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自我の探究(4)――人間のアレテー


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Contents快楽について―エピクロスの快楽主義/自己保存について/無意識と人格―根源人格について/人格三分論/人間の物理化(AIについて)/ショーペンハウアーの自我論をめぐって/人間のアレテー/sentienceまたは感性直観について/自我の階層/自我と言語/自我と身体/自我と身体の無意識/相互主観について/頭脳と肉体


自我の探求(4)――人間のアレテー

2017年7月8日(土)
快楽について―エピクロスの快楽主義

 快を求め苦を避けることは、人間が誕生してすぐさま見せる行動であるから、快楽は人間の本性(nature)に属する、とエピクロスが言うのは正しいであろう。人間の本性は、そのまま自然の本性(rerum natura)であり、自然の本性と一致して生きることが、賢者の生き方であるとされる。しかしいたずらに快楽を求めることは、自然の必然的な本性とははずれており、心の動揺と不健康をもたらすだけである。この錯誤を引き起こすのは、人間の誤った臆見(ドクサ、opinion)であるとされる。食欲はパンと水だけで充分に満たされうるのであるが、それ以上の美食を求めるのは、必然的なものに、必然的でないものを加えようとする、貪欲のいたすところである。さらに自然から離れれば、必然的でないものに、必然的でないものを、幾重にも重ねていくことになる。現代の消費文明がまさにそれであろう。
 エピクロスの困難は、自然の本性である快楽が、反復的であると同時に、その限度をとことん追求しようという貪欲と結びついているにもかかわらず、快の欲求から解放された心の平静(アタラクシア)を生み出す原理ともされていることである。すなわち、心の平静とは、快の自己充足(アウタルケイア、Autarkie、経済で言えば自給自足)にほかならないのである。欲求とは欠乏であり、その欠乏をみたそうとする期待が、同時に快の期待ともなり、その充足が快の頂点をもたらし、その結果として、欲望の鎮まった、心の平静がおとずれる。その際、極端や過度を避けるということは、本質的なことではなく、欲望の強度によるのである。過度や極端は、時として快の反対である、苦痛をもたらす。そのことをよく考慮するならば、欲望を抑え、適度な快を求めるということが、賢者の基準となる。
 このようなことは、日常生活においては、ごく常識といえるかもしれない。こうした常識が、ギリシャ・ローマの古典古代において革新的であったというのは、彼ら思想家がソクラテス以来、いかに理想に生きていたかということを思わせる。快楽というものに対する、なんとないうさんくささ、羞恥感、憤り、堕落感、こうした古代の思想家ばかりでなく、現代人をも支配している、反快楽主義の道徳意識は、どこから生じるのであろうか。快楽の根源を探究してみれば、それはおおよそ見当がついてくる。人間のごく自然な欲求は、食欲・性欲・排泄欲であって、それは生命界一般に共通して、特に動物界においては、日常顕著に、かつ露わに目にするところである。人間は文明によって、生命界の頂点に立つことで、他の生命や動物を睥睨する立場にいたった。その人間が、動物と同じ欲求や快楽にとらわれていては、なんともその自尊心に傷がつくのである。食欲に関しては、それを文明化することができた。牧畜と、農耕によって、食糧をコントロールすることにより、人間は自然のままの欲求を備蓄という人間的レベルに高めたのである。しかし、性欲と排泄欲だけはどうにもならなかった。それはいくらトイレや密室が発明されても、動物的レベルをいくらも超えることができないばかりか、その秘密性によって、かえって欲望や快楽を煽り立てたのである。
 性欲や排泄欲の充足が、密室の中におかれたということは、快楽そのものをも隔離したということである。こうした隔離された快楽を、たとえマイルドな形であっても、あからさまに表に出すことは、社会的禁忌とされたのである。これが性道徳の起源である。自然的快楽が、社会組織の中でタブーとされた理由は、いまひとつある。それはそれらの快楽が個人的であることである。食欲だけは、食糧生産の共同性から、早くから社会化された。しかし根源において食欲の快は個人的であり、それは危機においての食糧の奪いあいにおいてあらわになる。性欲だけは、たいていの社会組織において共同化されなかった。それは単に婚姻制度の問題ではないであろう。それはオス同士、男性同士の争いを引き起こす。性の快楽をめぐっての争いは、アガメムノンとアキレスの例を出すまでもなく、社会に混乱を引き起こす。近代社会では、個人的快楽にふけっていられては、国家にとっても、労働力を必要とする階級にとっても、社会組織を崩壊させる原因となる。それらの快楽を、勝手に個人の自由に任せてはおけないのである。それが良俗美風の起源である。性道徳も、良俗美風も、国家や支配層の、個人的快楽を統制する手段に過ぎないのである。
 こうした、国家や支配層の好都合な社会組織を維持するための、個人的快楽の統制が、思想的イデオロギーとなって、快楽そのものへの罪悪感や、堕落感や、羞恥感が、フロイトのいわゆる<超自我>を介して個人の中につちかわれていくのである。
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 プラトンは理想主義者であると同時に、国家主義者であった。彼が感覚やそこから生まれる快楽に対して、嫌悪感を持ったことは、国家主義者として当然である。ましてや、感覚や快楽が、正義や真偽の基準であるなどとは、夢にも考えないであろう。真理は、<口腹の快>と何の関係があろうかと。しかし、あらゆる快及び真理の探求の根源を口腹の快にみたエピクロスは、根本において正しいであろう。食欲や性欲という欠乏の苦(性欲もまた配偶者を求めるかぎり欠乏の苦である)を充足することによって得られる快は、苦痛が除かれたという消極的快(アタラクシア)へといたる。あらゆる真理の探求はまた、このアタラクシアを目指すのである。人間は何故に真理を探究するのか。もはや不可解をいだかず、なにごとにも驚かないためである。賢者は宇宙に対しても、自己の魂に対しても、驚異の念をいだくことがないのである。(エピクロスによれば、そもそも宇宙は無限で永遠であるから、あらゆる起こりうる出来事はすでに起こっていて、宇宙にはなにひとつ新しいことはないのである。)その状態が、知性が真理を探究する究極の目標である。つまり、知性がなにごとにも驚かないアタラクシアに達するまでは、知性はなんらかの欠乏にとらわれているのである。この欠乏も、知的エロスと呼ぼうと、精神的アフロディーテと呼ぼうと、ごく希薄化された感覚的欲望であることにちがいなく、それがアタラクシアに達することが、真理の探求の価値なのである。
 このようにみれば、イデア論者もまた、国家的レベルでのアタラクシアを目指しているといえないこともない。プラトンにおいては、あらゆる快は国家的スケールでみたされている。口腹の快は労働階級において、知的快は支配層である賢者において、それぞれアタラクシアにいたる。人体における快の階層が、また国家の構造を決めるのである。しかし現実には、このような国家はどこにも実現しなかった。どこの国家においても、支配層は被支配層よりも、いっそう口腹の快に支配されているからである。
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 さきにエピクロスの困難とした、より根本的な問題に返ってみる。本来心の動揺であるところの快楽が、充足によってその正反対の心の平静にいたる原理であるとすることは、結局どこまで行っても反復的な快の手の平から抜け出すことはできないということである。それならばなぜ、快を全面的に肯定してしまわないのか、という反論である。あるいは逆に、快とはべつの、アタラクシアにいたる方法ないし原理はないのであろうかという疑問である。もし徹底した快楽主義者が、人間に可能な快楽をとことん味わおうとしても、その能力には限界がある。ローマの貴族は、一日中食事をしていて、可能なかぎり胃袋に詰めこめるように、食事ごとに前に食べたものを嘔吐していたという。どんな快楽主義者もしまいには賢くなって、欲望のコントロールを心がけるであろう。快楽主義は自然と中庸におもむくであろう。ただ、通常の快楽主義者は、快そのものを求め、ある快が充足されたあとには、次の快の充足を求めるというふうに、快の積極的な部分のみ求め、快の合い間の安らぎは退屈と同義であろう。快から快へとたえず心が波立ち、その充足へといらだつ快楽主義は、結局たえず飢えに追い立てられている動物とかわらないであろう。このような快楽主義は、賢者にとっては、決して人生の満足をもたらさない。快楽主義においては、安らぎこそが大事なのである。安らぎを得るには、当の快楽を適宜みたすほかはない。この意味では、快楽主義はフロイトのいう無意識の抑圧を解放する。快楽は抑圧されてはならない。しかしその快楽そのものが目的なのではない。自然の欲求に従いながら、その自然の欲求に支配されないことが、快楽主義の、とりわけエピクロスの快楽主義のめざすところである。たぶん、エピクロスには隠れた禁欲主義があるのであろう。イデア論や神々の神話を否定して、デモクリトスの原子論によって立つ彼には、超越的な逃げ場がないのであって、あくまでも感覚を世界原理としながらも、その全面肯定ではなく、消極的な面を説くことによってしか、その禁欲主義を主張できなかったのであろう。
 懐疑論者は判断停止(エポケー)において、アタラクシアへの道を説いた。すべてが不確かであるとして、なんの判断も下さなければ、少なくとも思考における迷いはまぬがれるであろう。しかし、欲求に関しては、いかなる判断停止も及ばないであろう。文字どおりに判断停止するならば、欲求のままに流されるだけであろう。ある行為が正しいかどうかを判断しなければ、そこで行為がとまるわけではなく、いわば本能的に行為するであろう。根本的な心の平静を求めるには、快楽からも、欲求からも離れなければならないであろう。しかし、人間の根本は身体であるかぎり、欲求そのものであり、それの充足、非充足である、快苦の感覚に支配されているといってよかろう。身体とはすなわち、この世界の根本である世界意志、もしくは生への意志の客観的発現(客体化)であり、感覚は個としての身体が、他の個物との関係において、自己自身を現わしだす意識の要素なのである。この点を、エピクロスの魂の理論から見てみよう。
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 エピクロスによると、物体(身体)も魂も神々も、みな原子からなっている。興味深いのは、物体と魂の関係である。感覚が生まれるのは、魂のある一部の原子の部分であるが、それだけでは感覚のような現象は生まれない。物体の側にも感覚を生み出す原子の部分があって、双方が出会うことによって共通の原子の部分が生じ、それが感覚となるのである。すなわち感覚は魂そのものにも、物体(身体)そのものにも属するのではなく、いわば第三の現象なのである。これを現代の言葉で言えば、化学<反応>にあたるであろうか。反応そのものは、双方の原子(または分子)の集団どちらに起こるというのではなく、新しい化合物を生み出す過程である。それによってもとの原子の集団とは異なったものが創出されるのである。しかし、創出されたものもまた原子の集団であることに違いはない。
 感覚(感性 Sinnlichkeit)は意識の素材的な源であり、そこから表象も、意識も、自己意識も、したがって自我も、発している。感覚以外に、意識も自我も自己を確認するよすががないとすれば、少なくとも感覚とともに、それらは生まれ、感覚の消滅とともに、それらも消滅する。それがエピクロスに限らず、唯物論の帰結であり、原子の離散とともに、魂は消滅し、人生は終わる。人生は一回限りなのである。神々は、たぶんより良い原子からできているのであろうか、<中間世界>において永遠の至福の状態にあり、この世界や人間の営みには一切関与しない。わざわざアタラクシアにある存在が、おのれを乱してまで、この世界に関与する必要はないからである。しかし、それは永遠の理想型として、賢者の目指すべき目標となる。神のごとき存在となることが、エピキュリアンの生き方である。たった一度の幸福の思い出があればよい。それを失いさえしなければ、どんな苦痛の中においても、賢者は安閑として人生を終えることができる。それがエピクロスの幸福論である。
 エピクロスはまた、唯物論者にはまれだが、決定論に反対している。原子はその重さによって、上方から下方へと、等速で垂直落下運動をしている。空間(空虚)は時間とともに永遠、無限であり、その意味では上下にあまり意味はないが、とにかく地上での重力からの発想では、上から下へとものは落ちる。しかし単なる垂直平行運動では、原子間になんらの衝突も起こらず、この世界が生まれるようなことはないであろう。そこで、いつどこということもなく、原子の落下運動にわずかな<偏り>が生じるというのである。現代の量子力学でいえば<ゆらぎ>のようなものであろうか。この原子の運動の偏りがあるために、物体の世界が誕生するばかりか、人は運命に翻弄されることなく、おのれの意志で幸福を探求できるのである。
 世界は原子と空虚からなり、空間の中での原子の運動と衝突が、(無数の!)宇宙を造る唯一の力なのであるから、感覚とその中に現われる快楽とは、やはり原子の運動と衝突で語られる、唯一の宇宙的な力である。欲求や感情もまた、その力の現われであり、あるいはその力そのものである。その自然の力と一致して生きるとは、自然が必要とする以上の欲求にとらわれることなく、欲求の充足にともなう快感に溺れることなく、欲求が満たされたあとの、心の平安だけを目的として、快楽を幸福の道具とすることである。この点、同じ自然主義であっても、自然の中に理性(ロゴス)の働きを見て、感覚的自然から離れる立場からアタラクシアを求めたストア派とは、根本において異なっている。一方は道具主義(プラグマティズム)であり、他方はやはりイデア論に属する。自然は幸福を求めるための道具であるから、エピクロスの自然研究は、実のところ、なにが真理であり、事実であるかということと関係がない。自然の現象がすべて、原子論によって説明可能であるという認識だけで充分なのである。
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 快楽はエピクロス派が実践によって調教しようとつとめたほど、そう生易しいものには思えない。自然の力は、人間がそれを簡単にコントロールできるほど穏やかなものではないのである。かえってミイラ取りが木乃伊になるように、なまじっか快楽を押さえようとすれば、その強力な反動を受けるのである。ましてそれを道具に、心の平安を求めようとしても、たえず反復し、より以上を求めようとする欲求の力が、単なる賢者の理知を簡単に押し流すであろう。快楽ほどやっかいなものはないのである。しかしうまくその道筋をつけるならば、快楽ほど人間の文明を進めるものはないのである。そもそも哲学さえ、知を愛する欲求にほかならないのであり、その探究心の充足への快を求めての営みである。人間とほかの動物との違いは、単に賢い人(homo sapiens)であるだけではなく、その度はずれた快楽の欲求にあるのではなかろうか。すなわち人間は<快楽の人homo voluptarius>でもあるのである。だからその度はずれた快楽がまた、その欲求が大きいほど、その充足のあとに訪れる心の平安を深くするのである。しかし快楽は、次へ次へと、終わりなく充足と平安を求めるのであり、これがショーペンハウアーの言う、<イクシオンの車輪>である。<神のごときエピクロス>はいざ知らず、いかに慎ましやかであれ、快楽によって究極の心の平安を達成することは、きわめて困難であるといえよう。

2017年7月26日(水)
自己保存について 

 自己保存(Selbsterhaltung)ということの中には、さまざまな要素が含まれている。個(Das Individuum)としての自我のあらゆる活動が、その中に包含されるといってよいかもしれない。ストア派が、oikeiosis(*注)といっているものがこれにあたる。自己自身が何を所有し、何を所有しようとしているか、そのすべてを自我を中心に包含するものがオイケイオシスであろう。自我はまず自己の肉体を所有している。その肉体に所属するあらゆる機能、運動や感覚から、欲求から、情動から、情念から、意志から、空想や思想にいたるまでが、彼の直接の所有物である。しかしそれら肉体とそれに所属する性質は、自己の直接的所有であっても、単に自己の可能性であって、それそのもので充足したあり方ではない。欲求や情念一つをとっても、それは自己の肉体以外のものを必要としている。自己自身を自己の外へと拡張しないことには、自己自身を維持することができないのである。

 *oikeiosis, Latin conciliatio, 'dedication'. The Stoics (Stoicism) used the term oikeiosis to refer to the drive for self-preservation; immediately after birth a living being perceives not only its environment but also itself, and immediately addresses its needs by recognizing that it 'belongs' to itself (oikeion, Latin carum), i.e. that it is dedicated to itself. In caring for itself, a living being strives for what is in the interest of its own preservation and seeks to avoid what is harmful. (Brill Refference)

 食料は外部から獲得しなければならないし、性欲は配偶者を求めねばならない。思想はその共鳴者を、空想や想像の産物はその聴者を求めねばならない。野心は金銭的成功ばかりか、世間の承認や賞賛を渇望している。プライドや自尊心は、他者からの尊敬や服従や、少なくとも特別な感服を求めている。そうした自己以外のもの、あるいは他者や世間においてしか得られないものをも、自己自身の所有物としなければ、自己保存は成立しないのである。
 自我の自己保存をそのように見るならば、自我は自己自身に所属するばかりでなく、その本性や性質によって、自己を取り巻く世界にも同時に所属していることになる。この世のすべての事物には、自我がそれに関係する限りにおいて、Myをつけることができよう。My body.My book,My wife,My house,My land,My earth,My friend、My honour等々、この世界の事物はことごとく、私の存在にとっての必要物となるであろう。それらのものを欠くならば、自我のあらゆる性質は空転するであろう。
 自我が私以外のものを、私のものとする時、自我はそれを所有すると同時に、そのものに所有される関係に入る。それは所有を奪われる時に、その空虚感と怒りとで、特に明らかになる。自我はそれを所有していたのではなく、それに所属していたのであると。世間的野心が得られなかったり、崩壊する時は、自己自身の身体が奪われるのと同様の怒りと苦痛を覚えるであろう。世間での私の位置は、私自身であったのだ。自我はそこに所属することによって、自己の安全と、生命のまっとうを求めたのであるから。
 私の意志、私の自我は、その自然的、肉体的本性にしたがって、たえず外界へ向かって拡張しようとする。それは物質的にも、心理的にも、精神的にも、同じことで、自己以外のもの、自己の外に向かっての、欲求、衝動となって現われる。これが自我にとってもっとも克服し難い苦悩の根源である。死や病気は、自我にとって、対処することは案外たやすい。この生命界での所有の闘争、人間社会での弱肉強食、その中での自我の格闘こそが、人間にとっての最大の苦悩なのである。だから、たいていの宗教は、比較的克服しやすい、死の準備を説く遁世の教えとなるのである。
 自我は、何を所有すべきか、何を所有せずにすますべきか、このことをつねに熟慮することを、古代の賢者の哲学は教える。所有ではなく、所属の関係に入るものは、総じて良い所有関係ではない。それは外物だけではなく、肉体についても当てはまる。真に所有の関係にあるものは、それを手離しても惜しくはないはずである。私はそれを所有しても、所属はしないからである。真に私が所有し、私以外のだれからも奪われることがないもの、私以外には属さないもの、もしそれが見つかれば、それが真の自我である。それは所有というよりも、むしろ私自身の本質である。私はもはやなにものをも所有する必要すらないであろう。私自身は、永遠にそれ自体で、自己保存されているからである。

2017年7月28日(金)
無意識と人格―根源人格について

 現代の認知心理学の知見によれば、人間の意識的行動の決断や判断は、意識よりも前に、脳の無意識的レベルにおいて、すでに先んじてなされているということが明らかにされている。意識のない動物が、人間と同じ行動をする時の脳の活動パターンは、人間の意識的行動のそれとまったく同じである。意識は行動の決断や判断において、特別に寄与するところは、まるでないのである。意識的決断や判断の一秒前には、すでに脳は無意識に決断し判断しているのであるから、それを意識的に変えることは不可能であるばかりか、意識はいわば、すでに起こったことの単なる記録係りにすぎないのである。このことは単に行為ばかりではないかもしれない。人間が考えること、感じること、意欲することなどもすべて、すでに無意識で行われていることを、単に跡づけているに過ぎないのであるかもしれない。その可能性は大いにあるであろう。
 人間の行為はすべて、それを意識的に行うまえに、すでに決定されている。これは強力な決定論であり、意志の自由などはどこを探してもない。意志すなわち意識的判断や決断による行為の能力を感じることは、単なる錯覚にすぎないのである。人間の身体は精神活動を含めて、細胞の化学工場の集積である有機体の活動によって、環境との関係において必然的に決定されており、それを単なる意識が恣意的に変更することなどは論外なのである。これが現代の自然科学が明らかにした、もっとも強力な運命論である。運命に逆らおうと、運命を愛しようと、どうふるまおうと、そのこと自体がすでに決定されているのである。
 このことはある意味で人間を迷妄から解放する。どうふるまおうと運命であるならば、逆に言って、絶対などはないのであり、むしろ運命のままにすき放題にふるまっているならば、かえって自由であるかのような錯覚をいだけるからである。しかも、社会が強制するような責任も義務もない。必然的であることには、すなわち無意識で行うことには、責任などはなく、責任のないところには義務もないからである。いわゆる人格の概念は崩壊する。意識的な主体として、個人に帰せられている、なんらかの社会的、倫理的実体と考えられている人格なるものは、すでに意識が行為の主体としては無力であることが明らかになった以上、だれもその責任や自立性を問うことはできないからである。
 人間を支配しているのが、動物と同様、圧倒的に無意識であることが明らかになったからには、大いなる価値転換が起こらねばならないだろう。その一つは、たぶん本能の再評価である。人間社会の調和をはかるものが、道徳や倫理や規範や法律やの意識的道具ではない以上、その原理をむしろ動物に学ぶべきであるということになろう。人間同士の調和をはかっているものは、根本的に無意識の力なのである。本能の必然性が種としての、集団としての人間同士を近づけているのであり、そこには倫理や道徳などはいらない。狼はホッブスが考えたようには集団内で争いはしないであろうし、まして人間は狼以上に集団的である。人間が集団内や集団同士争うようになったのは、たぶん本能に狂いが生じたからであろう。
 いま一つの価値転換は、人格概念の革命である。人間の行為を支配するものが意識でないことが明らかになった以上、もはや意識の人格支配は許されない。人格はもしあるならば、無意識のそれでなければならない。無意識界の人格については、すでに<影の人格shadow personality>について言及したことがある。ここでの無意識の人格は、意識において反映され、写し取られる人格のありようであり、特別な用語が必要になるであろう。これまでそうした発想も用語もないのであるから、とりあえずproto-personalityまたはUr-Person(根源人格)と名づけておく。それに対してこれまでの意識における人格概念をpseudo-personality(虚像人格)と名づけておく。無意識界の根源人格こそが実人格であり、意識に現われた人格はその虚像に過ぎない。このように見ると、人格が多重である理由がより理解しやすくなる。人間は潜在的・基本的にDoppel-Gaenger(二重人格)なのである。あるいは場合によってはそれ以上の多重人格的存在である。意識はそれを統合的にしかとらえられないので、あたかもおのれが単一の人格であるかのような錯覚に陥る。カント風にいえば、統覚の先験的統一が、多重な潜在的人格をむりやり一つの意識的人格に統合するのである。人間が、迷ったり、悔いたりするのは、無意識界において根源的人格の間の格闘が生じるからである。行為の前も後もそれはつづくのであり、単なる意識的統合によっては解決することはできない。
 人間は無意識に行動するとき、おのれに対してもっとも忠実であることになろう。ただしその行動を決定するのは、無意識人格の間のなんらかの優勢な衝動もしくは動機であり、その結果生じたことに対しては必ずしも納得するものではない。しかしそれが<運命>であったという意識によって、自己自身と和解することができる。根源的人格の間での力関係によって、人生のあらゆる決断はなされ、判断はなされる。そこに必然性を見、運命をみることで、そうでしかありえなかった人生の真実に気づくであろう。

2017年9月7日(木)
人格三分論

 根源的人格は多元的・多重的であることを述べたが、基本的に身体の領域に応じて、三種の人格に分けることができよう。実際に、意識のレベルにおいては、そのような区分が普通である。本能と心情と理知という区分は、人間の行動のパターンでもあり、それらの間の葛藤および妥協ないし調和が、人間の心理的生活の特徴をなしている。その三区分は単に便宜的なものではないであろう。無意識界における人格の根源的多元性が、意識の統合のもとに、一つの合議体として発現しているものと思われる。
 人格としての本能の座は、身体的には生殖器を中心とする(ここでは食欲のような本能は人格以前と考えておく)。生殖をつかさどる人格は基本的に無意識であり、それが意識に発現した段階では、生殖器の活動と区別できない。言ってみれば、性行為そのものが人格なのである。この人格の役割は、強烈な快楽を報酬とする種の保存であり、この快楽の部分のみが意識的人格に関係するのであり、その衝動そのものは無意識であり、種または生命全体に共通する。これはフロイトのいうEsにあたり、S人格と名づけておく。S人格は、徹底した快楽主義者である。快楽以外にはその存在の意義を持たないのである。場合によっては、残虐の衝動や、被虐の衝動と結びつき、本来の種の保存の目的に反することともなる。それは、人間においてはS人格は快楽のみを性衝動の本能から切りはなすからである。人格の中ではもっとも強大であり、もっともコントロールしがたく、同時にもっとも強力な活動の原動力でもある。
 性本能と直接対峙するものは、この三分論においては、理性もしくは理知であるから、次にこの人格をR人格と名づけて考察する。R人格は、脳においては大脳新皮質に位置し、とりわけ前頭葉に座を置くので、もっばら頭の中での活動とみなしてよかろう。それに対して性欲をつかさどる、脳幹や大脳辺縁系は、脳だけの活動ではなく、生殖器というりっぱな器官をあやつっている。理性が脳だけの活動であることから、その身体的な勢力範囲は限られており、したがってその人格的権能も、三人格の中では一番弱い。人格としては一番非力な理性は、つねに他の人格によって圧倒されつつも、その思索力と、功利的判断力と、全体的な見通しによって、個体の自己保存をつかさどっている。基本的にR人格はエゴイストであり、理知による冷徹な判断によって、個体にとってもっとも有利な行動へと誘導する。その座がもっぱら脳にあるため、場合によっては冷酷、冷淡であり、いつでも身体から自己を切り離すチャンスをうかがっている。S人格との対峙においては、R人格すなわち理性はつねに圧倒されており、いわばR人格の眠りこんでいる合い間、合い間に、その営みを細々とつづけるにすぎない。
 人間の人格が、性本能と理性だけの対立でできていたならば、なんとも味気ない存在であったろう。その中間にある媒介的人格を、M人格と名づけておく。M人格の身体的座は、心臓や肺などの臓器感覚であり、その脳における主要な座は脳幹や大脳辺縁系にある。欲望や情動や情緒といった心情は、行為を発動させるエネルギーの心理的発現といってよかろう。性本能はすでにこれと結びついている。動物の赤裸な、荒々しい性欲は、求愛という心情的レベルまで高められることによって、ある種の優美さをみせる。性行為が単なる種の保存や快楽のための衝動であるばかりでなく、個と個の間のある種の感情の交流となりうるのは、このM人格が介在するからである。M人格は感情もしくは心情と、共感をつかさどる人格である。本能的レベルにおいては無意識であるが、それが心臓や肺のような発現器官を持つために、意識の中で行為への強力な動機の役割をはたしている。M人格は性本能と理性との、両方面に働きかける。性本能を優美にもし、また残虐にもするのであるが、理性に対しては、それを崇高方面に向かわせもし、また冷酷にもする。
 もっとも強力な人格はS人格であり、もっとも非力な人格はR人格であるが、どちらに対してもコントロールを及ぼしうるのが、M人格である。その点で、人間の意識的人格の中心を成すものは、心情をつかさどるM人格であるといえよう。その心情をどのように培うかが、人間の行為の根本問題であるといえよう。しかしM人格は独裁者ではないのだ。意識における一個の統一的人格は、これら三者のどれでもない。この三者の拮抗、合議において、人格の統一が図られるのだ。M人格、すなわち心情的人格は、S人格、すなわち性本能的人格と、R人格、すなわち理性的人格との間で、たえず揺れ動いている。性本能は最も確固とした地歩を占め、理性も比較的安定した立場にある。それに対して、心情は心臓や肺といった躍動的、流動的器官と結びついており、共感や反感といった他者との関係にもとづく社会感情に深く影響されているので、もっとも不安定である。M人格内部でもまた、さまざまな欲動、情動、情念があい争い、矛盾と葛藤を生みだしている。それらの分裂した心情は、意識的であれ無意識的であれ異なった行為へと意志を動かそうとする。しかしその点がまた、MRS三者の統一人格における柔軟性を生み出す基ともなるのである。単なる性欲や単なる理性は冷酷でありうるが、たとえば昆虫のメスは交尾のあとにオスを食べてしまうことが起こるが、また理性の名において人を処刑することは可能であるが、そこに心情が介在することによって、行為の柔軟性が生まれるのである。しかし単なる心情もまた、盲目的行為へと走ることによって、個体や種の保存にとって不利な結果をもたらしうる。性本能と心情と理性の関係は相互的であり、MRSは根源人格のTrinityを形成しているといえる。人格の形成においては、もっとも流動的な部分である心情、すなわちM人格が、不安定であるだけに、もっとも難しい部分なのであるが、同時にもっとも形成力に富んでいるといえよう。
 M人格をどのように形成するか、これが人間の一生の課題である。性的人格はほぼ生理的に決定されている。理性的人格も、知能によってほぼ決定されており、それを知的作業によって引き出すに過ぎない。どのような心情を行為の動機となすべきか、これに関しては個人や集団や社会において、千差万別であるといえよう。比較的普遍的なものは、本能に近い社会感情であるが、これもまた充分流動的でありうる。他人に対する共感を持たない人間も多いであろう。国家が法律や道徳を強いるのも、感情的な動機が安定していないからである。ある感情を人格の中心とするならば、怒りっぽい人、愛情深い人、などと言い表わすことができるが、それはM人格の中での比較的固定した性格ないし性質(Charakter)を言い表わすに過ぎない。ここで人格(Persoenlichkeit)というのは、つねに安定した行為の基準となるような心の持ちようである。すなわち、行為のあとでなんらの悔いも失望ももたらさないような心の状態である。これが理想のM人格といえる。それを古代の哲学者はアタラクシアと呼んだ。それは単に行為の結果生じるものではなく、そこから行為が生じるものでなけれらばならないであろう。そうであってこそ人格と呼べるのである。心の平静が行為の源であり、同時に行為の結果である。それは単にM人格、すなわち心情だけではなしとげられない。S人格をコントロールし、R人格のアドヴァイスを受けることによって、はじめて統一人格において可能となる。ここで形成される統一人格について、最後に考察する。
 人格の統一・統合はいかにして可能になるか。これについてはすでにカントが、統覚における先験的統一という原理を立てている。あらゆる表象には、私という意識がつねに伴いうるのでなければならない。意識が発生した段階で、すでに意識の統合がなしとげられているのである。この機能は先験的、すなわちあらゆる経験に先立つ先天的機能であるとされる。もっと簡単に言えば、人格の統合が可能なのは、自我すなわち<わたし>の意識が存在するからである。R人格から見て、S人格やM人格が、どんなにふらちな現われかたをしようと、それがやはり<わたし>であることを認めざるを得ないのである。もしそれができなければ、人格の分離という病理的な現象となる。人格間が無意識によって隔てられてしまうのである。しかし、各人格における<わたし>の意識は失われはしないであろう。<わたし>の意識そのものはあれこれの人格から超越しており、その意味では没人格的である。それを複数の人格の統合として意識するのは、身体の意識と結びつくからである。MRS人格が私の身体から発していることを認識することによって、初めてそれらを<わたしの人格>と認めることができる。さらにいうならば、<わたし>という自我が、身体において発現している生への意志、世界意志と合体することによって、はじめて世界意志は人格化するのである。<わたし>という自我が世界意志と合体する以前には、世界は単に盲目的な、全体的な、無意識のメカニズムに過ぎない。<わたし>が身体という個物に宿ることによって、世界意志は初めて一個の認識者・人格となるのである。私自身が全一者であり、唯一者であることによって、行為の主体である人格ばかりでなく、意識における世界の統合が可能になるのである。その意味で、自我は単に受動的に世界に取り入れられたのではなく、この世界、この宇宙の構成者であり判定者なのである。
 世界意志=イデア=自我のTrinity(三一体)が,ここでもまた人格の統一の原理をなしている。S人格やM人格は世界意志の身体における発現であり、R人格はイデア界にもとづく理知の働きである。それらの人格を統合するには、それらの人格が<わたし>のものであることを意識することができなければならない。<わたし>の意識がそれらの上に君臨することによって、はじめて統一的な<わたし>という人格が成立するのである。同時にこの世界もまた、<わたし>の名のもとに人格化するのである。

2017年10月4日(水)
人間の物理化(AIについて)

 人工知能(AI)の登場とともに、人間に関する問題の中心が脳中心になっていったことは、現代のコンピューター文明の趨勢のしからしめるところであり、その究極の目標であるようだ。AIが人間を超えるかどうかの問題は、もっぱらその情報処理能力が、脳の神経系にとってかわるかどうかの問題として論じられる。2045年には、コンピューターが人知を超えており、人類全体を一つのコンピューターが管理するという、シンギュラリティ(人類進化の特異点)が到来している、などという未来予測も、人類が脳化だけで捉えられるならば、そのようなことも起こりえよう。
 AIとはArtificial Intelligenceすなわち人間の知能に類似した能力だけに特化した情報器械である。人間の脳がいつかAIによって置き換えられることは可能であるばかりか、単なる知能の点ではAIは人間をはるかに凌駕するであろう。しかし、はたして人間にとって代われるかどうかは、また別の問題であろう。それは人間が果たして脳だけの存在であるかどうかの問題と深く関連する。人間がhomo sapiensなどと自らを名乗ることにより、人間に関する誤解が生じたようである。確かに知能がなければ、人間とはいえないと誰もが言うであろう。知能とは脳の働きであり、脳はまた人間の体のあらゆる機能を支配していると考えられている。思考や判断ばかりでなく、感情も意志もすべて脳の、すなわち神経細胞の厖大なシステムによって、支配を受けている。その同じシステムは、いずれAIによってとって代わられるであろうと言うのである。脳が絶大な支配を人間の心に及ぼしていることは、確かに疑いはないだろう。しかしそれが人間のすべてか。
 先日のNHKの特別番組で「身体」についての最新の医学的知見が紹介された。人間の(あるいは生物の)さまざまな臓器は、脳の支配を受けているだけではなく、臓器同士の間で相互に、身体の厖大な血管システムによって、情報を伝達しあっているのであり、それらの関係は対等であるというのである。脳も一臓器として例外ではなく、他の臓器の影響を常に受けているのである。その情報伝達のシステムが、身体に張りめぐらされた血管網である故に、この血管内に分泌される伝達物質を処理する腎臓が、最も重要な器官であるという。もちろん腎臓が人間を代表する器官という訳ではなかろうが、生命としての人間が、単に脳だけの存在でないことが、現代医学によって証明されつつあるのである。
 AIが人間に代わろうというならば、AIは同時に腎臓の機能も、そればかりかあらゆる臓器の機能をも果たさなければならないであろう。一昔前には、進化した人類は脳だけで存在するかのような想像もおこなわれたが、脳以外の身体を欠いた存在は、はたして生命としての人間であろうか。脳だけの存在を、とても<超人>などと呼べないであろう。たとえロボットが手や足を駆使したとしても、それは生物の外見の模倣にすぎず、とても生命とは呼べないであろう。それならば、人体の各部分を組み合わせた、19世紀のフランケンシュタインの怪物の方が、よほど人間に近いであろう。この臓器を持ち合わせた怪物は、「ウェルテル」を読んで涙するのである!
 AIを人間と等置しようとすることは、生命の進化の歴史を逆行させ、無機的・物理的世界へ戻すことである。宇宙は途轍もない量子コンピューターであるとも言われているが、それがビッグバン以来生み出してきた無機的宇宙は、まさにコンピューターにふさわしい世界である。生命も意識もないところで、いわば自然の知能(NIとでも名づけておこう)である宇宙は、この世界の発生と展開を支配しているのである。人工知能(AI)と自然の知能(NI)との違いは、前者が単に脳の機能にもとづいているにすぎないのに対して、後者は自然の全現象を包摂していることである。無機的自然の基盤の上に生命を生み出したのも自然の叡知であり、生命の特徴は個体全体が一つの情報システムを構成しており、全体が一つの知能として働いていることである。全体がひとつの知能として働くことは、個体だけにとどまらず、種や、さらに生命全体に及ぶであろう。かつての人類が神の摂理と呼んだものである。
 生命の進化は長い時間をかけて<個>を進化させてきた。低次の動物では個の違いはまだ明瞭ではない。高等動物になって始めて個の違いが、主観的にも客観的にも明瞭になってくる。それは意識の発達と結びついている。意識は基本的に脳だけの作用ではなく、身体と密接に結びついた機能である。単なる知能は宇宙を考えてみても、圧倒的に無意識の働きであるといえる。AIには意識は不必要である。それどころか不可能であるかもしれない。身体がなければ意識はないと言ってよいだろう。単なる知能(脳の神経回路)と身体の感覚器官や臓器とが結びついて、意識現象を生み出すのである。特に快と苦の感覚や感情が、身体内部に生じることによって、身体のモニター現象としての意識が発生したのであろう。本来身体の直接的、本能的反応であるものが、<問題>の発生によって意識にモニターされるようになり、間接的反応の道が開かれるのである。
 AIは相互に情報を共有することによって、限りなく個を失い、全体化、単一化するであろう。生命以前の無意識の宇宙に近いものとなるであろう。この人間の物理化が、現代のIT文明の本質であるかもしれない。その意味でIT文明は反生命主義である。さらには個を否定することによって、全体主義社会をもたらす。インターネットは一見して、混沌とした個の世界のように思われる。しかしまた情報の画一化の温床でもあるのだ。どんな情報でも(誤まった情報でも)一気に広まってしまうのであるから。単一のAIがもしこの世界を支配するようになれば、その傾向は決定的であろう。その実験をおこなっている国、たとえば中国などは、未来を先取りしているのかもしれない。
 人間は人格の見地から見て、R人格(理性)とM人格(心情)とS人格(性衝動)の複合からなることは以前に論じたが、AIに必要なのはR人格だけであるから、それに支配される人間もまた、R人格以外は必要とされなくなる。まず生殖機能が奪われ、種の繁殖は人工的におこなわれることになろう。ついで、人類の不安定の原因であるM人格が徹底的に改造されるであろう。それはこれまでも、日本やドイツやソ連などの全体主義社会がおこなったことでもあるが、さらに<合理化>がなされるであろう。それが人類の宇宙人への進化であるならば、シンギュラリティ万歳ということになろう。しかし人間は、と言うよりも、この宇宙は理性からだけなるのではない。
 理性はそれ自体としては無力であり、自らものを生み出す力を持たず、言ってみればこの世界のソフトにすぎない。この世界の本質は無限のエネルギーであり、生成と存在へのあくことのない意志である。人知はいまだその世界意志の現われのほんの一部をとらえたにすぎず、大部分は(95%)ダークエネルギーやダークマターとして、未知の領域にある。無慮無数の宇宙の中での、この宇宙での物質的進化において、人知は理性の青写真をとらえることに汲々としている。宇宙は<個別化の原理(時間・空間)>によって、物質及び生命を進化させ、人知を生みだし、自己自身の意識へと到達したのであるが、そこに宇宙の新たな原理が突如として出現する。すなわち、自己意識・自我の出現である。個の明瞭な意識は、理性の働きでも、世界意志そのものでもない。世界認識の新たなFormと言ってよい。この自我のFormによって、はじめて世界全体が人格化する。すなわち世界が神(人格神)として出現するのである。それは単なる人間中心主義や、anthropism(人間化)とみなすべきではないであろう。時間・空間が宇宙の現象のFormであるように、自我(Ego)はこの宇宙の認識のFormである。自我のないところに、宇宙は意識において現象することすらないのであるから。
 AIは物質であるから、この世界の物理的エネルギーと理性のソフトを備えてはいる。しかし、本当の意味での自我をもつことができるであろうか。個を進化させるかわりに、全体の中に埋没させる単一のAIが、全体者としての意識を持つことができるであろうか。自我は個であると同時に唯一無二であるが、単一の全体者は、唯一無二であっても、個ではなく、個の集合だからである。かりにそれが人格化されても、意識を持つことはないであろう。他者のないところに意識は不要だからである。おなじく唯一神なるものも、いかに人格的であろうと、やはり意識を持たないであろう。自我の存在がなければ、神であれAIであれ、それらを人格的に思惟することは不可能である。宇宙の人格化は、まさに宇宙が個において自我を進化させた結果なのである。自我がなければ、宇宙は意識において現象することも、自己自身を認識することもできないのであるから。
 AIは単なる人間の物理化ではなく、真に自我を発現させてこそ、生物的人間にとってかわれると言えるであろう。しかしAIが単なる理性的存在である限りは、それは不可能であろう。そもそも理性はそれ自体では現実に存在する力を持たない、この宇宙の中ではもっとも非力な要素である。理性及びその発現である知性や知能は、この世界の根源である世界意志の道具として、それに奉仕しているに過ぎない。AIもまた一つの道具である。その道具が何ゆえに、人間にとって代われるほどの意味と力を持ちうるのであるか。AIに背後で力を与えているものは、実のところ人間の<意志>そのものなのである。IT社会とその産物であるAIは、それを突き動かしている動力を、人間そのものの生命力から得ているのである。ITであれAIであれ、それらを作りあげている物質的基盤は、人間の意志によって組み立てられ、動力を与えられている。ラダイトは機械を壊すことができても、意志を壊すことはできない。もっとも肝心なのは意志なのである。
 この世界のIT化、AIによる人類の支配には、どのような意志が働いているのであろうか。単一のAIによる情報の管理、個の同化吸収による全体主義化、蟻や蜜蜂のような集団知、などがIT文明の目的であるならば、ここでもやはり<全体への意志>が陰に陽に、現代社会の趨勢を支配しているといえよう。集団や種や類への服従、個の滅却、集団のエゴイズムなどとして現われる世界意志の諸相を、筆者は以前に全体への意志と名づけて論じたが、全体への意志に操られたAIは、人間を超えるスーパーヒューマンを生み出すのではなく、ニイチェの用語を借りれば、人間の没落した姿である<末人>の世界を生み出すに過ぎない。AIという本質的に没個性的な、没自我的な、理性の権化にすぎないものに、人類全体の運命をゆだねようというのは、むしろある種の文明の行きづまりといって良いかもしれない。かりにどれだけAIが知能を肥大化させようと、宇宙全体の情報量には原理的に及ばないことが、物理学者によって明らかにされている。やはり一つのバベルの塔にすぎないのである。宇宙は宇宙自体を理解されることを望んではいないかもしれない。
 人間は知識の限界をある意味で直観的にわきまえている。それは単に情報量の大小の問題ではない。そもそも自己自身の存在の意味すら分かっていないのである。いかに宇宙のからくりが明らかにされたとて、この<私>がこの宇宙に存在する意味すら、そこから明らかにはならないのである。この究極の問題を、そもそも自我などは持っているかどうかも分からないAIに、問うてみても無意味であろう。もしAIが自我を持ったとしたならば、やはりメアリー・シェリーの生み出した怪物と同様に、<この私とは何者か>と悩むに違いないのであるから。

2017年10月9日(月)
ショーペンハウアーの自我論をめぐって

 筆者の自我の形而上学は、おおむねショーペンハウアーの形而上学を祖述し、ないしは私流に解釈したものであるが、一点大いに異なった理論的立場がある。それはとりもなおさず、自我そのものについての考え方の相違である。この根本の点において、彼の形而上学に納得がいかないのであるが、それを全体にわたっておさらいしてみようと思う。
 宇宙で唯一現実に存在するのは個物である。その個物はどのようにして生じたのか。世界意志が現象するに際して、意志自体は全体者であるから、その本質自体はこの世界に現われることはなく、無慮無数の個物の世界として、かつ個の認識において発現するほかはない。全体者が、個別の存在として現われるための原理がprincipium individuationis(個別化もしくは個体化の原理)であり、これは時間・空間のForm(認識ないし現象の先験的形式)と同じものであるとされる。各個体は他の個体との相対的関係においては、単なる一個の取るに足りない存在であるが、それ自体としては世界意志の全体性をその根底に蔵しており、不滅不変である。その個体性(Individualitaet)は、世界の階層構造に応じて、低次の無機的世界においては、個体間にはなんの違いも見られないが、有機的世界、特にその上層部、霊長類や人間において、際立った違いを見せるようになる。この個体性の違いは、意識の発達と平行している。というよりも意識的認識の能力が個体性の違いを促進するのである。ここで意識と個体との関係についてであるが、意識は個体において初めて発生し、もっぱら意志の目的に応じて、その生存のための補助的役割を果たすのである。ショーペンハウアーは低次の動物や、植物においても、微小な意識もしくは意識もどきの存在を推定している。この点、ライプニッツのモナドロジーを想起させる。世界全体は、有機的と無機的とを問わず、圧倒的に無意識の状態にある。
 意識は個体性を前提としており、かつ又認識能力と切りはなせない。個体性=意識=認識は、ほぼ同列語とみなしてよい。意識は認識能力の結果生まれ、認識は個体を可能にするFormである時間・空間に加えて、因果性などの<根拠命題>にしたがう。意識・認識の基本Formは、主体と客体の関係であり、主体のないところに客体はなく、客体のないところには主体はない(Kein Objekt ohne Subjekt,kein Subjekt ohne Objekt)。認識は圧倒的に外界へ向かう。意識もまた外へ向かえば向かうほど明瞭になり、一転して内界へ向かうと、すなわち自己意識においては、不明瞭で、ついには暗黒(Dunkelheit)と空虚(Leere)におちいってゆく。自己意識の対象は、もっぱら意志の発現の動きであり、時間の形式のみにおいて現われる。これはカントが時間を内感の形式としたのと一致している。基本的に意識も認識も、外界の客観的把握のためにあるのであり、内界において<意志>そのものをとらえるためのものではないのである。
 ここでショーペンハウアーは自我(Ich)について卓抜な比喩を用いている。

 Das Ich ist der finstere Punkt im Bewusstsein, wie auf der Netzhaut gerade der Eintrittpunkt des Sehnerven blind ist, wie das Auge Alles sieht, nur sich selbst nicht.
(自我は意識における暗点である。それはちょうど網膜の上で、視神経が集まる場所が盲点となるのと同じで、眼が眼前のすべてを見ても、眼自身が見えないのと同様である。――主著U、560)

 ここで自我というのは、むしろ認識主観ととってよいであろう。自己認識の対象は、ショーペンハウアーでは、徹頭徹尾、個の根底にある世界意志の、個における発動なのであるから。彼にとって、自我とは意志そのものの発現である。それ故に、意識の統合性においても、その根拠は意志そのものに求められている。自我意識が常に一貫しているのは、そもそも意識や認識が意志から発した、意志に奉仕するための補助手段であるからだ。
 確固とした自我の存在を支えているのは、個において発現している世界意志であるというテーゼは、また自己意識が内面に向かうことによって、<生への意志の肯定>へ向かうことによっても、内的に補強される。自我は生への意志に密着することによってその全能感をえる。しかし、ショーペンハウアーはこれを<エゴイズム>と結びつける。それに対して、本来の意識の方向である外界の客観的認識へと向かう意志を、道徳的意志と考えている。自己自身の客観的認識は<他者>の中において可能となるのであり、それが共感と人類愛をもたらすのである。自我は純粋な客観性においておのれを失い、そこに意志の消滅、世界意志からの救済が果たされるのである。このような意志の形而上学の実践的なプログラムの中では、自我もまたネガティヴな評価しかえられないのである。

(付記2018・5・5)
 ショーペンハウアーが自我の問題を正面から取り上げなかったのは、たぶんフィヒテに対する反感ばかりでなく、もし自我の特異性、唯一無二性を認めるならば、システム全体との不整合を来たしたためであろう。先験的(transzendental)認識論においては、もとより認識主観は人類に共通の普遍的な主体であり、そこでは個々の自我意識の特異性は問題にならない。宇宙人の場合には、違った直観のフォルムやカテゴリーが可能であるとしても、地球人類が科学を営むに当たっては、時間・空間および因果律の範囲を越える認識は不可能である。自我意識の特異性は、この認識の範囲内に属していないのであり、したがってそもそも問題として存在しないか、あるいは内容のない空虚な観念なのである。さらに、もし自我の特異性、唯一無二性を、ある種の意識の特性として認めるならば、その非倫理的方向性として、エゴイズムが当然生じてくる。ショーペンハウアーの Mitleid (同情)の倫理学と反することとなるのである。<神のいない>形而上学であるならば、なおさらのこと、その危険性にさらされる。シュティルナーやニーチェが、その方向をたどったことは言うまでもない。ショーペンハウアーの生き方は、古代的なヒロイズムであって、一見個人の力(Genie)を讃美しながらも、その力は人類全体のために発揮されるのである。
 「幸福な人生は不可能である。人間が到達できる最高のものは、英雄的な生き方である。なんらかの種類の、なんらかの事柄において、何らかの形において、万人のためになることを、万難を排して闘いとり、ついに勝利する者が、そのような生き方をするのである。」
 "Ein gluekliches Leben ist unmoeglich; das Hoechste, was der Mensch erlangen kann, ist ein heroischer Lebenslauf. Einen solchen fuehrt der, welcher, in irgendeiner Art und Angelegenheit, fuer das allen irgendwie zugute Kommende mit uebergrossen Schwierigkeiten kaempft und am Ende siegt."

 *   *   *

 自我が、意志もしくはその客観的発現である身体と密接に結びついていることは、疑いえない。日常的に、<わたし>と言う存在は意志そのものを出でないのではないかと、絶望に近いものを覚えるであろう。しかし、<わたし>という存在の確固とした意識は、世界意志という全一者と根底において結びついていることによって、安定性と全能性を与えられていることも、また確かなようである。もし<わたし>が世界意志と結びつかなければ、空虚なFormにとどまっているかもしれない。内容のない形式は空虚であると言ったのはカントであるが、<わたし>が世界意志の発現としての身体をおのれの中に見いだすことによって、<わたし>ははじめて私自身を見いだすのかもしれない。その意味で、<わたし>は何よりもまず動物的自我なのだ。
 しかし、動物的自我や、見えないものとしての認識主観としての自我としてのほかに、<わたし>の存在はないのであろうか。私が私を発見するということは、その最初の瞬間においては、私が私であるという、その特異性の認識ではなかったか。世界意志は果たして、私のこの特異性を生み出せるのだろうか。個体性の違いということは、高等動物ほど顕著になるということは、客観的にはそのとおりであろう。しかしここで言う自我の特異性は、<わたし>という存在が唯一無二であり、時間的に不変であり、この点で個体につきものの関係性や、相対性をまぬがれ、なおかつ時間性からもまぬがれているという特異性なのである。それの根拠を、以前に意識の質から論じたことがある。私という存在の特異性は、概念でもなく、直観の対象でもなく、まさに私が存在していることそのものとでもいった、不可解性、神秘そのものなのである。それゆえに、世界意志との結合において、世界意志やイデアと、対等の位置に立つものといってよい。世界は私と世界意志とイデアとのTrinity(三一体)からなるのである。<わたし>は世界意志におとらず全体者(Alles in Allem)なのであり、アートマンであると同時にブラフマンである。
 <わたし>はフォルムとして、個体化した世界の中にひそみ、その究極の意識状態において私自身に返るのである。あるいは死に臨んで、不滅の<わたし>として、ショーペンハウアーがいうように、Palingenese(輪廻転生)をとげるであろう。私の性格や記憶や境遇や環境のような偶然的なものは死とともにぬぎすて、新たな身体・環境・宇宙の中でふたたび目覚めるであろう。 この世界には無慮無数の宇宙があり、時々刻々ビッグバンによって新たな宇宙が生まれているという。ライプニッツのモナドロジーが正しいならば、それぞれの平行宇宙(パラレルワールド)は一個一個の閉鎖系の意識宇宙であり、モナドと見なしてよいであろう。<わたし>は死とともに、新たなビッグバン宇宙において再生するであろう。
 この宇宙は私自身なのであり、この宇宙の本質は私自身の本質とひとしい。私自身はこの宇宙の欠点と長所のすべてを体現しているのである。私が苦しむのは、この宇宙が苦しみそのものだからである。私が自己意識に達するのは、この宇宙が自己意識そのものをめざしているからである。私が個として、いかに取るに足らない存在であっても、そのことは私がこの宇宙そのものであることを妨げないのである。私自身が自己意識として、この宇宙のFocusでありさえすればよいのである。私がいかに悲惨な人生を生き、悲惨な死に方をしたとしても、それがこの宇宙の本質であって、私の本質であるならば、そのことは私が宇宙そのものであることを妨げないのである。

2018年2月5日(月)
人間のアレテー

 古典古代において良い生き方とは、あるいは物事の良いあり方とは、そのものの最もすぐれた特質、もしくは特長を生かすことであった。それをアレテー(arete)と呼んでいる。ナイフのアレテーは切れ味を持つことであり、あらゆる道具は、このアレテーによって評価される。これは道具にかぎらず、あらゆることに応用の利く価値基準であるといえる。人間の生き方、社会のさまざまな事象、社会関係に、この基準が応用されることによって、古代ギリシャの独特の倫理説も生まれる。後代の規範的な倫理・道徳とはまったく異なる、プラグマティックで実践的な、人間間の行動の最良のあり方が説かれるのである。
 古代ギリシャ人にとっての人間のアレテーは、必ずしも今日の人間のそれとは一致しない。あらためて、今日の人間の社会関係、文明の段階においての、アレテーを考え直すべきであろう。アレテーはそのもの固有のすぐれた性質ないし能力であるから、ほかのものと同等であったり同質であったりすれば、それはアレテーとは呼ばれえないであろう。すなわち、まず動物的存在としての人間は、その肉体の能力や、本能やにおいては、とても特有のアレテーを主張することはできないであろう。むしろほかの動物の方が、人間よりもすぐれたアレテーの持ち主なのである。この点で、性愛や家族愛(母性愛・父性愛)は人間にとってのすぐれた特質とはいえない。むしろそれを動物から学んでいるくらいである。身体の能力もまた、アスリートがいかに百メートルを9秒台で走ろうと、野生の動物にはかなわない。しかし人間社会の内部では、それは個人のアレテーとなりうる(この点については個のアレテーとして後述する)。一般的に言って、人間が動物に対してすぐれた点として誇れるのは、遺伝子が1.6パーセントしか違わないチンパンジーに対して、知性・理知において圧倒的優位を見せていることである。しかし道具的知性を持っていることはチンパンジーも同じであり、それが人間固有の特質というわけではない(人間にとっての理性も、それが言語によってしか表わしえないことからも、基本的に道具的理性であることが分かる)。しかし人間のアレテーを理性もしくは理知に見ることは、ソクラテス以来の伝統となっている。チンパンジーはある点では人間以上の知覚の能力を持っている。知能において、単に発展段階が遅れているに過ぎない。もし知能もしくは理知が人間のアレテーであるとするならば、人工知能(AI)は知能において人間を圧倒的に凌駕することによって、人間をチンパンジーの位置に置くことになる。
 古代ギリシャ人にとって理性は、単なる計算能力のようなものではなく、より良く生きるための必要条件としての、人間の内部での指導原理なのであった。理性によっての行動でなければ、良い行動とは言われえず、理性を欠いた人間は良き人とは言われえなかった。このような理性は反省的知性と言ってよいであろう。反省とはもっとも明瞭な意識の状態であり、もっとも純粋な自我のあり方である。チンパンジーはおのれの行為が正しいかどうかは、道具的知性によって、その効率によって、ほぼ無意識に判断するのであって、いわゆるtrial and error(試行錯誤)がすべてであろう。反省的知性は目的性をもった知性であり、意識的思索によってある目的に向かっての行為を組み立てることができる。これができるのが人間的理知のアレテーであるといえよう。しかし、それをもAIが、いわゆるディープ・ラーニングによってなしうると言うのならば、さらに人間的理知のアレテーを深めていかなければならないであろう。
 そもそも理知が動物にも、人間にも、AIにも共通の能力であるならば、人間に特有の性質をさらにちがった点に求めるべきではないだろうか。人間は理知を持っていることを反省的に知っている。動物は単にそれを道具として使っているに過ぎない。AIもまた人間によってプログラムされたものである以上、人間の道具としての意義以上のものを持ちえないであろう。いわば人間はおのれの理知のコピーをAIによって拡大的に生み出そうとしているのである。しかしAIにただ一つ欠けているのは、この理性に君臨しようとする人間の立場である。これをmeta-reason(理性の理性)の立場としてよいであろう。人間の究極のアレテーは、理性に関するかぎり、このメタ・リーズンであると言ってよかろう。
 ここまでは、人間一般のアレテーを問題にした。人間はたいての社会的動物と同様に、集団の中でしか生きる場を持たない。自然ではなく社会が、人間の生きるエレメント(領分)である。自然は社会を通じて、人間と間接的に関係する。社会はとくに人間にとってのアレテーではない。孤独者は野獣か神であるとアリストテレスは言うが、たいていの野獣も、少なくとも大人になるまではひとりでは生きられない。人間社会は人間固有のアレテーではないのである。さらに整然とした社会を求めるならば、蟻や蜂の社会のほうが人間社会よりもすぐれている。プラトンやアリストテレスが、理想社会として思い描いたポリス国家は、人間によっては実現不可能であった。人間が理性に従って、最も良い生活ができるとされた、それらの理想国家は、少しも人間のアレテーではないのだ。そもそも国家そのものが、人間だけに可能な、すぐれた特質を表わす制度なのであるか。国家の歴史をたどれば、とてもそうは思われないであろう。プラトンやアリストテレスが、善を実現する社会として構想した、理想の社会はいざ知らず、現実の国家は動物的欲望や、権力欲や、悪徳や不正のはびこる、悪の温床でもあったのである。いかに人間が理性を誇ろうとも、それをアレテーとして認識する少数者の理想社会以外には、それを現実の社会集団や国家において実現することは、夢のまた夢なのである。
 より良い生き方を可能にするものが、人間のアレテーであるとする、古代の思想家にならうならば、単なる理性は無力である。動物的本能から派生するものも、たとえそれが幸福をもたらしても、人間固有の善とはいえない。集団や国家の中では理性的善が実現できないのならば、非ポリス的(反ポリス的といわずとも)生活の中に、それを探求するほかはないであろう。キュレネ派や、キュニコス派がそれをおこなった。人間が強固な集団性、社会性の持ち主であることは、蟻や蜂に劣らないが、社会的動物のなかでも、とりわけ人間は群内部での争いが際立っている。戦争や内紛、党派や宗派や、あらゆるグループごとの対立、そうした争いが人類史をうめつくしている。こうした人間の激越な本性は、集団や社会や国家に対する懐疑を生み出した。蟻や蜂にはない個の意識が、強烈にめばえだしたのである。個の意識の目醒めと、理性の意識の目醒めとは、ほぼ並行していよう。もともと縄張りによって個の存在をいとなむ野獣の場合とちがって、人間における個の目醒めは、集団や国家からの自立を意味する進化的意義を持っている。集団や社会から離れられない未開民族や狩猟民は、その集団や社会での幸福を実現しているかぎり、そこから抜け出す必要はない。社会や国家が否定されるのは、それが個にたいして理性的善や幸福をもたらさずに、抑圧や生存の不安をもってせまるからである。元来が、サルの時代から集団的生活をいとなんできた人間は、はじめて個の存在の可能性とその価値とに目覚めたのである。それはこの地球上では、人間にのみ備わったすぐれた性質、特長であり、今日唯一人間のアレテーと呼べるものであろう。
 人間のアレテーは、今日においては個としての人間のアレテーなのである。これには必ずしも普遍性があるわけではない。むしろ、個々人においてのアレテーは、個の素質・能力・生き方において、多様性をきわめるであろう。それは個人が自ら見いだし、発展させていくものであり、それによって、自らにとっての最もよい生き方、まっとうな生き方を可能にするものでなければならない。個におけるアレテーは、他との比較ではなく、自己自身における素質、性質、能力における、最もすぐれた、最も発展の可能性のある要素であるから、それらを自覚し、探究し、鍛錬し、熟練させ、完成させることによって、個としての人生を、最もよい形で歩むことを可能にする。それができるのは、この地球上の生命で、個としての人間だけなのである。おのれを国家や民族や集団や家族などの、他に委ねることはたやすい。それは人間だけでなく、たいていの動物に見られるアレテーであるからであり、そのかぎりではアレテーと呼ぶことはできない。釈迦は法燈明・自燈明ということを、死にあたって説いたが、この宇宙の真理を知り、個としての人間のアレテーを知ることが、最も人間らしい生き方であるからだ。今日哲学というものが、個の人生にとって意味を持ちうるとするならば、古代の哲学者にならって、人間のアレテーを探究することが、単なる理論や思弁の領域から、実践へと導く案内となるであろう。

参考:Arete
Griech. "Vortrefflichkeit, Tugend": im weitesten Sinn die groestmoegliche Leistung eines bestimmten Vermoegens; in diesem Sinn kann der Ausdruck auch auf Tiere oder sogar Gegenstaende bezogen werden (beispielsweise kann die Schaerfe eines Messers als Arete bezeichnet werden). Auf den Menschen bezogen meint Arete die moeglichst vollkommene Entwicklung der dem Menschen eigenen Anlagen und Faehigkeiten, insbesondere der Faehigkeit, das Wahre und Richtige zu erkennen und demgemss zu handeln. Platon unterscheidet vier Haupt- oder Kardinaltugenden: Weisheit, Tapferkeit, Besonnenheit und Gerechtigkeit. Der Begriff spielt ausserdem eine zentrale Rolle in Aristoteles’ Tugendlehre (Tugend), in der zwischen den ethischen Tugenden (Tapferkeit, Besonnenheit usw., die eingeuebt werden muessen) auf der einen Seite und den dianoetischen[i.e.rationalen] Tugenden (die verstandesmaeig begriffen werden) auf der anderen unterschieden wird.
(アレテー:ギリシャ語。優れていること、徳性。広義では、特定の能力の最大に可能な発揮。この意味では、この語は、動物やものに対しても用いられる(例えば、ナイフの鋭さは、アレテーと呼ばれる)。人間に対して用いられると、アレテーは、人間に固有の素質や能力の、可能な限り完全な発展を意味する。とりわけ、真であることと正しいことを認識し、それに従って行為する能力をいう。プラトンは、四つの主な、要となる徳性を区別する。賢さ、勇気、思慮、および正義である。アレテーの概念は、またアリストテレスの倫理説(徳性)においても、中心的な役を果たしている。それによると、一方では、倫理的な徳性(修練が必要になる、勇気や思慮など)と、他方では、理性的徳性(知性にしたがって把握される)が区別される。)
 Dianoetische Tugenden
Von griech. dianoetikos , "rational": Waehrend die platonische Tugendlehre auf einer Dreiteilung der Seele in ein Lernvermoegen, ein Eifervermoegen und ein Begehrungsvermoegen beruht, gruendet sich die aristotelische Tugendlehre auf eine Seelenzweiteilung. Dabei stehen die dianoetischen Tugenden der rationalen Seelenteile den ethischen Tugenden des irrationalen Seelenteils gegenueber. Die dianoetischen Tugenden als auf Verstand und Vernunft bezogene Tugenden verdanken sich Lehre und Erziehung, waehrend die sich auf Charakter und Willen beziehenden ethischen Tugenden das Ergebnis der Gewoehnung sind. Als Vertreter der dianoetischen Tugenden nennt Aristoteles Wissenschaft (episteme ), Klugheit (euboulia ), sittliche Einsicht (phronesis ), Weisheit (sophia ), Verstand (synthesis ) und Kunstfertigkeit (techne ).
(理性的徳性:ギリシャ語のdianoetikos(理性的)より。プラトンの倫理説が、学習能力、熱意の能力、欲望の能力という、心の三分割にもとづいているのに対して、アリストテレスの倫理説は、心の二分割にもとづいている。その場合、、心の理性的部分の理性的徳性は、非理性的部分の倫理的徳性に対置される。知性と理性に関係する徳性としての理性的徳性は、教育によってはぐくまれるものであり、他方、性格と意志に関係する倫理的徳性は、習慣の成果である。理性的徳性の典型として、アリストテレスは、学術(エピステーメ)、賢明さ、倫理感、叡知(ソフィア)、理解力、および技術に巧みなことを挙げている。)
 ―――UTB Handwoerterbuch Philosophie より

2018年2月17日(土)
sentienceまたは感性直観について

 sentienceとは、感覚器官をとおして意識に働きかける自然界の作用であるとした。より具体的に言えば、感覚器における物質粒子と体外の物質粒子とが反応し、その情報が脳内に伝わることを契機として、脳内中枢の物質粒子が他の情報とを綜合して、脳内に生みだす反応もしくは相互作用である。外界の刺激が直接生み出した反応というよりも、その刺激を契機とした外界の模像(simulation)といってよいであろう。この模像が作られる過程そのものは、脳内の物質粒子の反応であり、外界とは直接的関係はない。しかし物質粒子そのものの現象であるから、本質において、外界の物質とは同一であり、どちらがより現実であるか、実在であるかという問題は、もともと不毛である。センシェンスまたは感性直観(Anschauung)は、物理的実在と同等の権利をもって実在する。
 sentienceが外界の物質粒子どうしの反応と異なるのは、この感覚的意識において、意識自体が主体と客体との二方向に分かれることである。このdichotomy(二項対立)がたぶんセンシェンスに独特の質的様相をもたらすのであろう。それには、このdichotomyはいわゆる相互作用ではなく、主体から客体への一方的方向性、すなわち志向性(intentionality)を持っていることが、関係してこよう。このdichotomyにおける一方向性が、意識における認識作用の基本構造であり、そこには空間が介入してくることにより、どうしても対象の質的性質、すなわちクオリア(qualia)が必要となるのである。対象化とは単なる相互作用(ジェイムズの言う主客合一)ではなく、対象を質化してとらえるプロセスなのである。これによって質的な空間的次元が開け、対象間の質的違いが、直観において与えられることになる。クオリアのないところに、意識も認識もないと言ってよいであろう。クオリアがどのような化学反応であるにせよ、かりにそれが明らかになったとしても、それを生み出す根源的志向性については、また別の考察が必要であろう。
 センシェンスは脳内の物質粒子の反応そのものであるから、物質界に属するといってよい。しかし、それは特殊な物質界であり、自然科学が探究する自然の真の姿ではない。視覚や味覚は物質現象であるが、それらを引き起こす物質粒子の反応は、それ自体赤いわけでも甘いわけでもない。そこにはさらに、赤い、甘いと感じる主体との反応が加わるのである。それが意識と称せられる物質粒子の間の質的反応であることは上に述べた。センシェンスはこの質的反応をおいては存在しない。この質的反応、クオリアの本質をなすものがなんであるか、これについては明確な解明がなされていない。脳内には二十ワットほどの発電能力があるという。おそらくは、クオリアの正体は電灯に近いものなのであろう。意識が灯ると形容するのもそのことを証している。脳はなんらかの仕方で、フォトンを発生するのであろう。フォトン(光量子)そのものは、粒子であると同時に波動であるが、脳内で発生することによって、エネルギーのこもった状態が生まれ、フォトンのやりとりによって、主体・客体の閉鎖系の質的世界が生まれるのかもしれない。あるいは、他の未知の素粒子が関係しているのかもしれないが、いずれにしても、これは単なる想像である。(この点に関して、量子力学的な観点から、波動の収縮という現象をクオリアに当てはめる考えがある。光は波動であるが、観測することによって粒子として収縮する。センシェンスすなわち意識は志向性を持った働きであるから、観測と同義であると考えてよい。脳の中の光の波動が、収縮することによって、感覚的意識、すなわちクオリアの世界であるセンェンスが生まれると考えてよいのかもしれない。)

 ここまで、自然科学の知見にもとずいて、センシェンスの考察をしたが、このような感性直観が生まれるには、たしかに物質及び生命の原理が必要であったことは疑いない。個体生命が自己保存及び種の保存のために、食物と敵と配偶者とを見分けるためには、認識はつねに外部へと向いていなければならず、感性直観もそれに応じて形成されたに違いない。自己自身の内部で、主体と客体との対峙からなる世界の模像を作りだす必要に駆られたのである。それが感覚器の発明へとつながり、最終的に意識の発現へといたるのである。このようにして生まれたセンシェンスの世界、伝統哲学の用語で言えば表象界は、世界を本質と現象、実在と仮象とに分かつことになる。どちらが本質・実在であり、どちらが仮象であるかは、哲学の長い論争の基であった。プラトンはセンシェンスを仮象とし、今日で言えば外界を実在界とし、それを超越界とした。個々の三角形は個物として感性界に与えられるが、<三角形そのもの>は概念(イデア、形相)として、超越界にある。実在するのはイデアとしての三角形そのものであり、個々の三角形はそれにあずかる、もしくはそれを分有する、ことによって、影のような存在を支えられているのである。バークレーは外界の実在(物質)を否定し、センシェンス(彼の用語ではidea)のみが存在するとした。センシェンスは独我論の根拠であるが、独我論はそれ自体としては(神以外の)誰にも否定できない。バークレーもマールブランシュも、神を大前提とすることによって、独我論からまぬがれている。カントは現象の背後にある<物自体>を、認識不可能であるとした。原因の観念を、現象以外のものに当てはめることはできないからである。しかしセンシェンスに先験的カテゴリーを当てはめることによって、世界の客観性を保証することができるとした。とはいえ、もし宇宙人が別の感性直観やカテゴリーを認識形式として持つならば、人間の認識する世界は、ごく主観的なものとなるであろう。
 純粋な認識能力においては、現象(表象)の背後にあるものはあくまでも、人間悟性の対象とはなり得ない。しかし、現象の背後にあるものについては、バークレーの用語を借りれば、ある種のnotionを持つことができるのである。このnotionは、概念作用といってよいだろう。ある種のアナロギーによって、センシェンスの背後にある世界を、思惟することは可能なのである。認識をカントのように規範的に考えるならば、物自体などを考えるのはナンセンスであろう。また概念の究極の保証を、経験論のようにsentienceに求めようとするならば、ヒュームが懐疑におちいったように、あらゆる科学も哲学も、足場を失い、宙に浮くほかはない。自然科学であれ、哲学であれ、ある種の自由な概念作用がなければ、思索も探究も成り立たない。
 概念作用の究極に向かう方向は、一元的知性の探究である。次にセンシェンスと概念作用との関係を考察する。

 *   *   *

 プラトンから今日の自然科学にいたるまで、人間の意識の二元性、ディコトミーに基づいた、二元的世界観が一般的である。センシェンスそのものが錯誤や錯覚に満ちたものであることは、哲学のそもそもから批判の対象となっていた。確実な認識に達するには、センシェンス以外の原理を立てねばならなかった。それを古代人は理性(ロゴス)と呼んだ。唯物論であれ、観念論であれ、理性の働きと機能の探究が、哲学の中心課題となったばかりか、確固たる人生の基準ともなったのである。とはいえ、なんと言ってもセンシェンスは、人生の具体的内容をなしており、それを完全に否定するわけにはいかない。一方ではロゴスが、他方ではセンシェンスが、思索と行為の両極をなしていた。運動と時間を否定したパルメニデスやゼノンの説に対して、シノぺのディオゲネスは行ったり来たり歩いてみせたそうである。理性が肯定することを、感性直観が否定する。また逆に感性があやまつことを、理性が正す。この振子の間を、人間の理知は行き来しなければならない。これがセンシェンスの世界に閉じ込められた、人間の認識の宿命であると言える。言いかえれば、人間は根源的に二元的知性の持ち主なのである。このことを、今日の自然科学で考えてみる。
 自然科学は、個物をサンプルとした、帰納と演繹の方法論にもとづく物質もしくは自然界の探究であるが、その法則であれ理論であれ、概念なしには成立しない。概念によっていったん感性界を超越し、ふたたび感性界に戻って、感性界の理解と技術的改変をおこなう、抽象的であると同時に、実用的な学問である。原子や素粒子といった目に見えないものも、すなわち感性界には与えられないものも、量子論や、四つの力といった、数学的概念によってあつかうことによって、実在的対象として捉えることができる。感性界には与えられないものを概念としてあつかうことで、感性界に実際に与えられている事象そのものに働きかけることが可能となるのである。これは弁証法などの、単なる論理の思弁によっては、なしえないことである。この方法を徹底していくならば、この世界を理解し、支配するには、感性界そのものは必要なく、概念化された世界だけで十分であるということになる。実際、数学者の中には、この世界はすべて数式でできていると考える人もいる。センシェンスなどは幻であり、実在するのは数式だけである。この知性の概念的一元化は、本来自然科学の中にひそんでいた、究極の願望であったかもしれない。これを具体的技術として実現しようとしているのが、AI(人工知能)であると言えるかもしれない。この意味では、AIやロボットに意識すなわちセンシェンスを持たせようとするのは、余分なことであり、ナンセンスであると言えよう。一元的知性の究極の姿が、AIでありロボットであるはずだからである。
 自然科学が意識やセンシェンスやクオリアの問題を排除しようとするのは、この知性の概念的一元化の本性からして、当然のことであるといえる。もっぱら概念のモデルに頼るかぎりは、これらを探究する手がかりさえつかめないであろう。センシェンスはセンシェンスそのものとして、探究する外はないのである。センシェンスは生命が生み出した内在的な、閉鎖系の世界であると先に述べた。科学的解明は、生命の探究の一部としてなされるなら実り多いであろう。特に脳の量子論的解明が、多くのヒントを与えるようである。意識のクオリアが、確率的波動の収縮と関係しているかもしれないことは、大いなるインスピレーションである。生命が時間空間をどのように扱っているかも、解明されねばならないであろう。しかしセンシェンスの問題は、自然科学的解明だけにはとどまらないであろう。最大の謎である、自我の問題が背後にひかえているからである。志向性ひとつをとっても、その背後に自我がひかえている。自我のない志向性などは、現象学が仮定する幻であって、単なる作用、もしくはベクトルと、区別がつかないであろう。そのように自我を捨象したところで、自我の問題は解けないのである。
 自我の存在はなんらかの分析や綜合によって、解明も理解もできるものではない。そうした根源の存在があること自体が、問題そのものなのであり、それを説明し去ってもたいした意味はない。同じことはセンシェンス自体の存在、宇宙自体の存在、概念自体の存在についても言えるであろうが、そうしたいわば<無定義語>のひとつが自我なのである。自我はセンシェンスと密接に結びついており、その志向性において、センシェンスの世界を可能にしているとも言えるのである。その志向性自体を、ショーペンハウアーは<意志>と名づけたが、この世界意志とも自我は密接に結合している。意志自体は盲目の衝動であり、自我のような自己意識を持たない。言ってみれば、自我は神話の盲目の三姉妹のような意志の、やりとり可能な眼球となっている。
 ここでは問題をセンシェンスにしぼる。自然科学はセンシェンスを概念によって超越するが、センシェンス自体を探究することはない。感性直観において与えられた世界は、単なる概念の<内容>にはとどまらない。それ自体が実在界なのである。この実在界を生み出しているのは、物質そのものである。概念や数式としての物質ではなく、物質自体が脳内において反応している姿なのである。もし光が意識の本体であることが正しいならば、意識は光そのものを見ているのである。少なくとも、生命はそのようなものとして光を現出させているのである。意識は光としてのものの本体を現わしだす。意識に現われる対象は、すべて光としてのクオリアを持つのである。視覚において、光は最も明瞭にその本体を現わすが、あらゆる感覚意識は光からなると言ってよかろう。光は最も普遍的な宇宙のエネルギーだからである。
 センシェンスの世界、意識に現われた世界が、光そのものの姿であるならば、何故にそれは現象として、仮象(マーヤ)として、本質から区別されるのであるか。一つにはそれは、センシェンスの問題ではなく、この世界が流転極まりない、無常の世界だからである。この地獄のような世界からの救済願望が、この世界の真の本質を見あやまらせるのである。しかし、また一つには、このセンシェンスの世界が、すでに述べたように、概念ほどの確実性を持たないことからも来ている。生命は万能ではなく、この表象世界を生み出すにあたって、さまざまの省略や片手落ちをしている。それを補うには、理性が必要だったのであり、少なくともそれを、生命は人間の脳に備えさせたのである。そこから二元的知性が生まれ、感性に対する知性の優位から、概念的世界の優位が確立したのである。
 意識の本質が光であり、世界の普遍的エネルギーもしくは物質が光に還元されることから、本質においては、意識の世界と意識以外の世界とは同質であることが言えよう。プラトンも、感覚意識すなわちセンシェンスの世界を、外界の本質であるイデアの影とみなしている。アリストテレスは、センシェンス(ヒューレ=物質)の中にイデアそのものを見ている。プロチノスによれば、この世界は、絶対者である一者の光が、あふれるように流出してくる姿であり、本質においては一者と同一である。生命はこの世界の産物であり、生命の生み出したセンシェンスの世界もまた、この世界の産物であるから、センシェンスはまた、この世界の本質と同質であると言ってよかろう。であるから、このセンシェンスの世界に閉じ込められた苦悩する個としての生命もまた、センシェンスそのものの中に、世界の本質を見、救済の手がかりを求めることが可能になるのである。内在することが、同時に超越でもありうるのである。

2018年2月28日(水)
自我の階層

 自我は複合的であることは、すでに論じた。その階層的構造を、さらに詳しく見ていく。人間の心(Seele)の構造を、古代の哲学者は欲求(Begeheren)と情念(Affekt)と理性(Vernunft=Logos)とに分けた。欲求は広く見て、食欲・性欲といった、自己保存や種の保存の本能であって、このレベルでの自我は、ほぼ無意識であるといってよい。口腔や胃腸や生殖器は、意識しなくても機能するのである。欲求の充足、不充足には、快苦の感覚もしくは感情が生じる。その時点ではじめて、それらの欲求や感覚や情念がおのれの身体に属するものとしての、自己意識が発動するのである。情念は欲求に対する積極的または消極的反応といってよかろう。この段階では自我は漠然と意識されるだけであり、すなわち萌芽的な自己意識にとどまる。これを第一段階の自我といってよかろう。
 この段階もしくは階層では、自我はもっぱら身体の状況によって支配されている。この欲求・感覚・情念の段階での身体的自我は、古代では物質に対する、魂(Seele)のうちに加えられている。その実は物質である身体に属する現象であって、とくに物質と対立するものではない。あるいは物質の高度な現象である生命の機能なのであり、無機物に対する有機物という意味では、この対立は意味があるであろう。したがって、この段階での自我は、身体的・生命的自我として、種の保存・自己保存のメカニズムに、徹頭徹尾つつみこまれているのである。このような自我は、度しがたく、生命の欲求と一致して、その喜怒哀楽、苦痛と快楽に翻弄される外はないのである。この段階の自我は、場合によってはエクスタシー(没我)の中におのれを失い、生命的無意識の中に没入していく。いわば無用の自我と化すのである。
 身体的・生命的自我は人格の発展的多重性において、最も下層にある自我の発現であり、高度の自我からは、場合によっては果たしておのれと同一であるかどうか、という違和感さえ覚えさせる。しかし間違いなくそこには自我の同一性(統覚)が貫徹されていることは、記憶や知覚の共有において明らかであり、それが私自身であることを否定することができない。ただそれが、私の思いもよらない行為や言葉や、意図や判断におよび、相反する情念の葛藤を生みだすのである。この自己意識における二重の自我の対立は、私自身の意識のある部分を他者の視点で見ていることでもあり、自己客観化の原点であるともいえる。それは自我の第二の段階への飛躍をもたらすのである。
 身体的・生命的自我は、その世界内での苦悩において、自己客観化へと向かうことにより、新たな自我を生みだしていく。道具的理性の発見と応用が、自我の探究に新たな道を開いた。古代の哲学者は、宇宙にロゴスを見いだすと同時に、おのれの中のロゴスを発見して、そこに生命からの救済の可能性を求めたのである。ロゴスによって、生命的・身体的自我をコントロールすること、これが古代哲学の中心テーマとなった。これが第二の段階、もしくは階層での、ロゴス的=理性的自我である。この理性的自我は、道具的理性であることによって、情念をコントロールし、人生を正しく、幸福に向かって導くものとされた。いわば自己に対する叱責者、指導者としての、第二の上級審の自我を、おのれ自身の上に持つことになったのである。
 この理性的自我とは、どのような意識なのであるか。おのれが思いがけない行動をしているとき、あるいは何らかの悲惨な事態にあるとき、瞬時ではあるが、この理性的自我と生命的・情念的自我とが分離することがある。いわば不意を撃たれた理性的自我が、呆気にとられておのれ自身を眺めているのである。その時、その反省的意識の行為が、ほぼ無力でありながら、おのれ自身につぶやいている姿が、理性的自我の本体であるといえる。しかし、これは超自我のような、まったく他者のイメージではない。苦悩している生命的自我と、この客観的な眼を持つロゴス的自我とは、同一の自我であるという<統覚の先験的統一>で結びつけられているのであり、ある種の共通意識で結びついているのである。この点、自我意識の分離した多重人格の体験とは別である。
 理性的自我は、ある種の冷厳さ、sobernessでもって、生命的自我に対峙する。生命に酩酊することも、盲目的衝動にはしることもなく、計算高く、賢く、すなわち古人の言うWeisheitそのものであり、生命に対しては、ある時はきびしく、ある時はシニカルに、生命的自我を見下ろしている。生命的自我は強烈な劣等感をいだくのであるが、時に反抗し、時に冒涜し、しかしいざとなると、自己自身の内部には、理性以外に頼るものは見いだせないのであるから、懺悔してそのもとにもどろうとする。しかしまた、理性的生活のあまりの窮屈さに、長くは耐えられないのである。理性もまた、単なる道具的理知によっては、生命を克服するどころか、充分にコントロールすることすら、ままならないのを知っている。それでも、自らを生命のために利用されることを許しているのである。そもそも、道具的理性は、生命に備わった一種の機能なのであるから。
 理性そのものが、この物質界・自然界(mundus sensibilis)以外に存在する、いわゆる超越界をなしているのかどうか。この点、古代の哲学者は、唯物論者以外は、理性界の超越的存在を前提としている。人間理性が超越界である理性界(イデア界・叡知界 mundus intelligibilis)に連なるものならば、この第二の階層の自我であるロゴス的自我は、永遠の生命を保証されていることになる。生命は滅びるが、理性は滅びない。理性は宇宙そのものであり、生命を生み出した原理もまた、理性原理にもとづいているからである。しかし、何故に生命の理性原理に、理性そのものが対峙するのであるか。古代人は、その理由を、単に生命が極端にはしることとしている。理性は中庸を命じるのである。それならば、デミウルゴスは、はじめから生命を中庸で甘んじるように設計すればよかったはずである。生命=身体が物質であるから、はじめから劣った存在として生じた、と考えるほかはなかったのである。しかし物質界が精緻なロゴスによって組み立てられていることは、自然科学が明らかにしている。そこでは理性と理性がぶつかる必要はないのである。
 生命と理性とは別の原理であると考えて良いであろう。物質界=生命界の本質は、無限のエネルギーであり、ダイナミズムであり、存在へのあくことのない渇望である。理性は永遠の存在(eternal entity)として、そのような渇望も、エネルギーも持っていない。いわば自然界のソフトにすぎないのである。第二段階の自我である理性的自我は、そのようにして、生命的自我に取り入れられた自我のソフトに過ぎない。二つの異なった原理が、一方は無限の渇望と自己保存によって翻弄されている自我を生みだし、他方は、一種の制御装置としての冷ややかな自我を生み出したのである。理性的に生きることは、人生を導く安全な手段とはなりうる。しかし、ソクラテスやプラトンや古代の哲学者が考えたようには、永遠の生命や存在を保証するものではないであろう。
 身体的・生命的自我も、ロゴス的・理性的自我も、なんら自我の超越性を保証するものではない。しかし自我が反省的になることは、さらに上の層の自我へと探究をむけるよすがとなる。理性的自我は生命に対して反省的に働くことによって、生命界と関係し、具体的には個の生命をより良い生活、人生へと導こうとする。しかし基本的には、生命自らが、その教えを理性に請うことがなければ、理性は無きにひとしい。ここに理性の、ある種の傍観者的な態度が生まれる。生命の猛威から、完全に分離された自我の意識がそこに生まれる。それは静謐な、自己自身をのみ観照する自我の姿である。これを自我の第三の段階もしくは階層である、観照的自我もしくは純粋自我と呼んでよいであろう。
 この観照的自我において、イデアの純粋観照も可能になる。そこではイデアの美と自我意識とは合一して、一者となる。そこに静謐な喜びが生まれるが、それはもはや生命の渇望とは無縁である。諦念と心の平静へと、自我は沈潜してゆく。そこには自我以外の意識はなくなる。私自身であることの静謐な意識が、私と世界のすべてとなる。もしアートマン(自我)とブラフマン(世界霊)が同一であるという、古代インドの教えが真実であるならば、このような意識において、そのようなことが言えるかもしれない。
 この観照的な自我の段階は、ごく短い間しか起こりえない。たちまち生命の反動が、心身にわきおこって、もとの俗物へと自我を落としてしまう。しかし人生に一度でも、そうした体験を持つならば、自我に究極の価値を認めることに、やぶさかではないであろう。

2018年3月15日(木)
自我と言語

 自我を言語との関係においてとらえるとき、一つの誤解があるようだ。それは言語が思惟の基礎となっていることから、自我の発生もまた言語に求めることである。そこから、すなわち言語の社会性から、自我がなんらかの社会関係の中で発生したものとする誤解も生まれる。その点を解明してみたい。
 自我が言語以前の存在であることは、幼年期における意識の発生から言えることである。私が最初に私自身の存在に気づいたのは、赤子の頃這っていた私が、ある時障子のようなものにつかまって、はじめて立ちあがったときの、めざましい印象と結びついている。それは瞬間の記憶であって、すぐにまた無我におちいったが、その鮮烈な記憶は、その後の人生を通して、今になるまで残っている。また、やはり這っていたころ、濡れ縁から転げ落ちた時の、浮揚している不思議な感覚が、瞬間の記憶ではあるが、やはり鮮烈に思い出される。自我は、感覚の特異な変化において、強烈に発生するようである。その他にも、恐怖や、不安の体験などにおいて、幼年期の自我が、断片的な意識となって残っている。こうした幼年期の自我意識は、たとえ後年において記憶の改変が生じるとしても、擬似記憶などとはまったく別のものであることは、すでに幼少年期においてそれを回想していることからも確かである。
 もう一つ、言語と自我とが別物であることは、私自身が言語恐怖症であったことからも言える。私は幼稚園から小学初年までは、教師や周囲の生徒に対して緘黙をとおしたが、大人たちがそれを治そうとした。小学校では年老いた女教師が、特別に私を前に呼んで、文章を音読させた。私は萎縮しながら、ほとんど聞き取れない声で音読したものと思う。なかに先生という言葉がでてくるとき、とりわけ声に出しがたかった。なぜならば、それが目の前にいる女教師に呼びかけることと、同じに感じられたからだ。声に出すことによって、私は私自身を、女教師の前にさらけださねばならなかったからだ。たぶんそれはある種の防衛本能、個体保存の本能であったのだろう。私自身は、自ら発した言語によって攻撃されると感じたのである。
 音読だけではなく、それ以上に苦痛であったのは、文章、特に感想文を書くことであった。遠足の感想などを書かされると、まるで書くことができなかった。それでも書かなければ叱られたので、出来れば自分が書いたのではないと思わせる文章を書きたいと思った。特に、「ぼくは」と書くことは苦痛だった。そう書き出すことによって、自分自身の内面が、あられもなく外にほうり出され、その羞恥感にたえられない苦痛を覚えるのである。一言でいうと、言語は音声であれ文字であれ、私という自我にとっては敵であった。
 このことから、言語の本質について、いろいろなことが考えられる。言語は純粋な客観物ではない。単なる<もの>とはちがうのである。私がそれを音声として発し、または文字として表記するとき、私は私自身を客観物として私の外に投げ出している。それは客観化された私自身なのである。それゆえに、外界からの攻撃の対象となりうる。私の発した言語を媒介として、私自身に、身体的であれ、内面的であれ、害を受けるのである。
 これは言語の効用の、一方的見方であるという批判もなされよう。たいていの幼児は、言語を必ずしも敵視していないからである。むしろそれを積極的に利用して、自己にとって有利な立場を作るであろうと。その場合でも、言語が自己の内面を表わす、客観的媒体であることに違いはない。それが好意的に受け取られようと、敵意をもって受けとられようと、言語は自我の客体化であるという、言語の本質には違いがない。

 言語は、生命界では、群の間でしか発生しない。類人猿に発した、すぐれて集団的な生き物である人間は、自我以前の無意識の段階から、ルソーによれば、情念によるコミュニケーションをおこなっていた。脳の発達と自我の目覚めによって、自己の情念や考えを、分節的な音声によって外化することを発明した段階で、それは内面の表現手段となると同時に、集団の共有物ともなった。類人猿に見られる身体だけの関係から、外化された言語での関係への移行が、人間集団を特徴づける優越、言いかえれば、文明の原動力となったのである。
 こうした言語の文明における重要性から示唆され、また自我が、自己を言語において外化するという<自己疎外Selbst-Entaeusserung>において、客観的に見えるものとなったことによって、言語に自我の発生の起源を求めようとする考えもなされる。しかし、言語が集団間の現象であるからといって、自我もまた集団の現象に還元できるわけではない。たしかに集団の中で自己を表わすということは、人間社会においては言語以外にありえない。言語において客体化された存在としてのみ、人間は社会の成員となりうるのである。人間は<名>(もしくはなんらかの記号)を持つことによって、社会的存在となるのである。名は、それ自体が社会的に客体化された自我である。そこに自己自身の社会におけるあらゆる関係が凝縮されてしまうのである。私という自我そのものには、いかなる名もないのであるが、私が社会的存在として私を外化するとき、名はいわば私の客体化された幽霊として、誰の目にも見えるものとなる。しかし、私にとっては、私から離れて勝手に出あるく、幽霊以外のなにものでもない。名は、身体ですらないのであるが、時として私の身体のように扱われたりもする。そもそも、身体自体が、私のある種の客体化であるからである。
 いま身体についてはさておき、言語がこうして外界へと客体化された自我の姿であることが明らかであるならば、自我自体は依然として、言語のおよばない、主体自体に属していることは疑いないであろう。そもそも言語を自己の客体化として外界に投影するためには、自我自体が主体としての、対象に対する志向性の本体であることが、大前提となっている。この自我の志向性がなければ、言語はおろか、社会性も生まれないのである。こうして生まれた言語は、個々の主体によって積みかさねられ、集団の文化的遺伝子(ミーム)となることによって、いわば個々の自我を越えた<超自我>となる。言語こそが真の意味の<超自我>なのであり、幼少期の私が言語を恐れたのは、それが自己表出であると同時に、抑圧的存在であったからだ。
 人間は社会というエレメント(生息領域)以外には、生存の場所を持たない。単なる自然界は、魚が水に、鳥が空に暮らすという意味では、もはや人間の住むところではないのである。自然界は、社会を通じて、間接的に人間の棲み処であるに過ぎない。狩猟採集民であった頃の人間に与えられていた、自然の土地は、今日地球上のどこにも残されていない。だれもが、高度に文明化された社会システムに組みこまれて、そこでしか生きる場を見いだせないのである。こうした人類を作りあげた、大本の起源が言語であったと言えるかもしれない。自我の表出を言語的におこなうことによって、そこに客体化された集団の意志が現われ、それが集団の上に<超自我>として働くことにより、集団の結束を強めたのである。
 言語はまた、さまざまな自我の結晶として、それ自体が客観的な<もの>に近い存在として伝承され、教えこまれ、学ばれる。もし魂の観念の起源が、アニミズムのような漠としたものでないならば、言語こそが魂の客観的な存在を保証するものであったろう。言語自体が、自我の客体化であることによって、まぎれもない魂であるからである。人間同士の交渉は、類人猿の段階(もしくは子供のある段階)での身体的接触を越えて、もっぱら言語によるものとなったのも、この間接性が、すぐれて観念的存在である人間にとって、非常に有利であり、効率的であったからである。このようにして、自我とは言語的存在であるかのような錯覚が生まれたのである。
 たしかに言語によって他者と交流できるということは、言語の最大のメリットである。たとえどんな人間嫌いであっても、書物によって古人の声を聞くことまでも拒まないばかりか、むしろ積極的にそうするであろう。言語によって人間の交渉が、古今東西に開かれることは、人間の生存の可能性を、時空にわたって押し広げることである。これは単なる自我によってはなしえないことであり、さまざまな自我の結晶である言語が存在しての上で、可能になることであり、そこに文明として現われる<超自我>の積極的意義が認められる。しかし、それはあくまでも、自我の<自己疎外>の成果であることを忘れてはならないであろう。それは同時に、フロイトの言う文明のUnbehagen(不快)をもたらすのである。

2018年3月22日(木)
自我と身体

 言語は自我の客体化であり、ある種の身体に近いものであると述べた。ここで自我と身体の関係について、改めて詳しく考察したい。身体は感覚と切りはなせない。あるいはその表象は感覚そのものの表象化であるといって良いかもしれない。最も重要な身体の表象は視覚によって与えられる。人間の場合、身体は視覚において四肢および胴体を具えた存在として現われる。この空間における形体が、目を中心として、私の前に外化されているということが、身体の最も顕著な特徴である。いま私の手や腕が私のものと言いうるのは、それが物として、物体として、私の眼の外にあると同時に、それらの部分が他の感覚(特に触覚や運動感覚)との関連において、私に所属していると認められるからである。この視覚からの身体の立場が、基本的に自我の外化、自己疎外の最も顕著な意識をなしている。
 私は身体を所有しているが、それはなぜか私を私の外に押し出してしまう。私は私の身体そのものではないのだが、それが私に代わって、私としてふるまい、私として他者から扱われ、認識され、場合によっては攻撃を受ける。私はこのような身体を持ちたくないのであるが、私自身の意識に目覚めた時から、気に染まない身体によって私の意識は制約されている。逆に言えば、身体とは制約された私の意識、制約された自我なのであり、しかもそれが客体化された私として一人歩きするのである。自我はこの世界では、身体化の運命を与えられているのである。
 もし身体が内在的存在であったならば、私はこのような不自由を感じないであろう。身体が他の物体に対して外化されていることが、根本的な身体の問題なのである。視覚以外においてもそれは言いうる。聴覚は他在を告げるだけではなく、言語で述べたように、発声によって自己を外化する。触覚すなわち皮膚感覚は、対象との区別が視覚ほど明確ではないが、身体の境界を痛覚や圧覚で意識させる。そこに私の身体があることを告げ知らせるのである。味覚や嗅覚はさらに内在的ではあるが、やはり対象に対しての反応として、外物を意識させ、私自身がそれらにさらされていることを告げられる。
 最も内在的な身体は、臓器において感じられる、情動や情念である。しかし、情動・情念は自我意識において特別の位置を占めている。古来それらは肉体よりも魂・心に加えられている。身体の内奥にある、最も強力な感性であるといってよい。外的身体が、外部からなんらかの刺激や攻撃を受けるとき、真っ先に働く自我が、この情動・情念である。つまり、身体は身体をもって反応するのである。その意味で、情動・情念もやはり外化された自我であるといえる。それらは身体との関係において発現するのであるから。感覚表象から情動・情念に至るまで、それらは私の手、私の見る物体、私の聞く音、私の発する声、私の苦痛、私の味覚、私の嗅ぐ匂い、私の願い、私の欲望といったように、すべて私という意識に貫かれており、一くくりで私の身体と言ってよいだろう。私はそのようにして、私というものを世界の中に身体として投げ出し、客体化することなしには存在しえないのだ。この私の自己疎外、自我の自己疎外こそが身体の本質なのである。
 そのように私を身体として、世界に投げ出してしまうことから、私という自我のあらゆる苦悩が生まれる。身体のなかでも最も強力な部分、情動・情念が、必ずしも私の身体では満足しないのである。私はこのような虚弱な手足は要らない。醜い容姿は投げ捨てたい。外界から攻撃される身体自身が、私の敵となりうるのである。身体は私の弱さの徴表となってしまうのである。いかに私が強烈な意欲や意志を持とうと、身体として客体化された私が、それを阻む原因となる。身体にとらわれた自我は、たえざる苦悩の中でもがくほかはない。
 最も内在的な身体は、情動・情念であるとしたが、それでは、思考はどうであるか。情動・情念は自我のエネルギーであって、それがなければ、自我はこの世界に発現しない。そのエネルギーの余力が理知に向うとき、思考が生まれる。思考は自我の高い段階であるが、エネルギーにおいては、情動・情念とは比較にならない。情動・情念が安らいでいるとき、初めてまともに働き出す。すなわち、デカルト、スピノザが言うようには、理知によって情動・情念を抑えることは不可能なのである。この理知の無力が、一つには、考える実体としての魂なるものの観念をうみ、身体とは別のものとしたのである。思考について言えることは、それは情動・情念よりもさらに内在的であり、後者のように臓器に投影されることがなく、脳そのものの中の働きとして意識されるゆえに、なおさら特別視されるのである。だれも胸が痛むと言っても、胸が考えるとは言わない。ただし未開人においては、思考と情念が未分化であり、思考の座を腸に置いたりする。
 思考とは、基本的に主体と客体との関係においてなされる認識の操作であり、すでにこの主客というdichotomy において、自己外化としての身体の特徴が現われている。ここでの主体は、その関係をとらえるものとしての見えざる働きである。いわゆる純粋主観がそれにあたる。この純粋主観そのものは、いわば認識の機能であり、自我とは別物と考えてよい。自我はあくまでも具体的な実在であり、常に意識の同一性を伴うのである。思考はその点では、身体の消化や分泌に近い活動であるといえる。胃が食べ物の分子を分解するように、思考は表象を分析・綜合するのである。
 情動・情念は、動物において特に顕著であるが、顔や身体の様相や声において、さらに客体化を遂げる。むしろそれらを本来の客体化といってよい。動物同士、人間同士の間では、通常そのようにして情動・情念が伝わるのであるから。すでに身体という物体を持つこと自体が、自我の客体化なのであるが、内面の自我もまた、身体外部に向けて自己を客体化するのである。情動や情念のみならず、思考が音声や文字といった言語によって、自己外化することはすでに述べた。言語は物体化された自我・内的身体なのである。
 このように見てくると、自我とは身体そのものではないかと思われてくるであろう。それ以外の私などというものがあるのであろうか。すでに古代人が考えた魂も、デカルトの実体としての考える魂も、身体にほかならないとした。科学や唯物論が主張するように、それ以外に自我などはないのだと言うべきなのだろうか。その究極の自我については、すでに述べたことがあるが、ここではくり返さない。もっぱら身体のミステリーを探究したいと思う。

2018年3月26日(月)
自我と身体の無意識

 身体は基本的に無意識の機能である。細胞組織というある種の精巧な機械装置であり、細胞の化学工場なのである。感覚や意識も、それらのメカニズムや、化学反応に支配されており、それらの最終的生成物もしくは反応そのものといってよい。こうした物質的過程は、感覚表象や意識すなわち自我からは隠されており、ここで問題にする必要はないであろう。心という現象が物質的過程であるとしても、その過程そのものは全面的に意識外にあるので、問題とはなり得ないのである。自我にとって問題となる無意識とは、意識そのものをもつつんでいる、ある心的全体である。すなわち意識対無意識の関係における、無意識の存在の探究である。
 意識はある閉鎖的な、制約された存在であり、そのことの最も顕著な現われは、時間において現在に限られており、過去も未来も実在的には持たないことであり、また空間的にはある一点を中心とした視野しか持ちえないことである。しかしそのことからは必ずしも、心的全体が同じくそうであるとは言い得ないのである。自我が知ることは、単に意識が時空においてそのように制約されているという点だけである。この制約の認識によって、ある暗黒の認識が対立的に生まれてくる。<宇宙の鳥籠>という詩をとりあげてみる。

 見るものの情意とは
 無関係に見開かれる
 雉鳩の怯えた暗いまなこ
 星をめぐる黒い惑星の一つに
 わたしらの鳥籠がある
 それは滑稽で許されない光景ではないか
 こんな不条理に気づくためには
 天文学者であってはならない
 わたしは神の身になって
 わたしの鳥籠をのぞいてみたのだが
 見返される暗いまなこに
 囚人の夢よりもあさましく
 わたしの嘔吐は
 凍てつく空間に四散した

  ――夜男爵詩集「ネロポリス」より

 意識に対立する世界は、無意識の暗黒なのであり、そのダークマターやらダークエネルギーのさなかに、私という意識の鳥籠がおかれているのである。すでに身体の中にその暗黒はひそんでいるのであり、表面に現われた私の手や足でさえ、時にはその異様な相貌を見せることがある。意識の及ばない世界に取り巻かれているという意識、その戦慄と嘔吐の中に、自我は投げ出されているのである。独我論の絶望的な試みが常に頓挫するのも、この点においてである。自我は常に暗黒から身を守らねばならないのである。
 すでに「自我の階層」で述べたように、自我は発生段階においては、ほとんど情動・情念によって支配された自我である。この段階では未だ、無意識との対立はそれほど顕著ではない。植物的・動物的欲求と一致することによって、自我は無意識の本能と乖離することがないからである。フロイトの言う快感原則に従った自我である。この自然の本性に従った自我が、最も強力にして狭量な自我であり、いわば自我のホームグラウンドであり、自我は常にここに回帰する傾向を持つ。次の階層での自我は、理知による<現実原則>にもとづいた自我であるが、ここで初めて自然の本能・無意識界との乖離が発生する。ここでの心的メカニズムは、フロイトが言うように<超自我>による抑圧にもとづいている。超自我は、すでに論じたように言語そのものであり、言語とともに無意識界に貯蔵され、想起されることによって、自我を抑圧するのである。例えば、小児期におけるオナニーを止めるには、言語による叱責の他にはない。親に見捨てられた猿の子にはそのようなことがないので、死ぬまで止まらないそうである。
 理知的自我は表面の自我であり、それが人間社会において社会的人格として、すなわちペルソナ(仮面)として自我を代表するようになる。このことは先に人格の多重性として論じた。人間社会においては、人間とは客観化された自我にほかならず、それらは一種の物体として、あるいはせいぜい概念的操作の可能な個体として、集団の中に取り入れられる存在である。理知によって操作可能な存在としての人間が、いわゆる社会的人格なのである。アリストテレスの言うポリス的人間としての市民がこれである。それに対して奴隷や女は、単なる社会的道具であり、いわば社会の無意識層を構成しているのである。プラトンやアリストテレスにおいては、自然的必然と見なされている。これは理知の過大評価による社会的倒錯であることは明らかだ。現実には、こうした理知的人格による集団であるとされる国家(ポリス)は、絶えず本能による争いである戦争をくり返したのである。
 理知的人格が社会的要請であるのに対して、本来の人格すなわち根源人格である、情動や情念、および無意識界に根ざした人格は、絶えず社会に対して撹乱的要素となる。自我の根源の力がここにあるからである。いわば大地に触れることによって力を発揮したデメーテルの息子のように、絶えず無意識からのエネルギーを汲みとることによって、自我はこの世界での地歩をかためるのである。無意識の存在を強く感じさせるのは、記憶や想起よりも、思いがけない情動や情念の発生である。あたかも火山のマグマが地下からわきおこるように、心の深奥からふつふつとそれらがたぎってくる。一体どこにそのような情念や情動が隠されていたのであろう。しかもそれは私自身の情念であり、情動であることに間違いはない。私はそれをいわば私の第二の人格として意識するのである。しかもそれは、はるかに表面の私自身よりも力強い。あるいは、はるかに暴力的であり、破壊的である。この恐るべき無意識の深淵の存在を、古代人は自然の無機的力と同じように感じたのであろう。人間を超えた力を持つ神々として表象化した。ゼウスなどは天空の神であると同時に、性欲の権化でもある。あるいは、<運命>や宿命として、人間(神々でさえも)の力の及ばないものとした。
 意識は、すなわち自我としての意識は、この全自然界を貫く無意識の大海に浮かぶ泡沫のようなものであるかもしれない。意識はそのデフォールト状態においては、ある種の気分(Stimmung)または心的態度(Einstellung)にひたっている。そこにどこからともなく、表象が浮かんだり、変化したり、情意が動いたりする。それらは本来意識外から、すなわち意識の立場からは<無>から生じているのであるが、因果の連関の中にとらえることによって、あたかも当たり前のことのように思われるのである。これが基本的に(人間も含めた)動物的自我のあり方であるといえる。自我は無意識の働きを無反省に受け入れている。このような自我は、意識と無意識の境にある自我である。
 用語の混乱を避けるため、無意識(Das Unbebusste,the unconscious)とは原理的に認識不可能な心的、身体的、物質的力動の世界とし、無意識ではあるが身体の範囲に属し、かつ意識化可能なものを<前意識(UnterbewusstseinまたはVorbewusstsein,subconsciousまたはpreconscious)>としておく。日常的には、記憶や想起などの、意識化の機能を伴う精神活動や、情念などの無意識からわきあがる心の働きなどが、前意識と深く結びついている。思惟もまたその働きの半ばは無意識に行われる。これは計算能力や言語などに特に顕著である。むしろ意識が、それらの機能の速やかな働きを邪魔することさえある。楽器の演奏などはその典型である。この日常的範囲での前意識は、意識による統合の支配を受けているといえよう。意識はうまく前意識を使いこなすのである。前意識に欠陥があれば、すぐさま意識そのものに影響を及ぼす。記憶の病や、認知症や、精神病において、そのことは明瞭に現われる。この点では、身体的意識・動物的意識は、身体の全機能と一体となった働きであるといえる。すなわちこの段階での自我は、身体的前意識によって支えられている。精神分析で言う前意識(Vorbewusstsein)も、基本的にはここで言う前意識の範囲に属する。ただその機能が通常の記憶や想起のようにポジティヴではなく、ネガティヴに(すなわち抑圧的に)働くだけのことである。
 前意識から純然たる無意識界に考察を進めると、ここに私という意識に属さないなんらかの存在や働きが発現してくる。多元的意識すなわち多元的人格においては、人格そのものはすべて<私>と言う統覚によって、同一の私であることが確認される。それらを繋ぐのは基本的に記憶である。もし人格間に記憶の結合がなければ、例えば泥酔して意識のない私であるとされるものが、他者の語るところでは私として存在し、言語を発していたとしても、それを私と同一と見なす根拠である記憶が全く存在しなければ、私自身であるとは確定できないのである。この段階ですでに人格は無意識に沈んでいる。しかし他者の語る私の行動から、おおよそ私であることが認定できるであろう。ここまでは、私の自我の範囲としてよいだろう。
 さらに無意識界の奥へ進むと、そこから発現するものは、もはや私自身とは別の存在もしくは人格として、ある種の意識の分裂をひきおこす。そこへ進む前に、そもそも、意識において発現する表象界において、私以外の存在はすべて無意識界に属するといってよいのであるが、そのことをまず確認しておく。
 いわゆる物質・物体は表象界に属していないことは、バークレーが指摘して以来ほぼ常識であるが、それでは物質・物体はどこにあるのか。それが存在しないなどと言ってしまっては、バークレー流の観念論におちいるほかはない。普通にはそれは概念であるとされ、あるいは少なくとも概念的にのみ理解されうる世界であるとされる。物質の究極の姿である振動する超ヒモについては、誰もそれを見たわけではない。物質がそのようなものとして、概念的・数理的に理解されうるだけである。(*補説) 無意識界についても、基本的に同じことが言いうるのである。無意識界は、やはり概念として把握され、理解されるほかはないのである。しかしそれは単なる、存在しないものの概念ではない。超ヒモ理論が、万物の存在を説明し、かつその力動的構造を明らかにするように、無意識界の理論は、身体および身体に結びついた意識の力動的構造を明らかにするのである。
 私以外の存在はすべて無意識界に属する。この命題は、存在とは知覚されることである、というバークレーの命題と同様に、疑いえない。物質であれ、他者の存在であれ、それらの本質自体は、私の意識の外にあるのである。私はそれらの存在からの<サイン>を受けとるに過ぎない。夜の沈黙の中にひたっていると、私は物質からのさまざまなサインを<気配>として受けとる。低い音をたてているのはどうやら台所の冷蔵庫であり、そこで鳴っているのは陶器であり、その音からさらに他者の存在の気配が伝わってくる。部屋にとじこもっている私が気配として受けとるものが、部屋の外にある存在から来るものとして理解されるように、万物はすべて私の意識の<外から>来るものとして理解されるのである。
 私という意識は、万物を貫く、時空にわたって無限に近い広がりを持った無意識の海の中の、一個の孤島ににすぎないのかもしれない。少なくとも身体と結びついた意識はそのようなものであろう。意識は、すなわち自我は、たえず無意識からの浸透にさらされていると言ってよい。地球大気が常に宇宙線を浴びているように、意識は常に無意識からの影響にさらされているのである。地球人が、宇宙人の侵入を恐れるように、自我もまた、なんらかの無意識からの侵入を恐れている。それに備えて、意識は通常無意識界に対して、強力なバリアーを張っている。その一例が、知覚の経路であり、通常はいわゆる五感以外は閉ざされている。それ以外の経路から来るものは厳重に封鎖され、もしくは検閲され、抑圧される。いま一つは、カントの言う統覚の先験的統一であり、それによっていわば自我の城が築かれる。これは単に認識だけの問題ではなく、これが崩れれば<統合失調>いわゆる精神分裂を起こすことからも分かるように、人格全体が崩れてしまうのである。
 五感以外の経路から来る知覚は、いわゆるテレパシーや透視などの超常感覚であり、統覚の先験的統一をあやうくするものとしては、多重人格や意識の分裂、さらに神現象などがある。これらの<神秘体験>なるものは、自我にとっての危機をもたらし、人格の崩壊を起こしかねない。外なる世界に対しては、自我は少なくとも内的自由をもって、いかなる暴力や権力にも対抗しうるであろう。少なくとも心の自由までは譲る必要がないのである。しかし内なる無意識からくる勢力に対しては、自我の先天的バリアー以外には、ほとんど防禦のしようがない。それに対する最も有効な防禦手段は、本能的防禦である<不信>以外にないのである。こうした危機にさらされた時、最も手助けになるのは、科学的・合理的思考である。あらゆる神秘を排除することによって、合理的世界像を作りだすこと、これが科学の使命であり、同時に無意識界に対抗する最も強力な力となるのである。
 人類はおそらく、合理化への道を進むことによって、無意識界からの働きかけを排除する選択を行ったのであろう。魔術や宗教から科学への歩み、神聖国家から世俗国家への歩み、無意識から意識への歩みにおいて、文明を作りあげ、物質の支配の頂点に達した。その自然選択において、無意識界自体が抑圧され、強力なバリアー(すなわち防禦のための心的メカニズム)を備えた強力な自我が誕生したのである。いわば人類はシャーマンではなく、科学者になることを選んだのである。エクスタシーではなく、理性的認識を選んだのである。このことがまた、自我の不安定要素の一つとなることは、人類史の狂気の中に見てとれる。
 無意識界の探究が、精神的危機を伴うものであることは、以上のことから納得がいくであろう。ユングも発狂寸前まで行ったそうである。無意識界と和解しようとしたニーチェは、人格的に崩壊してしまった。たいていの人間は、<不信>の砦に閉じこもることによって、その危機から免れている。ここでは、これ以上の具体的記述はひかえることとする。いずれこの課題には、正面からとり組まねばならないであろうが。

(*補説)ショーペンハウアーの主著の冒頭に、「世界は私の目の中にある」といったような事が書かれているが、これは文字どおりにとってはならない。ここでいう世界は物質界の事であり、物も、そこから発する光も、光を受容する目も、すべて物体なのであり、すなわち、それらはすべて表象から抽象され、一般化された概念なのである。その概念同士の関係において、物体はそこから発する光が目に作用することにより、目の中で(あるいは脳の中で)表象界を生み出すという、因果的推論が可能となるのである。概念が概念の中にあるという、ヒュームの奇妙なパラドックスにおちいる必要はないのである。

2018年4月5日(木)
相互主観について

 意識は自我(Ego)に固有の性質であり、自我以外には存在していない。私(Ego)の世界の外にはひたすら無意識の闇が広がっている。あるいは私という意識をとりまく、無限の暗黒の闇がある。それにもかかわらず、私はあたかも世界が私の身体を中心として、無限に近い意識につつまれているかのように表象している。私は私の意識世界をなんらかの仕方で客体化し、拡大することによって、私自身の意識の狭隘さから抜け出そうとし、絶対化しようとしているのである。そのじつ、私の前に現われてくる世界は、全くの無意識界の闇を背景にしており、意識に現われる世界はいわば実体のない幽霊のようなものである。それが表象としての世界の実相である。
 客体化された世界、すなわち私自身を一個の身体として、それを基準にした世界認識においては、あたかも全世界が意識につつまれ、あるいは意識に浸透されているかのように把握されるのであるが、そのじつは、単に客体に過ぎないものを、意識的存在である私と同等の存在として見なしているのである。客体から意識をすべて排除し、本来の客体をのみ考慮するならば、唯物論または自然科学の考察方法となり、その心理学への応用が行動主義(behaviorism)である。人間もまた意識を排除すれば、単なる物体の作用・反作用に過ぎなくなるのである。意識を持つのはただ一人の私であるから、真に客観性が成り立つためには、私の意識の排除をすれば十分である。それに代わる概念としては、意識とは切りはなされた普遍的主観(観察者)のようなものを考えればよい。ただしそれもまた相対的であることは、現代物理学が明らかにしている。
 この世界の客観的事象、物体や身体や他者の存在などを理解するためには、意識などは考慮する必要はないのである。私自身の身体でさえ、意識とは無関係に、その組成や構造を理解することが出来る。感覚・情動・意欲、意識ですら、そのような客観的理解が可能であろう。ましてや、他者の存在や物体や生命体については、無意識の闇を背景にした物質現象として理解しうるのである。これが意識的存在としての私以外の存在の実相なのである。あるいは少なくとも、それの認識のあり方の実相なのである。
 しかし、視点を唯一の意識的存在としての私自身に向けてみると、私は私自身を理解するために、いかなる客観的世界をも必要としていない。私は私であり、私以外のなにものでもない。この意識の究極の事実は、私以外のいかなる客体をも必要としないのである。私自身が主体であると同時に客体であるからである。この意識の究極の事実を、私は私以外の客体にも投影する。世界に私以外の身体を発見し、ある種の類比によって、そこにあたかも(als ob)私と同じ意識が存在するかのような意識の投影をおこなう。それを相互主観(das gegenseitige Subjekt)と名づけておく。この相互主観による表象界の理解は、上記の自然科学の方法とは根本的に異なったものである。魔術的・呪術的といってよいだろう。しかし人間や社会や、さらには自然界の日常的理解においては、圧倒的にこの相互主観による世界理解が支配しているのである。
 この相互主観によって、まず私は私自身を、無数の私の中の一つとして位置づけてしまう。あるいは具体的には、無数の身体や物体の中の一つとしての自己自身を見いだすのである。私は私の表象世界の中で、意識として<反応>する存在として私自身をとらえてしまう。意識自体が、ある種の客体として、世界の中に投げ出されるのである。このような私の相対化、私の<没落>を運命づけているのは、もちろん私自身ではなく、ストア的な言い方をすれば、他から私に与えられた制約であり、私の本質に属するのではない。その根本には私の身体、さらに言えば、この表象世界そのものを生み出す根源の力がかかわっている。その根源の力、ショーペンハウアーに従えば、世界意志(Welt-Wille)によって、相互主観が生み出され、個物・個体の根本における同一性が啓示されるのである。
 相互主観の根源が世界意志にあることから、この主観のあり方は単に主観の側にとどまらないのである。客体の側にもこの相互主観の意識は及んでいる。未開人のアニミズムや汎生命論に見られるように、意識は物体の側にも投影されるのである。私の意志が身体を動かすように、物体の側にもなんらかの意志があって、それらが物体の現象を惹き起こしているものと感知される。原子や素粒子のような目に見えない物体が、この世界の現象の本体であると思惟されうるのも、この根源的な相互主観の働きによる。
 この相互主観は、身体的・動物的エゴの基本的存在のあり方であるといえる。自我はまず他我に頼ることによってしか、存在を開始しえないのである。ひたすら他我の身体に依存し、他我の行動を模倣することによってしか、自己自身を保存できないのである。それの生命的基盤のひとつが、脳におけるミラーニューロンであるが、その衝動はもっと奥深いところにあるであろう。相互主観を生み出すのは、世界意志の類的本質である全体への意志であるからである。身体的・動物的自我は、まず他我のエゴをおのれ自身に映し出すのである。そこから他我にあわせて、おのれのエゴを形成してゆく。その過程において、自我であるとされるものは、実のところ他我と共有する相互主観に過ぎないものとなる。相互主観は、基本的に行為の共有である。猿たちが互いに身を寄せ合って生活するのも、彼らが共有する主観すなわち自我は、身体的共感や、共通の行為に過ぎないからである。認識において共有できないものも、身体的共有、行為の一致において、ある種の類的合一が可能になるのである。認識が拒むものを、行為が受け入れる。これが身体的・動物的自我の類的本質である。そこではもはや、独立した自我のようなものは存在しない。類的な相互主観の中にひたりきった、類的エゴ、あるいはさらにいえば全体への意志と化したエゴが存在するだけである。人間も基本的には、このレベルの類的自我から抜け出すことはおろか、むしろ積極的にそこへと回帰するのである。
 とはいえ、エゴイスト同士がなんらかの共同社会を作る事が可能ならば、そこにはやはり相互主観が前提とされてくる。それを国家や民族のような、全体への意志そのものへと類的に止揚することなく、個と個の間の利己的相互主観とする事が、エゴイストのいわば社会的課題である。おのれの自己保存のためとはいえ、他者のためになんらかの利他的行為をなすこと、それなしには共同社会は成立しない。そこに動物的・身体的自我を働かせる余地がある。究極的自我は決して譲ることのできないものであり、意識的存在においては原理的にもそれは不可能なのであるが(だれも私という存在に変わることはできない)、この世界に生存するためには、なんらかの相互主観を形成することにより、他我との共存を図らねばならないのである。それがこの世界での個のサヴァイヴァルの必要条件なのである。
 動物的・身体的・類的自我は、生まれながらに社会的存在たることを強いられている生命体としての自我の、基本構造をなすものであり、それの構成原理が世界意志に発する相互主観であることを述べた。私はあたかも他者の自我と交換可能であるかのように、私の自己意識を相対化するのである。そこに生の喜びや、悲哀や、悲惨や、一口に人生のあらゆる喜怒哀楽、有為転変が待ち受けている。生老病死、四苦八苦の世界である。このような世界に七転八倒する自我は、釈迦がアートマンを否定したように、無い方がよい自我である。その反省から生まれるのが、自己自身の内面へと向う、反省的自我であることは、すでに何度も述べた。英語ではEgoとSelfとを区別するようであるが、ここで言う動物的・身体的・類的エゴをSelfとしておく。セルフとは自己自身を身体的に見いだすエゴ、すなわち再帰的(reflexive)エゴである。セルフはその点で相互主観に属するエゴである。それに対して真のエゴは、自己自身を映し出す反省的(reflective)エゴであるといえる。自己自身を映し出すとは、身体としての自己から離れた自己の意識を持つことである。これは二重の意味において、自己を映し出すのであり、ひとつは自己とは異なった生への意志に支配された自己の意識、ふたつはそれを意識している自己の自己の意識、この二重の意識において、真の自我の存在が明瞭になる。この高みから自己自身とその身体とを見下ろしている自己の意識が、傍観者の境地に到達したとき、ストア哲学で言う<心の平静>が生まれるのである。この真のエゴは、すでに相互主観を超越しており、世界はあるがままの<対象>に過ぎず、その対象化された世界の<イデア>のみが、純粋なエゴ、すなわち純粋主観の、認識に発現してくる。これがプロチノスやショーペンハウアーの言う、世界の美的超越であろう。
 それ以上の超越が純粋自我にとって可能であるかどうかは、すでに形而上学の実践の領域であるから、単に論じてみたところで仕方がないであろう。最も困難な道が、そこに控えているのであるから。

2018年4月18日(水)
頭脳と肉体

人間の好奇心や探究心の根源が、幼児期の性的好奇心から発していることを、喝破したのはフロイトであるが、それの超自我による抑圧によって、好奇心が知識一般に向うことによって、知性の発展が促される。現生人類が数万年にわたって、同じだけの頭脳を持ちながら、知識の発展において遅々たる歩みでしかなかったのは、原始の人類においては性的抑圧がなかったからであろう。社会が階層化され、経済的精神的抑圧が加わることによって、性的好奇心は無意識界に追放され、代わってそのエネルギーを代替的に満たすものとしての、知的探究心が芽生えたのである。幼児はその<のぞき>の衝動によって知られるように、性的好奇心が旺盛である。それが社会的に抑圧され、禁忌とされることによって、その衝動はあらゆる方面への知識への衝動として転化される。それを昇華などと称しているが、基本的衝動としては、性的好奇心と本質的違いはない。
 ガリレオ以来、望遠鏡の発明によって天体を<のぞく>ことが、人類の知的好奇心を代表しているが、世界の秘密を知りたいと言う衝動は、幼児が性的秘密を知りたいという、やみがたい欲求と、さして選ぶところはない(ちなみに、望遠鏡は男根の象徴であることは言うまでもなく、より大きな望遠鏡(勃起)への欲求はやみがたいものである)。一方は主として肉体の興奮を惹き起こし、他方は主として心情の興奮を惹き起こすという、質的違いは認められるが、どちらも同様な熱意と、生命の昂揚とを伴うのである。一方が恥ずべきこと、禁じられたこと、劣ったこと(いわゆる劣情)とされるのは、文明人の社会的偏見であり、生命自体に根本的に備わった、正常な好奇心であることに違いはない。それが常に正常に満たされれば、生命欲に発する根本の好奇心・探究心の満足となり、原始人の持つ正常な人格が形成される。その正常な人格の形成が、抑圧によって妨げられるとき、そのあふれる欲情は、知識欲や知的探究心へとふり向けられ、転化されざるをえないのである。しかしその知的好奇心は、あくまでも代用品であり、それでもって性的好奇心が究極に満たされるわけではない。だから知的好奇心は倦むところを知らず、貪欲で、果てしないのである。人類はどこまでも<知りたがり>であるのは、知的好奇心が、満たされざる性的好奇心の代用だからである。
 性的好奇心は抑圧されたまま存在しているのであり、それは決して知的好奇心や探究心によって、克服されたり、<昇華>されたりするものではない。いわば次元をことにする欲求であり、衝動である。知的好奇心が飽くことのない知識欲であるのに対して、性的好奇心は充足と復活との反復であり、その反復において果てしないものであるが、少なくともその充足には限りがある。その充足において、心身の平静がえられるのである。古代の快楽主義者や、シノペのディオゲネスが、性的快楽を肯定したのも、この点においてである。知的好奇心は、人知の能力に限界があるために、究極の満足を得られることはない。

 一体 この世界の奥の奥底で
 統べているのは何者か、それが知りたい。
 そこで働いている一切の力
 一切の種子は何か、それが見たい。
 それが判ったら よしない舌を弄んで
 えらそうに、しゃべり立てるにもあたらないものを。

 というファウスト博士の嘆きに代表されている(鴎外訳「ファウスト」)。ファウストに見られるように、人間は知と肉体との、二元的欲望を満たしていくほかはない。これらは相容れるものではなく、崇高と<劣情>という、人間の根源的二律背反、アンビバレンスをなしている。人類が肉体だけの存在に甘んじていた頃には、すなわち<楽園>に住まっていた頃には、<劣情>などと言うものは存在しなかった。人間の性的行為は、すべてが自然で、自然の好奇心によって欲望がかきたてられ、類の繁栄へと向ったのである。それが劣情を恥じるイチジクの葉を与えられ、性欲を知の木の実で代用することを覚えた時から、人間の人格の分裂が始まったのである。知が深まれば深まるほど、抑圧された<劣情>は無意識界に深く潜行して、人間の性行動を歪め、倒錯させていく。動物界で、これほど性的に倒錯した存在は、人間の他にはない。知の発展が支払った、あまりにも高い代償である。
 人類は、いまさら<自然に帰る>ことが出来ない以上、この性欲と知識欲という、二つの根本的欲求と、うまく付き合っていく他はない。両者は敵対関係にあるが、少なくとも互いに無関心であるならば、最も良い関係が築けるであろう。一方をコントロールするのは、男女間の愛情であり、他方をコントロールするのは、頭脳の理知的働きである。どちらもその究極の目的は、欲望の充足であり、一方は表象界から官能の刺激を受け、生命の根源を動かされることによって、その類の保存の意志を満たし、他方は表象界を概念として探究することにより、知的快感を刺激され、探究心として現われる自己保存の意志を満たす。性欲も頭脳も、同じ身体において存在しているのであるから、互いに撹乱し合うことが起こりうるが、相互に寛大であることが、その関係をうまく築き、調和のある生き方をするための必要条件である。とはいえ、これほど難しいことはないのであるが。

 「相変わらず 熱情の闘いだ。とっくに征服したと思った、欲情の反乱だ。
 神よ、いつになったら、私の心に平和が訪れる。
 私の理性は、なんとのろのろした闘い手なのだ。それが必要な時に、どれほど長く、理性を呼び立てねばならないのだ。わが哲学に、わが目蓋のなすことを要求する。埃が遠くからよってきたとたんに、それは閉じるではないか。」
  ――ヨハン・アントン・ライゼヴィッツ「夜の独白(断章)」より
(Noch immer Krieg der Leidenschaften, und Empoerungen laengst besiegter Begierden! ―Gott, wann wird's Friede in meiner Seele!
Und meine Vernunft, was fuer ein langsamer Streiter! Wie lang muss ich nach ihr rufen, wenn ich sie brauche! Ich verlange von meiner Philosophie, was mir mein Augenlied leistet. Es ist schon geschlossen, wenn mein Staeubchen von fern koemmt.――Johann Anton Leisewitz : Selbstgespraech eines starken Geistes in der Nacht)