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自我の探究2――動物人・観念人・自我

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自我の探究2――動物人・観念人・自我

2014年1月25日(土)
動物人について(1)――人間動物論

 アリストテレスは孤独な人間は動物と変わらないとしたが、それは動物に対する偏見である。集団的、社会的人間も同じく動物とほとんど変わる所がない。動物であるか人間であるかの違いは、どちらも身体的、生命的存在であることにおいて、ほとんど見い出し難いほどである。生命的存続への欲求において、両者の間には、社会的存在であれ、孤独者であれ、100%違いはない。
 食欲・性欲・個体や群の間の縄張り闘争などにおいて全く違いがないばかりでなく、感情・情念・心理においても、基本的に生命本能に基づく限りにおいて、動物と人間の間には何の違いもない。一体何をもって、人間は動物との違いを誇ることができるというのか。
 ただ単に、現今の地球において、哺乳動物として最も成功し、繁栄している種類に過ぎないのである。文明や文化などが、決して人間が動物であることを否定する根拠になるわけではない。文明や文化、言語や思想などは、それらによって人間を動物界の覇者とした道具であるに過ぎない。文明や文化が動物を人間にするのではない。文明や文化の中で、人間はより快適に動物であることができるのである。それは文明や文化が、動物としての人間に何をもたらしたかを検討してみればすぐに明らかになる。
 文明は食糧や繁殖の不安をまずもって解決しようとする。集団間の大がかりな縄張り争いである戦争も、文明の産物である。技術や言語は、集団の存続を安定させていく。そうしたことが可能になったのは、人間がほかの動物以上に脳を発達させたことによることは確かだ。脳はしかし、身体の中で生命的欲求の上に君臨することになったとはいえ、生命のあらゆる維持機能を引き受けていなければならない。その意味では世界で最も忙しい君主であり、同時に最も忠実な従僕である。
 その脳が人間を動物から区別すると言えるのであろうか。ヘーゲルは思想史を含む人類史の原動力を、他者からの承認の欲求に置いているそうである。その限りでは、人類史もまた動物的縄張り本能に基づいていることになる。どんなに高尚な思索であっても、その原動力は群の本能なのである。ボスとして認められたい若猿が、群のボス猿に挑戦するのと、人間の虚栄心や自己愛や、承認願望も、さして違ったものではないであろう。政治的動物である人間は、集団内や集団間で、さらに複雑な権力闘争を営むのではあるが。
 知性や理性が、人間を動物から区別するのであろうか。より賢く、より効率的に、動物的欲求を満たすために、人間は知性や理性を道具として用いているのである。賢く生きるとは、幸福な人生を送るための合い言葉である。幸福とは、たいていの人にとって苦痛を避けて、快適に生きることであり、その限りにおいて、苦を避け、快を求める動物となんら違った生き方ではない。知性や理性が、純粋にそのもののために用いられることがあるとしても、はたしてそれがヘーゲルの言う承認の欲求を免れることができるであろうか。誰にも伝えられない思想などにふけることができるであろうか。
 純粋な思索はむしろ無念無想に近いであろう。動物的欲求のために、知性や理性を働かせることをやめれば、おそらく本来生命の道具として作られた脳のその機能は、自律的オートマティックに何かを考えるのでなければ、純粋直観に近いものになるであろう。それが人間特有のものなのか、他の動物にも具わっているのかは定かでない。もし動物が無意識に考えているならば、後者の可能性があるであろう。
 人間が文明によっても、思想によっても、知性や理性によっても、本質的に動物であることから免れないならば、この世界の本質である<生への意志>から解脱することは永遠に不可能になる。人間はホモ・サピエンスとしてまるごと生への意志の産物であり、徹頭徹尾生への意志そのものであるということになる。いかに思索的人間であっても、おのれの中に渦巻いている様々な情動・情念・欲求をおのれから切り離すことはできない。まして食欲や性欲を他人事と見なすわけにはいかない。そればかりか、進んでそれらの欲求に身を任せるであろう。その時おのれがいかに動物的であるかを、理性的であればあるほど痛切に感じるであろう。人間は基本的に動物人(Tier-Mensch) である。

2014年1月27日(月)
動物人について(2)

動物人と超人

動物は食欲や性欲やの本能が満たされ、生存条件が安定している限りにおいて、人間よりもずっと平和的である。家畜化またはペット化した動物においてそれが最もよく見てとれる。家畜またはペット同士の間では、めったに争いは起こらない。人間の管理の下で、群としての、または家族としての安定性を獲得している。人間だけが、社会や国家といった群もしくは集団の生活の中、あるいはそれら同士で絶えず争いを続けている。動物もまた個体や群の生存条件の不安定な中では、絶えず闘争している。しかしそれが比較的安定した中では、生存そのものに充足した平和な暮らしを好むものである。
 人類は今現在、動物の中では最も安定した生存条件の中に暮らしている。食糧生産は、もし平等な分配が可能ならば、全人類に行き渡って余りある。動物としての生活に必要なだけのものを生産しながら、それを無駄に無意味に浪費しているのである。まさに飼い葉おけの中の犬のような振る舞いをしているのが人類である。しかし実際にそのような振る舞いをする犬などは、野生であれペットであれ、ありえないであろう。一時的な争いはあっても、弱い動物は食べ残されたものや、こっそりと盗むことで、分配に与るであろう。
 人間はその意味では悪しき動物である。消費しうる以上のものを、欲望によって独占するのである。人間は本能の狂った動物であるとは、フロイトの言であるが、そこから言えることは、文明は動物のよき本能を堕落させたということである。生存競争のおぞましさの中で、かろうじて得られる安らぎの中で、ひと時の平和を実現している野生動物の中に、あらゆる良き本能の起源がある。生への意志は存在=生存への無限の欲求であるかもしれないが、生き残りの闘争だけがすべてではないであろう。存在すること自体の安定した快適さ、それがなければ生命界は無限の苦痛の地獄である。欲望・欲求は絶えず快適さを乱す。それが絶えず闘争へと生への意志をうながす。確かに欲望・欲求はポジティヴであり、快適さはそれらの充足されたネガティヴな状態である。快適さを求める限り動物は、そして動物人としての人間も、欲求・欲望に従って行動し、それらを満たすほかはない。
 しかし欲望・欲求はあらゆる動物・人間に本質的な生の衝動であるから、そこから必ず生命同士の争いが生じる。さらに他の動物・人間からの欲望・欲求の的となることを、生命は絶えず警戒しなければならない。動物はその両面からの生存条件に、環境への適応という本能的行動によって、対処している。そのバランスが崩れる時は、種または類の滅びる時である。人間は動物人として、この生存条件のバランスを積極的に崩してきた。本来この本能が崩れた時に、人類は滅びの危機に瀕したはずであるが、人類は本能を犠牲にした代わりに、環境を大がかりに作り変えるという大胆な振る舞いに出たのである。畜産を含めた農業が、地表を変えたばかりか、人類の本能をも変えた。食糧が生産されることによって、欲望・欲求は肥大化し、生存競争は人類内部の闘争へと移っていった。欲望・欲求の肥大化は、闘争のこれまでの動物界にないほどの激化をもたらした。種の内部において、これほど殺しあっている動物はほかにないであろう。
 人間よりも動物に心の平安を求める人は多い。そこには確かに平和の本能が本来のままに見られるのである。もしそれが狂うときは、人間がそれを狂わせているのである。人間が幸福を求める時にいだく快適さや、心の平静は、本来純粋な動物であった人間が持っていたものであろう。動物であって人であるという、中途半端な存在をよぎなくされている動物人の不幸は、その求めるものがすでにかつてあったものであり、もはやそこにもどることが不可能であり、しかも人間社会はその否定の上に成り立っていることにある。動物人である限り、もはや幸福はない。いや、あえて動物に返るか、幸福そのものをもはや求めてはならない。文明が幸福の否定であるならば、幸福を求める限り、文明もまた否定されねばならない。
 文明が動物の持つ本来の幸福感を失わせるならば、その限りでの文明は否定されねばならない。文明の目的は何であるか。上述のように、単なる欲望の肥大と、生存の闘争の激化であるならば、それに未来はない。もはや単なる動物であることのできない動物人としての人間は、平和な動物であることもできない。欲望だけの肥大した奇怪な動物人であるほかはないのか。人間は中間者であるという。何から何への中間者なのか。人間は超えられるべき何ものかであるとニーチェは言う。確かに動物人としての中途半端な人間は超えられるべき存在であろう。どのような存在へ向かってか。もはや単なる動物であることも、動物人であることもできない人間の向かう方向はどのような道か。もはや欲望・欲求によって闘うことをしない、欲望・欲求の充足によって幸福を求めることもしない、たとえどのように平和な欲求の充足であっても、単なる快適さを求めることをしない。そのためには進んで苦を求めなければならない。欲望・欲求が満たされない苦は大きな苦である。苦を克服することによっては、確かに快適さのような幸福は得られないが、心の波立つことのない平静さ、利害を離れた無関心の状態が生まれるであろう。苦は世界の本質であるが、単なる動物には不可能である進んで苦を求めるという行為によって、動物人を超え、ひいては世界意志を超克する端緒がそこに生まれるであろう。

良き動物として

 動物であることは、動物人であることほど悪いことではない。人間が高級な心情と見なしているたいていの感情は動物が具えている。特に顕著なのは夫婦愛と家族愛である。この点で動物と人間の間に何の違いもないばかりか、動物の方が勝っている場合がある。人間の自然愛や崇高の意識や、芸術的感興も、動物の間に顕著に見られる。檻の中に閉じこめられた動物の不幸は、誰もが感じるであろう。動物は人間以上に自然を好んでいるのである。ある時羽の揃ったばかりの雛鳥が、ガラス窓の外の青空をじっと見つめていたかと思うと、思いがけず硝子に向かって飛び立った。その眼を見て、鳥にも憧れがあるのが分かった。一日中飽きもせず囀っている小鳥が、誰よりも音楽好きであることは疑いあるまい。時には隣にいる雌を無視しても囀っているのだ。
 人間の心情はすべて動物から受け継いでいると言ってよかろう。たとえどんなに繊細・微妙な感情であろうとも、動物の中にその雛形を見つけ出すことができるであろう。ましてや、欲望や、怒りや、憎しみや、嫉妬などといった攻撃的な感情は、普通人が動物的と見なすように動物界普遍の感情であろう。その反対の、懼れや、不安や、恐怖などというネガティヴな感情も、動物界に普通に見られる。人間の心情の中で特に人間的と言えるものはないのである。子を殺された親の悲しみは、象の母親も、トロイアの王プリアモスも、何ら違いはない。ヒューマニズムとは冗語である。人は動物の心情の中に、おのれの心情の鑑を見い出す。動物人である人間がヒューマニズムを唱えざるを得ないほど、動物の中から悪しきものを人は発展させたのである。
 人は先ず良き動物であることを目ざすべきである。動物としてのおのれを見つめることによって、食欲・性欲から心情に到るまで、生への意志によって支配されたおのれの存在を、文明によって毒された過度の欲求・欲望から解き放たねばならない。集団・社会の条件が許すかぎり、生存への競争・闘争を避けるべきである。そして穏やかな心情を、他の動物から学ぶべきであろう。人間から心情的に学ぶべきものは大してないのであるから。動物と同じように自然によって癒され、自然の崇高さに打たれ、音となった心情である音楽によって心を洗われ、そして出来ることならば、動物のように自然に恋愛をする。もし文明人から動物に返るのならば、あらゆる点で高尚な動物でありたいものである。
 良き動物であるとは良き心情を持つことである。それは極力生活の欲求から遠ざかった
心情であるべきだ。生存の不安や恐怖や、また攻撃的な心情を離れ、それ自体がplaisir de vivre であるような心の状態をもたらすものである。その完全な状態を動物は時として実現しているようである。

2014年2月2日(日)
観念人について

 動物が人間よりもずっと穏やかでありうるのは、記憶に苦しめられることが少ないからであろう。眼前の脅威や危険がないかぎりは、動物は極力過去を忘れようとする。人間は極めて観念的な存在であるだけに、恐怖やその他のネガティヴな記憶を、意識の中で反芻する悪癖を持っている。文明や文化を生み出した人間の観念的存在としての長所は、同時に人間の不幸の源でもある。文明は人類を生命界の頂点に押しあげたが、同時に生命界の悲惨を極限にまで推し進めていった。
 生命界の相食む争いは、基本的に食欲と性欲に基づいている。恐竜時代のティラノザウルスのような一見おぞましいキラーであっても、それ以外の残虐性は持ち合わせていなかったであろう。もちろん食われることは、個体生命にとって最大の悲惨である。しかしそれさえ逃れていればよい、単純なゲームであった。種や類の存続をはかることでは、その闘いは一方的ではなかったが、子孫を守るという点ではやはり単純な争いであった。食物連鎖や、種や類の間のバランスは、生命全体の繁栄に寄与していた。
 この生命全体の、バランスの取れた全体的繁栄を破壊し始めたのが、文明を持った人類であった。道具の発明がその発端であり、それによって従来考えられない方法によって、食糧獲得と、種の存続が可能になった。人類は武器によってマンモスやたぶんマストドンを狩りつくした。農耕や畜産や鉱工業によって環境を変え、多くの種を滅ぼした。そしてその破壊の衝動は、他の生命界ばかりでなく、さらに人類内部の抗争へと向けられていった。
 食欲(個体保存)と性欲(種の保存)という、生命界の単純な欲求から発して、単純な棲み分けに甘んじることのない、人類の果てしない欲望の肥大は、どこから生じるのであろうか。単に農耕文明が戦争の起源であるというだけでは、それは単に欲望の契機を言い表わしているに過ぎない。豊かになれば、人間の欲望はさらに膨らむ。豊かさはなぜ人間の欲望を膨らませるのであるか。それは人間の本有的性質なのか。それならば人類は救いようもなく滅びへと向かう。人類がひたすら豊かさを求める限り、争いは決してなくならない。
 生への意志は無限の、底なしの欲望である。豊かさや幸福を<求める>限り、その充足は限りなくくり返されねばならない。何がその欲望をとことん引き出しているのであるか。動物は基本的に食欲と性欲以外に、欲望を鼓舞されることはない。そして食欲も性欲も、現在にとどまる欲求である。現在において満たされれば、もはや欲はない。明日のことを煩うことはないのである。それを保障しているのが自然界である。恐竜はそうやって3億年もの間繁栄したのである。
 人類はわずか数百万年の間に、生命界に成り上がってきた。その秘訣は、一にも二にも余剰な脳を持ったことである。余剰な脳が成したことは、動物が生きているこの現在的な現実界の上に、専ら観念だけの世界を作り上げたことである。記憶と想像力の発達によって、現在という三次元空間に加えて、未来・過去という次元をそなえた、文字どおり四次元の観念界に生きるようになったのである。欲望は新たな次元に沿って肥大してゆく。時間こそがまさに、人類の欲望を果てしなく鼓舞する元凶なのである。
 *   *    *
 ここで観念という言葉の定義をしておこう。観念という用語は、認識論的には表象と同じ意味であり、認識もしくは知覚のあらゆる対象をいう。しかし、ここで観念といっているのは、狭義の、感覚的な印象と対置される対象である。ヒュームが印象の影と言っているものであるが、厳密に言って、印象と観念を区別するのは認識論的に困難である。ただ単に強弱の違いに過ぎなくなるからである。ここでは単に便宜上、身体表象を基準にして、頭の中に浮かぶ記憶像や想像や思惟に伴うイメージなどを狭義の<観念>としている。身体を基準とすることもまた曖昧であって、夢や幻覚の場合に観念は身体表象の外に投影されているのであるが、それら現象もまた身体の中にあると見なされることで観念の範囲に属している。
 観念の特徴としていえることは、たいていの場合、恣意的に想起や忘却ができることである。もちろん夢や幻覚のように例外がある。夢や幻覚は現実に近いのであり、知覚している対象を恣意的に消し去ったり、単なる意志によって変えることはできない。しかし現実と区別することは可能である。現実に知覚しているものは、それを物理的に処置しない限りは、私の前から消えることも、変えることもできない。現実に対する操作は身体的、物理的であり、観念、夢、幻覚に対する操作は心理的であるといえる。現実は観念の源ではあるが、観念とは独立した法則によって動いている。観念は現実に対しては、その法則とその動きをなぞるだけである。観念が現実の法則とその動きから離れずに操作される働きを、記憶や想像力と名づけておく。これらは現実に密着した観念作用である。そこから因果的な推論や、未来への配慮・予想が生まれる。
(以下7・23記)
 現実とは、ヒュームの用語を用いれば、どこからともなく心に与えられる様々な印象である。印象そのものを、認識主体は作り出したり、変えたりすることはできない。しかしその影である観念に対しては、それらは再生されるものであり、心の能力の範囲内にある。それらが正しく現実を反映していると見なされるかぎり、事実とされ、それらが推論されたり、改変されたりすれば、想像や空想とされる。単なる事実であっても、それが観念化されれば、もはや現実そのものではない。そこには時間が介入しているからである。記憶としての事実は、もはや現実そのものではないのである。しかし、人間は記憶によって現実界を観念的に拡張していると言ってよい。時間を事実として把握できるのは、たぶん余剰な脳を持つ人間だけであろう。セネカは、すでに確定した過去である歴史こそが、最も確実な事実であるとまで言っている。そのような現実の倒錯的な把握は、観念を肥大させた人間のみに可能なのである。
 唯一確実な現実は、現在における事実の他にはない。今という時のほかには、少なくとも自己意識を持った存在者には、真に実体的な存在の場はないのである。それなのに、確定した過去や、よりましな未来が、唯一の現実よりも希求されるのは、人間は実のところ現実存在としてよりも、より多く観念的存在として生きているからである。この人間の余剰な脳が生み出した Idealitaet こそが、時間観念によって現実を拡大生産することによって、文明を生み出し、激越な争いと戦争を生み出した原動力であり、同時に欲望を果てしなく肥大させることによって、人類を破滅へと至らせる元凶でもあるのだ。
 確かに観念人 Ideal-Menschであることは、良くも悪くも、人間であることのほぼすべてを尽くしているといえる。時空の拡大によって、飛躍的に認識力が増し、宇宙の謎の多くを解き明かすまでになった。それもまた時空の拡大に応じた、知識欲の肥大であった。その欲は究極の謎に迫るまでは満たされることがない。かつてのように、神の怒りがそこに待っているわけではないが、究極の謎を解いたところで、人はそこに何を得るのであるか。時空の果てに、果たして究極の解答が潜んでいるのか。観念人であることが、果たして究極の真理により近いのであるのかどうか。真理を求めさせるものが、そも世界意志であるとすれば、真理愛もまた、世界意志とともに滅却すべきものではないのか。
 科学であれ、哲学であれ、宗教であれ、確実に言えることは何一つないが、少なくとも観念人であることが絶対の真理に近いとは、誰にも言えないであろう。歴史はなくても少しも困らない。未来は、今より良くなることは期待できても、いまだ実現していない。極端な苦痛さえなければ、今という現実にもくつろぎの時はある。現にあるものの中にすべてを求めて悪いわけはない。あらゆる動物がそうしているように。彼らははたして真理に遠いのだろうか。時空によって肥大した認識だけが、真理に近いと言えるのか。人間は意識的存在であることによって、同じ今に生きる存在でありながら、自己自身を考えることができる。自己が今ここにあるという驚異的事実の中にも、真理はあるであろう。

2014年4月26日(土)
脳と自我

 「消化が胃腸の機能であり、呼吸が肺の機能であるように、意識は脳の機能です。身体が滅び、脳が滅びれば、あらゆる機能は停止し、存在しなくなります。それなのに何故意識だけが不滅であり、永遠であるなどと言えるのですか。ただの妄想に過ぎないではないですか。たしかに意識の機能には、それが個々の人間にとって特別であるという意識が伴います。それはただ、ある人にはこの意識、またある人にはこの意識というように、個体に分かれているだけのことであって、ひとつの意識だけが特別であるということではありません。消化や呼吸などの機能には、自分自身を意識するということがないだけで、誰でも胃袋があれば消化の機能を持つように、誰もが脳ががあれば、自己意識を持つのです。あなたの自我だけが、唯一で、絶対であるという根拠はどこにあるのですか」
 「たしかに、意識というものをそんなふうに客観的に機能としてとらえたならば、なんら区別がないことになる。たぶん、今後人工頭脳を持ったロボットが作られたならば、ロボットの自我はどんな個体でも交換可能な自我になるかもしれない。鉄腕アトムには、本当は自我などないはずだ。単なるモニター機能なら、どんな動物でも持っているだろう。動物もロボットも、自分が自分であることを不思議に思うことはないだろう。しかし、それもまた、意識を統括する前頭葉の働きだということになれば、自我意識に何のミステリーもないということになるかもしれない。死によって、前頭葉の機能が止まれば、自己意識も消滅する。あとには何もない。個体のあらゆる機能と同様、意識にとってもみごとな無が待っている、ということになる」
 「そのとおりです。お分かりではないですか。それが理解できているだけでも、あなたにも、まともなところがあるのですね。事実がすべてなのです。トンデモや、カルトに騙されないためには、科学が明らかにする客観的事実に基くべきなのです」
 「科学の解明には、私も大いに興味を持っている。しかし事実には二種類あると思う。ひとつは、今言う科学が対象とする、いわゆる客観的な対象だ。今目の前に見ている赤い色は、実は波長何オングストロームかの波動であり、同時にフォトンという粒子なのだ。だが、一体どこに赤い色のフォトンがあるか、指し示すことは出来ない。それは頭の中の観念でしかないのだ。それがあなたの言う、科学的事実だよ。脳だって同じだ、今私の脳細胞のシナプスが、どう化学反応しているかなんて、意識と同時に見ることも、触ることも出来ない。たとえ画像に変えたところで、それは化学反応そのものではない。それが、私の知ることのできる科学的事実だ。科学とはつまり、現象を観念化し、概念化することなのだ。それが人間の思考力に良くかなっていることは認めざるをえない。なんと言っても、物事を合理的に理解できることは、気持の良いことだからね。ところが、我々の生きているのは、単なる観念や概念の世界ではない。世界がそれらだけだったら、実に気持の良いことだがね。
 私が直接赤い色としてみているのは、赤い色以外の何物でもない。それを意識の直接所与とでも言っておこうか。つまり意識に直接現前している事実だ。この赤の意識は意識に固有のものであり、言ってみれば、私のこの意識の世界以外には存在していないのだ。他の個体にも、同じような意識が存在しているかもしれない。しかしそれを私の意識と比較することは不可能である。この赤い色の意識は、この宇宙で他にどこにもない、唯一無二の意識内容なのだ。この意識の直接所与としての事実を、科学は対象とすることが出来ない。可視光線をすべて混ぜると、なぜ透明になるのか、意識のこの基本的事実を、科学は説明できないのだ。しかしそれもまた脳の機能だということになれば、とにかく物質現象であるということは言えるかもしれない。物質の根源は、ヒモのようなものであることが明らかになりつつある。脳の知覚や認識機能は、おそらく量子的レベルで行なわれているかもしれない。いわゆる意識の質なるものも、量子的物質現象と考えることができる。フェヒナーがかつて、感覚の対象として現われる世界はそのまま存在すると考えたように、赤い色は幻でも表象でもなく、まさに物質の反応そのものなのである。意識に現われたものはすべて、物質の存在そのものである。言い換えれば、意識は物質現象そのものである。」
 「そこまでお分かりなら、あなたの自我もあなたが亡くなる時に、脳の機能と共に消滅なさってください」
 「胸の痛くなるような落胆を覚えさせるね。長年抱いてきた思想を捨て去らねばならないとは」
 「真理は、感情や願望には影響されません。それらは単なる価値なのであって、事実ではありません。死について一番確かなことだけを考えるべきなのです。身体や脳の機能が止まれば、あなたも私も存在しなくなるのです。あとには世界が残ります。この世界だけは唯一の客観ですから」
 「私はあくまでもデカルトの原点に帰ろう。何が最も確実であるか、それを探究するとき、すべてを疑い、世界を疑い、わたしの意識を疑い、わたしの思考を疑っても、最後に疑っているわたしの存在だけは疑えない。その明証性、確実性に何の意味があるかといわれれば、たしかにそれに特別の意味を求めること自体不思議である。それこそが、私が常に強調している自我の不可思議である。その明証性や確実性は、生への意志によってたちまち吹き飛ばされてしまう。食べることや、欲望や、身の安全のほうが、はるかに大事である。空腹に苦しんでいるわたしの明証性などに何の意味かこれあらんだ。とはいえ、trotz alledem、たとえ私が飢餓で死のうと、私の明証性、確実性は飢餓によって滅びはしない。私の飢餓や苦痛は幻であるかもしれない、少なくとも私はわたしの身体を疑いうる。世界意志を疑いうる。いかに悲惨な死を迎えようと、私は私の死を疑うことが出来る。そもそも肉体の存在を疑えるなら、肉体の死をも疑えるのだ。しかし死があろうとなかろうと、死んでいく私の明証性、確実性だけは疑うことが出来ない。私は死を超えているのだ」
 「なぜそう言えるのか、私にはやはり解りません。死ねばあなたはない。あなたも私も、死ねば何一つ残らない。身体も、脳も、あらゆる機能が失われて、ただの物質に帰るだけです。あとには、客観的に唯一確実なこの世界が残るだけです。この世界が滅びるならまだしも、まだまだ何億年、何兆年と続いてゆきます。あなたが存在しようとしまいとです」
 「私が死んだあとに果たしてこの世界は残るだろうか。時間・空間というものを考えてみよう。私もあなたも、なぜかこの現在と言う特異な時点に生きている。不思議なことではあるが、この時点から離れることが出来ないのだ。しかしこの今という時点は果たして絶対なのだろうか。18世紀に存在していたニュートンは、彼にとっての今と言う時点を持たなかっただろうか。ニュートンにとっては、私やあなたの生きているこの現在などは存在していないのだ。彼にとっては彼の生きている現在こそが唯一の実在的時間なのだ。20世紀に生きていたアインシュタインにとってはどうだろう。ニュートンにとっての現在も、私とあなたにとっての現在も、アインシュタインには存在していない。彼にとっての唯一の実在的時間は、彼の現在のほかにはない。なぜ私らのこの時だけを絶対と見なすのか。絶対の時は、今でも、過去でも、未来であっても良いのだ。すると、私の肉体が滅びたあとに存在する世界というのは、いつ、どこに存在していると言えるのだ。もし今2014年4月26日午後3時50分に私が死んだとしたならば、世界は時計のように、はたして私の時間を引き継ぐのだろうか。なぜそれが50億年後であったり、1兆年前であってはいけないのか。どの今も同じだけの絶対性を持っているならば、それはどこであっても良いわけだ。どこであっても良い時間などは、もし私が輪廻転生でもしないかぎりは、無意味である。もし私が生まれ変わるならば、私が死んだ次の瞬間には、途方もない未来か、過去かに、どこの宇宙とも知れない世界に、何らかの存在として、再び目覚めているだろう。それが私の不滅の意味だ。私が死ぬとき、私の知る世界も滅びる」
 「よくもマア、一介の人間がそんなことを言えますわね。あなたは一体何様なのです」
 「マア、ある種の神様でしょうか。絶対であり、不滅である点では、神のようなものでしょう」
 「神様なら、我が家の生活を何とかしてください。百円ショップで、百円の買い物をすることを恥ずかしがらないで下さい」
 「いや、またそれは別の話で。いまは形而上学を論じているので」
 「そんなものは妄想です」
 「プラトンやアリストテレスを、妄想だというのかい」 
 「歴史上の人たちではなく、あなたの妄想だというのです」
 「たしかに、形而上学は、20世紀以来流行らない。哲学者達も相手にしなくなってしまったが、私は形而上学の実践をめざしているのだ。いわば応用だね」
 「そんなことよりも、もっと仕事をして稼いでください」
 「それとこれとは別だがね・・・」

2014年7月15日(火)
人間社会という環境――言語について

 環境は生命にとって、その死活に関わる問題である。というよりも、環境が生命を生み出すといってよい。動植物にとって、物理・化学的環境がすべてである。個体間のコミュニケーションも、その延長の上に成り立っている。縄張りや、棲み分けが、物質環境によって決定されていることに典型的に現われている。人間も基本においては、物質環境の上で、その生存範囲が決定されている。その限りでは、動物と違いがない。しかし人間は観念的動物であることによって、言語によって成立する、特別な環境をその上部に作り上げたのである。
 観念はそれ自体では社会性を持たない。それを言語によって交換することによって、初めて普遍的なものとなる。普遍化された観念が、人類共通の意識という特別の環境を生み出すのである。それを保障しているのは言語のほかにはない。言語以外には、精神界も、客観的世界も、それを表現する手段はないのである。そればかりかその存在を保証する手段さえないのである。神が世界を保証するのではなく、普遍化された観念である言語がそれを保証するのである。言語を使うこと自体が、個人を実にやっかいな事態へと巻きこむことになる。
 言語を使うことによって、自己の思想なり情念なりを対象化してしまう。対象化された自己は、客観視されることによって、自己と離れた存在と意識され、場合によっては自己と対立する。そうした第二の存在を、社会の中で自己として表わす外はなくなるのである。言語化され、対象化された自己は、確かに、社会の中で客体として通用するようになる。人は他者を、または自己を、何かとして言葉で言い表わすことによって、理解したと考える。彼は、のん兵衛である、好色である、けちである、堅物である、等々。その言葉がその人なのである。それが通用するのは、言語によって保障された社会環境である。そこでは、人は言葉として存在する。
 言葉としての自己の存在を社会の中で確立しなければ、人は社会の中で生きてゆけない。あるいは少なくとも、非常に不利な人生を生きなければならない。それは自己の発する言葉であろうと、他者の発する言葉であろうと、違いはない。背景に共通な意識があるかぎりは、誰の言葉でも普遍化される。それが人間の第二の環境である。そうであるならば、言葉を発した途端に、個人の自己疎外(Selbstentaeuserung)が始まると言えよう。自己を自己でないものへと譲り渡すのであるから。譲り渡されて客体化された自己は、勝手に一人歩きしかねない。それを個人はどう防ぎようもない。その絶望的な個人のあり方を、救うことができるのが、また言語の外にはないのだが、圧倒的な言語環境の力の前に、押しつぶされてしまうのである。言語でもって言語に抵抗する、それによってますます個人は言語の虜となってしまうのである。その例を漱石の初期の、悲憤慷慨する作品に見ることができよう。
 言語はだれ一人聴くものがいなくても、それを発したものに影響を与える。言語を発した途端に、そこに世間や社会の幻が現われるからである。その幻に自ら傷つきもしよう。その言葉の力を、他者へ向けない限りは。ペンは剣よりも鋭く、人を刺しうるのである。言葉は客体化することによって現実以上に現実となる。人間社会にとって、現実とは言葉であり、言葉は現実である。隠遁者たちが、言葉を警戒し、ついには沈黙をこととするのもそのためである。汚らわしい言葉を聞いたときは耳を洗い、時には耳を閉ざすことが必要である。そして自らも、汚れた言葉を発しないことである。社会環境の良し悪しは、その言葉の良し悪しによって決まる。この国の現在は、その言葉によって見る限り、最悪の状態にあるといえる。そのような環境の中で、なおも言葉を発しようとならば、せめて自分自身が傷つかないように心すべきである。

2014年8月28日(木)
愛について(愛の形而上学)

 愛は何らかの対象に向かう心情的な意欲である。他であれ自己であれ、対象のないところには愛は動かない。その点で愛は欲望=世界意志の発現そのものである。世界意志は表象を欲する。対象化された世界を、世界意志は自ら貪るのである。その際意志は個別化されて、貪っているのが自ら生み出した表象界であることに気がつかない。ヒドラの頭部の様に、互いに互いを貪る蛇の群がこの世界である。
 愛は対象を貪る心であるから、果てしなく貪欲である。無慮無数の対象を自己のものとしてとどめておく、または消化しようとする、基本的に他へ向かう欲求である。現実存在への意志一般であった世界意志が、他への所有の意志へと変化し、そのようなものとして発現しているのは、時間空間における個別化の原理をその発現の形式としたためである。そこにまた自己愛の本質がある。
 愛は心情的な意欲であるから、心情的な満足を求める限り、自己自身の意欲の充足以外の何物も求めない。その点では愛の対象が他者、他物に向かう場合でも、自己自身に向かう場合でも違いはない。愛が自己自身に向かうとは、自己の身体や、思想や、心情を愛することであるが、愛が他に向かった場合もまた、自己自身における愛の充足を求めていることに違いはない。しかも、愛は自己を対象とするよりも、他者や他物を対象とする場合の方が、はるかに強い満足を与えるのである。これはそもそも自己自身に充足できないことから世界を創造した、世界意志の本質にもかなったことである。自分が死ぬことは場合によっては我慢できる。なぜなら自己の死は、個としての自己の消滅であり、その過程はどうあれ、それ自体は苦ではない。しかし愛する他者の死、または他物の消滅は、自己が消滅できないだけに執拗な苦しみとなる。人が自己犠牲によって、他者の生命を救うことがあるのは、まさにこの世界意志のジレンマにある。満たされない愛欲を抱きつづけるほどの心理的苦痛は、他にないのである。
 基本的に個としての世界意志は、自己愛のかたまりであるといってよい。その愛が他へ向かおうと、自己犠牲であろうと、世界意志は常に自己の充足を求めているのである。人類の罪を背負わなければ満足できないのならば、それも自己愛である。まさにキリストは愛(世界意志)である。隣人愛もまた、それが隣人を愛することによって自己に満足をもたらすならば、それも自己愛である。自己自身の身体や、知性や、人格や、を愛することによっては得られない満足を与えてくれるであろう。自己とは何とやっかいな存在であろうか。
 世界意志がふと反省によって、おのれの本質をかえりみた時、この世界が悪魔の創造物であるように思われるのも不思議ではない。カタリ派もそう考えたことによって、教皇という別の悪魔によって滅ぼされた。自己自身の悪魔性をかえりみた時、世界意志は自己の根源への回帰を始めたのである。それは表象としての世界の否定であり、この世界が発現する以前の、空無への回帰である。それはどこぞやの、この世界のコピーのような天国や極楽ではない。個の消滅によって、普遍の本質に帰り、存在の迷妄を断つことである。
 おそらくこの宇宙は存在へといたる限り、愛欲の世界であることを免れないであろう。プラトンによればイデア界でさえ、知的愛欲(エロス)の対象なのである。イデア界は本来”存在”であってはならないであろう。”真の存在”である必要すらない。存在の迷妄を断つときは、イデア界もエロスの対象である限りは消滅する。自我もまた、愛欲に支配された、動物的自我である限りは消滅する。純粋自我はもはや対象を持たないであろう。おのれがおのれである(Ich bin der ich bin)以外の存在ではなくなる。世界意志の消滅とともに、すべては空無にやすらう。再び世界意志の創造はくり返されるであろうか。もはや世界意志と共にない純粋自我である私には、それを知ることはできない。再び世界創造がくり返されるならば、再び釈迦が現れ、再び世界は消滅へともたらされるであろう。それがこの宇宙のどうにもしがたい輪廻であるならば、常に救済の可能性がそなわっているだけましというべきか。

2014年9月20日(土)
エゴロギア

 自我は心理的かつ脳生理学的に三要素に分かつことができる。一つは自意識、二つは見当識、三つはそれらの基盤となる記憶である。これら三要素は、脳においてはdefaultの機能として、つねに無意識に活動しているそうである。自意識は前頭葉に、見当識は脳後部に、記憶は中央部に位置し、離れていながらつねに同期している。意識的活動よりも、脳が休んでいる無意識において、脳のその三部分は強く活動しているのであるという。
 自意識は、広く自己自身の体と心の内部における状態の意識、または情報であり、内面に向かう意識である。自己の身体が基準となっているので、人間に限らず、あらゆる動物にも備わった意識であるといえる。即ち動物的自我である。ある点で動物的自我は、意識的よりも無意識においてよりよく働くといえる。それには見当識が深く関わってくる。
 見当識は、自己の身体を取り巻く環境の意識であるといってよいだろう。時間空間の観念を基礎として、身体の置かれた位置、事情を、自我は常にとらえていなければならない。この意識がたぶん、自己意識に先立って、動物界に生じてきたことであろう。食いつ食われつの生命界では、基本的に自意識などにかまっていられないので、この見当識はほとんど無意識に働いたことであろう。それと対応して、身体内部の反応が自意識を生み出した、あるいはその反応そのものが自意識となったのであろう。
 この見当識と自意識の関係は、身体的運動においては圧倒的に無意識に成立したことであろう。今でも、スポーツや楽器の演奏や、そもキーボードのブラインドタッチにしても、意識などはほとんど関与していない。これが<考える人>の正体である。人間は普段は考えてなどいないのである。脳は意識とは無関係に不断に活動している。脳もまた無意識的生命の一環なのである。環境の刺戟からの余裕があって、初めて自我は意識的に働く。あるいはそもそも、自我意識は必要とされない。脳に意識に遊ぶだけの余剰がなければならない。たいていの動物は、環境の刺戟から免れている時は、まどろんでいる、つまり無意識でいるのである。
 
 このように見ると、意識=自己意識とは非常に特殊な現象であると言える。それ自体では、生命活動に対して大した役割を持たない。それどころか、無用で、場合によっては有害でさえある。それを精神と名づけて、生命や物質と対峙させたのは、まさに人間の驕りである。それにしても、自己意識が見い出した世界は、ショーペンハウアーの言う表象としての世界に当たるが、なんとも美と驚異に満ちた世界である。それを自然界と名づけようと、感覚界・観念界と名づけようと、ある種の存在の世界である。人間が、または動物が知りうる唯一の世界なのである。快適さとは、その世界の美的享楽でもある。この苦の世界に生まれてきた、ある種の報酬であるともいえる。それがなければ、この世界は全くの地獄なのである。恐竜たちに追われていた人類の祖先の哺乳類にとって、こうした美的享楽は夢にも考えられなかったであろう。この世界が美として映るようになったのは、人類または動物が、比較的安定した時を持つことができるようになってからである。
 それでは自己意識は、とりもなおさず生命界の超越であるといえるのだろうか。単に生命界の余剰物、おまけ、よく言って報酬に過ぎないのではないか。生への意志に追い立てられている驢馬の鼻先にぶら下げられた、人参のようなものではないのか。それを精神と、理念と、美的イデアと名づけようと、生への意志がそれによって鼓舞され、たぶらかされていることに違いはないのではないか。それによる充足は一時的であり、いかにそれを永遠・絶対視しようと、誰もそれに到達したものはいない。プロティノスも生涯それを数回垣間見たに過ぎない。表象としての世界は幻である。そこにイデアを見、その中に永遠を探求しようとする自己意識もまた、自己欺瞞にすぎないのであるかもしれない。
 しかし、表象としての世界の中には、たとえそこに到達したり、それを手に入れたりすることはできないとしても、ある種の永遠の面影があることは認めても良いであろう。それをプラトンやプロティノスはイデア界と名づけた。イデアは直観的な美であると同時に、抽象的な概念でもある。それの影のようなものがこの表象界であり、またそれの不完全なモデルが人間の精神の中にも具わっている。東洋では天の観念の中にそれを見、天に従うことが、単なる生命を超越した生き方とされた。現代では自然科学が、プラトンの理論を代表するであろう。現象の背後に、普遍妥当の法則を求めることは、イデアの探求にほかならない。現代のイデアは、全くの数式と化してはいるが、プラトンもまた数学の研究からイデア論を展開したのである。しかし人間精神の探求しうるイデア界は、精神そのものがイデア界の不完全なモデルである以上、不完全な、相対的な像であるにとどまるだろう。精神という鏡の歪みが、またイアデ界をゆがめて映すのである。こうして物理学の奇妙きてれつな宇宙観が生まれるのであるかもしれない。人間精神にはそうとしか捉えられないのである。物質が、粒子であろうと、波であろうと、ヒモであろうと、それは究極のイデアそのものではないであろう。
 自己意識は結局、それ自身の限界によって行きづまらざるを得ない。自然における人間の位置という、見当識によるとことんの探求であれ、自己の内面に向かう心理的深層の探求であれ、前者はカントの言う理性の限界により、後者はフロイトの探求した無意識界の闇により、挫折をよぎなくされる。人間は生への意志という、盲目の世界原理から発し、自己意識と理性によってイデア界に目覚めながらも、ついには究極的に自己自身を理解する能力を持たないのであるか。世界意志に従う限りはそのとおりであろう。そこには目的もなく、ただ存在への闇雲な意欲があるだけである。肉欲を始め、心情も知性も理性も、イデアの探求ですら世界意志の手のひらの上で踊る他はない。自己意識もまた付録にすぎないのである。意志の道具としての知性や理性に従う限り、自己意識は意志のくぐつに過ぎない。
 すべてをリヴァースさせることによって、別の可能性が生まれる。このことに気づいたのは東洋人であった。表象をマーヤ(幻)と見、知性や理性をまやかしと見、意志の滅却へと向かった禁欲的な修行者たちが、究極の自己意識を見い出していったのである。自己意識は空となり、無となることによって、意識そのもの(Bewusstsein an sich)へと到達したのである。そこに見い出された超越的自我こそが、自己意識の本質である。それは神としての自己の発見である。あらゆる神秘主義者が発する言葉、それによって迫害を受け、場合によっては処刑された、存在の究極の神秘を表わす言葉、<神は私であり、私が神である>という真理が見い出されたのである。世界意志やその表象や、知性や理性や、イデア界や、自然科学が、どれ程の真理であるかは、私は知らない。私が確実に知ることはただ一つ、私が間違いなく存在するということである。その究極の自己意識を見つめることで、私はあらゆる迷いを断つことができるであろう。あらゆるものを疑い、否定しても、ついには疑い得ない私の存在こそが、この宇宙の唯一確かな原理なのである。

(付記・脳理論における私の意識
  最新の脳科学では、自我意識は脳の神経細胞のネットワークそのものに過ぎないとされる。何兆という数の脳細胞が互いに連絡しあい、全体としてネットワークをつくり活動することそのものが、意識、即ち自己意識=自我なのであるという。これはかつてヒュームが、自己意識=私とは観念の束であると言ったことを、脳科学的に言い換えたに過ぎないであろう。観念の束がどうして自己を意識するのか、その観念の束を離れては何事も言えない。そうした懐疑論の影もなく、現代の脳科学は、神経細胞の束ばかりか、コンピューターや機械にも意識が可能であるとする。そればかりか、物質も何らかのネットワーク・システムを作れば、意識が生まれるということになろう。
 脳が滅びれば、自己意識もないではないかと誰もが考える。私が私を意識できるのも、神経細胞のネットワークが、それを統括する意識として自意識を生み出しているからである、ということになろう。ではその統覚は、脳の一体どの部分にあるのか。モニター室のようなものが作られているのであろうか。そうなると、単にネットワークだけでは、自己意識は作られないことになる。観念の束だけでは、統覚は説明できないのである。カントはそれを先天的な機能として、精神の能力に加えた。それに対応するものを、脳科学も見つけなければなるまい。仮にそれが可能であったとしても、自意識は単に脳の機能であると言い切れるであろうか。
 自意識は私が他ならぬこの私であるという、特有の意識によって色濃く染められている。たぶん動物的自我は、相互に交換可能かもしれない。ミラーニューロンのような情報交換装置によって、自我は他我と融合する。集団的、群衆的行動においては、もはや本質的意味での自我は存在していない。そこでは陶酔や、怒りや、欲望によって、誰の自我も同じ色に染められている。私が彼で、彼が私であっていけないわけはない。すべての人間が、一人のヒトラーであっても良いのである。既に論じたように、全体への意志が自我を消滅させ、まさに人類全体が一つの個となるのである。そうしたところに自意識は生じようもない。ただ一人のヒトラーがいるだけである。
 ネットワークが自意識であるという考えは錯誤であろう。単に意識装置に電流が流されたようなものである。意識のエネルギーは電子の軌道のように、ある跳躍的な段階を取るようである。スイッチを捻ったように、特定の明るさで灯るのである。それは自意識を照らし出す光であって、自意識そのものではない。)

2015年7月19日(日)
意志と情緒

 呼んでいるのは 嵐だろうか争ひだろうか
 鷲だろうか 意志だろうか
 よわよわと呼んでいる
                  ――立原道造

 人間のタイプには二種類ある。意志型と情緒型である。意志は意欲と激情とに彩られている。活動と生命と、闘いと交渉と、策略と陰謀と、要するに現実が要求するすべてのことに対応する根本の欲求である。自然的意志は動物界、植物界を問わず、生命界全般にわたる根源的意志であるが、人間の場合はさらに社会的、政治的意志へと分岐してゆく。このタイプの人間は、事実・現実がすべてであり、生活のための営みはもちろんのこと、経済活動、政治的活動、社会的意識のほかにはなんらの関心も興味も抱かない。<意志的人間>は徹頭徹尾、世界意志の命ずるままに生きている。
 これに対して、情緒型の人間は、事実や現実に嫌悪を抱く。情緒は何と世界意志とは異なった、穏やかな、平和な状態を希求して止まないことだろう。事実や現実はたちまちにして忘れ去られる。現実に触れることによって、情緒はけがされる。これは誰もが、絵画や音楽の鑑賞において知るところである。リアリズムは、真の<情緒的人間>にとって邪道であり、唾棄すべきものである。抒情こそがすべてである。
 このように二つのタイプを並べてみたが、実はこの相反する傾向はすべての人間に多かれ少なかれ、具わっているのである。ヒトラーも政治的人間である前には画家であったし、毛沢東も詩作し、暴君ネロも音楽愛好者であった。血なまぐさい戦闘をおえたアキレウスが、琴などを奏でているのは、日本の戦国武将が能楽に魅せられたのと共通する。不快な現実と、平和な情緒の世界。この分裂が人間社会では極端である。
 存在への無限の衝動である世界意志の発現したこの世界では、地獄の様相の中に自ずと救済の萌芽が内包されている。さもなければ、世界は永遠の地獄であり、釈迦もキリストも迷妄に生きたことになる。救済は争いや激情の中にではなく、平和と理想の希求の中にある。その希求が青空のようにとらえどころなく、到達し難いものであるとしても。
 そこへと導くものは、穏やかな意志とでもいった<情緒>なのである。これは世界を変えようとか、世の中で成功しようとかの、いわゆる野心や志などではない。まさにinteresselosな(利害関心のない)穏やかな心情の波立ちなのである。ここにストア派の言う心の平静(アタラクシア)が生まれてくる。子供の頃、夕月や宵の明星を眺めていると、不思議に心が鎮まっていったものである。大人になって失った、そうした純粋な情緒の働きを、とりもどすことができないものだろうか。
 <意志>の向かうものが権力や支配や、そのための富や知識であるとすれば、<情緒>の向かうものはそれらすべてを否定した、芸術であり、美であり、思索である。一人の人間の中にはこの二つの傾向があい拮抗して存在している。意志を無視すれば不安と、困窮と、疎外におちいる。情緒を拒否すれば、粗暴な、不満と挫折に満ちた人生が待っている。<意志的人間>は基本的に不幸である。この世界での究極の成功などありえないからである。そうした人生の決算において不幸であった人たちを、周囲においていくらでも見ることができるであろう。なにもシェイクスピアの戯曲を読むまでもないのである。
 <情緒>だけに生きる人間もまた不幸におちいりがちである。意志を無視することは生活を放棄することであるから、たいていは破滅が待っている。文学や詩や芸術に生きようとするならば、そもそも生きることをあきらめねばならない。ネルヴァルやポオやゴッホがその模範となる。情緒の向かう先にはまた救済への希求がある。純粋な宗教者は情緒を頼りにして意志の根本的滅却へと向かう。心の平静の先にあるものは、無もしくは空の境地である。そこではもはや情緒は梯子の役割を終えて、情緒すらが消滅してゆくであろう。しかし、そこはすでに形而上学の領域である。
 現実へ向かう意志から派生した意志である情緒は、現実と反対方向を向くことによって、本来の世界意志と衝突する。これが人間であることの基本的な悲劇の根源である。意志と情緒の間に引き裂かれた人間は、一種の精神分裂におちいっている。いわば人類は皆一種の狂人なのである。地上での生命進化の果ては、狂った知的生命を創りだすことであった。人類は人格の統合失調において、狂った文明を作りあげてきた。自らが狂っていることに気づかないことは、狂人の典型的な特徴である。普通に狂人と見なしているのは、実は逆にこの意志と情緒の分裂を、完遂することによって純粋化した人たちであるといえるかもしれない。意志そのもの=完全な動物であればこれほど楽なことはない。情緒そのもの、純粋な観念にのみ生きる人間であれば、この現実界などどうでもよい。むしろ狂人と称される人たちのほうがまともなのである。

2016年3月3日(木)
意志の不自由について

 意志という用語は誤解を招きやすいので、最初に定義しておく。普通の意味で、意識的に判断する能力としてよいであろう。判断とは、何らかの選択の働きであって、思考であれ、行動であれ、意識を伴って決定ないし決断することであるとしてよいであろう。つまり意志とは判断する能力のことであり、判断力と同一であるとしてよかろう。この意味での意志に関して、その行使が個人の行為において根本的に自由であるのか、あるいは何らかの原因ないし根拠によって決定されたものであるのか、それが哲学的な意味での意志の自由をめぐる議論である。
 西洋において、科学的思考が主流を占めるにつれて、この議論は決定論が優位に立つ。科学者はもちろんのこと、デカルトから発する唯物論や汎神論においても、人間には自由意志はないものとされる。スピノザの比喩を借りれば、投げられた小石は、もし意識があるならば自身が自由に空中を飛んでいると思っているだろうが、その飛跡は厳密に重力の法則によって縛られているのである。、
 現代では相対性理論や量子力学によって、因果律が厳密には成立しないことが分かっている。時間・空間は相対的であって、観察者それぞれの運動する立場によって異なってくる。また原子や量子の世界では、その空間と時間を一義的に決定することが不可能であり、いわゆる<ゆらぎ>が生じている。こうした因果律の概念の訂正にもかかわらず、やはりマクロの世界においては古典的決定論は成立していると見てよい。特に脳科学が、その補強をしているようである。
 最新の脳科学が明らかにしたところでは、人間が意識的に決断する前に、既に脳内でその準備がなされているという。そして実際の行為がなされる前に、すでに脳内でその指令が発せられているのである。つまり、意識は脳の無意識的作用よりも、つねにタイムラッグがあるということである。意識は判断もしくは決断のあとづけなのである。意志をあくまでも意識の伴う働きと考えるかぎり、そこにはなんら自由はない。すでに脳内でそう判断すべく決定されているのであるから。無意識の作用まで意志に加えるならば、なおさらのこと自由意志などはないのである。
 有名なブリダンのロバという決定論の譬えがある。渇きと飢えと同等な量だけ与えられたロバがいるとする。そのロバの前に水の入った桶と飼葉の入った桶とを、並べて置いてみる。するとこの哀れなロバは、自身の行動を決定する同じだけの原動力を与えられているので、水を呑むことも飼葉を食べることもできず、凝固したまま死んでしまうというのである。これはいわゆる意志のジレンマであり、人間も頻繁に経験することである。我々が決断する時、常におのれの内部に耳傾けている自身を見い出すであろう。何らかの情動、意欲、感情などの声に耳を傾けつつ、われわれは判断し、行動しているのである。純粋な思考ですら、それが正しいか、正しくないか、内面の声に耳を傾けていることがある。真理は美しくなければ不快だという、アインシュタインのケースもそうであろう。
 そうした意識・無意識の情動、意欲、感情が、意志の決断や判断においては、つねに動機(Motiv)となって存在している。さらに環境の影響がそれらの動機を修正したり、支配したりする。そうした原因を形成する複雑な要素を、脳が意識・無意識に処理して判断や行動が決定されるのである。かりに単純化された哀れなロバであっても、そこには脳の化学反応におけるゆらぎが生じて、決して飢え死にや、渇き死にすることはないのである。
 人間の意志的判断や行動に自由はないのに、なぜそこに自由の意識が生じるのであるか。それは意志の問題ではなく、意識の問題である。意識が脳の前頭葉の産物であることから、脳の機能のなかで特別の位置を占めていることに原因があるかもしれない。意識は基本的にモニターの役を果たしており、監視者としての優越感を持っているのである。それだけなら他の動物にも言えるであろうが、人間の意識はさらにフィードバックの機能が発達して、本来の意識である高度な自意識に到達しているのである。自己自身を意識する意識を持つことによって、意識は特別の世界を獲得する。自意識はそれ自体として無原因であり、無根拠である。おのれがどこから来たのか、どこへ行くのか、そして何ものであるのか、意識自体によっては知ることができない。それは不可解であると同時に、絶対的に自足した状態でもある。この純粋自我の絶対性が、意志の決断や行為に反映されることによって、あたかも意志そのものが自由であるかのような錯覚を生むのである。純粋自我は無根拠である点において、決定論から免れているが、判断でも行為でもない点において、もはや議論そのものとも無関係である。言ってみれば超越者である。
 意志に対して意識ははせいぜいそのフィードバックの機能において、判断や行為を修正したり、撤回したりする、上位判断の立場において、下位に対して<自由>であるといえるに過ぎない。それは相対的な自由であり、上述のように様々な原因やモチーフによって根拠づけられており、やはり事物の因果的連鎖を免れることは出来ない。そればかりか、結局そうした身体に関わる意識は意志の道具に過ぎないのであり、意志に奉仕する点において動物のレベルを出でないのである。
 *    *     *

 個人の意志的行為や判断に関する哲学的な自由の議論においては、ほぼ決定論が確かであると思われるが、社会的・政治的レベルにおける自由論は、全く次元の異なった議論である。この次元での議論を混同して、哲学的問題とすることが、また意志の本質的不自由に関する誤認を招くのである。社会的・政治的自由とは、おのれの意志の傾向を他からの強制や拘束なしに、思うままに発揮する権利のことである。この権利は人間界でのみ通用するのであり、すなわち人間社会や政治機構と切り離せない。人間社会はこの意味での自由を制限することによって初めて成り立っている。法律、規則、習慣などは、こうした自由を制限する社会規範として現われる。さらにそれらの規範を道徳や倫理として精神化し、物心両面から人間的自由を圧迫するのである。
 それでは社会的に現われる人間的自由の本質とは何であるか。環境や条件の許すかぎり、おのれの意欲や意志を思うままに発揮し、充足させること、それが人間及び動物に与えられた最大限の<意志の自由>である。ここでは意志と意識、肉体と精神とは一体化している。社会においておのれが欲するままに行為すること、その実現の可能性を最大限にもたらすこと、場合によっては意志及び意欲に対してあらゆる抑制を取り払うこと、それが社会的・政治的な自由の要求である。
 あらゆる人間がエゴイストとしておのれの意志の自由を要求するならば、ホッブスをひもとくまでもなく、人間社会は争いの巷である。幸いどんなエゴイストでも、おのれに不利なことは望まない。ある程度平和におのれの欲望を遂げたいのである。それがネガティヴな意志となって、<社会契約>を生みだすわけである。しかしそれはあくまでも他者の欲望をある程度尊重するということであって、それをないがしろにする自由までも否定するものではない。社会的規則、法律、倫理などを破る自由もまた人間に具わっている。むしろそうした自由がなければ、真の自由ではないのである。言ってみれば、悪をなす権利もまた、人間的自由に属するのである。それによって社会的制裁を蒙ったとしても、それは自由の結果として予測されたことであり、それは自由がそもそも人間社会において危険な行為であることを思い知らされることである。
 個人の意志は一方で個体保存の欲求、他方で種の保存の本能によって牛耳られている。個の欲求と見なされるものも、じつは種の保存の本能から派生したり、そのためのものであったりする。食欲や性の快楽は個のものか、種のものか、たいていは区別がつかない。おのれの自由な行為と思うものが、じつは種の保存や<全体への意志>によって操られているということもしばしばである。確信したエゴイストでなければ、意志の自由は非常にもろいものである。スピノザの小石のように、全体への意志に呑みこまれながら、喜喜として自由であると思い込んでしまうのが、大衆にとっての自由である。それは<自由からの逃避>ではなく、ある種の意志の自由なのである。しかも盲目的な自由である。この世界の本質が盲目的な意志であり、意志自体としては絶対に自由なのであるから、すなわちこの世界は盲目的世界意志の自由な創造物なのであるから、究極のところ政治的自由といえども、世界意志の圧倒的な力の前には無力であり、全体への意志が人間の自由を支配するのである。

2016年6月22日(水)
人格の多重性について

 意志の自由についての論議において、意識的判断および決断としての人間の意志には自由はなく、それらの過程はすべて脳内において無意識の活動として、意識活動に先行するということが、脳科学において明らかにされたことを述べた。そこから人格に関して重要な結論が引き出されてくる。人の人格は行為において初めて明らかにされるものであり、その点に関して人格的行為とは意識的でなければならないという前提がある。あらゆる人格論がそのように考えてきた。自己の行為を意識的にコントロールできることが、その人の人格を決定するのであると。しかしながら、行為の判断や決断が無意識のプロセスによってなされているのならば、その当事者としての人格そのものも無意識的でなければならない。意識的人格などというものは結果から見た後づけにすぎず、そのようにして発見された自己にすぎないのである。
 人格はその発生において無意識的であり、無意識界に根を張って意識界へと発現してくる自我のありかたである。言い換えれば、自我すなわち自己意識とは、意識という特権を与えられた人格なのである。しかし意識的人格ではあっても、その根源は無意識界にあり、何かを自由に、すなわち意識的に、自律的に判断したり、決断したりできるわけではない。そうした過程はすべて無意識に行われているのである。それならば、意識にはなんの存在意義があるのであるか。すべてが無意識であっても何も変わらないのではないか。その点を考えるには、意識的人格の構造を明らかにしなければならない。
 人格は根本的に無意識であってよい。その意味での人格は、個としての生命体の活動の、中枢神経系における何らかの統合の働きと定義してよいであろう。このように一般化するならば、大抵の動物にはpersonalityがあるといえる。さらに言えば、植物を含めた個としての生命体にはすべてpersonalityが備わっているといえよう。それらは本来は単一であるはずである。そうした生命体における人格の働きは、一つには感覚情報の統一的処理にある。これを感覚情報系と名づけておく。これは個体と環境、または個体と他の個体との間の感覚器官を通じた交渉であり、大抵の生命体においては無意識になされる過程である。いま一つは、いまだproblematicではあるが、生命体同士の無意識界における交渉である。これに関しては、人間の人格の多重性から考察するのが早道であろう。
 人間の人格は、生命体共通の感覚情報系を、無意識と意識との両面において処理していることが、きわだった特徴である。本来無意識であった感覚情報の処理を、意識のレベルにおいてモニターしていること、すなわちフィードバックの過程に意識を伴わせたことが、非常に効果的に生存に有利な条件を作ったのだといえよう。いわば意識はアラーム・システムである。蚯蚓は敵に襲われれば単に暴れまわるだけであろう。しかし人間は苦痛という心理的、肉体的意識によって、より効果的に危険を回避する。普通に言う人格は、この感覚=意識情報系を体現した個人である。感覚=意識情報系を備えた人格でなければ、生命界はもちろん、社会においても圧倒的に不利である。夢遊病者ではこの世界を生き延びていくことはできない。
 しかしこの意識の優位は、他方、生命界でのある種の不利をもたらしている。いわゆる本能と称される、生命界通有の無意識情報系からの離反である。感覚=意識情報系に基づく意識的人格も、その根は無意識界に発しているが、そのベクトルの方向はもっぱら外界に向かっている。あたかも意識そのものが人格であるかのような錯覚におちいるのも、この外界志向性による。ここで人格の今ひとつの要素、第三の要素を考察しておかねばならない。それは合理性、または思考についてである。
 思考が必ずしも意識を必要としないことは、類人猿の研究から明らかになっている。チンパンジーの子供は、同じ年齢の人間の子供と同程度か、それ以上の思考力を発揮する。その判断力はとても意識では追いつかないほどである。生命界での思考は基本的に無意識に行われるといってよかろう。かつて論理実証主義などは思考と言語とを同一視して、言語を持たない動物には思考がないかのような印象を与えたが、まったくの誤りであった(言語は思考にある種の影響を与えるに過ぎないというのが心理学の帰結である)。思考が人間の魂の属性であるとしたデカルトなどの哲学説も、意識至上主義に立つものである。生命界での無意識的思考は、それが必ずしも効率的であるとは言えないものの、基本的に合理的であるといえる。人間だけが意識によって合理的に思惟するわけではなかろう。人間が合理的に思惟し、推論するのは、もともと生命体に合理的機能が備わっているからである。
 これだけのことを前提にして、次のことが言えよう。無意識的人格も思考する。いやむしろ、意識的人格においても、その思考の大部分は無意識になされている。無意識界は思考するシステムなのである。このことによって、人間の意識的働きが単なる結果であって、少しも自由な判断や、決断に関与していないことの根拠が明らかになる。意識には自由はない。しかし無意識と意識との連合からなる、いわゆる意識的人格、すなわち自我の独自性はそれによって失われるわけではない。意識=自我は少なくとも人間において、世界と対峙する主要な窓であり、個体を代表しているのである。それが表の人格(front personality)である。この表の人格の強力な自己主張によって、人間社会は成立し、文明の発達が可能になったのである。
 他面、表の人格というペルソナの陰に、絶えず見え隠れしているのが無意識界にうずもれた影の人格(shadow personality)である。人格の発生期において、一つの強力な自我が形成されることによって、他の可能的人格は無意識界に後退をよぎなくされる。表の人格は唯我独尊であり、他の人格の意識界への昇格を許さない。この徹底した専制こそが、意識を安定させるのである。意識界への闘争に敗れ去った影の人格は、しかし冥界の王のように無意識界のある領域を支配する。そこから時に意識界の人格への干渉を試みもするのである。表の人格も、個体の主権者として、意識界と、無意識界の広範囲を支配している。というよりも、元来人格は無意識界から発生するのであり、無意識界で最も強力な部分が意識の領域を独占するのである。しかしその関心は主として、感覚情報系によって得られた外界の対象に向けられており、内界に対しては比較的無関心である。生命がもつもう一つの情報系である、無意識内でのネットワークシステムに関しては、ほとんど無力であるといってよい。このことを具体例で示そう。
 意識が頼りにする感覚情報系は生命の大多数の必要を満たすものの、不完全であり、場合によってはまったく役にたたない。その良い例が確率的事象である。単にコインの表と裏のような二分の一の確率ですら、意識的思考は途方にくれてしまう。気象学が降水確率50%と予報した場合、傘を持って出るかどうかはギャンブルにひとしい。空模様や、あらゆる感覚的徴候に照らして判断したところで、決して確信にいたることはない。結局降らないだろうと予測しても、<万一を考えて>傘を持っていくことになる。一日降らなければ、無駄なものを携えたことに腹が立ち、降ればやはりよかったと思う。あるいはその日にかぎって天気予報を見過ごし、傘を持たなかったので、雨に降られて難儀するような場合、自分のうかつさを責め、一日<悪運>につかれた気持になるだろう。かつて天気予報は占いの領域であった。占いが信用を失ったのは天気予報が当らないからであった。
 動物界では見られないのに、人間だけがギャンブルや占いにうつつを抜かすのはなぜであろうか。さらにそれらと関連して、運命や宿命といった観念が人間を支配しているのはなぜであろうか。それらが本来無意識界と関連している事象だからである。
 無意識界は純粋に確率的な事象は、確率的に対処する。それが唯一合理的対処法だからである。蟹は数万匹の子を産むが、無事に育つのはわずか数匹であるという。この世界が反粒子の世界でないのは、宇宙創生に当って反粒子の数がほんの数粒少なかったからだという。神は確率的に宇宙を作ったが、ギャンブルはしなかったろう。ギャンブルや占いをするのは、人間が意識的に確率的事象を克服しようとするからである。意識では対処できないものを、意識に従わせようとする傲慢さが、意識の本質である。しかし敗北によって、卑屈になった意識は、思うままにならない事象の背後に、何らかの隠れた力や情報を求めようとする。それは意識が忘れ去った無意識界の外界への投影であるといってよい。占いは本来無意識界と向き合う一つの仕方であるが、それを運命や宿命といった観念もしくは神格化によって、間接的に表現したのである。そして、ある場合には有効であった。
 これらのことを前提として、無意識的人格の本質と機能とを推論することができよう。無意識的人格が存在することは、多重人格者の存在によって明らかである。人格が本来無意識的であり、そこから意識的人格も発生するのであってみれば、無意識的人格はより本質的である。感覚情報系はすべて無意識に処理され、意識に達することはない。たいていの生命体はその状態にある。無意識的人格の特徴は、しかしその点にはない。あらゆる人格は、感覚情報系の処理機能を多かれ少なかれ持っていると見てよかろう。無意識的人格の強みは、意識的人格がほとんど失っている、無意識の情報系、あえて言えば、集合無意識ネットワークによる情報系を支配していることである。意識ではとらえられない情報を、無意識的人格は無意識界のネットワークによって得ているのである。俗に言うテレパシーとはこの無意識界のネットワークにほかならない。
 この仮説は、生命界の多くのことを理解しやすくする。生命進化は無意識的におこなわれているのであるかぎり、環境とはこの無意識界のネットワークとみなすことができる。種や個体生命間の絶妙な適応が無理なく理解できるであろう。人間社会においては、事情はより複雑である。唯我独尊的な意識的人格が支配することによって、無意識的人格はいわば冥土に押しやられている。しかしその力を常に恐れているのである。無意識界は二つに分裂する。崇めるべきものと、恐れるべきものと。神と悪魔と。善と悪と。意識は個であり、無意識は全体であり、集合である。その全体であるもの、集合であるものに、個としての意識的人格が対峙する時に、全体としての無意識界は神として、また悪魔としての人格を現わすのである。しかし無意識界は神でも悪魔でもない。それは猿や犬の中に悪魔も神も宿っていないのと同様である。無意識界は自然そのものなのだ。それは意識がとらえる自然ではないけれども。生命としての全体性、集合性を具現した自然である。そこから現われる無意識の人格は、個ではなく、種や類のために機能しているであろう。それ故に個にとっては、その作用は宿命とも運命ともなりうるのである。エディプスを導いた無意識の人格は、宿命となって彼を滅ぼしたが、その教訓は人類の糧となったのである。
 一個の人間は多元的な人格からなっている。その根源は無意識界にあり、生命界、自然界にある。人間のあらゆる困難は、意識的人格の発生によって生じた。自然の上に立とうとする意識的人格は、無意識界を足下に踏みしめて、この世界を独占的に支配しようと試みている。しかし大地を支配するのは無意識的人格である。それと闘うためには、ヘラクレスのように敵を大地にふれさせないようにするほかはない。しかし人間自身大地の子なのだ。その力を大地自体から借りている。そこに人間存在の解決し難い矛盾がある。

2016年7月6日(水)
個体の意志

 この世界の本質であり、物自体としての実体的存在である宇宙意志は、全体者であり、時間・空間・因果性の外にあり、それ自体で充足した無限のエネルギーであるといえる。それがビッグバンによって無限の連鎖的な宇宙を生み出す過程は、比喩的には<流出>として、量子力学的には<ゆらぎ>と言い表わすことができよう。宇宙は無限に生まれ、生まれた宇宙はまたそれ自体の法則によって無限に増殖してゆく。138億年前に生まれたこの我々の宇宙は、この無限のループの中の一つに過ぎない。それが今日の宇宙論の教えるところである。この無慮無数の多元宇宙のひとつひとつは物理的に限りなく多様であり、たまたまこの宇宙においては、生命や知性体が発生する条件がそろっていたのである。それらの条件、時間・空間の次元や、因果律や、クオークや素粒子の存在などは、絶対ではなく、いわば幻影のようなものである。クオークなどの物質の発生しない宇宙もありうるのである。そうした多様な宇宙の中での<自然選択>によって、偶然に生命・知性の発生する宇宙もありえたのであるという。
 現代の物理学が描きだす宇宙観は、近代科学が徹底して嫌った形而上学が説くところと接近しつつあることは興味深い。宇宙全体を一つの生命体と見なす量子力学的発想も、素朴には世界有機体説を思わせるし、ショーペンハウアーの<意志としての世界=生への意志=世界意志>と一致する点がある。世界意志そのものは全体者であるが、その発現のループの一つであるこの宇宙は、一個体と考えることができる。そこに現われる意志は、すでに個の意志なのである。すでに始めからシステムへの意志を露わにしているのである。宇宙はエントロピーの低い状態すなわち秩序から、エントロピーの高い状態すなわち無秩序へと発展していく。個としての統一をもった状態から、さらに無数の個へと多様化していくのである。単一であるものが最も高い統一性をもっている。一から多へと宇宙が個別化を遂げていくのと裏腹に、統一への意志がシステムを形成していく。システムとは多くの個を包みこみながら、個の集合を超えた統一的全体を生み出すことである。その統一は個々の要素の中にはなく、複雑系の科学が言うところの創発的なシステムから生み出されるのである。創発とは、「構成要素間の局所的な相互作用が系全体の大域的構造を生成し、この構造によって規定された全体的特性が、フィードバック的に構成要素の振る舞いに影響を及ぼす」という関係であり、その際<全体は部分の総和ではない>。(吉永良正「複雑系とは何か」による)。
 個体の意志がこのようなものであるならば、個とは世界意志そのもののシステムの形を取った似姿であるといえる。最大のシステムとしての宇宙全体から、素粒子のシステムに至るまで、システムの階層構造がこの世界を一つの有機体としているのである。無限大と無限小の間の中間者としての知的生命体にとっても、この両極限は無縁であるわけではない。量子力学的システムは生命や知性の働きを支配しており、宇宙の諸条件はこの宇宙の現われ方を支配しているのである。一個の知性的生命体としての人間は、まさに小宇宙なのである。世界意志の個としての現われである人間の使命とは、ひたすらシステムを維持することにある。それが<全体への意志>の正体である。自己自身が一つの統一的システムであるために、そのシステムを維持するためには、他の階層的システムをも維持しなければならない。個のシステムは類のシステムへと収斂されて、創発的全体としてその中に消滅する。それは身体の諸システムが一個の動物的生命を作りあげるのと同様である。そのようにして一般に自然はエントロピーの増大に抗してきたのである。
 個の意志がより大きなシステムへと、単一へと、駆られていくことは、世界意志の本質へと回帰していく運動であるかぎりは、この宇宙のあらゆる存在物、存在者の宿命であるというほかはない。個体を維持しようという努力そのものが、すでに個体生命の統一というシステムへの努力にほかならないのであるから、そのシステムが危機にさらされる時、より大きなシステムへの帰属を希求するのである。その意味では、個体保存も種の保存も原理的には同じである。どの階層のシステムであれ、まず個体としてのシステムがあり、そのシステムの確保において上位のシステムに組み込まれていくのである。そして大抵の場合、個体システムの確保は上位のシステムに依存しているのである。
 具体的に人間社会において考察してみる。個としての人間はおのれ自身を確立するためには、他の上位のシステムを必要とする。誕生と同時に、生命としては無力な個体は親・家族・親族のシステムに従属せざるを得ない。家族から独立するためには、あるいは家族そのものも、また共同体や部族や国などの、社会システムに従属せざるを得ない。個のシステムの確立と同時に、社会システムへの同化の過程が進行していくのである。これは生命界に共通して見られる個と類との共軛関係であり、ポリス的動物としての人間のあり方でもある。上位のシステムは、その成員である個々のシステムとは独立に存在するかのような見かけを持つ。法人としての会社や、国家などは、それ自身概念的に独立した実体と見なされるのである。それらに対して個としての成員が忠誠を誓わされたり、身を犠牲にしたりすることが、ごくあたりまえに行われている。まさに全体こそが真の実在であり、個は全体的システムを創発的に生み出すための要素にすぎないのである。
 これが生命としての人間の本質であるならば、いったい個としての人間の尊厳などというものはどこにあるのか。まったくの錯覚ではないのか。他者からのおのれの個の尊重や共感や、愛を求めたりすることで、果たして人間の尊厳は実現するのだろうか。それが困難であることは歴史や日常が証明している。愛や共感はシステムの内部でのみ可能であり、そこでのみ個は尊重されるに過ぎない。システムの外にまでは、あるいはシステムから除外されたものらには、それらの尊厳の付与は及ばない。そしていざシステムが危機に瀕すると、システムそのものがその成員に対して牙を向き、全体への意志としてのその暴戻な本質を露わにするのである。それに対して人間の尊厳のいまひとつの中心概念であるエゴイズムは、単なる倒錯なのであろうか。エゴイズムとは、他のシステムとの関係を極小に抑えようとする自己のシステムの欲望である。上位のシステムであれ、下位のシステムであれ、自己の個としてのシステムを中心に関連づける時、ある種の転倒が生じる。単一であるべき最高位の統一は自我に求められ、あらゆるシステムは、自己自身の身体的システムを含めて、自我に従属するものと見なされる。本来自我は、世界意志の個における発現として、世界意志に従属すべき意欲なのであるが、そして動物界においてはすべてそのようなものとしての自我の働きしかないのであるが、人間においてだけ唯我独尊としての自我が発生してくるのである。ここには世界意志とは別の原理が働いていないかぎりは、単なる意志の倒錯と見なされるほかはない。世界意志と対立する個の意志を生み出す契機となるものは、まさに自我の本質をなしている自己意識にほかならない。認識の発達が自己意識を生み出すことによって、単なる動物的自我ではない、超越的自我が発生するのである。この超越的自我こそが、プロメテウスのように世界意志に反逆して、一見倒錯的なエゴイズムの世界システムを作り上げるのである。ここにおいて、個体の意志は初めて解放と救済の可能性を見い出すことができるようになる。まさに世界意志のエネルギーを自己自身のためにのみ用いるのである。これ以外に個としての人間の絶対の尊厳などというものはありえないのだ。

2016年7月12日(火)
自我の特異性について

 私が私であるという自我の特異性はどのようにして生まれるのであるか。意識は脳細胞の一機能であるということは脳科学が明らかにしている。単なる機能としては、胃が消化の、肺が呼吸の機能であると同様に、脳の神経細胞がなければ意識は存在しない。しかし問題は、この私の意識がどうして私の意識であるのかということである。この私の意識の不可解性を、単に脳の機能で説明できるだろうか。脳が消滅すれば私の意識も消滅するのだから、脳の機能がこの意識の特異性をも説明できるはずである、と脳科学は主張するだろう。
 先ず考えられるのは、個々の脳の神経細胞の組織や働きの違いが、意識の特異性として現われるのかもしれない。私がこの私であるのは、この私の脳の機能が、その他の人間の脳と微妙に異なっているからだということになる。しかしその微妙な違いとはなんなのか。この私は他の私と直接比較することは不可能なのであって、私の特異性とは比較された特異性ではないのである。まさに私自身が私であることの特異性なのである。私であるとは一つの統合性であり、単一の意識であるが、その統合性や単一性が、私という意識に色濃く染められているのである。神経細胞の組織の統合性が、私という意識の特異性を決定するのではなかろう。それはせいぜい意識一般といった統覚をもたらすに過ぎないであろう。それは誰の私であってもよく、交換可能な私であってよいであろう。この統覚がだれのものでもなく、ほかならぬこの私のものであるという意識は、統覚そのものとは違っていよう。それはある種の意識の質であり、かつまた唯一性の意識でもある。それをどのようにして神経細胞の違いが生み出せるのであろうか。神経細胞の量的、機能的違いが自我の質的違いをもたらしえるならば、将来コンピューターもそれぞれが特異な自我の持ち主になるであろうが。コンピューターが私は何者だろうと悩むことになろう。 
 さて、脳の組織や働きを決定するのは遺伝子のDNAである。それならば私という自我の特異性は、すでにDNAの中に書き込まれているのであろうか。一卵性双生児の例を考えよう。自然界が生み出したクローンである一卵性双生児は、どちらも同じ遺伝子を持っている。私の意識の特異性がDNAによって決定されているならば、同一の自我がそこに発生しているはずである。双子の兄弟または姉妹が一つの自己意識を共有しているなどという例があるだろうか。双子同士が、共感以外に、自分と相手とを自己意識において混同することがありうるだろうか。私の意識の特異性は少なくとも遺伝的要素だけでは決まらないだろう。
 あるいは、自我の特異性は後天的に、経験によって形成されるものだろうか。それならば極端な経験によって、まったく別の自我となることもなければならない。しかし人生を顧みて、<あの頃の自分>が今の自分とはまったく違って、まるで別人のように思われることがあるにしても、それが同じ自分という自我の特異性を持っていたことまでも否定できないであろう。自我の特異性はあらゆる経験にもかかわらず、発生してから死ぬ時まで、時間的に不変なのだ。もし変わってしまったならば、そこにはもはや記憶もなく、多重人格、すなわち複数の自我の問題になってくるだろう。あるいは心理学が説くように、自我は記憶や認識にもとづいて発生するものなのだろうか。たしかに記憶がなければ、かつてあった私を思い出すことはできない。しかし大抵の場合、記憶を失っている私の意識まで失うことはない。むしろ記憶を失って私は苦悩しさえする。苦悩する私は失われていないのだ。認識に関しては、鏡に映った自分を自分と認識することが自我の発生であるとするのも、心理的事実に反している。実際には認識そのものが意識を伴いさえすれば、そこに自我はすでに発生しているのである。おまけに自我の心理的発生は、私の自我の特異性を少しも説明しない。
 それならば、脳が一個の個体であることからくる、なんらかの区別の機能が私の意識の特異性なのだろうか。私はあなたではなく、彼らでもない。しかしこの場合も、私はあなたや彼らの意識について直接には知らないし、比較することもできない。あなたや彼らとの違いは、私がわたし自身を直接に知っているということだけである。このことが私の意識の特異性を生むのだろうか。そうであるならば、私の意識は思ったほど独立的ではなく、他者の存在に依存しているということになる。つまり私の特異性とは一種の主観的幻想なのであって、だれもがこの主観的幻想にとらわれているのである。そうならば、この私の特異性は、最も普遍的な私の意識の姿であるということになる。はたしてそうだろうか。この私はすべての私と交換可能なのだろうか。私はアートマンとして万人の自我にすぎないのだろうか。実際にバラモンでもなければ、私の自我が同時に他人の自我でもあるといった、そんな特異性を失った自我体験は不可能だろう。かりに私の特異性の意識が他者の存在によって呼び覚まされるとしても、私の意識の特異性がそれによって規定されているとは思われない。逆に私がアートマンとして、すなわち自我一般として、私の質的特異性を失うことがあるならば、そもそも自我などは存在しないにひとしい。大我と無我とは同義といってよい。その瞬間に自我の問題は解消して、あたかも自我などはなかったかのように動物的無意識に支配されるに過ぎないだろう。鎖につながれながらものんびりと昼寝している犬などを見ると、それがアートマンであり、無我であるような気がしてくる。
 結局、意識そのものを直接対象とすることができない科学は、それが脳科学であっても、この私という意識の特異性を説明することができない。<すべてを認識するが、何ものによっても認識されない>のが主観であるとショーペンハウアーは述べたが、その主観に属する自己意識の特異性は、通常の認識の仕方では解明しがたいであろう。自我の特異性は実にシンプルである。それは私が私である(Ich bin der ich bin)ということにほかならない。それは埴谷雄高の場合のように<自同律の不快>となって現われる場合もあろうが、たぶん通常は驚きと不可思議の意識を伴うであろう。それは一つの発見であって、なかには一生発見できない人もいるようである。それは意識の存在そのものとも関わっている。つまり存在を意識することの驚異なのである。宇宙自体の存在は確かに驚異である。しかし自己自身の存在は、言ってみれば、さらに驚異である。それがちっぽけな存在であるとか、風にそよぐ葦のような、頼りない存在であるとかの反省以前に、自己が自己を発見することの不安と悦びがあるのである。それは思惟によっては把握できない。何ごとかを告げようとしている音楽の言葉を、形あるものにしようとする努力に似ている。それが告げている唯一のことは、私がなぜか存在するということである。この存在の確実性は、外界にではなく、まさに私の意識の中にあるのである。
 ここでは実存哲学についての論議ではないので、世界内存在ではなく、デカルトの意味での私の意識の存在について考察している。たしかに世界=対象に向っている時の意識は不確実で、頼りない。事物こそが確実な存在に思われる。それを逆転させたデカルトのcogitoにならって、最も確実な存在の根拠を求めるならば、自己意識のほかにはないのである。私とは意識の存在そのものなのだ。そこには無はない。かつて存在しなかった私は想像に過ぎないし、今後存在するであろう私も想像でしかない。私とは端的に存在者そのもの(der Seiende schlechthin)である。私は生まれもしなければ消滅もしない。もし私の誕生ということがあるならば、私は私から誕生したのであり、私の死ということがあるならば、私の死は同時に誕生である。宇宙は宇宙から発生し、同じものは同じものから発生するように、私が発生するものならば、それは私から発生するほかはない。私は世界そのものではないが、世界と同等の、あるいはそれ以上の実在性を持っている。時間・空間の中に現われるが、この世界のように時空の中にとらわれてはいない。この世界は幻影と言ってもよいが、私自身は幻影ではなく、むしろ幻影を生み出すものの中にいる。したがって、この世界とは本質的に異なっており、自由である。

(7・11付記)
 あるいはこの議論は、単なる認識上の事実を、存在の根拠とする、論理上の誤謬ではないかという批判がなされよう。最後にそれについて一言。
 これはデカルトのcogitoについても言えることであろうが、人間の思惟もしくは意識が見い出した認識上の確実性は、それがそのまま存在の確実性、絶対性を保証するものではない。それ故にデカルトにとっても、究極的保証人としての神の存在が必要だったわけである。私が唯一確実であるとする私の意識の存在も、その保証人は私以外ではないではないかということになる。私の意識の特異性は、その認識が同時に存在の認識であるという点である。<私はある>という認識は、同時に私の存在によって支えられているのである。このような存在と認識の一致は、私の意識以外にはないのである。中世の神学者が苦心したように、そこにはなんらの存在証明はいらない。私の存在の根拠は私の認識であり、私の意識の根拠は私の存在である。これは単なるトートロジーではない。バークレイは<存在とは知覚されることであるesse est percipi>と言ったが、これは分析可能な意味ある命題である。認識されなければ私の存在はないのであり、認識と同時に私は存在し始める。私とはいってみれば、認識する存在者なのである。それ以外の存在は、もしそれ以外の存在があるとすれば、意識とともには現われてこない存在である。それを私は世界として、他者として客体化する。その存在までも私の意識は保証することができない。あるいはまた、単なる認識というものがあるならば、それはなんら存在と一致するものではないであろう。それは動物の意識がそうであるように存在を保証しない。単なる認識者でも、単なる存在者でもない。その両者であるものが私である。
 しかし、もしそうであるとしても、そこからどのようにして私の存在が絶対であるとか、不滅であるとか言うことができるのか、と反論されよう。絶対的に確かなものは絶対といってよいであろう。しかしそのものはこの世界では、いかにもひ弱く、大海の一粟のような取るに足りないものではないか。たしかに意識は主客の分裂において、圧倒的な客観の世界の前におののき、無力を覚える。しかしそれは自我の本質ではなく、世界の本質なのである。おののいているのは私ではなく、いわば私のアバターであるこの物質としての肉体である。このおののきにおいて、自我は意識としてのおのれ以外の存在を感知するのである。主客の分裂において外化された私は、世界内存在として卑小な、無力な存在へと落とされる。この外化された私を、内在的な私へと帰還させること、それが超越的自我への道である。その時、認識が存在を保証し、存在が認識を保証する自我の本質を発見し、そこに神秘主義者の言葉でいえば、神を見ることが可能になるのだ。古代の哲学者が、<あるものはあり、あらぬものはあらぬ>(パルメニデス)と言ったように、そこに絶対の<有>があり、無は存在しない。この宇宙が有そのものであり、無からの創造は存在しないように、自我もまた有そのものであるといえる。無はもはや認識ではなく、私ではない。私が私であるかぎり私は有以外の何ものでもない。その意味で私は不滅である。

2016年7月14日(木)
個性と理性

 ここでいう個性とはindividualityのことであり、自我の個としての宿命をいう。単なる性質や性格の特異性のことではない。individualとは分割できない個体ということであるが、これが厳密に成立するのはPlotinosの意味での一者と自我だけである。いま世界の本体についてはさておき、自我が単一な存在であることは疑いようのない意識の事実である。むしろ単一であることが意識の条件となっている。カントが統覚の総合的統一を認識の先験的条件としたのも、この意識の疑いようのない事実にもとづいていよう。もし単一でない意識があるならば、もはやそれは意識ではないなにものかである。
 意識は単一ではあるが、世界は意識と同時に主観と客観に分裂する。ここで注意すべきは、意識の単一性とは、ウィリアム・ジェイムズや西田幾多郎のいう主客合一の状態のことではなく、主客に分裂した世界を認識する意識の統一性のことを言うのである。主客合一は意識以前の経験のあり方であり、いわば自我の誕生を準備する母胎に過ぎない。自我は世界の分裂とともに、突然に誕生する。そして分裂した世界に対して自己の単一性を意識するのである。単一対多という自我の苦悩は、すでにここに始まる。私とは何かという懐疑は、世界の中で唯一単一な自己の存在の特異性に対する悩みである。自我は先ず主客の関係に従って、おのれと他との関係を身体を基準にして確立することを覚える。自己の身体は客体ではあるが、とりあえず私のありかとして主観の位置に置かれる。そして私の身体に対峙する他者や世界が、生の現実として私の前にたちあらわれる。そこでは本来単一である私は、身体という客体に乗り移って、多の中の一となることによって、世界の中に紛れこむのである。
 この自我がすすんで行う<自己疎外>は、生命の圧倒的な現実の前に、意識が引き寄せられ、取りこまれていく過程でもある。生命もしくは自然との一致した存在へと向う<意志>が、身体の本質であって、自我はともかくこの世界の中でのおのれを確立するためには、この奔馬にまたがるほかはないのである。世界が<意志>だけでできていたならば、自我は救いようもなく、ひたすらおのれを苦悩と絶望の中に失っていったことであろう。
 自我をおのれ自身への回帰へとさそう原理が、幸いにもこの世界には存在する。それを古代の哲学者は理性と名づけた。世界意志ほどの強力な力を持たないにしても、それを牽制する原理としてのなんらかの世界理性は存在するであろう。それをプラトンやアリストテレスは、イデアとかエイドス(形相)とか名づけた。人間が思索を行えるのは、まさにこの原理が働くからである。この原理そのものは、世界意志が無意識であるように、意識の背後にある宇宙原理である。古来、西洋でも東洋でも、その原理の現われを天体の運行に見てとった。その原理は、生命の中にも、人間の脳の中にも働いているのである。自然科学や数学が可能なのも、この宇宙原理があるからである。
 理性の本体が何であるかは、(宇宙意志の本体と同様に)たぶん人間の知性によっては究極のところをとらえることはできないであろう。しかし少なくとも近似的には、この世界を理性的にとらえることは可能である。その理性の力によって、自我はおのれ自身を見返り、単一者としての自己の本質に還る道を見い出すのである。この道を探究したのは主として西洋人である。西洋人は理性と自然とを対置させた。自然はある意味で不条理である。自然=物は鈍重で、粗雑である。自然そのものである肉体も粗野で、御し難いものである。それに対して、思索を可能にする理性は、軽やかで、整然としていて、物に対して悠然とした態度を取らしめる。自然とりわけ肉体をコントロールするには、この理性によるほかはない。ソクラテスも、ストアも、エピキュロスも、デカルトも、スピノザも、このように理性による、肉体や心情のコントロールを説いたのである。
 しかし理性原理による、自然や肉体の支配は、そもそも世界意志を前にして圧倒的に不利な闘いを強いられている。東洋人は早々とその不利を覚り、世界意志そのものの滅却へと向かうか、自然や肉体との共存的融和へと向かった。しかしここでは、自我との関連で理性を考える時、自我の目醒めには理性の目醒めが決定的であることを強調したい。東洋人が自我を失ったのは、まさに理性への信頼を失ったことと関連しよう。理性を信頼し、世界への不利な戦いを挑むことによって、自我はおのれの悲劇的な運命に気づくのである。理性的に世界を構築しようという試みは、自我がおのれにとって都合の良いように世界を改変しようということである。自然を征服し、肉体を征服しようとすることは、多の中の一である自我を、多を含む一である自我に回復しようとすることである。それは自然の報復によって挫折をよぎなくされる。自我はマンフレッドのように自己が打ち負かされたことを認めないであろう。理性を杖に、いつまでも荒野に立ちつくすであろう。それがこの世界における自我の運命である。それはまた理性の運命であるかもしれない。
 文学においてこの自我の運命を最もよく表現したのは、エドガー・アラン・ポオであるといえる。彼の全作品は、この自我=理性の共同体と世界との闘いの象徴的な表現であったといえる。その意味で最も西洋的な作品である。日本人が彼の作品をまねることができないのは、そもそも理性を必要とするだけの自我に欠けているからである。究極の自我のあり方を、ポオはユリーカの中で、宇宙を創造する孤独な神にたとえた。自我は宇宙を創造するだけの力は持たないが、少なくとも理性に支えられたイマジネーションをもつ。そのうえ単一者としての独自性において、世界の本質と軌をいつにしている。それはこの世界の多としての物のように、分解することも、滅びることもないであろう。真の意味でのindividualである。もはや分割できない点の概念のように非在ではなく、分割できない実在である。いまここに否定しがたい実在として存在しているのであり、それ以外に実在としての存在はないのである。それを古代人のように魂などとして実体化する必要はない。私が私であるだけで十分なのである。それがこの幻影の世界で打ち負かされたとしても、そのことは私の本質に少しも触れないのである。だからといって、私はマンフレッドのように倨傲に走ることもない。ただ自我の本質そのものは同時に救済の原理でもあるということを、主張しているに過ぎない。

2016年7月20日(水)
自我と意志の肯定

 自我の本質についてはほぼ十分に考察した。自我は無反省の段階においては、ひたすら外界に向かう衝動である。それが内面へと転向することによって、絶対不滅の超越的自己を発見する。自我がそこに至る過程は、通常意志の全面的肯定が、世界内での個の圧倒的な不利から、何らかの挫折をよぎなくされ、理性の力を借りておのれ自身と世界意志の本質を探究することによって、禁欲と諦念によって、この世界から後退することを自我の宿命と達観する認識の働きである。こうした生存のあり方は必ずしも宗教者に限らない。むしろ宗教者は往々にしてこうした認識を欠いている。宗教の害悪がそこから生じるのである。しかしここでは宗教は脇において、自我の最初のあり方である、意志の全面的肯定について考察する。
 人がこの世界で自殺せずに生きていられるのは、強烈な<生への意志Wille zum Leben>があるからである。個体生命の意志はどんな状況においても、生き延びようとする執念に満ちている。青年期の危機を乗り越えるのも、この執念があればこそである。この意味では生への意志に感謝せねばならない。まがりなりにも自我が保たれて、世界と対峙するエネルギーを補給されている。個体の意志は多かれ少なかれ、全体の意志にはばまれて、その全面的欲求を遂げることができない。個の意志はその本質において全体者であり、宇宙意志そのものと本質をひとしくする。それ故にその欲望は無限であり、盲目的であり、妥協を知らない。そうした個の意志同士が争い合うのが、いわゆる生存競争であり、力の発現が階層をなすことによって、上位と下位のシステムが現われてくる。個の意志は上位のシステムに阻まれて、その欲望を全面的に発揮することができずにいる。それを果たすためにはシステムとして<進化>するほかはないのである。
 具体的に人間社会において個の意志の運命を考察してみる。生への意志の最も基本的な衝動は食欲と性欲である。赤子やひな鳥などは食欲のかたまりであるといってよい。それを満たすための手段や行動が、それらの個としての意志のすべてである。食欲は個体の内部における欠乏であり、それを満たそうとする渇望である。ネガティブにしてポジティブである。欠乏であるが故に一生ついてまわる欲望である。それにたいして性欲は、少なくとも男性においては、充満したエネルギーの過剰から来る発散の欲望である。性欲はひたすらポジティブである。この意味で性欲(精神分析で言うエスまたはイド)は生への意志の根本のエネルギーに近い。食欲はネガティブである故に、創造することがない。それに対して余剰なエネルギーの発露である性欲は、それを創造のエネルギーにまわすことができるのである。しかし大抵の人間においては、性衝動は性衝動のままにとどまっている。個にとっての性欲は、産めよ殖やせよのためにあるのではない。ひたすら欲望の充足がもたらす快楽のためである。その意味では単なる排泄に似ている。それが種という上位のシステムにおいて、初めて繁殖という意味を持ってくるのである。
 しかしここでも全体への意志が働いている。食欲においても、会食という形は、集団としての人類に特別の快楽を生み出している。単なる食欲の充足の上に、社交という娯楽を創発している。これは個においては存在しない快楽である。そこから社交欲のような欲望が発生する。動物が群れを形成しようという欲求は、本来個体保存の利害にもとづいているが、これと快楽が結びつくようになるのが、人間特有の社交欲である。性欲においては、動物の中には単なる交尾の欲求とは別に、雌雄をとわず子育てに快感を覚える親はめずらしくない。哺乳類は子が生まれれば、特に母親が子の飼育に快楽を覚えるのである。この動物的快楽が、人間社会のシステムにおいては、母性愛・父性愛として創発される。これらは欲望よりも心情に近いのである。しかし心情は薄められた欲望であるから、いずれにしても上位のシステムの欲望であることに違いはない。男性の場合、本来個の欲望でないものが、全体への意志において発現しているのである。
 生への意志の全面的肯定においては、個の意志は全体への意志へと吸収されていく。それを積極的に行おうとするのが権力意志あるいは(ニーチェとは異なった意味での)権力への意志である。権力意志とは、一見個人の権力掌握への欲望のように思われるが、その実自らが体現する上位のシステムへ、すべての成員を従属させようとする全体への意志のひとつのあり方である。権力者は全体への意志の象徴であり、権化である。もし権力者がそのような意志を体現していなければ、彼は全体への意志そのものによって倒されることになる。人類の政治体制の歴史は、すべてこのことを証している。個人は基本的には、自らの生存にとって必要なだけの<力への意志>を持つに過ぎない。それを他者や、他のシステムのために及ぼそうとは思わないのである。動物界の大抵の個体が、そのような自己中心の力を持つに過ぎないのである。しかしそれらの個の力が、創発的にシステムを作り出していくと、集団の力として統一され、巨大な蟻塚や、バベルの塔を築きあげていくのである。そこに現われたマクロな力への意志が、進化や進歩の原動力となったことは疑いなかろうが、同時にそれが破壊と戦争をもたらしたことも疑いない。生への意志の全面的肯定が、必ずしもこの宇宙にとっての唯一のあり方ではないであろう。
 生への意志は身体としての個が存続する限りは、それを肯定せざるをえない。いや、むしろそれを個において積極的に肯定すべきであろう。そのあり方を基本的に快楽主義と呼んでよいだろう。国家や社会などといった上位のシステムは極力敬遠して、あるいは積極的に無視して、個の存在を享楽する立場は、洋の東西を問わず、古来賢人のとった処世法である。個において不可能な快楽はあえて求めない。あるいは個と個の間の事柄として、少数者の交わりにおいて求める。ディオゲネスも老子もこのような生き方をしたであろう。ディオゲネスは個としての理想の生き方を動物に求め、老子は隠遁生活に求めた。マインレンダーのように自殺するのでないかぎりは、生への意志をささやかに肯定して、おのれの身体的存在を享楽するにしくはないであろう。

2016年7月24日(日)
心情とは何か(あわせて美について)

 心情とは薄められた意志であると定義したが、より厳密な区別をしてみる。知情意という区分において、知と情意の区別は明確であるが、情意に関してはたいてい曖昧である。知は論理的働きもしくは機能であるのに対して、意志は基本的に無意識の判断および行為への意欲である。意識した時点ですでに意志の動きは決定され、遂行されている。あとづけ的に生まれてくる意欲や感情は、つけ足しである。そうならば、情と称されるものはそれ自体では実体のない、選択判断や行為の余波に過ぎないことになる。情に動かされるというのは、錯覚に過ぎないことになる。たとえば、愛情や怒りの結果ある行為に及んだのでも、それを抑えたのでもなく、無意識の行為もしくは判断が意識にそれらの感情もしくは情動として現われたに過ぎない。
 それにしても、意識に現われる意欲や、感情や、情動や、の情念は、(全面的ではないが)個体の内部における意志の状態を反映しており、それによって世界意志の本質を知る唯一の情報源となっている。それらを情念(passion)として一括に扱うこととする。情念は比較的はっきりした形を取る場合が多いが、そのような心理学や情念論で扱う、感情(sentiment)や情動(emotion)の種類とは別に、ここではより漠然とした<心情>とでも呼ぶべき美的感情について考察してみたい。ドイツ語でStimmungとかGefuehl(英feeling)とかいった言葉がそれに当ろう。愛や憎しみや、怒りや嫉妬といった感情のはげしい波立ちではなく、心の平静状態において、自ずと広がる気分のようなものがある。特別に苦痛や不安のない限りは、一種の心身の自足の状態の意識であるといえる。これがいわば情念の下地であって、ここから様々な感情や情動がわきたってくる。その中で最も穏やかなものを<心情>と名づけたい。心の平静状態においてかすかに感じられる、心臓や肺や腸などの、いわゆる臓器感覚が、気分の基調をなしている。この状態にひたっている時に、おのずとある種の胸苦しい情感がわいてくる。それがたぶん生への意志の最も素朴な情緒への反応なのであろう。そのひとつがドイツ語で言うHeimwehすなわち郷愁である。いたる所にあってどこにもない<青い花>を求めて旅立つ心が、最後に見い出すものはたぶん心の故郷なのであろう。このHeimwehと対を成すものが、Sehnsuchtすなわち憧憬である。ここにはない究極の青い花を、いずこかに探し求めたいという欠乏の思いである。たぶん両者は同一の根源から出ているのであろう。

    わが花嫁

  かなたの山の端
  かすみに失なわれ
  金色の光の前垂れかけ
  しとやかに舞い踊る
  宵の雲

  山のかなたの
  光こぼれる空に
  わがまなこのゆくとき
  夢みここちのして
  影なす悲哀の
  わがこころをはむ

  なにとはなくおもう
  わが花嫁の
  かなたに住まうかと
  みめこころの枯れるさきに
  われのゆき 愛するを
  いたみつつ
  待ちこがれるかと

  思わず乱れるあくがれ
  山々へ 乙女へ
  われをかりたて
  あまかける願いのふらす
  至福のなみだ
  まなこよりあふれる

  するうちに
  山々闇にとざされ
  雲は夜にまぎれ
  星影ひとつまたたかず
  嵐が目醒める

  嵐われを叱り叫ぶ
  のぼせあがった愚か者よ
  どこへゆくのか?
  とどまれ!
  お前の花嫁の名は
  ‘苦しみ’
  二人のうえに
  祝福をたれるのは
  ‘ふしあわせ!’

                      原題:Meine Braut

 ニコラオス・レーナウの詩をここに掲げてみたが、郷愁も憧憬も究極的に満たされることはない。あるとらえどころのなく、届きがたいものへの欲求、これが盲目的な、無限の努力としての世界意志の本質であるからだ。恋愛と結婚において、それが達成されたかのように思うのは一時的である。生への意志にとって用がなくなれば、そうした幻影はたちまち消え去る。鮮やかに咲いた花が、受精とともに萎れていくのと同様である。美の幻影は生への意志の狡知であり、戦略である。そのために美のイデアが発現する。
 青い花を求めても、いたる所にありそうで、どこにもないことが分かっていながら、個の意志は究極の安らぎを願って止まない。それは<山のあなた>ではなく、自己の内面に求める外はないのであるが、この世界に発現する美のイデアによって、心は乱されるのである。意志の道具としての美のイデアによっては、個の意志の救済はない。美のイデアはまた全体への意志の道具でもあり、国家や民族や、君主や、カリスマ的人物への、崇拝の情念となって現われてくる。その基本をなすのが崇高美である。崇高とは、個を越えたものに対する恐れと驚嘆から発する、無力感や従順感情と結びついた、個の憧れである。その憧れが満たされると同時に、個の意志が消滅する点において、一種の救済ではあるが、国家や民族等の崩壊とともに崩壊する幻の救済である。
 郷愁や憧憬の先には、青い花や崇高感といった美のイデアがある。美のイデアは生への意志の道具としてこの世界に現われている。そうしたことを承知の上で、美のイデアそのものを<純粋観照>することで、生への意志からの、いわば休暇をかちとることができる。このショーペンハウアーのいう美の純粋観照Reine Anschauung der Schoenenのためには、個の意志の利害を離れた(interesselos)、徹底的に客観的な認識が必要である。レオナルドのモナリザや仏像のあるものは、美の純粋観照の間接的よすがとなっている。天才的芸術家とは純粋な客観性の持ち主であると、ショーペンハウアーは述べているが、イデアそのものをそれ自体として直観するには、willennlosでなければならないわけである。意志が働けばそこに直ちに主客の分裂が生まれ、客体の中に主体がまぎれこむ。憧れや郷愁や崇高が、そこに働き、美の幻影が生まれるのである。しかし幻影としての美ははかない。美のはかなさ(Hinfaellichkeit der Schaenen)とは、意志の道具としての美の宿命である。この世界はイデアの影であるとプラトンは述べた。イデアそのものは背後の光であり、幻影としての世界からそこへ到達するには、魂を上昇させねばならない。意志は影であるところの表象へと向かう。それを転回させ、純粋な認識の眼となることが、純粋自我の発見へと導くように、同じく客観世界においても世界の美的本質としてのイデアの純粋観照へと導くのである。その時、不思議な心の平静が生まれてくる。
 子供の頃、夕暮れ時に、月や星を眺めていると、不思議なほど心が静まったものである。家庭や学校のいやなことや、わずらわしいことが、すべて心から吹き払われ、ただ天体の美の観照の中に、おのれの存在が溶けいって、静謐な思いが全身をひたしたのである。こうしたことは大人になって失われていく。世の中で生存していくためには、生への意志を前面に押し立てねばならない。この青年期の苦闘が、美のイデアをも不純なものとしてゆくのである。たぶん男性にとって美の幻影の最たるものは、女性の美であろう。女性美に対して客観的であろうとすれば、ある種の不気味さがそこに生まれる。美のstrangenessと、ポオの名づけるものがそれに当たろう(Ligeia)。モナリザは、全体の雰囲気もその微笑も、ある種の不気味さを覚えさせる。意志にとって女性美とは、単なる牽引力(いわゆるフェロモン)であるが、それのない美は、ある種の異様さや反撥を生じさせるのである。大抵の女性の顔は、ある瞬間にはきわめて宇宙人的に奇怪な様相を露わにする。さもなければ悪魔的な肉感の発露に過ぎない。意志を滅却した(willenlos)客観的な眼の瞬間には、幻影としての美ははかなくも崩れ去るのである。
 美の純粋観照にとって、世の中の大抵の美は美でなくなるであろう。ある種の醜さ、奇怪さがそこに現われてくる。あるいは逆に、醜いもの、奇怪なものの中に、客観的な美が現われてくることになろう。生よりも死の中に、生命よりも無機物の中に、より客観的な美が現われてくるであろう。ムンクのマドンナが美しいのは、逆説的ではあるが、生命の美を否定したからである。死せるマドンナこそが、始めて生への意志を克服できるのである。