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自我の探究(3)――自我と宇宙


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自我の探究(3)――自我と宇宙

 2016・7・31(日)
万物流転と表象の世界

  生成と消滅はこの世界の最も普遍的な現象であることを、古代の哲学者はとらえたが、生成消滅するものの本質は何であるかについて、意見が分かれたようだ。何らかの原質もしくは原素が離合集散することがその現象をもたらす、と考えるのが普通であろう。古代及び現代の原子論も、基本はそのように考える。何かが生成し、何かが消滅するのであるから、ここには二つの要素がある。ひとつは何かに当たるものであり、もうひとつは生成消滅の順序、すなわち時間である。時間はまた単なる経過だけではなく、その経過の間における何らかの関係を含んでいる。
 生成と消滅はそれぞれひとつの事象eventである。事象を物と物との関係と見る時、生成とは何かあるものが別のあるものに変わることであり、これを単なる状態の変化と見るとき、ある状態から、別の状態が存在するようになることである。以前の状態にないものが、すなわち何もないところからあるものが生じたのであるから、無からの有の創出である。ここに原因結果などの関係を見る時、あるものまたはある状態が何らかの作用をして、別のものまたは状態を生み出したという考えが生まれる。作用という考えは、物と物との間に力が働くということであり、とくに身体が他のものに<力>を及ぼして変化をあたえるという日常的経験がその根底にあるだろう。本来無から有が生じただけの無関係であるかもしれない二つのものないし状態の間に、力という体験的考えを持ち込むことによって、生成における因果関係の観念が生まれるのであろう。消滅に関してもまったく同じことがいえる。何かがあるということと、何かがないということとは、まったく別のこととして考えることが可能である。
 もし神がひとつひとつのものないし状態をそのつど生み出しているならば、因果関係などは必要ないであろう。バークレイが観念の原因としての物質の存在を否定したのも、その発想に立っている。生成がそのつどの無からの創出であり、消滅がそのつどの有の無化であるならば、生成消滅の現象を作る根本のものは何なのであろうか。それは物や状態そのものに求めてはならないであろう。もうひとつの要素である時間について考えねばならない。ないものないしない状態から、ものないし状態があるという変化が生じた時、この事象には二つの時点が関係している。もし個々の時点として考察するならば、一方は何もない時、他方は何かがある時という、単なる違いに過ぎない。それぞれの時点は独立しており、この間になんらの媒介を考える必要もない。これがいわゆる物理的時間である。これは徹底して可逆的である。というよりもここには時間の矢がないのである。するとここで問題になるのは、生成のうち唯一、ものないし状態のある場合だけである。ないものははじめからないのであるから。パルメニデスの言うとおり、<あるものはあり、ないものはない>のである。したがって、生成も消滅もない。
 しかし現実には、時間の順序は存在している。本来ないものがなぜ存在しているかを考察しなければならない。それが万物流転の正体に連なるのであるから。時間が経過していることを知るには、経過した時間が保持されていなければならない。比較のないところには経過も変化も知ることはできないからである。本来絶対の有である各時点は、そのどこをとっても同一の実在性を有しているはずである。ところが意識という現象においては、ある一時点だけが圧倒的な実在性を有している。意識的存在においては、意識中心的な宇宙観しか持ちえないのである。しかも意識の時間的世界は一方的に過去に延びており、未来に関してはほんのわずかな幅しか持ちえない。たぶんこれは生命というもののもつ時間意識に通有の特性なのであろう。生命は自己自身と言うシステムを保持しなければならないので、未来よりもはるかに過去が大事なのである。それはともあれ、過去という時間を自己の中に保持することによって、経過する時間という観念が生まれ、同時に変化の観念が生まれるのである。そこからさらに時点と時点との間の関係の観念、原因と結果の観念も生まれるのである。このように意識的時間は生命特有の、生命にだけ通用する時間観念であるといえる。
 それでは生成消滅、万物の流転とはなんなのか。宇宙には進化も発展もないのであるか。インフレーションもビッグバンも、クオークも素粒子も、銀河系も、星ぼしも、生命の進化も、知的生命体も、そこにはなんらの流転のない、ただ有だけがあるにすぎないのか。時間は幻なのであるか。われわれが読み終わった本を、再度終いからパラパラとめくり返してみるように、宇宙はすでに完結した本なのであるか。たぶんその可能性は否定できないであろう。我々の意識はなんといっても生命という限られた存在に封じこめられているのであるから。たまたまこの宇宙のある時期に生命が発生し、知的生命体が発生したことによって、我々の今の、この時点に封じこめられた時間意識が存在するのである。私がよりによってこの時代、この時点に存在しているということの意味は、それ以外になかろう。私もまた生命であり、生命としての意識の宿命を荷わねばならないからだ。
 万物は流転しない。ただ生命だけがあくせくと、おのれのシステムを守り抜くために、時間意識の中で格闘しているに過ぎない。変化は幻である。それにしても生命は変化に対して実に敏感である。その根本には生への意志の、表象としての世界システムの構築へと向う、貪婪な意欲がある。時間・空間、因果律といった、生命にとって必要な世界の枠組みをもとに、現象界をおのれにとって都合の良いように発現させる意志の狡知がそこに働いている。表象界は生成消滅し、流転する世界として発現する。そこが生命の住処だからである。本来生成し、滅びるのは、あるいはそのことを気にかけるのは、生命だけである。それを万物に及ぼすことで、人間は言ってみればある種のカタルシスを覚えている。自己の運命を宇宙全体の運命と考えるからである。同じ流れの中に、二度はいることはないのは、ただ人間だけである。その実、ゼノンをもじれば、流れる川は流れていないのである。

 耳をろうする大音声を伴って、花火が夜空にするすると上がり、火花となって傘のように広がり、消えかけながらパラパラと音を立て頭上に降ってくる。祭りの終わりの花火を、山車に気をとられて見あげる人は少ない。このあたかも宇宙的なeventを見あげていると、いくつもの宇宙がBig Bangを起こしては、数瞬のちに、はかなく消滅していく有様に思われてくる。この縮小されたタイムスケールのもとで、祭りの衣装を着た子供たちを連れた観衆の姿が、幻めいてくる。生命を享楽しているものたちには、宇宙の時間は見えないのである。クセルクセスは、戦に集まった幾十万という兵士を前にして、十数年後にはこの者たちのだれ一人として生き残ってはいないだろうという感慨にとらわれ、涙したそうであるが、時間意識が無常観にまで達することによって、それを克服する思想が生まれてくるのである。ヘラクレイトスに反撥して、パルメニデスが生成消滅を否定したのに始まり、絶対の有の探究が西洋思想を貫いている。無垢の生成Unschuld des Werdensを説いたニーチェでさえ、永劫回帰という絶対時間を考えずにはいられなかったのだ。

2016年8月3日(水)
意識および感覚の内在性について

  個体としての一個の生命は一種の閉ざされたシステムである。環境との関係において、あたかも世界の部分であるかのように交通し、流通してはいるものの、システムの保存の意志においては一個の小宇宙である。生命は基本的に内在的システムなのである。それが自己を保存するために外界から必要物を取り入れ、不要物を外界へ放出する。その経路だけを見ていては、すなわち環境論だけでは、生命の本質は明らかにならない。
 感覚や意識はこの生命が生み出したものである。しかも外界との関門に当たっている内在的機能である。外感とか内感とかいう区別は、便宜的なものに過ぎない。感覚、知覚、認識、思考、意識に至るまで、感覚的、心理的、精神的活動のすべてが内在的機能であり、生命体内部での出来事である。このことから明らかになるのは、この表象として現われている世界は、決して世界の本質そのものを表出してはいないということである。この表象世界において最も大事な時間・空間表象を始め、感覚や意識や、それらの質的現われも、すべて生命体にとって都合の良いように脚色された世界であるということだ。この表象界全体は、まさに生命が創りだした世界なのである。しかもそれは個体生命の内部にしか存在しない世界なのである。生命のない世界がどのような世界であるか、それに最も近づきえるのが物理学であるが、知性もまた生命体の内在的機能であるから、それにも限界がある。生命は生命自体をあらゆる面で超越できないのである。これは科学ばかりでなく、形而上学についても言えることであろう。
 それにしても生命が創りだした内在的世界は壮大にして華麗である。それが宇宙の本質であるかのように勘違いしてしまうのも、生命の策略としてもっともなことである。その中でも宇宙の本体的存在に最も遠いものが、すなわち物理学で扱うことができないものが、意識と感覚の質である。クオリアと称されるこの質的存在は、最もよく生命の内在性を表わすものである。すなわち徹底して生命の内部にしか存在していないのである。その他のものはいわばイデアの影のようにして宇宙の本質を反映しているが、この意識および感覚の質だけは、客観的世界のどこにも、そのイデアすら見つけ出すことはできないのである。赤のイデアとか、苦痛のイデアとかは、宇宙のどこにも見い出されないのである。宇宙は徹頭徹尾、生命の内的事情には無関心である。それゆえに神は存在しないにひとしいのだ。
 この表象宇宙を創造したのは生命である。生命が創りだしたものは、究極のところ内在的にしか説明できないのである。感覚に現われるものはそのままに存在すると、フェヒナーなどは主張したが、生命が物質現象であるかぎり、感覚もまた意識の内部においてのみ可能な物質現象であるといえる。したがってクオリアもまた、意識の内部でのみ確認できる何らかの化学的反応の結果であるといえる。クオリア自体がどのような反応であるのか、それが明らかになることがあるであろうが、クオリア自体の存在が客観的に確認されることは、その内在性の故に、決してないであろう。感覚の質の内在性は、そう簡単に意識できないが(デモクリトスやロックは第一性質、第二性質の区別を立てたのである)、世界の内在性を最もよく意識にのぼらせるものは、当の意識自体の質的存在である。すなわち自我意識である。
 自我意識の内在性は誰もが疑うことができないので、この世界の主観性の認識の出発点となっているのは至極当然である。汝自身を知れ、とデルフォイの神託がソクラテスに告げたのが、観念論哲学の発端であったといえる。自我意識はある種の質であるが、その質がおのれ自身であるという認識を伴っていることで、単なる感覚の質とは異なっている。いわば感覚の質を媒介にして、己の存在を発見する認識過程なのである。感覚のないところには意識はうまれない、このコンディヤックの命題は基本的に正しいであろう。同時に、認識がなければおのれの存在はうまれないのである。感覚はそれ自体が内在的であるから、それが外界と関係を持つとかもたないとかにかかわりなく、それが現実であれ夢であれ、現われることによって、意識を触発する。意識は個体生命に固有のものであり、生命の統合性を感覚のレベルにおいて表出するものであるといえよう。したがって基本的に単一でなければならない。その単一性の認識が自我の意識であり、あるいはその単一性の感覚における表れそのものが自我であるといえる。
 ここでは自我の自然的発生について考察しているので、その超越性についてはひとまず触れない。生命、感覚、意識、自我の自然史においては、それらは密接に関連している。大事なのはすべてが内在的システムにおける現象であるということだ。その中で最も内在的であるのが意識と自我である。意識Bewusstseinとは知るという意味が含まれているように、すでに認識が働いている状態である。認識が向うのは客体か主体かの、どちらかの方向である。客体へ向かえば世界認識へと、主体へ向かえば自我の認識へといたる。動物的意識は生命の基本的意欲をのぞけば、たぶんもっぱら客体へと向かう意識であろう。その際、主体そのものが身体化され、すなわち客体の世界に繰りこまれている。したがって純粋な自我意識は薄いであろう。人間の場合は客体と主体と、等分に向っていよう。動物よりも自我認識が強いのである。しかし、この自我はやはり客体すなわち世界との関係において見られた自我であり、世界認識に左右される自我である。世界内存在としての、すなわち身体を持った実存的自我といってよいだろう。大抵の人間がこのような自我の持ち主である。どんな自我の持ち主であっても、動物がそうであるように、自我は通常、主客合一的に統合された客体である世界へ向かうのである。意識がもっぱら主体に向かうことは、限られたケースである。それへの動機は、世界内での自我の挫折が大きくかかわっていよう。自我が客体に向かわず、主体である自我そのものの克服に向かうに当たっては、そこに認識が働いていることが必要である。そこに挫折した意志の主体を見い出し、それの盲目性、貪婪さを反省するよすががうまれるのである。
 ここまでの自我は欲望と密接に結びついている。個体生命における生への意志の代弁者の役割を果たしているのである。自我は常におのれに立ち返ることによって、知性を道具にしてこの世界における自己保存のために戦略や作戦を練り直す。したがって自我の内在性や超越性について認識している暇などは、ほとんどないといってよい。この身体的・動物的自我がすべてであるならば、自我には救いがない。せいぜい全体への意志の中に、おのれを無化するほかはないのである。それが生命の内在的システムにおける意識や自我の宿命であるといえる。言ってみれば意識も自我も生命の道具なのである。そこに特別なものがあるわけではない。したがって生命の道具としての自我は、強烈であればあるほど生への意志にとって好都合なのである。ニーチェが<力への意志Wille zur Macht>と呼んだものがこれに当たろう。それが個の意志にとどまる限りは、<超人Uebermensch>をめざすほかはないのであるが。
 超人への不可能な道を歩むのでないかぎり、自我にとって残された道は、自己自身を超越する道でしかないだろう。内在的なものを超越するという困難がそこに立ちふさがる。内在性ということをさらに深く考えねばならない。神がこの宇宙に内在するならば、神はこの宇宙以外に存在しない。それが内在論の基本的考えである。しかし神はこの宇宙以外に存在しながら、同時に内在することも考えられる。プロチノスの一者はこの世界を超越していながら、この世界に流出してくるのである。すなわち超越者にして内在者である。同じくショーペンハウアーの世界意志も、この世界の生命体において表象世界として発現しながらも、それは表象とも、物質とも違った超越的エネルギーである。生命体は生への意志という世界意志のエネルギーによって生命界を生み出すのであり、個の生命もそのエネルギーによって表象界を生み出しているのである。自我のエネルギーも個別化した世界意志のエネルギーそのものである。このように内在しているものが超越しているものからきているという考えは、特にめずらしくはない。イデアについても同じことがいえる。思惟やその対象である概念は、生命体の内部のシステムの産物である。それが表象されない世界についても成り立つためには、生命体を超越した世界にもなんらかの概念がなければならない。この宇宙は物理的に言って11次元からなる。ところが生命が生み出した表象界では時空の4次元でしかない。残りの7次元について思惟できるためには、その概念は表象界以外になければならないだろう。それを超越的なイデア界ととらえてよいだろう。超越的なイデアは、少なくとも影として内在界に映し出されているのである。
 この論法によって、自我もまた内在的であると同時に、超越的である可能性が開ける。その超越性を自我の特異性に見い出すことができるであろう。これについてはすでに論じた。ここでは内在性をいかに越えるかに論点をしぼる。単に主客の関係を見つめるだけでは、無限背進におちいることは、合わせ鏡と同じである。主客の関係において見られた私は、一種の客体である。その時背後にある私は常に同一の私であるという意識が伴う。この意識そのものは、いかにしても客体化できないのである。いわば純粋に主体であるところの私の存在の意識である。それはある種の質であり、同時に認識である。あるいは不可解性の認識である。この内在世界では私は質の意識として現われるほかはない。それがどんな質であるかは、その質そのものが私であると言うほかはない。それはなんら関係的なものではなく、ましてや概念ではない。そのことが私の意識の不可解性をうむのである。
 しかしながら、私が単なる意識の質であるならば、それは生命の内在的事情にほかならず、生命とともに消え去るものではないのか。私の意識の単一性、持続性も、それが個としての生命システムの単一性、持続性を反映するものであるなら、やはり生命とともに滅びるだろう。私が私を認識し、考えるということも、それが生命内部の機能であるならば、やはり生命と運命をともにする。どこに私の意識の超越性の余地があるのか。ライプニッツもまた、魂=意識を窓のないモナド(単子)ととらえているではないか。それを超越できるのは神のモナドだけである。ライプニッツが内在者の超越のために、超越者としての神を要請したように、自我もまた生命としての内在的存在を超越するためには、超越的自我を要請しなければならないのであるか。それでは単なるアートマンにおちいってしまうであろうし、ドグマの域を出でないであろう。
 (つづく)

2016年8月5日(金)
意識の内在性とその超越(前回のつづき)

  ここでおちいった解決の道のないアポリアを回避するために、そもそも表象の本質とはなんなのかを、改めて考えてみる。表象Vorstellungもしくは観念ideaとは、知覚の対象となる何らかの現われもしくは存在物を、一般に指す言葉である。ヒュームはimpressionとideaに分けているが、いずれにせよ意識に内在する何らかの知覚の対象を表わす用語である。それが感覚であるとか想像であるとか区別するのは、すでに客観的視点であり、現象学の用語を用いれば、括弧にくくってよい。意識に現われたものを純粋に直観するならば、それは何らかの意識における変容であるとしか言いようがない。コンディヤック風に言えば、赤の観念が現われたならば、意識は赤そのものである。しかし次の瞬間に意識は見るものと見られるものとの主客に分裂するのである。意識が単に赤そのものであるならば、そこには知覚すなわち認識はないのであり、それは本来意識と呼べるものではなかろう。無意識の認識があるならば、まさにそれであろう。したがって表象または観念の本質を考える時、主体と客体との関係を同時に考えねばならないであろう。現象学ではそれを志向性と呼んでいるようであるが、ここでは伝統的に主観と客観の関係と考える。
 このことから、表象はすでに関係的な存在であることが明らかである。esse est percipi(存在とは知覚されることである)という命題の中にも、すでに表象の存在が知覚によって条件づけられていることが表明されている。バークレイが主体の存在を明らかにしなかったのは巧妙であるが、ヒュームは主体が知覚されないことによって、主体の存在を否定したのである。ただ表象(観念)だけが存在する。それでは知覚の働きの余地はどこにあるのか。それも存在しないといっても良いくらいである。<われわれは神において世界を見るNous voyons toute chose en dieu.>とマールブランシュが主張しているように。しかしそれも知覚の主体を神に置いただけである。主体はそれを意識する時はすでに客体となっているので、どこまで行っても主体そのものの存在に達することはない。そこで幽霊のような知覚だけが存在するのが、志向性Intentionalitaetであると言ってよかろう。
 知覚されないものは必ずしも非在ではない。このことは古代哲学以来、形而上学の基本的な主張である。そのことの認識に至ったのは概念あるいは一般観念もしくは普遍概念の発見である。何が真に存在するものであるかを思索するようになった時、単なる表象の存在は疑いの目で見られるようになったのである。感性直観において変化や運動としてあるものは、概念として分析してみる時、存在しなくなるのである。個々の花や木は、それを思惟する時には存在しなくなる。花というもの、木というもの、すなわち花や木の概念だけが、思惟においては存在する。それらの概念を単なる名辞として、うつろに鳴る風のようなものとしては、プラトンもアリストテレスも見なさなかった。世界に対して超越的であれ、内在的であれ、それらを真実在と見なしたのである。このイデア論が最もよく当てはまるのは数学や物理学であるが、もっと日常的にそれを言語に当てはめてみると、その超越の意味がより分かりやすくなる。
 言語は感覚的記号と、意味との二つの要素からなる。感覚は基本的に意識に内在する現象であり、それの単なる対象化は、意識の範囲内を出でない。私が何かの痛みを感じる時、それは単に私の痛みであるが、ふとそれが私の足の痛みとして身体化されるとき、外化され、客観化される。しかしそれは私の意識の範囲内におさまっており、私の意識を超越したわけではない。すべての単なる感覚印象は、そのようなものである。言語だけはその点特殊である。ある記号が現われた時、記号そのものが問題なのではなく、その記号に結びついた概念が私の意識の対象となる。何故にその概念が私の注意を引くのか。私はそれを外から来たものと見なすからである。あるいは私が言葉を発する時、言葉の概念を私の外へ向けて発しているからである。これを自然的超越の態度といってよいかもしれない。私はあたかも概念を、私と私の外にあるものとを媒介するものとして、扱っているのである。私の外にあるものとは、言語に関して言えば、他者の意識の存在である。他者の意識の存在は直接には知ることができないが、私はあたかもそれが存在することがあたりまえかのように、言語を使ってそれらと概念的交渉を行っているのである。この超越的態度は、たぶん言語に限らないことであるかもしれない。意識そのものの根本に、なにか超越への意志のようなものが働いているのであろう。動物はそれを基本的に身体的接触、すなわち触覚によって行っているようである。自己と他との感覚における融合、特に快感において自他の区別がなくなることは、人間においてもありうるであろう。これは最も基本的な全体への意志の現われであろう。意識の志向性なるものも、この超越への意志の認識における現われといえよう。それの知性における現われが概念であり、それを応用した言語であるといえよう。この超越への意志が概念において存在を客観化するのである。この存在の客観化は、基本的に自己意識の外への方向に向かい、表象としての世界を超えて、超越的な物質界や、他者の意識の存在や、純粋概念の世界であるイデア界を樹立する。自己意識の対極としての宇宙がそこに生まれる。逆説的であるが、この宇宙を生み出すには、自己意識の超越が必要なのである。
 それではこの超越への意志を、自己自身そのものへと向けてみた時、そこにはどのような事態が生じるであろうか。ここでは自己とは身体ではなく、自己意識と見なしてよいであろう。身体はすでにれっきとした客体であって、物質すなわち宇宙そのものに属させることができる。自己意識は身体として客体化される。客体化された身体の内部で現われる知情意の動きを意識のレベルでとらえたものを自我と呼ぶならば、自我は身体の本質であると言ってよかろう。知情意を動かす根本の力を<意志>と名づけたのはショーペンハウアーである。ここで物自体について考えておく。 
 概念を単なる図式のようなものとしてしまったのはカントであるが、その経験の範囲内にとどまって、経験を可能にする条件を探究する先験的認識論の立場においても、ある超越的存在が保持されている。すなわち物自体Ding an sichである。時間という内感の形式や、空間という外感の形式において把握される経験的認識は、それらの感性直観における対象を触発affizierenするとされる当の原因そのものには及ぶことがない。物の本体がなんであるか、物自体は認識の外にあるのである。外界に向かう認識においては、物を超越するものは、上に述べたように単なる概念である。超弦理論のひもも、クオークも、素粒子も、誰も見たことがないし、単に物質のふるまいを説明する数学的概念に過ぎない。物理的世界を説明するには、物自体はあってもなくても良いものである。
 物自体を知情意のレベルでとらえようとしたのが、ショーペンハウアーの独創的な発想であった。その論証は十分なものとはいえないが、世界の本質についてのまったく新たな視点がえられたのである。知情意の発現の場が身体であるということは、ある内的力と物(身体)との密接な関係を示唆する。力の観念は、実のところ、身体内部の何らかの力の発現として、身体が動かされるという体験以外には実証しがたいのである。ものどうしの間に力が働くかどうかは、それを観察しただけでは、力の概念は生まれてこない。単に異なった状態があることから、そこに何らかの力が働いたという必然性はないのである。(この錯覚の例としては、物質間の直接の作用であるとされた重力が、空間のゆがみによって説明できることを明らかにした相対論である。)人が意志の力によって物に作用し、物を動かすことによって、直観的に力の観念が生まれる。自己意識において現われる意欲、情動、一般に<意志>こそが、この世界が何らかの力によって生み出されたのであるとするならば、その根本の力に最も近い存在である。それが同じく知情意や身体以外にも働いているならば、世界そのものを発現させる力も、また<意志>と同じ力である。それが物自体の正体である。
 ショーペンハウアーの<意志>は、意識の内面に向かう超越の一つの例であるが、彼の形而上学では、自我そのものが世界意志の方向へ超越することによって、実は自我の解体へと向かっていることは、その主著を読めば明白である。自我そのものは仏教にならって、ある種の錯誤と見なされているのである。自我そのものが錯誤であるならば、それは解消されるほかはなく、自我そのものの方向へ向かう超越などは考えられない。
 自我の存在が錯誤であるという考えは、自我についての誤解にもとづいていよう。デカルトの言うbon sense が万人に行き渡っているものならば、個体意識が存在することはだれにも疑いえない。そのEgoが自己を主張することは、人類史において特定の人間にのみ許されてきた。すなわち権力者である。権力者のエゴが頂点に立つことによって、社会の成員のエゴは特定のエゴに吸収され、統一されてきたのである。すなわち集団のエゴ、国家エゴのみが許されてきたのである。このことの反映が、個々のエゴへの道徳的、倫理的、宗教的否定へと向かい、エゴの反社会性(当然のことであるが)への攻撃、ひいてはエゴの本質の歪曲をもたらしたのである。したがってそうした攻撃や、理論的歪曲を無視して、率直にエゴの本質を見極めねばならない。
 自我egoとは、端的に言って、身体に依存して世界を形成する個体の意識である。個体の意識がなぜあるのかは別問題として、個体のないところには意識もなく、自我もない。しかし意識と個体とは同一ではない。個体に属する要素は意識に現われ、意識に属するかに思われるが、私の眼や耳は、それらがないからといって私の意識そのものが失われるわけではない。なるほど個体としての私は五感から豊かな内容を受けとる。しかしその内容が私なのではない。その内容と私とを同一視するところに、自我への誤解がある。意識もまたそうした外界へ向かう意欲と自身とを混同する傾向があることも確かである。そうした自我を意志的自我と名づけてよいであろう。私という自我は徹頭徹尾、生への意志と同一なのではなかろうかと、時として思われるのも、生への意志の圧倒的な力に引きずられるからである。このようなエゴは通常は全体への意志や権力意志に吸収され、集団の意志として個体性を失うのであるが、その過程でエゴは無化され、存在すべきでないものとされるのである。しかし集団という上位のレベルで歴然として現われている意志的自我が崩壊するとともに、ふたたび個のレベルでの自我がおのれを取り戻すことにより、おのれ自身を主張するようになる。そしてふたたび権力意志によって統一され、集団的、全体的意志としておのれを無化する。エゴの個別化・無秩序と、エゴの無化・全体化のサイクル、それがこれまでの人類の政治史である。こうした人類史において、エゴ・自我が誹謗中傷をこうむってきたのは当然である。
 自我が自我自身に、すなわち意識が意識自身に、向かう時、そこに見い出されるものは、おのれの意欲や意志のほかに、おのれがおのれであるという意識であることは、くり返し述べた。このA=Aという自同律の意識において、そこに超越への意志が向かう時、どのような認識が生まれるであろうか。この自我意識の特異性は、単なる概念ではなく、意識の質的認識であると述べた。言ってみれば赤の知覚が赤の知覚以外のなにものでもないのと同じように、私という意識は私という意識の知覚の性質に過ぎない。赤の知覚が意識に内在的な、意識以外に存在しない観念であるのと同様に、私の意識の特異性も意識内部の事情にしか過ぎないのではないかというのが、私の意識に関するアポリアであった。もしそこに超越性があるならば、どのような超越なのであるか。赤のイデアは、イデア界が意識を超越しているかぎり、存在しない。しかし赤の観念が意識の対象である限りは、すなわち何らかの客体である限りは、赤自体Rot an sichといったものが考えられよう。それは光の波長といった物理的実体のことではなく、文字どおりに赤の本質をなすものである。どこか意識を超越したところに、赤の本質がなければならない。それを内在的イデアといってよいかもしれない。しかしそれは本質的存在であっても、概念ではない。同じように、私が私であるという自我の特異性の本質は、意識を超越して自我自体Ich an sichへと及ぶであろう。それは概念ではなく、本質的存在である。言ってみれば、存在自体Sein an sich、存在の存在、存在の本質である。認識者であると同時に存在者である自我はそこへと超越してゆく。認識とは超越への意志であり、存在者がその光をおのれ自身に向ける時、そこに絶対不滅への道が開かれるのである。

2017年3月30日(木)
生命・エントロピー・理性

  今日の地球科学及び生命科学が明らかにするところでは、地球の歴史と、その上に生じた生命の進化とは、切り離せない関係にあり、生命は地球の成り立ちとその形成の過程において、必然的に生じるべくして生じたものであるとされる。地球生命の特異な誕生、ひいては宇宙の生命の発生は、地球の置かれたと同じ条件をみたすことによってのみ、可能となるのである。その条件の根本となるものは、地球がエネルギーの高い、熱い状態から、熱を放出して徐々に冷却していくこと、すなわちエントロピーの高い状態から、低い状態へと推移することであるとされる。
 「地球の進化とは、熱の放出によるエントロピーの低下による、構造の秩序化」であり、「地球にあるH、C、N、Oなどの軽元素、”地球軽元素”もエントロピーの減少によって秩序化する。その結果が有機分子の生成であり、生命の発生、さらにはその進化」なのである。すなわち、「生命の発生と生物進化は、地球のエントロピーの減少に応じた、地球軽元素の秩序化、組織化、複雑化である」ということになる。(「生命誕生」中沢広基、講談社現代新書、p79より)
 これまで生命の矛盾とされた、熱力学第二法則との背馳が、こうしてなんらの矛盾でもなく、自然の必然的過程であることが明らかにされたわけである。生命誕生の秘密は、地球の放熱・冷却にあったのである。同じようにして、宇宙の進化過程もまた、インフレーションおよびビッグ・バン以来の、宇宙の冷却によるエントロピーの減少にともなう、秩序化、組織化、複雑化であると考えてよいかもしれない。古代ギリシャの哲学者は、世界は火から生まれ、空気となり、水となり、土となると考えたが、熱エネルギーの高いものから低いものへ、すなわち高エントロピー(無秩序)から低エントロピー(秩序)へと、移行する点においては正しかったことになる。
 個体としての生命が低いエントロピーの状態を保ちつづけていることに関しては、シュレーディンガーが「生物体は<負のエントロピー>を食べて生きている」として説明したことで解決できる。生命体は他の生命体を食べることによってのみ、生きてゆけるのである。他の生命体を食することは、おのれと同じ高度に組織化された有機物、すなわち小エントロピーのものを摂取同化することであり、それを排泄することは、エントロピーの大きなものに変えることである。その小から大の差である負のエントロピーを、生命体は常にとり入れることによって、低エントロピー状態を保っているのであるという。<エントロピーの代謝>を失った最大限のエントロピーが、生命体にとっての死というわけである。
 宇宙を熱力学の過程としてみると、宇宙の最初の時点での状態はひとまずおき、インフレーションとビッグバン以来の宇宙の構造は、高温から低温へ、無秩序から秩序へ、高エントロピーから低エントロピーへの、冷却の過程で生まれたことが分かる。開闢時に、全エネルギーが放出され、それが宇宙空間に平均化されるまでが、宇宙の寿命であるといえる。巻かれたネジがほどけることによって、からくり人形が動き出すように、素粒子が生まれ、銀河が生まれ、星が生まれ、地球が生まれ、生命体が生まれる。同様にして、その先に知性や、意識が生まれる。
 天体や地球にいたるまでは、熱力学の第二法則は厳密に適用される。地球は時々刻々冷却をつづけている。最後に冷却がとまったときが、<熱の死>であり、もはやエネルギーの転換が行われなくなる。しかしその前に太陽に飲みこまれているであろう。生命は、共食いをすることによって、局部的に低エントロピーの状態にとどまっている。いわば宇宙の時間を停止させているのである。この停止状態の上に、はじめて知性が生まれ、理性に目覚めることが可能になる。
 知性とは、混沌を論理的、数理的に秩序づける働きであり、エントロピーの大きな状態から、小さな状態へと飛躍することである。これが可能であるのは、生命自体が低エントロピーを持続しているからである。それ故に知性の働きは非時間的である。さらには非空間的である。知性は時間の働きを止めてしまう。知性が思惟することは、無時間的であり、それは今でも過去でも未来でもない。今について、過去について、未来について考えている知性は、時間を超越しているのである。おなじく、今ここで考えている知性は、ここである必然性はない。ここについて考えている知性はここになくてもよい。知性は宇宙または生命の秩序を現わしだす働きであると同時に、秩序そのものでもある。その両面性を表わす言葉として、理性を用いることとする。理性は宇宙及び生命とともに発現する。知性が宇宙を理解できるのも、まさにその故であり、宇宙を理解できないのも、またその故である。生命として発現した人間理性は、生命としての限界においてしか、宇宙理性を理解し得ないからである。せいぜい宇宙全体を、人間理性との類推において、超巨大な知性と見なすほかはないのである。
 宇宙全体が理性であるならば、その理性はどこから発現するのか。これは最初の仏は、どこから生じたかという、子供の頃の兼好の疑問と同じである。プラトンに帰って、イデア界を仮定すれば、ことは簡単であるが、証明は困難である。仮にイデア界を想定しても、それが人間理性と一致し、それに都合の良いような理性界であるとは限らない。人間知性が、論理的・数理的に理解できる限りにおいてのイデア界は、イデア界のほんの一部に過ぎないかもしれない。宇宙がイデア界を内包しているならば、あるいはイデア界が宇宙に内在しているならば、宇宙の理解が、イデア界の理解の試金石となる。しかしどうやら人間理性には分がわるい。宇宙が量子力学的脳、すなわち超巨大な量子コンピューターであるとするならば、人間のわずか数キログラムの脳でもっては、とても太刀打ちできないであろうから。素朴な、ヘーゲル的な<絶対理性>が、何と牧歌的に思えることであろうか。

2017年4月3日(月)
無限の宇宙と自我

  果てしない宇宙空間に思いをはせる時、哲学者といえども、ある種のそら恐ろしさと虚無感を覚えることであろう。パスカルのよく知られた言葉、無限の空間の永遠の沈黙への恐れをはじめ、無機的宇宙を前にしたときのキルケゴールのおののき、ならずとも、空間的、時間的、無限と永遠にうたれるとき、思わず思いをそらしたくなるのが、人間の有限な思惟なのであろう。それをあえて、想像力のたぶらかしと見なしたのは、かつての神学的信念であったが、もはや宇宙に神のいることを信じられない今日においては、負け惜しみのように聞こえるであろう。理性が生み出した宇宙像ではあるが、その理性の無力をもまたさらけだすことになった宇宙観なのである。
 インフレーション宇宙論によれば、原子核ほどの大きさであった原初の物質ないしエネルギーが、10のマイナス36乗秒ほどの、限りなく小さな瞬間において、太陽系ほどに広がり、そこから元素のビッグバンが始まり、138億年後の今日においても、なお膨張を続けているのであるという。この宇宙がどれほどの広がりをもっているのか、わずかな138億光年の観測可能な範囲を、限りなく超えて広がっているものとされる。この観測可能な宇宙は、大海の一粟、砂粒のようなものである。ブレイクはひと粒の砂の中に全宇宙を見たそうであるが、一つの砂粒は一つの観測可能な宇宙に過ぎない。この宇宙には無慮無数の砂粒のような宇宙がある。その砂のすべての集まりが一つのインフレーション=ビッグバン宇宙である。しかもその広がりは無限であり、インフレーションは永遠に続いているとも考えられている。同時にインフレーションは子宇宙を生み、孫宇宙を生み、相互に無関係で、多種多様な、無限の宇宙が、無限に増殖していくのである。
 このように、現代宇宙論は、人間の存在を極限まで無化していく。このような宇宙の無限のなかで、人間もしくは生命の存在に、どのような意味があるのであろうか。もはや人間にとって都合のよい神などは、どこにも存在しない。理性は宇宙を探究して、自己自身の位置を確かめようとしながら、かえっておのれの存在の基盤をあやうくした。好奇心や探究心は、道具としての理性に結びついているが、かつて神学者が危惧したように、人間の安住をそこなうにいたったのである。かつて神学者が宇宙の無限を説いたブルーノーを焼殺し、地球の位置をくつがえしたガリレオを裁いたのは、彼らの実存的不安にかられてのことであった。人間は単なる理性をもってしては、宇宙を理解できないし、宇宙における自己自身の存在に、意味をあたえることができない。まったく物質も生命もない宇宙などは、人間的理性の想定外なのである。たまたま人間は生命のある宇宙に、長い進化の果てに理性的存在として生まれたに過ぎない。その理性でもって宇宙を理解するかしないかは、宇宙にとってどうでもよいことなのである。
 パスカルは考える存在であることを、宇宙の存在よりも上位においた。そうしなければやりきれないのである。宇宙は人間とは違った意味で理性的であるかもしれない。それは人間にとって都合の良い理性ではなく、宇宙自体にとって意味のある理性であろう。人間理性は宇宙理性の片鱗にすぎないものであって、それによって宇宙のある面を理解できたとしても、宇宙全体の理性的構築に対しては、まさに群盲が象に触れるのたとえのごときであろう。しかし人間は自己自身において不可能なことを、コンピューターに委ねようとしている。それによって宇宙理性に迫ろうとしている。その結果、もはや道具的理性によってのほかには、宇宙における自己の意味を見いだせなくなるであろう。宇宙のメカニズムを理解した果てには虚無が待っているであろう。宇宙は生物や人間のために作り出されたハードでも、ソフトでもないことが明らかにされるであろうから。
 *    *    *
 宇宙が空間的時間的に、無限・永遠であるとするならば、その対極にあるのは、空間的時間的に、一点である存在である。それは普通考えられているように、単なる数学的点ではない。数学的点は実在しない。単なる定義である。点はどんな大きさでもありうるし、どんなに微小であってもよい。それは空間として描かれ、もしくは表象されうる。宇宙の無限・永遠の対極は、ただ一つ<自我>のほかにはない。自我は一点ではあるが、それ自体空間でも時間でもない。<今ここ>という表現は、その点で誤解を招く。<私>は今ここにいるわけではない。<私>は端的に存在しているだけである。私は時間の中にあるのではなく、時間の中に私を投げ出していくだけである。私は空間の中にあるのではなく、空間の中に私を置いてみるのである。そうした時間空間的表象としての私は、確かに宇宙の中にある私である。宇宙のなかで、場所と位置を与えられた私である。そうした実存的私は、無限の宇宙に対するとき、そら恐ろしさに、おののくほかはない。しかし、たいていの動物がそうであるように、生命にとっての宇宙とは、自己が中心の宇宙である。人間もまた、その例にもれない。何故にそれが可能なのか。そこに自我の存在があるからである。
 いかに宇宙がおそるべき、無限永遠の世界であろうと、自我にとってはそれは非我の世界である。生命にとって必要なのはある範囲の宇宙であり、蟻が蟻の世界を、鳥が鳥の世界を、カモノハシがカモノハシの世界を持ち、その世界で安定した生の営みをつづけるように、人間の自我もまた、生命に必要な範囲での理性の働きにとどまっているのである。それを単なる好奇心から超えようとするときに、生命が本能的に反撥を覚える。自我の存続が危機に瀕して、撤退を命じるのである。自我は非理性的であり、その点では生命によって動かされている。自我は欲望や衝動と容易に結びつくのである。自我はおのれ自身に帰る。そこには飢餓や性欲がない限りは、ある種の生の安楽がある。そこにぬくぬくとしていられることが、生命の最大の価値である。そこに自我がとじこもり、非時間的・非空間的なnunc stans(永遠の今)を実現する。このnunc stansの中に自我の本質があるのである。非時間的・非空間的一点である自我は、いかなるインフレーションやビッグバンによっても滅ぼされることはない。それは宇宙の対極であり、宇宙と同様に永遠でありうるからである。ジェフリーズが言うように、たとえ宇宙が存在しなくても、<私>は存在する。

2017年4月19日(水)
生命・知性と自我

  生命とは何かについての基本条件は三つある。
(1)なんらかの境界によって、周囲の外界から区別され、独立していること。
(2)外界から物質やエネルギーを、取り入れたり排出したりする、代謝を行うこと。
(3)自己複製(繁殖)を行うこと。
 単なる有機物は、生命の前提条件であり、生命そのものではない。アミノ酸のような有機物が化学反応を行うことにより、上の三つの条件をみたす、有機的化合物を作り出すとき、初めて生命が誕生するものとされる。生命は連続的化学反応であり、どこかでその連鎖が途切れれば、消滅することになる。地球上では、今日まで30数億年にわたって、その連鎖反応がつづいているわけである。この連鎖反応を安定させている条件が、上の三条件であるといえる。
 それでは自我は、生命と比較して、どのような存立条件を持つであろうか。生命の三条件のうち、自我に当てはまるのは、第一の条件のみである。これについてはあとで詳述するとして、自我が代謝を行ったり、自己複製を行ったりすることがないのは、自明にちかい。あるいは言語が代謝に当たると考えられるかもしれないが、それはそもそも自我の働きではない。それを行うのは知性であって、知性については後述する。同じく言語を、自我の自己複製のように考えるならば、やはり知性や意欲との混同がある。純粋な自我について言えることは、それが身体として見られるときある境界を有していることであり、それによって他者と区別され、また認識主観としては、外界と内界の区別を有することである。しかし自我の独立性は、生命の独立性とは異なっている。生命の独立性は、(2)(3)の条件によって、相対的なものに過ぎないが、(2)(3)を行わない自我は、基本的に外界とは対峙している。しかもそれは認識主観としての立場においてであり、自我自体においては、唯一無二であり、唯我独尊であって、絶対的独立性を保持している。私が私であることの絶対性は、いかなる区別でもなく、概念でもなく、それ自体における特異性である。すなわち、自我は全体者であるといってよい。自我(私)以外に自我(私)はなく、それ自体で不可解でありながらも自足しており、なんらそれ以外の存在や世界を必要としない。自我が不可解であるのは概念ではないからであり、なんらの判断の根拠を持たないからである。その意味で、自我は、科学的に探究可能な生命とはまったく異なった本質を有している。
 その自我が認識の世界の現われでは、生命と結びつき、身体として、脳として、脳の生化学反応として、はじめて発現するとしても、それでもって自我がまったくの生命の産物(もしくは現象)であるとは言い切れないであろう。私が私の存在を知るには、生命現象の一種である意識を必要とすることはまちがいないが、その意識に現われた私が意識そのものである必要はなかろう。自己意識はすでに意識を超越しているのである。しかしこのことは単に、カント的な意味でのアプリオリな認識主観について言うのではないことは、以前に論じた。
 たぶん世の中のたいていの人にとっては、自我とは自身の意欲や、考えや、身体の特徴やにすぎないのであろう(いわゆるperasonality、個性や人格と言ったものである)。だから生命と切り離すことなどは思いもよらず、生命の無常に感じて、どこから来てどこへゆくのかという問が、自我の謎のすべてということになる。身体髪膚は、確かに親の遺伝子に由来しよう。しかし自我は親の複製ではあるまい。性格や気質や、知的能力は、確かに親の遺伝子に影響されよう。しかし私が私であることの特異性は、だれから受け継がれたものでもない。<わたし>は親から生まれたのではない。さもなければ、それは少しも不可解ではないからである。不可解であるということは、認識によってはとらえられないということである。しかし私が私であるという直観は確実である。その直観はたしかに生の喜びを伴いもする。しかし生そのものではない。存在の静謐な喜びなのである。不可解であっても、存在することの充実がある。その充実感は、幼少年期の自我の目覚めから、老境にいたるまで変わらないであろう。それを釈迦にならって、ニルバーナと呼んでよいかどうかは知らない。しかし人生の苦境において、つねにそこに立ち返るならば、死さえも克服できるであろう。

 自我は知性の産物であるかどうか、単なる知性が、生命を超えることができるかどうか、次に考えてみたい。知性は基本的に思考する能力であるから、思考とはなにかを明らかにすればよい。思考とは、なにかについて、なんらかの関係を把握することである。すなわちつねに対象について考えるのである。考えそのもの、などといったものは存在しない。I think のあとにはかならず、目的語や目的節がくる。デカルトがcogitoというとき、それは純粋思念ではなく、なにかを疑っている私が、疑っている私の存在そのものは疑えないというのであり、はっきりと、思考作用と私の存在とを区別している。思考すなわち私の存在、ではないのだ。バークレイがesse est percipi(to be is to be perceived.存在とは知覚されることである)というとき、巧妙に知覚する私の存在を言外においている。私という存在が、はたして思考や知覚の対象となりうるものかどうかという、問題を回避したのである。はたしてヒュームは、私というものを、あっさり観念の束としてかたづけてしまった。実体としては想念界のどこにも見い出せないのである。それはそれでよい。とにかく自我は思考の産物でも、知覚の対象でもない。しかし私は私であるという、直観的事実だけは残る。しかもこの世界で唯一確実な事実として。
 自我が単なる思考ではないことの、いま一つの根拠は、思考の対象もしくは内容は、基本的に概念であり、だれにでも共通した普遍性を持つことである。私が1たす1は2と考えるとき、私はなんら私の独自性を主張しているわけではなく、それを習うことによって、共通した認識に達しているだけである。しかし私が私であることの独自性を、私はだれからも学んだわけではない。それどころか、生命は、特に群居的生命は、全体への意志において自我の特異性を排除する方向に向かうのである。動物ばかりか、人類史においても、そのことははっきりと見てとれる。ソクラテスやプラトンが思考の本質を概念に求めたとき、彼らは自我の固有性を考えていたのではなく、思考する魂を普遍物として概念界に結びつけたのである。ソクラテスという個のイデアが、イデア界に存在したわけではないであろう。
 知性は世界意志の道具である。生命も世界意志の発現であるからには、知性を道具として用いる。知性の働きは、世界の理性的構造を見い出し、もしくはその構造に従う方向性を見い出すことである。こうして物質が生まれ、宇宙が誕生し、生命の分子構造が作られ、生命の設計図であるDNAやRNAが生み出され、適応によって進化が生じる。知性=理性そのものは、宇宙そのものではないであろう。それは単なる数式が、現実の構成物と異なっているのと同様である。単なる理性は現実化する能力を欠いている。理性はソフトであり、ハードがなければこの世界として発現することはない。盲目にして(確率的といってもよいかもしれない)、無限のエネルギーである世界意志が、素粒子を創り、銀河を創り、太陽を創り、生命を生み出す。しかも人間知性が認識できるのは、この宇宙が創りだした物質やエネルギーの、わずか5%ほどにすぎないのである。世界意志の産物の95%は、ダークマターやダークエネルギーとして、推測されるにとどまっている。
 このように不確かな知性が、自我そのものであると言えるだろうか。しかし知性は、自我を世界意志から引き離す作用をいくぶんか持つことによって、自我の覚醒を促進する。「苦痛について考えることは苦痛ではない」のだ。苦痛そのものであるかのように感じられた自我が、おのれを越えたおのれがあることに気づくきっかけとはなりうる。しかし単なる知性によって、世界意志から救済された人間はいなかろう。自我がおのれを救済するためには、おのれ自身の本源へと向かうほかはない。それ以外に、暴戻な世界意志の欲動と、生命の無常とを、少なくともこの世界において克服する道はなさそうである。

2017年5月2日(火)
生命の機能としての自我

  自我は脳の機能であるというとき、機能という言葉はどのような意味で使われているのであるか。生命は、代謝と自己複製をおこなう機能を有しているが、その機能と生命そのもののプロセスとをどのように区別できるのか。代謝の機能である異化と同化という分子の化学反応は、もしそれが停止すれば、もはや生命とは呼ばれない。もし生命が自己複製の機能を果たさず、一代で連鎖反応を停止したならば、それも生命とは呼ばれ難い。自己複製の機能を持たないウイルスは、生命であるかどうかを疑われているのである。このように考えるならば、生命の本質とその機能は同一である。なんらかの機能を持たない、単なる属性としての生命を有するような実体は存在しない。それは思考しない思考の存在を考えるのと同様に、言語的まやかしにすぎないのである。
 思考は脳の機能であるという。それは脳のある部分が思考の機能そのものであるというにひとしい。それが機能することにおいて、脳は思考の座なのである。脳と同じような機能を持つメカニズムないし装置が存在するならば、それも思考の座といってよいだろう。感覚はどうか。感覚は単なる脳内の機能ではないだけに、生命と似たプロセスを持つ。まず感覚器官における分子的プロセスが脳にまで伝達され、脳内での再プロセスをへて、感覚表象が生み出される。これはある種の代謝であり(異化、たとえば光のエネルギーが化学反応の連鎖に置き換えられる)、さらに同化作用である記憶の機能を通して自己複製さえおこなわれるのである。感覚・表象のプロセスは、精神活動に現われた生命といってよい。同じく精神活動に現われた生命であっても、情動や意志は少々事情が異なる。情動は肉体内部での感覚であって、個体の境界内での出来事として、生命の自己保存と密接に結びついている。
 それでは情動や意志は、生命のどのような機能なのであろうか。それには、生命の自己保存とはどのような機能かを考えればよい。個体としての境界を持った生命は、外界との交渉において、異化や同化やの代謝を行う宿命にあり、つねに環境との適応を維持しなければならない。生命は攻撃的であると同時に、順応的である。そのプロセスがうまくいく場合には、個体内部は安定し、それが危殆に瀕すると、個体内部は混乱する。その安定や混乱は、個体生命内部の存在のメルクマールとしての情動反応を生み出したのであろう。情動反応の機能は、すぐさまなんらかの能動・受動的運動と結びつく。いわゆる本能的行動である。これが最も基本的な自己保存の機能であるといえよう。怒りは威嚇と攻撃の行為に、恐怖は逃避に向かわせる。食欲や性欲が最も深い生命の欲求としての機能であるとすれば、情動は身体と結びついた意識であるいわゆる自我の、個体保存の機能としての現われである。このような自我は、たしかに生命の機能の一つ、生命の道具に過ぎない。
 意志とはそもどのような機能であるか。そも意志などというものが実体として存在するのかどうか、すでにニーチェが疑ったところであるが、ここでは普通にあい並ぶもしくは矛盾する情動の間で、選択をする機能とみなしておく。すなわちここで言う意志はすでに知性的なのである。個体生命は、その行為・行動において、意識・無意識を問わず、なんらかの動機(Motiv)を持つ。動機は意志的行為となるためには、必ずなんらかの情動もしくは欲求を伴う。単なる観念は生命を動かすことはできない。まさに馬の耳に念仏のたとえどおりである。すなわち、意志とは情動機能と思考の機能とが並びおこなわれることであるが、実のところ、心理学が明らかにしたところでは、思考の機能は、すなわち意志的判断は、つねに思考に先立つ無意識の脳内過程によって決定されたものを跡づけるだけに過ぎない。すなわち意志より前に、なんらかの情動によって無意識に決定されているのである。こうなると意志的機能はほとんど意味がないものと考えてよい。個体生命の行為は知性ではなく、ほとんどが無意識の情動や意欲によって決定されるのである。
 さて、これまでは知性も、意志も、情動も、脳または生命の機能として、生命現象そのもの、または生命の道具とみなすことができたが、自我に関しては特別な事情が考えられる。個体生命即自我と見なすならば、そこになんらの特別な事情はない。自我を一個の肉体の範囲内に限られたものとし、生命のプロセス、その機能のすべてを、自己自身と一体化させる意識の機能を、自我と呼ぶまでのことである。このような自我、すなわち仏教でいうアートマンは存在しなくてもよかろう。生命と呼ぼうと自我と呼ぼうと同じことだからである。ほっておいても、肉体とともに滅びる存在である。こうした自我意識は、徹底して生命に隷属し、その道具として酷使されるだけである。意識は元来、意志においても、思考においても、無用な存在である。意識そのものがなんらかの積極的な働きをする場は、ほとんどないといってよい。もしそれが脳の機能であるとすれば、ほとんど無用な機能である。逆に、意識が加わることによって、生命活動は不利をこうむる場合が多いくらいである。完全な思考は無意識であるかもしれない。また完全な行為もまた無意識であるかもしれない。どこに自我意識の生命活動における居場所があるといえるのか。であるから、釈迦はそうした自我はいらないといったのであろう。
 意識すなわち自己意識が存在することは疑いない。しかし、これほど生命によって邪険に扱われる存在はないのだ。邪険に扱われながらもなおかつ世界に執着する。そこに生命の狡知がひそんでいる。さまざまな欲望や、喜怒哀楽におどらされるピエロの役を、自我は演じさせられるのだ。本来自我が属すべき世界はそこにはない。しかし生命の甘い蜜を一度味わわされれば、自我は奴隷と化す。自我はこの世界でなんらかの機能を演じることを断つことによってしか、おのれに返ることはない。

2017年5月24日(水)
他我論(その1)

  自我が全体者であり、唯一無二の存在者であるならば、何故に表象界において無慮無数の<他我>が存在しているのであるか。これはライプニッツのモナドロジーについてもいえる難点である。表象を自ら生み出す能力を持つモナドは、他のモナドと一切の関係を持たない閉鎖系である。それならばたった一個のモナドがあれば十分である。他のモナドについては知りえないはずなのだが、表象界に他のモナドが存在しなければならない、必然的理由があるのであろうか。観測可能な宇宙の外に、絶対に交渉しえない宇宙があることは思惟できるが、日常交渉している事物や、生物や、人間が、それぞれ別個の宇宙であると考える必要があるのであろうか。ライプニッツがそう考えたのには、三つの理由があるであろう。一つには原子論との妥協である。二つには魂と物体(身体)の問題である。各身体に一つの霊魂が宿るものとされるからである。三つには神の存在を前提としたことである。それらのために観念論としては不徹底なばかりか、予定調和のような奇矯な理屈に頼らざるをえなかったのである。
 自我の認識と、他我の認識の根本的違いはどこにあるかを考えてみたい。自我が自らのアイデンティティを知覚するためには、時間空間における身体内表象が必要である。私は先ずある空間内において、身体外部であれ内部であれ、知覚された表象の中心であり、主体であることを意識する。私とは空間内に現われてくる私の知覚ないし表象の意識である。これに対して、空間的に現われてくる他我は、単なる外物としての表象にすぎない。外物としての表象が、何故に私と同じ自我の持ち主、もしくはモナドでなければならないか。実は、相手がなんらかの自我もしくは主体の持ち主であるという認識は、私の内的知覚以外のどこにもない。私は相手が犬であれ人であれ、蜂であれ、細菌であれ、自然物であれ、それが私に対峙し、向かってくるとき、私自身の内部にあるものを、そのものの内部に投影するのである。いわゆる共感や、感情移入といわれるものがこれである。私は私自身の自我を、他者や他物に移入しているに過ぎない。他我はいわば(どんなに嫌な相手でも)私の分身に過ぎないのである。しかしこのような移入もしくは共感は何故に生じるのか。これはいうまでもなく、ショーペンハウアーとともに言えば、私の身体を含めた事物や生命の内在的本質が<意志>という共通の実体からなるからである。
 空間的自我は<生への意志>によって支配された自我である。それゆえに、他我の存在は本能的に前提されている。それでは、時間的自我はどうであるか。時間的自我は過去という時間表象と結びついた自我である。すでに私の二次的表象である点において、それほど確固とした自我の意識ではない。むしろ過去の私の表象にたいする、現在の私の強烈な思いや反応によって強められるのである。それ故、過去の私は、あるていど他我に似た点を持つ。たしかに、私であると言う意識につらねかれてはいるが、それは他者に対する愛情や愛着や反発に似た心情の働きでもある。そればかりか、他者への愛情などから、過去の私の表象に嫌悪さえ抱き、自己否定へと傾く場合がある。結局のところ、時間的自我もまた<生への意志>の産物であるといえる。
 自我が、時間的空間的に、自己を確立し、あるいはそこにアイデンティティを求めようとするとき、自我は無数の他我のなかの一つにすぎなくなる。自我は単に自己顕示と自己保存の欲求にすぎなくなる。しかしそれもまた、社会的、実存的には意味があろう。第一に、自我はその成長過程において、庇護者としての他我、あるいは他のライヴァルとしての自我を見いだすからである。自我は時間空間的に発展するにあたって、むしろ積極的に他我を求めるのである。個体の自己保存の本能にもとづいた、この動物的自我の初期段階では、自我はほとんど共有されている。赤子にとっては共感が自己保存のすべてなのだ。さらに共感をめぐっての、兄弟などとの競争に勝たねばならない。反撥や憎しみを他我へ注ぎこむことによって、自我は自己を確立する。この段階では、自我は他我に映し出された自己から出発し、ついで他我をライヴァルとみなし自己から引き離すことによって、強力な自己意識に達すると言ってよい。それをあやつっているのは、もちろん生への意志である。
 第二に、自我はこれまで、歴史的にみて、社会集団の中での、都合のよい個の単位にすぎないものとされてきた。社会や国家といった全体への意志にあやつられた集団組織の中で、効率的に機能できる<責任>や<義務>を持った個人もしくは人格としての自我だけが許されてきたのである。それ以上の自我は、心理学におけるように、ある種の<虚構>や錯覚とみなされてしまうか、国家に都合のよい道徳論によって<悪>とみなされてしまうのである。それへの抵抗としての自我の主張は、<生への意志の肯定>に結びついた政治的自由としてのエゴイズムを生み出してきたことは確かである。しかしその根底にあるエゴの実存的探究は、ここでの課題とはべつである。
 いずれにせよ、生への意志や、その集団への現われである全体への意志に奉仕する自我は、虚構や錯覚であるといえるかもしれない。なぜならその主体は、本質において世界意志の現われにほかならないからである。自我は世界意志と一体化するときに、おのれを昂揚させると同時に、おのれを忘却する陶酔(ecstasy)に陥る。ecstasyとは、文字どおり、<おのれの外に出る>ことである。実は、全体主義社会はむしろそのことを望んでいるのである。国家にとって、自我は単なる単位であって、マイナンバーにすぎず、全体への奉仕のなかで幻のように崩壊する。そのようなものとして、国家や民族集団は、個人を戦争に駆り立て、国家や民族や天皇や国王や宗教に忠誠を誓わせ、自我を陶酔の中において無化してきたのである。
 *   *   *
 真に虚構や錯覚でない自我とは、どのような自我なのか。すでに何度も論じたように、それは時空を超えた自我である。唯一無二であって、どのような他我も必要としない。それは時間的今ではなく、絶対の今のうちにある。時間的今は実は0・1秒前の過去であることは心理学で知られている。しかし自我自身の意識は、それ自体が今である。意識自体(Bewusstsein an sich)というものがあれば、それが自我の意識である。それ以外に自我の存在場所はない。自我は個ではなく、それ自体が全体者である。分割もできず、他から影響を受けることもない。ライプニッツの意味でのモナドであり、唯一絶対である。ただし世界意志のような表象能力を持ってはいない。概念的思惟のように、イデア界に属してもいない。モナドが意識を持つための条件としての自己意識が、真の自我である。ライプニッツ風に言うならば、この世界、この宇宙は、世界意志と、イデア界と、自我との、唯一絶対の<複合的モナド>なのである。この宇宙が存在するかぎりは、私の意識はこの宇宙と共にあるであろう。私の意識がこの宇宙からはなれるとき、この宇宙も存在しなくなる。Kein Ich, keine Welt !

2017年6月15日(木)
他我論(その2)(自我の超越・身体の本質・他我と言語)

  自我の超越

 私の表象が消え去ったあとに何が残るか、という問題は、単に事物に関してだけでなく、他我の問題と深く関わっている。死後が気にかかるのは、他者の表象の世界を前提しているからであり、想像された他者の表象世界でのおのれの表象を気にかけているのである。どうしてこのようなことが生じるのか、これは独我論だけでは説明できない。あるいは独我論の矛盾であり、アポリアである。
 独我論からは、他我とは自己に似た身体または物体の中に、自己自身の内部と同じものを、あたかも存在する<かのように>想像して、ふるまうことである。すべてが私の表象であるから、他者も、他者の内面に持つとされる表象も、私の一次的、二次的表象に過ぎない。この場合、自我と他我との決定的な違いは、自我は常に(夢をのぞけば)一次表象をともなっているのに対し、他我の内面の表象はわたしが想像した二次表象に過ぎないということである。たしかに他者の肉体とその表出は私の一次表象である。しかし私は他者の内面に、私の二次表象を投射するのである。この点の基準になるのが、身体であることは明らかである。
 身体または物体を考える場合に、かりにそれをライプニッツにならって、モナド(意識原子)と考えてみると、具体化しやすい。すでにモナドと考えた時点で、独我論は崩壊しているのであるが、ここではモナドであるかのように考えてみる。モナドどうしの間では、直接的交渉はない。身体(物体)と身体(物体)が衝突するような場合でも、すべては私の表象界の出来事として処理されうる。ところが、同じことがすべての身体(物体)において起こっていると考えるのが、ライプニッツの立場であるばかりか、私もまた日常においてそのように考え、感じるのである。私が死んだあとにも、無慮無数のモナド(他我)がのこり、その中のいくつかでは(というよりも可能的にはすべてのモナドの中で)私の死が表象されている。死後というものが私の関心事となるのは、そのような他我の表象界においての私の表象を気にかけるからである。私の死後においても、モナドとしての世界は存在しつづける。この難問をどのように解決すべきであろうか。
 そもそも表象とはどのような存在であるか。知覚(perception)はすでに構成的な働きであることは、認識論においても心理学においても常識となっている。ヒュームがいうような単純印象とか、単純観念とかは、すでに構成されたものの還元の結果なのである。かりに単純印象(simple impression)があるとしよう。それが表象の基本単位であり、あるいは本質であるとするならば、それはいわば表象自体(Vorstellung an sich)とでも言ったものであろう。表象は同時に意識の対象であるから、あるいはこのような表象単位においては意識そのものであるといってもよいから、表象の本質は、同時に意識の本質であり、Bewusstsein an sich(意識自体)といってよかろう。コンディヤックが、最初に心に生じる感覚について、たとえば赤の感覚が与えられるならば、心は赤そのものであると言ったように、表象と意識とは区別がつけがたいであろう。
 この表象自体=意識自体は、いまだ対象化ができていないといってよい。自我意識の根本は、いまだ対象化されない、この表象自体=意識自体のなかにある。それを対象界から区別するために、純粋自我、または対象界から自己への超越の意味で、超越的自我と名づけておいた。自我はしかし、いま一方への超越への意志を持っているのである。それは対象界へ向けての自我の超越である。その原理が主観客観の関係もしくは形式であることは、ショーペンハウアーが主著の冒頭に述べていることである。この客体へ向けての自我の超越の媒介をなすものは、いうまでもなく自己の身体である。自我はまず、身体を持った存在であることを自覚するのである。
 身体とは、表象の見地で言えば、そのなかに私の表象、私の印象や観念が生起すると考えられる、空間的に限られたなんらかの物体であると定義できよう。これはすでに私の対象化をとげた、客観的な定義である。私の対象へ向けての最初の超越が、身体の発見である。あるいはこうしたことは、赤子の段階で無意識におこなわれるということでもあろう。赤子はおのれの中に飢餓や不安が存在することを意識せずして、それらの充足対象や被保護の対象を求めることであろう。この意識以前の身体は、身体的自我意識の前段階といってよいが、それについては、自我の探究を超えた考察が必要である。ここでは、身体に結びついた自己意識としての自我を探究しているのである。
 身体的自我意識は、その最も明瞭な意識は情動、すなわち情念や感情やそれらの薄まった気分である。さらにもっと身体に基本的なものとして、食欲や性欲などの欲動がある。それらの情動や欲動は、快か苦か、あるいはそのどちらでもない平静状態を身体において生みだす。それらはすべて私の意識と、なんらかの程度で結びついている。私が感じたり、私が苦しんだり楽しんだりする、それが私の身体的自我である。このかぎりであるならば、わたしは一つの閉ざされた世界でありうる。私の身体が外部をもたなければである。それに対して、身体はまた外部に開かれた感覚器官をもつ。私は手でさわり、耳で聞き、目で見、舌で味わい、鼻でかぐ。そのとたんに、私の意識は私の身体を超越している。私の手は私の主観の延長となり、<もの>をそこにさぐりだす。耳も目も、その他の感覚器も、私の身体の外からのものを私の意識に送りこむ。五感でもって私に与えられる表象は、それが情念や欲動のような内感でないかぎりは、すべて私の身体の外からやってくるものとみなされるのである。これが自我の身体を媒介とした客観化のあり方であり、外界への超越である。
 自我は何故に、このような自我以外の存在への超越をおこなうのであるか。その理由は一にも二にも身体にある。自我が自己を身体として、空間的に限定するならば、無数の物体の中の一つに過ぎなくなるからである。このような限定への欲求を、自我はなぜ持つのであるか。しかしこれは問題のたて方が逆である。身体はなぜ、自我を外界へと押しやるのであるか、こう問うべきであろう。自我は本来、自己自身の本質において自足できる存在である。それが何故に、フィヒテの用語を用いれば、Nicht-Ich(非我)をsetzen(措定)しなければならないのか。それは自我ではないものの問題であるというほかはない。それを具現したものが感覚器を具えた身体である。身体を表象としての見地からではなく、本体としての見地から考えねばならない。それは欲動と情動の塊であることはすでに述べた。それが私の意識をともなっていることを捨象するならば、それはなんらかの熱に近いエネルギーであることが分かる。快感であれ苦痛であれ、それが全身をみたすとき、私の身体の存在は快または苦そのものである。そのうえ、私そのものさえも、その快や苦と融合して、ほとんど消滅しかねない。身体はその本質において、私の否定の原理なのである。私の否定の原理である身体にわたし自身を委ねるのであってみれば、わたしが私自身ではないものへと超越していくのは、いとも容易であるといえる。
 身体が自我の否定の原理であるというのは、生命の見地から考えると分かりやすい。身体は生命としては一個の個体であり、個体はそれ自体では存在しえず、つねに種の中での一個体である。個体どうしの間ではさしたるちがいはなく、全体社会としての種の中で始めて発生し、存続していく。個体の間にはある程度の差異はあるが、総じて甲乙なく、生命全体社会の中での、種の存続のための一要素に過ぎない。いわば、種の手の平の中で踊らされている猿回しのサルに過ぎない。そのような個体としての身体は、種社会を離れることはできず、そればかりか種の存続の実体的なにない手として、他の身体を生み出さねばならないのである。このような身体に自我があるとすれば、もっぱら種の欲求に服従する自我であるほかはない。それはもはや本来の自我とはいえないであろう。そもそもなにゆえに身体に自我がともなうことが必要なのであるか。動物ではまず自我などは、少なくとも意識におけるレベルにおいては、無いといってよい。自我にかわって、本能が生命の活動の中心をになっている。人においても、たいていの生命活動において動物と違いはない。すなわち普段の生活においては、無我であり、無意識である。
 ここで個体生命にとって<利己的>であることは、必ずしも自我の働きではないことを言っておく。たとえば利己的遺伝子などというものは、個体が種のレベルにおいて活動しているのであるから、本来の自我の働きではないのである。ライオンが他のオスの子を殺すのは、種の本能によって支配されている限りは、本来自己自身において自足している自我のあり方ではない。しかもその結果、遺伝子的にはさしたる違いのない同種の個体を生み出すのであるから。
 ここでいう自我は意識のレベルでの個体の自己認識であるから、この点無意識にまでおよぶ精神分析で言う自我ともまた異なっている。精神分析でいう自我は、身体の無意識的活動と意識とを連続させて考えているので、徹頭徹尾身体的自我といってよいだろう。ここで探究している自我は、本来独立的で自存している純粋自我が、いかにして身体的自我にとりこまれていくかという、その過程において認識される絶対我をいう。そのカギは、身体の本質の究明にある。身体は生命体と言いかえてよいだろう。すなわち自我と身体の関係は、自我と生命との関係である。物質界の階層構造(Stufenbau)において、物質が物理的にどのようなものであろうと(素粒子であれ、クオークであれ、超ひもであれ、エネルギーであれ)、その創発的(emergent)な進化において、相転移が起こり、単なる物質が有機的生命体となり、さらに生命が相転移を起こし、精神(nous)へと進化する過程で、自我は物質界に取りこまれていった。たぶん生命の段階では、自我はいまだ大部分が無意識の中に沈んでいる。真に自我の発現といえるのは、ヌースの段階においてであろう。ヌースの本質は思惟であるから、思考することにおいてはじめて明瞭な自我意識が生まれたといってよかろう。しかし単なる思惟は自我ではない。自己意識はある種の直観であり、観念間の関連を相手にする思考とは次元が異なる。しかし意識が思考の発達と密接に結びついていることは疑いない。観念間の関連を明瞭かつ判明に(clear and distinct)とらえるためには、それを照らしだす意識が必要なのである。動物がそれを本能的、無意識におこなったことを、反省(reflection)においておこなうのが本来の思惟である。この反省こそが意識なのである。いわば意識は、無意識的思惟における結果のフィードバックである。それ自体は思惟ではないが、それによって思惟をチェックし、促進する道具であるモニターの役を果たすのである。
 思惟と意識の関係がこのようなものであるならば、自己意識である自我は、思惟とは直接の関係を持たないことになる。いわば自我は、思惟に対しておのれ自身を貸し与えているだけである。本来主客合一である無明の認識もしくは思惟に対して、それを照らしだす光が意識であり自我である。自我はその意味で、いわば傍観的な観察者なのである。その傍観的な観察者が、思惟を照らしだすだけではなく、身体の本質をも照らしだすことによって、あたかも身体と一体化した自我となる。無明の闇の中でうごめいていた欲動や情動が、私の身体のものとして認識され、その圧倒的なエネルギーと存在感によって、自我自体をもらちしさるのである。

 身体の本質

 身体の根本はなんであるか。いま単純に触覚だけが存在するとする。この感覚が生じるとき、ある種のやわらかさやかたさ、寒暖のようなもの、が意識のすべてである。しかし、その意識には、ただちになんらかの抵抗もしくは圧力のような感覚がともなう。これはなんであろうか。私の意識の中に私の意識に対抗するものが生まれている。すなわち感覚は私以外のものの存在を告げているのである。どうしてこのようなことが可能になるのであるか。意識原子(monade)としての私は、私以外に知り得ないはずである。monadeには<窓>がないとされている。あるいはなんらかの窓が、私以外の存在に対して開かれるのであろうか。もしそうならば、それはどのような窓なのか。それは私の外部からのなんらかの作用であると考えられる。その作用に対して私は抵抗し、あるいは受容するのである。すなわちここでは因果の形式が働いているのである。私と他の存在、他我、他のモナドの間には、<因果律の窓>が開かれているのである。しかし因果律の形式は、もっぱら表象間に働くのであって、表象(ここでは私の感覚・表象界)と表象でないもの(私の表象を超えた他の表象界)との間に、いかにしてそれが適用できるのであるか。これは物の現象と物自体との間にも当てはまる難問であるが、ここで現代物理学の考え方が参考になる。超ひも理論によると、この宇宙を造る膜であるブレインと、それとはまったく別の宇宙であるブレインの間には、ただ重力だけが相互作用をするということである。モナドはそれぞれが別の世界であり、固有の時間・空間を持つが、因果律においてつながりうると考えられないであろうか。それならば、予定調和や機会因(causa ocassionalis)などという便宜的なものを考えなくても、じゅうぶん他我の存在、他のモナドの世界との調和をを根拠づけることができるであろう。
 身体には五感が備わっているため、モナドがどのような形をしているのか、錯覚を起こしやすい。少なくとも、目で見るような五体を具えたモナドではあるまい。身体の外観を直接見るのは目だけであるが、触覚だけならばずいぶんとちがっていよう。触覚をイメージするとき、普通はつねに視覚的身体イメージをともなわせているのである。だからそれが手の先とか、足の先とか形体化されるのである。触覚そのものは、もっと漠とした空間感覚であろう。睡眠中に体の感覚だけが遊離して感じられるのも、それが本来の体感なのであろう。モナドには本来形はないといってよいだろう。意識そのものとしてのモナドは、全体者であり、それ自体で全宇宙であり、その果ては<微小知覚>の中に茫漠と消えており、無限といってよいだろう。因果の窓によって、他のモナドの表象がこの宇宙に反映する。たがいがたがいを映し出す鏡の関係にあるといってよいだろう。しかしそれによってモナドの独立性、唯一無二性が失われるわけではない。それぞれが固有の時空の中に存在する、孤立系であり、表象をともにしながらも、別の宇宙なのである。
 身体を契機として、モナドとモナドの間には<因果の窓>が開かれると述べたが、さらにその根本の理由を考えてみたい。モナドはライプニッツの場合でも、静的な単なる鏡ではなく、表象を生み出すなんらかのactivityである。すなわち宇宙創造の力であり、エネルギーである。それをショーペンハウアーにしたがって<世界意志>とよぼう。モナドの本体は世界意志である。世界意志はそれ自体で全体者であり、無限のエネルギーであり、盲目の(認識を持たない)、存在へのあくなき衝動(Drang)である。それが世界として発現するに当たって、無慮無数の個物に分かれ(Individuation)、物質から生命へと進化を遂げていった。個物(ここではモナドにあたる)はその本質において世界意志であるから、分割不可能な全体者であり、不滅であり、絶対の存在である。生命から意識へと進化した過程で、世界意志は初めて自己認識に到達し、自己が創造した世界を眺めやる。その世界が自己自身であることへの認識へも到達する。その認識において、あらゆる個物の根底に、自己自身を見い出すことになる。世界意志の見地から見て、万物は<私の意志>なのである。ここで私の意志は、その全体性、絶対性において、宇宙意志と同一なのであるから、この超越的認識において、あらゆる個物(モナド)間の区別は解消され、私自身となるのである。これが世界意志と同化した、認識者としての私の役割であるといえよう。

 他我と言語

 他我の認識において、動物は本能的に身体の直接的、間接的接触において、それをなしとげるが、知的生命体においては、概念がその補助をする。その概念を伝えるものが言語である。単なる音声は、情念や情動を共感によって伝えるに過ぎない。それもまた<意志>に直接作用することによって、強力な他我と自我の間の架け橋ではあるが、他者が思惟している内容までは伝わらない。音声と概念とを結びつけることは、知性の発達によってはじめて可能となる。言語は知的生命体の間では、自然物と同じように、すでに存在している。私はそれを作りあげる必要はない。種の共有物なのである。言語の数だけ、人類の種があるといって良いかもしれない。文化的遺伝子である一つの言語が消えれば、一つの種が消滅したことになる。種の個体間での相互認識の手段として、言語は生成した。
 ある音声を耳にしたとき、自我は直接的情動や情念を受けとると同時に、それがある観念を伝えてくるものであることに気づく。それらは私の頭の中にありながら、外から来るものであり、私の思惟ではない。私の情動や情念や観念と同質のものでありながら、私がそれらの主体ではなく、私以外の主体がそれらを発したものであるとみなすのである。言語はルソーが言うように、本来は情念から発したものであっても、ここではもっぱら概念の伝達の見地から考察する。それが情念以上に主体の存在を明確にするものだからである。
 言語が発達するには、概念の形成が前提される。思惟は基本的に概念間の操作であり、個物の観念(particular)から一般観念(universal)が形成されることによって、本来の意味での思考が生まれる。言語はこの一般観念と感性的音声を結びつけることによって、初めて成立する。treeという音声は、一本一本の木のことではなく、どの木にも当てはまる特徴を抽出した一般観念と結びつくのである。ただし、ヒュームがいうように、一般観念そのものが観念としてどこかに具体的に存在しているのではなく、単なる思考の上での操作である(唯名論にあたる)。言語の内容が一般観念すなわち概念であることによって、ある音声を聞くものは、それに該当するどのようなイメージを思い浮かべても良いことになる。もちろん言語は特定のものを指示することが可能であるが、その構造においては、概念に支えられているのである。
 音声が単なる音声ではなく、それが概念を運んでくることによって、自我は思惟において他我と対峙することになる。そもそも概念は感覚的表象とちがって、自発的、自然発生的に生まれるものではなく、プラトンがそれを想起に求めたように、ある努力を必要とするものである。それはどこからか獲得されるものである。すなわち概念と結びついた言語は学習されるものである。感覚は生まれながらに備わっているが、生まれたときから言語をしゃべる赤子はいない。言語学習において、自我は言語すなわち概念を媒介とした他我との関係に入るのである。私が言葉をしゃべるのは、すでにその関係が自明なこととして成立して、他者が私に概念をとおして語りかけるように、私もまた私の概念を言葉に乗せ、他者に働きかけるのである。
 子供のころ、森閑とした部屋にひとり残されていると、世の中におのれ一人しかいないのではないかという、不思議な不安にとらわれることがある。その時誰かの声が聞こえると、ほっとした気持になるのは、それがただちに他者の存在を告げるからである。また、音声にかぎらず、なにかの生活の音が、茶碗が鳴ったり、水の音がしたりでも、そこに他者の気配が感じられて、おのれ以外の存在者がこの宇宙にいることが分かる。それは言語の影響であるのか、あるいは言語がもともとそうした他者の気配から生まれたものであるのか、いずれにしても、動物も人間も、もしかしたら生命全体が、そうしたシンボリックな関係によって結ばれているのかもしれない。自我と他我との関係は、ある種のsigneまたはsymbolによって媒介されているのかもしれない。
 言語が記号の一種であることは言うまでもないが、表象に関してはどうであろうか。音は空気の振動である。いま聞こえているなにかの音は、私の耳の中で質的な表象として知覚されているが、それと空気の波動と、どちらが記号で、どちらが実体(意味)であろうか。音という言葉は、その両者のどちらをも意味しているが、今考えているのは、記号がなにかを媒介するものならば、音の感覚と同時に、空気の波動を想像もしくは思惟しても、あるいはその反対に、空気の波動を原因として想像する場合であっても、どちらかが記号でありうるわけである。もし感覚的表象をなんらかのsymbolと考えるならば、それは表象の背後にあるなんらかの実体ないし存在を媒介することになろう。あるいは純粋の記号として数式化されうるものを、本来の記号とするならば、この世界はすべて記号ないし数式で表わしうることとなり、表象はその記号に媒介されることになる。譜面と演奏される音楽と、どちらが真の音楽であるか、作曲者は頭に浮かんだメロディーを記号化するであろうし、演奏者は記号から音の表象を生み出すであろう。演奏される音の表象はしかし、それが記号の役割を果たすならば、音楽家でない限りは、そこから譜面を思い浮かべはしないであろう。それは作曲者の内面を媒介するのである。
 比喩的に言って、表象界もまたある種の言語であるのかもしれない。だからこそ、他我や概念や物自体の世界へと通じることができるのである。

2017年5月29日(月)
自我問答

 「あなたは本気であなたの自我が全宇宙を造ったと思っているのですか。そうだとしたら気違いです。自我は単に感覚をとおしてこの世界を映し出す媒介に過ぎないものです。言ってみれば、顕微鏡で物をのぞいているようなものです。そんな道具のような装置が、どうして全宇宙の創造者でありうるのですか。あなたがいてもいなくても、宇宙は存在しつづけます。それが客観的的世界というものです。自我が宇宙を造ったなどというのは、ただの主観的妄想です」
 「妄想といわれると、気が滅入るね。私としては独我論を徹底したつもりなのだが、論理が通じなかったようだ。客観的というのは主観あっての客観なので、すでに主客の関係は、自我の世界(つまり表象界だが)に組み込まれているのだ。表象の成立する条件が主客の関係だが、自我意識はその主客の関係に向かう知覚なのだ。自然科学はその関係を捨象してしまって、もっぱら客体に注意を向けるから、自我をあつかう場合にも、対象としての身体以外には問題としない。身体はもちろん物質だから、十分自然科学的にあつかえる。そうなると、自我は単に、脳内での生化学反応の一部にすぎず、一連の物質現象にほかならなくなる。それを客観的というならば、たしかに一塊の脳髄が、宇宙を生み出すなどというのは、滑稽極まりないことになる」
 「わかっているなら、冗談でそう言っているのですか。とてもまともな議論には思えません」
 「哲学者の中には、奇矯な主張をする人がたくさんいる。たとえばバークレーというアイルランドの坊さんは、物体などは存在しないといっている。世界は観念だけからできていて、そも物体などと言う実体は世界のどこにもない。無用の長物だと言うのだ。眼の前のテーブルは物ではなく、ただ私が知覚することによって存在している観念にすぎないのだとね。ジョンソンという人はそれを聞いて腹を立て、握りしめたステッキで地面をたたき、これが物体だと言って、バークレーを論破したつもりでいた。その実、ステッキという観念で、地面という観念を叩いたに過ぎなかったのだがね。じゃあ、それらの観念はどこから来たかというと、さすがに坊さんだね、神がすべての観念を人の魂に吹きこんでいるというのだ。神の観念だから、これはクリスチャンにとっては確実この上ない。これでめでたし、世界は安泰というわけだ。ここで神というのと、自我というのと、違いがあるだろうか」
 「神なら信じてよいかもしれませんが、あなたの自我では信じられません」
 「神こそ、正体の知れない、不可知の、存在するともしないとも分からない、ただ信じるだけのしろものなのに、自我は少なくとも事実として存在している。それどころか、デカルトによれば、最も確実に認識できる存在者なのだ。最も確実なものを思索の原点とすることは、デカルト以来の哲学的伝統となっている」
 「私に分からないのは、私にとってあなたほど私の自我が大事だとは思われないのです。自我は特別なものではなく、人類のだれにも備わっていて、多くの自我が集まって歴史の営みの中で文明を作ってゆく、そのことの方がはるかに大事なのです。国家についても偏見を持っているようですが、国家を悪と決めつけるのはまちがいです」
 「自我が、私の用語で言えば、<全体への意志>において、国家や歴史のなかに組み込まれていくことは、むしろ自我にとっては不幸なことだというのが、私の論旨です。国家が必要悪であることは、現今の人類の状態では認めざるを得ない。なにしろ人間が多すぎる。しかも真に自我に目覚めた人間でなければ、国家が自我の抑圧者であることに気がつかないだろうからね」
 「国家の権威がなければ、文明も文化もないではないですか」
 「たしかに歴史的にはそういえる。しかし文明論はともかく、形而上学にもどろう。私にとって自我が大事なのは、それがこの世界で最大のミステリーだからだ。自我は不可解である。」
 「私にとっては少しも不可解ではありません。だれでも自分というものを持っていますし、たくさんの自我のなかの一つであるにすぎません。それが不思議であるなどとは、思ったこともないのです。あなたがそう思うことが不思議なのです。私のまわりにもそんなことを言う人はいません」
 「私のように感じることのない人が、たくさんいることが分かりましたよ。自我、すなわち私の存在が不可解だというのは、それの理由や根拠が考えつかないということです。つまり思惟によって分かる存在ではないということです。たぶん認識論的にはこういうことなのでしょう。主観というのは、つねに客観とのペアで知覚をおこなう。ところが、その主観の鏡がふと自分自身を映してしまうことがある。主観の鏡はもっぱら客体を理解するだけで、自分自身を理解するようには出来ていないのだ。ショーペンハウアーも、主観について、「(認識可能な)すべてを認識するが、なにものによっても認識されない」と言っている。そこに映し出されたおのれ自身は、認識のプログラムからはずれていて、ひたすら不可解なのだ。しかしだよ、不可解であっても、それは実によく分かっている私そのものなのだ。それは積極的なワンダーのもとでもある。私は私自身の存在の驚異に打たれるのだ。これほどの驚異は、ほかにこの宇宙の存在以外にはないね」
 「だからといって、それが宇宙を創造したり、永遠・不滅であったりする根拠にはならないでしょう。あなたの考えには根拠がないのです。昔の人が幽霊や妖怪を信じたのと、かわりはないです」
 「自我自体の存在は無根拠だというのが、私の形而上学の根拠になっています。神は原因やそれ以上の根拠を持たないから、絶対者であるとされるのです。私の存在もまた無根拠であるから、すなわちなんらかの根拠によって理解されるものではないから、私は唯一無二で、絶対だと言っているのです。それに、私はフィヒテとちがって、宇宙を創造(setzen)したなどとは言っていないのだが。宇宙とともにあると書いたのだが」
 「あなたが死んだら宇宙はなくなるというのは、そういう意味でしょう。あなたが死んでも、宇宙は何の変化もなくあとに存在しつづけます。なぜ宇宙を道連れにする必要があるのですか。それはただの願望ではないですか。長嶋さんが“巨人軍は永遠です”と言うのとどこが違うのです。まさか巨人軍が不滅である理由を、哲学的に論証などはしないでしょう」
 「願望と言えば願望かもしれない。巨人軍が永遠かどうかは知らないが、長嶋サンの願望と違って、私は、世界意志の産物であるこの矛盾と争いと残虐に満ちた世界から、救済される原理を探究しているのだからね。Anywhere out of this world だよ」
 「やっぱりね、ただの願望で主張しているだけなら、詩や文学と同じですね」
 「いや、詩や文学と同じにされては困る。たとえ願望や希望が動機になっているとはいえ、思索である限りは、論理にかなった論証でなければならない。それでもって破綻するならば、仕方がないとして、私としては真理を探究しているつもりなのだ」
 「希望や願望は真理をゆがめるでしょう。ただの思いこみとどこがちがうのですか」
 「思いこみかどうかは、最終的に応用によって、つまり実践によって決まるだろうが、今はそれを実証するには早すぎる。ところで、宇宙を道連れにするという、さっきの非難について話しをもどすと、たとえば、色彩というものを考えて見ようか、それは私の意識のなか以外のどこにもない。客観的には、つまり科学的には、色彩とは光の波のある波長の範囲にすぎないのだ。色彩は私の意識とともに消え去る。ところで、波であるとともに粒子でもある光量子というものを、見たことのある人はいるのだろうか。それは物理的概念であって、だれも光の実体を見た人はいないのだ。するとそれもまた、思惟する主体がなくなれば消えてなくなる。概念だけが残るということはないだろうからね。すくなくとも、私が死んだあとに残る宇宙というのは、ずいぶんちがったものだろうと思う。私の表象としての宇宙はもはやないのだから」
 「それなら、なんのために遺言など残すのですか。あなたが死んだあとには、この宇宙でなくなるというのならば」
 「痛いところをつくね。形而上学から見て滑稽なことが、実存(現実存在)の見地からは大真面目におこなわれるのだ。色即是空、空即是色と言いながら、お寺の経営にあくせくしている坊さんにでも聞いてみたいね。私が死んだあとに、私の秘密文字で書いた論文を、解読してほしいからだけれど、どうせ捨ててしまうだろうね」
 「そんな手間なことはしません。今のうちに、ご自分で読めるようにしておいてください」

2017年6月6日(火)
無は時間の中にあるのか

  Alles Seyn in der Zeit ist auch wieder Nichtseyn:- denn die Zeit ist das wodurch dem Dinge entgegengesetzte Bestimmungen zukommen: daher ist jede Erscheinung in der Zeit wieder nicht: denn was ihren Anfang von Ende trennt ist bloss Zeit ein wesentlich hinschwindendes, bestandloses und relatives, hier Dauer gennant.Die Zeit ist aber die wesentliche Form aller Objekte der im Dienste des Willens stehenden Erkenntnis: der Urtypus der andern.Also die dem Satz vom Grund nachgehende Erkenntniss, sieht nichts als Relationen.
  (Arthur Schopenhauer : Metaphysik des Schoenen s.52.Piper)(訳文は今月の言葉で)
(時間の中における存在は、また他方において非在である。なんとなれば、時間とは、それによって事物に、反対の規定が与えられるところのものだからである。それゆえに、時間の中のどの現象も、他方において非在となる。なんとなれば、その始めと終わりとを分かつものは、時間にすぎないからであり、それは本質的に過ぎ去るものであり、とどまることのない、相対的なものであり、ここでは持続と称される。時間はしかし、意志に奉仕する認識の、あらゆる対象の本質的形式であり、他の諸形式の元型である。したがって、根拠命題に従う認識は、関係いがいのものを見ることがないのである。)

 何もないということは、あたかも空間の中の真空のような意味に使われる。真空は、今日の物理学では物質(=エネルギー)に満ち満ちた空間であり、粒子と反粒子とが対生成と対消滅をくり返す、活動的な領域であり、とても無とはいえない。ゆいいつ無と考えられるのは、宇宙創生以前の状態であり、それさえも一つの仮説である。宇宙は無から発生したとはかぎらないのである。
 空間も時間も宇宙創生とともに生まれたことになっている。それらは絶対空間や絶対時間ではなく、観測によっていくらでも伸び縮みする、相対的な事象であるとされる。時間や空間は、いわゆる物でも、出来事でもない。空間や時間は何かとしてあるわけでも、出来事として起こるわけでもない。物があり、出来事が起こる、その基本的場として、ものや出来事と切り離されずに、何らかの意味で存在している、観念であると同時に、実在のなかにある、世界の基本要素である。これほど定義しにくいものはない。
 表象としてみるとき、空間表象はそれ自体で存在するわけではなく、いわゆる次元として、ものの存在のありかを提示する指標に過ぎない。世界に何もなければ、それは空間ですらないであろう。空間が物質とともに生まれたと考えるのは、空間の性質からいってごく妥当であろう。次元でありながら、それは伸び縮みする。質量によってゆがみもする。そのゆがみが重力であるとされる。空間はまさに物質の性質といってもよいくらいである。何もない空間とは言葉の矛盾である。物があるから空間が生まれるのである、と考えた方がよいであろう。無慮無数の宇宙のなかには、物質の生まれない宇宙もあるとされるが、少なくともエネルギーには満ちているであろう。
 空間が物質の性質であるならば、表象としての世界においては、空間は物質が表象として発現するための、一つの認識の形式であると考えてもよいであろう。物体の表象と空間の表象は切り離すことができないのである。物体が表象されれば空間が表象され、空間が表象されれば物体が表象される。この点では、表象界は物の本質を正しくとらえているのである。
 時間についてはどうであろうか。なにごとも起こらなければ時間はない。出来事とは、物または状態が、生まれたり消滅したりすることであり、そこには物事の継起、もしくは変化がある。もしこの変化がなければ、時間はあって無きがごとくであろう。時間もまた、宇宙創生とともに生み出されたと考えるのは妥当であろう。すなわち、物の存在と時間とは切り離すことができない。時間もまた、物の変化する性質と結びついている。あるいは物の変化する性質そのものと考えてよかろう。そこで、表象の世界においては、物の表象の発現する、一つの認識の形式と考えられるわけである。物の変化が表象されれば時間が表象され、時間が表象されれば物の変化が表象される。時空と物とは切り離すことができないのである。ニュートンが考えたような絶対の時空は、今日の物理学においても否定されている。
 さて、時間は空間と較べて、特異な点をもつ。空間の三次元方向は、実在的に移動可能であるが、時間の過去と未来への方向は、実在性をもたない。そればかりか、実在(Seyn)、つまり現在は、刻々と過去のなかへ<非在(Nicht-Seyn)>として消えてゆく。もし<無>ということが言われうるなら、それは時間の中においてである。しかしそれは何もないという絶対無ではなく、存在の消滅という意味での無である。あるいは、未来の方向から見れば、無は現在にあり、未来の存在は無から生み出される。すなわち<能産的>無である。時間の中においては、現在は実在であると同時に無なのであり、未来を創出することにおいて、刻々と非在と化しているのである。これが少なくとも、表象世界における時間のあり方である。物理的世界においても、はたしてそのようであるかは分からない。時間の矢は必ずしも存在するとは限らないからである。また物理的世界では、現在は特別ではないからである。
 無に関しては、表象のいま一つの形式である因果律がかかわってこよう。時間が変化の表象であるならば、因果の形式は、その変化を必然性の認識においてとらえる直観である。ある事象がすでにない事象のなんらかの作用によって生じたと判断するとき、すでにない時間と現在との間に因果の架け橋が生まれる。時間は過去にさかのぼりうるのである。同様に、いまだない未来の事象を、現在の事象からの作用の予想において、確実に定めることも可能である。すなわち、認識者は因果律によって現在という一点から超越しうるのである。これはある意味で、時間的無の認識による克服である。時間は無であるということが、ふだんは意識されないのは、この因果律の働きによるところが大きいであろう。
 時間がある種の無である、あるいは非在化の性質をもつことは、空間以上に無の観念に実在的根拠を与えていることであろう。神が無から宇宙を創造したと考えるのも、時間をはるか遠くまでさかのぼってみれば、無以外に想像できないからである。しかし、時間は本当の意味での無であるか。<非在>をそのまま<無>とすべきであろうか。ただ単に<時間はない>だけではないのか。ヒュームが変化と結びつく因果律の観念を否定した時に、同時に時間の観念も否定すべきであったろう。どこにも経過する時間の観念といったものはないのだ。ただ二つの継起する事象だけがある。ひとつの事象が消えて、べつの事象が起こる。それらを記憶において比較するとき、なんら時間そのものを表象しているわけではない。認識者はつねに現在にいるのであり、過ぎ去った時を見ているのではない。現在そのものは過ぎ去らない。非在となった事象を現在の中に保持しているのである。すなわち表象世界において、少しも時間は過ぎ去ってはいないのだ。これは出現する未来についても言える。消え去った現在は、現在の中に保持されている。少しも時間は過ぎ去っていないのだ。すなわち、表象世界においては時間はない。
 実のところ、表象世界においては、時間は空間の一種と考えてよいのかもしれない。単に時間の空間化ではなく、その本質において空間の一種なのだ。この宇宙を一瞬において切り取ったとき、それは宇宙の断面としての一種の空間であろう。同じように、つねに現在という一点で表象世界を切り取っているこの時間の形式は、刻々と切り取られた表象の空間をうみだす。時間の最小単位というものがあるならば、宇宙はその数だけ無限に切り取られた時間のスライスであると言えるだろう。空間においてと同様、時間においても、どこにも無などというものはないのだ。
 *   *    *
 補説:持続について(6・14)
 時間の認識はある幅を持っている。ある状態がなんの変化もなく続くあいだは、時間の認識はない。そこに変化が起こって、新しい状態が生じるとき、時間の推移が認識される。ある状態が変化せずに続くことを持続(Dauer)と称するならば、持続が認識されるのは、それが始まり、それが終わることによってである。その始まりと終りが、時間の認識であるといえる。始まりと終わり、すなわち状態の変化が、持続を認識させ、それが同時に時間の認識となる。流転する万物の中で変わらないものはないが、ある種の持続がなければ時間の認識はないはずである。それを時間の最小単位と考えてよいであろう。時間の最小単位は純粋な持続であるから、それ自体においては状態の変化はない。時間の一つの最小単位が、次の単位にとってかわられるとき、それが変化であり、時間の認識である。一つ一つの時間の最小単位は、それぞれが全宇宙であり、わずかずつ、異なっているはずである。そこには時間は流れていないのである。一つ一つのフィルムのコマが、連続して流れているように見えるのは、そこに認識者の眼があるからである。時間は認識者の認識の中で作られているのである。認識者の主観が時間を生み出すためには、認識者自体が時間の最小単位の中にいなければならない。認識者自体が、あるいはその主観が、純粋持続でなければならない。すなわち時間とともに変化してはならないのである。認識者は、表象世界において、時間の最小単位において、純粋持続として発現するのである。その認識者の意識が、時間の単位をつぎつぎとコマ送りすることによって、時間が流れるものとして現われる。それはある種の幻影であるといえよう。(このように考えると、宇宙にはいかなる発展もないことになる。宇宙創生の瞬間に、そのあらゆる細部において、すでに完成していることになる。それをスライスして認識しているのが、自我の純粋主観であることになる。こうした点や、その他の問題点に関しては、あらためて考察したい。)

2017年6月25日(日)
表象世界の神秘

  緑の山の端の上に広がる青空の色には、心を遠く引き寄せるものがある。身体から浮かび出るような胸の広がりと、観念の純化が、自然美そのものの純粋観照へと向かわせる。対して、森の欝蒼とした木々のもとでは、身体の奥底で疼くものがある。落葉や土の香り、木々の茂りの隠れ場の中では、身体が暗い意志と同化してゆく。一方は<空の性(さが)>であり、他方は<土の性(さが)>である。明瞭な意識へと向かう憧憬と、身体の暗い衝動との間で、人間存在は引き裂かれている。一方の表象は身体を純化し、他方の表象は暗い衝動や欲望をうごめかせる。一方は光へと、他方は無意識界へと、意志を引き寄せていく。どちらの側にも神秘がある。一方は無限と永遠への胸苦しい憧憬であり、他方は郷愁に満ちた闇の魔力である。一方は身体からの超越への意志であり、他方は盲目的な悦楽と、放恣への意志である。一方はイデア界へと自我の解放を願い、他方は世界の根源にとどまり、その無限の力に身を委ねんとする。一方は超越者への道であり、他方は超人への道である。どちらも無限に困難な道である。なぜなら、一つの身に二つの性をもつからである。両者の格闘において身を焼き、身を滅ぼすほかはない。身を滅ぼして、もし残るものがあれば、そこに救済の原理が見つかるであろう。
 *   *   *
 青空にかぎらず、色彩の表象には神秘がある。意識は本来それ自体としては色彩を持たないであろう。それが白色光、すなわち透明となって現われている。透明とは、意識における一様な明るさと考えてよいだろう。暗い頭蓋の中で、最初に意識が灯るとき、それはスイッチを入れたように、ふと灯るのであるが、限りなく透明な黄色である。それを意識自体の色とするならば、それは物理的な光、すなわち可視光線とは別のものであろう。明るさというものを、脳はみずから生み出すのである。意識とは脳が生み出した光といってよい。その意識の最初の明かりの中で、一点の光輝が生まれ、それがまばゆい透明な白色となって広がり、意識を埋め尽くすほどに燦然と輝く。これが目に見る光の誕生であろう。こうした原初の明るさ、光が、脳内に準備されていて、覚醒と同時に、外界の色とりどりの色彩を生み出すカンヴァスとなっているのである。
 色彩は意識自体が染められることであると言って良いだろう。青は意識の凝縮であり、赤は意識の他方向への凝縮である。中間の黄色は、意識そのものの色に最も近いのであろう。そこから両方向に、色彩が展開するのである。黒は光によって現わしだされた<無>意識である。色彩自体が何であるかは、意識自体が何であるのかという問と同じで、そうであるもの(So-Sein)としか言い得ないものである。しかし、色彩が意志に及ぼす影響については、さまざまなことが言いうる。もはやそれは、客観的な表象でありうるからである。青空が青として表象されることは、生への意志の見地からは、必ずしも偶然ではないであろう。それは生にとって最も遠い色であるから。たとえば、それが赤色矮星系の惑星における生命にとっての、空の色であっても良いわけである。人類にとって赤い星は、彼らにとって青く(または少なくとも黄色く)見えるかもしれないのである。血液が赤として表象されることも、偶然ではないかもしれない。血が赤いからではなく、<赤い>血が生への意志にとってalarmを起こさせるのである。意識を選別的にそめるのは、生への意志であるといってよかろう。赤色矮星系の惑星の住人の血は、やはり赤いかもしれない。
 表象世界の背後、もしくは根源には、それを生み出す世界原理の<意志>がある。この世界が調和に満ちて見えるならば、それは世界意志の演出であり、またこの世界が矛盾と不合理に満ちて見えるならば、それもまた世界意志の本質から発したことである。あらゆる表象には、世界意志のなんらかのサインが秘められており、その意味ではこの表象世界は世界意志の作品であり、テキストである。自然科学はそのテキストを、概念において解き明かそうとするが、表象そのものがすでになんらかのシンボルとして、世界意志の直接の表現でもあるのだ。
 概念の世界は、イデア界の探求に委ねるとして、ここではさらに表象の神秘を考究してゆく。表象は世界意志が生み出したものであり、その目的ないし衝動の向かう方向に従わねばならないが、まれにそれに反する影響を意志に及ぼす場合がある。それをショーペンハウアーにしたがって、表象の<純粋観照>と名づけよう。世界意志のこの表象界における根本のあり方を、ショーペンハウアーは<Interesse(利害関心)>と規定する。意志にとって利害関係のない表象には、注意が向かないのである。逆に言えば、表象はつねに意志の注意を向けるように、発現しているということである。表象と意志とは、つねに共扼関係にあるのである。認識者の主観はつねにこの両者の共扼関係に縛られているので、事物を認識する時には、ある表象が意志にとって気に入るかどうか、つねにお伺いを立てているわけである。ところが、まれではあるが、認識者の主観がこの役目を忘れて、純粋に対象そのものへ没入することがある。この主客合一の状態で、Interesseにとらわれない、表象の<十全な>認識が可能となる。この時、意志を滅却させる純粋美が発現するものとされる。認識者の立場からは、美の<純粋観照>である。
 通常われわれは利害にとらわれているから、表象そのものを、客観的に、十全な姿でとらえることがないのである。言ってみれば、表象自体(Vorstellung an sich)の姿を見ることがないのである。プラトン風に言えば、表象のIdeeを見ることがないのである。青少年期に、自然界があれほど美しく見えたのも、いくぶんはこの美の純粋観照にあずかっていたのであろう。ただ夕月を見ているだけで、心が静まり、一日のいやなことを忘れることができたのであるから。生への意志にとってみれば、月ほど無縁なものはないからである。あらゆる表象は、純粋観照の眼からは、美でありうるのかもしれない。しかしそうしたことが起こりうるのは、きわめてまれである。通常美と映るものは、つねに意志に奉仕する、意志の媒介、道具としての美にすぎないのである。ミロのビーナスやモナリザでさえ、見ようによってはエロスをかきたてよう。そうした美によっては、あるいは、そうした美の見方によっては、意志の滅却などはとてもおぼつかない。
 視覚的な美は、自然美であれ、人工美であれ、その純粋な姿において、心を沈静させる。それに対して、複雑な美感を引き起こすのが、音楽である。自然界の音の表象は、生への意志と密接に結びついて、危機や、安全や、安らぎといった、生命のリズムに対応している。風音、波音、足音、羽ばたき、鳴き声、それぞれに生命は対処しなければならない。その心的律動を伝えるものが音楽である。ひとことで言えば、音楽は生への意志そのものの動きである。と同時にそれは、厳密な概念の構造を持っている。それによって客観化された生への意志である。客観化された生への意志であることによって、それはある種の美となりうるのである。それにしても音楽は、身体に奉仕する低次の意志から、高次の精神化された意志にいたるまでの、幅広いスケールを持っている。一方では意志をかきたて、昂揚させ、撹乱させ、他方では、意志を沈静させ、寂滅為楽の境地を髣髴させる。
 世界意志は、絶大なる力であり、エネルギーであるが、それが低次の物質界において発現するに当たっては、物理学が明らかにしたように、波動としての姿をとる。物質は、ごくごく微小な長さの、幅のない、ヒモの振動からなるのである。音楽はまさにこの振動そのものであり、宇宙の根源を音として表象の世界に現わしだしたものである。身体的自我の本質もまたこの波動であり、そこから身体の律動と音の律動とが舞踊において合体し、それがさらに分化することにおいて、音楽が成立したのである。波動という規則的な法則にしたがう音楽は、この宇宙が法則的であるのと同じように、一定の法則性を持ち、それによって宇宙そのもの、生への意志そのものの純粋な表現となる。それは概念でありながら、言語のような意味を持たない。しかし、意志そのものと共鳴することによって、きわめて明瞭に世界の本質を開示するのである。
 音楽は世界意志の純粋な発現であるから、それによって世界意志のコントロールがあるていど可能になる。意志の昂揚に向けてそれを働かせることもできるし、また意志を沈静の方向に導くこともできる。また場合によっては、全体主義国家においては、この音楽の力を、大いに悪用したのである。音楽は直接心情に作用する。まさに心情そのものもまた波動であるからだ。音楽の侵入に対して、心は無防備であるといえる。心の内奥まで侵入して、あらあらしくおのれの秘められた心を暴き立てるのである。心はその羞恥感にいたたまれなくなる。そうした音楽の暴力は、また強烈な魅力となる。身を暴風に委ねるように、<第五>に心の中をかきむしられなければ、もはや生の魅力を感じられなくなってしまうのである。音楽は同時に概念であることによって、高次のレベルにおいては、生への意志を精神性に高めることができる。その低次のレベルにおいては、身体の需要に奉仕したり、そのリズムによって肉体の欲求に奉仕する。生への意志のあらゆる段階を表現しうるのである。
 音楽はその精神性の極において、意志の否定へと向かうであろう。ワグナーの楽劇がそれであった。現代の無調音楽も、またその傾向を持っている。日本の古典音楽のあるものも、その傾向が著しい。教会音楽や、バッハのフーガの技法なども、世界意志を沈静させる。しかし、あくまでも一時的な鎮静であって、あらゆる芸術美がそうであるように、完全なる意志の滅却にいたることはない。

2018年1月3日(水)
形而上学と量子論

 自然科学の究極の理論の一つである量子論(量子力学)と形而上学(とくにショーペンハウアーの形而上学)の間には、ある種の親近性が見られる。いくつかとりあげてみよう。
 量子論の非日常的な考え方の中でもっとも特徴的なのは、粒子(量子)が個体性と波動性の両面を持つということと、運動(時間)と位置(空間)とは同時的に決められないという不確定性である。この問題の中心的概念となるのは、<観測者>というものの存在である。量子の存在の確率を表わす波動が、観測した瞬間に一個の粒子として現われる。この二面性を生み出しているのは、観測するものの存在であるとされる。これを意識の存在が、現実の宇宙、すなわち通常の力学にしたがう個物の世界、を生み出していると考える物理学者もいる。<意識>が宇宙を造っているのであると。
 ここで観測者ということを厳密に考えてみると、これをショーペンハウアーの表象論に当てはめてみるならば、個物の世界である宇宙は、対象すなわち客体・客観(Objekt)の世界に当たり、それの相関者は主体・主観(Subjekt)である。この主観なるものは、自己意識においては決して現われてはこないものであり、いわば透明な機能である。もし観測者が、この世界と波動方程式で表わされる世界とを区分けする原理であるとするならば、それは無意識の先天的、もしくは先験的働きであり、意識とは無関係なのである。量子論的に言えば、主観すなわち観察者は波動と粒子との世界を分かつ先験的Formである。この点で、観察者を意識から引き離し、粒子間の単なる相互作用とする物理学者の考えに近い。観測する装置さえあれば、この世界は波動から粒子としての変貌、もしくは相転換をとげるのである。
 ところで、<表象>の世界はショーペンハウアーによれば、principium individuationis(個体化の原理=時間・空間)によって、個物として現われた世界であるから、波動関数で表わされる確率の波としての世界は表象ではない。しかし波動の量子的世界はまた、表象もしくは現象の背後にあるとされる物自体(Ding an sich=世界意志)の世界でもない。波動の世界は、少なくとも速度(時間)か位置(空間)かのどちらかを定めることができるのである。時間・空間は表象のFormであるから、波動の世界は物自体と表象との中間にあると言えるであろう。物自体=宇宙意志は時空を超越している全体者(Ganzheit)であり、あらゆる認識のFormである<根拠命題 Satz vom Grund>によってはとらえることができない。
 量子的世界の粒子と波動との不可解な二重性を避けるために出された理論に、多世界解釈(いわゆるパラレルワールド)がある。観測者が観測したとたんに、波動が粒子に変身するのではなく、観測するごとに別の世界が分かれると考えるのである。世界は確率的に可能な数だけ、無慮無数に存在する。たまたまその一つの可能的な世界に、いまこの時この場所に、無数の私の中の一つとして存在していると考えるのである。ほんの数個の粒子が相互作用しただけで宇宙が分かれるのであるから、実に途方もない数の宇宙が時々刻々生まれていることになる。しかもそれらの宇宙間にはなんの相互作用も働かない、隔絶した世界なのである(その連絡路としてワームホールのようなものが考えられてはいるが)。
 しかしこの多世界解釈にはいくつか矛盾がある。もし私が何かの行為をするごとに、世界が二つに分かれていくとするならば(私がその行為をしなかった世界、あるいは私がその行為を失敗した世界、など)、私という存在は、誕生して以来無慮無数の世界に分かれて存在しているはずであるが、なぜこの世界のこの私でなければならないのか、その理由が明らかにならないことである。私としては、できればこの世界の私でないことを願うのであるが、何ゆえすべてが成功した世界の私ではないのか。私という自我が存在しなければ話は簡単であるかもしれないが。すべての世界は少しずつ違ったコピーに過ぎないであろうから。
 もし私が少し変わって私でなくなるならば、今も私は時間的に変化しているのであるから、すでに一瞬前の私とは異なっているはずである。パラレルワールドでなくても、私は常に私ではなくなっているということになる。しかし、やはり私は私である。このことは、もし多世界解釈が正しいならば、自我についての根本的洞察をもたらす。自我は量子力学的影響を受けないのである。自我は少なくとも、粒子でも波動でもない。個物でもなく波動方程式で表わされる存在の確率でもない。唯一無二であり、全体者なのである。その点では物自体にひとしい存在である。それでは、多世界として分岐していく他の私であるとされる、無慮無数の世界における私とは、一体どのようなものか。
 ここでライプニッツのモナドロジーを想起すべきであろう。この世界はそれぞれが隔絶した宇宙であると言える無慮無数の意識原子(monade)からなる。私は一つのモナドであり、他の存在物、物体、生き物、人間等、すべての他のモナドは、他者であり、他の宇宙であり、それらとの間には一切の関係がない。ワームホールすら存在しないのである。私が量子力学的確率の波にしたがって、時々刻々、無慮無数の併行世界を生み出しているとするならば、それらの世界は私自身の世界ではなく、他我の世界もしくは非我の世界であると言ってもよいのではないか。私自身の生み出した世界であるから、互いに隔絶した世界であっても、私はそれなりに他の世界を理解できる。特別に予定調和などは不要である。言ってみれば、他の世界、他のモナドは、私の少しずつ異なった分身に過ぎない。それぞれの宇宙が自我を持つであろうが、隔絶した世界であるために、もはや私自身としては意識されないのである。私は母なるモナドであり、世界意志と合体して宇宙を自己自身から生み出すものとしてのMatrixでありFormである。
 私という自我があり、そこからシャボン玉のように無慮無数の宇宙があわだち生まれる。措定したり定立しなくても、自我は波動関数の確率的可能性にしたがって、無慮無数の非我や他我を生み出していく。フィヒテやシェリングの観念論が骨折ったことが、いとも容易に実現していく。しかし自我は全能ではないであろう。あくまでもFormなのであり、その唯一無二の絶対性において、この宇宙の創造者であるに過ぎない。この無限の多世界的宇宙を生み出す根本の力は別の本質であり、それをショーペンハウアーにならって世界意志(Weltwille)と呼んでよかろう。さらにプラトンに遡るこの世界の理性的本質であるイデア界が加わり、三者のTrinitaet(三一体)が、いわばこの世界の<神>なのである。

2018年1月5日(金)
世界の構成と構造化

  「最も単純な生物、たとえばアメーバが<もの>と異なるのは、その構成分子が<群>をなさず、内的団結、すなわち一種の<自己所有(auto-possession)>を課する全体的<構造(structuration)>によって支配され、方向づけられている点にある。自己所有は、人間では、<上空飛翔(survol)>という形をとる。この<意識(conscience)>と呼ばれる活動的支配は、もはや単に生命の構成要素を組織するばかりでなく、人間が接触する外界の要素をも組織する。」(グレゴワール「哲学入門」p.81 クセジュ 中村雄二郎訳)

 この世界の本質が何であるかについての思索が哲学の起源であるならば、その究極の答えはいまだ出されていないと言えるであろう。自然哲学に始まり、今日の自然科学にいたるまで、一方では<物の本質>の探究が、他方では自然崇拝に始まる宗教的思索や観念的形而上学による探究がもたらした成果は、いまだ決定的確信をもたらしてはいない。哲学はつねにプラトンやアリストテレスやデカルトに回帰して、思索をやり直しているようなものかもしれない。その理由の一つは、あるいはすべてであるかもしれないが、思索する人間が生命という条件のもとでそれを行っていることであるかもしれない。自然の産物である生命が、自然そのものを理解することなどが可能であろうか。そのことの反省がこれまでの形而上学や自然科学には欠けているのではないか。
 生命が単なる物体、<もの>と異なるのは、今日の科学で言えば三つの要素を具えているからであるとされる。一つは個としての組織を持っていることであり、二つは異化(分解)と同化(合成)という代謝の機能を持つことであり、三つは自己複製をおこなうことである。ウイルスは一の条件を満たしていても、代謝と自己複製は宿主においてしかおこなわないので、生命とはみなされていない。<もの>と生命との境は曖昧であるといえる。少なくとも物は二つ目までの条件に達している。そもそも<もの>は個物である。それが単純な個物(一個の陽子や電子などの)であろうと、なんらかの組織や構造をもった個物の集団(原子や分子や太陽系や銀河系)であろうと、個としてのまとまりをもたない物体はないのである。それ故に自然科学の対象は徹底して個物であり、個物をあつかわなければ帰納も演繹もないのである。
 個物の本質がなんであるか、それの究極を探究しても結局個物にしか行き当たらない。物理学では、いまのところ振動する極微のヒモであることが分かっている。そのヒモがさらに何からできているのかを探究しても、やはり個物に行き当たるほかはないであろう。古代の哲学者はこの難点とは逆に、世界の本質が水や火や空気であると考えた時に、原初において全世界が水であり火であり空気であり、それが個々の水や火や気体として、さらにそれらが変容したり、複合したりして、もろもろの個としての物体に分かれたものと考えたのであろう。いずれにしても、この世界は個物でもって構成された世界であることに疑いはないのである。(現代のビッグバン理論では、物質もしくは物体は、原初において限りなく小さな一点における莫大なエネルギーのかたまりであったとされる。物質全体でありながら、空間的な一点であることにおいて、やはり一個の宇宙としての個物であるといえよう。)
 個物は集まることによって、なんらかの組織もしくは構造を作る。これは生命に始まったことではない。全宇宙の泡構造に始まり、銀河や銀河団が構成され、それらは互いに合体離散をくり返す。極微の世界では、宇宙の晴れ上がりとともに原子や分子が形成され、それらがさらにまとまって恒星や惑星を形成する。恒星には誕生から死までの、一定のプロセスが仕組まれている。それは生命におとらず、物質の代謝といってよいのであろう。恒星は超新星爆発を起こして、大量の物質を空間に放出し、そこから次の世代の星が生まれる。これは比喩的以上に、自己再生産といってよいであろう。生命のパターンは、すでに無機的自然において確立しているのである。それでは生命の特異性はどこにあるのであるか。
 結局、生命とそれ以外の物体との違いは、無機物から有機物への生成の過程における複雑さの程度としか言いえないのではないか。それゆえに、生命の発生はこの宇宙では非常にまれであるとされる。生命の発生する偶然的条件が、あまりにも確率的に低すぎるのである。この銀河系には一千億の恒星があるとされるが、生命の生まれる条件を備えた惑星はわずかであり、人類ほどの文明にいたる惑星は各銀河に一つか二つであるという見込みもなされている(*注)。しかし宇宙は無限であり、無限の銀河や星があるのであるから、宇宙全体では生命はありふれているといえよう。自然の豊饒さ、途方もない無駄を考えるならば、生命もまた確率の産物としていくらでも生まれてくるであろう。
 (*注:最近の発見では、銀河系の星の三分の二を占める赤色矮星に、無数の地球型惑星があることが分かり、生命の誕生の確率は飛躍的に上がったようである。)
 人間が生命であることが特異なのではなく、この宇宙が生命を生み出しうる構造を具えていることが、同時に人間の特異性なのである。その構造の産物が生命であり、人間なのである。そのような条件のもとで、人間は思索し、科学的・哲学的探究をおこなう。宇宙の構造化(structuration)は、同時に人間の思索や探究が、つねにその構造化の中でおこなわれているということである。あまつさえ、生命全般や人間は、生命独自の構造化を世界に対しておこなっているのである。その最も顕著なあらわれが<表象としての世界>であるといえよう。表象界はまさに生命独自の世界認識であるといえるからである。
 生命の初期の段階からある種の微小な知覚が形成されたことであろう。それは物理・化学的反応と区別しがたいであろうが、個体が他の個体と関係する仕方の自己自身への反映が知覚の起源であるとするならば、まさに自己保存もしくは自己所有(auto-possession)が表象の起源であるといえよう。単一な物理・化学的反応は本来は無意識で自動的なものである。DNAや遺伝子のレベルでは、生命はまさにそのようなものであろう。そこには構造化はあっても、表象はない。表象はさらに複雑に組織された原子・分子レベルでの物理・化学反応であろう。しかし表象を物理・化学的に考えることにはあまり意味がない。表象そのもの(Vorstellung als solche)が問題なのである。表象は生命が独自に構成し、構造化した世界である。それ自体として世界そのものなのである。あるいは表象を夢のようなもの、幻影として考えることも可能である。それは世界の本質そのものではないのであるから。生命が発生しなければ、そのような世界は存在していない。数十億年にわたって、生命の夢見る長い幻なのであるかもしれない。しかし世界はそれが幻であろうと実体であろうと、世界自体が生成し滅びるものであってみれば、表象の世界ばかりが夢・幻であるとはいえないであろう。
 この色彩鮮やかな、さまざまな形態と音と香りと味覚と触感に満ち満ちた世界は、生命にとっては確固として実在する。生命にとってはそれ以外に生きる世界はないからである。そればかりか、まさにその表象界が生命の構築物であり、バベルの塔であり、この世界そのものだからである。この世界の本質が何であるにせよ、生命はみずからに可能な仕方においてのみ、それを表現する他はなかったのである。それが生命にとっての本来的意味での、世界への<適応>であったといえよう。その適応ははなはだしく能動的であって、万物を生命にとって都合のよい姿に構成し、組織し、構造化したのである。それは単に日常的な知覚の世界にとどまらないであろう。眼や耳や皮膚がとらえる世界が<色即是空>であることは、少し思索すればだれにも分かる。色彩が光そのものでなく、音が空気の波動そのものでないことは、科学的思考との二重意識において誰もがわかっている。しかし、それだけにとどまるだろうか。
 科学的真理について考えてみよう。自然科学は概念の世界であり、すなわちその法則や原理はすべて、いわゆる<二次表象>からなっている。日常目にする世界は色彩や音や形態やの、直観的印象からなっている。それらの想像力において抽象された表象がいわゆる概念であり、自然科学や哲学はそれを相手とする。自然科学の究極の概念は数式であり、世界の数式化が自然科学が究めうるこの宇宙の究極の姿である。しかし数式は、そもそも数学は、生命のこの世界に対する構造化をまぬがれているのであろうか。本当にこの世界の本質は、ピタゴラスが夢見たように数式で書かれているのであろうか。数学もまた生命の見る夢の一部ではないのか。たとえ生命がそれらの数式、概念を<イデア界>から借りてきたとしてもである。<イデア>こそ、まさに生命が構築した世界ではないのか。物の本質にイデアを読み込むことこそ、まさに生命のソフトに他ならないのではないか。
 同じことは概念で構成される形而上学についても言えようし、宗教についても、とくに神観念についても言えよう。宗教的自然観はとくに素朴であって、生命の世界に対する構造化を、最も明瞭に示している。生命の基本認識である表象界を説明するに当たって、人間は自然界を神としてあがめるという、独特の構造化をおこなった。天体や気象やの自然現象を、自分らの生命に強力な影響を与えるものとして、理解可能な形での摂取と組織化をおこなったのである。この段階では神は直観的な表象と結びついている。太陽崇拝が種としての生命の共通の課題となり、それが集団内や、集団間の儀礼を通じての社会的紐帯として意識されるようになった(例として<ストーンヘンジ>)。それが進むと、もはや神観念は真実であるかどうかの問題よりも、社会的組織と秩序の課題となり、種としての生命にとっての必要な構成物と化していった。人類は種としての自己保存にせまられて、神の観念を作り出したのである。神が存在するかどうかは、二の次なのである。神は生命が世界の構造化によって生み出したのである。
 この世界の本質は生命によっては解き明かされない、というのがこの論の趣旨であり、問題の提起である。かといって、科学以外の方法によってそれが可能であるという安易な主張をするわけではない。宗教も形而上学も、同様に世界の本質を究極的に説明することはできないであろう。この世界の一産物である人間とその知性が、世界そのものを根本において理解できるであろうか。神を信じることと理解することとはまったく別である。信じることは生命の特性であって、神を信じたからといって、それが世界の本質について、なにごとかを物語るわけではない。信仰は恩寵であるならば、その恩寵もまた生命の賜物である。それならば生命がすべてなのであるか。人間にとってはそのとおりであろう。生命はいわば釈迦の手の平であって、そこでいかに科学や哲学や宗教をいとなもうと、生命の範疇を乗り越えることはできないであろう。ここで生命の範疇というのは、とりわけて<表象としての世界>であり、いまだこの世界を乗り越えたものはいない。生死界を超えたとされる釈迦は一体どこにいるのであるか。釈迦もアルラーも目に見ることはできない。彼らは生命の領域を超えた世界の本質の象徴である。それ故になんらの具体的な性質をもたない<空>にすぎないのである。
 さきにプラトンの提起したイデア界は、この世界を超越したものではなく、すなわちこの世界の本質そのものではなく、生命の構成物ではないかという疑いを述べた。イデア論にしたがう形而上学は、アリストテレスからドイツ観念論にいたるまですべて釈迦の手の平に踊らされてはいないか。かりにイデア界が超越的概念もしくはこの世界のひな形の世界であるとしても、それを生命が純粋な形で応用するとはかぎらないのである。プラトンもまた、この表象の世界はイデアの影を映したようなものとみなしている。しかし純粋なイデアとこの世界とが、どのような関係にあるかは、生命の立場からは決して知ることができないであろう。生命はそれを構造化することによってしか知りえないのであるから。同じ難点は<自我>についても言いうるのではないかという指摘がなされよう。それについて、最後に考察する。

(以下2021・3・11改訂差し替え)

 自我の超越性をどのようにして証明できるのであるか。そもそも自我=自己意識は生命とともに発生する。生命がなければ、少なくとも自我は表象の世界においておのれを見いだすことはない。自我はどのような表象であろうか。すでに何度も論じたように、通常の自我は身体表象と密接に結びついている。<わたし>とは私の身体内外のさまざまな印象や観念の集まりであり、それ以外に私と呼べるものはない。これが身体的な自我意識である。端的に言えば私とは私の<意志>の発現であるといえよう(思考もまた思惟する意志において意志に含められる)。このような私は、生命すなわち<生への意志>の一構成物に過ぎないことになろう。さらに、私はたえず意志することにおいて、ここに現われるのであり、私自体についての端的な表象は、私の中のどこにも見いだすことはできない。これはすでにヒュームが指摘したことである。いかに表象を積みかさねても、そこにはつねに印象や観念と結びついた私以外には見あたらないのである。そうしたものの集合が私なのであるか。この難点を、不可視の認識主観によって解決することはできても、その認識主観は私の私である必要はなく、誰の私であってもよいのである。自我の自我たる所以の、私の唯一無二性は、そこには排除されている。認識主観こそ、まさに生命の構成物、構造化の基本機能であるといってよかろう。それによって私の認識は、つねに対象としての事物にむすびつけられているのである。
 <わたし>についての本質的表象が見いだされないならば、そもそも私の独自性、唯一無二性の意識とはなんであるか。独自の表象がないところに、なぜそのような意識が生じるのであるか。あるいは私の独自性、唯一無二性が意識されるとすれば、それはどのような内容なのか。私が私であるというのは、論理学でいう同一律にあたるが、同一律は単に言語上の主語述語関係に還元しうる、客観的な<思考の法則>である。そこには意識は関与しない。私が私であるのはA=Aの単なる同一律ではなく、私がわたしであることの<発見>であると言えよう。それは論理でもなく、思考でもない。私が私の身体と重なっているときには、この発見はない。私の身体から私が分離することによって、私は私である私を見いだすのである。このいわば自己分裂が、私の存在の独自性の意識であると言えよう。私として分離しているこの私は、私以外の何ものでもない私そのものなのだ。その意識内容は、これが私であるとしか言いようがない<わたし性Ich-heit>なのだ。それは何ものとも取り換えようがなく、何ものとも関連づけられない故に、唯一無二なのだ。それは対象ではなく、意識そのものである故に、もはや表象界に属してはいないであろう。それ故に世界意志の産物でもないのである。しかし意志と表象の世界において意識も発現するのであるから、自我意識の発現の場もどこかになければならない。意識だけが表象からはなれて存在することは考えにくいからである。対象の意識ではない意識が発現するには、対象としての表象であってはならないであろう。対象性からはなれた表象、いわば表象自体において発現する意識があるならば、それが純粋な自我意識であるといえよう。すなわち<純粋観照>において自我意識もまた発現するのである。
 ひるがえって、私の意識の独自性、唯一無二の特異性は、生命にとってどのような意味を持つのであるか。それはその主張が、どのような効果を生命にもたらすかを考えればよい。生命にとって最も重要なのは、その持続であり、種の保存である。個体の生命は種の存続のための戦略のこまに過ぎないのである。そのかぎりでの個体の独自性がゆるされているに過ぎない。たとえば個体が<利己的な遺伝子>によって、自己の遺伝子を優先的に残そうとする場合である。雄が他の雄の子を殺す場合などであるが、これは種のレベルにおいての個の役割である。
 そのような生命の絶対命令にとって、個体の意識に特異性を与えることは、二次的な意義しかなかろう。人間社会で<エゴイズム>がつねに排斥されるのもそのためである。すなわち私の特異性、唯一無二性は、生命にとっての敵対的、消極的な意味しか持ちえないのである。こうした反生命的な私の意識の存在は、かりに生命から発現したにせよ、生命とは別の次元にあるといえよう。古代人は、この世の生命ではなく、永遠の生命と結びついた魂を考えたが、古代においては、いまだ魂と肉体との分離が充分ではなかった。そもそも生命から切りはなすことができなかったのである。反生命的な思想としての<自我>が誕生するには、生命の本質についての洞察が必要であった。肉体から分離した自我は、もはや<世界意志>ではなく、かつ生命的世界を現出する<認識主観>でもない。それ自体で独存する、ある種の絶対者、超越的存在であることを自覚する。この自覚は上に述べたように表象自体(Vorstellung an sich)に与えられている。私が私として存在していることの直接的明証性は、疑いえないからである。
 さらに表象界との関係においては、自己意識のないところには、表象世界の意識はない。私が意識へと到達するがゆえに、この世界は表象の世界として発現するのである。さもなければ表象の世界は、無意識の構築物である。生命は何ゆえに私の意識を必要とするのであるか。生命界は圧倒的に無意識の世界であり、それゆえにはなはだしく効率的である。そこに私が意識として発現するのは、生命とは別の理由があるだろう。私はこの世界の観察者となり、場合によっては判定者となる。私は本来この世界にいなくてもよいものであり、この世界に自在に出入りするものでもある。その意味で、超越的であり、唯我独尊である。ある種の神のごとき存在であると言ってもよかろう。しかし私自身は世界の本質ではない。その一部として参与する、あるいは参与を要請されている、なにものかである。それ故にこの世界においては苦しみを受け、死すべき存在なのである。しかし私は私自身に返ることによって、この世界の苦しみも喜びも超えて、寂滅の世界へおもむくことができるだろう。それが自我の存在の究極の意味であろう。