テーマ別ねころぐ


自我の探究(6)―全体への意志と自我

マリネンコ文学の城Home

Contents自己欺瞞としての民主主義/クーデター民主主義(1)/クーデター民主主義(その2)/民主主義の終焉/戦争・テロ・ファシズム・全体への意志・人類の終焉/生命体の排除の原理と人類社会/全体への意志と個の運命/人類史の悪夢1/人類史の悪夢 2/憎しみの哲学/死と快楽


自我の探究(6)―全体への意志と自我(文明・社会論)

2013年7月11日(木)
自己欺瞞としての民主主義

 民主主義ははたして人類にとって必要な制度であるか、あるいはそもそも人類にとって適した制度であるか。アリストテレスは民主制を衆愚政治としてしりぞけたが、アリストテレスやプラトンが理想とする貴族制や賢人の支配といったマイルドな専政体制から見れば、専政制度としては愚劣な、不完全な体制と映ったのであろう。
 人類社会はその大小を異にしても、その本質において全体への意志に支配された集団であることは、既に何度も述べた。未開社会のいわゆるゲマインシャフト(共同体)から始めて、農業国家、都市国家、遊牧王朝、全てにわたって、国家とは集団の意志の発現に過ぎなかった。家長や王や専制君主や皇帝や、天皇は、全体への意志のシンボルに過ぎなかった。全ての人間が、それらのシンボルにおのれの意志を仮託したのである。全体が全てであり、個人は無であった。無である個人は、全体への意志の中で、初めておのれの存在を獲得することが出来た。
 人類にとってもっとも相応しい政体は、実に専政制度なのである。それこそが最もよく、人類が全体への意志を発現できる道なのである。人類史を観察してみれば、このことは誰しもすぐに気づくことである。ごく一部の観念的錯誤を除いて、誰もが専政体制を望んできた。あるいは望むと望まぬとに関わらず、結果的につねに専政体制が生まれた。唯一例外と見なされているのが、フランス革命とともに生まれた、ヨーロッパに特有の政治観念である民主主義である。
 ジャコバンの民主主義が、たちまち権力争いからナポレオンの専制に終わったことは誰もが知っている。幾人もの王の首を切ったイギリスの民主主義が、いまだに王政を後生大事に維持していることも、人民の、人民のための、人民による政府が、人民の盗聴を行ったり、他の国(エジプト)のクーデターを支持していることなども、今さら民主主義の不完全などと言う人はあるまい。民主主義の本質があらわになっただけである。いみじくもオバマはエジプトのクーデターを非難することは国益に反すると言う。民主主義国家の国益とはなんであるか。それこそまさに全体への意志を体現した、国家の利益であり、あらゆる専制国家がおのれの利益とするものである。グローバリゼーションの名で、民主主義を世界に売り込んで来たアメリカの馬脚が現われたといってよい。アメリカにとって民主主義とは、自国の利益を拡大するための都合の良い手段、口実に過ぎないのである。その根本に民主主義の欺瞞がある。
 民主主義は少なくとも、これまでの制度の中では欠点が少なく、ましな制度であると、擁護者は言う。しかしあらゆる政体は全体への意志の発現であり、民主主義もその例にもれないとすれば、専政体制としてはもっとも不完全な体制であり、その不完全さをよしとするならば、徹底して不完全でなければならないであろう。その窮極は全体への意志の廃棄である。国家の対極にあるものを追求するのが真の専制の否定であろう。権力の監視や、代議政体や、選挙などは、欺瞞であり、偽善であり、もしそれに気づいていないのなら全体への意志に操られた無意識の自己欺瞞である。
 そもそも多数決などという民主主義の<原理>が、このモノの本質を暴露している。多数の意志を実現する、そのもっとも良い方法が専制であるが(専制国家の本質を調べれば、それが決して専制君主の気まぐれを満たすものでないことがすぐに分かる)、人類の意思が一致しなくなった時代に、民主主義は良い方便として現われた。利害と利害とがぶつかる時に、もはや伝統的専制は機能不全となった。その時、利害を交代させる制度として、民主主義が発明されたのである。しかしこれが比較的うまく行ったのは、西欧諸国に限られた。西欧の資本主義とうまくマッチしたのである。資本家と労働階級、この二項対立が多数決の原理を生み、議会制民主主義を可能にしたのである。
 しかしそれは人類の普遍的制度とはなり得なかった。西欧以外では専制主義を必要としたのである。それは露骨なロシアのボルシェビキのみならず、アジア全般、中近東、南米において、西欧資本主義が輸出しようとした民主主義の無残な挫折によって知られる。共産主義が<真の民主主義>を名乗ったのなどは、民主主義の本質からして正しい茶番であった。現今において、アメリカが世界に輸出しようとしている民主主義なるものも、単にアメリカの<国益>であることが知れてしまった以上、誰も本気にはしないであろう。
 日本において、民主主義が専制の婉曲語であったことは、もはや誰の目にも明らかである。二大政党制などという、西欧でのみ可能なたわけた妄想がこの国で通用するなどと考えたジャーナリズムも愚かだが、この国ではいまだかつて政権が仲良く交代したなどというためしはないのだ。つねに権力は一つであったし、一つであることを志向した。それがこの国での<多数決>である。まかりまちがって、権力すなわち利害が乱立した時は、象徴天皇という切り札がとってある。この<玉>の名のもとに、権力が一極に集中されてきたのである。戦後は民主主義が実に都合の良い隠れ蓑となった。しかし邪魔になれば、その背後にある全体への意志、専制権力への意志が露骨に顔をのぞかせる。国益が全てであり、それに反するならばもはや隠れ蓑はいらない。憲法であろうとなんであろうと、かせとなるものはすべてとり除く。それをエジプトのように軍のクーデターではなく、民主的選挙で出来るのだから、これほどありがたいことはない。民主主義万歳!

2013年7月29日(月)
クーデター民主主義(1)

 民主主義のモットーを一言で言えば、<民意>につきるであろう。民衆(デモス)の多数の感情・意思を制したものが、政権につく、これがデモクラシーである。その方法は、必ずしも選挙や議会制である必要はない。その社会の特殊な事情に応じて、民主主義の方法はさまざまでありうる。要は<民意>をいかに味方につけるかである。
 そもそもいかなる政体であっても、ある程度の民意を考慮しない政権は存立しえない。あらゆる専政制度も、<民意>の上に立ってその支配体制なり、官僚制を構築するのである。古代エジプトのピラミッド建設も、奴隷労働ではなく、失業対策であったことが明らかにされている。中華帝国の支配者達も、治水などの公共事業なしには民の支持を得られなかった。パンを食べれない貧乏人は、ケーキを食えと言ったとされるマリー・アントワネットは、首を切られて当然であった。
 あらゆる政体は<民意>をないがしろにしては存立しえないのであるから、民主主義ほど普遍的な政体はないということになる。特に<民主主義>などというものはないのである。いかに民意を取り込み、味方につけるかの違いが、政体のヴァラエティーを生むのである。そういうわけであるから、エジプトにおいて、軍事クーデターによって政権交代が起こったことは、少しも意表を突いたことではない。軍事政権が拠り所にしたのが<民意>であることが、ことの本質を暴露している。
 クーデターであろうが、革命であろうが、成功し、存続するためには<民意=民主主義>が必要なのである。それをポピュリズム(大衆迎合)と呼ぼうと、なんと呼ぼうと、基本的に民主主義とポピュリズムとは区別つけがたいものである。民意を呼びこむ政権が、民主政体なのである。軍はもともと権力を持った集団であるから、政権に最も近い位置にいる。この立場を利用しない手はない。歴史上ほとんどの政権が軍事政権であったと言ってよいであろう。その伝統は今に続いている。まだるっこい選挙や、議会などに頼らず、民意を操作してあっさりクーデターを起こせばよいではないか。これはごく自然な、<民主的>発想である。民衆もまた熱狂的に歓迎する。
 いったん政権につけば、自分らの強権や暴力は、これまた民意に基づいて発動できる。“テロや暴力”を相手の側に押しつければよい。自らが最大のテロであり暴力であることを熱狂した民衆に忘れさせる。これはロシア革命やナチスの取った方法でもあり、今さらエジプトの専売特許ではない。
  *  *  *
 穏やかな選挙によりマイルドな専制を成立させた日本では、民意の操作は、この国の国民らしく<金儲け>によって行われた。金融操作によって、株価を吊り上げ、円安によって輸出企業の利益を押しあげることによって、何となくリッチな気分に日本全土を巻き込んだのである。が、政権確保という目標が達成された今、国民が何一つ変わっていないおのれ自身に気づくのも、そう先ではないであろう。実質のともなわない、掛け声と期待だけのギャンブル経済、はったり政治は、いずれ化けの皮が剥がれるであろう。
 (PS:もと総理の副首相は、実に正直に、ワイマール憲法をなしくずしにした<ナチスにならえ>と発言している。(8/2))

2013年8月19日(月)
クーデター民主主義(その2)

本来文学サイトであるこのホームページで、もともと政治などには無関心の、ノンポリの筆者が、今回のエジプト政変に、やけに興味を示していることを、身内から不審がられていますので、少々弁解を。
 たまたまニワトリ新聞(毎日)で、事態のニュースを追っているうちに、これまで私の中であいまいのままでいた人類史の真実が、ふいに啓示されたような気がした。6千年の歴史を持つ、人類最古の文明国の、今日の有様を見て、古くから言われている洞察、人類は道徳的にも政治的にも、いかなる進歩も遂げていないということが明らかになったのです。人類が道徳的に少しも進歩していないことは誰もが認める真実です。しかし政治的には、18世紀以来やたらと進歩主義が幅を利かせました。それもまた幻想であることが、20,21世紀にかけて、誰の眼にも明らかになったのです。
 今回、エジプトのクーデター政権は、相手の宗教政党を<非合法化>するといっています。もともと非合法なクーデター政権が(<超法規的>と都合よく称しますが)、居直り強盗よろしく、本来正当な政権を非合法化するというのです。どこかで聞いた光景です。ナチスの場合は少なくとも合法的に政権を握って、共産党を非合法化したのですから、ナチス以上にあくどいということです。といってイスラム政権を特に応援するわけではありません。権力争いの醜さをここにみるのです。
 クーデター政権を応援する若者たちが、<民主化>を標榜するのも笑止です。今回もっとも筆者にとって啓発的だったのは、明々白々たるクーデター政権に対して、黒を白と言いくるめているアメリカ<民主主義>の態度です。民主主義をなんとなく聖域として、それに対する疑義を解決できずにいたのが、目からうつばりがとれたように、その正体が明らかになったのです。民主主義は決して完成するものではない、もともと不完全であり、中途半端であり、それゆえに権力にとっては都合の良い制度なのである。民主化や、民主主義の成熟などということは、人類が道徳的に進歩するのを期待するのと同じほど馬鹿げたことです。現今の人類の、知的、道徳的程度に相応しい、あいまいな、原始的な、度し難い制度なのです。
 道徳的、政治的に進歩のない人類を待ち受けているのは、<没落>以外にはないでしょう。シュペングラーではありませんが、植物の生と死にたとえたくもなります。ローマ帝国の盛衰は、今現在であるかもしれません。土木技術の発達は、ローマ帝国を救えませんでしたが、道徳的、政治的に進歩のない人類が科学技術を振り回しても、文明の没落を防ぐことは出来ないでしょう。 

2013年12月7日(土)
民主主義の終焉

 民主主義(民主制)とは古代のアリストテレスにとっては衆愚政治のことであった。愚かな民衆が数を頼んで政権を握り、好き放題のことをし、ついには僭主制(個人的利益を追求する)におちいる。実はこういう制度は歴史上そうはないし、長続きもしなかった。人類の政治制度は、王政であれ、帝政であれ、独裁制であれ、圧倒的に専政制度(強権でもって支配する)なのである。
 近・現代の民主主義は、もちろん単なる衆愚制ではない。専制への反乱として生じた近代の民主制は、少なくとも圧制への抵抗という所期の意義を持っていた。だから議会制であれ、労働者の独裁、あるいは党の独裁であれ、何らかの圧制への抵抗に民衆の力を借りるという点においては、民主主義を名乗ることが出来たのである。その意味では、ヒトラーもレーニンも、その権力掌握の手段においては、リンカーンに劣らず民主主義者であった。エジプトのクーデターも、この国の一党独裁も、すべて民主主義なのである。少なくとも民主主義の末裔である。
 こうした<民主主義>は、それならば本来の民主主義の変貌したものなのであるか、あるいは成熟度の足りない民主主義なのであるか。そうした問いは、世界の民主主義なるものを見わたせば、すぐに無意味であることがわかる。民衆もしくは国民から離れた権力または権力機構のない政府はどこにも見られないし、民主主義が永遠平和を実現した例は、ユートピアを除けば皆無なのである。文明の発生から一万年近く変化のない人類の性質を考えると、人類がこの先政治的に進化することなどは不可能に近いのである。
 それでは近・現代人をたぶらかし続けている<民主主義>とは一体なんであったのか。一言で言うと、人類に生得的にそなわっている、専制権力への意志を、都合よくカムフラージュする仕組みであった。歴史上、権力を握る方法は主として軍事力であった。これが人類政治史のほとんどを占めている。ついで、経済力が、軍事力から独立して、背後から権力を操るようになった。軍事力を持たない経済力は、軍事力の下位に立たずに独立するためには、別の力が必要であった。それが数の力、すなわち民衆の支持であった。ブルジョワ革命は、民衆の支持なしには成り立たない。そこに復活したのが古代の民主制の概念であった。しかしそれは、民衆からの自発的な権力への意志ではない。それを煽ることによって権力を掌握しようとする勢力の権力意志なのである。
 こうした事情から、近代民主主義は、初めから欺瞞を含んだ制度であった。基本的には、あらゆる政治制度の変遷は、権力闘争なのである。権力闘争の果てに生まれた民主制が、権力への意志に奉仕しないわけはないのである。このことに気づくのに、人類は数世紀をかけている。21世紀がまさに民主主義神話の終焉の世紀である。人類は潔く、おのれの権力意志の本性を認め、元の専政制度に還るか、全く新たな道を模索する他はないであろう。その合い言葉は、もはや<人民の、人民による、人民のための政治>というごまかしではなく、そうした欺瞞を排した、人類の本質に根ざした探求でなければならないだろう。専制に対抗するのは、絶対的<自由>の他にはないのである。
 人間が最も幸福であると感じるのは、自己自身が内的にも、外的にも、なんらの拘束を感じることなく、思うままに生活できていると感じられる時である。あらゆる苦難や、悩みの中で、ふとおのれは自由に生きられる存在なのだと感じることによって、解放感と希望がわいてくる体験を誰もが持つであろう。この誰もが願う自由を実現する社会こそが、人類の窮極の目的であるはずだ。それは幸福の実現でもあるのだから。
 国家は、あらゆる政権は、この自由を侵害する限りは、ブラックな専制国家であり、専制権力である。民主主義も、国民の盗聴をしたり、秘密情報を独占したり、クーデターを許したり、などをするかぎり、ブラックな国家の擁護者である。あるいはブラックな国家の都合の良い道具であり、その意味で悪しき制度である。

2016年7月17日(日)
戦争・テロ・ファシズム・全体への意志・人類の終焉

 戦争とテロは本質的に同じ性質を持った、生命界の現象である。種と種、あるいは種内での、生存のための戦略ないし戦術は、通常は自然選択という無意識の、あるいは偶然の過程であるが、それは必ずしも相互の殺戮や一方の絶滅に終わるわけではない。戦争やテロは、環境の中での相互の適応のひとつの極端なあり方にすぎないのである。増えすぎたイナゴが植物を食いつくすのも、環境のバランスを崩す戦争であり、飢えた熊が海鳥の巣を襲うのは、海鳥にとっては思いがけないテロである。戦争もテロも、規模こそちがえ、無差別に殺戮することにおいては同じであり、その動機は、さまざまではあっても、生命界に共通した、生存競争という原理にもとづいている。
 生存競争とは、一言で言えば、生命体がその存続のために他の生命体を犠牲にするということである。その結果が生態系のピラミッド構造である。その頂点に人類が増殖することによって、きわめて頭でっかちな構造となっているのが、現在の地球での生命の現状である。かつてライオンのような少数の猛獣が頂点を極めていた安定した構造では、戦争やテロは、すなわち生存競争は、安定した生態系を作っていた。食いすぎてもだめ、食われすぎてもだめという、バランスの取れた生態系が自然に生まれていたのである。そうしたバランスを崩すものは、天災のような自然現象にかぎられていた。ところが人類の登場によって、生命界はがん細胞におかされた肉体のように、異常な肥大と生存競争の極端な激化をこうむりはじめるのである。農耕と牧畜が、地球の生態系を劇的に変えていった。そしてその影響を最も蒙っているのが、他ならぬ人類そのものなのである。
 現生人類が誕生してから十数万年の間は、低い文化ではあっても、人類の生活は急激な変化もなく安定していた。それが一万年前に農業革命が起こって以来、わずか一万年の間に、都市革命、精神革命、産業革命、情報革命と、矢つぎ早に、かつ加速的に、人類は<進歩>をとげてきた。これはある意味で、生命の安定性の犠牲の上に、進歩が成り立っているということである。恐竜は隕石の衝突によって滅びはしたものの、少なくとも数億年は安定した生存を続けてきた。毛嫌いされるゴキブリは、さらに長く安定した生存を続けている。ところが人類は2020年には、終末期の始まりを迎えるというのである。2050年には人口は百億に達し、飢餓によって大量の人類が滅びる。そのピークを境に人類の崩壊の時期が始まるのであるという、科学による予言である。
 文明の進歩とともに、人類のきわだった特徴をなすものは、種内部での抗争の激化である。地球という限られた範囲内での縄張り争いは、19世紀から20世紀にかけて頂点に達し、前世紀には二度の大戦を経ている。戦争の教訓は、少しも平和をもたらしていない。グローバリゼーションという、帝国主義に代わる新たな覇権主義が、民族・国家間の格差を広げ、戦争やテロを触発している。経済が国際化するということは、自給自足的な平和な社会のあり方を崩壊させ、攻撃に対する防禦の本能から、社会集団が戦闘的になっていく。戦争は基本的に集団と集団の間の利害の対立から起こる最終的解決手段であり、テロもまた基本的には数において不利な集団が、多数の集団に対して取る戦法の一つに過ぎない。ただ戦争においてはある種のルールがあるのに対して、テロではそうしたルールにかまっていられないのである。真珠湾攻撃は、もし宣戦布告がなければ、単なるテロであったろう。テロも予告があれば、十分に戦争といえる。戦争であれテロであれ、それが起こる必然性は人間性human natureそのものの中にあるのである。
人類史の始まりから、集団と集団の関係は、個と個の関係の上位にあった。個と個が争うことがあっても、それは集団同士の争いとは比較にならなかった。個の間の争いが集団に影響を及ぼす場合には、裁判によってかたをつけることができた。どちらかが責めを負い、あるいは責任の分担を求められた。特定の個人の間の争いは、当事者の間にとどまるのである。それに対して集団が争いに加わってくると、集団に属するすべての人間が争いの当事者となる。そこにはもはや当事者の顔がない。あるいは顔があっても、それはもはや敵としての顔であって、どんなに親しい人間であっても、敵として殺戮の対象となるのである。その例は「平家物語」他の中世の軍記物で、いくつもあげることができよう。
 かつての戦争はそうした人間臭いエピソードも可能であったが、現今アメリカなどが行っている戦争は、まったく顔のない戦争であり、無差別であり、集団間の戦争の最も合理化された姿をとっている。空爆のもとに殺戮されているのは、戦闘員ばかりでなく、老若男女すべての敵集団の成員である。アメリカはすでに広島・長崎でおなじ無差別の集団殺戮を平然と行ってきた国である。しかしアメリカ人は特に人類として変わっているわけではなく、平均的な人類であり、アメリカ国民がなしてきたことはすべての国民、民族がなしうるのである。そのアメリカが、テロ集団の無差別殺戮を非難するのは笑止なことであるが、テロ集団もまた同じ非難をアメリカに向けるのは当然である。ここで本当に非難さるべきは、人類の戦争体質である。これを根本的に究明し、反省しないかぎりは、人類の終末期を早めるばかりである。
 人間が争う存在であることは、生物の常として、如何ともしがたいであろう。しかし大がかりな戦争を行うのは人間に限られている。この根本に集団主義があるのは容易に見てとれる。狩猟採集民である間は、まだしも集団間の争いは少なかったであろう。農業革命と同時に大規模な集団が作られることによって、土地争いの形で戦争が発生した。これが戦争の起源の定説であるようだ。生産力の増大とともに土地の支配権は広がり、都市が生まれ、支配被支配の関係が生まれた。集団内部での権力の行使は、貧富の差をもたらしはしたものの、むしろ個人間の争いを抑える方向に働いたろう。それは戦争ほどの悲惨をもたらしはしなかったであろう。集団全体が、他の集団からの脅威にさらされる時、だれもが戦争の犠牲となりかねない。集団同士の利害が衝突する時、どちらかの集団が滅びる他はないのだ。小さな集団が沢山あるほど、各集団は不安定である。より大きな集団形成へとおもむかざるをえない必然性がそこにある。アレクサンダーが遠征し、ローマが帝国を作った根本の衝動は、戦争によって戦争を終わらせるという集団の不安定性にあったろう。逆説的だが、戦争をなくすには戦争によってより大きな集団を作るほかにはないのだ。少なくともこれまでの歴史はそうであった。
 戦争は集団間の争いであるから、集団は常に<戦争のできる>集団体制を準備しておかねばならない。個人よりも集団を上位に置き、いざ戦争というときに、顔のない戦闘員として、同じく顔のない敵戦闘員を殺すことができなければならない。<滅私奉公>が説かれ、<愛国心>が強調され、<道徳>が強調されるのもこのためである。あらゆる集団、あらゆる国家は、戦争のできる体制である限りは、ファシズムであり、全体主義である。人類を一体にさせるものは、じつは愛や同情や共感ではなく、集団の本能的に抱く他集団への恐れであるといえよう。もしそれがなければ、集団内部での自給自足ほど、ここちのよい平和な社会は無いであろう。自然界には、生存競争に対処するために、集団生活を選択した動物が多々ある。個としてのシステムの安定のために、上位のシステムに包みこまれようとする、<全体への意志>がそこに働いている。人類においても、この全体への意志が集団を形成させ、戦争を遂行する意志となって現われている。戦争においては常に、より上位のシステムが求められているのだ。それはローマや、ナチスに限ったことではない。
 個の意志はこの全体への意志に呑みこまれ、無人格の一要素として、戦争を可能にする集団体制のシステムを<創発>する。無力化された個人は、圧倒的な、神秘な、集団の意志の前になすすべもなく、他集団の殲滅へと駆り立てられていく。これがあらゆる戦争のできる国家でくり返される、個の無化であり、神格化された全体の意志の崇高な使命に酔いながら、喜んで死を受け入れるようにさせる、戦争とテロの本質なのである。全体への意志があるかぎりは、戦争とテロをなくすことは不可能である。人類は飢餓を待つまでもなく、戦争によって必然的に滅びへと向かうほかはない。争いは生命の法則であるからだ。もしそのとおりならば、21世紀はこれまでの大戦とは比較にならない、未曾有の戦争の世紀であることになる。その条件を、核兵器を始め、様々なハイテク兵器が生み出している。人類の集団間の、経済的、思想的、宗教的争いは、いよいよ溝を深めている。イスラム国などは、その欲望が古代的であるだけに、対話すら不可能であるかもしれない。このような時代に、個人はどのように自己を防禦したらよいのであろうか。
 人類は類として滅びても良いと思う。集団の意志、全体への意志が、人類の類としての存続と進化を支えてきた。それがいまや暴走しつつあるのならば、類としての存在をもはや見放すほかはないだろう。個だけが残れば良い。個は基本的にエゴイストであるが、それ故に戦争を嫌悪する。エゴイストは、個の対極である、集団の意志に呑みこまれることを潔しとしない。エゴイストにとって個と個の関係が、善きにつけ悪しきにつけ、すべてである。個であることの最も先鋭な意識でのあり方がエゴイズムなのであるから、個を消滅させようとする集団や国家の意志とは真っ向から対立することによって、身内の敵として攻撃や迫害を受ける。集団内部での洗脳や粛清、システム内部での異物の排除、いわば身内に向けられたテロによって、集団や国家は戦争を準備してゆく。そうした集団の圧迫に対して、エゴイストは狡猾に身を隠すことを強いられる。さらにエゴイストは、彼自身が一つのシステムである以上、彼自身の内部にある全体への意志とも常に闘っていなければならない。彼はエゴイストとして狡猾に上位のシステムにもぐりこんだとしても、それをいつでも覆せるようにしていなければならない。そうして時期を待つのである。
 類としての人類はもはや終焉を運命づけられている。エゴイストは、個としての人間の唯一の希望である。エゴイストは類を越えた超人でなければならない。人類の生命体としての宿命を乗り越えた、個の運命を生きる超人でなければならない。それによって全体への意志を克服し、戦争を克服する、これ以外に<人間>の未来はない。

2016年10月3日(月)
生命体の排除の原理と人類社会

 生命の個体システムには、システムとして不要なもの、または有害なものの排除の機能がある。一つは細胞の自殺アポトーシスであり、いまひとつは免疫系である。死の本能があるとすれば、生命の絶対の肯定である生への意志と矛盾することになる。個体の細胞がアポトーシスすなわち自殺へと追いやられるのは、細胞自体の意志ではない。それは必ず上位のシステムである集団の意志が、個体の意志を無化し、自殺へと追いやるのである。この意味では、細胞のアポトーシスは、全体への意志に個の意志が飲みこまれ、無化されて、さらには全体への意志の指令に従って、全体のためにおのれを犠牲にする過程にほかならない。実はこのことは人間社会においてもっと明瞭に現われているのである。
 自殺は意志の倒錯であるとショーペンハウアーは述べたが、個の意志そのものから自殺への意志が発するのではなく、必ず集団内部における何らかの圧力が、個の意志の自己否定へと向かわせるのである。このことを最も顕著に表わしているのが、封建社会における切腹であり、また戦時における特攻である。切腹という自殺は、日本では唯一公認されていた自殺である。それを責めるものは少ない。社会集団の中では、それは立派な行為とみなされ、それを個人的意志から拒むということは、見苦しい行為であるとされる。切腹は場合によっては刑罰であるが、それを与えられるということは、切腹自体が強いられたものであるにせよ、名誉なことであるとされる。腹を切れと命じられることは、それが集団の中で意味を持つ死であるという点において、社会的慈悲なのである。それゆえに侍たちは嬉々として腹を切っていった。自殺によって、自らの社会的地位にふさわしい責任を取ったのである。これが基本的に細胞のアポトーシスと同一であることは、容易に見てとれる。
 戦争は基本的に個人的意志を集団への意志に解消させ、他集団の殲滅へと向かわせる集団間の闘争であるから、もとよりそこでは個の意志の働く余地はない。個の意志は全体の意志のために、身命を賭して闘うのであるから、もし個の死が全体に益するならば、当然ながら自殺を強いられることになる。特攻精神、すなわち全体のためならば自殺をもいとわないという犠牲精神は、もちろん強いられた自殺であるが、切腹と同じように、やはり社会的に承認された名誉の自殺なのである。細胞のアポトーシスが、システム全体のために必要であるのと、根本において違いはない。国のために死んで来いと命じられるのである。そしてそのことが、自殺に対する崇高な思いとなって表われ、若者たちは嬉々として死地におもむいたのである。
 生命のいまひとつの排除のシステムである、免疫機能は、システム内部から異物を排除しようという働きである。アポトーシスがシステムにとって不要かつ障害となる内部分子の排除、または個々の細胞の自殺によるシステムへの貢献であったのに対し、免疫機能は他システムへのシステム全体としての防禦機能であるといえる。システム自体は一個の個体としての統合であり、自己保存のために有害な異物を排除しなければならない。この免疫機能は、やはり人間社会においても明瞭に現われている。免疫機能は本来システムの外部に向かうものであり、すなわち人類社会では集団間の闘争、戦争となって現われている。外部からの侵略に対する免疫機能が戦争である。それは一見全体への意志に反するようであるが、集団と集団が全体として統合されるためには、相手集団の免疫機能の破壊という激越な闘いが必要なのである。そのようにして統合された集団の内部では、ある種の免疫異常が生じる。それは身分制や、階級制、あるいは集団内部での粛清となって現われる。集団の権力は、他の集団への攻撃および防禦ばかりでなく、集団内部への抑圧としても現われるのである。
 細胞のアポトーシスも、システムの免疫機能も、基本的には生命システムの維持保存のための類似の機構である。この機構はシステム外とシステム内とに、両方向に働く。アポトーシスは、単なる個人の自殺の場合もあるが、特攻や切腹などのように社会の防禦や秩序維持のためにも発現する。単なる個人の自殺も、実のところ社会システムの中での不要な存在の排除としての集団の圧力が背景にあるのである。免疫機能は、外国人や異人種の排除、身分差別、イデオロギーによる統制、ヘイトスピーチなどに顕著に現われてくる。特に日本社会はこの免疫機能が強く働いているようだ。単一民族であるという思いこみなどは、その最たるものである。それが他国に向かうときには過剰な敵愾心や愛国心となり、内部に向かうときには、弱者・障害者の排除、ウチとソトの区別、身分差別となって現われている。プチ中華帝国を目ざした飛鳥以来の伝統が、一方では対外拡張、他方では専制国家体制の確立として、日本史を貫いており、それは民主主義を標榜する今日においても変わっていない。  

2018年1月11日(木)
全体への意志と個の運命

 生への意志は根本において<全体への意志>であり、個の意志にはなんの考慮も払わない。個体の厖大な浪費、ムダによって、生への意志は全体的生命を維持し、存続させてゆく。生命全体が一個の有機的組織であり、個の生命はそれにつながれ、支配され、制御されている。海は一つの生命体であると考える科学者がいる。その生命のサイクルは海流の循環に応じて数万年というスケールであるが、一つその循環が狂えば、生命全体の絶滅を引き起こすのであるという。海もまた脳細胞のような組織を微小な生命体によって組織し、数万年というスケールで思考しているのであるかもしれないという。陸上の生命もまた、同様な全体的生命体を構成しているのかもしれない。そのメカニズムはまだ不明であるが、進化の微妙な適応の仕組みなどに現われている個もしくは種の生命体同士の共生や、共感を思えば、そこになんらかの生命全体の間の情報の共有があっても不思議ではない。
 生命は全体として始めて意味のある存在であり、その根源の衝動は全体への自己犠牲であるといえるかもしれない。個の存在ははじめから、その独自の価値においては無に等しいのである。それゆえに、生命が生命を食らうという、生命体同士の根源的な存在のあり方が成立するのである。食物連鎖が成立するためには、個の独自の価値などあってはならないのであり、個の存在意義は全体へ奉仕し、自己の生命を全体にささげることにのみあるのである。これが<全体への意志>の生命界における根本的あり方である。
 人類においてもこの生命界の掟である全体への意志は、その歴史や社会組織において貫徹されている。無慮無数の個人が、全体のために犠牲にされ、無数の部族や民族や国家が、支配欲や征服欲に現われる全体への意志によって滅ぼされ、単なる物欲や、唯物史観や、理念によっては解明できない、歴史の闇を現出しているのである。生命界においては人類は食物連鎖の頂点をなし、日々幾百万とも知れない家畜の生命を奪っているが、それによって家畜は種として繁栄し、短い命ながらも生命を謳歌している。ユダヤ人はナチスによって大虐殺を受けたが、今では国を持ち、近隣の民族を圧迫する国家へと繁栄をとげている。日本人は天皇制のもとで滅私奉公を強いられ、数百万の命をムダにしたが、戦後の復興がそれを補ってあまりあるほどである。全体への意志は、政治的に言えば<全体主義>は、その意味では歴史の原動力であったともいえる。そのことは人類の全歴史をとおしていえるであろう。歴史が進歩するためには、人類はつねに全体主義化する。ロシアも中国も、アメリカも日本も例外ではない。そこには生命界に通底する全体への意志が働いており、人類の歴史のメカニズムを制御しているからである。
 歴史ばかりではなく、社会制度、経済制度、宗教、道徳、倫理など、人類文明のあらゆる部門においても、全体への意志は、陰に陽にその無意識の影響を浸透させている。社会制度が全体への意志の直接表現であることは言うまでもないであろう。これは専制であれ、王制であれ、民主制であれ、社会主義であれ、変わりはない。全体主義と対置される民主主義であっても、多数者の専制であって、そこには全体の利益へと強要する意志が常に働いている。単なる社会契約などで社会は作られたのではなく、全体を失えば価値を失う個人の意志の無意識的傾向が社会構造を作り出すのである。生命活動そのものである経済は、その事情をもっともよく現わしている。もともと猿から由来する群れ社会であった人類の経済組織は、家畜の飼育と農耕によって、集団全体の運命と一体となった。群同士の間の、家畜と農地の奪いあいが、集団的エゴを形成させ、集団同士の間での弱肉強食が人類という種の間で発生したのである。集団はより大きくなることでその防衛力と攻撃力を強める。さらに大きな全体へと人類の意志は拡張してゆく。これが国や帝国の発生である。トロイアはギリシャの繁栄のために滅びねばならず、カルタゴはローマの繁栄のために、ペルシャは世界帝国のために滅びねばならなかった。アレクサンドロスの遠征は、単なる個人の意志ではなく、人類の全体への意志の発現であった。
 宗教はもっとも初期の全体への意志の理念化である。太陽などの自然崇拝によって、共通の理念を集団に与えることが、初期の人類社会にとって必要だったのである。それが人格的、さらに抽象的な神観念に移っていったのは、人類社会の発展とともに、自然界の支配者としての意識が芽生えることにより、人間中心的観念が必要となったからである。まず王や皇帝が神となった。彼らは不滅の存在として、来世において永遠の生命にあずかる者とされ、聖なる意志により自然界及び人間界の制御をおこなうことにより、さまざまな部族や集団の意志を一点に集めたのである。人類は単なる力だけでは、集団間の争いを克服する限界に達していたのである。道徳や倫理は、もっぱら全体への意志を強調するために、宗教と結びついてあみだされた。モーゼの十戒に見られるように、宗教自体、単なる神の崇拝ではなく、生命の本質にもとづく社会の基本的規則を定めるものであった。この点は、イスラムではさらに明白であり、宗教がそのまま社会規範となっている。全体への意志の道具である宗教が、その説く道徳・倫理において全体への奉仕を主眼とすることは当然である。宗教は全体への意志の理念的表現であり、実践であるといってもよいだろう。専制下における道徳・倫理は、支配層にとっては全体への意志につなぎとめるイデオロギーの道具であり、孔子の儒教がその典型である。個人主義的道徳・倫理というものもありうるが、そもそも道徳・倫理自体が全体への意志のないところでは成り立たないのである。ひらたく言えば、社会のないところに道徳も倫理もない。アリストテレスの言うように、孤独者は野獣にひとしい。
 このように、人間存在は、個人であれ集団であれ、どっぷりと全体への意志にひたって生きている。社会も個人も、つねに全体へと回帰する傾向に支配されているのである。全体主義と民主主義の対立の時代であったとされる二十世紀のあとに訪れた、現代の政治的・社会的情勢は、明瞭に全体への回帰を見せている。それはカントが言うような永遠平和を目指しての全人類の全体へ向かうのではなく、国家や民族や宗教やの集団的エゴの間での、全体性の強調である。それの契機は、単なる資本主義的な、利得を目指したグロ−バリゼーションの破綻であり、その終焉とともに、その反動である国家的、民族的、宗派的エゴの発動が、リージョナルな全体主義をもたらしているのである。カントやテヤール・ド・シャルダンが夢見たような、人類は一体であるという理念的全体主義はどこにも実現されないであろう。生命の掟は、理念によって実現されるのではなく、まさに生命そのものの原理である、個の犠牲の上においてなしとげられるからである。個々の国家は、相互に滅ぼしあわねばならないのである。人類も生命である以上、戦争やテロや革命は絶えないであろう。

 *   *   *

 人間は生命界の産物であって、その生命的な営みにおいては、生命の本質である全体への意志から逃れられないことを明らかにしたが、この絶望的な見とおしにおいて、個としての人間はどのように対処したらよいのであろうか。次にその点について、可能な処方を考えてみたい。
 全体への意志に対する個人の無力感は、まず諦念やペシミズムとなって現われる。歴史的にはっきりしたペシミズムはすでにシュメール人にみられる。ギルガメシュ叙事詩にその片鱗がある。それに対する対処法は、何よりもまず<快楽主義>となって現われる。生命の基本的原理の一つである快苦の、快だけをひたすら個において追及し、充足しようとする生き方である。飲食や性の快楽は、それ自体で充足できる、もっとも強力な快の源であり、それらは本来、個体保存と種の保存という生命に具わった持続のための報酬的道具なのであるが、それらをもっぱら自己自身のためにのみ享受しようというのである。いわば生命の裏をかくわけである。厳しい政治的社会にいたローマの貴人が、公務にないときは、ひたすら飲食と性愛の快楽に耽っていたことはよく知られている。
 快楽主義は、シュメール人や、ローマ人から、マルキ・ド・サドや現代の享楽的人種に至るまで、主として肉体的快楽を究めつくそうとするのであるが、必ずしも肉体的、身体的快楽にはかぎらない。精神的快や、芸術における快楽もまた、快楽主義に属する。エピクロスの快楽主義は、肉体の快と精神の快とのバランスを取ったようである。たいていの学者や読書人はエピキュリアンであると思われる。芸術における快楽主義は、芸術至上主義や、耽美主義に見られる。芸術においても、精神性と肉体性との両方の傾向が見られる。至上の美を求める芸術は精神性へと向かい、いわゆる耽美主義は肉体の快楽に傾きやすい。後者は、あらゆる肉体の快楽主義者がそうであるように、むしろ生の肯定へと向かいかねない。それに対して芸術至上主義は、ペシミズムの本領である、生の否定へと向かう。
 生への意志、とりわけ全体への意志を克服するためには、肉体の快楽主義者はなんとしても不利である。敵のふところで、盗みのようなことをするからである。いつの間にか生への意志の奴隷と化しているであろう。このような快楽主義を断固として否定して、生への意志を肯定したのはニーチェである。ペシミズムの克服がニーチェの課題であって、生を丸ごと手中にして、なおかつ全体への意志を克服し、個の力を昂揚しようとしたのである。敵の大将の首をとるようなものであるが、ニーチェ自身はその高揚感に心身が耐えられず瓦解した。生への意志を肯定しながら、その中核的原理である全体への意志と戦おうとすることは、なんとしても自己矛盾であり、神と戦うような多大のエネルギーを消耗させる。しかしニーチェが理想としたような、徹底したエゴイストは存在するであろう。それには強力な心身の持ち主であることが要求される。そしてつねに全体への意志に奉仕する、人類の多数を成す集団(ニーチェの言葉によれば市場のハエ)を敵として、敵にとりまかれ、戦っていなければならないのであるから、孤立と孤独が運命となる。それに耐えるには、文字どおりの超人でなければならない。(全体への意志の超克者である<超人>を説いたニーチェ思想が、全体主義のナチスに利用されたのは歴史の皮肉であるといえる。)
 全体への意志を克服するには、少なくともなんらかの<個のエゴイズム>が必要である。どのような快楽主義者であっても、彼は本質的にエゴイストである。個体保存とは別の純粋な意味での<自己愛>の持ち主であり、<利己主義者>である。小学校の頃から「利己主義はいけない」といわれて育っている世代には、<利己主義>は悪の代名詞のように聞きなされるであろう。selfishであることはよくなく、selflessであれと教えることは、あらゆる社会に共通している全体主義の道徳である。そのself(自己)のない人間が、生命界の基本単位であるといえよう。単位であって、独立した存在ではないのである。そうした単位をあつかうことは、社会にとっていかに都合の良いことであろう。単位であるからには数式化でき、徴税にも、徴兵にもつごうがよく、効率的である。国民という名で、<公益のために>、つまり全体の利益のために、どのようにも扱えるのである。こうして従順な、<滅私奉公>的な国民がつくられていくのである。
 とはいえ、全体への意志のより本質的な問題は、為政者や政治体制にあるというよりも、個々の人間そのものにあるのである。なんとしても人間は社交的動物であり、一人でいるよりも、集団を好み、その集団から排除されることをことのほか恐れるのである。個人の意志よりも、集団の意志に従うことを、より多くの喜びとする傾向があるのである。人間は個として、孤独に生きることが非常に困難な動物である。アリストテレスがポリス的と人間に冠したのも、その故である。一言でいえば、人間は全体への意志そのものである。それは人間が生への意志の産物であると言うのと同義である。蟻や蜜蜂と同様に、人間は社会がなければ生きてゆけないのである。水が魚のエレメントであり、空が鳥のエレメントであるように、社会が人間の生まれながらのエレメントである。その社会集団への、全体への根本的渇望があるかぎり、全体主義は人類の宿命である。全体の意志に奉仕する時の高揚感、崇高感、悲壮感に満ちた人々の表情は、決して個人からは生まれない。やっかいなことに、人間の感情の中でもっとも崇高な感情が、全体への意志の中で発揚されるのである。その時人々はもはや全体のために死をも懼れないのである。<悠久の大義>のために喜んで死地に赴くのである。「類がすべてであり、個は無である」(ショーペンハウアー)。これが生命が個体に対して仕掛けた、究極のトリックである。
 全体への意志を克服するには生命を超えるほかはない。しかし生命の産物である人間にそのようなことが可能なのであるか。この世界の本質を洞察するならば、その可能性も見えてこよう。東洋の宗教がそれをおこない、哲学ではショーペンハウアーがそれをおこなった。すでに芸術において、唯美主義においてみたように、美の存在がその可能性を開く。生命界は、個にとって地獄のような様相を呈してはいても、全体としては不思議なことに美に満ちている。戦闘に倒れた「戦争と平和」の主人公が、意識を失いつつ自然界の美に打たれたように、生きることにはなんらかの報酬が、生命によって準備されているのである。それをプラトンにならってイデア界と名づけよう。この世界は理想の世界であるイデアを<分有>しているがゆえに美しいのである。生命がどのようにしてそれを生命界に取り入れたのであるか、その形而上学的理屈はさておき、そこに一つの超越の契機が生まれる。アンドレが自然の美にうたれて回心したように、美は一つの救済の原理となりうるのである。唯美主義の芸術もまた、美による救済を目ざしているものと言えよう。どのような美も、官能美でない限りは、心の平静をもたらす。芸術美の中で独特のものは、音楽美である。これはショーペンハウアーの理論が名高いが、ここでは生への意志=全体への意志の克服の立場から考えてみる。音楽は生への意志の動きの理念的現われであるといえよう。それは直接意志に働きかけ、意志を昂揚させ、支配し、あるいは沈静する。物質の本体が<ヒモ>の振動であることが現代物理学で明らかにされているが、音楽はまさにその振動から生まれるのである。同時に概念としての意味をなさないとしても、ある種の理念的意味を、直接意志につたえるのである。ワグナーの音楽が<諦観>の表現であることは、音楽そのものによって伝わる。意志を沈静すれば、全体への意志も鎮まり、個の意志の反省的純化によって、純粋自我が生まれる。純粋自我は生命から離れ、理念に導かれてこの世を離れる。たとえ一時的ではあれ、生命からの超越が果たされるのである。しかし音楽は、そもそも世界意志の発現に近いのであるから、そのような諦観ばかりを誘うのではない。生を昂揚し、謳歌し、あまつさえ官能をかきたてたりするのである。当然ながら、全体への意志の昂揚にはもっともよく適している。学校での行進曲を思い出せば足りるであろう。モーツアルトを聞かせると栽培植物がよく育つというのも、あながち迷信ではないであろう。
 自然美であれ、芸術美であれ、それらによる生への意志=全体への意志の超克には限界がある。個人が自我の働きによって、世界意志を克服するには、ほかの手段によるほかはない。それはイデア界といった外からの誘引ではなく、自我そのものの中に見いだされねばならない。そもそも生への意志の本質は<類の生命>であり、自我もまたその類の生命によって翻弄されている。個の生命は類の生命に飲みこまれ、全体への意志の中で、昂揚と、陶酔と、感動の中におのれを<滅却>する。この強烈な心身の陶酔感の中では、単なる肉体的自我は、太陽の前のロウのように溶けさり、嬉々として無化し、全体の生に同化する。これが類的生が個体に仕掛けた強大なトリックであり、快楽の罠である。生への意志の肯定における全体への意志の克服が、いかに困難であるか、単なる自我によっては対抗不可能であることが、納得できるであろう。単なるself(日本語でいうおのれの分=自分)はself-sacrifice(自己犠牲)のためにのみ存在するようなものである。確かに強烈なEgoの所有によって、類的生命の陶酔に対抗するマルキ・ド・サドや、チェザレ・ボルジアのような人物は存在しよう。徹底したエゴイストは、<勇敢>である必要はない。むしろ臆病であり、卑怯であり、狡猾であり、抜け目なく、陰険で残酷である。あらゆる悪名をその身に負うであろう。個の生命に生きるには、類的規範である<善悪>の彼岸に立たねばならない。そうした人物は類的歴史の汚点とされてしまうのである。
 こうした悪名をものともしないのでない限りは、たいていのエゴイストは、おだやかに隠れた個人的生を享受するであろう。シュティルナーやニーチェで思想的に鍛え、防禦し、みずからの内なる敵である全体への意志を制圧し、回避し、状況に応じて、必要とあらば逃避し、逃亡するであろう。この生き方は単なる<個人主義>ではない。個人主義が全体への意志に対していかに無力であるかは、本家のイギリスの個人主義者が、いざ戦争となると、こぞって志願兵となることによく表われている。愛国や名誉などを重んじるのは、個人主義ではなかろう。エゴイストはエゴイストであり、個人主義者ではない。エゴイストがもっとも重んじるのは、あらゆる意味における<自由>である。エゴイストは徹底した<自由人>である。おのれの外なる不自由と、おのれの内なる不自由とに、我慢がならない人間である。エゴイストは、徹底して<わがまま>なのである。そうして生命を、もっぱらおのれのために享受するのである。
 こうしたエゴイストであるためにも、ある程度の心身の強靭さが必要とされる。たえずおのれの内と、外との、敵と闘わねばならないからである。生への意志を肯定しながら、生への意志の本質である全体への意志を克服しようというもくろみ自体が、そもそも困難の原因なのである。教養主義や、個人主義や、人格主義や、実存主義などは、すべて生への意志の全体への行進の前には、木っ端のように粉砕されてしまう。それらのあらゆる主義は、人類の宿弊である戦争をとめることが出来ないのである。そうであるならば、自我に残された最後の切り札は一つである。生への意志を否定するほかはないのである。
 生への意志の否定は、文字どおりの死や自殺を意味するのではない。それについては最後に考察することにして、ここでいう生への意志の否定は、その原理として自我の本質の直観と回帰とを契機としている。自我を単なる生の産物としてみるか、ある種の超越的存在としてみるかによって、人類の運命は分かれる。自我(アートマン)とはなんであるか、古来から探究されているにもかかわらず、その決定的な意味を解き明かした思想や学説はすくない。ウパニシャッドの<梵我一如>では、自我については何事も語ったことにならない。この自我が生命そのものや宇宙そのものでないことは、だれもが直観できよう。自我はこの宇宙に<投げ出された>存在だからである。フィヒテの<自我(das Ich)>は、個人的自我のおもむきを残していても、なにやら抽象的な存在であり、世界を生み出すとされる点、梵我一如のたぐいである。仏教のようにアートマンは存在しないと言ってしまえば、自我は現代の心理学が神経細胞の現象とみなすように、自我は幻のようなものである。自我はこの宇宙とそれが生み出した生命との産物であると考えるのが、現代の一般的な理解であろう。とりわけ、自我は身体現象と密接に結びつき、それとは容易に引き離せないために、生命現象の一部であると考えるのが、科学的であるとされよう。生命が、身体がなければ、自我は存在しない。自我は神経細胞のネットワークにもとづく、意識のなんらかの統合現象であると。そのかぎりでは、自我が生への意志から逃れることなどは、思いもよらないであろう。
 しかし釈迦が生命界すなわち生死界からの解脱を説き、それが真に生への意志の克服を意味するならば、その克服の主体はなんなのであるか。単なるアートマンでないことは、くりかえしアートマンを否定していることからも、確かであるが、主体のない釈迦が、どのようにして心身としての生命を克服できたのであるか。そして克服を遂げたときの釈迦の主体とは、どのようなものであったのか。それはやはりある種の<自我>であったに違いなかろう。その自我はしかし、生命としての心身の汚れから浄化された自我でなければならない。それを<純粋自我>もしくは<超越的自我>と名づけておこう。この純粋自我は、生命界からの離脱を可能にするからには、生命ひいてはこの宇宙から超越した存在でなければならないだろう。釈迦が超越者といわれ、<超えたもの>と言われるのは、この意味においてである。釈迦の発見したこの純粋自我は、どのようにして到達できるのであるか。その方法を説いたのが本来の仏教であるといえる。
 ここでは仏教ではなく、筆者の形而上学の立場から論をつづける。人間にとって、生への意志=全体への意志を根本において克服するよすがは、唯一純粋自我の覚醒にあるといえる。それを先ほど美との関係において説いたが、自我そのものに向かうことによって、それの覚醒を目指す修行が、ヨガであり禅であるといえよう。その究極の目標は、生への意志そのものの滅却であり、その消え去った状態(ニルバーナ)の達成である。それは生きながらの死といってよかろう。しかし死そのものではない。その状態では、生命界はただ美(イデア)を残して消滅する。釈迦が死の前に、世界の美を讃美して去ったのもその故である。プロチノスが生涯に数度しか達成できなかった、イデア界、一者の美の観照が、ニルバーナにおいて開けるのである。衆生の間で、極楽が美の世界と表象されるのもその故である。
 このようにしてのみ、個としての生命は救済の可能性を見いだす。しかし単なる死は救済ではないのか、最後にそれについて考える。人間の自己自身について唯一絶対の、譲れない権利は、自殺の自由である。生命界にはアポトーシスという原理があり、不要になった細胞は積極的に自殺してゆく。それは生命体全体の維持のための自死であるから、まさに全体への意志に服従する個の滅却である。その点でアポトーシスは個の権利ではなく、かつての切腹と同じように、ある種の強いられた死である。自殺の中にも、たいていのケースでは、環境や、人間関係や、社会的状況による、強いられた自殺である場合が多いであろう。切腹はもとより、苛めや貧困による自殺などがその典型である。かりに強いられた自殺であっても、生を維持するか、生を放棄するか、いずれかの選択の自由が、個人において存在している点で、それは譲れない権利である。その権利を否定しようとするのは、まさに全体への意志に支配された倫理・道徳であり、宗教である。子供に対して自殺をいさめる場合、たいてい口にするのが、「親を困らせるな」である。一番困っているのは、学校生活に悩んでいる当人なのであるが。逆に周囲を困らせないために自殺するケースが、日本のような国では目立つのだが、これこそまさに全体への意志によるアポトーシスである。
 理性的に考えて、死を選んだ方が賢明な境地に立たされた時、自殺せよと教えるのがストアの賢人である。その考えは安楽死や、延命処置の拒否において受けつがれている。それでは自殺自体は、生への意志からの究極の救済なのかどうか、ショーペンハウアーはそれを否定している。自殺は生への意志の倒錯であると。いわばやけくそになった生命が、自暴自棄の行為にはしるようなものである。酒や阿片に浸ることが、緩慢な自殺であるように、自殺は必ずしも一息にゆくとは限らない。自殺の思いにふけるとき、おのずとわきおこる悲哀感や自己憐憫やが、自殺とは自然の行いではないことを暗示している。生命が反撥しているのである。これを乗りこえるには、ある種の麻痺や、偶然の衝動が必要である。あるいは日本ではよくある、道連れが必要である。親と子、恋人同士、最近では見知らぬ自殺志願者同士が、なぐさめあい、はげましあって、死へとおもむくのである。個人の自殺にも全体への意志が必要なのである。
 自殺が救済であるかどうかは、死そのものが救済であるかどうかの問題と同じである。死は生命によってプログラムされており、個体にのみ与えられる有機体の消滅の現象である。生命自体は種として全体的に存続すれば、それで充分なのである。生への意志は種として、類として存続し、個体は切り捨てられ、消滅する。しかし、個の見地から見れば、死は生への意志から解放される瞬間でもある。それはむしろ喜ぶべきことであって、あるいは喜びということが生命の現象であるとすれば、解脱のチャンスであって、歓迎してよいのかもしれない。それを暗示する現象が、いわゆる臨死体験である。死に臨むとき、自我は、もしくは意識は、肉体への奉仕の任務から解放され、自由に飛翔しているのである。それは純粋自我に近い自我である。その時内面に現われる表象界は、意志の対象であることをまぬがれて、その純粋なイデアの面を現わしだしている。色彩あふれる美の世界がそこに現出するのである。死にゆくものはイデアを観照しつつ、無へと、あるいは自我本来の世界へとおもむくのである。それはいわば瞬間における生への意志からの解脱である。これがショーペンハウアーの言う死の秘儀(Mysterie)であろう。生理学的に動物の死の瞬間には、脳内の麻薬物質が分泌されることが確かめられている。食いつ食われつの、食物連鎖の生命界では、いかに残虐な、悲惨な死であっても、死の瞬間には麻薬物質によって恍惚として死んでいく。認識者である人間においても同様であり、どのような死に方をしても、最後の瞬間にはイデア界の美につつまれながら生を終えるのである。生命界が、個体の生命に与えた究極の<恩寵>であると言えよう。

2018年12月9日(日)
人類史の悪夢1

 個人の人生において、その幸不幸が、単に人格の内面の統御によって決まるばかりでなく、身近な環境や境遇や、ひいては国や民族や世界やの、すなわち人類全体のあり方に強く影響されることは、個の人生の悪夢の付随的要素としてふれておいた。ここでは、その見地から、人類の歴史的運命について考察する。
 人類史を単に生命の歴史の中での孤立した現象としてあつかうことは可能であり、普通の歴史書はそのように書かれる。人類史はたかだか数百万年の歴史として描かれるのであり、さらにはもっぱら文明の歴史としてだけとらえるならば、せいぜい数万年の歴史である。しかし人類の本質を探究するには、それでは不充分であり、せめて生命の歴史の中でそれを考察することによって、人類の性格やその歴史的運命も見えてくるのである。生命現象は、この地球という、この銀河系でわずかな数の生命の発生する条件を備えた、天文学的に恵まれた環境にある惑星において、さまざまな偶然的要素をクリアーして発生した、特殊な現象なのである。すでに40億年前の冥王代に、生命は太陽(または地熱)と大気と水と地殻(岩石)の交互作用によって、有機体として発生したと考えられている。その後数十億年の雌伏をへて、五億年前のカンブリア紀に生命進化の大爆発が起こったのであった。その進化の根底にあるのが、細胞という個としての組織と、それを複製的に存続させるDNAやRNAという遺伝のメカニズムであった。これによって個体保存、種の維持という生命現象およびその進化の基本原理が完成したのである。
 生命体はしかし、その異化作用、すなわち物質循環によってその存在を維持しているのであるが、原初の生命発生においてはいざしらず、しだいに異種の生命体同士の間でそれを行なうようになり、そこに生存競争が発生した。直接無機物から栄養を摂取するよりも、他の有機体からそれを行うことが、個体保存にも種の持続にも有利であることが、その原因である。それによって進化はさらに加速されたのである。強者が生き残り、弱者が滅びる。別の言葉でいえば、生存環境によく適応できたものが、そうでないものを犠牲にして生き延びたのである。これが原始生命から、生命の頂点にある存在に至るまでの、全生命界を貫徹する、進化すなわち種のより効果的な存続の根本原理である。
 このようにして見られた生命界は、宇宙意識にまで達した知的生命体の、生命現象に対する価値判断においては、あたかも地獄のように映るであろう。生命現象の頂点に達した知的生命体にとっては、そのもっともはなはだしい地獄が、ほかならないその知的生命体自身の歴史において現われるのである。生命が知的に進化を遂げたこと自体が、まさにこの生命の根本原理に基づいているからである。
 ネアンデルタール人はホモサピエンスよりも大きな脳を持っていたとされる。どちらも知的生命体であったが、前者は肉体にすぐれ、後者は肉体において劣ったぶん、集団的に狩をしたとされる。その集団生活によって言語が発達し、情報の伝達によって環境への適応を有利にし、それのできなかった家族単位のネアンデルタールとの生存競争に打ち勝ったのであるとされる。知性の進化が、他のライバルの種を滅ぼすことになるのである。(もっとも両種の間にはある程度の混血が行なわれたようで、それが遺伝子解析によって明らかにされている。)
 人類の知性は、種としての進化の大きな要因となったが、その根本には生存競争に打ち勝つための有利な道具を発達させる生命の必要が働いている。知性という道具は動物界のいたるところで見られるが、それをいち早く開発した人類が、生命界を支配する頂点に立ったのである。人類で唯一生き残った種としてのホモ・サピエンスは、その集団性と道具的知性によって、狩猟の技術や言語を発達させたのであるが、次に大きな人類史の画期的出来事は、家畜の飼育であった。他の種の動物を集団の中に生きたまま食糧として取り込むこと、これは昆虫の社会では見られるが、哺乳類においては知性がなければ出来ないことである。人類以外の動物を家畜として集団の中で飼育し、それを食糧の外、さまざまな用途において使用すること、この着想がその後の人類社会に決定的な影響を及ぼすのである。
 家畜を集団の中に取り込み、管理することは、すぐさま人間社会そのものに応用が可能であることがひらめいたであろう。いま一方で、植物を栽培し管理する、農耕社会が生まれてきた。知性の用い方としては類似しているが、家畜とは違って、植物は土地と結びついている。植物栽培は土地を離れることが出来ないのである。ここで二種類の人類社会が生まれたのである。一方は家畜飼育の、他方は植物栽培の社会である。人間自体は動物であるから、人間を支配するには、家畜を支配している集団が、より適していることは明白である。遊牧民の農耕民支配の歴史がそこに始まる。農耕民自体は、土地の奪い合いによって戦争を繰り返したが、得るものは土地であり、被支配民はそう必要ではなかったであろう。今日でも、農耕民同士の争いは、一方による他方の殲滅である。これにより漁夫の利を得るのは、もちろん遊牧民である。文明は、すなわち都市国家の成立は、遊牧民による農耕民の支配、いわば家畜化によって、始まったのである。道具的知性による家畜の飼育が、国家の淵源であり、その人類集団への適用が起源である。この家畜としての人類のありかたが、その後の人類の全歴史を特徴づけている。
 家畜飼育の合理性は、国家の支配体制の基本プランとなる。飼育するものと飼育されるもの、この支配関係がまずあり、飼育するものの飼育されるものに対する管理の基本として、集団化、さらには役割に応じての階層化が図られる。飼育される家畜に種類があるように、支配されるもの、またはその集団には、それぞれ役割が与えられる。これが身分制もしくは階級制の起源である。身分制や階級制は、それぞれの社会の主要な生産事情によって、異なった制度が生まれる。ギリシャ・ローマでは奴隷制が、インドでは四種のカーストと賎民の制度が、中国では官僚制にもとづく専政制度が(日本はこの模倣である)、エジプトやアンデスでは祭司王による支配が、中世ヨーロッパやロシアでは農奴制が、家畜としての民を飼育したのである。家畜に食糧としての家畜と役畜があるように、人間の場合は食糧を生産する階級と、商業・工業に使役されるもの、軍役につくもの、官吏といった、国家を維持するための職能の分化に応じた組織化が必要であった。この大規模な家畜経営が、人類社会であり、国家なのである。
 (つづく)

2018年12月23日(日)
人類史の悪夢 2

 (1)
 人類社会はある種の家畜経営であると述べたが、そのことから人類社会の階級・身分制が十分に説明できるであろう。古代ギリシャ・ローマの奴隷制では、<人間>として認められたのは自由民だけであり、奴隷は単なる家具や道具にひとしいものであった。すなわちまさに家畜であって、自由に売買された。あらゆる労働は生ける機械である奴隷がおこない、自由民は奴隷経営の根幹である国家を守るという唯一の名誉ある任務をになっただけである。ポリス間、あるいは支配地域との関係では、支配する国家は、他の国家を集団的に囲い込んだ、一段低い人間としての家畜経営をおこなったに過ぎない。いわば国家間の身分制である、大規模家畜経営としての帝国主義である。
 奴隷制に関連して、女性の地位も、ある種の家畜化がおこなわれ、自由な人間としては扱われず、(今日でもある種の国や政治家の間ではそうだが)子を産むための単なる道具とみなされた。あるいは、今日までも、男性の性的快楽のうつわとして扱われてきている。インドでは夫が死ぬと、妻も殉死することが美徳とされている。娘は家同士の間での、経済的取り引きの道具として婚姻をおこなう。アウトカーストの娘たちは、暴行されても、犯罪としてはあつかわれない。すなわち、インドでは、あるいはイスラム国でも同様であろうが、たいていの女は今日でも単なる家畜である。
 日本では、江戸期に士農工商エタ非人というカースト制度が確立されたが、各階級内での差別もきびしいものであった。福沢諭吉は、封建制は親の仇と言っている。明治期に、天皇以外の四民平等がうたわれたものの、エタ非人までは解放されなかった。天皇制そのものが、日本的な家畜経営の根本であり、上にも下にも<人間>でないものを設定したのである。その他の人間と言えども、殖産興業という家畜工場に駆り立てられ、国家の弾除けとして戦場に駆りだされ、赤紙一枚の軽い命を散らせたのである(もっとも、アリストテレスによれば国家のために戦死することは最高の美徳である。家畜冥利につきるというべきか)。
 今日謳歌される民主主義や自由主義はどうであろうか。そもそも政治制度以前に、人類社会の根幹である物質的生産、及びそれにもとづくあらゆる経済活動の本質を見極めねばならない。農業も家畜経営も、生命の原理としての種の持続、個体の保存の絶対の必要性から生まれている。一般に経済活動が、生命としての人類の根本の運動なのである。そのもっとも効率的なありかた、生産事情、生産様式が、ここで言う家畜経営としての人類社会なのである。社会主義、資本主義が、ある種の進歩的な社会であるとするならば、それらは最も家畜経営として成功した人類社会であるといえるだろう。民主主義や自由主義は、単なる家畜経営のためのモットーであり、手段であるに過ぎないのである。それには人類という、この特殊な家畜の考察が必要である。

 (2)
 動物はどのようにして人類の家畜となったのであろうか。必ずしも、ヒトが強要して動物を従わせたのではないであろう。犬の祖先である狼は、ヒトの住まいの近辺でその残飯に預かることを覚えたのであろう。人の生活の中に取り込まれることによって、より安全、確実な生活の手段を見出したのである。この異種間の共生・共同ということは、生命体一般に見られることであり、最初の家畜も、このような取り込みによって成り立ったであろう。これは異種同士の間での、いわば暗黙の、無意識の生存の取り決めであり、個体保存よりもむしろ種の持続に大いにあずかる、生命の狡知なのである。
 羊や豚や鶏や牛は、たしかに毎日何百万頭、何百万羽と屠殺されているが、その数を補ってあまりあるほどの種としての繁栄を遂げているのである。個は無であって、類がすべてである。これが生命界の掟であり、根本の原理である。家畜としてもっとうまくやっているのは、犬や猫などのいわゆるペットであり、種も個もともに保存ができて、大繁栄しているのである。人間はどうか。
 奴隷制では通常婚姻は認められなかった。普通の家畜のように繁殖させる必要はなく、いくらでも戦争や略奪によって、奴隷の補給ができたからである。カースト制では、カースト間の婚姻は認められず、同じ身分同士の婚姻が許された。身分間の数のバランスということが考慮されたのであろう。それを血の潔癖によて保障したのである。家畜経営においては、最終的に食糧として処理するまえに、家畜を成育させ、養わねばならない。それには環境条件などによって数に制限がある。同じことは人類社会の人口についても言えるであろう。人口をおさえつつ、家畜経営をすることが求められるのである。個々人ではなく、種としての社会全体が存続するような家畜間のバランスが必要なのである。
 このような人類社会の家畜経営は、単なる動物の家畜経営とは違って、独特の様相を見せることになる。まず、ヒトを食糧とすることが目的ではなく、食糧生産を中心とした<労働力>としての家畜の飼育、いわば役畜としてのヒトの飼育を目的とするのであるから、種だけではなく個の保存もまた考慮しなければならない。それだけやっかいであり、むやみに数を増やすわけにはいかない。かつておこなわれた嬰児殺し、間引き、姥捨てなどが、その本能的処置である。また、人類社会の需要の多様化による階層・身分の分化が役畜としてのヒトの間で生じる。士農工商が典型的である。
 さらに、人間は根本においてその心身において同等であり、家畜化以前には、そのような<原始共同体>に生きていたのであるから、家畜としての扱いにおいてはつねに<反抗>の惧れがあるのである。それに対する政治的その他の対処・予防がつねに必要となる。そのひとつは言うまでもなく力の誇示、すなわち軍事力である。家畜社会における支配者はつねに軍事を握っていなければならない。古代ギリシャ・ローマでは、軍務につけたのは自由民だけであり、彼らがポリスや帝国を支配したのである。日本でも、中世以来、支配者はつねに<軍事政権>であった。カースト制では実質の支配者は王侯武士(クシャトリア)であった。中世ヨーロッパは、王侯貴族の軍事同盟であった。中国では、軍を握るものが帝位に就き、官僚制による専制国家を築いた。明治以降の日本は、統帥権を持つ天皇のもとでの軍事・警察国家であった。
 もうひとつの、家畜としてのヒトの反抗に備えるいわば精神装置は、宗教及びそこから派生した道徳や倫理であった。宗教ほど家畜としての人間の心理を端的に表わすものはない。権力や暴力にひれ伏すのは単なる肉体的惧れであるが、宗教的畏怖はヒトの心を支配するのである。動物特にペットは人間の心に取り入るすべを心得ている。人間のペットであることにどっぷりと満足しているのである。同じ心理を、人間もまた宗教的、精神的権威に対して抱くのである。そのたとえとして、羊の従順さや、家畜の境遇がひかれる。キリスト者は羊飼いである神の羊なのである。ヒトの心の宗教的支配は、政治権力と結びつく。軍事だけではなく、神の崇拝、あるいは自ら神となることによって、家畜としてのヒトの群を支配することは、最も初期の国家のあり方であり、また今日でも天皇制や王制のような<伝統>となって家畜社会を支えている。

 (3)
 先に述べたように、生命体には共生・共存の本性がある。そうならば生命体の家畜化もまた、生命によって本来仕組まれているものではないか、と考えられうる。ヒトもまた本来家畜化の素質を持っているのである。その根源は、これまでにも考察したように、生への意志の類的本質にあるといえよう。同種ばかりでなく、異種との共生・共存が類の繁栄に役立つならば、それは生への意志の本流であるといえよう。人類が進んで、みずから人類社会という類的本質の現れである集団の中に、家畜として適応しようとするのは、まさに人類そのものの生命的本質の現われなのであると言えよう。であるから、実は家畜であることの快適さの中に、たいていの人間は、犬や猫と同様に、どっぷりとひたっているのである。人類社会の階層性、階級や身分、その他の格差が決してなくなることがないのは、人類が知らずして、あるいは無意識に、家畜であることに満足しているからである。権力の脅しや、法律や、宗教や道徳の戒めも、犬や猫が悪さをしてたしなめられるのと同様な、調教のためのちょっとした不快に過ぎないのである。
 このような生命体としての人類、すなわち<人間>の類的本質を見るならば、人類の家畜化は起こるべくして起こったことであり、これがそもそもの人類の<文明>の意味なのである。文明とは人類の家畜化の謂いである。人類史はヒトの家畜化の歴史なのであり、すなわち単なるヒトが<人間>となる発展の過程なのである。かつて、唯物史観というものが流行り、原始共同体から、奴隷制、封建制、資本制(資本の家畜)と、家畜化の歴史をたどり、最後に総体的労働家畜としての共産制にたどりつくものとした。いみじき家畜史である。この家畜としての人間の基本的な道徳は、主人(社会体制、法の調教)への服従であり、さらには愛(同胞愛、家族愛、民族愛、神への愛)であり、すなわち類的存在への全面的依存である。このことを、以前に<全体への意志>すなわち類的意志の観点から考察したが、基本的にはまったく同じことを意味している。個としての存在の、全体すなわち類に対する内的・外的依存、服従の衝動・心理が、その根底にある。それを形而上学的に見れば<全体への意志>であり、経験的・歴史的に見れば、家畜化という現象として現われるのである。
 国家は家畜経営の形態である。何らかの形での支配者、すなわち経営者もしくは管理者のいない国家はない。牛馬のような家畜は、烙印を押されて数が管理されるが、人間の場合にはもっと徹底した管理が、官僚制によってなされる。江戸時代には各村に徹底した戸籍(人別帳)が作られて、農業生産物の徴収を石高によっておこなった。今日ではそれを納税番号がおこなっている。各個人の<義務>としての労働の成果から、家畜経営の運営費としての税を取り立てるのである。確かに義務という言葉ほど、家畜にふさわしい道徳的用語はないのである。一般に動物は家畜として、人間に食われるために生きる<義務>などはないのであるが、人間だけは、単なる強制や暴力によっては、家畜化できない場合に、心理的な説得や洗脳によって、進んで家畜となる意欲を起こさせうるのである。これが民主主義や自由主義の時代における、家畜化の手段である。個人が互いに同等の立場において、自由に競い合い、かつ社会体制や制度を維持してゆく、この一見いかなる強制もないかに見える国家や社会においても、家畜制度は厳として個人を縛っており、あたえられた制度や組織の外で生きてゆくことは不可能に近いのである。法律や契約は、まさに家畜としての服従を強要するのであり、それに逆らえば、刑罰という調教を食らい、よくても社会から追放されるのである。人間は家畜となる<義務>があるのである。それを拒否するかどうかは<自己責任>である。それに逆らうものが<非国民>である。すなわち国民という家畜の資格を奪われるのである。
 すべての家畜が家畜として平等であるというのが、現代の民主主義・自由主義の原則であるが(これは家畜の価値が同等である場合は、他の動物でも同様であるが)、人類社会で必ずしもそういかないのには理由がある。ひとつには、家畜経営の形態の異なる社会が並存するからであり、いまひとつには、国家は経営であるからには、互いに競い、争い、征服しあうからである。身分制のある社会(インドなど)、階級制のある社会、資本制や、共産主義(アパラチキの支配)や、独裁制の国、政教一致の国家(イスラム諸国)など、国家形態の違いが、異なった家畜経営のもとに、国際経済や覇権を争わせる。食肉が国際化するようには、人類の国際的家畜化は、スムーズには進まない。かつての奴隷貿易をまねるわけにはいかない。この矛盾が高じると、国際的家畜経営をめぐっての紛争や、帝国主義戦争が起こるのである。

 (4)
 遊牧民が農耕民を家畜化した当初には、支配者は家畜民を飼育し、役立てることを考えるだけでよかった。しかし家畜経営が制度化し、固定化すると、その中に取り入れることのできない群が存在するようになった。相変わらず遊牧をつづける民や、放浪民である。遊牧民が、すでに出来上がっている<遊牧国家>を征服する時には、<王朝交代>が生じる。遊牧民の作った国家は、農業に特化することによって、遊牧民の新たな侵略を受けねばならなくなったのである。これは農業民どうしの局地的な戦争を、全世界に拡大するものであった。<帝国>の誕生である。帝国はまた、つねに新たな遊牧民の侵略に備えねばならないのである。国家がつねに他国に対して防衛的であり、時に侵略的になるのは、この国家の起源における征服・非征服の事情が、いわば本能として遺伝しているからである。
 国家の<敵>は国外ばかりでなく、国内にも向けられる。ドイツにおいて忠実な家畜であったユダヤ人は、経済的格差という目に見えない身分制の下で、他の家畜民の嫉妬と憎悪を受けるようになった。民族主義・国粋主義は家畜民の一致団結を図るための心理的道具である。この家畜間の争い・内紛は徹底した殲滅への憎悪となる。家畜としての身分制の下では、家畜同士が分断され、互いに憎み合う状況が生まれる。それぞれが類的・集団的本能によって、集団の利益を最優先するようになる。これは国家的家畜経営を危殆におとしいれる。スケープゴートとしての家畜の群が必要となるのである。こうした家畜の大量処分が、ナチスによるユダヤ人虐殺であった。しかも家畜経営の合理性から、ドイツ人は単に殺戮しただけではなく、死体の製品化を考えたのである(死体から石鹸を作るなど)。
 あらゆる民族紛争は似たような事情にある。最終的に国家経営が分離するか、<敵>の殲滅以外にないのである。歴史的身分制においても、つねに最下層の家畜民が、社会の紛争のスケープゴートとされた。日本ではエタ非人がそれであり、皮革業という支配層にとっては必要な産業をになってはいても、農工商の家畜制を確固とするために、彼らの憎悪や差別の的とさせたのである。今日の民族差別、ヘイト・スピーチにおいても、家畜民の不満が、特定の民族や階層に向けられる憎悪となることによって、家畜社会のバランスが保たれていると言えよう。家畜は家畜であることによって、その憤懣を他の家畜に向けるほかはないのである。決して主人に逆らってはならない。主人とは類的本能であり、その現われである国家や、天皇や、民族や、宗教や、神やの、あるいはさらに小さいレベルでは、親や、上司や、経営者や、会社やの、<目上のもの>であり、それらへの服従は絶対である。<汝の主人の命じるところをなせ>―これが家畜民のカテゴリカル・インペラティヴ(範疇命令)である。

2019年7月26日(金)
憎しみの哲学

 愛については多くの思索がなされている。しかし憎しみについては、愛の相関者としてのほか、独立の情念として扱われることは少ないように思う。なにごとにも、ネガティヴなことには、正面から向き合うことがためらわれるのである。憎しみの根源は、生命そのものの中に胚胎している。生命の頂点に立つ人間は、とりわけこの情念に強く支配されているはずである。まさに生命進化の原動力でもあったのだから。このことを考察していく。
 憎しみの根源は、生命体の二重の本能、種の持続と個体保存とから発していることは、間違いないであろう。個体保存の本能は、たとえば幼獣や雛鳥に見られる、親からの乳や餌の奪い合いに、まず典型的に現われている。他の個体はすべてライバルなのである。親からの世話を独占するためには、他の兄弟姉妹は邪魔物であり、憎しみの対象となる。この憎しみを持たなければ、〈生存競争〉に負けて、個体は滅びる他はない。しかしこの憎しみによる争いを仕掛けているのは、まさに生命の種の存続の要求なのである。ここに憎しみの、二重のメカニズムが現われている。一つは、個体のエゴイズムに基づく個体間の争いから生じる憎しみであり、いま一つにはその争いをけしかけている、優良な種を残そうとする種の保存の原理、すなわち全体への意志に操られた憎しみである。後者と前者は、時に区別しがたいのであるが、原理的に分けることができよう。
 このように、憎しみは個体のエゴから発するものと、全体への意志から出でるものに分けることができる。個体のエゴから発する憎しみは、日常的にだれもが抱いており、ごく分かりやすい。それだけにコントロールする手段も、比較的容易である。すなわち、なんらかの心理的転換によって、愛に転化するか、または沈静化や忘却によって無関心や、無感動に陥ればよいのである。あるいは人間相互の利害関係、または社会的利害関係によって、憎しみを抑えこむことになる。上司や権力者の理不尽に対して、逆らえなくなるのも、この利害関係の意識(生活がかかっている)が強く働くからである。こうして憎しみは通常、表に出すことがさけられる。
 人間は誕生以来、親を始め、その他の他者、社会組織に依存しなければ、個として存続できなくなるような状況におかれている。いわゆる<世界内存在In der Welt-Sein>なのであり、この世界というのは、主として人間社会と置き換えてもよいであろう。アリストテレスの言うポリス的動物である。たいていの個人の人生は、他者から愛されるよりも、多く憎しみを受けている。また愛よりも多く、憎しみを他者に抱くものである。さもなければ、生命体の間での生存競争に打ち勝つことはできない。個体間に憎しみを動力とする競争が必要であり、勝者となることが要請されるのも、まさにこの社会において有利な立場に立つことが出来るためなのであり、そのためには個体は他の個体を憎むほかはない。人間に出来ることは、せいぜいこの憎しみの発現をフェアに行うルール(すなわち法律)の制定ぐらいのものである。社会もまた、社会が社会として成立するためには、個体間の無秩序な憎しみあいは、避けねばならない。こうして、整然とした憎しみの上に築かれるのが、人間社会であり、その秩序であり、制度であり、憲法である。
 奴隷制や封建制、絶対主義や資本と労働の争い、支配的官僚国家などなど、人類のあらゆる社会は、こうした個体間の憎しみを階層化し、階級化し、格差をつけることによって出来あがった、憎しみの構築物なのである。民主主義もその例にもれない。多数の専制によって、少数者の憎しみを抑えつける制度に過ぎないのである。こうして出来あがった社会集団や国家は、それ自体がそれぞれの集団的エゴを構成し、集団同士での間の新たな憎しみを醸成してゆく。これが本来の全体への意志(類的意志)に基づく憎しみの原理である。
 個体は個体であるかぎりは、みずからの憎しみの淵源が全体への意志に操られたものであることを知らない。人間は憎しみによって社会を築くのであるが、社会的存在としてみずからを確立することによって初めて、みずからが類的意志の産物であることに気づくのである。野心や志といったものによって、類的意志をあおられ、憎しみのかたまりとなることによって、個体間の生存競争を勝ち抜いたものが、社会の上層に到達できるのである。そうした立身や保身が社会の存立を支えており、その結果確立した制度の維持と存続が、その社会の上層部の至上命令となるのである。この段階では全体への意志は、一つの類としての社会体制や国家の安定と存続に向けられており、上層部の憎しみは、その存続をあやうくする、異端分子や破壊分子に集中する。他方、憎しみの相関物である愛の幻想を、類的意志とその産物に向けさせることによって、個人意識に目覚めた個体本来のエゴを懐柔するのである。
 類的意志より発する集団のエゴとその憎しみは、集団間の熾烈な争いをもたらす。これが戦争の心理的起源であり、小は学校やグループ内での<いじめ>から、集団競技、企業間の競争、国際紛争、世界大戦に至るまで、全体への意志に逆らう個人、あるい他集団に対する、集団的憎しみの発現が、異端者、競争者への排除と殲滅へと向かうのである。この強大な集団的憎しみに対しては、人類はほとんど打つ手を持たない。人類社会が社会として存在するかぎりは、その本質に根ざした宿弊なのである。社会の根幹が憎しみによって築かれているかぎりは、その憎しみを排除することによって、社会そのものが崩壊しないかぎり、集団的憎しみは消え去らないのである。
 国家のない社会というものを、共産主義者やアナキストは夢想するであろうが、人間の中から全体への意志を根絶することを、まず考えるべきであろう。そうしてこそ初めて、集団や社会や、国家の本質が見えてくる。そうしなければ、憎しみによる支配は終わらないのである。ヘイトスピーチによって露骨に表わしだされる、全体への意志に服従した個人の虚無的自己充足は、国家そのものの本質をも顕わにしているのである。国家は必然的に他の国家を憎むのである。国家が全体への意志の発現そのものであるかぎり、国家間の争い、民族間の憎しみあい、戦争はなくならない。憎しみを終わらせるには、国家や集団を終わらせねばならないのである。
 全体への意志は、個人をその中に呑みこみ、自己喪失と全体との一体感によって、強烈な陶酔感をもたらすことは、すでに何度も論じた。全体主義はこれまでの人類社会の宿命なのである。類がすべてであり、個人は無である。

 これまで人類社会は愛の幻想によって、自己欺瞞に陥っていた。と言うよりもそうした自己欺瞞によって、権力意志や、支配欲を美化しようとつとめたのである。愛とは、基本的に種の保存の本能の遂行において、生命が企んだ生理的・心理的快感に過ぎないのであり、一過的・一時的であり、それを持続しようとするのは、単に個体のエゴにすぎないのである。決して万有引力のような、普遍的な原理ではなく、愛によって戦争が収まった例はないのである。動物や人間の社交本能もまた、相互防禦という個体のエゴにもとづいたものであり、決して種の繁殖に見られるような愛他的な情動なのではない。ましてや全体への意志に操られた国家愛や、民族愛などというものは、単なる虚無的な陶酔感なのであり、つねに憎悪によって裏打ちされている故に、争いと破壊への原動力となり、生命を躍動させはするものの、決して調和と平和をもたらすことはないのである。
 単なる愛は基本的に無力である。愛は憎悪によって常に護られていなければならない。実のところ、愛はネガティヴな情念であり、人間をポジティヴに動かしているのは憎悪なのである。そうでなければ、母親は子を育てることが出来ないであろうし、国家は敵から自国を守ることができないであろう。憎しみをなくすには、愛もなくさねばならない。生命原理のもっとも根本的なものを、克服することなしには、調和も平和も訪れないのである。これを古代の哲学者は心の平静(アタラクシア)と称し、無為自然と称した。自然の摂理は、エンペドクレスが考えたようには、愛憎をもって動いてはいない。生命以前の無機界の法則こそが、生命をのり越えるための原理となるのである。生命はいわば自然界の癌のようなもので、その頂点に立つ、知的生命体を自称する人類も、このガン細胞の最たるものなのである。物体はそれぞれおのれの好きな道を歩む。そこに物体同士の自然の引力が交互に働き、調和した運動が生まれる(天行健)。それは愛でも憎でもなく、まさに無為自然の法則そのものである。個々人が好きなことをして、なおかつそこに自然の調和が現われるならば、それこそが愛憎を超越した、すなわち生命を超越した、極楽・天国の誕生であろうが。

2020年10月8日(木)
死と快楽

 死は有性生殖とともに始まるとされる。遺伝子が分割されることによって、多様性が生じ、種の保存に有利に働くようになる。その代償として、個体の死が遺伝子にプログラムされたのであると。種の保存に対する代償としては、すでに個体に強力な快感が与えられている。こちらはポジティヴであるが、死の代償はネガティヴである。この両者は一見相容れないようである。しかし生命界を広く見渡せば、必ずしも矛盾対立してはいない。死を覚悟で、生殖の快楽を求める生物は、いくらもあるだろうからだ。果たして死は、単にネガティヴな代償なのか。
 個にとって、たしかに死はネガティヴである。しかし死そのものは、単に個にとっての問題なのか。じつは、死はたんに個体にとっての問題でないことは、細胞のアポトーシス一つをとっても明らかである。生命体としての全体が、個々の細胞の自殺を指令するのである。生物界の集団の中での個体においても、同様にして、死が集団の問題であることがあるであろう。とりわけ人間社会が、このことを明瞭に現わしているのである。そのような集団によって命じられた死は、あるいは集団を意識した死は、ポジティヴでありうるのである。そのような死は快楽に昇華しうるのである。日本人は、忠臣蔵の志士たちの切腹において、彼らの晴れ晴れとした死に様において、このことをよく知っている。誰もそれを悲惨だとは思わないのである。
 であるならば、そのような死は、種の保存に対するいま一つの代償(もしくは報償)である、性の快楽と、本質においては一致するであろう。性の快楽は、じつは個人のものでないかも知れないのである。快楽は快楽と対応することによって集団性、社会性を帯びる。男女の交わりは、お互いの快楽の交歓でもあるからだ。快楽を感じない対象、岩や木と交接することは虚しいであろう。それに命を吹き込みたいと思うのは、ピグマリオンばかりではないであろう。性の快楽は、種の命じるところに踊らされているに過ぎなかろう。種が死を命じるならば、それは同時に性の快楽をもよびおこすであろう。個の死は、種の存続によって保障されるのである。このことは戦争における掠奪と陵辱とに、最もよく例証される。
 サケはその生の最後に、雄も雌も繁殖の乱舞の果てに、すべて死ぬ。死と性欲という、種の保存の代償が見事に一致しているのである。この場合にはしかし、子孫が卵として残される。人間の場合はどうか。集団における死と性欲の乱舞は、女を奪うというかつての戦争においては、種の保存に有効であったろう。男は皆殺しにされ、女と子供が奪われた。ジンギスカンの子孫は数千万人いるという。今日でも、アフリカではそのような戦争がおこなわれている。しかし近代の戦争では、たいていは大虐殺で終わっている。南京で日本人の子が生まれたという話は聞かない。ナチスにとってユダヤ人の子を産ませるなどは論外であったろう。ここでは死と性の快楽とは、種の要請から乖離しているのである。それゆえに非生産的であり、不毛である。
 集団的死の快感と、性の快楽との本質的一致を、種の論理から見たわけであるが、この生命体の論理を個の論理によって置きかえたのが、近代人であった。死はもはやポジティヴではなく、もっぱらネガティヴな個人の死であり、性の快楽は種とは別の次元での肉体の快楽にすぎない。それゆえに両者が結びつくことはない。死が性欲を高めることはなく、性欲が死をも恐れさせないということもない。もし両者が結びつくならば、それは特殊な快感の領域においてである。快楽はそれに全存在を委ねるときに最高度に達するが、死もまた全存在がそれによって飲みこまれるのであり、そこにある種の同一の心理が生まれる。死に対する不安や抵抗が、快楽の拡大に転化されることによって、あたかも死が望ましい刺激に思われてくるのである。これは自己の死であれ、相手の死であれ同様である。究極のマゾヒズムであり、サディズムである。

 人類は死を克服することに汲々としている。しかし性の快楽に対してはあまりに寛大である。どちらも種としての宿命であるが、かりに死を克服するならば、同時に性の快楽をも克服すべきであろう。種の存続には、個体の数はそれほど重要ではなかろう。むしろ繁殖の過剰な増大は種の存続に不利でさえある。もし自然選択が働くならば、種の危機を回避するために、より快楽を感じない個体が有利となるであろう。実は人類は、人為的にそのことをやって来た。イスラム圏では、女性はその快楽器官であるクリトリスを切除される。繁殖をよりコントロールできるようになるのであろう。男性はある種の快楽部分であるペニスの包皮を切除される。不必要な性感を覚えなくてすむうえに、衛生的でもある。これらはある種の人為的なbirth controlであるといえようか。
 今日の医療技術、遺伝子DNAの操作をもってすれば、性欲のコントロールは比較的容易であろう。去勢や不妊手術などといった野蛮な方法を用いなくても、薬によるコントロール、ホルモンの操作、遺伝子改変などによって、性欲の発現を自由に変えられるはずである。動物は本来、鳩のような例外はあるが、必要なとき、必要な時期に発情するというメカニズムを持っている。人間もそのように、医学的に発情をコントロールできるはずである。強制であってはならないが、より高い精神性を目ざすためには、性欲のコントロールが鍵となるであろう。
 性の快楽を人為的、あるいは自然選択によって減らすことは、理性性的存在である人類の未来にとっての重要な課題であろう。人類は繁殖するに当たって、もはや快楽を必要としないと言ってもよいのである。動物の段階では、たしかに快楽がなければ、交尾などということは起こらないし、やっかいな子育てに精を出すこともないであろう。人間はいったん子が出来てしまえば、母性愛、父性愛によって育てることが可能なのだ。交接などという快楽行為はなくてもよいのである。それでなくても、性の快感は人間の理性的発展にとって、はなはだ邪魔であり、不利である。そのことは青年期において、だれもが知っていよう。未来の人類にとって、理性的発展を願うならば、性欲の減退・除去に比例するであろう(*)。それがミチオ・カクのいう文明の第二、第三のステージへの前提となるであろう。

)将来、人類にとって代わるとされるAIは、性欲も性感も持たない。知能ばかりでなく、その点で、人類よりもはるかに有利なのである