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自我の探究(5)身体の彼方


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自我の探究(5)――身体の彼方

2018年4月27日(金)
記憶・確信・真理・自我

記憶違いと思い込み

 記憶が曖昧であるというのは、ある意味でそう悪いことではない。記憶に自信がなければ、判断や行動にあたってそれなりに慎重になりうる。記憶の問題において、むしろやっかいなのは、誤まった記憶を確信してしまうことである。それと同時に、自己への過信から、自己自身に問題があるとは思わずに、何かの不都合やいさかいが起こったときに、それの原因を他者のせいにすることが起こりやすい。邪推や疑心暗鬼はそうした場合に、自発的に起こるのである。
 しかし自己の記憶を信用しなければ、日々の生活において自信がもてなくなってしまう。他人から、自己の明瞭な記憶をくり返し否定されると、相手の正気を疑いながらも、しだいにおのれ自身の精神状態に疑念が生じてきてしまう。それほど、記憶も自己の人格的自信も、不確かなものなのである。これがいわゆるマインド・コントロールのおなじみのトリックである。
 かといって記憶に対する過剰な信頼は、妄想や妄念を生みやすい。そもそも記憶や知識といったものに、人間の自信が全面的にもとづいている訳ではない。記憶にないことや、知識のないことですら、あたかもすべてを知っているかのような、確信に満ちた態度をもってしなければ、この人生を独立した<おとな>として生きてゆけないのだ。それは動物的本能にもとづいた先天的自信といえるかもしれない。それは単なる知ったかぶりではないのであって、記憶だとか知識だとかを超越した、生物の根本的傲慢なのである。食いつ食われつの世界では、おのれをいかに強く見せるかが、生存の最大の条件なのである。
 記憶の誤りが妄想や妄念に、さらには邪推や疑心暗鬼に変わるのは、そもそも記憶などは単なる生存の道具に過ぎないからである。自己自身に誤りを認めることは弱さであり、生存には不利である。あくまでも他者にあらゆる不利の原因を転嫁しなければならない。しかし、その誤りにふと気づく時がある。ゆえなく敵意を抱いていたり、過剰に被害妄想に陥っていたりすることに、気づかされるのである。こうした多くの勘違いによって、ちょっとしたきっかけで、人間関係がいっそう悪化したり、過大な憎悪におちいったりするのである。そもそも人間社会は、勘違いと邪推によって、日々闘争に明け暮れる、憎悪の坩堝の世界なのかもしれない。そこには正しい記憶も、正しい知識もないのだ。理念どころか、妄想や妄念が跋扈する世界なのだ。
 ふと人類がおのれの誤りに目覚める時があるならば、この世界がなんと愚かに見えることであろう。

確信・真理・自我

 そもそも、人が何かについて確信を持つということは、どのような心理なのであろう。記憶に関しては、それが確かに思い出せるという認知(recognition)の意識がすべてである。単に表象が存在するだけではなく、ほかの記憶表象とnexusをなしていることが、記憶の確信を強めるのであるが、単なる個別の表象としてみた時、その強度や明瞭さといったことが、その表象の存在の確かさの根底となっている。しかし、単に表象が鮮烈で明瞭であるからといって、それがすぐさま確信に結びつくわけではない。そのような表象が幻覚である場合には、かえって不信が生じるからである。表象について確信を持つということは、単に表象そのものの性質ではない。そこになんらかの意欲が働くのである。
 存在(Sein)とは表象の知覚であるという命題は、表象そのものに関しては正しいであろう。表象が幻覚であろうとなかろうと、それがそこに存在していること自体に、疑いはない。しかし表象が現実存在(Dasein)であるかどうかに関しては、そこに確信の要素が関係してくる。表象が単なる表象ではなく、記憶と結びついて、存在の連関を作りあげているという確信が、そこに働くことによって、単なるSeinがその中に(da)あるものとして、Daseinとなるのである。Daseinすなわち現実の世界内での存在の確信は、表象そのものからは生まれない。むしろ表象を生み出す根源の力と関係しているといえよう。そうでなければ、現実と夢や幻覚との区別は不可能であろう。夢や幻覚は、そのさなかにおいても、それらであると疑うことができ、その疑いによって否定できるのであるが、現実とされる表象界は、理論的に疑うことは可能であっても、それによって醒めるということがない。最も強力な確信がそれに伴っているのである。もし同じ確信が、夢や幻覚に与えられたならば、それらはまさに現実そのものとなるであろう。
 問題は、そうした確信が、果たしてどこまで真理と関係してくるかである。夢に現実と同じ確信が与えられたならば、夢は現実と同じ実在性を持つであろう。現実とされるものから、確信が失われるならば、それらは夢に近いものとなるであろう。最も確かだとされるもの、その確かだとする確信はどこから生まれ、どこまで真理と一致するのか。デカルトが考える我を最も確かな存在としたのも、そこに確かさの確信が伴ってのことである。その確信がもし揺らぐならば、いかに考える我の存在であれ、確かなものは何ひとつないことになる(デカルトも悪魔があざむいている可能性を考えている)。そもそも、真理は確信と同一である必要があるのであろうか。単なる推理、単なる概念は、そこに確信が伴わなくても、単なる論理操作において、真理とされうるであろう。理性とは本来そうしたものであり、人間が理解するかしないか、理解したことに確信を持つかどうかは、真理そのものには無関係でありうる。人間の理知が、そうしたことを要求するのは、全く別の動機に基づくのであろう。
 確かであるという確信が、真理の基準となり得ないのならば、一体何故に確信は生じるのか。確信は常に錯覚と結びついている。錯覚は、生命にとってのある種の方便であるといえる。おのれに都合の良いように<現実>を作りあげるのである。その根本の衝動、生命力が、確信や信念を生み出すのであるとしたら、まさにプラグマティズムのいう単なるおこないの基準としての真理が存在するに過ぎなくなる。すなわち、確信することは単に行為にとっての真理なのである。この世界内に生存するためには、この世界が現実であるという確信を持たねばならないのである。このことは、この世界に当てはまるだけではなく、どのような世界にも応用がきく。宗教者が、あの世や天国や地獄を信じるのも、この生命の根本的な生存の意志の現われである現実性の確信の、誤まった応用であるといえる。しかし、そもそもこの世界の現実性の確信自体が、必ずしも真理ではないのである。
 理性についてはどうか。いかなる確信をも必要としない真理が、理性によって探究しうるとしても、それが真理であるという保証を、理性自体は持ち得ないのである。ヘーゲルがいかに、あらゆる現実性を排除した論理の体系を築き上げようと、その真理性を保証するものは何ひとつない。いわば積み木の城が、城そのものでないのと同様である。理性的なものが真理であるという確信は、天体の運行や、幾何学や数の理によって、現実界から転化されたものである。理性界そのものがまずあって、それが確信を生み出したのではない。現実が保証するものを、理性界があらためて現実界に差し戻すようなことは、ナンセンスであるといえる。
 単純な例をあげてみる。1+1=2という数式はどのようにして成り立つか。まず1というものが、個物の表象と結びついて、二個あるという考えを生み出す。これが通常の説明であろう。あるいは表象とは無関係に、概念上の約束ということもありえよう。いずれにしても1という概念は、表象界から抽象されている。子供は具体的に、おはじきなどの個物によって、その計算を教わるであろう。ところで、ある理性的存在において、1+1=1という数式がなりたっていた場合、それを否定できるであろうか。二個の個物が一個の個物となるという、表象界の事実において、この数式も成り立ちうるのである。どちらが理性的真理であるかは、理性そのものによっては決められない。生命に取ってどちらが有利であるかという、理性そのものとは無関係な事情によって、その真理性の確信が異なるのである。かりに理性界に独自の真理が存在したとしても、それはこの現実界と無関係である可能性が高いのである。
 真理は真理であると確信することによって真理となる。これが確信と真理に関する考察の結論である。そうであるならば、その確信にもとづく真理性なるものは、どこまで真理として信じて良いのか。それは結局、その確信がどこから生じているかによるであろう。すなわち、すでに述べたように、真理への確信、現実性への確信は、<生への意志>から生まれている。生への意志のあり方が、真理のあり方を決定しているのである。それ故に夢は夢であり、現実は現実である。個として生きるためには、1+1=2でなければならない。理性は無力であり、それ自体で真理を生み出すことはない。カントが純粋理性の<理念>について述べたように、理性の真理は単なる<要請>であり、言ってみれば願望に過ぎないのである。
 このように、確信や信念の本質を明らかにしてみると、そもそもこの世界や、この世界内での存在や、<自我>について、どこまで確実なことが言えるのか、まったくの懐疑におちいってしまうであろう。といって、古代の懐疑論者に倣って、判断停止(エポケー)をするわけにもいかない。少なくとも、生への意志=世界意志の産物である人間の知性や行動にとって、充分なだけの真理の探究は可能である。絶対を探究することの不可能を、これまでの哲学史が教えているのである。もちろん絶対精神などという、確信を越えた理性の盲信もおこなわれたが、それもまた生への意志の働きである<信ぜんとする意志will to believe>の誤用である。
 最後に、<自我>について、同じ基準を当てはめてみる。自我は確信や信念と、どのような関係を持つか。自我の発生について、すでに論じたように、最初に現われる自我は、おのれ自身を見いだすことであり、そこにはなんらの確信も信念も伴ってはいない。自我はただ単に<そこにある>のである。その意味では、単なる表象の存在と同一である。唯一の違いは、その表象が私自身の意識であることである。単なる表象は対象の意識でしかないが、自我は対象の中の、あるいは対象に伴う、私の意識の意識である。これは確信や信念の以前であって、その点では、表象が現実であろうと、夢・幻覚であろうと違いはない。すなわち、自我は確信によって生み出される真理とは、別次元の実在であるといえよう。それは真理というよりも、経験の立場から、意識のTatsache(事実)もしくはdatum(所与)というべきものである。しかも、その事実は、確信とは無関係であるゆえに、疑いえないのである。だれも自己自身の存在を、信じる必要はないのである。
 自我は真理とも確信とも無関係である。これほど独自の、特異な存在のあり方はないのである。自我は自我であって(Ich bin der ich bin)、真理の基準からした絶対者でも、魂でも、身体でも、物質でも、理性でも、神でもない。しかし、その唯一無二性において、絶対者であり、神のごとき存在であり、不滅である。あるいはこうした言い方が不遜であるならば、自我はその本質において、この世界とは異なった存在である。ゆえに、時間空間を超越し、理性界を超越し、どこか空としか表象しえない世界を故郷とする存在である。このことを確信したり、信じたりする必要もないであろう。私という存在は、この世界に存在するかしないかのいずれかであり、この世界に存在する私は、その本質において、この世界に属していないことを知り(すなわち世界内存在であると同時に、世界外存在であり)、この世界に存在しなければ、私は私の本質の世界に赴いているであろうから。このようにして、私は懐疑から逃れ、いわば真と偽とを超越した、平静の境地(アタラクシア)を、私自身に見いだしうるのである。

2018年5月16日(水)
無根拠としての自我・生命と自我

無根拠としての自我

 自我の存在の最大の謎は、もし自我があらゆる知的存在に普遍的な機能であって、特に個における違いのようなものが存在しないとするならば、何ゆえに私はこの肉体という特定の個体に存在しなければならないのかという、不可思議性である。確かに、私はいわゆる感情移入などによって、他者の身体に私自身を移入することができる。特にそれは小説のような観念の世界において容易に起こりうる。子供時代には、他者がどんな内的存在なのかに、特に興味を惹かれることがある。他者の所作をすべて真似してみることによって、他者の気持なり心理が、私自身のものとならないかと思うのである。これは人間ばかりでなく、動物に対しても同じような考えを抱く。動物と同じような所作をして、動物が何を感じ、何を考えているのかを知りたいと思うのである。
 このような自我における共感は、感情移入のような、心情の領域で起こりやすい。人や動物が喜べば、私自身も同じ感情がわき、人や動物が意図していることを、私自身も比較的容易に見抜くことが出来る。動物界ではおそらく、自我の共感はもっぱら、心情や意志や意欲や衝動の領域で果たされているのであろう。人間においても、基本的にはこの動物的レベルでの自我間の共感が、圧倒的に相互主観を形成しているのであろう。こうした共感においては、自我の存在は少しも不思議ではない。むしろ他の自我に向かう傾向そのものとして捉えられるのであり、自我は一種の空虚感であり、欠乏と感じられるのである。ここでは、自我は圧倒的に生への意志によって支配されているといってよい。生への意志の根本は、類の本能である<全体への意志>であり、これに個体保存もまた従属しているのである。
 それでは、本来の自我はどのようにして生まれ、どのような存在感であるのだろうか。少なくとも、生への意志に密着した、動物的、身体的自我においては、おそらくどの個体においても、自我意識に大差はないであろう。大差はないばかりか、ひょっとして同一でありうるのである。私がもしライオンの身体や、カエサルの身体や、クレオパトラの身体や、カジモドの身体に、私自身を移入したとしても、身体に対する違和感があるにしても、<わたし>が私自身であることに何の違和感も感じないであろう。私は巨大な力を持ち、優れた肉体や知性を持ち、女性の体を持ち、不具な体を持ったとしても、私が私であることにとりたてて違いを覚えないことであろう。それほど私の意識そのものは身体とは無関係に同一でありうるだろう。私とは、さまざまな差異を持ったあらゆる身体において、同一でありうるのだ。このような私にいかなる唯一無二性がありうるだろう。自我はあらゆる身体的生命に普遍的な意識である、ということになろう。
 しかし、最初に述べた、自我の最大の謎については、このことによって解決がもたらされてはいない。なぜならば、なぜ今私はこの私であって、道端に寝ているこの犬の自我ではないのか。あるいはあの人物でも、この人物でもないのか。もし自我があらゆる意識的存在に普遍のあり方であるならば、そこになんらの特殊性もないならば、決して私の唯一無二性の意識は生じないはずなのである。それなのに私はこの私以外のなにものでもない。このことを解決しなければ、自我の謎は解けないのである。
 単に肉体という身体に分かれているという、個体性の問題ではないことは、私の臓器を、他人のそれと交換できることからも明らかである。私は私の自我を他人のそれと交換できなければならないのである。動物的自我においては、それは比較的容易に起こりうるだろう。身体同士が抱き合えば、その温かみがおのれのものであるか他人のものであるか、容易に区別はつけ難いであろう。動物はそのようにして、自我と自我との間の違和感を失うであろう。ここに解決の糸口がありそうである。自我の唯一無二性は、身体もしくは肉体からは生まれえない。そうならば、身体ではないものから発する自我とはどのようなものか。 身体のなかで最も身体らしくないもの、すなわち思惟もしくは思考から生まれる自我こそが、自我の特殊性の意識の起源であるといえそうである。
 自我に目覚めるということは、己自身の存在に気づくということであり、それはある種の思惟なのである。デカルトが<考える私>というときに、その言葉を厳密に取るならば、想像や感情や気分や意志などを排除した、純粋に考える私でなければならない。そこに生まれてくるのが、唯一無二の存在としての私の意識なのである。この考える私は、私自身の存在を見つめる私であり、私自身を対象としながらも、そこに私自身の意識以外のなにものをも見ない私の意識である。それが思惟であるのは、そこに必ずある種の不可思惟性すなわち不可思議の感が伴うからである。思惟しようとしてもそこに思惟が及ばない、そのもどかしさが、自我の意識の根本の属性であるといって良い。思惟はなんらかの根拠に基づく、概念の働きである。ここに概念が働きえないのは、自我の意識にはなんらの根拠が見いだせないからである。すなわち自我は根本において無根拠(Ungrund)な存在なのである。無根拠な存在とは、幾何学で言えば公理にあたるそれ以上証明できないものであり、むしろ証明の根底となるものである。あるいはあらゆる論証の大前提となる、根本の無定義語であり、それ以上は遡ることができないものである。自我においても、認識の根底にある、無定義語が見いだされるといってよいだろう。認識はそこから始まるのであり、認識を根底から支えるのが、自我であるといってよいだろう。
 このような無根拠としての自我は、しかしカント哲学におけるような先験的機能とは異なったものである。それは何よりも<存在>なのであるから。意識に現われた<わたし>の存在なのである。この私の存在は、私自身が見いだすほかはない。いかなる抽象や、概念によっても、それは見いだせないのである。これが私の存在の唯一無二性の意味するところである。私は私を一般化することはできても、その一般化によっては私を見いだせないばかりか、私自身を外化し、自己疎外することによって、私自身を世界に譲り渡してしまうのである。<世界内存在>というありがたくない存在の様式によって、私は私自身の唯一無二性を失う。これが世界における私の<没落>である。自我は<肉>となることによって、この世界に発現し、この世界のあらゆる苦悩にまみれねばならないのである。自我のこのような運命について、自我自身にその根拠を求めても無意味である。少なくとも、この世界の本質と自我の本質とは、根本において異なっていようからである。本質を異にするものが、何故に一つの世界を形成するのか、これについてはまた別の解答を求める外はない。一つだけ言えそうなことは、自我のこの世界からの救済は、自我自身に求める外はないということである。自我の唯一無二性、無根拠としての絶対性に、自己救済の可能性を求める外はないのである。

*  *  *

生命と自我

 本質を異にするものが、何故に一つの世界を形成するのか、という問に対しては、自我と生命との関係が、その解明の手がかりを与えるであろう。自我が唯一無二の存在であることの理由として、個体の自己保存に対する生命の戦略から、説明が出来るという考えがある。種の保存、類の持続の手段として、たいていの生命は個体に分かれることによって、全体的絶滅の危険の可能性を少なくしようとする道を選んだ。全体であると同時に個体であることによって、例えばチーターの子供は、百のうち十数頭が生き残る。魚類にいたっては、零コンマ以下の生存率で成体になる。個体の能力のわずかな違いが、サバイバルの可能性を高めるであろう。このことの反映が、知的生命体の意識においても当然現われるであろう。個々の意識は、唯一無二であることによって、その個体性の維持に有利な条件を与えられることになる。有利な個体性こそが、種や類を持続させていくのであるから、生命は積極的に自我を発展させたと見てよい。<わたし>と<あなた>とが同じ自我であっては、個体保存にとってははなはだ不都合である。ここに生命の根本のエゴイズムがある。<あなた>が<わたし>と同じであったならば、<わたし>は<あなた>を食らって、生き延びることはできないであろう。生命はそうしろと要求しているのである。
 この考え方は、これまで解決できなかった問題、すなわち自我と世界意志との接点についての解明にヒントを与えてくれるようである。何故にこの世界に自我は存在しなければならないのか、この地獄のような苦悩の世界に、自我はなにゆえに引きこまれ、加担し、共犯者とならねばならないのか。一言でいえば、世界意志が自我を必要としているのである。少なくともこの生への意志として現われる世界において、生命の世界戦略の一つの手段として、自我をこの世界に呼び込んだのである。これが身体的自我、動物的自我の正体である。これが釈迦の言う克服すべきアートマンの正体である。この世界意志と一体化したアートマンは、さらに類的意志と一致して、集団のエゴとなり、集団間、人種間、国家間、宗教間の相互殲滅をくり返すのである。
 生命が、その存続の手段として個体に相互に固有の価値を与え、個体間のサヴァイバルの闘争の有力な要素としたことによって、単なる個物とは違った、生命特有の個体のあり方が発生したのである。誤解を恐れずに言えば、「一つ一つ違ってみなよい」のである。それが類にとって、存続のチャンスを増やすならばである。生き残った個体が、類の生命をつないでいくのである。知的生命体においては、各意識の特異性、すなわち自我意識の強力な個体が、集団の長になり、多くの子孫を残したのである(ジンギスカンの遺伝子を受け継ぐものは、数千万人いるとされる)。シュティルナーが言うように、人類史においては、王や皇帝のみが真の<エゴイスト>であった。
 このような生命体に固有の個のエゴイズムは、やはり生命体に固有の全体への意志とあい対するようであるが、個のエゴイズムが、全体への意志の副産物であることを思えば、そこに矛盾はない。エゴイズムそのものが類の存続へ奉仕し、類の繁栄をもたらすからである。個のエゴイズムは、知的生命体の意識においては、さらに微妙に分化して行き、わずかな民族的、文化的差異であっても、相互に殲滅しあうまでになる(バルカンの紛争など)。差異そのものがエゴイズムの価値であるのに、そこに全体への意志が類への衝動として現われることによって、他の集団への生き残りの闘争へと、あるいは征服による隷属化へと向かうのである。こうした人類史の絶え間ない闘争は、人類を最も繁栄した生き物へともたらしたのであるが、その根本の衝動が、個の生命に与えられた固有の自我の躍動なのであった。その意味で、人類史はヒーローの歴史であるといえよう。
 しかしヒーローの歴史はすでに終わり、生命の歴史は人類において行き止まりに達している。生命の世界、さらにはこの世界そのものに、批判的反省が生まれ、自我そのものに内面へと向かう契機が生じる。この内面的自我について、それがどこまで生命的自我と関係し、それを克服できるかを次に考察する。内面的・反省的自我の発生は、その淵源が思惟にあることをすでに明らかにした。思惟は基本的に概念の世界であり、概念そのものは生命とは本質を異にしている。概念自体は非時間的、非空間的であり、生命のような発展や進化とは無縁であり、それらを思惟するに当たっての、単なる論理の道具であるに過ぎない。生命の発展や進化が、概念的に思惟され、理解されうるからと言って、それらが概念そのものであるのではない。ベルグソンに倣って言えば、生命は躍動し、概念すなわち思惟はそれを静止的にとらえる。この思惟によって静止的にとらえられた内面の自我が、唯一無二性の意識としての純粋自我である。しかし同時にそれは、概念ではとらえることのできない不可思惟性であることもすでに述べた。自我の唯一無二性は、生命が仕組んだものであることは考えられる。それは生命にとっても有利なことであるから。しかし自我の不可思惟性はどうであろうか。思惟は生命を、意志を、概念の関係においてとらえ、根拠づけることができる。内的自我が生命現象であるならば、同様に根拠づけることが出来るであろう。しかし<わたし>の存在の不可思議性が、それを拒むのである。確かに自我は生命の躍動とともにある。しかしそれを思惟すると同時に、自我はまったく別の顔を見せるのである。それは生命とはまったく違ったところからやって来たとしか、直観し得ないのである。そして生命とともにあることを喜びさえする。存在の幸福感でもある。しかしその幸福感は、少年期のわずかな期間に限られている。生命の実相に触れることにより、それは過去の至福の思い出と化してしまう。ただ自我の存在の不可思議感だけが、一生を通じて消え去らずに残る。
 もし生命があらゆる苦悩の根源でなければ、自我は生命と一致したままに、その素性を自ら問うこともなく、幸福にその存在を謳歌することであろう。生命に対抗しうる、唯一の可能性として、自我は自己自身を探究するようになる。かりにイデア界が存在したとしても、そこに救済されていく<魂>そのものはイデアではない。プラトンの自我そのものなのである。イデアによって思惟が可能になるからといって、思惟そのものがイデア界におもむくわけではない。真の救済の主体は、あくまでも自我なのである。そしてこの自我は、生命からの救済を願っているのである。ここには自我と生命の関係の、最大の難問がある。果たして自我は、自己救済を<願う>ことができるのであろうか。意志が意志自身にそむくことが出来るのであろうか。生への意志の否定が、生への意志から出てくることは可能であるのか。自我がもし生への意志の単なる傀儡でなければ、このことは可能になろう。救済は<願う>のではなく、自ずと自我から発するのでなければならない。もはや何ひとつ願ってはならない。ひたすらおのれ自身を見つめることによって、自我は自ずと自己自身に返り、自ずと自己救済を遂げるのでなければならない。ショーペンハウアーがイデアの純粋観照においては、あらゆる主観性を排した純然たる客観性、Weltauge(世界の眼)を条件としたのも、同じことを言っているのであろう。この Weltauge としての純粋自我が、生命から離脱した状態の根源の自我の姿なのである。
 このような自我が果たして世にいう自我(エゴ)であるかという疑問が生じよう。肉体でも、魂でも、生命でもない、理性でも概念でもなく、さらになんらの意欲すら持たない、この空虚そのものであるようなものに、どのような意味があるのかと。これは自らが空そのものになってみなければ体験できない、形而上学の最終的な実践の境地であろう。真理は自ら体得する他はないのである。体得してのちは沈黙するほかはないのである。何かを語っている限りは、まだ救済の境地にほど遠いのであるから。これはそこに到るためのメモのようなものである。

2018年5月30日(水)
理解VS共感

 自我の不可思議・不可解性について、全くそのような意識を持たないという人が多くあることは、それ自体が不可解である。これほど明瞭な意識の事実を認め得ないということは、根本において人間の認識にはかなりの差異があるということであろう。自我の不可解性は、それの根源を非概念性に求め、かつ生命的要素の排除に求めたのであるが、自我が不可解でないという主張には、概念と生命的身体という両面からの根拠があるのである。
 自我の存在は誰しもが認めるであろう。ただしそれが身体と同一であるという認識の根拠においてである。私の身体、私の手足、私の脳、私の思考、私の感情という、身体との結びつきにおいて、だれもが<わたし>を主張しうるのである。そこになんら不可解さはない。さらに言語という概念的道具において、だれもが<私>という主語になりうるのである。私は私の存在を、音声および記号を介した<私>として概念化し、それを他者に伝えると同時に、他者もまたおなじ概念的<私>として、彼らの自我を概念的に伝達しうるのである。このような自我は、身体的・動物的自我であり、人間においてはさらに概念化された自我なのである。そこには共感が働くと同時に、概念的理解が可能になるのである。しかし、この共感と理解については、さらに立ち入った考察が必要であろう。それによって、何故に純粋自我の不可思議・不可解性が、共感においても、理解においても、受け入れられないかが明らかになるであろう。
 動物はその生の根本において、ほぼ無意識に生きていよう。すなわち本来的意味での自我=意識をもたない、あるいは持っていても萌芽的な身体的自我にかぎられていよう。その点で動物の自我は、身体的個体性がすべてであるといえよう。人間もまた、その生のほとんどの営みを、動物と同じレベルで過ごしている。身体のないおのれなどは、まず考えることがないであろう。このレベルで働く認識は、ほぼ無意識もしくは先天的機能に支配されており、そこにはなんらの概念的理解は必要とされないのである。赤子は本能的に母親の乳房に吸いつき、成年男女はいやおうなく、互いの性的魅力にとらわれ、性行為へとおもむく。この認識の関係を、動物相互の間の<共感>と名づけておく。人間同士の間の関係は、ほとんどがこの動物的共感から成り立っていると言ってよかろう。その純粋な働きは、だれもが知っているように、人間とペットとの間で最も明瞭に現われる。そこではなんら概念が邪魔していないからである。さらには、人間とペットとの間は、生の根源における共感が働いており、それ以上でもそれ以下でもない、生命感の共有があるのである。共感はまた身体の接触において最もよく現われる。俗に裸のつきあいとか言われるのもそれである。動物はもちろん、人間の子供たちも、身体的にじゃれあうことで、互いの共感を確かめ合っているのである。
 この無意識の、あるいは本能的な共感の関係においては、自我はきわめて曖昧な状態にある。場合においては、共感において成立した集団の中で、自我は集団の自我と一致する。集団が危機におちいれば、集団の自我は一致して怒り、集団の目的は同時に全個体の目的となる。すなわち、他者へと向う共感は全体への意志の一つの表われなのであり、全体のエゴを形成する本能的衝動なのである。この共感によって作られた社会は、必然的に全体主義社会となる。あるいは思想的要素を排除した言い方をすれば、<類社会>とでも名づけておこう。社会そのものは類的本能から成立するのであり、その点蟻や蜜蜂の社会と人間社会に違いはないのだが、特に類本能を強調するためにこの用語を持ちいることとする。類社会を作るのは、もちろん社会契約でも、経済生活でもなく、個体間の動物的共感にもとづく相互依存の本能、すなわち全体への意志である。この意志の肥大が、さらに国家や支配階級を生み、民族間の闘争を生み、あらゆる種類の戦争を生み出していくのである。
 しかし平和的な共感もあるではないかと、反論がなされるであろう。平和は類社会のうちにおいては可能であるが、類社会どうしの間では、常に反目が支配するであろう。類社会は一個の個として、すなわちエゴとしてふるまい、他の類社会のエゴを敵対視するからである。ここではエゴとエゴとの間の共感が働かないのである。共感はエゴを弱め、全体へともたらす。それは類社会のうちにおいては効果的に機能する。それが類社会どうしの関係にまで及ばないのは、生命のいま一つの根本の原理である弱肉強食の掟がここでも働くからである。エゴは、生命が類の存続のために個体に仕掛けたトリックであると、既に述べておいたが、すなわち生命は根本的にエゴイストなのであるが、ここでも全体的類の存続のために、類社会どうしは滅ぼしあわねばならないのである。それは共感とは裏腹の生命の原理である。
 単なる個体どうしの間でも、共感がすべてではない。動物はまず親によってその縄張りから追放される。親のエゴが共感に打ち克つのである。それによって類の存続が守られる。人間の場合、家族的結びつきは動物の場合よりも長いのであるが、そこには単なる共感とは別の、ある種の利害関係が集団を支配するようになる。イスラム社会では、ある年齢以上の親はもはや働かず、成年でなくても子供の労働によって扶養される慣習となっている。親自体が、その個体保存のために子の労働を必要としているのである。弱肉強食は、家族どうしでの間の競争となっている。その家族の頂点に立つものが支配者・統治者である王や、皇帝や、貴族や、専制君主である。この階級的構造において、弱肉強食は、より大きな集団の形成へと向うのである。ここでは敵対と共感とが、すなわち個が個を食む争いと、全体への意志とが、人類社会の文明を作りあげている。
 個と個の間の共存を促すものが動物的共感であることは疑いないが、それには生命としての限界がある。その裏腹の原理としての、適者生存の法則があるからである。しかし共感が動物および人間社会の、最も強力な結合力であることは確かである。それにもとづいた社会は、もはや言葉を必要としないくらいである。以心伝心とか、阿吽の呼吸とか、空気を読むなどといった言い回しが、その社会を象徴している。言葉で説得することが不必要なのである。あるいはそれを極端に嫌って、腹のさぐりあいの世界となるのである。このような社会では、言葉の意義は軽い。嘘をつくなどは日常茶飯事であり、上は政治家や、総理大臣から、下は幼稚園児まで、嘘はお手の物である。文芸においても、「言い尽くしてなにかある」と芭蕉もいみじく述べている。ここで軽視されているのは、言語が本来持っている論理性であり、概念的思考である。これを<理解>と呼ぶことにする。
 単なる共感は理解ではなく、あくまでも共感に過ぎない。何となく分かればよいのであり、分からなくても気分的に納得しているのである。このような共感的、動物的レベルの人間間の交通に、新たな次元をもたらしたのが、概念的<理解>の発見であった。これを可能にしたのは、言語を分析的に把握しようとしたギリシャ人に始まる、哲学的思考であった。ソクラテスやプラトンの執拗な概念の探究から、単なる曖昧な共感などというものは、そのまま真理の基準とはなり得ないことが明らかにされていった。真理であるためには、ことがらの概念的・論理的な検討が必要なのである。それを相手に言語によって伝え、<理解>をもたらすことが、真理の基本となる。概念は既に言語として客体化されており、そこには共感などの心情的要素の入り込む余地はない。言語による概念的伝達は、論理や論証によって、初めて相手を納得させうるものとなる。この論理的合理性を、共感に対して優位におくことによって、初めて学問や科学が成立するのである。
 ギリシャ・ローマを自己の文明の濫觴とする西洋社会においては、この言葉による論理性、合理的思惟が、少なくとも社会の最も良い部分を形成してきた。真理は言葉による議論がすべてであり、以心伝心、阿吽の呼吸、<空気>などは問題にならない。それらは遅れた社会の風習である。たとえそれが、文芸においては良い効果をもたらしたとしてもである。今その例を「徒然草」とセネカの対比において見てみる。

 「ひとり燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は、文選のあはれなる巻々、白氏の文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなる多かり。」(「徒然草」第12段)

 「彼ら[賢者]はあらゆる時代を自己の時代に付け加える。彼ら以前に過ぎ去った年月は、ことごとく彼らに付加されている。われわれがひどい恩知らずでないかぎり、かの聖なる見識を築いてくれた最もすぐれた人たちは、われわれのために生まれたのであり、われわれのために人生を用意してくれた人々であることを知るであろう。他人の苦労のおかげでわれわれは、闇の中から光の中へ掘り出された最も美しいものへと運ばれる。われわれはいかなる時代からも締め出されることなく、あらゆる時代に入れてもらえる。またもし広い心をもって人間的な弱点の隘路を出て行きたいならば、そこには自由に過ごすことのできる沢山の時間がある。われわれはソクラテスと論じ合うこともでき、カルネアデスと懐疑を共にすることもでき、エピクロスとともに安らぎを得ることもでき、ストア派の人々とともに人間性を打ち破ることもでき、またそれをキュニコス派の人々とともに乗り越えることもできる。自然がどんな時代とでも交わることを許してくれる以上、この短くも儚く移り変わる時間から全霊を傾けて自分自身を引き離し、あの計り知れない、永遠な、またわれわれよりもすぐれた人々と共有する事柄に没入しないでよいであろうか。」(「人生の短さについて」14節より、茂手木元蔵訳)

 同じテーマをあっさりと情緒的に記す兼好に較べて、セネカのくどいまでの論理的説得の文章こそ、西洋文明の真髄なのである。このような概念的理解に基づくならば、人間関係、社会関係の基本は、共感ではなく、合理的説得であることが肝要なのである。ここに西洋人の理想主義が生まれる。進歩の観念も生まれてくるのである。共感に対する理解の優位が、近代文明を作りあげたのである。社会や国家は<契約>による相互理解によって、新たに作り直されねばならない。戦争は、人類の平和理念によって、相互の理解を図ることで、回避の可能性を与えられる。たとえそれがいかに理想主義的であり、無力な理念であろうとも、相互理解以外には、戦争を避ける手段はないのである。共感に頼る限り、人類の諍いと戦争はなくならない。基本的に共感は盲目的だからである。
 そして、自我意識の発生と、その強化もまた、この動物的生に対する、概念的・理性的理解の優位の産物であるといえよう。なぜなら、これまで単なる共感の中に朧(おぼろ)に認識されたに過ぎなかった自我が、そこに概念的思惟による理解の目が向けられた時、はじめて不可解な存在として現われてきたのである。自己自身を概念的思惟の及ばない存在としてとらえた時、そこにはじめて思惟は、おのれ自身の壁を見いだすのである。フィヒテはそれを逆手にとって、自我を世界の構成的絶対者としてしまった。これ自体は合理主義の行き過ぎである。そのように概念化しなければ、自我のこの世界における意味を見いだせなかったからであろう。
 概念が、プラトンの用語ではイデアが、この生命界に対する独自の実在界(超越界)であるのに対して、自我は生命でも、概念でもなく、それ自体時空を超えた<無根拠>な存在者として、共感も、理解も及ばない、唯一無二のあり方において、自己自身を把握するほかはないのである。それはただ自己自身が見いだすほかはない存在なのだ。であるから、その根拠や理由を問われても、もし答えうるならば、それはもはや自我自体ではなくなってしまう。他者が、動物的自我はいざ知らず、不可思惟性としての自我をおのれの中に見いだしえないならば、それは理解させることも、共感によって伝えることも不可能なのである。たぶん人類の大多数は、このような自我の存在について考えることも感じることもないのであろう。それはプラトンのイデア界を見る人が稀であるのと同様であろう。洞窟の壁に映った影が唯一の実在である人類の大多数にとっては、自我とは身体であり、生命的現象であり、脳の機能であり、それ以上でも以下でもないのであるから。

2018年6月6日(水)
意志と自我―救済の原理

 脳がその固有性によって、固有な意識を生み出すのであってみれば、それぞれの意識が異なっているのも、それぞれの器官が少しずつ異なっているのとなんら違いはなく、単なる器官の固有性の反映に過ぎないということになる。意識自体が物質現象であってみれば、意識の固有性も、物質の構成の固有の違いというに過ぎない。それを意識するかしないかは、なんら本質的違いではない。自我意識が他者の意識と異なっていると感じるのは、私の身体が他者の身体と多かれ少なかれ異なっているのと同様なのである。私の脳の働きの違いが、私の自我の固有性に他ならない。私が他者の自我ではないのは、私の脳が他者の脳ではないからだ。もし脳を交換できるならば、私は他者の身体において、私の固有の自我を見いだすであろう。意識があるかないかは、その点に何の影響も与えないのである。意識自体が脳の機能であるからである。その機能の違いを、私は私の自我の固有性と感じるのである(*)。

(*)一口に<この脳に、この自我>というテーゼで言い表わせよう。

 このような科学的見地からの自我論は、論駁しようがない。客観的な事実だからである。このように自我の固有性が説明しさられる時、私の自我は暗く沈んでいく。そこには生への意志が願望として現われているのである。自我の固有性が単なるメカニズムに解消されてしまう時、生への意志もまた何らかの挫折を覚えるのである。このことから、自我と生への意志とはある種の一体性を持っていることが分かる。自我の不滅、超越性の根源は、生への意志の根源と、本質において連なっているのである。自我の否定は、生への意志の否定なのである。
 ある無力感、沈鬱な挫折感、生命力の減退、それと同時に自我の明証性、確信、不滅性も薄れてゆく。ある種の倦怠感、疲労感、無気力、眠りへの後退、一言で言えば死への衰退が、自我の解体とともに始まる。それは超越ではなく、単なる虚無への凋落である。無の安らぎこそが願わしいものになる。自我は生への意志とともに発現し、生への意志の衰えとともに没落する。そこには超越への自覚ではなく、悲哀に満ちた死への願いがある。自我は本来が空であるがゆえに、風船のように生への意志の息しだいで、膨張もし、しぼみもする。もし単なる無力感が生への意志の否定に向かうならば、自我は単なる無を志向する虚無的存在にとどまるであろう。酔生夢死のなかに己れを忘却しさるであろう。そのような自我の死は、決して死の秘儀にあずかることはなく、無の中に解消されることをひたすら願うであろう。
 自我は無力感によっては自己超越を果たすことができない。それにはある種のエネルギーが必要なのである。プラトンが、魂のイデア界への飛翔に当たってはエロスが必要であるとし、プロチノスが、イデアの観照においては精神的アフロディーテが必要であるとしたように、自我が己れ自身に回帰するためには、単なる生への意志の否定ではなく、むしろ積極的に生への意志のエネルギーを取り込むことを必要とするのである。これは生への意志の逆説的本質であるといえる。単なる世界意志は盲目的な創造への衝動であり、それ自体では絶大なる純粋な力もしくはエネルギーであるとしか言い表わせない。もしイデアによって目的を与えられなければ、単なる潜勢態にとどまっている。イデア自体は、ウェーバーが言うように、それ自体で世界を創り出す力を持っていない。世界意志に対して、いわばレールを敷くだけである。自我はnatura naturans(能産的自然)である世界意志と一体化し、積極的にnatura naturata(所産的自然)である表象界をイデアとともに生み出していく。元来がこの世界の構成原理の一部として、この世界の創出に積極的に参画している自我であるから、それ自体は無力でありながら、イデアとは異なり、世界意志のエネルギーを自己自身のものとすることが、身体という構成物によって許されているのである。そのエネルギーを、自己自身の認識へと向ける時、はじめて自我の本質が開示されるのである。
 自我はイデア界によって開かれる世界の概念的把握において、この世界の意義を問うことになる。それが自我意識を持った知的生命体の宇宙的使命だからである。そこに生への意志の肯定、または否定という、行為の選択が迫られるのである。その資格を自我が与えられているのは、この宇宙、この世界は、世界意志とイデアと自我とのTrinitaet(三一体)として成立しているからである。この世界の審判者としての役割を自我は与えられているのである。この世界が悪に満ちた不完全な世界であるとするならば、そこに生への意志の否定の立場が取られる。世界宗教のほとんどが、その真髄においては、この立場を取っている。この<涙の谷>から去ることが、たいていの宗教の究極目標なのである。それらを一括して、救済の宗教と呼んでよいであろう。そしてその救済の原理はさまざまである。ここでは、そうした<民衆の形而上学>ではなく、純粋な形而上学の立場から、救済の原理を考察してゆく。すなわち、単なる信仰や恩寵による救済ではなく、世界の根本原理にもとづく救済の原理を探究してゆく。

2018年6月8日(金)
善とは何か

 人間が物事や行為に善と悪の区別を立て、たいていの場合善に加担し、善を希求するのは何ゆえであるか。善がなんであるかを確かに知らなくても、少なくとも悪をなしていると感じる時の、なんらかのやましさ、羞恥感によって、その存在が意識される。このやましさ、羞恥感は、たいていの場合、他者や社会集団に対する意識において表われるのであり、それ自体では善(das Gute)そのものということはできない。また古代ギリシャで言うアレテー(すぐれた点)もまた、あらゆる個物に存在しうる長所、美点という意味においては、善そのもの、すなわち絶対善というわけにはいかない。役にたつか立たないか、あるいは社会的に称賛を受けるかどうかということは、行為における相対的基準とはなりえても、善の本質とは次元をことにする。単なる有用性、功利性は、個人的、社会的に生活上の有利さを与えても、一般的、普遍的善ではない。またピレネーの向う側では別の風習や善悪の基準があるような、いわゆる道徳や倫理のような社会的、相対的、行為の基準もまた、一般的、普遍的善ではない。殺すなかれ、盗むなかれ、ギャンブルは悪であるといった、社会的にしか意味をもたない善悪の基準は、それ自体を絶対善ということはできないのである。それらが悪である基準は、また別のところになければならない。
 善とは何かを根本的に探究するには、この世界の本質を探究する外はない。この世界の本質には、はたして善悪が存在しているのであるか。善悪をこの世界に投影した世界観や宗教は、はたして正しいのか。この世界の本質は、時空の制約のない無限にして絶大な、盲目の(認識のない)エネルギーであるという、ショーペンハウアーの真理性の高い形而上学にしたがうならば、元来この存在への無限の努力は善でも悪でもないのである。無慮無数の宇宙がそこから創造される。創造された宇宙は無限に多様であり、たまたまこの宇宙においては、確率的偶然の産物として、時間空間や物質が存在し、生命が存在する。現代の天文学では、知的生命体の生まれる確率は、各銀河系に一つか二つであるという。言ってみれば、人類がこの銀河系を代表する知的生命体である。銀河の数だけの知的生命体が、この宇宙に存在する。この宇宙での知的生命以外の生命は、もっぱら生への意志に支配された生命体である。

)地球のような惑星に生命が発生するには、数多い偶然的要素がクリアーされねばならない。その確率は限りなく低い。まして生命が生じても、(たぶん火星のように滅びることなく)知的生命体に進化する確率は、さらに低いのであるという。

 宇宙意志、特に生への意志の本質は、類の存続であり、そのための個の間、類の間の闘争が、生の絶対的条件となっている。そこでは、善といえるものは、適者生存、すなわち個および類におけるアレテーがすべてである。劣悪(schlecht)なものは滅び、適合性のあるものが生き残る。これが生命界の善悪の基準である。個は個を食らい、類は類を食らう。この食物連鎖が、生命界の掟である。ここではアフラマズダもアーリマンもない。どちらが善でも悪でもなく、互いが互いを滅ぼしあう。勝者が光であり、敗者が闇である。光と闇の戦いなどはないのである。
 それでは何故に光と闇の闘争という観念が生まれるのであるか。世界意志そのものは光でも闇でもない。世界意志はこの表象世界を発現するという意味では、光を生み出すなんらかの根源的存在である。その光の世界で、万物が流転し、生成消滅をくり返す様から、はじめて光と闇の対比が生まれるのである。万物を流転させる根源の力は世界意志であるから、消滅したものはその根源へ返ると観想される点では、光以前の世界へもどることになる。しかしその世界は元来認識不可能であり、この世界におけるような光と闇の世界ではないのである。生命体にとって、生とは光(太陽)に向かう努力であり、死とは光から遠ざかることである。光は生をもたらし、死は闇をもたらす。生を妨げる闇を、悪と感じ、生をもたらす光を善と感じる、これが生命体の原初的善悪の観念であろう。光を神のもの、闇を悪魔のものとする観念の、原初形態がここにある。
 光が生をもたらし、闇が死をもたらすのであるから、この光と闇の格闘、生と死の格闘を、この生命界の根本のあり方とする観念が生じるのは当然である。ゾロアスター教やジャック・ロンドンの「光と影」に典型的に見られる、善悪、神と悪魔の格闘の物語は、善悪を二項対立においてとらえる観念から生まれているのである。そのじつ、世界の本質においてはいかなる二項対立もない。絶対の善も絶対の悪もないのである。善なる神の観念を生み出したのは、生命界が必然的にはらむ、弱肉強食の食物連鎖の観念的反映としての、光を渇望する勝者の希求なのである。
 宇宙は偶然の産物であり、さまざまな欠陥に満ちている。まったく空間も時間も物質もない宇宙もあり、たまたまこの宇宙は偶然の結果それらに恵まれたのである。この恵みを神のたまものと見、そこに善を見ることによって、宗教的善悪観が生まれる。神観念もこの宇宙の産物なのである。宇宙そのものは、神でも善でも悪でもない。宗教家がいみじくも言うように神は<生命>なのである。あるいは、生命自体が、神にして悪魔なのである。神や悪魔は生命界の反映としての観念的産物であり、もしそれが実在的影響を及ぼしたとしても、それは生命界の範囲にとどまるのである。神は生命を促進し(産めよ殖やせよ)、悪魔はその生命を脅かすものであり、神以上に相対的である。十字軍のクリスチャンにとってサラセン(イスラム教徒)は悪魔であって、滅ぼすべき存在であったが、サラセンにとっては侵略者のクリスチャンこそが悪魔であった。神は生命であると同時に、<永遠の>生命である。神を信ずるものは、永遠の生命にあずかる。これほど生命的な願望があろうか。生命の宿命である死を回避し、どこか生命界に似た世界で、その存続を願う。天国も極楽も、この万物流転、弱肉強食の世界を逃れた、生の延長としての空想界なのである。この空想界にはいるためには、<善人>でなければならない。あるいは少なくとも神の<恩寵>がなければならない。ここに宗教の巧妙な社会規範としての働きがある。こうなると、単なる社会道徳や倫理と選ぶところはない。宗教倫理においては、真の善の探究は不可能であり、ただその実践において学ぶところがあるであろう。
 世界の本質においては善も悪もないことを明らかにしたが、それでは社会的道徳でも宗教倫理でもない、本質的善というものが存在するのであろうか。私はいかなる社会的考慮もない、いかなる宗教的畏怖もないところで、やはりある種の善の意識をもって行為することが可能なのであるか。私が悪を恥じる時、たいていは他者や社会への考慮にもとづいている。そのような考慮は、基本的に<超自我>によるものと考えてよいだろう。私は多くの物事を他者や社会から学んだ。それに対する依存心が、それに反する行為への躊躇を自然と生み出すのである。しかし私の学んだことのすべてが、本当に私にとっての善なのであるか、私にはそれに反する自由はないのであるか、それを知るには、上記のような探究が必要なのである。
 悪とは私に不安や羞恥や悔恨をもたらすものであり、それらの根源に私自身の本質、または世界の本質にもとづくものがあるならば、その善の観念は本ものであるといえよう。いかなる悪も、生への意志は許すであろう。<わたし>は場合によっては<あなた>を食らって生きるかもしれない。<あなた>のものを盗んで生き延びるかもしれない。それは生への意志が命じる絶対命令である。<殺すなかれ><盗むなかれ>という律法は、私の生の中にはないのである。それにもかかわらず、私がそうした行為を避けうるとすれば、それは世界意志とは別のところから出ていなければならない。世界意志以外の世界原理には、<わたし>と、そして<イデア>の他にはない。私が悪を避けうるには、私以外のいま一つの原理である<イデア>に目を向けるほかはない。イデアの根源を善と見なすのは、プラトニズム以来の伝統であるが、イデアが善である、あるいは善のイデアが存在するとは、どのような意味であるか。イデア自体は善でも悪でもない、単なる観念的存在としての中立性をもつものとして考えるべきであろう。しかし世界意志が目的的に働くためには、イデアがその動機(Motiv)もしくは目的因(causa finalis)とならねばならない。イデアは私の個体的意志の指導原理となりうるのである。しかしそれはどのようなイデアであってもよいことになる。悪を目指すイデアであってもよいのである。ナチスにとっては、ユダヤ人絶滅が最高のイデアであった。イデアそれ自体には、善へと自動的に導く力はない。そのためには、それは善のイデアでなければならないのである。プラトンやプロチノスが言う善のイデアとはなんであるか。基本的にこの物質的世界から、精神界へと導くイデアのなかでも最高のイデアなのである。それは善にして、真であり、かつ美である。悪は物質界=生命界の産物である。世界意志の生み出した世界の欠陥そのものなのである。そのような世界は、元の世界意志に解消されるか、超越的な精神界であるイデア界への参入によって克服されるべきものである。その努力こそが、善の本質なのである。この本質的善の努力を怠り、あるいはその方向に反するものが、本来の悪なのである。この本質善への行為が、一般の倫理・道徳や、宗教倫理とたまたま一致することも、また背馳することもあるであろう。しかし常に自己自身に対する善の意識であることにおいて、それらとは根本において異なるのである。私は人をあやめることや、人の物を奪うことは、生への意志に無条件に従うことであるから、極力避けるであろう。私は社会や国家が戦争を要求しても、それが生への意志の本質である類への意志の発現であることから、断固として拒まねばならない。一方においては善のイデアが、他方においては純粋自我が、私を生命の興奮に囚われることから守るであろう。生への意志にとらわれない真の善は、生への意志の否定以外にはないのである。神秘主義者の言葉を借りれば、<死にながら生きる>ことが本質的善への道なのである。

2018年8月25日(土)
言語とは何か

 言語とは自我の自己外化もしくは自己疎外(Selbst-Entaeuserung)であると、以前に述べた。この見地から言語の本質を探究してみようと思う。自我の自己外化(自己疎外)とは、私の身体のあり方であり、その意味で、言語は身体に近いものであるとも述べた。たとえば、私の身体の一部、私の手について例にとるならば、眼前にあるもの、あるいは触覚においてとらえるものが、私の手であると意識されるためには、その感覚もしくは知覚そのものが、私自身の意識を含んでいなければならない。すなわち、私は手という対象において、私の意識を客体的に見ているのである。私の意識を身体において客体としてみること、これがそもそも自我意識の発端であり、実のところ意識とはそれ以外のなにものでもない。意識とは対象において私を意識することなのである。自我のないところに意識はない。しかし特に自我を強調するために、自我意識と呼ぶことにする。
 この自我意識は、自己自身を主客の関係においてとらえることであり、客体の中に自己自身を認めることである。感覚は本来、純粋な客観ではありえないであろう。「赤の感覚は私の存在そのものである」とコンディヤックが言うように、最初の感覚は主客が未分化であり、対象の客体化が生じるためには、私自身の対象化が必要なのである。それを可能にするのが、私の身体である。身体は客体でありながら、私以外の事物の客体化を可能にする原理なのである。この意味で、主観とはつねに私の身体であるといってよい。このことは自我認識においても貫徹されており、むしろそこにおいてもっとも明瞭に現われるといってよい。
 身体はある限界をもったものとして現われる。この限界がなければ、対象化は不可能である。これはもっとも微妙な自己意識についても言えることであり、「考える我」もまたある種の限界をもった存在なのだ。「考える我」があるならば、「考えない我」もあるはずだからである。このような限界は、内面と外面とに押し広げていくことが出来る。今言語との関係で、外面にかぎるならば、感覚器官がそのもっとも外部の限界であろう。そのなかでも、音声器官と視覚とが、最も客観化を果たした外部身体であるといえる。音にはまだ主客未分化の部分がある。それだけに主観が触発され、意識されやすいのである。視覚は最も客観化を遂げた感覚であり、通常は、視覚の対象が私の意識を含むということはまれである(暗闇の中で遠近感が失われる時、対象が目に張り付いてくるように感じられることから、視覚もまた触覚の一部であることが知られる)。このように、身体における自己外化(自己疎外)とは、対象から段階を追って、自己自身の意識を排除することにあるといえよう。そこに客観としての外界、世界が生まれるのである。
 さて、言語はストアの言語論によれば、外界にある指示物(Bezeichnende)と内界にある意味(Bedeutung)との二要素からなる(ソシュールのsignifiant と signifieにあたる)。指示物は基本的に音声であり、特定の音声を発することによって、それの指示する考えもしくは表象を、相手の主観に伝達することになる。ここではすでに相互主観が前提されているが、言語がそれの概念化を促進していることは疑いなかろう。今言語を発する立場から、このプロセスを考察するならば、なんらかの考えまたは表象が、それ自身にとどまらずに、なんらかの媒体で外界へと発出されるということは、本来他者から見えないものを、客体としてさらけだすことにほかならない。その場合最も客観化された客体である、音声または視覚の対象が、自己自身の内面のいわば憑依した存在として選ばれるのである。音声そのもの、叫びや歌は、私自身の客体化そのものとしてとどまりうるのであるが、すなわち私はそれらを私自身としてとらえることが出来、いわば私の身体の外縁とみなすことが出来るのであるが(たぶん鳥のさえずりはそのようなものであろう)、それが他者や他の存在にとって単なる客体として知覚の対象になる時、私の存在がそれによって現わしだされてしまうのである。私の声は私の声でしかないのである。私はそれを私の身体の延長とみなすことが出来る。(通常視覚によってとらえられる、形状や色彩などが、私の身体を代表しているが、単なる音声が同じように、私自身の存在を、そのありかを露呈することにおいて、やはり私の身体であることに違いはない。動物の赤子やヒナが、むやみに音声を発すれば、すぐさまその身体のありかを暴露して、餌食となってしまうのである。音声はいわば聴覚に対する身体である。)
 この身体の延長である音声が、積極的に他者への伝達手段として用いられるようになる時、狭義の言語が生まれたと言えよう。私の声は単に私の声ではなくなり、私自身の内面を指示させる、客観物となる。その場合でも、その音声を発しているのは私であることが、直ちに知られるのであるが、それは通常は従属的な認知であって、私がその音声によってどのような概念を伝えようとしているのか、その共通の意味が言語を成立させる。言語が単なる主観的直知ではなく、概念的意味であることによって、主観の最も客観化された段階である、言語世界が生まれるのである。すなわち、言語は最も客観化された私の身体である。その意味で、もはや私だけの身体ではなくなっている。いわば、相互主観が身体を持つとするならば、それが言語である。相互主観の関係に入っていく、最も初期の身体的契機が言語なのである。
 ここで言語における代名詞の働きを考えるならば、そのことがより明らかになる。<わたし>という代名詞は、実は私そのものではない。つねに他者に対する私なのである。その意味で、すでに客観化され、客体とされている私である。かつて、他者の存在、すなわち読者を考えずに小説を書くことができるか、実験したことがある。私という一人称を使う限り、それは不可能であることが分かった。ゆいいつ私にとっての客体であるためには、人称代名詞を一切使わないか、せいぜい<かれ>を使うほかはないのである。

 「夢一つない深い眠りからのふいの覚醒は記憶があわただしく働き始めるまでの間怖れに似た空白の空間を持つ 意識の見つめるものが深夜の漆黒であろうと真昼のしらけた光であろうと一瞬間そこに妙によそよそしくかつふてぶてしい世界が凝視されることに違いはない それはあたかも意識の眼から不注意に仮象のヴェールが取りはずされたままに世界のあるがままの無意味さが垣間見られてしまったとでもいった当惑と不安に満ちた瞬間である 意識はそこに現われているものをおのれ自身の中に呼応する運動を見いだすことによってすでに親しいものであるとする安堵を求めようとする 意識と意識に侵入するものとはこうして馴れ合うことを学び あたかも認知することが存在のすべてを尽くしているかのような錯覚のヴェールをおのれと事物とに投げかけるのである 意識は物との共犯の中に生きる 事物を馴致することで事物に馴致される 物とおのれとの間の底なしの淵を一瞬でも意識することは世界が根柢から意味を失うような不安を覚えさせるのである 意識は覚醒しつつ夢見る 夜遊病者の崖ぶちを怖れることなく歩むように存在の深淵にかかる幻の橋を踊りつつ行く」(「公園」より)

 このような無人称小説であっても、言語の機能は少しも損なわれていないのである。それは言語が私自身の身体であるからには、当然のことである。しかしこの身体は、その発生においてはいざ知らず、私自身から自発的に生まれたのではないのである。私はそれを相互主観の世界において見いだす。それは単なる動物的相互主観ではなく、概念を媒介としているところに、自我のもっとも客観的な自己外化である特長がある。このような、もともとの情動・情緒的な伝達から、概念の伝達が可能になったのは、どのような発生的メカニズムに基づくのか。言語が論理的思索から生まれたのではないことは確かである。むしろ後者は前者に依存している。言語がもとから概念的でありえた理由としては、エピクロスとストア派のProlepsis(前概念)の考えが参考になる。Prolepsisとは、

 「エピクロスは概念に先立つ、ある一般的表象を考えている。それは持続性があり、一種の一般化によってえられる限りにおいて、概念に対応している。しかしその際に、概念の定義において、区別(種の特徴の確定)や結合(類への分類)によってなされるような、理論的正確さをもってする、真性の抽象が問題なのではなく、感性(Aisthesis)そのものを通じて行なわれる、心像の劣化や脱落にもとづく、固定化の過程を問題としているのである。絶えずくり返し、同じ仕方において、‘今において’現われる知覚像は、最終的に記憶において記憶像としてとどまる。・・・これまでまったくの流れ去るもの、はかないものと見なされていた身体的感性のなかにも、持続する存在者(ein im Sein Beharrendes)が形成されるのである。――すなわち記憶像として持続する‘馬’という一般的表象が。エピクロスはそれをProlepsisと名づける。それはいわば、概念の前形態もしくは先取り(Antizipation)であるから。・・・『たとえば、われわれが<人>という時、ただちに感覚の導きのもとに、人の外形(心像)が表象において現われる。そのように、各単語ごとに、その根底に本源的にある知覚が、記憶像として明瞭に現われる。われわれが探究しようとする物事は、それがすでに知られているのでない限りは、まったく認識できないのである』」(H.Glockner:Die Europaeische Philosophie, s.216-217,Reclam)

 言語は何よりも感性的産物であることが、ここに強調されている。思索以前に、言語は感性的に、しかも前概念的に、形成されうるのである。思索が成り立つためには、まさに感性において、すなわち言語において、そのあつかう概念がすでに知られていなければならない。したがって、人間は、その感性においてすでに知っていることしか、思索し得ないということになる。それはさておき、言語は自我の身体であるという立場からは、音声という感性的存在物と、感性の産物であるProlepsisすなわち一般的記憶像とは、容易に結びつきうるであろう。一方は外界に向けて発せられ、他方は内面のプロセスではあるが、ともに感性的であることによって、内面の外化・客体化が速やかな連合によって行なわれることであろう。そのようになされる、内界と外界の合体した客体化は、いわば客観化された自我そのものであるといってよかろう。自我は身体という異様なものにつつまれている。その異様な関係が、そのまま言語においても実現されているのである。自我は意味と名を変え、それをつつむ身体は音声である。意味がどのような音声と結びつくかは偶然であり、それは自我がどのような人物を親とし、どのような身体を自己のものにするかが、偶然であるのと同様である。意味は音声から生まれないのと同様に、自我は身体から、もしくは親からは生まれない。意味が音声を偶然に選ぶのであり、自我は身体において偶然におのれを見いだすのである。
 このような自我の自己客体化・自己疎外としての言語は、その根本の衝動において、自我の根底にある生への意志、とりわけ類への意志に支配されているといえよう。自己客体化を遂げた身体としての言語は、もはや私だけのものではないのである。そこに成立する相互主観が、私に代わって言語の主体となる。私の身体が他者にとってMerkmalとなるように、私の発する言葉は、私の内面のMerkmalとなる。他者が私を支配するために、私の身体を拘束するように、他者が私の内面を支配するには、私の言葉を拘束し、さらには、これが言葉の最も重要な働きであるが、私の内面を言葉に従うものに改造するのである。それが、すでに私の客体化を越えた、一般化された自我としての、超自我の役割である。言語は究極的にこの超自我を形成してゆく。超自我は類的意志そのものとして、人類の上に君臨する。まさに言葉が人類にとっての神なのである。歴史的にも、支配者はつねにその‘ことば’によって、その類的意志を知らしめたのである。この超自我としての言語については、神観念と並んで、自我論の最後の克服すべき課題となる。

2018年9月2日(日)
自我とイデア界の接点

 自我と意志の接点については、すでに論じた。世界意志がその個別化において、個の存在者を必要としたこと、そして生への意志が、個体の存続をはかるために、自我の強化を行なったことを、自我のこの世界における存在の二つの根拠とした。自我自体が世界意志の産物であるかどうかは、世界意志が本来盲目的な、すなわち、認識のない、無意識の、無限にして、絶大なエネルギーであるという、形而上的本体論からして、意識的存在である自我とは、本質をことにすることから、両者の間には発生的関係はないといえるであろう。世界意志が自我の本体を生むことも、また自我が(フィヒテの学説のように)世界を生み出すこともないであろう。
 世界意志(自然)とイデアとの関係については、古来から形而上学の中心問題であったので、特に論争史をたどる必要もないであろう。プラトン、アリストテレス、プロチノス、近くはショーペンハウアーの学説において、両者の関係は、超越的であれ、内在的であれ、一方だけでは世界が成立しえない関係として、探究されてきたのである。経験論のような立場においても、その唯名論にもかかわらず、論理や数学が、物質やエネルギーそのものではないことが、自明の前提とされている。そもそも概念がなければ、理論すら成り立たないのであり、たとえ概念の内容が起源的に経験、すなわち知覚から出でたとしても、概念を生み出す作用、あるいは思索そのものが、知覚の内容そのものとは別物であることは、否定できないであろう。
 世界意志とイデアとの関係は、コンピューターのハードとソフトに例えるのが、もっとも分かりやすいであろう。世界は量子コンピューターであると考える、物理学者もいるそうであるが、この宇宙の発生において、根源的物理法則が同時に発生したと考えられている。インフレーションもビッグバンも、すでに宇宙発生と同時に、ソフトとして仕組まれていたのである。イデア以前の盲目の、絶大なる、潜勢的エネルギーである世界意志は、量子コンピューターとして発現するために、無慮無数ある可能性のなかから、確率的偶然によって、この量子宇宙というイデアの衣をまとったのである。イデア自体(ロゴス)は単なるソフトであり、何の力も持たない無力な存在であり、それ自体が宇宙を生みだすことはない。単に世界意志に目的性を与えるに過ぎない。世界は世界意志が偶然にまとう衣によって決定されるのである。
 イデアは人間においては、思考として最も明瞭に現われてくる。概念がなければ、単なる感覚だけでは、自我の意識も生まれないであろう。概念の最初の形式は、自己と他の区別であるといえるのである。感覚に赤の表象が与えられただけでは、私はまだ赤の感覚そのものである。それはコンディヤックの言うとおりであろう。赤の表象を知覚している私の存在が意識されねばならないのである。この区別の知覚は、すでに概念の働きであるといえる。私を目醒めさせるものは、概念の働き、すなわちイデアのソフトによるものであるといえる。自我を目覚めさせるソフトが、この宇宙には具わっている、すなわちプレインストールされているのである。自我の発現がイデアとしてプレインスロールされているならば、自我そのものもイデアの産物、あるいはイデアそのものではないかと考えられよう。その点をさらに考察する。
 イデアは実在論的に言えば、その本質において、単なる概念としての存在者である。宇宙は数や数式からなるとする、ピタゴラス派や現代の数学者の立場が、もっとも純粋なイデア論であろう。人間の思索や認識は、このイデア界に参与することによって成立する。またこの世界の万物も、設計図(形相因)としてのイデアの影を宿しており、それゆえに、人間の思索や認識の対象となりうる。自然科学が最も成功した学問であるのも、この故である。人間がイデアを概念として捉えることができるのは、すでにイデアのソフトが、人間精神に仕組まれているからであると述べた。自我の発現もまた、そのソフトに組み込まれているのである。しかしその自我の主たる働きは、イデアとの関係においては、もっぱら思索と認識の主体としての、先験的主観にあるといえよう。この先験的主観と、純粋自我とを、以前に区別したが、ここでくり返すと、先験的主観は、それ自体では認識の対象とはならない、無意識の機能的主体であり、あらゆる認識がなりたつための、先験的条件をなしている。それに対して、本来の自我とはあくまでも自己意識であり、意識そのものであり、存在者である。イデアにとって必要な自我は、前者の先験的主観としての自我であり、それによって個体の認識作用が、イデア界と結びつきうるのである。
 イデア界にとって、自我が意識を持つかどうかは、本質的関係がない。人間の認識は基本的に無意識になされており、思索もまた、必ずしも意識が伴う必要はないのである。意識はただ単に、認識や思索の、モニターとして働くだけである。意識を伴う純粋自我の本来の役割は、別のところにある。意識とは自己意識であり、自我が自己自身へと反省的に働く時、そこに純粋自我が発現するのである。それはもはや概念でも、概念的に把握できるものでもなく、それ自体として独自の本質を持つものであることを、これまでにも強調した。ここにイデアを契機にして発現しながらも、イデアとは本質をことにする存在者が、自己自身に開示されるのである。この純粋自我としての<わたし>の存在の宇宙的使命については、以前に述べた。生への意志の否定または肯定における、この宇宙の存在の判定者としての資格を、純粋自我は与えられているのである。さもなければ、この宇宙についての価値的判断などはナンセンスなのである。

 ここでイデア論との関連で、自我が脳の機能の産物であるという科学的見地の吟味をしてみよう。そもそも自然科学は、感覚もしくは知覚の<事実>をもとにした、概念的把握による世界認識の仕方である。単なる事実だけでは科学ではなく、事実を分類し、分析し、綜合する概念の操作によって、科学の知識体系が成立するのである。脳の神経細胞の働きや機能についても同様であり、そもそも神経細胞というのは、一つ一つの事実であると同時に、それらの事実を抽象した概念的構成物なのである。事実を概念化できるということが、科学の根本の前提なのである。それゆえに、もし意識や自我といった、<意識における事実>が、科学の対象となりうるならば、それらもまた概念としてとらえられねばならないのである。意識や自我が脳の機能の産物であるというならば、脳細胞とともに、意識や自我も概念として把握されていなければならない。しかし、意識や自我を単なる概念として、その構造や連関を明らかにした科学者はいないようだ。そもそもヒュームのような哲学者でさえ、意識や自我といったものが、単一な概念としては存在せず、単に概念をたばねたものとしているのであるから。科学によって、いかに脳の構造や機能が解明されようと、いろいろな認識作用が、脳の部位によって影響されていることが証明されようと、意識自体や自我自体といった、概念化し得ない意識の事実については、科学は何事も主張し得ないのである。今日におけるイデア論を代表する自然科学が、そうした限界を持つのは、そもそもイデア論自体に限界があるからである。

 世界はそれぞれ本質をことにする、三つの要素からなることを、筆者は形而上学的自我の探究の中心命題とした。イデアと自我とは、おそらく最も根本的な要素である世界意志の絶大なる存在への意志の道ずれとして、この世界に発現を余儀なくされているのである。古代の哲学者はそれを<運命>と名づけたが、またそれを自然とも神ともロゴス(理性)とも呼んだ。それを自然と自我とイデアとに読み替えたのが、ここでの筆者の立場である。この<三一体>以外に、さらに超越的な存在もしくは原理があるかどうかは、たとえばプロチノスの<全一者All-Eines>もしくは<善一者>のようなものから、それらの三一体が流出するのであるかどうかは、もはや自我論の範囲を超えているであろう。自我が世界原理の一つであることを探究しえただけで、筆者の形而上学はよしとしなければならない。もし神という観念を、筆者が避けたことを不審に思うならば、それは次の探究の課題である、形而上学の究極の目的である、その実践に、神についての論究を委ねたからである。

2018年9月14日(金)
物質とは何か

 ごく当たり前のことに思われて、だれもが疑わないことほど、深く考えると、不可思議この上ない物事がある。この世界の根本の存在と思われている、物質もそのひとつであろう。物質とはなんであるか、すぐさま正しく説明できる人がいるであろうか。日常何の疑念もなく接している、この世界の事物の根本が物質であることを、たいていの人は疑わないであろう。しかし物質ほどとらえがたい、不可思議な存在はないのだ。18世紀イギリスのジョンソン博士という人は、バークレーが物質の存在を否定したのに腹をたて、ステッキで地面を叩いて、これが物質だと言ったそうだが、地面を叩くぐらいのことは夢のなかでもできるので、少しも証明になっていない。ただ単に人間の感覚意識の頑迷さを証明しただけのことである。
 素朴に物質をそこにあるものととらえたのは、ミレトス学派の、アルケー(元質)の考えであった。水とか空気とか土とか火とか、とにかくそこにあるものを物質の根源としたのである。さすがに素朴すぎるので、感覚に対する反省から、デモクリトスは、人間の感覚意識で信用できるものと出来ないものを区別した。ロックに受け継がれた、この第一性質と第二性質の区別は、やはり相対的であって、比較的信用できるものとして、形や、固さや、密度や、重さのようなものを基準としたのである。それに対して、色や味や匂いや音は、主観的なものとした。物質は形や固さや密度や重さを持つが、その他の感覚の性質は物質とは無関係としたのである。デモクリトスはもちろん原子論者であるから、第一性質であれ、感覚でとらえたものをそのまま物質としたのではない。原子は見ることが出来ない微小なものであり、それがどんな形をしており、どんな性質を持つかは、単なる思弁的推測に過ぎなかった。
 第一性質と第二性質が、感覚の性質である限り、ともに信用できないものであることを明らかにしたのはバークレーであった。物質が形や固さや密度や重さをもったものであるとするのは、単なる感覚意識のたぶらかしであり、それらのものを排除すれば、物質の性質としては何も残らないではないかというのである。ただ<観念idea>だけが存在する。それ以外になにも物質などを仮定する必要はない。形や固さや密度や重さの観念そのものが物質そのものなのだ。だからジョンソン博士か憤ったようには、物質は消滅したわけではない。ただそれらの基体(substance)に、物質などを仮定する必要はないというのである。これが観念論の発端である。この考えを継承したヒュームを経由して、カントは純粋理性批判の体系を作りあげたが、そこでは物質(実体)は一つのカテゴリーとしての概念である。物質そのものである物自体(Ding an sich)はnumenon(純粋観念)として、人間の悟性では捉えがたい存在である。すなわちまったくの空白である。このように物質の本体を神棚に上げてしまったわけであるが、しかし物質<現象phaenomenon>の探究自体は、保証されたわけである。
 ちなみに、物質と並んで不可解な存在として、物質以上に曖昧模糊とした<魂>や<霊魂>の存在に関しては、バークレーは疑いないものとしたが、ヒュームは物質と同じくいかがわしい存在として排除した。カントも理論理性においては証明不可能としたが、実践理性で敗者復活をさせた。
 カントが保証した現象の探究は、哲学とは無関係に、自然科学が着々と進めていた。自然科学の方法論では、もとから個物の現象と、それらを総括し一般化する概念の使用は、もっとも着実な<自然界>の探究の仕方であった。自然界にはなんらかの本質がある。その出発点は感覚に与えられた個物であり、その基準は主観、客観を問わないのである。もし色という感覚の性質がなければ、誰も光をプリズムにかけようとは思わないであろう。その結果光の波長の概念が生まれる。このように感覚の性質から出発し、概念によって分析的・総合的にとらえられた結果として生み出されるのが、物質という<概念>である。今日の物理学では、物質の根本は、超ヒモという物質界最少の長さ(プランク長さ)を持った弦の振動であるという。それはもちろん、デモクリトスの原子と同様、感覚でとらえられるものではなく、数学的概念であるが、古代原子論のような単なる思弁ではない。
 それでは、現代の物理学において、物質の究極の探究は達成されたのであろうか。アリストテレスは、物質(質料 hyle, materie)とエネルギー(energeia)とを区別した。質料はそれだけでは潜勢態(可能態)であり、現実態(エネルゲイア)となるためには、形相(eidos)が内部にあって働きかけねばならない。そのようにして物質の本性(ousia)が生成(エンテレキー)してゆくのである。用語は複雑だが、ここで一番の中心概念は、形相(イデア、エイドス)である。このものがなければ、物質に運動が起こらず、生成も発展もないのである。現代物理学では、物質は質量であると同時にエネルギーである。両者は転換されうる。運動は慣性運動でない限り、エネルギーの交換によってなされる。アリストテレスでは、質料とエネルギーだけでは、運動は起こらないのである。ここでアリストテレスの原因に関する説が参考になる。
 原因には質料因(causa materialis)と動力因(causa efficiens)と目的因(causa finalis)と形相因(causa formalis)とがある。質料は素材であり、例えば煉瓦であり、動力因は力の作用であり、例えば労力であり、目的因は何のためということであり、例えば住むための建物であり、そして形相因は、建物の設計図にあたる。ここで運動が起こるためには、そもそもの設計図がなければ、素材も労力も、目的も、単なる潜勢態にとどまっている。すなわち物質の段階にひとしいのである。形相因が、すなわちソフトが加わって、はじめて全体が動き出すのである。物質は、それが何であれ、生成の過程に移るためには、自らの内部にイデアを取り込まねばならないのである。この過程全体を物質と見なしてもよいであろう。現代物理学が、物質を質量とエネルギーの総体と見なすように、そして設計図に当たる形相因は、物理法則と考えられるように、宇宙の初発において、それらは一つのものであった(目的因は人間を初めとした生物以外には一般的ではない)。そこで共通している物質の特質は、質料因、動力因、形相因といった働き(Wirken)の概念である。物質について言えることは、作用・反作用や、エネルギー保存則や、質量=エネルギーの等価性といった、なんらかの原因・結果の関係である。この関係的働きが、最も抽象化された物質の概念であるといえる。ショーペンハウアーが物質を定義して、作用するもの一般(Das Wirkende ueberhaupt)、あるいは因果性そのもの(Kausalitaet selbst)としたのもこの意味である。

 「物質は、物自体との関係ではなく、単に悟性の形式への関係から見るならば、客観的ではあるが、細かな規定なしに把握された、活動性一般(Wirksamkeit ueberhaupt)である。なんとなれば、物質的なものとは、その作用の特殊な種類を考慮しない、作用するものDas Wirkende(現実的なもの Wirkliche)一般に他ならないからだ。それ故に純粋な物質は、[感性]直観の対象ではなく、単に思考の対象であり、したがって抽象物である。他方、直観においては、物質は形式と性質との結びつきにおいてのみ、物体(Koerper)として、すなわち完全に特定された作用の種類として、現われる。実体概念の、唯一の現実的、正当な内容をなしている、純粋な物質は、客観化された因果性そのものであり、空間を満たし、時間において持続する。そのようなものとしては、物質は我々の認識の形式的部分に属する。その限りでは、本来物質は対象ではなく、経験の条件である。物質は、われわれの知性の形式によって必然的にもたらされた、あらゆる過ぎ去る現象の不変の基体(Substrat)であり、あらゆる変化の下で絶対的に持続するものであり、したがって時間的に始まりも終わりもないものである。」(Schopenhauer Lexikon: Materie より)

 このようにとらえた物質概念からは、原子であれ、クオークであれ、超ヒモであれ、まだまだ具象性、すなわち感性直観の性質を帯びている。ここではパルメニデスとヘラクレイトスの両者が、物質概念を軸にして共存しているかのようである。物質とは具体的なものであるという、感性的存在である人間の度しがたい思い込みが、このような抽象物としての物質に反撥を覚えるのである。せめてクオークに色を付けてみたり、弦楽器をイメージしないと、物質らしさが現われないのである。現代の自然科学の大きな発見の一つに、人間が知っている物質なるものは、この宇宙を構成する物質の総量のわずか4%に過ぎないという、驚愕すべき事実がある。あとの96%は、ダークマターやらダークエネルギーとやらの、未知の物質が占めている。これらの暗黒な物質やエネルギーが発見されたのは、銀河系の重力の異常や宇宙の加速膨張といった、まさに間接的なWirkenによるものであった。正体の分からない間接的な作用が、物質の存在を推測させるのである。あるいは、もしそれが物質の基本的なあり方であるならば、Wirkenそのものであるダークマターやダークエネルギーこそが、宇宙の最も基本的な物質であるといえるであろう(*注)。人間知性のとらえているわずか4%の物質は、感性がとらえた特殊な物質のあり方であるともいえるであろう。

 *ダークマターやダークエネルギーの正体は未だに確定的には知られていない。しかし、宇宙の初発において、量子ゆらぎから銀河や星が生まれるためには、バリオンのようなわずかな質量では、138億年経っても、いまだ今日見るようには成立していないのであり、実質はダークマターの引力が銀河や星や惑星や生命を生み出す大本であったとされる。目に見えるバリオンの世界であるこの宇宙は、ダークマターやダークエネルギーの進化に付随する現象であったに過ぎないようだ。いわば大きな池にボウフラのわくようなものである。

 自然科学の探究する物質は、高度に抽象的な存在であるが、それが形而上学的な本体というわけではない。基本的に現象を因果的に説明する実在的根拠を物質と名づけているのである。形而上学のように、本体そのものに論及するわけではない。カントが物質現象の背後にあるものとした<物自体>のようなものは、自然科学とは無縁である。そもそも物自体は現象に対してWirkenの関係にないのであるから、<観測>にはかからないのである。ショーペンハウアーもその関係をObjektivation(客体化)としか言い表わせないのである。物質と物自体の関係については、さらに微妙である。

 「物質は、事物の内的本質をなす[物自体としての]意志が、それを通して知覚できる状態に入り、直観でき、目に見えるものとなるところのものである。したがって、この意味では、物質は単に意志が目に見えるものとなったものであり、あるいは、意志としての世界を表象としての世界と結びつけるものである。物質は、知性の機能の産物である限りにおいて、表象としての世界に属し、あらゆる物質的存在、すなわち現象において発現するものが意志である限りにおいて、意志としての世界に属する。それゆえ、あらゆる対象は物自体としては意志であり、現象としては物質である。与えられた物質から、それに先験的に属するすべての性質、すなわちすべての直観と覚知の形式をとり除くことができるならば、残りのものとして物自体を得るだろう。すなわち、それらの形式によって、純粋な経験的内容として物質に現われる当のものを。しかしその場合、物質はもはや延長を持つものとも、作用するものとしても現われないであろう。すなわちもはや物質ではなく、物自体としての意志を、眼前にもつのである。
 物質におけるすべての定まった性質、すなわちすべての経験的内容は、ただ物質を通して目に見えるものとなるもの、すなわち物自体としての意志に基いている。物質はしたがって意志そのものではあるが、しかしもはや自体(an sich)としてではなく、それが見られるものとなる、すなわち客観的形式をとる、限りにおいてである。客観的に物質であるものは、主観的に意志である。物質は意志のすべての関係と性質を、時間における像として映しだす。物質は直観的世界の素材であり、意志はすべての事物の本質自体である。」(Schopenhauer Lexikon: Materie より)

 いささかトートロジーの気味もあるが、ショーペンハウアーにとって、物自体とは、人間の内的本質から読みとれるものである。外界からは類推によってしか得られないのである。それに対して物質は基本的に外界の現象からの抽象であり、この両者を結びつけるには、大鉈を振るわねばならない。物自体は本来物質の形而上学的本体と見なされているのであるから、あるいは純粋な思考の対象としてのnoumenonであるから、その境界は微妙なものとならざるを得ない。物質も物自体も、どちらも高度な抽象概念なのである。この世界の本体が世界意志であるという発想は、物自体と現象との区別から発しているが、物自体に到達しうる唯一の道が、自己意識における意志の不可思議にあることを見抜いたのは、彼の独創であった。そこから同時に、物質の不可思議を探究する道も開けたのである。物質もまた物自体に肉薄できるところまで探究することが可能なのである。

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 表象と物質

 物質が高度な抽象概念であるならば、ふつうに物や物体と考えられているものは何であるのか。バークレーはそれを単なる観念(表象)であるとしたが、ふつうには感覚の対象と考えてよいだろう。感覚の性質は、第一性質であれ第二性質であれ、物質そのものではないことは、以上に論じた。それらの性質が個物において、あるまとまりをもって現われた物が、普通にいう物体(Koerper,body)である。すなわち感覚の性質あるいは表象において個別化された物質が、いわゆる物であり、物体である。
 物体と物質との間にはある種の対応関係がある。いま色彩を例にとって考えてみる。人間の網膜の神経細胞は、赤と青と緑のほかには感知できない。それらに対応する自然界の物質は、光(フォトン)の波長である。可視光域のある波長の幅の光が感知されれば、それが知覚において処理されて、赤という感覚の性質を生み出す。赤の感覚は、光の波長という概念的存在物とは、まったく別のものであり、異なった存在者である。直観と概念というまったく異なった両者が、意識においてなんらかの対応関係において捉えられるのである。この不可思議から、一方は観念論、他方は唯物論という、思想的対立が生まれてくる。自然科学はもちろん後者である。
 いま唯物論すなわち自然科学の立場に立つならば、この対応関係が成り立つのは、そもそも感覚器をはじめ、人間の認識機能が、脳神経系という物質的プロセスから成り立っているからである。このプロセスを反映するものが、意識であり、感覚の性質であってみれば、意識や感覚は当然物質に従属する<現象>に過ぎない。意識や自我などといったものも(まして魂や霊魂なども)、単なる脳の機能であり、脳が崩壊すれば運命を共にする。物質以外の本質的存在を仮定する形而上学などは、単なる空想や妄想、もしくは思弁にすぎないものであり、よく言って人類の<願望>の産物である。
 それに対して、観念論に立つて反論するならば、唯物論自体が物質という概念を絶対視するある種の形而上学ではないか。概念がそのまま実在であるとするのは、プラトンのイデア論と同様であり、もし謙虚に唯名論に立つならば、概念を絶対視するいわれはないのである。色彩を説明するために、必ずしも光という物質を仮定する必要はない。色彩を始めとするあらゆる感覚の性質、すなわちあらゆる観念は、神が人間の魂に吹き込まれたものであり、それ自体が絶対の存在なのだ(バークレーやマールブランシュの説)。観念論の弱点は、観念の絶対性を保証するために、神への信仰に頼らざるを得ないことである。こうした素朴な観念論でなくても、なんらかの絶対者、絶対精神や自我一般や、などを<措定setzen>しなければならない。唯物論も観念論も、結局のところ、偏った形而上学であるといえる。
 ここでショーペンハウアーの物質の定義に帰ろう。物質は<作用するもの一般>という高度に抽象的な存在であるが、同時に彼の形而上学の立場から、<意志が目に見えるものとなったもの>であり、世界の本質は主観的には意志であり、客観的には物質であるとされる。両者をつなぐのは、物自体という概念であり、物自体が客観的には物質として現われ、主観的には意志として現われる。ある種のトートロジーが感じられるのはこの点であるが、これを唯物論と観念論の対立という観点から見れば、同一物が、客体と主体とにおいて分離し、かつ本質において融合しているものと考えられる。すなわち観念論と唯物論の融合が試みられているのである。
 物質は世界意志が目に見えるもの(Sichtbarkeit)となる、すなわち客体化(Objektivation)するための条件であって、意志は物質において個物として(すなわち物体として)発現するのである。形而上学的本体である意志は、物自体であり、まさにカントが客観的世界の背後にあって、現象するものとした当の本体である。唯物論は物自体に迫ることは出来ないが、そのもっとも抽象的な物質概念において、意識の内面において発見された本体としての意志と結びつくことによって、物自体との関係を付与されるのである。世界意志は、物質において、その自己客体化を行い、表象としての世界を生み出すのであるが、その条件として物質と、その個別化した物体を必要とするのであるから、その意味で、表象としての世界は、同時に物質の世界であると言っても良いのである。世界は観念であると同時に物質なのである。ここに観念論と唯物論の争いが調停されている。ショーペンハウアーの<神のいない>形而上学の近代性(modernity)と現代性(actuality)がここにも見られる。稀有な形而上学といえよう。

 *   *   *

 世界は観念(表象)であると同時に物質であると述べたが、このことを自然科学の立場から考えても、同じことが言えよう。意識や自我が脳の機能であるなら、その機能の発現である意識や自我そのものは、やはり物質の作用の発現にほかならないのである。いやむしろ、作用としての物質そのものなのである。世界の根源のエネルギーが光のエネルギーであるならば、まさに光(フォトン)そのものの発現が意識であり自我である。私という存在はフォトンそのものなのだ。私は物質そのものを、私自身において捉えているのである。主観的に見られた物質が感覚の性質であり、意識であり、自我である。かつてフェヒナーも同じような主張をした。世界はあるがままに客観的に実在するのであると。しかし、この主張が(神なしに)成り立つためには、物質が、あるいは物自体が根底になければならないであろう。単なる実在の主張は、ヒュームのように懐疑論におちいるからである。
 観念と物質(実体)が知的存在の認識主観において別個の次元に分かれることは、カントの言うように人間知性の宿命のようなものである。直観と概念、内容と形式といったDikotomieは、世界の本質自体には属していないのである。 一方の側にのみ立てば、偏った世界観となり、それは自然科学も形而上学も同様である。その点では、物質と形相、自然科学と形而上学に同等の価値を与えたアリストテレスが模範である。ショーペンハウアーの形而上学もこの模範に従っている。とはいえ、究極の真理の探究ということが可能であるとするならば、それは単なる自然科学では不可能であろう。単に概念を操作しただけでは、<存在>の神秘は解明されないからである。単なるessentiaからはexistentiaは導き出せない。この中世哲学の失敗を、形而上学はくり返すわけにはいかない。根本の神秘である<世界>や<自我>の存在の謎は、なんらかの経験的・実存的形而上学に委ねられるほかはないのである。

2018年10月11日(木)
自我と身体と世界の成立

 自己探求ということがもてはやされ、それに対する批判も多くなされた。そもそも私とか自我というものに対する社会本能的反撥が、この国には根づいているようだ。自我の探求と言わずに、<自分探し>などという卑屈な言い方にも、そのことが現われている。脳科学者の養老猛氏が、あるテレビ番組で、本当の自分などと言うものは存在しない、今の自分と赤ん坊の時の自分とは、とても同じものとはいえないであろう、というようなことを述べていた。
 たしかに今のおのれの姿と、赤子の時のそれとには、天と地ほどの違いがある。しかし自我の不思議は、赤子の時の私の意識と、今の大人になった私の意識とには、ある同一性があり、それが記憶によって連綿とつながっていることである。それは単なる感情移入や共感によるものではないことは、他者の身体内における体験を共有したり、心的作用を受けたりするのとは違って、そこに他者の意識が入りこまないことである。その区別を意識にもたらしているものが、私の身体の同一性であるといえるかもしれない。他者のイメージを、私の過去のイメージから区別することを可能にしているのは、同一の身体において起こったことかどうかという基準の他にはないのである。その点で、他者は私にとっては幽霊も同然である。単なる身体をもたないイメージに過ぎないからである。そうであるならば、やはり赤子であった私は、私そのものであり、今の私と同一の私である。
 このように、自我の成立には、身体が大きな役割を果たしているようであるから、そもそも身体とはなにものなのかを、自我および世界との関係で考察してみたい。

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 自我はどのように発生するか、それについては幼児期の漠然とした記憶しかないので、その詳細を分析することは不可能である。しかし、幼児期の体験に似た状態を持つことはできる。それは睡眠時の半覚半醒の状態である。感覚の中で最も基本的な触覚あるいは皮膚感覚だけが漠然と残された状態で、意識が途絶えたり浮かんだりしている中に、ある部分の感覚に特に注意がいくことがある。それは温かみでも苦痛でも何でもよい。それは体のどこかに浮かんで感じられる。いや体という意識さえないであろう。どこかの空間に感覚のかたまりがあって、それが私の注意を引くのである。いやそれによって私の意識が目覚めさせられるのである。このどこから生じたとも知れない根源的感覚状態を、幼児期の意識の発生と重ねることが出来るであろう。
 感覚の発生と同時に、そこに感覚をこうむっている私の意識が発生する。Der Leidende(受動者)としての自我がそこにある。では私に働きかける能動者Das Affizierendeとは何であるのか。それは意識が明瞭になると同時にあきらかになる。それは私の腕や足であったり、腹部であったり、すなわち私の身体である。しかしそのように構成される以前に、私の意識と身体との関係はどのようなものであるか。
 意識が発生と同時に、感覚において自我とそれに対峙する自我を含んだ感覚の部分に分裂することは、あるいはこの分裂の意識が、自我の発生であることは、意識の原体験であると言ってよかろう。この段階においては、能動者と受動者は、はっきりと区別されない。たとえば半覚半醒の状態である痛みを感じたとすると、その痛みの中には痛みそのものと、私の意識そのものとが融合している。目覚めることによって、はっきりとその二つが分離するのである。しかしその分離した段階においても、その痛みが足の痛みであることが分かったときにも、それは<私の痛み>そのものなのである。私自身が<私>と<身体>に分離しながらも、私はその両方にまたがっている。この不可分離の関係が、私の身体の本質的あり方である。
 私と身体は感覚において同時に発現するが、その発現の仕方は異なっている。私の意識は感覚そのものをおおっているが、私の身体は私の感覚の部分である。単なる感覚は私の身体を生み出さない、<私>がそこに現われることによって、感覚は私の身体となるのである。もちろん身体は感覚がなくても存在しうるであろう。低温火傷のように、目覚めた時に初めて痛みを感じることもあろう。その場合、私は身体と共に存在していなかったのである。感覚あるいは少なくとも表象がなければ、私は発現しない。私が発現するときには、身体も同時に<私の>身体として存在する。
 このように発現した身体は、私が私の意識において、感覚を私の身体としておおいつつむことによって可能となるのであるが、そのことは私の意識が私の身体を生み出すと言い換えてよいであろう。すくなくとも、身体が単なる物質ではなく、私のもの(mein Eigentum)である限りにおいては。このような働きをする私自身は、感覚によって目覚めさせられはするものの、感覚そのものでも感覚の産物でもない。身体はしかし、感覚そのものであり、感覚の産物であるといえるであろう。すなわち身体とは感覚をStoff(質料)とする、意識の形成物であるといえよう。そして身体とは、私が意識において見いだす、最初の物体なのである。あるいは物体が形成されるための、基礎をなすものである。
 身体は未だに私の意識を含んでいる。この意識を排除する方向に働く私の能動的な働きが、私ではないもの、フィヒテの用語を用いれば、非我(Non-Ich)を生み出していくのである。味覚や嗅覚や聴覚は、未だに私の意識を濃厚に含んでいるが、すなわちそれらはまだ私の身体と呼んでもよいのであるが(比較的に客観化した聴覚でも、たとえば耳鳴りは私の感覚に過ぎない)、触覚と較べると、私でないものの感覚的意識が(あるいは刺激の意識が)、受動者である私の積極的な反応によって、かなり明らかにされる。しかし感覚からの自我の排除を、徹底的に推し進めるのが視覚であることは言うまでもない。身体から物体への移行は、生物においては目がそれを完成させる。生命界においては、そもそも感覚器は、膜を持った個体生命の外界との接触のために生まれている。感覚自体が外界からのメッセージなのである。それが客体化へ向かい、それを完成させようとするのは、種の維持・個体保存の当然の成り行きである。人間意識においても、それが反映している。
 意識は感覚とともに現われるが、感覚自体は必ずしも意識とは関係しないであろう。生命的には、感覚は本来無意識の機能であるといえよう。感覚は物質の反応そのものであり、生命体においては、それが外界に対するAktとして発現すれば十分なのである。眼を持った三葉虫に、意識は必要でなかったであろう。そもそも意識は、すなわち自我は、どのような必要から感覚に伴わねばならないのか。意識は感覚そのものの機能よりも、時間的にわずかながら遅れるであろうし、効果的な反応のために役立つことはなかろう。生命的にある種のゆとりが、意識・自我の発生のためには必要なのである。それは行動が複雑に、かつある種の知性を必要とするようになる場合である。このような行動をする動物になって、初めて意識の萌芽が生まれ、自我が発生したのであろう。自我が発生することによって身体意識が生まれ、身体と物体との明瞭な区別が可能となるのである。これが動物的・身体的自我のありかたである。
 この感覚の本質に則った自我のあり方は、自我を単に感覚的生命のための道具としてしまうが、すでに述べたように、身体を身体として確立させるものが、意識であり自我なのであるから、そこに意識ないし自我の能動性をみることができる。この意識の能動性は、感覚的生命の方向にそったものではあるが、単なる感覚では実現できない、身体表象の形成、物体界の形成へと進むのである。意識は最初に私の身体を見いだし、ついでそれを超越する自己疎外(Selbst-Entaueserung)を行なうことによって物体界を構成し、意識における<私の世界>を生み出すのである。世界は私の表象であるとは、その意味である。これを言い換えて、<世界は私の身体>(*注)であると言ってもよいであろう。私は私の意識において、私の身体を客体化することによって、この世界を生み出すのである。身体とは、この表象世界そのものなのである。私の独自性、唯一無二性とは、この世界の独自性、唯一無二性にほかならない。私はこの世界を、誰の世界と取り替えるわけにはいかないし、できることではない。私こそこの世界なのであり、この世界は私なのであるから。

(*正確に言うならば、Die Welt ist die Objektivation meines Koerpers im Selbst-Bewusstsein.世界は自己意識における私の身体の客体化である。)

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 そもそも意識ないし自我を、世界形成へと向かわせる根本の力は、どのようなものなのか。それは意識ないし自我に本来備わったものなのか。あるいは、ほかからの力を借りているのであるか。感覚を生みだすのは生命的な力であるから、その根底には世界意志が働いているであろう。では、自我もまた世界意志の生成物なのであろうか。意識とその認識の働きも、世界意志の道具として生み出された、単なる機能に過ぎないのであろうか。そもそも、本来認識を持たない盲目の世界意志が、何故に認識を生み出そうとするのであるか。世界意志が自己認識を必要とすると考えるのは、まさに認識者の立場から言えることであり、世界意志がそうした要求を持つとは、必ずしも言えないのである。生命界は圧倒的に無意識に支配されているのであるから。認識機能は生命界での闘争を有利にする、そのことは間違いないが、それが生命自体への反省へと向かうことは、生命そのものにとって少しも有利ではない。まして認識が精神界にまでおよぶならば、生命にとって有害な対立者となるであろう。
 ここで二重の視点から、この問題を考える。一つには単なる認識機能である。意識が認識の先天的機能を持つことは、自我の本質とは必ずしも同一ではなく、基本的にその機能が無意識であることにおいて、その原動力を世界意志、すなわち生への意志に求めてよいであろう。自我を駆って世界形成へとおもむかせるものは、盲目の先天的認識への衝動なのであり、カントや現象学が言う、超越論的自我(das transzendentale Ego)の働きといってよいだろう。いまひとつは、実在者としての自我の立場から、世界意志やその認識への衝動とは本質を異にする、反省的・自己認識的意識のあり方である。そこから超越的自我(das transzendente Ego)の意識が生まれる。
 超越論的自我は、現象学によれば、<かっこにくくる>現象学的還元の果てに、<残余>として見いだされるある種のFormであり、空虚である。そこから意識の根源の働きであるIntention(志向性)が発現し、Erfuellung(実現、充実)へと向かう。抽象的用語ではあるが、それを世界意志の認識のメカニズムと考えてよいであろう。それに対して超越的自我は、あくまでも経験的認識において発見される実在者であり、ひたすらおのれ自身をのみ対象とする、特別な意識のあり方である。そこから翻って世界を見る時、おのれとは本質をことにする異様な事象の中に投げ出された自身を見いだす。この断絶と孤立の意識から、超越への意志が生まれるのである。この点で、超越的自我は世界意志に対して敵対的傾向を持つ。これを筆者は、世界意志の生み出した世界に対する、判定者としての自我の<宇宙的使命>とも述べておいたが、それは本来、世界意志自体に関わることではないのかもしれない。超越的自我は、ただこの宇宙から<退場>することを願っているのであるから。
 このように、自我を超越論的に、すなわち先天的ないし先験的立場から考える場合と、意識の事実から進んで形而上学的、本体論的にとらえる立場とは、その根底においても帰結においても、まったく異なった思想を生むことになる。筆者の立場は言うまでもなく後者である。前者の立場からは世界意志を超越することは不可能であり、そこからはなんらの救済の思想も生まれない。カントの実践理性はいざ知らず、現象学は本来学術としてのみ成立を目指した学問であるから、なおさらである。哲学思想は純粋な学術としてもありうるであろうが、究極的には実践と結びつかなければ、自然科学に及ばないであろう。煩悩を断つために自然科学を研究する人はいないように、単なる学術としての哲学は、なんらの救済も与えないばかりか、かえって煩悩の克服には有害でさえある。もし形而上学に、それらの学術にないなんらかの価値があるとするならば、それが何らかの形で、救済への道の見通しを与えうることにあろう。自我の探究もまたそれを目指しているのである。

2018年10月17日(水)
身体の彼方へ


 この世界が、私の身体の客体化された姿であるならば、何故に私はそれを自在に支配することが出来ないのか。それが独我論的な観念論に対する、最大の反論であろう。筆者は独我論をとなえているわけではなく、私自身が意識において交渉しうる実在的・可能的な世界について探究しているのである。身体とは通常、私が私の意志や判断において、自在に動かしたり使用したりできる範囲のものである。その意味で、道具などが私の身体の延長であるとは言えるであろう。しかしこの物質界、あるいは表象として現われてくる世界のすべてが<私のもの>と言えるだろうか。むしろ、私はこの世界の中で、私ではないものと直面し、その脅威に怯えたり戦慄したりしているではないか。これをどのようにして、私の意識における認識の事実と整合することが出来るのか。
 この世界が単なる現象であり、幻(Maya)であるというのではない。もしそうならば、私は好きこのんで幻を生み出す狂人の類であろう。その可能性はないともいえないが、少なくとも私は自発的にそうしているのではない。なんらかの強制力が背後に働いている。その力は私自身ではないのである。古代人はそれを端的に<自然physis>(*注)と呼んだ。それを主観的に言い表わしたものが<世界意志Welt-Wille>である。意識は内的にも外的にも、その力によって支配されている。私の身体は、何よりもまずこの世界意志の客体化した姿(Objekitaet)なのである。私の身体は私のものでありながら、私のものでない。この二重のあり方が身体の本質である。

 「自然とは運動と静止の原因が付帯的にではなく直接的、本来的に内属しているようなものにおいて、そのものが運動したり静止したりする原因となっている何物かのことにほかならない」(アリストテレス「自然学」)。これこそがアリストテレスの自然についての定義である。換言すれば、自然とは、自然的存在者における運動と静止との原因である。かくて、運動を起こす力としての自然とは、自然物をまさに自然物たらしめているもの、ということになる。――今道友信「アリストテレス」p.203-204。

 私は私の意志によって、私の身体を動かしていると考える。その動かしている当の力は、しかし実のところ私のものではないのである。それを古代人は必然性とか、運命とか呼んだ。<意志の自由>は錯覚であり、古代人はそうしたドグマを信じてはいなかったであろう。今日の心理学においても、少なくとも意識的判断や行為において、意志の自由はないことが実験的に明らかにされている。意識の発現は、つねに実際の判断(脳内の判断)や行為よりも時間的にわずかながら遅れているのである。人間のあらゆる行為・判断は無意識の働きである、ある力により支配されている。それの働くのは人格の無意識的部分であるから、それは身体に属してはいても、私の意識には関係していない。身体は私が自由にしているのではなく、身体が身体を操っているのである。さらに言えば、意識もまた身体の無意識的働きによって操られているのである。
 身体にしてすでに、その働きにおいて私の力の及ばないところで働いているのであるから、まして私の意識の客体化された世界全般においては、私の力の及ぶところはまるでないといってよい。そもそも私は、身体的存在を始めたことによって、すでになんらかの牢獄に閉じ込められているのである。私はそれが牢獄であることも知らずに、私の全世界として拡張し、探究し始めるのである。子供のころ古家に引っ越した時のことを思い出す。家に着いたとたん、興奮にとらわれて、家中の障子という障子、押入れという押入れを開けてまわったが、すぐに尽きてしまい、たいして広くもないので、がっかりさせられたことを思いだす。全宇宙はそれほど狭くはないが、探究に限りがあることに違いはなかろう(人間の情報能力は全宇宙の情報量には及ばないとされる)。この限られた世界、いわば収容所の中で、強制労働についているのが私の身体であるといえよう。
 この宇宙は私の身体の客体化、すなわち私の意識の自己疎外における外化の産物であると同時に、身体を生み出したそもそもの力である世界意志の客体化でもあるのだ。それが表象としての世界の、二重の本質である。私は世界意志の産物である世界を、物質の世界(physis)と見なすと同時に、それが私の意識によって成立していることを知るのである。私の意識は、いわばこの世界の現象的存在の、共犯者であるのだ。意識がある所に、世界は現象する、すなわち表象として発現する。意識のないところに世界は、少なくとも表象としては存在していないであろう。それ自体としての世界がどのようなものであるか、自然科学が前提とするような世界は、すくなくとも<概念>としては考えることが出来ても、意識がその中にとらわれているこの世界とはまったく違ったものであろう。そもそも世界は意識を必要としていないのであるかもしれないし、そうならば、世界のあり方にとってこの現象界は、たしかに幻のようなものであろう。この幻のさなかに、自我は自己自身に目覚めるのである。
 自我の目覚めをうながすものが、世界のいま一つの本質的要素であるイデアであることは、すでに述べたところである。イデアは単なる思索のための概念ではなく、それが形相因として世界意志を導くことによって、この世界の構造を成立させ、さらに表象における本質として現われることによって<美のイデア>として意志を沈静させる。この契機によって、自我は自己自身への反省へと向かい、そこに超越的純粋自我を見いだすのである。ここに身体から離脱した自我の解放の可能性が開けるのである。それと同時に表象としての世界の解消への道が、少なくとも自我のレベルにおいて、模索されうるのである。

2018年10月24日(水)
自我と情念

 意識は感覚もしくは感性(sentience)をその質料とする働きである。この感覚的意識のなかでも、最も内面的であるといえるのは情念である。この情念という用語は、ほかに感情とか情動とか情熱とか気分とか、すべての内面の感覚の中で臓器感覚や快苦以外の、直接的な自我のあり方もしくは状態を表わすものとしておく。もちろん情念は臓器感覚や快苦の感覚と密接に結びついてはいるが、それらと切り離されて考察することが可能である。快苦や通常の感覚は、感覚器との結び付きが強い。それに対して情念は、思考と同じく、特定の感覚器を持たない。それ故に特別の扱いを受け、魂や霊魂などと呼ばれたりするのであるが、すべての感覚の働きの中心は脳の神経細胞の働きにあり、その点で情念も、さらには思考も、他の感覚と特別違ったものではない。それらは脳の階層や、部位において、区別されるに過ぎないのである。
 しかしながら、脳がこのような階層や機能の部位を持つことから、ある種の質的違いが生まれてくる。単なる感覚と情念、情念と思考、情念と意志や欲望との間には、明瞭な意識の区別がある。このことが自我のあり方に密接な影響を及ぼすのである。とりわけ情念と思考との間にはある断層があり、場合によっては矛盾と分裂を起こしかねない。感覚と情念の間にはそのような断層はなく、ポジティヴ(快)であれネガティヴ(苦)であれ比較的スムーズな関係が築かれている。それは本来情念は行為と結びついており、感覚が与える情報に迅速に反応しなければ、そもそもその存在意義が失われるからである。(たとえば、恐怖や怒りや喜びが、対象に対する行動を速めたり、躊躇させたり、逃避させたりするpronpterとなる。)
 情念と意志・欲望との関係は、より複雑である。欲動と情念とは時に区別しがたいばあいがあり、また逆に、情念を伴わない意志行為や欲動もある。食欲や性欲は、情念以前のより根源的な生命の働きであるからだ。そこには当然情念との矛盾が起こりやすい。しかし、たいていは情念が譲ることになる。それに対して、もっとも大きな断層のある、情念と思考との間には、共存することが不可能な場合も起こりうる。どちらがどちらを支配する、といったような関係ではないのである。
 思考は本来情念や欲動とは無関係な、認識の論理的な働きである。思考がスムーズに働くためには、情念や欲望をいったん離れ、ひたすら思考にのみ意志の純粋なエネルギーを向ける必要がある。情念や欲望を犠牲にしなければ、思考はまともに働かないのである。しかし、このことをなしうるのは、思考そのものではなく、情念や欲動に対してネガティヴに働きうるなんらかの意志の力がなければならない。すなわち、情念や欲動のある勢力を、おのれの味方につけなければならないのである。それはなんらかの利害による誘導であったり(試験に受からなければ落第する、将来有利な地位につくために、などなど)、精神的目的(神の意にかなうため、等とう)であったりするであろう。いずれにせよ、そこに思考と情念の間ばかりか、情念そのものの中に矛盾や対立が生まれるのである。デカルトやスピノザが、知性によって情念を支配しようと企てたのが、実践不可能な、まったくのナンセンスであったのもその故である。

 さて、このような情念の他の心的機能との関係であるが、そもそも情念とはどのような意識状態であるのか、そのことを探究してみたい。情念は意識の発生と同時に発現すると考えてよいであろう。なにかの反応として現われるのではなく、そもそも意識と同時に、いわばdefault(初期)状態としての情念が存在する。そのような情念は気分(Stimmung)と名づけられている。特に際立った感情があるわけではなく、ある種の快適さはあるが、際立った快ではなく、どこかに不快が感じられるとしても、際立った苦でもない。なにか特別に刺激するものがあるわけでも、特別な欲動が動くわけでもない。ぬるま湯にひたっているような、ある種のかすかな心地よさである。それを情念の原意識(Ur-Gefuehl)と呼ぶことにする。
 自我がその状態にひたっている時には、外界からの刺激にはほぼ無関心であり、特に対象としての意識がなく、外界と意識とが溶け合うような状態にある。とりわけ、内界の状態に、この情念の原意識の状態が特徴的に現われる。自我は、この気分の中に自己自身を包みこみ、その状態そのものが自己であるかのように感じる。そこに自我の完全なる世界、全宇宙があるように感じるのである。そこからふと、自我の眼が対象の世界にそれることがあると、ある異様の感に打たれる。そこに現われているものが、無意味の世界に思われるのである。この無意味の感は、対象の世界にはかぎらない。さらに思惟が働き始める時、そのような思惟によって考えられる概念世界が、いかにも別次元の世界に思われ、現実性を失うのである。自我と一致した気分こそが、自我の本領であり、絶対の価値の世界である。その世界から、自我はどのようにして<追放>され、非我の世界へと投げ出されていくのであろうか。
 情念のdefaultの状態では、心はいわば Meeresstille(海のなぎ)の状態にある。そこには騒ぐ風も、波のうねりもない。この心のなぎの中に、ふいに内部からわきおこる衝動や、外からのなんらかのシグナルが、さざなみをたてる。さざなみはたかまり、うねりとなって心をいたたまれなくする。それはなんらかの身体のAktを要求するのである。この絶えざる衝動や、外からのシグナルが、ブルックナーの交響曲のように、心を、すなわち自我を、外へと連れ出すのである。その波やうねりが、意識に発現する、不安や、惧れや、怒りや、喜びなどの情念にほかならない。
 情念の原意識においては、すなわち意識が気分と一体化して、そこに自我そのものを感じている時、それは同時に、自我の最初の身体意識であるともいえよう。それは最も漠とした、特にこれという形を持たない、まさにつかみどころのない身体的自我のあり方である。情念とはそのようなものとしての身体なのであり、それについて本質的に言えることは、それがもっぱら感覚の質(クオリア)からのみなる身体であることだ。自我の躍動する内的身体、それが情念の本質である。身体を持った自我は情念とともに、世界に投げ出されるのである。自我はそのような身体としての生命的な宿命をもつゆえに、情念もまたdefault状態にとどまることができないのである。
 しかしながら、自我がその世界内存在としての出発点において、<心のなぎ>の状態にあったということは、おのずと自我の帰るべき世界が指示されていると言えなくもない。たぶん、自我のこの Meeresstille の状態は、哺乳類の胎内での状態にさかのぼるのであろう。あるいは、さらには単細胞生物の安定性にまでさかのぼるのかもしれない。いずれにしても、生命は必ずしもelan vitalを本質とするとはかぎらないであろう。本質においては安定性を目指しているともいえるのである。それが普遍的に実現できないのは、生命自体の欠陥ではあるが。
 自我は絶えずこの情念のデフォールト状態である<心のなぎ>に帰ろうとする傾向を持つ。この自我自体ともいえる根源的気分においては、すでに述べたように、それ以外の世界は意味も価値も失う。そしてこの状態は、たいていの恵まれた人が幼少年期に体験しているものであり、それが真の<幸福>であることも直感的に知っている。人間ばかりか、高等動物においても、この状態を窺わせる、生の安らぎを観察することが出来る。とりわけ、類人猿において、あたかも哲学的思索にふけるかのような趣を見せる場面に出くわせば、彼らがこの心のなぎにあずかっていることが、容易に推測できるであろう。生命が生の始めにおいて生物にこの心的状態を用意していることは、生の究極の目的が、同じ状態の復元であるという、啓示でもあるかもしれない。そうであるならば、無数の生物が生の始まりとともに、たちまちにして滅びるとしても、すでに一時ではあれ真の幸福を味わっている以上、生が一瞬であれ、百年生きようと、さしたる違いはないということになろう。この弱肉強食、四苦八苦の生命界において、個としての生命に与えられた、自然界の恩寵のようなものであろうか。