延長を願ったのである。生への意志は無限の欲求であるから、限られたこの世界では満足できなかった。彼岸の思想が生まれ、輪廻の思想が生まれた。あくなき快への欲求が空想界を馳せめぐった。
 動物は生の本質のままに生き、おのれの存在以上でも以下でもない。人間だけがおのれの存在に満足せずに、おのれの存在を超えようとする。快への貪欲な追求が、この世界での限られた存在にあきたらなくさせるのである。エジプトのファラオや秦の始皇帝は例外ではない。この世の良きものすべてを携えてあの世に行くことが、無限の欲求である生の当然の願いであった。人間にはそのための想像力が与えられた。
 人間は確かに自己自身の存在に満足しない存在であるが、そのことを自覚する存在でもある。そこから生への意志を否定する高級な宗教が生まれてくる。生の本質である飽くなき快の追求は homo homini lupus の状態を作り出した。そこでは支配するものがより多くの快を得、支配されるものは快の充足を制限された。無限の快の欲求に耽ることができたのは王者だけであり、快を制限された者はおのれの欲求について反省せざるを得なかった。強いられた抑制は、積極的な抑制へと転化された。この世で満たされない欲は、あの世で満たされる。そのためには積極的にこの世での欲の充足を避けねばならない。それがあの世で報酬を受けるための条件である。ここに宗教的な禁欲主義が生まれてくる。
 キリスト教もイスラムも本来このような禁欲主義に基づいている。やがて天国で報酬を受けようとすることも快の追求と見なされ、禁欲のための禁欲という徹底した禁欲主義が生まれる。仏教もまた本来は禁欲主義の宗教である。この世では生の欲求は完全なる充足を得ることは不可能であることを悟った釈迦は、しかしその代理的充足を彼岸に求めたのではなかった。とにかくこの生への意志に支配された存在からの脱却を図ったのである。到達したのは一見無としか思われないニルバーナであった。いずれにしても、こうした徹底した禁欲主義は大衆には受け入れられなかった。相変らず代償的快の充足を求める大衆に迎合して、これらの禁欲的宗教は変質して行った。
 宗教の禁欲主義は大衆の欲求を抑圧しなければならない支配層にとっても好都合であった。支配者は彼らの快を保障する富を握るためには、被支配者の苦を正当化するイデオロギーが必要であった。三大宗教はそうした支配者の要求に応えるものであった。近代国家はこの伝統を受け継ぐことによって、相変らず国民の快苦に干渉することをやめない。最大多数の最大幸福という平均値を国民に強いるのである。平均値に甘んじる快楽主義者などあるはずはないであろう。そのことによって多かれ少なかれ禁欲主義が強いられているのである。
 徹底した禁欲主義は人類の消滅をもたらす。本来は少数者の生き方であって、例外的な人類の営みであった。代わって中庸の考えが生まれてくる。極端な快楽を求めることなく、また極端な苦行に走ることもない。これが大多数の人類の生き方となった。しかし中途半端に快の充足を求めることの代償は大きかった。抑圧されたエネルギーが戦争や革命や暴動などにおいて、あらゆる残虐行為として爆発したのである。それは休火山が思い出したように噴火するようなものである。快への貪婪な欲求は生半可な抑圧によってはコントロール出来ないのである。
 そもそも好んで苦痛を求めると言うことは、生命の本質の中にはないことである。生の意欲がいったん挫折し、おのれ自身へと向かう時、反省が生まれる。この生への意志に対立する働きを他によい言葉がないので自覚(Sich-Selbst-Erkennen)と名づけておく。精神とか理性とかではあまりに哲学的手垢にまみれている。この自己認識の働きがネガティヴに働く時、自己の意志を生への意志と対立する方向に働かせる。おそらく自覚の発生は、たいていの場合、生への意欲の挫折と結び付いていることであろう。即ち自覚は同時に苦の自覚でもある。苦が生じるのは生への意欲が阻止され、または生命そのものが危機に陥る時である。そして生命である限りはその苦を取り除くことが不可能である時である。この絶望的な認識から、いかにして苦の肯定と言う逆転的発想が生まれるのであるか。
 苦そのものは絶対的な価値を持つものではない。生命は本質的に苦を求めることはないからである(苦を快に転化するマゾヒズムは別である)。苦とは何らかの意味で生命が求める快が妨げられることであるから、相対的かつネガティヴな事柄でしかない。苦を求めることは生を否定することに等しいのである。それならば死を与えればよいことになる。しかし自殺は禁欲主義ではない。確かにショーペンハウアーが言うように、禁欲主義は緩慢な自殺であるかもしれない。しかし、もってまわったことをするにはそれなりの理由があるであろう。そこには一つには隠れた快楽主義があるであろう。現世での苦痛の代償に、天国や極楽での安楽を求める、おおっぴらな空想的快楽主義は論外としても、快楽を犠牲にする代償に何らかのものが求められているはずである。人間の快楽の種類は千差万別であって、ちょっとした見栄や、虚栄のためにも人間は死にうるのである。虚栄や義理や人情のために死ぬ人間は禁欲主義者とは言われないであろう。彼らは死後の評判が、この世の生よりも大事であっただけである。
 真に自覚した世俗的禁欲主義は、古代ギリシャ・ローマの哲学者に見られる。両世界的世界観に立つソクラテスやプラトンに限らず、デモクリトスのような唯物論者、エピクロスのような快楽主義者までもが、肉体的快楽に対しては抑制的な禁欲主義者である。彼らは精神的快を優位に置く。しかし精神的快も快であるからには、それを肉体的快に代えることには無理がある。一片のパンと水とによってゼウスと幸福を競ったというエピクロスの幸福は、ゼウスの知らないところであろう。懐疑論者はもはや精神的であれ何であれ、積極的快を求めることをしない。禁欲の目的は、心の平静(アタラクシア)を維持することにある。それは苦でないことはもちろん、快であってもならない。これはストア派の哲人の理想でもあった。
 快苦の連続体として発現する生への意志を克服するには、快苦の原理そのものを廃棄しなければならない。それは生そのものを超越した状態に至ることである。しかし、 苦を求めることによって快を否定し、その結果快でも苦でもない状態を実現すると言う禁欲主義の理想は、極めて不安定なものでしかない。いわば大波の上でボートの安定を図るようなものである。しかも生への意志と言う絶大な力の前に、単なる自己認識に過ぎない自覚の働きはほとんど無力に等しい。とりわけ青年期においては壮絶な闘いと、壮絶な敗北が繰り返される。単なる生の道具に過ぎない認識の力が、世界の本質と格闘するのであるから。芥川龍之介はキリストと釈迦を比較して、次のような皮肉を述べている。

 <悉達多(しったった)は王城を忍び出た後(のち)六年の間苦行した。六年の間苦行した所以(ゆえん)は勿論王城の生活の豪奢(ごうしゃ)を極めていた祟りであろう。その証拠にはナザレの大工の子は、四十日の断食しかしなかったようである。>(「侏儒の言葉」より)

 伝説によると、釈迦が成仏するまでには無数の生まれ変わりと自己犠牲が先行したようである。釈迦が格闘したのはおのれ自身の本質である世界意志もしくは世界苦(Weltschmerz)であるから、はるかに困難な苦行であったことであろう。キリストには父なる神の救済が待っていた。世界意志の克服は永遠の課題であって、この宇宙が存在しつづける限りは究極の解決には至らないであろう。56億年先にも仏は必要なのである。
 今日、神も仏も‘死んだ’時代に、なおかつ禁欲主義は可能なのであるか、と言う問いが立てられねばならない。この問いに答えるためには、先ほどの人間に関する定義が一つの拠り所となる。すなわち、人間とは人間であることに満足できない存在である。人間であることのあきらめ、もしくは妥協が中庸を生み、人間であることの全肯定が極端な快楽主義へ走らせるとするならば、人間であることの否定もしくは反省は禁欲主義に向かわせることになる。人間は自覚する限り禁欲に向かうことは、あらゆる哲学者の例に見ることができる。人間は快楽に向かう限り自覚を邪魔者と感じる。生の本質は盲目的快の追及だからである。それにとっては知も認識も、目的を達するための道具に過ぎない。
 単なる道具である認識から派生した自覚による禁欲がいかにもろいものであるか、ニーチェの言葉をひいておこう。

 <悪霊を祓おうとした者たちの多くは、自ら豚のむれに加わった。>

 あらゆる禁欲主義者は常にこのことを肝に銘じておくべきであろう。
    (快楽主義については後日改めて考察)

2009年4月20日(月)
快楽と禁欲・その2:意志の優位について (K)

 生命は快苦の連続体であると、前回定義してみたが、人類においては快楽は三種または三つの段階に分けて考えることができる。最初の段階は肉体的快楽であり、これはたぶん原始生命から高等動物まで、あらゆる生命に共通する快の普遍的あり方であろう。これは種の保存・繁殖、および個体保存と密接に結びついている、食欲、性欲、適度な体温といった生命の根幹に関わる快の追及である。大半の生物はこの快の段階にとどまっている。高等生物もまた、この快さえ保障されるならば、何の不足もなく生命をまっとう出来るであろう。第二の快楽は、たぶん臓器の発達と密接に結びついている心情の快である。とりわけ心臓の発達がこの快に寄与しているようである。ただし本来は独立した快ではなく、肉体の快に付属して起こったものであろう。食欲や性欲の満足と共に心情の快が生じたのであり、またそれらが満たされない時は心情的苦痛が生じたのである。
 肉体的快楽は五感と密接に結びついている。もっとも原初的な感覚である触覚を初めとして、そこから発達した味覚、嗅覚、聴覚、更にはもっとも客観的な感覚である視覚に至るまで、何らかの快苦と結びつかない感覚はない。臓器感覚はいわば裏返しにされた触覚であるが、触角が内部化されたことによって、集中性・統一感が生まれる。漠とした体感から、食感、性の快楽に至るまで、体内での局部的欲求が身体的に統合される。この統合的快楽の中心をなしているのが、心情の快であると言ってよいだろう。
 心情は文字どおりに、心臓を中心とした快苦の感覚である。本来は肉体の快、いわゆる肉欲に奉仕する付帯現象であったものが、高等動物では比較的独立した快苦の位置を占めるようになる。愛情はすでに子を育てる動物の間では、種の保存にとって積極的な役割を果たしている。かつて、鳥の夫婦の間にも愛情があるのかどうかを確かめるために、つがいの野鳥を見つけると片端から一方を撃ち殺して、果たしてもう一方がつれの死骸のもとに戻ってくるかどうかを統計的に研究した日本の鳥類学者がいた。この乱暴な鳥類学の’ファーブル’によって野鳥にも夫婦の愛情があることが統計的に‘証明’されたのである。しかし鳥の愛情にも限界があって、鶏は鳴かないひよこがいると、我が子であっても侵入者と見なしてつつき殺すのである。
 あこがれは求愛感情から派生したのであろう。しかし空間的移動の欲求は生命にとってより根源的であると思われる。宇宙の根源である生への意志は、その現象形態として時間空間のカテゴリーを選んだ。より広く、より遠く、がいわば生への意志のモットーである。現代物理学によれば、ミクロの一点からビッグバンによって発現した宇宙は百五十億光年の彼方にまで広がっている。個の生命もまた一つのビッグバンであるから、より広く、より遠く、生への意志を拡張することがその本質的欲求である。それが心情となる以前のあこがれの本質であろう。それは小さな鳥の青空を見る目にも読み取れる欲求である。  
 心臓は第二の脳と言われることがあるように、そこでの快苦の心情は個別の感覚とは別の、またそれらと結びついた統合的印象を与えることは上に述べた。さらに脳そのものの発達と共に、強力な情動の座として定着していく。実際には、心臓を初めとした臓器感覚(それらの統合が心情であり、情念であるのだが)は、脳によるコントロールを受けており、より強力ないわゆる本能の座と密接に結びついているのであるが、高等動物、特に人間においては独立した座として意識されるのである。鳥のさえずりなどを聞いていると、単なる性感とは別物のようである。鶏の長鳴きも性的快感とは思われない。心情の快には plaisir de vivre が発現してくるのであろう。
 心情の快は肉体の快を増幅するように、心情の苦は肉体の苦を増幅する。総じて心情段階の快苦は、快苦そのものを二階建てにすることによって、生命そのものの快苦を増幅する。心がないほうが、生命は余計に苦しまなくてすむのである。禁欲主義者が肉欲を押さえるだけでなく、情念のコントロールに努めるのもそのためである。心情の快は必ずしも愛情やあこがれといった穏やかなものばかりでなく、遊戯や闘争や復讐や残酷の快といったものまでが広く含まれる。シャチが捕らえた獲物のアザラシをトコトン波間に打ち上げて遊ぶといった、生命の根源にさかのぼる残虐の快は、生物界のいたるところに見られる。
 第三の種類の快は、理知すなわち考えることの快である。この快は霊長類の中でも、たぶんチンパンジーとヒトだけに見られる特殊な快感である。この快が大脳の発達と密接に結びついていることは言うまでもない。物事に好奇心を持ち、疑問をいだき、それを考えることによって解決することに伴うある種の満足感は、チンパンジーとヒト以外の知らない快感であろう。もっともチンパンジーの思考力には限りがあり、ヒトもまた必ずしも考えるヒトばかりではない。この快を初めて意識的に強調したのは古代ギリシャの哲学者であり、知を愛する、すなわち思索を愛することが彼らのモットーであった。
 しかし、厳密にいうと脳そのものには感覚がないので、思索の快というものは多分に心情の快によっている。思索がスムーズに進む時には満足感を、滞るときには不快感を覚えるのである。思索はその不快感を克服しようとして、かえって探究心をつのらせるのである。思索そのものは快苦の原理から言ってニュートラルであるということは、思索に独自の立場を与える。もし純粋にその立場に立つことができるならば、快苦の原理を超越する可能性を与えるであろう。しかし思索はそれ自体で動くということはない。いわば単なるソフトであり、生命という装置の中に組み込まれなければ無意味である。プラトンにとっても、純粋思念の世界であるイデア界に到達するためには、エロスという思索の動力が必要であった。
 思索への意欲が心情にもとづいているということは、それによって生への意志を克服しようなどという目論見が、当初から挫折を余儀なくされていることを意味する。心情を持って心情、更には肉欲をコントロールしようということは、より強力な物が上位にある場合には可能であるが、その逆は不可能である。ショーペンハウアーの言う<意志の優位>は動かし難いのである。伝記によると、三木清という哲学者は、哲学の勉強を始める前にはいつも自ら性欲の処理をし、勉強の後には今度は奥さんの相手をしたそうである。そこから‘パスカルにおける人間の研究’や‘構想力の論理’が生まれてきたのである。ゆめゆめ‘煩悩を絶つため’に哲学研究などすべきではない。
 肉欲、心情、思索という人間にとって可能な快楽の三段階は、下部へ行くほど強力なのであり、上部の快はつねに下部の快によって妨げられ、乱され、征服される。下部の欲求を無理にでも抑圧しようとすれば、それが上部の歪んだ欲求となって噴出する。歴史においても、個人においてもその例は枚挙にいとまない。中世の魔女狩り、ナチスの残虐行為、そして個人における様々な倒錯行為、そして学問という比較的ニュートラルな領域においても、嫉妬や憎悪や陰謀の渦巻くことは良く知られた事実である。快楽を以って快楽を克服することの不可能なるゆえんである。
 宗教者は昔からこのことをよく知っていて、肉欲を克服するために、心情や思索にのがれることをしない。ひたすら快苦の原理からの超越を願うのである。肉の快を絶つばかりでなく、‘心ない身’でなければならない。さらに学に淫することを避けねばならない。知が全くなければ人間の救済はおぼつかないが、知に溺れては知に滅びる外はない。ポアンカレ予想の解が、一世紀ぶりにロシアの数学者によって解決されたそうであるが、その数学者は精神に異常をきたして失踪したとのことである。自らに大いなる犠牲を強いた結果なのであろう。
  (次回は快苦の原理の超越について考察)

2009年5月9日(土)
快楽と禁欲・その3:快苦の原理の彼岸について・イデア論(K)

 前回、快苦の原理について、禁欲主義の立場から書いてみたので、ひきつづきその立場で考察することにする。快楽は下位の快楽がより本質的であるから、他の上位の快楽でもってそれを克服しようとしても、必ず挫折することは自明と言ってもよい。もし世界が生命原理(ショーペンハウアーのいわゆる生への意志もしくは世界意志)だけでできていたならば、人間もまた他の動物たちと同じように、快楽原理に甘んじて生きるべきなのであろう。それ以外に選択の余地はないのだ。人間だけが迷妄をいだくのであろうか?
 知の快楽は一部の霊長類だけに可能な、快の可能性であると述べたが、知の対象とする世界はこの世界そのものではない。古代ギリシャの哲学者は、知の対象としての概念の世界を発見したのである。プラトンはそれをイデア界と名づけた。一見この世界とイデア界とは共通しているようである。この世界に無数にある三角形の形象は、どれも一つとして同じものはないが、すべてが三角形という抽象観念のもとに包摂される。三角形という抽象観念すなわち概念は、この世のどこにあるというわけではない。もしそれがあるといえるならば、この世とは別の世界においてである。その世界を、ひとまずプラトンのイデア界と考えてよかろう。プラトンは同時に、それを真の実在界と考え、この世をその世界の影のようなものと見なした。
 イデア界は基本的に知によってだけ到達できるのである。知によってイデア界に到達しようという意志は、単なる快の報酬を求めることではなかろう。新プラトン派のプロチノスは、生涯に二度だけ、エクスタシーの状態において、イデア界を眺めることができたと言う。ここで言うエクスタシーは原始宗教での狂躁的状態ではなく、文字どおり、おのれから抜け出す静謐な精神状態のことである。おそらくこれに対応するのが、ショーペンハウアーの言うイデアの純粋観照なのであろう。
 プラトンの世界観では、世界の創造主であるデミウルゴスは、イデアを見ながらこの世界を創造したのであった。イデアはいわばこの世界の設計図であり、ソフトのようなものである。この世界は単なる概念ではなく、マテーリエをもって創られるため、純粋ではなく、粗雑で、不完全である。けれどもそこにはイデアの影が刻印されているのである。このイデアとマテーリエの複合的世界を、マテーリエを離れて、イデアだけ取り出して純粋に直観できるならば、そこに静謐な心のエクスタシーが生じてくる。それは一時的ではあるが意志を沈静させ、快でも苦でもないアタラクシアをもたらすのである。完全なるイデアは美のイデアでもある。言いかえれば、イデアの純粋観照は美の純粋直観でもある。リチャード・ジェフリーズのケースで見てみよう。

 <いつ頃であったか忘れてしまったほど昔のこと、私は東の空が広々と見えるある場所を、毎朝訪れたものだった。寝床を出ると直ぐに、私はいく本かの楡の木立のある所へおもむいた。その場所からは、露の置いた野原の先に、そのあたりから日の昇る遠い丘が見渡せた。・・・
 私は丘を見つめ、露の置いた草を見つめ、楡の枝の間にのぞく空を見上げた。たちまち、家も人も物音も、私の背後からかき消えるようになくなり、私一人の世界になるように思われた。思わず私は息を深く吸いこんだ。それからゆっくりと息をついた。私の思い、あるいは内なる意識は、光まばゆい空をたちのぼり、私はその一瞬の心の高まりに我を忘れていた。この高揚感は非常に短い時間、おそらく一秒にも足りない間、続くにすぎなかった。それの続く間、これと定まった願いがあるわけではなかった。私はただ我を忘れていた。私は朝の美しさに見とれ、心の高まりを覚えていた。それがやんだ時、私が一瞬間味わったこの広大の気宇にふさわしい、私の存在の増大ないし拡大を願う気持ちが生じたのである。時には楡の木の梢から風が吹きとおって、細い枝がたわんだ。その枝の間から、綿雲の浮かぶ空を見上げていると、私は心の高まりを覚えた。草地の上に射して来て、露の玉に宿る光、風のそよぎ、天の高みにまで登るかの覚え、私はそれらに深いため息をついた。そうした美の中から、何らかのものを、私に賛嘆の念を抱かせたもの、名状しがたい内的本質の一部なりとも、汲みとりたいという願いであった。
 ・・・私は毎朝その場所へ出かけていったのであった。なぜそうしたのか、正確に説明ができなかった。言ってみれば、それはバラの茂みへ出かけて、花の香りを嗅ぎ、花弁に置いた露を唇にあててみるようなものであった。しかし、私が願ったのは、美という名状しがたい内的意味を、私の内面に取り入れることであった。それを所有できるようにと、それを所有することで、私がより高い存在となることができるようにと、そう願ったのである。>(「わが心の物語」第5章より)
 
 リチャード・ジェフリーズは禁欲主義者とはいえないが、まして狭義の意味での快楽主義者ともいえないが、時にニーチェを思わせるある精神性と結びついた生命主義が、ここでの考察にヒントを与える。彼の言う soul や soul-life がどのようなものであるかについては意見が分かれようが、少なくともキリスト教的霊魂観でないことだけは確かである。ここではイデア論と関連づけて、彼の内的体験の意味を探ってみる。
 イデア界は本来概念の世界であるから、直観の対象ではない。人間の思惟は概念の操作によって行われるが、概念を直観する必要はないばかりか、そもそも概念自体を直観することは原理的に不可能なのである。人間が直観できるのはすべて個物の観念であり、それらを抽象し、一般化した観念、すなわち概念はそれ自体個物の観念ではない。言ってみれば、人間の思惟はコンピューターと同じように、概念を操作するだけであって、概念の直観そのものを問わないのである。このことは数学において、何ら現実において存在しない概念(複素数など)を自在に操りうることからも明らかである。その本来直観の対象ではない概念の世界であるイデア界を直観するには、感性界の援けを借りねばならない。感性界は言うまでもなくマテーリエの世界、自然界・人間界にわたる森羅万象の世界である。先ほどのプラトンの世界観によれば、マテーリエとして発現する世界にはイデアの影が刻印されているのである。われわれが目にし、感じる世界は単なる物の世界ではない。プラトンによれば、イデアによって設計され、それぞれの個物がイデアを分有している世界なのである。思惟はそこから概念を取り出し、思考の道具とする。それに対し、感性直観は、イデアをモデルとした具体的個物の世界を作り上げる。この世界は Individuation (個別化)の原理によって個としてしか認識されえないのであるが、同時にその中に普遍概念であるイデアを含んでいるのである。
 イデア論が正しいとするならば、この世界の事物はすべて個であると同時に普遍であるということになる。個物が直観させる普遍概念すなわちイデアの影が完全に近ければ近いほど、それは美として感じられ、不完全であるほど醜として感じられるであろう。美のイデアはそれがたとえ漠とした予感に過ぎないとしても、心を浄化し、より高いものへの憧れないし希求を生み出させる。それによって生への意志は一時的に沈静され、静謐な喜びないし幸福感がわきおこってくる。これがショーペンハウアーの言うイデアの純粋直観(観照)であり、ナチュラリストのジェフリーズが体験する心の高揚感なのであろう。
 こうした純粋観照やそれに伴う心の高揚感は、青少年期に比較的起こりやすい。美と崇高の感情によって、卑俗な日常から隔絶した境地を一度でも体験するならば、それは人生における最高の瞬間として記憶され続けるであろう。たとえ荒れ狂う暴戻な生への意志によって、俗悪極まりない人生を生きたとしても。
 美の純粋直観が、一時的、つかの間の生への意志からの脱却にすぎないのは、イデアもまた本質的に生への意志の道具に過ぎないからである。食欲や性欲が求めるイデアは美ではない。蛙に知があるとすれば、蛙の求めるイデアは目の前を動くものという観念に過ぎなかろう。いかに美しく飾られた料理も、その最終目的は食欲を刺激することにある。フェロモンや生殖器に至っては、美ですらなく、単なる性行為に至らせる本能的刺激に過ぎない。イデアは肉欲に奉仕するばかりではない。それは不安や恐怖や反発すら惹き起こす。いわばネガティヴなイデアとでも言おうか。野鳥の雛は猛禽の翼のかたちをしたものを認知すると、本能的に反応して身をふせる。ある種の形をした昆虫は、理由もなく嫌悪や不安を起こさせる。要するに、動物であれ人間であれ、それらの本能的行動を認識の面から支配しているのがイデアであると言えよう。
 本能は基本的に粗雑な認識で足りるのであるから、それが必要とするイデアは不完全なもの、すなわち醜であっても充分である。完全なイデアを認識することを可能にするのは知の発展である。本能や肉欲から離れ、個物の中に直観されるイデアを純粋に知的にとらえるとき、そこに完全なるものの美的直観が予感されるのである。それはジェフリーズの言う something more (それ以上の何か) であり、決して十全に認識されうるものではなかろうが、一時的ではあれ大いなる寂滅の効果をもたらすのである。
 (次回は続けて、快苦の原理の彼岸・釈迦とニルバーナについて考察) 

2009年5月11日(月)
快楽と禁欲・その4:快苦の原理の超越・釈迦とニルヴァーナ(K)

 前回、イデアによる生への意志の克服が不十分であることを論じた。イデア界自体は普遍観念の世界であって、それが生への意志=世界意志を様々な段階でコントロールし、導くものであったとしても、それによっては意志の優位を決定的にくつがえすことはできない。それはある種の存在界ではあるが、ソクラテスやプラトンが考えたように、そこに人間の魂が入っていけるような世界ではない。人間存在の本質は、ショーペンハウアーが繰りかえし説いているように、徹頭徹尾、世界の本質そのものである生への意志である。百歩ゆずって、生への意志を離れた魂がイデア界に入ることがあったとしても、そこは数学者や論理学者の天国であり、あまり居心地の良い場所ではなかろう。
 認識を持たない絶えざる存在への衝動である世界意志にとって、イデア界は目の役割を果たしたことであろう。世界意志はマテーリエ(現代科学で言うところのビッグバン宇宙)として発現し、感性界が成立する。既に発端からして宇宙は形相(エイドス=イデア)とマテーリエからなる。量子力学が明らかにしたように、物質は二重の相を持つのである。認識を持った存在の発生と同時に、叡智界(intelligible world =理知でもってとらえる世界=イデア界)と感性界(sensible world =感覚的直観の世界=物質界)の分離が可能になる。イデア界は初めて感性界から取り出され、切り離され、独立した存在界として認識されるようになる。しかしそれは既に述べたように、生前であれ死後であれ、人間の赴くことのできない世界である。人間の有する唯一のDasein (現実存在)は、時空において個として発現している世界意志だからである。
 イデア界はドイツロマン派のモットーを借りれば、「いたるところにあってどこにもない」青い花への憧れである。憧れは心を浄化するが、それによってこの世界から救済されることはない。生への意志から解脱するためには、知情意にわたる徹底した禁欲がなされねばならない。このことを成し遂げたのが釈迦であるとされる。この点にしぼって、釈迦の修行とニルヴァーナの意味を考察してみたい。
 伝説によると、釈迦はあらゆる苦行を試した後にも、成道に至らなかった。ある時、疲労衰弱した体を癒すために、乙女からミルクのような飲み物を所望し、それによって元気づいたのちに悟りを開いたという。釈迦が禁欲を破ったことによって、同行の修行者たちは彼のもとを去ったという。
 このエピソードは、釈迦の解脱、ニルヴァーナ(寂滅=消滅させること)に関して、その境地そのものは余人には到底知りがたいのであるが、ある種の推測を可能にさせる。ニルヴァーナ(寂滅)を文字どおりに解するならば、それは生への意志の全面的否定 (gaenzliche Negation)であり、まさに超えた人である釈迦は、もはや生へのいかなる意欲も消し去っているはずである。即身成仏と言う修行法があるそうだが、修行者は土の中に埋められ、わずかに空気をとおし、生きている限りの水と食事を差し入れする穴だけが開けられている。修行者は成道するともはや水も食事も取らなくなり、そのまま土の中に埋葬される。釈迦もまた成道とともに、おのれの存在を解消されて、文字どおりに寂滅して良かったはずである。しかし彼は、この生老病死の世界に<帰還>したのである。それについての大乗の伝説はここに取り上げない。
 意志の全面的否定に至る禁欲的苦行を修正した段階で、釈迦はたぶん既にある種の悟りに達していたのかもしれない。生への意志を否定しようとする意志そのものは、本質的に生への意志そのものである人間の意志である限り、まさに生への意志そのものである。ここに根本的矛盾がある。それはショーペンハウアーが生への意志の錯誤・倒錯であると言った自殺と、どこが異なるのであるか。錯誤によっては人間は決して悟ることはできないであろう。このことを釈迦は悟ったのかもしれない。そしてこの修正によって、釈迦のニルヴァーナの根本的意味も違いを見せてくるであろう。それは無ではなく、無に帰ることでもない。言ってみれば、それは生への意志(世界の本質)を生への意志の外から眺めてみようという、大胆な発想転換なのではなかったか。
 そうして眺められた生への意志は、釈迦の目にはどのように映ったのであろうか。それはたぶんもはや全面的否定の対象となるような、何らかのものではなかったのであろう。釈迦はある意味で、ニルヴァーナに達することで、現象的には快苦のちまたであるこの世界と、本質的認識において折り合いをつけることができたのである。こうして釈迦は生老病死の世界への帰還をスムーズに成し遂げたのである。
 そうした釈迦の広めた仏教であるから、一見現世肯定的な楽天観が生まれてくるのも不思議ではない。これは禁欲主義のアイロニーというほかはない。究極の禁欲主義は、ある種の快楽主義に回帰するのである。これがまさにニーチェ言うところの仏教の衛生法と言うべきなのであろう。

 しかしながら、この禁欲主義のアイロニーにはより深い意味が隠されているようである。快楽と苦痛とは案外コインの両面のように、密接に結びついていないとも限らないのである。この世界を圧倒的に苦の世界であると見た釈迦が、快を否定し、積極的に苦に赴くことによって、この世界の超越を果たした時、彼はこの世界の裏面に回ってみたと言ってもよい。それはもとより、この現象的な快苦の様相を帯びた世界ではない。しかしながら、まさにこの世界の本質そのものであるなんらかの世界の相である。世界の本質自体を観相出来るものかどうかは、ここでは問わないとし、釈迦がもしそれを観相したとするならば、それは快苦の連続体である生老病死の世界とはまったく異なったものであってよい。それを何らかの仕方で直観した時に、釈迦はこの世界の否定から、一気に本質における肯定に転じたのである。それについての直観を一切持たない立場からは、比喩によってそれをとらえる外はない。
 生老病死という嵐に波打つ海面から、深く水底に沈潜したものの目には、平穏な水の世界が映し出される。あるいはまた、波打つ海面をはるかな高みから眺めるならば、一面の鏡のような水面が広がっているであろう。個々の現象を離れ、快苦の山と谷とが互いに重なり合う全体の見地から見るならば、世界は一つの予定調和とも映るであろう。苦しむ者は同時に楽しむ者であり、楽しむ者は苦しむ者である。苦しめるものは苦しめられるものであり、楽しませるものは、自ら楽しむものである。この本質同一性において、世界は既に救われているのである。世界はいわばおのれの足を食らう蛸のような自己完結性において現われる。食う者もおのれ、食われる者もおのれである。そしてこのような世界を現出している世界意志とは、一体どのような本質なのであるか。
 これもまた比喩としてとらえるほかはない。ニルヴァーナに達した者の目には、世界の本質は例えば、イデア界の胸に抱かれた、ほほ笑みつつまどろむ赤子の姿として映るかもしれない。これが生老病死の世界の裏面、コインの片側である。一方は阿修羅の面であり、他方は無垢なる赤子の笑みである。このイデアに抱かれた無垢なる赤子の姿を見たとき、釈迦はこの快苦の世界を厭離し、否定する欲求から解き放たれたのであろう。それが釈迦のニルヴァーナであったかもしれない。いずれにせよ、もはや世界は一面的に否定されるばかりの存在ではない。大乗の理論家によれば、色(現象界)はすなわち空であり(本質の現われ)、空はすなわち色である(本質の発現が現象界)。無眼耳鼻舌身意の世界の本質が法(ダルマ=イデア)に導かれて感性界に発現した(色)のが、この生老病死・快苦の世界である。この認識において、あらゆる存在は既に救われているのである。
 とはいえ、生老病死の世界、今日の状況に言い換えれば、戦争と、テロと、争いと、憎しみの世界を、そう簡単に容認し、肯定することはできなかろう。アウシュビッツと原爆と 9・11 を、果たして本質同一性もしくは予定調和によって肯定できるだろうか。人間に食われる牛やブタや羊や鶏は、本質において食う人間と同一であり、食う人間は食われる牛やブタや羊や鶏と本質において同一である。浜辺では漁師たちの大漁いわい、海の中では魚たちのおとむらい、この快と苦の対立を世界の本質を直観することによって解消できるであろうか。ましてや人間同士の争いにおいて、滅びるものが滅ぼすものを祝福できるであろうか。釈迦は世界の本質の相のもとにおいて、それが可能であるとするのである。阿修羅のごとき、荒ぶる神のごときこの世界は、その本質において自苦自楽の世界であり、その限りにおいて自足した神の世界なのである。苦しむものも楽しむものも、敗者も勝者も、すべてが同一の本質に帰ることによって、すべてが恕(ゆる)され、祝福されるのである。それは、基本的にクリスチャンが絶対神の名において、滅ぼされる者が滅ぼす者を恕し、祝福するのと通い合うものがあろう。
(後半追加 5・16)
(次回は全体への意志について)

2009年5月24日(日)
快楽と禁欲・その5:全体への意志

 世界の本質自体である生への意志は、時間空間の制約を持たず、因果律他のいかなるカテゴリーからも自由であるから、それを定義することは非常に困難である。それは単位ではないので一つということもできないし、部分を含まないので全体ということもできない。それは時空を超えているから、その限りでは永遠であり無限である。しかしその永遠も無限も時空の概念ではとらえられない。認識を持たない限りにおいて全知ではないが、この世界の唯一の絶大な動力である限りにおいて全能であり、絶対である。あえて定義をすれば、この世界の本質である世界意志は、活動的存在(生命)への永遠、無限の、盲目的努力である。あらゆる可能的宇宙の根源であるという意味において世界意志は絶対者であり、この宇宙の全てであるという意味においては全体者であり、唯一の実在であるという意味においては唯一者である。かりに全一者(Das Ganze und Einzige)と名づけておく。
 この世界意志がイデア界と結びついて現出しているのが、時空において個別化されたこの物質界(現象界)である。現代物理学でいう特異点が、この世界意志と物質界とのコインの両面を隔てている、文字どおりに、メタフュジークとフュジークとの分岐点である。世界意志は何よりもエネルギーとして発現する。それは物質であると同時に、力であり、エネルギーである。それはたちまち無慮無数の個物となって(個別化)、時空に分散する。一個の無形の水晶がこなごなに砕け散り、結晶の本質を保ちながら、互いに互いを映し出す世界が生まれる。
 本来個物でもなく、部分を含むわけでもない世界意志が、何ゆえに無慮無数の個物としての存在を欲するのか、その理由はともかくとして、無限に自己を分割しようという欲求がこの多種多様な世界を生み出したのである。宇宙の初発のビッグ・バンにおいて、全一者は可能な限り無数の微粒子に自己を分割し、可能な限り広く遠く、時空のかなたへ自己を分散する。 この個別化への意志はしかし絶対ではなく、すぐさま個と個の間に働く牽引力によって牽制される。ポオの宇宙論の用語を借りれば、この<反発と牽引の原理>によって、物質界には絶妙なシステムが形成されるのである。
 個物は、その本質において世界意志そのものであるから、決して部分ではなく、個であると同時に、それ自体において全体者である。この事情は、個物が、イデアの影を宿している限りにおいて普遍者であるのと同一である。個としての魂がイデアに憧れるのと同様に、個としての意志は、おのれの本質である全一者への回帰の衝動を宿しているといえよう。そこから個物どうしの間のシステムへの意志が生まれる。システムとしてのより大きな、多数からなる個物が形成される。万有引力という本質同一性に引かれて、天体のシステムが形成される。素粒子の世界では電磁気力という本質同一性に引かれて、元素が形成される。生命界では、生命という本質同一性によって、細胞や、多細胞生物が形成される。万物は世界意志(全一者)という本質同一性によって、全体としてのシステム形成に動く。全体への意志が、分散した個物の世界を秩序へと形成させるのである。
 本質同一性にもとづく限りは、個と全体とは対立することがない。生命界においては、むしろ個は全体のためにおのれを犠牲にさえする。蟻や蜜蜂の世界では、個の存在は全体のためにあり、全体が一つの個としての生命を形成する。そればかりか、細胞の世界では個は場合によっては全体のためにアポトーシス(自死)を遂げる。そうしたメカニズムが個の中に組み込まれているのである。そもそも人間を含めた生物の死が、種の存続のために仕組まれた個の中のメカニズムであることが明らかになっている。ショーペンハウアーが言うように、生命にとって類が全てであり、個は無である。言いかえれば、個は全体への意志によって徹底的に支配されているのである。
 このことから戦争の本質というものも明らかになる。人類にとって、戦争は最も徹底した全体への個の服従であり、個人の生と死は全体の生と死と同一視される。そこでは個人の意志は個人を超えた絶対的な全体の意志と合一し、全体として生き、全体として死ぬ。戦争では国家が殺し、国家が死に、王が殺し、皇帝が死に、民族が生き残り、民族が滅びるのである。個は無であり、全体が全てである。戦争という全体意志の前では、善良な市民が唯々諾々として敵を殺し、陵辱し、殺戮し、どのような理不尽な命令にも従い、死地に赴き、自爆し、特攻し、自他の命に毛ほどの価値も置かない。国家が全てであり、天皇が全てであり(*)、民族が全てであり、全体が全てであり、個人はそれらと同一でない限りは無である。これが全体への意志に支配された個の運命であり、宿命である。

(*)ある日突然、「天皇が危ない」と叫んで、戦争讃美者になった高村光太郎を思い出すとよい。

 社会や国家の本質も、基本的には戦争の本質と同一であり、それが戦争において最も明瞭に、極限において発現しているのであるといってよかろう。最初の社会は男女の結合という、有性生殖にもとづく種の本質に従った小さなグループであった。その結合を強めたのは、おそらくグループどうしの争い、すなわち原初の戦争であったのだろう。より強大な個=全体となることによって、グループの安全性が強められていった。それが種の生き残りをかけた戦略であった。国家は基本的に戦争の産物であったといってよいかもしれない。戦争において最もよく機能しうるための装置が国家である。この意味で平和国家というのは形容矛盾である。生存競争のない平和な世界には、国家は生まれないし、必要とされない。
 神観念の発生もまた、全体への意志にもとづいている。それが容易に、部族や国家の観念と結びつくことによっても、このことは見てとれる。アニミズムやアニマティズムはひとまずおき、明瞭な神観念である人格神の例をとるならば、首長や王は個であると同時に全体の意志を表象させるものであるから、それは同時に目に見えない何ものかでなければならない。そのものは個として崇拝されるのではなく、社会集団全体に関与するものとしてあがめられるのである。ファラオであれ、ダライラマであれ、全体の意志そのものを表象させるのであり、その意味で個ではなく全体者である。スターリンや毛沢東は社会主義の全体者であり、ヒトラーはその支持者にとっての全体者であり、大統領はアメリカ市民にとっての全体者であり、ヤーヴェはユダヤ民族にとっての全体者であり、アラーはイスラム教徒にとっての、イエスはキリスト教徒にとっての全体者である。宗教はもとより、全体者をいただく社会が容易に戦争にはしりやすいのは、全体への意志において本質を一にするからである。
 このように、生命の歴史はいうまでもなく、人類の歴史も、徹頭徹尾全体への意志によって支配された歴史である。そこに繁栄もあり、滅びもある、文化も、文明も、破壊も、殺戮も、一言で言えば、諸行無常がある。全体への意志は個を蹂躙して止まない。しかし個は唯々諾々として、時には嬉々として全体への意志に従うのである。場合によっては苦を甘受してまで、祖国やら、悠久の大義やら、神の栄光のためやら、党派のためやらに、身を犠牲にするのである。それはある種の禁欲主義に似て、実のところ個の全面放棄にすぎないのである。そこにある種の快感や陶酔さえ伴う、個の自己放棄なのである。苦痛や死と引きかえに、全体者とともに生きんとする、個の生命の宿命的な本質への回帰なのである。
 もし世界意志の Individuation (個別化)の意味が、単に回帰への衝動にとどまるならば、個にとってこの世界はまるで無意味な世界といってよい。そしてそのように見なす、宗教や思想や道徳は枚挙にいとまない。また人類の大多数も、全体者とともに生きることを甘受し、その運命を疑うことすらしない。しかし、果たして世界意志である全一者は、無意味に自己を個別化したのであろうか。この点を、次回つづけて考察したい。
(次回は個別化と自我の自由について)

2009年6月8日(月)
快楽と禁欲・その6:個別化と自我の自由について

 全一者は認識を持たない。全一者はそれ自体で存在し、分割されることがなく、またおのれ以外に他者を持たないのであるから、そこには一切の認識の必要が生じないのである。かりにイデア界を全一者とは別の存在とするならば、それは確かに他者ではあるが、そこでは認識そのものが問題とならない。イデア界は全一者の認識の条件なのであって、プラトンふうに言えば、全一者はイデアを用いて認識に到達する。その意味では、イデア界は全一者にとって認識の対象ではなく、単なる世界創造の道具である。世界の根源は、いわばソフトウエアーを備えたハードウエアーといってよかろう。ハードウエアーがより根源的であることは言うまでもない。
 認識は必ずしも意識=自己意識を伴う必要はない。世界意志の個別化とともに、最初に働く個と個の間の作用と反作用は、既にある種の認識といってよいだろう。近代の認識論においては、人間の意識が中心であったために、暗黙の内に認識とは意識作用であると見なされてきた。既に認識(Erkennen, cognition, perception)という言葉の中にそのことが見てとれる。個と個の間に働く作用は、個の内部に、あるいは個の状態にある相互的な変化をもたらす。この相互的な作用による変化が、認識の基本であるといってよい。これは個別化の世界でのみ可能な関係である。このような意識以前の認識を言い表わす適切な言葉は、今のところないようだ。情報という言葉がそれに近いのであるが、すなわち個物どうしが互いに情報を交換し合うのが認識であるということもできるが、意識の要素を完全に排除できないようである。ホワイトヘッドの prehension がそれを表わすようだが、あまりにも抽象的である。
 いずれにせよ、個と個の間の相互作用を認識と名づけるならば、個別化の最初の意味は認識作用にあると言える。認識のない全一者が、自己を個別化することによって認識を獲得するのである。最初の素粒子どうしの作用から、天体間の力学や、分子どうしの化学反応をへて、生命の発生から細胞間の働きにいたるまで、認識の展開、発展により、いわゆる宇宙の階層(Stufenbau)が形成されていく。その認識の発展の頂点において発現するのが、意識であり自我である。
 ここで意識という言葉を厳密に定義しておく。意識とは基本的に自己意識もしくは自己認識のことである。自己すなわち自我(ego, Ich) のないところには意識はない。逆に言って、自己=自我とは自己意識のことであり、すなわち意識そのものである。意識というも、自己=自我というも同じことである。意識とは、基本的に自己と他との関係の認識である。近代の認識論では、これを主観(Subjekt)と客観(Objekt)の関係ととらえる。しかし、ここで観と言う訳語に表わされているように、何か見るものと見られるものの関係のように考えられやすい。既に述べたように認識とは個物間の相互関係である。それが意識に到達するためには、認識の認識がなければならない。認識の一方の側が自己自身であるという意識が、常に意識には伴っていなければならない。意識は常にわたしの意識である。この意識はしかし、単なる主客の関係を超越しており、この超越こそが意識なのである。
 今、認識の関係を P1―P2 で表わすこととする。個物(particular)と個物の関係を単純化して代表させたこの関係を、P-system (認識系 Prehensile system)と呼ぶことにする。この関係は基本的に無意識の認識作用であって、宇宙のほとんどの相互作用は、単純な個体であれ、複雑な個体であれ、この関係に帰するであろう。意識が生じるためにはこの関係を認識するだけでは不充分であって、この関係の一方の側が同時に認識者でなければならない。すなわち、(P―S1)―S2  の相互関係が成立しなければならない。これを C-system (意識系)と呼ぶことにする。ここでは主観(Subjekt)が認識の外に出ており、見られるものが同時に見るるものである同一性の関係にある(この関係はいくらでも合わせ鏡のように背進することが可能である。例えば、{(P―S1)―S2}―S3)。この自己認識もしくは自己超越が意識なのである。
 ここにおいて、すなわち意識の発生において、世界意志は初めて自己に目覚めるといってよい。しかし、この自己は世界意志の本質とは何と遠いところにあることだろう。一介の個物において、しかも自己保存の働きにおいて、自我は本来発生する。いわば、自己の身体がうまく機能するかどうか、自己の身体に危険が迫っていないかどうか、自我はモニターとして常に監視していなければならない。そのようにして自己が、世界の中で、感じ、意欲し、行動し、考える存在であることを知るようになる。自我が生への意志の道具として機能している限りでは、自我はおのれ自身を考えることも、疑うこともないだろう。動物の自我を考えれば、それは明らかである。もしコンピューターやロボットに自我すなわち意識が与えられたならば、やはり同じように自身を疑うことはないだろうし、自己に有利なように働く、動物と同じく機能的な自我であるだろう。この認識のシステムの中にとらわれている自己を反省することによって、さらに高次の、真の意味での自己意識が生まれる。それは、個別化の究極の一端において、世界の本質から疎外されたおのれ自身の姿を見いだすのである。おのれの存在について知ること、意識すること、広い意味で考えることは、個の存在を不安定にし、実存的不安や恐怖におとしいれる。パスカルの有名な言葉を引いておこう。

 「人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体はなにも武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間のうえに優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。」(パスカル「パンセ」347節。松浪信三郎訳)

 個としての人間が、宇宙の中で最も弱い存在であることに気づくのも自己意識の働きであり、そのことに気づいたおのれの思考の偉大さに気づくのもまた自己意識の働きである。この悲惨と偉大の両極の間を動くのが自我である。パスカルは、意識的存在であることに、人間の最大の価値を置いているのである。「人間の偉大は、人間が自己の悲惨なことを知っている点において、偉大である。樹木は自己の悲惨なことを知らない。」(「パンセ」397節)しかしそのように偉大な意識は、常に不安定な動揺にさらされてもいるのである。無意識もしくは没意識であることが、むしろこの世界のメカニズムの基本であり、意識はそれに大した寄与をしないばかりか、むしろ妨げとさえなるのである。動物も人間も、意識がなければ苦痛はあっても、不安や、恐れということを知らないであろう。宇宙が自分を押しつぶすことを人間が知ることによって、その偉大さよりも悲惨さがよりますのである。世界と対峙した自己意識は基本的に苦悩であり、不安である。
 自己意識=自我は個別化の究極に位置することによって、全体への意志と真っ向から対立する。しかも自我のよって立つ自己自身とは、わたしの意志であり、わたしの感情であり、わたしの情念であり、わたしの考えであるところのわたしという身体=物質にほかならないのである。私の身体は基本的に全体への意志に支配されており、無意識的な牽引力によって全体への回帰へ向かって働くのである。唯一自我だけがそこに傍観者としてとり残される。もし自我がともに全体への意志にはしるならば、自我は本質同一の原理によって無意識に還元される、つまり消滅するであろう。自我は世界と対峙する前に、自己自身と対峙するのである。
 自己認識が個だけに発現する現象であることによって、意識的存在の悲惨と栄光が運命づけられていることはパスカルに見たとおりであるが、この苦悩する自我は、一方では自己放棄に向かい、他方では自我の拡張、絶対化、それによる全体者との悲壮な対決に向かう。自我は苦悩の源であることによって(苦悩とは単なる苦痛ではなく、自意識から生じる苦痛である)、大多数の人間には好ましからざるもの、放棄すべきものと見なされる(自我に苦しんだ果てに、則天去私を唱えた漱石を思うべきである)。おのれを捨て去り、全体に従うことが幸福への道であるとされ、自我は自己犠牲や、愛他主義にのがれることによって、実存的不安を解消しようとする。あるいはまた、おのれの存在を忘れさせる強烈な快楽に耽ろうとする。それは自我の自己からの逃亡である。それに対し、おのれの偉大さに目覚めた自我は、すべてを自己の拡張、増大に向けた目的に従わせるであろう。たしかに自我は全知ではない。しかしそのことを知っている。全能ではない。しかしそのことを知っている。不死不滅ではない。しかしそのことを知っている。自分が何ものであるかを知らない。しかしそのことを知っている。自意識において自我は偉大である。神にすら負けることはないであろう。
 自我を究極にまで拡大し、とぎすませることによって、自我は世界と正反対のものとなる。世界の本質である全一者は無限であり、永遠であり、全体であり、substantia であるが、自我は有限であり、現在の中にあり、個としてあり、existentia でしかない。しかし、唯一自我は全一者に対して優位の点を持つ。それはおのれが意識的存在である点である。たとえそれがいかほどのことのない優位であるとしても、それ以外に自我のよってたつ価値はないのである。かくして自我は全一者の発現であるこの物質宇宙を超えてゆく。

 「けれども、大自然はわたしを満足させはしない。海や、太陽や、宇宙空間といった、これらの巨大な事象だけでは。私の思想はこれらよりも力強いものである、と私は感じている。」(りチャード・ジェフリーズ「わが心の物語」)
 
 認識を持たない全一者が、個別化の究極において意識を持った存在を発現させたということは、最初に述べたように、個別化の理由が認識の獲得にあるとするならば、認識の最終段階への到達と考えても良いのである。しかし意識は全一者とはあまりにも正反対の存在である。このような比喩を考えると良いかもしれない。全くの暗黒である新月が、しだいに細い弓形から満ちていって、ついにその対極である満月に達するように、認識の明かりがしだいに増して、ついに没意識の対極である自意識に到達した時、コインのいまひとつの面が顔を現わしたのであると。それはこの世界が荒れ狂う阿修羅の様相を呈する半面において、イデアに抱かれた無垢なる赤子の笑みでもあるように、coincidentia oppositorum (反対の一致)の奥義によって、同一の本質によって貫かれているのである。そして宇宙を超えた自我は、世界の裏側である本質の世界をかいま見ることであろう。その時自我は思いのほかの事態を見いだすかもしれない。そこに自己自身である全一者を見いだすのである。
 あらゆる神秘主義者が、「神は私だ、私が神だ」と叫んだ時、究極の自我の奥義をそこに言い表わしているのである。

(次回は最後に、快楽と禁欲に密接な関係を持つ死について考察。これらの連続したエッセーは、ショーペンハウアーの形而上学のわたくし流の解説、もしくはそれにもとづく思索と考えて下さい。興味を持った方は「意志と表象としての世界(正・続)」に当たられると良いでしょう。―K)

2009年8月2日(日)
快楽と禁欲(7):自我と死について

 子供は全体への意志そのものである。母親の母胎の中では、完全なる合一の夢を見ている。生まれ出た途端にその夢は破られるが、自己保存の本能から、ひたすら合一への回帰に努める。子供はその知情意の要求のすべてにわたって、周囲の環境に依存しなければならない。それと合一することが、子供の安全を保障し、生存を可能にする。そこでは自我はもっぱら自己保存のために働く。一般的に言って、全体への意志に従うことが快楽を与え、それを阻止されることが苦痛を生む。全体から排除されたり、その意志を阻害されたりすることが、苦痛を生むのである。そのことによって個が孤立し、自我意識が際立つ。自我は自己保存のための機能的自我から、自己の存在を考える反省的自我へと転換する。その時自我は、この世界の中で特別な位置に立つおのれ自身を見いだすのである。
 死について考える時、それが真に問題となるのは、まさにこの反省的自我の誕生と時を同じくする。本質的に言って、全体的意志に支配されている生命にとって、死は存在しないに等しい。個は死において一見生命を失い、その有機的存在を解消されるかに見える。しかし生命にとっては類がすべてであり、個は無に等しい。無であるものが無に帰ったとて、そこには何の違いもない。生命にとって死があるとするならば、それは類の死であり、種の死であり、すなわち全体の死である。かくして、一匹の犬も、一本の木も、一個の細胞もそれが消滅したとて、その死は少しも問題にならない。ひょっとして、人類の大多数の死も同じことであるかもしれない。細胞は、それが有機体全体に不都合をもたらす時には、積極的に死に向かうよう、遺伝子によってプログラムされている(いわゆるアポトーシス)。人間を含めた動物の個の死も、遺伝子の劣化によって種に不都合をもたらさないように、あらかじめその寿命がプログラムされているのである。それは死であって死ではない。もともと全体の生のために、個の生が組み込まれているのであるから、部分の死を死ということはできないのである。私の身体の細胞は日々死んでいるが、それによって私そのものが死ぬわけではない。私にとって細胞の死は問題にならない。
 たとえ自己保存の本能によって、動物が本能的に死を恐れ、死を逃れようとする反応を示したとしても、その反応自体が種の保存のために仕組まれたメカニズムである以上、純粋に個の死の問題とはいえない。動物が生まれつき死の危険を避ける行動をとるからと言って、おのれの死について知っているわけではない。動物が知っているのは単に苦痛である。動物は死を避けるのではなく苦痛を避けるのであるといってよいかもしれない。この意味では動物には死は存在していない。しかも、実際問題としては、死は苦痛の終焉であり、場合によっては快によって代置されてしまうのである(弱肉強食の世界では、脳内麻薬物質をはじめとした死の苦痛を和らげるメカニズムが発達したに違いない)。
 人間もまた生物である限り、個としてのの死は問題とならない。生への意志は全体への意志であり、不滅であり、不死である。全体のために死ぬ人間は、常にその確信を持つている。それが不老不死への信仰となる。全体が生きることによって、個の死は死でなくなる。これは単に、生者(しょうじゃ)が死者に対してそう思うばかりでなく、死に赴くものの確信でもある。生きる者も死にゆく者も、ともに全体への意志によって支配され、包みこまれることによって、個々の生死は問題とならなくなり、全体の生へと解消されてしまうのである。個々の生死が問題とならない点では、基本的に動物や植物の生死と同様である。生命界のこの根本的な生死のあり方が、人類においても貫徹されているのである。

 それでは、生命界にとって問題でない個の死が、なぜ人間にだけ特に問題とされるのであるか。これは最初に述べたように、自我の発生と密接に結びついている。自我とは既に述べたように、全体への意志と対抗しうる原理を含んだ認識のあり方である。しかし人間の自我を考える前に、まず動物のそれを考察してみたい。
 動物の自我は、非常に狭い範囲の、主として生への意志に奉仕する道具としての、機能的自我である。しかし既に記憶の能力の発達によって、かなり明瞭な自他の意識を獲得している。それによって、自己を中心としたある広がりをもった世界を構築している。そのある意味で自己の世界の中で動物は一生を送る。その自己の見いだした世界に適応できるかどうかが、動物の個としての生のすべてである。もし適応できるならば、それは心地よい世界であり、適応できなければ苦の世界である。この自己を中心とした快苦の連続した世界の中に、動物の死もまた組み込まれている。しかしその死は圧倒的に他者の死であって、自己の死ではない。少なくとも意識されうるのは他者の死であって、自己の死ではない。この点を区別することによって、真の死の問題が明らかになる。動物が自己以外の他者の死に大いに反応することは周知の事実である。まず捕食動物であるならば、獲物を捕らえることと死を与えることとは同一である。他者の死は獲物を獲得することである。しかし、ここには死そのものが自己に直接関係を持つことがない。死は単に他者の身体的存在をおのれのものにするための一手段に過ぎない。その点では、動物は他者の死に徹底して無関心である。他者の死がおのれに直接関係するためには、他者の存在が既におのれの一部になっていなければならないのである。 一例として、小泉八雲の名文を引用する。

 「・・・私は(猫の)玉について、単に心理学的興味から書いているのである。彼女は私の椅子のそばで眠りながら、異様な鳴き声を立てている。それは私を異様な感銘に誘うのである。それは母猫が子猫に対してだけ発する鳴き声である。やわらかく震えるような甘い声、愛撫そのもののような声音である。そしてよく見ると、横向きに寝ている彼女の仕草は、何かをつかんでいる、たった今つかまえている猫の仕草である。両の前足は何かをつかむように突き出され、真珠色の爪が動いている。・・・・・・
 玉は子猫たちが死んでしまったことを、明瞭に覚えていることはできなかった。彼女は自分が子を生んだはずだということは知っていた。そこで彼女は、子猫たちが庭に埋められてからも長い間、至るところを探し回り、至るところで子を呼んで鳴いたのだ。彼女は親しい者たちに大いに訴えかけた。彼女は私にも、ありたけの茶箪笥や衣装箪笥を、くり返しくり返し開けさせ、子猫たちが家にはいないことを、彼女に確かめさせた。彼女はやっとのこと、子猫たちをこの上探すことは無駄であることを納得できた。しかし、彼女は夢の中で子猫たちと戯れている。子猫たちを甘い声で呼び寄せ、彼らに小さな幻のえものをとらえて与える。たぶん、記憶のおぼろな窓を通して、幻の草鞋(わらじ)をも彼らに運んでやる・・・」(「病理学的な Pathological 」より)

 機能的自我は、欲求と結びついた自我の働きである。自己保存と種の保存の欲求を機能的に果たしうるための、生への意志の道具としての自我である。そのために、種に属さない他の存在に対しては、単に所有と利用の関係において結びつくのでなければ、ほとんど無関心である。自我と他我との結びつきが生じてくるのは同じ種の間、特に親子の関係においてである。子の自我の欲求は、何よりも親によって庇護されることであり、子は親の自我の中に包み込まれることを願う。この消極的に他我にむかう我欲が依存心である。これに対して、親の子に対する自我の拡張が愛欲であり、他我を自我の一部としようとするのである。それによって種の保存が保障される。どちらも、一方は消極的に、他方は積極的に、生への意志=全体への意志に支配された自我のあり方である。
 八雲の文に見るように、動物にとっても人間にとっても、他者の死が問題となるのは、他者が自我の一部となっている場合、あるいは少なくともおのれの所有の一部である場合である。他者の死が苦痛であるのは、基本的に愛欲のなせる業である。愛欲とは自己の所有するものを永遠に保持していたいと願う、自我のはかない願望である。記憶の発達がこの願望に大いに寄与している。そもそも記憶とは、現に存在しなくなったものを、せめてイメージとして保持し続けようとする欲求もしくは必要から生じた機能である。それに愛欲が強く結びついてくるのは当然である。愛欲は現実であり、記憶は幻である。愛欲の対象が単に幻でしかなくなることから、他者の死の悲哀、喪失感が生じるのである。死はここでは基本的に喪失と等しい。もし愛欲が物に向かうならば、物の喪失は死と等しい悲哀を伴うであろう。もし愛欲が自己に向かうならば、自己の死の可能性は大いなるパニックを惹き起こすであろう。自己愛は自己保存の本能と結びついて、自我の死の恐怖または不安を惹き起こすのである。
 ここに、他者の死から自己の死の問題が生じてくる。自我にとって身体は、最も確実なわたしの所有である。もしその一本、もしくは一部がわたしから奪われるならば、それが不要なもの、または病変部でない限りは、それは大いなる喪失感を伴うであろう。しかしそれはまだ死ではない。わたしがいかにわたしの身体を喪失し続けたとしても、わたしの自我はいまだ残されている。身体の喪失はわたしの喪失ではない。わたしの死は単なる喪失ではないのである。それではわたしが死を恐れる時わたしは何を恐れるのであるか。他人の死においては、もし他者の自我が私の自我の一部となっていたならば、わたしは私の一部を失うことになるが、わたしの自我そのものが失われはしない。わたしの自我はわたしの死によって何かを失うのではない、ただ消滅するのである。自我はその死の可能性によって消滅と向き合う。他者の死が単に喪失であるのと、根本的な違いがここにある。
 自我は自己自身と外界への愛着を断ち、意識そのものである自己を見つめる時、反省的自我となる。そこに見いだされる意識的存在としての自我は、栄光と悲惨の間を揺れ動く実存的自我であることは、パスカルにおいて既に見たところである。自我は死において、無の深淵の前にたたされる。死において、わたしであるか、わたしでないか、有か無か、意識か空か、の瀬戸際にたたされるのである。ここにはもはや、他者に対する配慮は一切ない。死は他者の問題ではなく、ひたすらわたしの問題である。わたしは他者や他在に逃れることはできない。わたしが存在するか、わたしが存在しないか、それがすべてである。この究極の状況に堪え得なければ、人は自我を放棄し、自己喪失するほかはない。言うまでもなく、全体への意志に屈服し、他我との間に構成される共同幻想に逃れるほかはないのである。
 人類の大半はこの共同幻想の中で死を迎える。基本的に私の死は他者の死と同一である。私の死は他者の視点に立って見られるのである。その他者は家族であっても、友人であっても、世間であっても、神であっても、道徳であってもよい。私の死は、それらの者にとっての喪失であり、あるいは何らかの意味でそれらの者への影響を考慮しなければならないものである。または、逆に言って、私の死がそれらの者から考慮されなければ、私の死は全く無意味である。そして、すべての死者が赴くとされる、天国やら極楽やら祖霊の世界やらのあの世において、わたしは第二の生を生きるのである。あるいは地獄において、第二の死を願うのである。そうして人は快活に、行儀よく、大往生を遂げるのをよしとする。その典型的例を正岡子規に見てみよう。
 
 「去年の夏も過ぎて秋も半を越した頃であったが或日非常な心細い感じがして何だか呼吸がせまるようで病牀で独り煩悶していた。この時は自己の死を主観的に感じたので、あまり遠からん内に自分は死ぬるであろうという念が寸時も頭を離れなかった。こういう時には誰か来客があればよいと待っていたけれど生憎誰も来ない。厭な一昼夜を過ごしてようよう翌朝になったが矢張前日の煩悶は少しも減じないので、考えれば考える程不愉快を増すばかりであった。然るにどういうはずみであったか、この主観的の感じがフイと客観的の感じに変ってしまった。自分はもう既に死んでいるので、小さき早桶の中に入れられておる。その早桶は二人の人夫にかかれ二人の友達に守られて細い野路を北向いてスタスタと行っておる。その人等は皆脚袢草鞋(きゃはんわらじ)の出立ちでもとより荷物なんどはすこしも持っていない。一面の田は稲の穂が少し黄ばんで畦の榛の木立には百舌鳥がせわしく啼いておる。早桶は休みもしないでとうとう夜通しに歩いて翌日の昼頃にはとある村へ着いた。その村の外れに三つ四つ小さい墓の並んでいる所があってその傍に一坪許りの空地があったのを買い求めて、棺桶はその辺に据えて置いて人夫は既に穴を掘っておる。その内に付添の一人は近辺の貧乏寺へ行て和尚を連れて来る。やっと棺桶を埋(うず)めたが墓印もないので手頃の石を一つ据えてしまうと、和尚は暫しの間回向(えこう)して呉れた。その辺には野生の小さい草花が沢山咲いていて、向うの方には万珠沙華も真赤になっているのが見える。人通りもあまり無い極めて静かな痩村(やせむら)の光景である。付添の二人はその夜は寺へ泊らせて貰うて翌日も和尚と共にかたばかりの回向をした。和尚にも斎(とき)を勧めその人等も精進料理を食うて田舎のお寺の座敷に坐っている所を想像して見ると、自分はその場に居ぬけれど何だかいい感じがする。そういう工合に葬られた自分も早桶の中であまり窮屈な感じもしない。こういう風に考えて来たので今迄の煩悶は痕もなく消えてしもうて、すがすがしいええ心持になってしもうた。」(「死後」明治34年4月、現代表記に改める)

 社交人である正岡子規の実際の葬儀は、このように粗末であることを友人達が許さなかったが、死において謙虚であることもまた大往生の条件である。たとえどのように質素であっても、他者によってそれなりに葬られているおのれを想像することは、<自分はその場に居ぬけれど何だかいい感じがする>のである。これが他者の目で見た私の死の意味であり、死の共同幻想である。ここでは私は死んでいながら、いまだ消滅していないのである。他者の意識の中にいる私を想像して消滅しきれずにいる私である。それは死をも生の中へ取りこもうとする個体の生の策略であるかもしれない。しかしそれによって死の本質は見失われてしまう。
 死は他人の死ではなく、また他人の目に映った私の死でもない。死はまぎれもなく私自身の死であり、消滅である。誰もの死として一般化され、普遍化された死は、慰めとはなっても、それによって私の死の問題に取って代ることはできない。自我の死とは、たぶんショーペンハウアーが言うように、そこにおいて存在の究極の奥義が明かされる瞬間なのであるかもしれない。宗教者はその瞬間を求めて、一生修行の世界に生きる。いわば‘死にながら生きる’(「キリストのまねび」)のであるが、すべての意識的存在にとって、死の瞬間こそ唯一与えられた覚醒のチャンスなのであるかもしれない。それはいわゆる臨死体験などの幻覚とは違ったものであろう。死において最後まで自己と向き合うことによって、そこに初めて自己の本質が世界の本質と同一のものとして確信されるのであるかもしれない。自我は人として生き、神として死ぬ。これが死の究極の奥義であるかもしれない。
(一連のエッセー「快楽と禁欲」ひとまず終了です)

2009年10月24日(土)
老いと死について

 前回の記事では、死についてかなり抽象的な議論をしましたので、少し補足として、現実の死の実態について書いてみようと思います。
 死については人はあまり考えたがらない。生きていくことのほうが先決で、その終わりである死などは病気や事故などといった事情でもない限り、普通は極力考えないようにするのが人の常である。孔子もまた、いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん、などと言っている。特に若者は30歳以上の年齢すら、ぴんと来ないであろう。
 たぶん天寿を全うするなどという贅沢は、この地上の覇者である人間以外の生物には許されていないことであろう。たいていの動物には(人間のペットでない限り)、年齢に関係なく突然の死が訪れる。運良く長生きしたとしても、動物にとっては、老い=弱さはそのまま死に直結する。夏の間、昆虫たちにとって恐るべき死の罠を仕掛けていた鬼蜘蛛も、秋風の中で固まった体は鳥たちの恰好の餌食である。動物・昆虫たちは老いている暇さえなく死に直面する。人類だけが、戦争や不慮の事故のない限りは、老いの長い期間を持つことができるのである。そこで動物にはない老いという問題が、人間の死には密接に結びついてくる。
 ある種の社会では、老人と賢者のイメージが結び付けられている。ユングの祖型の中にも、老賢者のイメージが取り入れられている。たぶん狩猟・遊牧の社会では、老人は足手まといでしかないので、こうしたイメージは生まれないであろう。知識が生産にとって必要な社会、すなわち農耕社会において、知識の蓄積者である限りにおいて老人は尊敬されたのである。天変地異などに際して、あるいは自然界で営まれる生産上の知識に関して、老人は貴重なアドヴァイザーであった。
 こうした老人=賢者のイメージは、しかし現代社会では完全に崩壊している。その原因は、長すぎる老いである。現代では、人は良かれ悪しかれ老いのあらゆるプロセスを経て、死に至るのである。かつては生存不可能とされた老化の状態も、現代の医療の発達で生命だけは充分に維持されていく。こうした状態で生きつづける老人の数が増えることにより、人々がかつて抱いてきた老境に対するイメージが根本的に変わってきたのである。
 老境に対するイメージが変わったばかりではない。人間というものの根本の観念にも変革が迫られているのである。単なる肉体の衰えは、人間の<尊厳>に大して影響を与えるものではなかろう。単に下の世話が必要となっただけでは、その人の人格が失われるわけではない。人間の価値の中心を成しているものは、その人の心性であり、精神であるからである。老境の真の悲劇は、後者の崩壊が始まった時からである。
 老いの心性を表わす言葉として、<枯淡>ということが言われる。たぶん老境の実態よりも、若年期の老いのロマンチシズムが生み出した幻影であろう。徒然草や方丈記の中に、若者は思春期の暴戻なる生への意志のアンチテーゼを求めるのである。そうした文学は確かに老境の中から、あるいはむしろ老境への準備の中で生まれたものであろう。しかし真の老境はもはや自ら語ることが不可能な状態である。そこに見て取れるものは、枯淡や諦観などといった奇麗ごとではなく、ひたすらなる残された生への執着である。
 精神が衰え、心性への抑制のタガが外れてしまえば、そこに露骨に表れてくるものは、あらゆる生き物に共通し、人間においても又その本質をなしている<生への意志>の外にはないのである。老人たちは老化の事実さえ認めようとはしないであろう。彼らは‘病気’なのであり、いつかは治るという希望を捨てきれないでいる。老人に残された唯一の人間らしさ、というよりも生き物共通の欲求は、<生きたい>という願いだけである。そうした老化の最終段階における老人もまた人間であるならば、そこにもまた人間の価値や尊厳が見いだされねばならないであろう。しかし我々が普通に考える人間の価値や尊厳は、そこではまるで通用しないのである。
 そうした老化の最終段階にある老人たちを見て、特に老いに差しかかった人たちなどは、顔を背けたり、早く死ねばいいなどとつぶやいたりする。もはや死ぬだけの価値しか、そこに見て取れないかのようである。愛情をもたれない老人よりも、むしろペットの動物のほうが老いても良い面倒を見てもらえるであろう。ペットは初めから尊厳や価値などという余計なものを与えられていないだけに、生まれた時も死ぬ時も同じ存在として、最後まで愛着をもって看取られるであろう。もはや動くのは舌だけという存在になっても、その生は愛しまれるであろう。そこには生への意志への絶対の共感があるのである。
 ところが人間に限って、そうした生への意志への絶対の共感が拒まれてしまう。老いてもなお生に執着することを浅ましがったり、見苦しがったりする‘モラル’が人間社会には存在する。「年寄りには働く以外の能がない」と言い切った元首相は皮肉の名人であったろうか。社会的に無能となった老人は、もはや死ぬ以外の価値がないのである。それなのになお生きつづけることができるのは、周囲の人間の愛情による外はない。いわばペットに徹する外はないのである。
 人間は絶対的存在ではない。我々が普通に考える人間というものは、ある限られた期間にしか当てはまらないのであり、もし一生のあらゆる期間を人間に含めるならば、人間の概念そのものが変わらねばならない。最初は四足、次に二本足、最後に三本足、というのはスフィンクスのかけた謎であったが、最後に足も手も役立たない状態となっても人間はつづくのである。人間の価値や尊厳にこだわることによっては、人間は老いて救われない。尊厳や価値などを誰が愛することができよう。人間を愛することよりも、より根本的なのは生命を愛しむことである。人間は人間である前に生命であり、人間であった後にも生命はつづく。生命としての運命的共感を外にしては、人間は天寿をまっとうできないのである。

2012年5月23日(水)
肉体VS精神(その1)

 この表題は物質対精神でも良いのであるが、物質もしくは肉体と精神との対立が問題となるのは知的生命体、地球上では人類に限られているので、端的に肉体と精神の対峙と考えるのが妥当であろう。英語では同じbodyでも、身体と肉体の訳語が当てられる。日本語では心身相関などといって、身体と精神を対峙させることはあまりないので、身体は肉体とは言葉のうえで微妙な違いがあるようだ。それに対して肉体は肉欲などの言葉があるように、中立的な身体と比べて、毀誉褒貶が伴いやすい。同じbodyでありながら、日本語ではそこに何らかの道徳的評価がまといついている。精神はたしかに肉体とは対峙し、肉体を肯定するにせよ否定するにせよ、そこに絶えず対立者として意識されている。しかし精神もまたある種の肉体的要素、すなわち身体の基盤を必要としており、一概にbodyの敵なのではない。
 精神は一言で言い換えると知性もしくは理知のことである。基本的に身体は考えることはない。生命界一般にそうであるように、考える代わりに自然がすべて用を足してくれる。自然が用を足しきれない余剰として、初めて脳が発達し知性が発生した。精神は身体に寄生している限り、身体から切り離しえないのである。しかし知性は単なる身体の働きを超えて、独自の世界、観念界を生み出した。身体が専ら物質界をエレメントとするならば、精神のエレメントは観念界である。ここに精神と肉体の基本的な対立の根源がある。
 人間は基本的に90パーセントは動物である。すなわち圧倒的に肉体的存在である。食欲、性欲、種及び個体保存の欲求、群居的欲求、所有欲、権力欲、すべて肉体に関係しないものはない。あらゆる争いもまた、肉体の積極的、消極的欲求から出でざるはない。大抵の人間の人生は肉欲がすべてであると言ってよい。たとえ精神的たらんとしても、生命の要求にほとんどのエネルギーをとられてしまうであろう。精神の座である脳自体が、精神の座としては、ほんの表層を貸しているにすぎないのである。
 人は知的であればあるほど、自らの身体を異様なものに感じるであろう。特に生殖器は時に不可解である。また他人の裸の身体も、客観的に見れば見るほど異様で、時に不気味でさえある。人体に美を感じるには、自らも肉感的でなければならない。ギリシャ彫刻や仏像は、人体を肉感から解放した美ではないのかという反論がなされよう。しかしどのように肉感を逃れようとしても、肉体的人間は必ずそこに肉感を発見するであろう。たとえたった一つの曲線であろうと。
 精神的なものは物質的ではありえない。物質とは実在であり、圧倒的に存在感を示して精神の前にはだかるものである。肉体もまた物質であるかぎり、精神の前に圧倒的存在感で立ちはだかる。それに対抗するための精神の道具としては、観念の他にはないのである。知性はまず観念の道具をもって、肉体=生命に奉仕したのであるが、やがて独自の観念界を作り出す(もしくは発見する)ことによって、肉体=生命のくびきから自らを解放する道を見い出したのである。物質宇宙、肉体=生命は、たしかにそれによって克服されはしなかったが、少なくとも理解の対象となり、精神は高みから物質界の営みを眺めることができるようになった。ある意味でそれは物質界からの超越であり、プラトンがイデア界として別の世界を仮定したのももっともなことである。
 物質界とは別に精神界が独立に存在するかどうかは、ここでの問題ではない。少なくとも知的生命体、人間には精神界に向かおうとするある種の欲求が存在することは疑いえない。プラトンはそれをエロスに、プロチノスはアフロディーテに求めた。いずれにしてもそれは身体の中にあり、肉体から発していることは確かである。生命の意志のある部分が、たとえ1パーセントであっても、精神性を希求しているのである。それは心情においてはっきり表われてくる。心情は基本的に肉体と密接に結びついた、いわば肉体の欲求のシグナルといってよいものであるが、それが肉体を離れた観念界を希求することになるのである。ある意味でそれは心情の錯誤といってよいかもしれない。肉体の欲求を実現できない時、心情はその代替物を観念界に求めるのである。肉体の挫折が精神の勝利をもたらすのである。
 いずれにせよ精神界に向かう欲求、<憧れ>は肉体から流れてきたエネルギーである。その心情の働きを古人は霊魂と呼んだのである。それを肉体とは独立のものと考え、それに駕して精神界に辿りつくものと考えた。いずれにしてもこの欲求がなければ、精神は無力であり、生への意志の前に単なる道具でしかないであろう。たとえ精神界の存在を信じられないとしても、精神は肉体から独立することをやめない。肉体や生命、すなわち単に動物であることに甘んじるなら、人間ほど馬鹿げた存在はない。動物であるならば、100パーセント動物であることを禁じる必要性はないからである。90パーセント動物である所に人間の困難さがある。
 10パーセントの精神によって、人間は自らが動物であることを恥じるのである。自らの動物的営みと、決して精神を調和させることができないのである。この世界が単に物質からなるという原子論を説いたデモクリトスの書を、けがらわしいとしてプラトンが焼き払ったという伝承があるが、今ではまたデモクリトスも古代における精神界の希求者の一人に加わるであろう。物質について思索することが、多分今日において最も精神的な営みであるのかもしれない。物質=肉体を克服できなくても、それをとことん理解することによって、精神は肉体にうちかつのである。物質界はいまだ精神にとって闇の世界である。その闇を照らすのもまた肉体の余剰物である精神にほかならない。この世界に精神がどれだけの存在であるのか、それを知るのも物質を克服しての上でのことである。

2012年5月29日(火)
肉体VS精神(その2) 

 前回の項に多少補足を加えておきたい。精神すなわち理知ないし知性は、肉体に内在すると同時に、肉体を超越しようという欲求を持つことを述べた。本来肉体=生命に奉仕する道具的知性である精神が、エマソンの用語を借りれば、self-reliance(独立独行)を遂げるために、そのエネルギーを心情から借りてきているということも述べた。精神はそもそも単なる機能であり、それ自体では何らの実体でも、動力でもない。単なる機能が、なにゆえに独立を願い、またいかに独立を果たせるのか、これについては後回しとして、まず精神エネルギーの源である心情について考察したい。
 肉体そのものの感覚であるいわゆる内感については、心情ほど曖昧でつかみ所のないものはない。苦痛や快感などの感覚的要素の勝ったものは、誰もが肉体に属することを認めるであろう。それに対して、感情、情念、情緒、気分などと称されるものは、肉体内の現象でありながら、いわゆる心理に属するものとされる。これらを一括して心情と呼んでおく。ここに心臓の心の字が使われているように、心情は臓器感覚と切り離せない。感覚も心情もすべて脳の機能の現われであるが、感覚が感覚器と結びつくように、心情はなんらかの臓器と、または内感と結びついている以上、それらが肉体の生命維持に奉仕していることは疑いないのである。まさにそれらは肉体=生命と切っても切り離せない機能である。それは基本的にどのような高尚な情念であっても同様である。理知は本来このような情念を、肉体の生命維持にとって都合の良いようにコントロールする機能でもあった。例えば、あつものにこりてなますを吹く、ようなまねをするのも心情の仕業であるが、こうした心情の妄挙を矯めるのは理知である。理知は元来心情とは肉体そのものよりも深い関係にあるのである。
 真理への愛(philosophia)は理知がself-relianceに目覚めた最初の一歩であった。この愛の情念は生命にとって最も根本的な心情の一つであり、理知が自己の肉体からの独立に当たって、この性的情念を伴侶としたことは極自然であった。これをフロイトにならって性衝動の昇華と呼ぼうと呼ぶまいと、同じ根からでた情念であることに違いはない。理知は永遠の女性(男性)に憧れるように、真理に憧れる。しかし、この永遠の女性は実在界には存在せず、観念の世界に、プラトンの言う真の実在界であるイデア界にのみ存在する。そこに精神の永遠に癒されない、渇望が生まれるのである。この世で得られない女性(男性)を、あの世で得ようとするようなある種の切なさが、つねに真理への愛には伴う。それを癒すのもまた、真理の観念と密接に結びついている、美の観念である。しかしこれについては、ここでは触れない。
 先程後回しにした課題について考察する。精神が肉体から独立しようとする願いを持つ理由は、たぶん精神そのものにあるのではないだろう。自己認識の能力でもある精神が、自己と自己の投げ出されている世界とをながめた時、その不条理、その恐怖、そのおぞましさを、自らの主人である肉体的存在に告げねばならなかった。精神は自分の仕えているやっかいな主人を説得する役目を果たさねばならない。情念をコントロールし、肉欲をなだめ、この世では主人のいかなる要求も欲求も満たされない理由を説明し、ついに諦観へともたらさねばならない。この鎮まった肉体の中から、唯一声高く響く理性の機能が、心情を集結し、残された肉体の機能を支えとして、観念界への撤退(withdrawal)を開始するのである。あわよくば、宗教者が熱望するように、肉体もろともに彼方へと・・・。 

2012年6月6日(水)
精神VS無意識

 前回までに精神とは知性もしくは理知の機能であると定義した。そこで今回は、精神と意識、さらに無意識との関係を明らかにし、とりわけ無意識界が精神にとっての最大の敵であることを明らかにしたい。精神(Geist, mind, esprit)という言葉は、通常意識状態と切り離しえないものとされている。西洋語のそれが機知とか注意深さという意味と結びついているように、理知が最高に働くときには、意識もまた最高の状態にあるといってよい。そこで精神を一言で自覚的知性と名づけてよいであろう。意識すなわち自覚のない知性または理知の働きは、基本的に独立独行的な精神ではないといえる。意識は以前にも論じたように自己意識にほかならず、したがって精神的であるとは自覚的に思索することにほかならない。デカルトに帰れば、まさにcogito(われ考える)こそが精神である。Es denkt.であってはもはや精神ではない。それは肉体そのものにほかならない。
 精神の主体をIchとすれば、肉体の主体はEsである。精神のない肉体とはEsが主体として機能する存在である。Ich denkeに対してEs funktioniert sich.が対峙する。後者の働きを無意識界と呼んでよいであろう。動植物はすべてEsの支配下に生存しており、人間もまた既に述べたように90%はEsの支配下に存在している。肉体プロパーの機能はほとんど無意識に進行しており、それに対して精神は何ら干渉する必要も権利もないであろう。誰も自ら心臓を動かす労をとろうなどとは、いかな精神主義者でも思わないであろう。精神にとってより関心の向かうのは、心情の領域および思考の領域におけるEsの働き、または干渉のありかたである。
 精神はフロイトが探究したように、心情や意欲をコントロールするだけでなく、それを無意識界に追放(verdraengen)する。Ich denke の世界から自分にとって不都合な情念や欲求を、一時的にかまたは恒久的に排除するのである。しかしそれらの追放された心情は無意識界においてEs のもとで機能しつづける。それは思いがけない時に顔をのぞかせ、精神にとっては最もやっかいな敵となるのである。精神は単に心情をコントロールするだけでなく、必要な場合はいかにそれを巧妙に排除するかを考えねばならない。ただ単なる抑圧であってはフロイトが明らかにしたように精神疾患を招くだけである。精神の無力が心情から生まれた心情の病を放置することにより、精神自体の崩壊を招くのである。しかし精神健康に取って基本的な能力が備わっている。それは多かれ少なかれ誰もが本能的に行う忘却の能力である。ニーチェの用語を借りれば、自己忘却の能力(Das Vermoegen sich vergessen zu koennen)が精神健康にとって必要なのである。それは単なる排除や抑圧によって行うのではなく、理知による理由づけが必要である。精神はより良い心情を伴侶とすることにより、悪しき心情を退散させねばならない。悪霊となった心情の亡霊を、より高い精神によって鎮魂しなければならない。 この無意識界からの心情の報復を心の幽霊と名づけておく。四谷怪談が日本人にとってこの上なく怖いのは、この心の幽霊を象徴しているからである。
 心の幽霊は精神を狂わせるだけであるが、肉体の欲求いわゆる肉欲は精神を貶める。精神によって無意識界に追放された肉欲は、その憎しみを精神に対して燃やす。肉欲は精神を貶めることでさらに肉欲をかきたてる。肉体が精神を踏みにじる”破戒”こそが肉欲の最高の表現となる。こうしたことは極端な精神主義においては常に見られることである。精神は肉欲に対して適度な敗北を認めなければならない。ソクラテスも、孔子も、ブッダもそれを中庸と婉曲になづけた。そもそも肉体などに宿った精神は、高い宿賃を要求されてもしかたないのである。精神は肉欲を無意識界などに追放せずに、時には食卓に招いて歓待せねばならない。
 思考のある部分が無意識に行われていることは誰しも気づいている。特に機械的計算などはその傾向が強い。そもそも思考に意識が伴う必然性はないといってよい。たまたま意識と結びついた反省的思考が精神と呼ばれるにすぎない。思考の働きそのものは本来無意識に行われ、意識を必要としない。これは動物の思考において、ひょっとして生命界一般にわたって言えることかもしれない。あたかも自然界が考えているかのように思われるのも、そのためであるかもしれない。思考に意識が必要であるという先入見が、自然界をゆがめて理解させているのであるかもしれない。そうであるならば、精神は思考に関して大いに無意識界に依存していることになる。それは大部分は恩恵だろう。発明や発見などのひらめきや、計算力など、その例である。
 しかしまた、思考もまた無意識界に依存しているとなると、必ずしも良い影響とばかりはいえない。無意識界が観念連合を支配することによって、正しい思索をゆがめてしまう事態も多々あるであろう。偏見や奇説が生まれるのはそのためである。精神は誤りない知性=理性であるためには、自らの思索に常に反省の目を向けていなければならない。心情や意志から来る無意識の偏見に陥らないように、常におのれの中の闇に注意を注いでいなければならない。
 無意識界が精神及びそれを支えている自我に対して及ぼす影響は、以上にスケッチしただけではとても尽くせないが、精神にとっての最大の敵である点は強調できたと思う。無意識界は一言で言うと肉体の闇であり、肉体の本質である物質の闇である。肉体=物質については、理知はまだそのほんの一部しか理解していない。いわば精神は物質界に知らずしてコントロールされているのである。かつて唯物論者が精神を脳の分泌物のように考えていたが、少なくとも精神は知らずして肉体=物質の傀儡であったといえる。物質は精神が考えているほど物質的なのではない。むしろ極めて精神に類似しているといえよう。物質が無意識界に属するために、精神はそのことに気づかずにいるのである。しかし精神に最も近い物質である肉体がそのことを教えてくれるのである。物質界が作り出した最も精緻な器械である脳がそのことを教えてくれる。精神が無意識界と向き合うことは物質界の本質と向き合うことである。それによって超常現象も理解できるのであるが、これについて論じるのは控える。
(次回は精神と自我について)

2012年7月13日(金)
精神と自我

 前回までは精神と肉体の関係を、相関関係ではなく対立関係において考察した。肉体=物質は精神にとって闇であり、現代物理学においても、物質は漸くその10%の存在が知られたに過ぎないという。その最新の発見であるヒッグズ粒子にしても、それによって重力の正体が明らかにされたとはいえ、宇宙の物質の90%をしめるダークマターの末端を占めているに過ぎない。ネオプラトニズムふうに言えば、精神から最も遠いところにある物質の探究においては、ひとまず見通しがついたということであろうか。かつて光速で走り回っていたという素粒子の世界は、より精神に近かったであろう。ヒッグズ粒子という納豆のようなものに捉えられて、物質は鈍重化したのである。物理学が客観的に観察する物質の世界を、精神は同時に肉体において直接的に観察することが出来る。そしてそれもまた氷山の一角であることを無意識心理学は明らかにした。精神はいわば肉体の中のダークマターに直面したのである。精神が本質において思索する存在(cogito)である限り、精神は物質とも肉体とも相容れない。精神はひたすら物質を観念化、対象化する働きであるほかはない。
 そうした精神が何故に、あるいはどのように、物質=肉体と関わることができるのか。その媒体として先に心情について考察したのであるが、ここでは一歩進めて、心情が肉体と精神を結びつけることができるための共通の要素として、自我について探究したい。コンディヤックは「感覚論」において、仮想の人体に徐々に単純な感覚を与えていくという思考実験を行っている。例えば何ら感覚を働かせたことのないtabula rasa としての心に赤の感覚を与えると、その人の心は赤そのものの感覚にすぎないとされる。しかしこの説は意識をあまりにも単純化している。感覚そのものである心などは存在しないのである。感覚が意識されると同時に、私の意識が発生する。私の意識のないところには意識どころか感覚も存在しない。
 認識が無意識に行われうることは既に述べた。認識という言葉自体が既に誤解を招くが、ほかによい言葉がない。物質はある意味で理性的であって、さもなければ精神は物質を理解することが出来ないであろう。物質界の理性、プラトンはこれをイデア界の影と見なしたが、これと精神との違いは、単に精神が意識を持つという違いにすぎない。意識を持つとはすなわち、精神が自我によって支えられているということである。
 しかし自我そのものは精神と同一ではない。この点を考察していく。コンディヤックふうに言えば、人体に最初に宿る意識は感覚と同時に生じる私の意識である。そして最初に意識される感覚は、非常に漠とした気分のようなもの、または快もしくは苦の感覚であろう。私の意識には、通常、快もしくは苦が生じない限りは、通奏低音のような<気分>(Stimmung) が流れている。こうした気分もしくは情感 (Gefuehl) は、私のものであるという感覚的直知でもって私の意識を支えている。気分であれ情感であれ、あらゆる心情は肉体の状態または要求のシグナルであると述べたが、ここでの自我は肉体と密接に結びついた自我である。幼少年期の自我は、この肉体的自我を出でない。肉体的自我は、快と苦の感覚において一層強烈に意識される。快を求め、苦を避けるという、個にとって有利であることが、自己の意識を高めるのである。
 自我は本質的に個に固有の意識である。その個体以外には何の利害関係も持っていない。ここから自我意識に特有の唯一無二性の意識が生まれる。個である限り、もしそれが意識を持つならば、その意識は唯一無二である。世界意志、もしくは全一者の本質は、そのIndividuation においても失われることはなく、あらゆる個物は全一者の絶対性を反映している。私の意識が唯一無二であり、絶対であるのはその故である。しかも、ライプニッツの言い回しを借りれば、<モナドには窓がない>のであり、私の意識が他の意識と混同されることはない。
 それにしても、私の身体は無数の身体、無数の個物の中の一つに過ぎず、非常に危うく、不安定なものであり、そこにとどまる限り、私の唯一無二性、絶対性とは相容れない。自我は徐々にそのことに気づき、肉体的自我の上に、反省的自我を築きあげる。本来気分と結びついていた自我は、思索と結びつくようになる。そこに自我は精神を見い出すのである。この過程を感覚との関係において、自我の客観化と名づけてよいであろう。始原的感覚である触覚、味覚、嗅覚においては、自我は客体との間に明瞭な区別を立てられない。私の手が触れる椅子の腕木の堅い感覚のどこまでが木のもので、どこまでが私のものか、私は明瞭にしえない。心情もまたすべて、どこまでが臓器感覚であり、どこまでが私の“心”であるのかはっきりしない。聴覚は時に曖昧であるが、大抵は外からやって来た音であることがはっきり分かる。最も明瞭に客観化された感覚は視覚である。視覚において、世界は私と私でないものとにはっきり分かれる。世界は視覚において決定的に観念化する。すなわち私にとっての表象となる。しかし視覚もまた感覚の直接性を完全には失ってはいないことは、暗夜に距離感を失ったときに、光が眼に張り付いてくることによって知られる。いずれにしても、主体と客体が明瞭に分離しうるのは、視覚もしくは聴覚の発達を待つのである。
 この主客の分離した世界が、世界を観念として思索することを可能にする。観念(idea)ないし表象(Vorstellung)とは、世界が私の対象として現われていることである。私のないところには、観念も思索もないのである。対象が私から離れていればいるほど、私は対象を客観的に思索しうる。具体物よりも抽象物が、質よりも量が思索しやすいのはそのためである。自然科学が量と数に万物を還元しようとするのも、その現われである。その意味で自然科学は、そしてそれによって理解された世界は、私から最も遠いところにある。それに対して、具体物や、感覚または意識の質は、私に近いところ、または私と共にあり、私はそれらについてよく知っており、それらとなじんではいても、それらを“理解”することが出来ないのである。私は私の中にとどまっている限り、私自身について知ることができないのである。そのことを反省する時、私は私自身を不可解な存在として見い出すのである。
 感覚は観念として対象化できても、感覚そのものはつねに私と共にある。そのことは最も客観的な感覚である視覚においても例外ではない。色彩をとってみても、それは必ず何らかの気分と結びついている。そしてこの気分こそが身体的自我のありかなのである。色彩は客観的観念としては、可視光線の波動に過ぎない。これが色彩の数量的本質である。しかし意識は全く別の対象をそこに見ている。私の見ている青は意識そのものであり、私の存在と切り離すことができない。もしあえて切り離すならば、それは宇宙のどこにも居場所がなくなる。それに対して可視光線の波動は私の存在を必要としない。それは宇宙のいたるところにある。しかし青の色彩はつねに私と共にある。これが感覚の質の本質である。
 このように自我は意識の直接性によって支えられている。それ故に客体とは本質的に異なった存在なのである。自我はいかに客観化を進めても、私そのものを単なる記号として客体化することはできない。つねに私の意識という剰余が残る。自我が理性と結びつき、すなわち精神化するときも、頭脳化した自我はやはり私の意識を離れられない。しかし理性化した自我は、もはや気分とは違った脳のかすかな感覚の中に浸っている。そしてそこから気分の中にある身体的自我を見下ろしている。この二重の自我は同一の自我でありながら、別のエレメント、一方は感覚的生命の中に、他方は観念的超越界に、その存在の基盤をおいている。この二重の自我は流動的であり、下降と上昇を絶えずくり返している。
 しかし一方の極は動物化であり、他方の極は自我の対象からの純化であってみれば、自我の進むべき道は明らかである。確かに感覚と結びついた自我は濃厚であり、時には盲目なほどの我欲にはしるのではあるが、それは生命の自己保存の道具としての自我に過ぎない。自我のself-reliance(独立独行)を遂げるには、生命からある程度の距離をおき、理性と結びついて反省的自我となるほかはないのである。

2012年9月4日(火)
自我と世界(1)

 私が私であることは、意識の疑いようのない事実であり、そのこと自体を確信するためには何の根拠(Grund)も、根拠付け(Begruendung)もいらない。この点において自我意識はごく特殊な存在者であり、他の存在や存在物が根拠を必要とする点において、依存的であるのとは根本的に異なっている。絶対者である神でさえも、中世においては存在の証明が必要とみなされたのであるから。神についてはいざ知らず、この世界のすべての存在、存在物は、自己以外の何らかの他の存在を根拠として必要とする。それが論理的根拠であれ、因果律であれ、何らかの概念の関係、時空の関係、作用被作用の関係、の中に埋めこまれているのである。それらの関係によって、世界の<理解>が可能になる。理解とは事物間、または事象間の関係の認識にほかならない。しかし私は私自身についてそのように理解するのではない。私はただ私がわたしであることを知るのみである。
 フィヒテは聖書にならってIch bin der ich bin.と同語反復のような言い方でそのことを表わしている。言語的にはほとんど意味のないものになってしまうのは、言語もまた関係的に世界を捉える一つの方法であるからだ。主観と主語とは基本的に同じものであり(どちらも英語ではsubjectである),ショーペンハウアーが言うように、客観のないところには主観はなく、主観のないところに客観はない。こうした意味での私、すなわち主観=主語としての私は関係的な私であり、この私の意識そのものではない。こうした主観=主語としての私を、<認識論的私>と名づけておく。認識論的私は、カントの用語を用いれば、統覚(Aperzeption)として経験の先験的綜合的統一を行う。その意味で先験的自我(Das transzendentale Ich)と名づけて良いであろう。しかしそうした先験的自我は、私固有のものではなく、いわば自我一般といったような、中身のない抽象概念に化けてしまう。そうした私は、この唯一無二である私とは別の概念的で、しかも関係的な存在なのである。
 いかなる根拠も関係も持たない、唯一無二である私の意識の存在を、超越的私または超越的自我(Das transzendente Ich)と名づけておく。その存在が、この世界に内在しながら、この世界から何ら存在の根拠を与えられていないという意味において、自我は超越的なのである。デカルトもまた自我のこの超越性に気づいていたので、無理やり神によって根拠づける他はなかったのである。あらゆる独我論の根拠は、この自我の超越性にある。しかし自我はこの世界と無関係であるからには、この世界の創造者ではない。唯一絶対の存在でありながら、この関係的世界の中に存在しているという、自我の悲劇性がそこに明らかになるだけである。
 唯一無二で絶対の存在である私が、何ゆえにこの関係的世界の中に投げ出されているのか、この問い自体が既に根拠を問うているのであるから、何らの根拠も根拠づけも必要としない私にとっては、理解が不能であり、また理解が必要ともされない。この意味で私は私であることで充分に満足なのである。私が存在すること以上に、この世に勝ることはないのだ。神ですら必要ない。神秘主義者の言葉を借りれば、<私が神なのである>。
 しかし現実に、自我はこの世に生まれることによって苦しみの一生を送る。なぜであるか。自我が関係的世界に関係する限りにおいて、この問いには意味がある。超越的自我は、認識論的自我として、この世界に関与する。苦しむのは自我そのものではなく、自我によって認識された個としての生命であり、身体としての私である。生命界の苦悩を、私は私の苦悩として引き受けるのである。私は世界内存在として受肉し、この世界の生と死を体験するのである。このアレゴリーは言うまでもなくキリスト教のドグマとなっている。
 あらゆる苦悩は、自我が自己の本性である超越的自我に帰ることによって解消される。根拠や関係によるあらゆる理解を超えた、自我の唯一無二性、絶対性の意識に帰ることによって、自我は生命界の苦悩から解き放たれる。そこには代わっておのれが存在することへの静謐な歓びと、不可解ではあるが存在の不滅への確信がわきおこることであろう。それによって生への意志を鎮め、万物の悲劇に対して、寛容な気持ちにさえなれるであろう。これに関して、次回はさらに自我と他者との関係を究明したい。

2012年9月6日(木)
自我と世界(2)

 自我は本来唯一無二で、絶対の存在者でありながら、この世界に先験的自我として関与することにより、この世界の個物と運命を共にすることは前回述べたところである。先験的自我は、カントにならえば、それ自体としては内容のない空虚な概念であり、感性界に適用されることによって、初めて意味のある存在となる。すなわち個物として、肉体としての自我を、私は誕生とともに見い出すのである。それにしても、本来この世界とは異質な存在である自我が、何故にこの世界に関与を強いられるのであるか。これはギリシャ哲学以来の、根本の問題であった。
 初めてこの問題を問いかけたプラトン(もしくはソクラテス)は、二世界論を展開した。何らかの理由で、魂はこの物質界に転落し、肉体を持った存在として不自由な生活を余儀なくされる。魂は肉体を離れることによって(死もしくはエクスタシーによって)、本来存在すべき魂の世界=イデア界へと帰還する。この考えはキリスト教に受け継がれ、長く西洋思想を支配した。キリスト教では人類の罪の意識(原罪)がこれにつけ加わる。優れた世界から劣った世界へ移行することは、そこには何らかの懲罰が類推される。仏教ではこれを因縁と説く。結果は原因から推理されるのである。しかし超越的存在である自我には、こうした関係的観念は無縁であることは既に説いたところである。
 自我がこの世界に関与する理由は、自我の側にはなく、この世界の側にあるとみるべきであろう。それにはまずこの世界の本質を探究しなければならない。世界意志がこの世界を創造するに当たって、全一者である意志は、それ自体では全体であり、不可分であり、時空を超越している。それが世界として発現するためには、時空におけるIndividuation(個別化)をとげなければならない。無慮無数の個物となった全一者は、それぞれの個物が全一者の全体性、絶対性を内にはらんでいる。と同時に本来の全一者に帰還しようとする、<全体への意志>をも秘めている。これを物理的に、ビッグバン宇宙のプロセスでもって比喩的に説明することも可能であるが、ここではMetaphysikにとどまることとする。
 個別化によって個物となった全一者は、その時点で既にある種の自我であるといってよい。これは自我とは私の意識であるという定義と反するようである。素粒子や原子に意識があるのかという、もっともな反論がなされよう。先験的自我が個と結びついていることは疑いようがない。個物または個としての存在が、先験的自我によって時空における定点を与えられることは、この世界の根本の条件であるといってよかろう。この意味で、あらゆる個物は、世界意志のIndividuationにおいて、先験的自我の萌芽を与えられたといってよい。ライプニッツはモナド論で、これを微小知覚と呼んでいる。
 個物が既に自我の条件を内に秘めているのであれば、世界意志の段階的発展において、認識の発生と同時に、本来の意味での自我すなわち自己意識が自然発生したとしても何の不思議もない。しかし、もともと全一者である世界意志が、一体どこからIndividuationの原理や、意識化にまでいたる自我をおのれの中に取りこんだのであろうか。創造への盲目の衝動であるに過ぎない全一者が、おのれの中にそれらの原理、もしくは存在者を含んでいたといえるであろうか。プラトンに返れば、全一者はイデア界のモデルに従ってこの世界を創造したのであり、同様に考えれば、全一者は超越的自我を先験的自我としておのれの中に取りこんだのである。この世界はいわば、世界意志=全一者とイデア界と超越的自我との三者からなるDreieinigkeit(三一存在)なのである。これをキリスト教のドグマで言えば、父(創造者=世界意志)と子(自我)と聖霊(イデア界)にあたるであろう。何故にキリストはこの世界で受難に会い、苦しまねばならなかったか、それはこの世界での自我そのものの宿命である。
 自我は生命から誕生するのではない。聖霊とともにこの世界に個として宿るのである。これが無垢なる懐胎の秘儀である。母なるマリアは、被造物として見られた世界意志である。世界意志によって懐胎された自我は、個として世界意志と一体化する。世界意志のあらゆる衝動、意欲、情動、情念をおのれのものとして生きなければならない。この盲目的な暗い力を、自我は自らに課せられた宿命としてになわねばならない。その際聖霊である理性界の光が、自我の本来の進むべき道を照らし出す。荒ぶる神は、理性の光によって自らの超越性に目覚めた自我により、鎮魂され、寂滅へともたらされる。この意味において、自我=キリストは世界を救済するのである。
 しかし議論を少し先取りしすぎたようである。世界意志の寂滅は形而上学の究極の課題であり、形而上学の最高の実践である。その前にこの世界での自我の苦悩と、悲惨と栄光についてさらに詳しく見てゆかねばならない。(つづく)

2012年9月10日(月)
自我と世界(3)

 世界創造の低次の段階では、萌芽的な自我が世界に影響することはほとんどないだろう。そこでは個物の発生と消滅は物理的に決定される。物理的な力は数学的精密さで予測可能である。ここでは単にIndividuumとしての存在があるだけで、それは認識論的には単なる条件に過ぎない。一個のモナドとしての素粒子や原子は、その最も微小な知覚において、物理的な力やエネルギーと同一であろう。認識らしい認識、それも意識を伴わない認識が発生するのは生命界においてである。既に個物は複雑な有機的集合をなしている。細胞間を統合する神経系の発達によって、さらに強力な自我の場が発生する。生命の大部分の段階では、意識はまだ余剰物である。自我の先験的統一が無意識の認識をつかさどる。一見目的的であるかのような、動植物の進化の方向は、先験的自我による無意識の認識に関係しているであろう。
 一個のモナドとしての個物は、全体への意志によって他の個物と結合し、複雑な集団を形成し、上位の個を成立させる。個が個として成立するためには、自我による先験的統一がなされねばならないが、まさに複合的な個物においてこそ、この原理が強力に働いていなければならない。動植物界においては、この個物の統合の原理は、単に個体そのものばかりでなく、他の個体との集合、すなわち種および個体を取り巻く環境そのものにも及んでいる。その意味では、動植物は個でありながら個としては存在していないともいえる。種および環境がすべてであり、個は無に等しい。われわれが動植物を食べるとき、個を問題にしないのはそのためである。常に美味な<種>が問題になるのである。種および環境にまで及ぶ動植物の自我が曖昧であることから、かえって進化にとって好都合な条件が生まれる。個すなわち種は、環境に非常に適応しやすく、環境の変化に応じて変化しやすくなるのである。環境までも自我の先験的統一に引き入れることによって、一見合目的的な種の変化が生じるのである。
 神経系の発達は、自我の環境からの独立を進める。自己保存の能力が増すことによって、環境に全面的に依存することがなくなる。動物は適した環境へと移動する能力を獲得するのである。しかし、いまだ種からの独立を果たすことができないために、個は種の中に埋没して、種の本能に操られるままに、全体への意志に奉仕するほかはない。いわば生への意志の道具としての、隷属的自我であるほかはない。けれどもこの隷属的自我であっても、上位の動物、特に人間においては、極めて強力な自我を形成する。とりわけこのような自我が集団を形成する場合は、集団的自我が全体への意志を体現することによって、強力な種の防衛、あるいは暴力的な破壊の力となって、生命界および人類史において猛威をふるっていることは、誰しも知るところである。
 神経系が最高度に発達した人類においても、自我が依然として生への意志、とりわけ全体への意志に隷属していることは以上述べたとおりであるが、環境からの独立、種からの独立を究極的に果たす条件は既に与えられている。反省的自我の誕生がそれである。古代より連綿としてつづく、哲学および宗教における遁世の思想において究極の自我への探究がなされてきた。真の個は自我への反省によって見いだされるほかはない。この発見と同時に、自我は世界から解放され、種の本能から独立し、全体への意志を超克する。それによって自我はおのれが唯一者(Der Einzige)であること、絶対に充足した存在であることを知る。自我はおのれ以外の何ものをも必要としないのである。その意味で絶対者である。ジェフリーズの言うとおり、<私は私であるためにはこの宇宙を必要としない>のである。
  *     *     *
 最後に説き残した、自我と他者(他我)との関係を論じる。これまでに論じたところから、すでに明らかなように、個物としての自我は容易に他の個物と結合し、個物の集合である上位の自我の中に埋没する。この段階での自我は相対的であり、いわば交換可能な自我に身を落としている。ライプニッツの<裸のモナド>に譬えられるであろう、いわば微小自我である。自我と他我との間には明瞭な区別がない。自我の優位が種の保存にとって意味を持つ段階で、初めて自我は他我との間に明瞭な区別を認める。雄どうしの闘い、優れた個体を選ぼうとする雌の選択、などにおいて、自我は他者との違いを初めて認識する。ここに自己意識の萌芽がきざし、本来の意味の統覚が発生する。しかしここでは生命に隷属する自我であるから、他我はおのれに対抗するライヴァルとしての個体である。自我は相対的自我であることを免れないばかりか、種や集団といった上位の自我の前に容易に埋没してしまう。韓国ドラマに譬えれば、陰謀をめぐらす重臣たちの権力欲むき出しの争いも、王の前では哀れっぽい歎願に変わるようなものである。
 自我が相対的自我であることをやめ、反省的自我としておのれに目覚めることによって、初めて他我は他者としての個体となる。自我はもはや先験的自我でも、文法的自我でもない。主観対客観としての私でも、you and I としての私でもない。そのような私からみられた他我は、単なる表象(representation)であり,客体(object)である。私だけが実在であり、唯一確実な存在者である。先験的自我の対象としての<あなた>は私の身体と同じ身体として向き合っている個としての世界意志であり、その傀儡であり、私もまた世界意志の意のままに動かされる限りは<あなた>と同じ本質を共有している。その限りでは、私は<あなた>と共感し、ともにこの生命の苦、世界苦(Weltschmerz)を mitleiden することであろう。しかし私の真の本質はこの世界にではなく、私自身にある。その時私は私以外の存在を見い出すことができない。私は唯一無二であり、すべてである。<あなた>はそこにはいない。もしかしたら私の中にいるのでない限りは・・・

2012年9月17日(月)
人はなぜ苦しむのか(その1)

 今日からnewねころぐとなりましたが、内容は相変わらずの管理人の独白です。単にホームページの整理の都合です。というわけで、今日もプライベートな日記風の思索になります。<秋風や、まく人のなき種集め>
     *       *       *
 この世界の本質が、存在=生命への盲目の衝動である世界意志であることは、ショ-ペンハウアーの形而上学に依拠して、何度も説いたところである。この世界意志はIndividuation(個別化)によって、個の存在の中に内在し、個体的生命として発現していることも述べた。しかし個としての存在=生命もまた世界意志そのものであり、その全体性・超越性を失ってはいない。我々自身が暴戻なる宇宙意志そのものである。宇宙意志の本体は、仏教で言う渇望=愛=貪そのものであり、ドイツ語のBegehren、Begierdeが響きにおいて最もよくこの存在への渇望を表わしている。世界意志の存在への衝動(Drang)が盲目(blind)であるということは、ショ-ペンハウアーの意味するところでは、erkenntnislosと同義であるから、認識を持たないと考えればよい。これは仏教の無明=癡愚にあたる。意志そのものは存在への闇雲な衝動である。これがこの世界のあらゆる苦の根源である。世界意志は認識を獲得することによって、初めておのれが創りだした世界を見渡すことが可能になるのである。ペルセウスが訪ねた三姉妹のように、認識という目玉を交換し合うことによって、世界意志は世界を知るのである。
 現実的存在への闇雲な衝動は、また個としての人間の本質である。世界意志はおのれの全体性、無限性、絶対性によって突き動かされた力であるから、その個における表れにおいても、その欲望は無際限であり、絶対的である。しかしそれが個という制約を与えられることによって、その本来無際限であるはずの欲望はせきとめられ、抵抗に会い、敵を持つことになる。この個における世界意志の欲望のゆがみが、個体のあらゆる苦痛・苦悩を生み出すのである。世界意志そのものの生成・発現は、本来苦である必要はない。苦であるとも快であるとも言うことはできないであろう。ニーチェの言う無垢なる生成がそこに行われるのであるかもしれない。
 しかし世界意志がその発現においてIndividuationという形式を取ったことが、この世界を地獄の相にしているのである。個と化した世界意志どうしが争い合い、食らい合い、征服し合い、宇宙意志が自らを寂滅に到らせるまでは、果てしない闘争と苦の世界を展開するのである。このような現実世界の有様を見て、認識者である限り絶望にかられないものは少ないであろう。それにも拘らず、生命の無限の力はそうした精神的絶望をも押し流してしまう。ドストエフスキーが言うように、人間はどのような絶望的、悲惨な状況にあっても、やはり生きようとする意欲を失っていないのである。これは基本的に動物においても同じであるかもしれない。だからこそ、最後の瞬間において生への意志(少なくともその意識を)を麻痺させる脳内麻薬物質が分泌されるのである。
 生への意志の基本的な楽天主義はどこから生まれるのであるか。生自体は絶対的な存在の肯定であって、それ以外に本質はないのである。それを否定することは自己矛盾である。生自体においてはそれはなし得ない。苦は逆に生への意志を高める契機とさえなる。闘争と苦こそがまさに生への意志にふさわしいあり方なのである。生命界いたるところに見られる、生存競争、残虐への嗜好、征服欲、一言で言って、<力への意志>がまさに個体的世界意志の本質なのである。
 この<力への意志>は、個体の生存能力を高めるばかりではない、<全体への意志>と結び付くことによって、種の持続能力をも高めるのである。力のヒエラルヒーによって、征服された個は、より上位の個に服従する。下位の個は上位の個と自己を一体化することによって、より大きな力にあずかろうとする。一見平和の原理のようであるが、<全体への意志>は無限の欲望であるから、次々に他の個を攻撃し、征服することをやめない。個人は集団に、国家に、おのれの存在を託し、それらの力にあずかろうとし、個の意志を集めた国家は他の国家を攻撃し、征服しようとする。かりに人類が一つの国家にまとまったとしても、次には征服者として宇宙に乗り出すであろう。宇宙において同じ争いを繰り返すことであろう。
 <全体への意志>への服従は一見個の意志の滅却であり、苦の克服であるかのように錯覚されるが、実は拡大された生への意志であり、個体が個体自身のコントロールを失うことによって、さらに暴戻な力となりかねないのである。中国・日本・韓国の針小棒大な領土争いに、このことが明瞭に見てとれるであろう。個は全体への意志に呑みこまれることによって、個としての自覚も、個としての自律性も失い、無責任な残虐暴戻な本能そのものとなる。まさに<愛国無罪>なのである。この言葉が当てはまるのは中国ばかりではないであろう。
 世界苦の真の克服は、生への意志そのものによってはなしえない。この現実世界は世界意志とイデア界と超越的自我との三一体(Dreieinigkeit, trinity)の発現であるとはすでに述べた。イデア界についてはひとまずおき、自我と世界苦からの救済についてここで再度考察する。力への意志、全体への意志は身体的、動物的自我の拡大として意識される。もし全体主義や、国家主義に何らかの精神性が見られるとしても、それは後からの付け加えであって、本能的恐怖や、貪欲や、怒りや妬みや劣等感がその根本であることは疑いない。ここでの自我は、全く力への意志の傀儡であり、奴隷であるに過ぎない。単に認識の道具としての、盲目的自我である。自我自身の超越性への拡大ではなく、他の集団的自我への帰属、服従によって、自己の権力欲を膨張させようとするものである。その結果として、力への集団的陶酔は生まれても、自我の本来の姿である独立独行(self-reliance)は影も形もなくなる。意識的認識(自覚)が救済へのきっかけであるとするならば、集団的陶酔はそれを押し流して、もとの盲目的本能に人間を退化させる。しかしこの自覚がいかに難しいものであるかは、仏教の通俗化などを例に出すまでもなく、誰でも知っている。前にも述べたように、人間は90%動物なのであるから。
  自我が自己認識によっておのれの超越的本質に目覚めるためには、おのれ自身に向かう孤独な思索が要求される。これの外的、内的契機として、孤立や疎外や、心身的苦痛や苦悩が、挫折した意志のエネルギーを内面へと注ぎこみ、それによって私が私であるという絶対の意識に立ち返らせる。これ以外に意志と立ち向かう私のよりどころは存在しないのである。青少年期に初めてこの意識に目覚めるとき、不可思議なもどかしさと同時に、おのれが存在することの純粋な喜びがおのずとわいてくる。この体験は人生のあらゆる艱難の中でも決して失われることはないであろう。これは単なる自我の探究の発端に過ぎないのであるとしても。私はただ私にのみ帰属する、これが独立的自我の出発点である。 

2012年10月6日(土)
人はなぜ苦しむのか(その2)

 自我は意志と強力に結びついている。これは疑いない事実である。私の憤り、悲しみ、苦痛、よろこび、こういった情念や情動は私を嵐のように巻き込み、あたかも一体の存在であるかのように私を手放さない。果たして私は意志そのものではないのか。それ以外の私などは存在すると言えるのか。そこには意志に手なずけられ、意志のままに喜怒哀楽をほしいままにする私がいる。しかしかつては私はそうした私を恥じていた。どんなに感動的な情念であっても、それに押し流されていく私に、私は強烈な羞恥を覚えた。まして怒りや劣悪な感情にとらわれる私をさげすんでいた。私は少なくとも私の感動をおのれ自身の中に封じこめることを覚えた。そうすることによって感情や情念によって征服されている私を他人の目から隠すことができた。
 私は何ゆえに私自身の意志の働きに、それほどの羞恥を覚えたのであるか。それは私の弱さであることを自覚していたからである。感動であれ情念であれ、何らかの圧倒的な力に<全身全霊>とりこまれてしまうことを、私は弱さと感じたのである。しかしそれは私の<生命>の中心であったことに間違いはない。そうした感動や強烈な情念なしには、人生というものを想像することができなかった。すべての生命は多かれ少なかれ、そうしたエネルギーによって導かれており、人もまた例外ではなく、観念や理想以前に、情念によって突き動かされている。それにも拘らず、私の中にはそれに抵抗するある力が働いていた。それは意志によって突き動かされる私を、他者の前にさらすまいとする抑制の力である。羞恥とは他者の目でおのれを見ることによって、おのれの弱さを自覚することである。他者の目を意識しない時には、私は時に抑え難いほどの情念の湧出に身を任せることもあろう。世界意志の波打つまにまに、私の自我は文字どおりに<われを忘れて>激情に身を任せるであろう。
 この他者の目でおのれを見るということ、同時におのれ自身に対しておのれを恥じるということ、これが反省的自我の始まりである。その発端は単に他人の評判や評価を気にするということ、または道徳や倫理やフロイトのいう超自我であってよい。審判者の目で意志に向かうということが肝要なのである。苦しんでいるおのれ、激情にかられているおのれ、快楽にふけっている私、そうした私自身をもう一人の私が冷静に眺めている。この第二の私を哲学は理性と呼んでいる。この第二の私は理性そのものではないが、理性によって目覚めた私自身である。ここでは意志から切り離された知性を理性と呼ぶことにする。その意味では理性は第二の自我によって可能になる。自我が知性を杖にして自ら立つ時、理性が生じるのである。しかし理性はそれ自体では無力である。理性によって情念を導こうというデカルトのもくろみは、机上の空論である。意志の発現の形式でもある自我が意志を内面へと導くことができなければ、理性は力とはなり得ない。意志こそがこの世界での唯一の力なのであるから。
 この世界が意志・イデア(理性)・自我の三一体であるように、この世界からの救済もまた三一体において行われねばならない。世界は三者ともに発現し、三者ともに超越界に帰還する。第二の自我の発見によって、世界は内側へといわば裏返しの収縮を遂げていく。あたかもリヴァースされた映像のように、世界はビッグバンの起源へと収縮してゆき、消滅する。苦集滅道のニルヴァーナである。これへの唯一の契機が反省的自我なのである。私が私であることが、この世界の唯一の救済への希望である。
 私が私であるということは、私が純粋に私と向き合うことによってしか意識されえない。それはもはや他者によって見られた私ではなく、身体としての私でもなく、情念としての私でもなく、知性としての私でもなく、言ってみればもはや<考える私>ではないのである。ロダンでもパスカルでもデカルトでもない。cogitoとしての私を超越した私がそこにある。私であるほかはない私がそこにある。ヤーヴェと同じくIch bin der ich bin としか言いようのない私がそこにある。それはもはや苦でも快でもないであろう。単に存在することですべてが充足された絶対者としての私がそこにある。私の還るべき世界がそこにある。そこまでの道のりがいかに遠かろうと。それは単に時間的遠さではなく(明日私は死ぬかもしれない)、私の戦う相手がこの世界そのものだからである。

2012年12月1日(土)
形而上学の根拠

 20世紀哲学の中で最も影の薄いのは、アリストテレスに始まる伝統的哲学部門である形而上学(meta ta physika)であろう。21世紀に入ってポストモダンなどというものが風靡すると、その不人気はなおさらである。ニーチェもまたあらゆるシステム(哲学体系)に対する不信によってその師を裏切っている。現代哲学の形而上学に対する宣告は、ウィットゲンシュタインの<言い表わせないものについては沈黙する他はない>という言葉に代表されるであろう。哲学はひたすら分析し、諸科学の方法を考えていればよいのである。ポストモダンもまたひたすら日常的テーマの分析に向かう。それによって哲学は通俗化し、大衆化したものの。
 あらゆる学が学問であるためには、それのよって立つ根拠がなければならない。かつて形而上学は理性の学問であったから、基本的には論理学と等しいものであった。実在の根拠を思考の法則である論理学によって探究しようとしたのである。それはアリストテレスの伝統的論理学であろうと、ヘーゲルの弁証法であろうと変わりはない。一言で言うと概念の操作である。その限りにおいて、例えばこの世界が存在しなくても、概念体系としては成立してしまう。その点ではこの世界の次元を超えて思索する数学と似ているかもしれない。また概念そのものを実在化することによって、この世界の実在性を奪ってしまうことになる。プラトンやアリストテレスにとって概念が唯一の真実在なのである。思考の法則のトリックによって、世界のあり方が逆転してしまうのである。
 このような形而上学が19世紀の実証主義の発展いらい不信にさらされてきたことは当然の成り行きである。誰もヘーゲルにならって太陽系の惑星は7個でなければならないと論証する気にはならないであろう。形而上学のよって立つ根拠が思惟であるかぎりは、それを正当に用いるかぎりはこの世界の実在の上に立った慎ましやかな世界観にとどまるか、それを不当に用いるならば空論に陥るほかはない。形而上学がその名のとおりPhysik(自然科学)のあとに来るものであるならば、単なる論理がその根拠であってはならないだろう。形而上学の方法は論理学でも数学でもないはずである。相対性原理や量子力学は形而上学ではなく、人間の思考が自然に対して窮極に推し進めていった探究である。その思考の及ばない先に形而上学は始まらねばならない。
 アリストテレス以来の形而上学は主として世界の本質(essentia)を探究してきた。何であるか(Washeit)と言うことが主たる関心であった。場合によっては、それが実在するかどうかの問題は二の次であった。キマエラの本質については、それが何であるかについていくらでも論じることはできる。唯一実在の概念だけは当てはまらないのである。単に実在(existentia)の概念を付け加えただけではその実在を証明したことにはならない。神の存在論的証明もカントが論破したようにこれと同類である。世界の本質について論じる前に、まずもって真に実在するものは何かを確定しておかねばならない。真に実在するものとは、それが概念でない以上は現実に存在するもの、その現実存在(existentia)が疑いえないものである。それは唯一cogitoであることはデカルトが発見したところである。しかし私が考えるということから帰結されるのは、単なる思惟ではなく、考える<私>である。私=魂=(属性)思惟といった実体化によって私は存在しているのではない。私の実在根拠は思惟ですらないのである。私が私であるという意識、自己意識が私の現実存在の根拠である。この自己意識によって初めてexistentiaが与えられるのである。思惟は私の属性(attribute)ですらなく、事情によっていくらでも失われうる偶有性(accidentia)である。動物は自己意識を持たずに思惟する。人もまた時として無意識の思惟を行う。そのかぎりでは動物も人も個としての現実存在を持っていないのである。世界の中での自己自身の位置を確認すること、それが現実存在であり、実在の意味である。その唯一の根拠が自己意識(Selbstbewusstsein)である。
 我々は通常実在を外界の意味に取る。外界及びその最も身近なあり方である身体の存在について、デカルトが思考実験したようにいくらでも疑うことができる。しかし身体の中でも最も深く自我と結びついている意志や意欲を否定することは困難であり、思惟すらそれなしにはなしえないのである。私は私自身の内部にうごめくものによって私以外の何ものかの存在を認めるほかはない。そのものの本質をショペンハウアーにならって世界意志 Weltwille と名づけよう。私の意志や意欲や情念が世界意志の発現であるように、身体も外界も同じく世界意志の発現であるとしよう。それらは世界意志そのものではなく、世界意志の現象であり、私にとっての表象である。世界意志そのものが何であるか、その本質そのもの(Wesen an sich)については、それはカントの言う物自体にあたり知ることはできない。しかし私の身体における意志や意欲と本質を等しくする何らかの存在への衝動であろうことは推測される。宇宙における唯一絶対の力なのである。私はこの絶大な力のつくりだした世界の中で私自身に目覚めた現実存在である。私が現実であるのと同等の現実性をこの表象界に与えてよいであろう。しかし私が世界意志に対して付与した現実性と私の現実存在とは別のものである。私は世界意志に関与する限りにおいて、私の現実性を世界意志に与えるのであり、さもなければ私は永遠に囚われた存在として救済の望みを失わねばならない。釈迦の教えは虚偽であったのだろうか。
 イデア界に関してはどうか。プラトンのイデアについては二通りの解釈がなされている。一つは実体的な解釈であり、イデアは単なる抽象観念ではなく、具体的にこの世界に(影として)反映されている(洞窟の比喩)。イデア界にはこの世界のモデルがあり、あらゆる個物は不完全ながらモデルであるイデアを<分有>している。今ひとつは単に概念の関係における、一般観念と個の観念の包摂関係である。個の観念を離れた一般観念は存在しないという観点からは、実体的存在としてのイデアは否定される。後者は認識論的観点であり、ここでは前者の形而上学的観点にしぼる。人間や高等動物が思惟する存在であることは疑いない。具体的観念によって反応する低次の思惟から、抽象観念(一般観念)による高次の思惟まで、思惟は観念によって行われることもまた疑いない。観念とはなんであるか。低次の本能的思惟においては、それは信号(シグナル)と同一である。神経細胞における何らかの刺激が、次の刺激を生みだす連鎖において、反応が生じる。この反応過程は大抵は無意識である。この信号が記号(サイン)となり観念(idea, Vorstellung)となる時、本来の思惟が生まれる。思惟は観念間の比較、結合、分離によってなされる。観念はその起源において、ヒュームによれば単純もしくは単一の観念にさかのぼれる。さらにその単純観念は起源において単純な印象(impression)にさかのぼることができる。ロックやヒュームによれば、これらの印象や観念はもとより認識者の心に生まれつきそなわっているわけではない。tabula rasa としての心に<経験>を通じて刻みこまれるのである。単一な印象や観念は基本的には具体的な個物である。もしイデア界がこの世界に反映しているならば、まずもって個物に現われていなければならないであろう。一個の消しゴムは、その白い色彩と、四角い形体との単純印象に分解できる。それ自体は思惟ではないが、となりにある黄色い色彩の四角い消しゴムと比較した時、類似のものであるという判断が生じるには、既に四角い形という概念があたえられていなければならない。もしその判断が先天的に生じるならば、その概念は経験を契機にものから与えられたか、または認識者の中に生まれつきそなわっていたかのどちらかである。前者はプラトンの考え(想起説)であり、後者はカントの先験的認識論につながる。単純なものの中にも既に概念が反映されており、思惟とは単にそれを読み取ることだけであるという考えは、基本的に自然科学の考えに近い。ただ自然科学では帰納法という手続きを取るのであるが、プラトンではそれを直観的になしうるとするのである。かりに単純なものの中に既に概念が反映されているものとして、その概念を認識者がとらえうるためには何らかの条件が必要である。概念的に思惟しうるということがなければ、いかにイデアが反映されていようともそれを把握することはできないであろう。すなわちイデアは認識者の能力においても同時に反映されていなければならない。人間の思惟自体もまたイデアを<分有>しているのである。
 イデア界の影はものと人とを問わず、この世界のあらゆるものに浸透し、包みこんでいるといえよう。イデア界の本質は概念であるが、その認識における機能を哲学の伝統に従って理性と呼んでよいであろう。世界意志は理性を伴侶とし、その認識のまなことし、創造のモデルとし、そして世界の具体化のために超越的自我を個体の原理としてこの世界に呼びこんだのである。超越的自我は、先験的自我としてイデア界と結びつき、自己意識に到達することによってこの世界を照らし出す鏡となる。先験的自我はイデアを分有する限りにおいて、世界意志のつくりだした世界を、理性のまなこによって解き明かすことができる。基本的に先験的自我の認識は、プラトンの言うように、<想起>なのである。世界の中にあって、既におのれの中にあるものが相互に一致することによって、認識者は世界を認識しうるのである。思惟とは観念間に区別を立てることであるが、その働き自体はイデア界ではなく、意志の領域に属している。認識への意欲、思惟のエネルギーもまた、この世界の唯一の力である世界意志から流れてくるのである。理性はそれ自体では無力であり、世界を動かす力も、ましてや生み出す力も備わっていない。いわばそれに向かって軌道のしかれた理念であるに過ぎない。太陽系を動かしているのがニュートンの法則ではなく、万有引力という一種の力であるのと同様である。思惟もまたそれ自体では力を持っていないばかりか、端的にいって意志の道具であるに過ぎない。

 ここでデカルトの著名な命題について再度考察しておく。cogito ergo sum (I think, therefore I am.) について、皮肉屋のアンブローズ・ビアースはI think that I think,therefore I think that I am.とつけ加えている(Devil's Dictionary,Cogito cogito ergo cogito sum.)。thinkが二重に使われているが、これは単なる皮肉以上に意味深い批判でもある。思惟の存在と私の存在とがデカルトにおいては曖昧である。I thinkとは何がどうするの主語・述語関係であり、I amとは何がある・ないの主語・述語関係である。前者には何ら存在の意味は含まれていないのである。存在の意味を含ませるためにはさらに I think が必要である(I think that I am a thinking being.)。I think から私が考える存在であると言う属性を引き出すことはできる。逆はどうであろうか。I am から存在以外の属性を引き出すことができるであろうか。そもそも存在は私の属性なのであるか。存在とは私そのものではないのか。そうであるならばそこからは私は私であるというtautology以外は引き出せない(Ich bin der ich bin.)。そこには私が私であると言う自己意識以外に何ものも言表されてはいない。その自己意識こそが思惟であるとしないかぎりは、デカルトの命題は成立しない。はたして自己意識は思惟であるか。もし思惟であるならば私の存在そのものも思惟でなければならない。しかし私の意識の特異性は、それについての思惟が不可能であるということにある。私が存在していることは不可解であり、いかなる思惟によっても解決できない。まさに私の存在は思惟を超えた絶対の事実なのである。私の存在こそが私のあらゆる思惟の活動を支えているのである。sum ergo cogito とデカルトの命題を逆転しても良いであろう。私の意識、私の現実存在 existence こそがあらゆる思惟、あらゆる存在の唯一絶対の根拠なのである。そして私自身はなんら根拠を持っていない。なぜなら私が窮極の根拠なのであるから。私自身は無根拠 Ungrund そのものである。それゆえに自由である。そこに救済の原理がある。

2013年2月22日(金)
自我と他我

 自我が無根拠の存在であり、自己意識以外にはなんら具体的な内容を持っていないことはたびたび述べた。そればかりか、自我にとっての他我は単なる観念であり、なんら直接的実在性を持っていないことについても述べた。「そのような自我に一体どんな価値があるのか」とだれもが反論するであろう。
   *     *      *
 「自我とは身体であり、あなたの自我はあなたの身体の中にあり、あなたの身体と同一であり、私の自我は私の身体の中にあり、私の身体と同一である。あなたの自我が特別である理由はどこにもありません。さらに言えば、自我とは脳の働き以外の何ものでもなく、身体=脳が滅びれば跡形もなく消えてしまうものです。脳を離れた自我などは空論であり、そんな空虚な自我などに何の意味や価値があるのですか」
 「物理的、生理的に自我を探究すれば、そのとおりだよ。個々の自我に区別などはない。また深い眠りや、麻酔状態では、君の言うとおり自我どころか意識も存在していない。少なくともその生理的記憶がない。しかしこんなふうに自然科学的にとらえたら、形而上学は成立しない。自然科学とは全く方法が違うのだ」
 「最も信頼できる知識である自然科学の教えることを、あなたは否定するのですか」
 「科学を否定するのではなく、科学以外の方法もあるということだよ」
 「それは昔からの迷信とどこが違うのですか。肉体を離れて、霊魂や魂が存在するとでもいうのですか。それは人間の虚しい願望です。この世界や肉体を離れて自我が存在しうるなどと考えるのは、同じ虚しいあなたの願望に過ぎないではないですか」
 「願望が哲学の動機であるというのは大いにありうるね。ad hoc な議論になってしまうのは大いに注意しなければならない。しかし願望や希望がなければ、哲学どころかあらゆるいとなみも虚しくはないか。その意味で真理の探求もまたエロスのなせるしわざか」
 「あなたの自我がそんなに大事なのですか。私は人類全体のいとなみに価値をおきます」
 「世界意志とその世界の展開も大いに興味のある対象だが、私にとっての最大の謎は自我なのだよ。君も子供の頃に、家族がるすの時に、ふと自分以外にこの世に存在しないのではないかと不安になったそうではないか」
 「その不安は科学的知識によって克服しました。宇宙人が地球にやってきてなどはいないことと同様に」
 「自我意識は科学知識とは別物なのだ。宇宙人が地球上にいないことは科学的に証明できても、私の自我の存在根拠を、科学によって説明することはできないのだ。私の身体が親から生まれたことは確かだが、私が私として存在している理由を親から説明することはできないし、身体そのものから説明することもできない。私は私の情念そのものでもないし、私の考えですらない。その意味では私は私である以外には無内容な存在である」
 「だから、そんな存在に何の価値があるのですか」
 「価値というのは相対的なもので、関係的なものです。あるものと別のものを比較して、こちらのほうが良いとか悪いとか、そうした比較が価値を決めているのです。あらゆる比較や関係を超えて存在している自我は、その意味で没価値です」
 「価値がないことに違いはないでしょう。だから無意味ではないですか」
 「私は絶対的超越的自我に、この世界からの救済をかけているのです」
 「だったらさっさとあの世へ行ったらいいではないですか」
 「自我には死はないんです。絶対者ですから。あなたが死んでも私は死にません」
 「全く同情のない人間ですね」
 「私が世界意志としてふるまう時には、あなたも私も同等の自我として、共感の中に生きています。しかし絶対者としての私は唯一者ですから、その時あなたは私にとっての現象に過ぎないのです。ある夢の中で、亡霊たちがテーブルを囲んでいました。私は彼ら、彼女らに向かって宣告しました。あなたたちは私の夢の中にいるのだと。彼らの愕然とした表情は見ものでした」
 「まるで神様ですね」
 「古代のインド人はアートマンと名づけて、創造神ブラフマーと同一としました。私はアートマンを探究しているのです」
 「アートマンは万人に宿っているはずですが」
 「そうなると自我一般のような概念になってしまうので、そうは考えません。その点では独我論です」
 「それならこの世に何一つ恐れるものはないなずなのに、なぜ車が来たらよけるのですか」
 「身体としての役目をはたしているのです。それが自我の定めですから」
 「ご愁傷様。なるべく早くあの世へいらしてください」

2013年6月8日(土)
現実存在の不幸

 心は閉ざされた世界である。それ自体として絶対でありうるはずなのに、そこに自足することができないでいるのはなぜか。心は同時に現実存在でもあるからだ。あるいは、現実存在に根を張り、現実存在を志向するものでもあるからだ。真に実在するもの、真の Wirklichkeit は、生への意志である。この現実存在に目覚めた自我は、あるいは現実存在の中に投げ出された自我は、ひたすら現実存在に向かうほかはないのだ。
 生への意志、世界意志は時間・空間において現実界として発現する。この表象形式において、自我は自己自身を見い出す。自我は徹頭徹尾、外へ向かう志向性 Intentionalitaet としてこの世界に身をおくのである。自我は先ず、外的身体としてのおのれを見い出す。その身体の内部での、欲求であり、情念であり、意志であるおのれを見い出すのである。すでに、おのれの生への意志が、身体として客観視されている。この自己を対象化することこそが、自我の現実存在なのであり、同時に表象界における世界意志のあり方なのである。
 世界意志の Objektitaet (対象態)と化した自我は、世界意志のあらゆる欲望、衝動を、自己の身体において引き受ける。そこから、時間・空間において個別化した意志どうしの、生存のための争いや協働やを、すなわち類の宿命をも引き受けねばならない。身体は個であると同時に類である。食欲も性欲も、個の欲求であると同時に、類の絶対命令である。食欲のために他の類を犠牲にし、類の存続のために性欲の命じるところに従う。この意味で、対象態としての自我は、世界意志そのものであり、その苦悩と快楽、悲惨と栄光とを、この現実界において身をもって味わうのである。それが自己意識における現実存在 Dasein, Existenz の正体である。
 知的生命体としての人間は、時空の表象形式をもっとも有効に活用する存在である。あるいは、時空の認識に、もっともよく適応できた生命体であると言ってよい。とりわけ、時間表象への適応において、他の動物とは比較にならない発展を遂げた。それによって初めて文化・文明が可能になったのである。空間表象においては、人間に勝る動物はいくらもいるであろう。しかし歴史を持つ動物は人間だけである。
 動物は現実存在の不幸を、この現在において解決する他はない。今空腹を満たさなければ、明日は死ぬのである。時間はすべて自然がめんどうを見てくれる。その自然がくるう時は、動物が滅びる時である。人間は過去と未来の表象を広げることによって、自然を乗り越えることができるようになった。過去から前例を学び、未来を想定することにより、時間における生存可能性をはるかに高めたのである。しかしそれによって肥大した欲望により、人間どうしの間の生存競争は、激しさを増すことになる。
 時間的空間的に拡大された人間の欲望は、新たな不幸を生み出す。生への意志は無限の欲求であり、存在への際限のない衝動であるから、それの広がるところには、新たな喜びと、新たな苦悩が生まれるのである。喜びは一時的であり、苦悩は必然である。時間における無限の連鎖が、永遠の喜びを許さないからである。勝者も敗者も、究極においてともに苦しむのが、この世界の現象的本質である。この不幸をどのように克服できるであろうか。
 
内面へ向かう意志 (次回)

2013年10月23日(水)
心の世界への逃避

 この世界がある種の地獄であることは、すでに何度か述べた。そのことは生命界に最もよく見てとれる。生命が生命の犠牲の上に、互いに弱肉強食の争いをつづけながら進化、存続したことは、言い古された真実である。何万という稚魚の中で、生まれた途端に次々と捕食され、成魚となるものは数匹に過ぎないという。その種や類の間、または個体間の闘争は、人類においても、あるいは人類においてこそ、最も激越であり、地獄の相を呈している。人類においては、その激化は、農耕と共に始まる<文明>によって決定的なものとなった。
 NHKの番組「病の起源」によると、魚も特殊な環境を与えると<鬱病>になることが確かめられている。人類の鬱病の始まりは、文明による富の分配の不平等、階級制の成立によるものであるとされる。平等社会である狩猟採集民には、鬱病は存在しない。弱肉強食の原理を種の内部に持ち込んだ、農耕文明こそが、恐怖や不安といった過剰なストレスを、人類内部にもたらしたのである。自然界という外部のストレスと、富の分配の不平等による内部のストレスが、人類社会を一層の地獄の世界としているのである。
 この世界は唯一の現実であって、人はそこからあらゆる他の世界を類推するほかはない。この世界が地獄であって、どこにも天国などは探し求められないのであってみれば、ましてや現実でない死後の世界や、あの世に、天国なぞあるはずはないであろう。仮に死後の世界や、生前の世界があるとするならば、そこもまたこの世界と似たような、地獄である可能性は高い。世界意志が最も確固として現われているのが、この現実の生命界であるならば、やはり世界意志に属する死後の世界や生前の世界も、この現実界とさして違ったものではないであろう。言ってみれば、人は世界意志という地獄より発し、生まれるも地獄、生きるも地獄、死して後も地獄の存在でしかない。そこには地獄からの救済はないのである。
 それなのに、なぜ人は一見明るく、楽天的に生きられるのであろうか。そこに生への意志のトリックがある。宗教がそのトリックを最もよく表わしている。文明と共に生じた類の宗教は、基本的にペシミスティクである。すなわちほとんどが現世否定的である。それにもかかわらず、現世からの救済を説く点において、あきれるほど楽天的である。仏教の極楽、キリスト教・イスラムの天国、いずれにしても、この世界でそうあってほしいという願望の投影された世界である。もし死後の世界やあの世が可能であるならば、なぜそれがこの世の理想の投影でなければならないのか。古代ギリシャ人は、あの世に関してもっと現実的であった。オデッセウスは黄泉の国で、憂鬱そうな顔をしているアキレスに出会う。黄泉の国は特に良いところでも、特に悪いところでもない。この世の影のような場所である。「古事記」に描かれている黄泉もそのような場所のようである。
 ここに人間が際立って観念的存在であることを考慮すべきである。人間は感覚的現実界と、観念的思念もしくは想像力の世界との、二重の世界に生きているのである。イエスは「野の花、空の鳥を見よ」と言ったが、そうした明日へのわずらいのない生き方は、想像する存在である人間には不可能なのである。「今日もご先祖様のおかげで、獲物にありつけた」と歌う狩猟民とは違って、農耕文明によって、人類は常に明日をわずらわなければ生きてゆけなくなったのである。そしてこのわずらいが、想像力をさらに肥大させていった。ついには現実と想像との区別さえつかなくなってゆくのである。想像力が現実と折り合いをつけていくかぎりは、人類の進歩の原動力であったといってよいだろう。しかし、想像は同時に創造なのである。
 この世が地獄であるならば、人はどこに天国を求めたらよいだろう。いうまでもなく、想像力の世界である。唯一現実から離れることができるのは、この現実界から取り入れた観念を自在に構成できる、想念の世界の他にはないのである。これは世界意志の作り出す客観的現象界である現実世界の上にかかる、虹のようなはかない世界ではある。人類と共に生まれ、人類と共に滅びる世界である。しかし人類にとって唯一の救済の希望なのである。人類はこの想念界において神を創り、天国を創り、祖霊の世界や死後の世界を創りあげた。悪しきものはすべてこの現実界に残しておけば良い。そして、想念において、心において、この創作された世界と実際に感応しあうのである。その意味では、宗教は心の真実である。そこではライオンと羊とが、共に平和に暮らすのである。
 想像力が唯一の救済への希望であるならば、世界意志からの救済もまた想像力の働きに委ねる他はない。宗教は窮極の想像力であるといってよい。しかし単なる天国や極楽の想像では、世界意志の手のひらから抜け出すことはできない。キリストを取り囲んで毎日尊顔を眺めているだけの天国や、この世以上のグルメや快楽にありつける天国や、釈迦とひねもす蓮の上に坐っている極楽やらで、暴戻なる世界意志の煩悩に打ち勝てるだろうか。基本的にこれらは、現実の不満からの逃避願望に過ぎないのである。
 想像力は、世界意志の目的のための一つの道具でもある。その道具を専ら救済のための手段に使うためには、それなりの配慮、工夫が必要である。カトリックの修道僧は、若い女性の姿を見ると逃げ出すという。女性の性的アピールは、男性にとって、世界意志の<産めよ、殖やせよ>という定言命令である。世界意志の根を絶つためには、それの刺激を避けねばならない。世界意志の本能と対峙する心の世界が先ず必要なのだ。それをメルヘンといってよいだろう。メルヘンは救済のための最高の芸術たりうるであろう。傍らに悪魔のいることを常に意識しながら、想念界に理想の世界を作り上げること、その断固とした逃避の営み以外に、救済の望みはないのである。

2013年11月6日(水)
新月と宵の明星

 夕空に細い新月が照っていた。その直ぐ横には、金星が、まだうす明るい空に、鮮烈な光を放っている。細い新月は、一見金星の引き立て役かのようである。はるかに明るいはずなのに、小さな弓のように広がっているために、茫洋とした感じがある。そして、その弓に囲まれるように、さらに茫洋とした薄い影が、月の姿をあらわしだしていた。地球照である。それが地球によって反射された、太陽の光によって、かすかに照らされた、月の影の部分であることを考えているうちに、ふと、弓形に照っている明るい部分は、実は、今地平下にある太陽の光であることに思いいたった。この意識上の転換が、これまで一度も起こったことがないような、めざましい感じであった。
 半世紀を越えて生きてきて、これまで一度もそのような観点から、月を見たことがないのであろうか。そのことが実に意外に思われた。明るく照るものは、月であれ、金星であれ、それ自体が光を発しているかのような、直感的な美感の中でしか意識されないのである。それらを照らしているものが、この地球に隠れて、宇宙のはるか遠くに存在しているのだということを忘れている。その広大な空間の意識は、物事を相関させてみることによって、初めて生まれるのである。
 宵の明星もまた、この鮮烈な光は、実は太陽の光そのものなのである。望遠鏡でとらえることによって、月と同じ、欠けた姿が浮かび上がってくる。その時生じる不思議な感覚は、目というものに対する疑いでもある。ガリレオの望遠鏡を覗くことを拒んだ僧侶達は、あまりにもおのれの目の習性を信じすぎたのである。いかに感覚の習性が頑固であるか。知識として分かっていても、目はやはりおのれの習性に従うのである。しかし、それをある時、ふと転換させることによって、新しい宇宙観が生まれてくる。

 自我の哲学の困難さ(アポリア)も、同じように意識の頑迷さによるものだろう。月や惑星の光が、太陽の光の借り物であるように、自我意識もまた、対象や他者からの光に照らされてはいないだろうか。俗な言葉だが、
 おのが目で見ると思うなよ、月の光で月を見るなり
という禅語も、その点をついている。
 こうした客観主義によっては、自我哲学は崩壊してしまうが、自我から他我への視点の転換として考える時、対象や他者からの光は、実は私には見えないものであるが、地平下の太陽のように、どこかにあってよいものなのであろう。自我意識はあまりに明るく世界を照らしているので、それ以外に光はないかのように思われてしまう。この世界のすべてが私の意識によって照らされている。それが同時に他者や対象の世界でもあると考えるためには、何かの媒介が必要なのである。それをバークレイやライプニッツのように、神から発した光と考えればことは簡単だが、ショーペンハウアーが言うように、不可解なものをさらに不可解なもので説明することになりかねない。
 地平下の太陽のように、どこかにある何かは、この宇宙の根源であると考えてよいであろう。この根源から自我は発し、対象としての世界は生まれる。この根源の媒介によって、対象や他我は私と交渉可能となるのである。光は物理的にも、この宇宙に遍満し、この物質宇宙の窮極のエネルギーであるように、意識の光も、その強弱にかかわらず、この世界の個物に遍満しているのであるかもしれない。そうであるならば、意識とはこの世界の普遍的意識に参与することであるかもしれないのである。
 月や金星は光を発しない天体である。自我は自ら光を発する太陽にたとえられる。それは他者や対象を照らす。同時に他者や対象も、自我を照らし返すのである。それはおのれの光の反映のように見えながら、また他者や対象の独自の光でもあるだろう。この世界で意識だけが孤立しているわけではない。それは無数のモナドに分かれてはいても、互いにたがいを映し出すのである。物質粒子が磁場や重力場の中に置かれているように、意識原子であるモナドもまた、いわば普遍的意識の場におかれていよう。そこが自我の存在する場である。

2013年12月2日(月)
自我論問答

自我がこの世界で最も確実な存在であることは疑いえないとしても、そのことから直ちに自我が絶対であり、永遠であるという命題は出てこないのではないか。自我の現実存在のどこに、自我が絶対永遠であるという保証があるのか。おのれが神であり、宇宙で唯一の絶対存在であるという確信は、デカルト的自我の明証性とは別のものではないのか。

 「あなたの妄想に過ぎないでしょう、あなた以外に自我はないと考えるのなどは。あなたがどんなにエゴイストであるにしても、そこからあなたがこの宇宙の創造者であり、唯一の存在であるという結論は出てこないでしょう」
 「なるほどデカルトの言う考える自我は、感じたり、想像したり、意志したりする自我であるから、それがいかに私の感覚や、想像や、意志であっても、考える私はそうしたものから、何かの所有者のように切り離すことはできない。考えている私は、何かを考えているのだから、その考えによって現われている私に過ぎない。いかにその私の存在が疑いえないとしても、それはそれだけのことで、それがそのまま永遠や絶対に結びつくことはないだろう。ただその存在が確実であると言えるだけだ」
 「あなたの存在が確実であるとしても、あなたの肉体が滅びれば、あなたも確実に存在しなくなるでしょう」
 「肉体が滅びるかどうかは、肉体の存在が確実でない以上、どちらとも言えない。私は何かを考えているのだが、その何かの確実性までは、私は保証できないのだよ。だからその何かが滅びようと滅びまいと、我関せず焉というわけだ。デカルトが肉体を確実な実体としたのは、神という絶対的な存在の媒介によってであって、私という確実性の立場からは、あくまでも不確実なのである。神の善意を信じるなどということは、全くの仮定でしかないからね」
 「そんな確実なあなたが、なぜ世の中を恐れたり、貧乏な暮らしをしたりしているのですか」
 「実を言うと、肉体は、実に強力に自我と結びついていて、肉体でない私を思惟するということは、まれな瞬間でしかない。デカルトはあっさりと肉体でない自我と、肉体とを切り離してしまったが、そんな実体論は観念の遊びに過ぎない。肉体的自我は、常に他我を欲しているのだ。この狭隘な肉体に閉じこめられている自我は、この殻を破って、常に自我を拡張しようと願っている。その欲望・願望と自我は一体化しているのだ。それが確かに、この世界での自我の現実存在だ。自我の確実性が、この世界を保証している。肉体、すなわち生命の運命に、自我は無反省に取りこまれているのだ。そのやんちゃな子供のような自我を、この世界から引き剥がすことができるならば、この世界は確実性を失い、消滅するだろう。後には純粋な自我だけが残るのだ。」
 「消滅するのはあなたの方で、世界はあなたがいなくても永遠に残ります」
 「肉体と結びついた私は滅びる。それは物質界の運命です。しかし、この世界を超越した自我としての私は、確実に存在しつづけるでしょう。なぜなら、私以上に確実な存在は他にないからです。私の肉体が滅びた次の瞬間に、すでに私は存在しているでしょう。この世界を超越した私には、もちろん時間も空間も、因果律もないので、その意味では永遠です。目覚めた私は、どこか別の宇宙で、再び個我として、何らかの生命体に宿っているかもしれません。人間はもうごめんです」
 「空想するのは自由ですが」
 「形而上学のつもりですがね。インド哲学や、仏教が空想とはいえないでしょう」
 「あなたの考えが空想だというのです」
 「ただの宗教ならメルヘンだが、形而上学は空想ではなく、理性の学問です。それなりに論証してますがね。理性の学問の中で、科学がすべてとは言えないでしょう」
 「科学が最も確実に、この世界について教えてくれます。科学は最も信頼のできる知識体系なのです。迷信やトンデモに陥らないためには、正しい権威が必要です。私は学問上の権威主義者ですから」
 「学問的権威にも正統と異端、主流と傍流があるけれど、それはいつでもひっくり返りうるのだ。今は科学が正統だが、百年後のことは分からない。もっともその頃まで人類が滅びずにいればだが。面白い話で終わりにしよう。
人類程度の文明では、今現在この銀河系に存在する知的生命体は一つか二つだそうだ。滅びるのが早いので、同時的に存在しえないのだ。だから知的生命体が他にあるとすれば、人類よりもずっと優れた存在になる。今度はそっちの方に生まれ変わりたいものだね」