四世界の理論(序論)


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目次四世界の理論の概要 序論:1.実証的概観 2.認識論的根拠 3.直観・思惟・記憶・想像について 4.夢と無意識 5.第四の世界(宗教現象の世界)


 四世界の理論(概要)――認識論的多元的世界像(観)の試み

1.意識の本質――意識とは自己意識であること――意識の及ぶ範囲が全世界であること
2.第一の世界――外界の構成と物質宇宙――物質の究極は抽象観念による数理的関係であること――ロゴスの支配――意志と行為
3.第二の世界――想像力の世界――物質宇宙を具体的に構成するための素材を供給するのは意識の質であること――具体的な質を伴った第一の世界は第二の世界の媒介がなければ成立し得ないこと――第一の世界と併行した相補的世界としての想念界――文化・歴史・文学・思想
4.第三の世界――夢の世界――第一、第二の世界と第四の世界を隔てる中間領域として――夢の機能(防御)
5.第四の世界――無意識・深層意識の世界――人間は多元的人格であること――ひとつの人格ごとにひとつの意識・ひとつの世界があるとすれば、人間の深層意識には多元的世界が存在しているはずである――深層人格としての神・亡霊etc――神現象の科学的解明――人間は死者のために死後の世界を準備しておく必要を感じる唯一の動物である――第四の世界を統合する原理――深層意識のネットワーク・モナドロジーの崩壊――個人の運命と集団・人類の運命の形成

 序論――人間の交渉可能な世界を四つに分けることの妥当性と基準について

T.実証的概観

1.第一の世界と第二の世界

 人類の歴史において人間の活動範囲を考察するならば、いわゆる外界の”実在”のみが人間の唯一の関心事ではなかった。経済・政治・社会・家族等の現実世界との交渉のほかに、あるいはそれらの交渉の付帯的活動として、いわゆる”実在”そのものとは間接的にしか関係しない人間の活動が見られる。すでに科学は実在認識から発しながらも、実在とのかかわりにおいて、経済・政治等の人間の実在との直接的交渉とは、かなり異なった観点を有している。人間の経済活動や社会生活と、それらの活動の科学的認識に向かう人間のいとなみとを、同列のものとすることはできない。経済活動そのものと、その科学的認識とは別個のものである。もちろん経済活動そのものに、ごく初歩的な科学認識が伴わないわけでなく、また経済活動もその科学認識も、ともに同じ実在を対象としていることに違いはない。けれども両者の実在との交渉の仕方において、すでに両活動は異なった世界に属している。いわば一方は主として身体全般の活動であり、他方は主として脳の活動である。脳自体は経済活動を営むことはできない。けれども経済活動のような実在との直接的交渉に対してなんらかの関心を持ち、間接的に交渉ないし関与することができる。むしろ実在とかかわる科学は、実在に対してなんらかの間接的交渉ないし関与を目的として営まれることが普通なのである。ただいずれにせよ。経済活動と経済思想、実在との直接的交渉とその間接的認識とは、別個の世界である。
 このことは同じく脳の活動である文芸において、よりはっきりする。文芸はいかにリアリズムが標榜される場合であろうとも、すなわち”実在”との直接的交渉を忠実に言語的手段をもって複製することを目ざすものであっても、けっして実在との直接的交渉に替わりうるものではない。けれどもそのことは必ずしも文芸の描きだす世界が”実在”に較べて劣っていることを意味するのではない。むしろたとえ実在を反映する世界を描こうとも、文芸そのものの独自性において、実在とは全く独立した世界をつくりあげる可能性が与えられている点に、文芸の実在に対するある意味での優位があるのである。
 科学は方法的には実在すなわち第一の世界の方向を向くが、文芸においては、すでにこの態度の放棄さえ可能である。文芸は純粋に第二の世界そのものをつくりあげることが可能なのである。そこでは脳は外界との交渉をほとんど忘れ去ることができる。科学が基本的に実在の忠実な反映を目的とする第二の世界のいとなみであるとするならば、文芸は基本的に実在界からの相対的独立性を主張する。その意味で文芸は、第二の世界を代表する人間のいとなみと言える。
 外界の”実在”とその中においてそれと交渉する人間の活動が、第一の世界を構成し、それら第一の世界における活動となんらかの関係ないし関心を有しつつ、科学および文芸に代表される第二の世界が構成される。この両世界は基本的に明瞭な境をもっては区分できない有機的統一をなしている。いかに夢想におぼれることを好む人でも、”現実”界におけるおのれの存在を完全に忘れ去ることはできない。天をあおぎながら歩いていたターレスが井戸に落ちたように、つねに現実が彼に復讐するからである。しかもこの事実をもっともよく表わすのは、第一の世界も、第二の世界も、同一の意識をその発現の場としていることである。人間においては両世界は同時に、かつ相関的にのみ発現しうるのである。思索にふける人が、邪魔な騒音や環境などを、おのれの周囲から払拭し去ることはできない。また記憶や想像力を働かせることなしには、社会生活を始めとする外界との交渉をまっとうすることはできない。通常、人はこの両世界を厳密に区別する必要さえ覚えないほどである。音楽を聴いたり、読書したりすることを、何かこの世界とは異なった別世界と交渉している姿とはとらえないのである。この世界での変哲のない出来事とみなすのである。実際、ある人間の行為が両世界のどちらと交渉するものであるかを、厳密に判定することは、ごく単純な行為の判定であってすら、しごく困難であろう。現にこの文字を書き連ねている私の行為が、思索の部類に属すると同時に、ペンを走らせる手の活動であり、文字を読みとる目の活動でもある。けれども原則的に、私はものを考える行為にふけっている限り、それを文字とする行為と切りはなして、頭の中だけにとどめることが出来る。けれども言葉を使って思索する限りは、私の頭の中で音声文字が鳴りひびくことにおいて、外界との間接的印象による交渉をまぬがれない。
 これらのことから、基本的に第二の世界は第一の世界の影である、あるいは少なくとも反映である、と一般には見なされるのである。この一般的判断は同時に価値判断でもある。実在的人間のいとなみとしては、第一に実在的世界を直接こととすべきであり、それに対する思索や詩人の空想などは、なぐさみごとか、せいぜい実用性のあるかぎりにおいて敬意を払われるに過ぎない。この実在世界との交渉から、第二の世界のいとなみを切り離すことそのものが、すでにして非実用的であり、無価値であり、無意味である。けれどもこの考え方は比較的近世のものである。科学の前には哲学という比較的無用の学問が存在し、学者の間で幅をきかせていた。文芸の歴史は、遊芸人の気晴らしをこととする冒険譚や、ロマンティシズムから、基本的には実用主義的であるリアリズムへと推移したことを教える。学問も文芸も、この世界から逃避的であってはならないとされるに至った。実のところ第二の世界は、この世界の悲惨や圧迫から目をそらし、逃避するためのもっとも手頃な避難所を提供していたのである。もし人間が現実世界に替わる文芸や学問といった、この第二の世界を持たなかったならば、人類の歴史はなんとも息づまるような暗黒の連続であったことであろう。どんな悲惨な時代にも、わずかの光明が見られるのは、この第二の世界の灯が消えることがなかったからである。トロイの滅亡はホメロス一巻において償われるであろう。

2.第三の世界と第四の世界

 人間の経済的・社会的生活と、それらと結びついた文化的・知識的生活は、だれしも人間の主たる基本的生活様式として疑うところがない。それのみか、この両世界が人間の全生活の領域であると考えられさえする。けれども人類史を眺めわたせば、ただちに明らかになるように、この両世界とはまったく異質の要素が、この両世界に鳥の翼が影を落とすように、浸透していることがわかる。一つにはそれは社会現象としての宗教であり、いま一つは人間の眠りの時間において影を投ずる夢の世界である。夢は基本的に第二の世界と共通要素をもちながら、それとは決定的に異なる特徴を有している。すなわち、第二の世界が第一の世界と共通する意識において発現するのに対して、第三の世界である夢の世界は、第一の世界から全く遮断された意識において発現するからである。通常、夢が軽んじられるのはこの故をもってである。現実界となんら交渉しない世界を、人は文字どおりにも比喩的にも夢と名づけるのである。けれども夢を実用的に用いようとする試みが、昔から行なわれなかったわけではない。夢がこの現実界に関するなんらかの情報をもたらしうるという考えから、夢占いが行なわれたのである。注意すべきは、科学認識の場合は第一の世界と第二の世界の間の、同一の意識にもとづく、有機的統合を基礎とする知識過程が存在するのに対して、夢の情報の場合には、全く異なった世界間での認識活動が問題となることである。夢が実在世界となんらかのつながりを持つならば、その関係の仕方は意識とその対象との関係のような内在的関係ではなく、意識と意識外の存在との超越的関係であると言わねばならない。
 夢が外界の実在とは、第二の世界以上に完全に独立した世界であることは、一方で夢をおとしめさせ、他方で夢を無二の世界として愛好せしめる。すでに芸術家は第二の世界に生きる故に、さらに徹底した観念とイメージの世界である夢にあこがれる。夢に親しむものは、夢の世界においては誰もが芸術家であり、詩人である。芸術家はこの世界から多くのものをくみとる。くみとってもくみとりつくせぬほどの無限の豊饒さを前にして、芸術家はついにはおのれの営みの無力を覚るであろう。けれども夢は単に芸術家や詩人のためにあるのではない。フロイトの夢の研究が明らかにしたように、夢は一種の防禦のメカニズムなのである。何に対する防禦か。第一の世界と第二の世界の有機的統合を可能にしている統一的意識は、一個の人格と名づけることができる。この統一的意識は、何らかの理由で人生の三分の一におよぶ睡眠、すなわち完全なる機能の休止を要求する。この人格的統合の休止するあいだに、それに対する内外の、特に内部からの破壊活動を防止し、脇へそらし、ゆがめ、懐柔し、妥協させるのが、基本的に夢の世界の上位両世界に対する奉仕なのである。この点で夢は必ずしも牧歌的な世界ではない。内面の侵略的力との激しい格闘のドラマですらある。
 人間が外界の実在との直接的交渉にあたって、夢の世界をそこに投影することはきわめて稀であるが、宗教現象においてはこの投影が日常的になされている。もっとも原初的な宗教現象であるとされるanimismにおいては、すべてのものには”目に見えない”精霊が宿るとされる。基本的に人間や動物が、外界との交渉において目に見えない対象を相手とする場合、一つは単に感覚器の不充分から知覚が不可能であるか、いま一つは単におのれの内面を外界に投影した場合のいずれかであろう。自然現象が人格化された場合においても、雷とともにゼウスや雷神を目撃することは、きわめて少なかろう。さらに進んで、宇宙の創造者を人格的神として想像する場合にも、たとえばその現場を実際に目撃できると考える人は稀であろう。基本的に生命は外界において目に見えないものに対しては無関心である。動物の知覚はかなり選別的であるから、目に見えないものまで、あえて見ようとはしないのである。人間だけがそうしたものに特にこだわるのは、なぜであろうか。そこに人間固有の世界があると言わねばならない。
 ”目に見えない存在”が単に知覚の欠点ではなく、すなわち顕微鏡や望遠鏡によってとらえられる存在ではないとするならば、その存在の座は人間の内面におかれるほかはなかろう。しかし人間の内面を見わたしても、単なる思想や想像でないならば、どこに神々の座を求めることができるか。単なる思想や想像が、宗教現象の原因であるとは考えがたい。山川草木すべてのものの内部ないしは背後に、精霊の存在を類推的に想像することをもってして、はたして精霊信仰が成立するであろうか。そこから哲学は生まれても、惧れや信仰は生まれにくいであろう。むしろ夢の世界には、はるかに近似的な現象が見いだされる。そこでは単なる類推ではなく、山川草木や生きとし生きるものが、人間と同じ態度をもって夢見る人に対峙することが珍しくない。夢を愛でる人で、鳥や動物と言葉をかわした人は少なくないであろう。けれども宗教現象の世界は、また夢の現象そのものではない。第一に夢は基本的に外界の実在からは隔離された世界であり、その世界の出来事が直接ないし間接に、外界の現象に影響を与えることはないからである。もしそうした関係ないし影響が発生する場合には、それは幻覚といわれる特殊な形態をとるが、それは夢そのものとは区別されるべきである。幻覚は宗教現象そのものではないが、それと発生メカニズムにおいて深く関連するものである。幻覚の発生してくる意識の深層領域は、夢の領域とくにvivid dreamと称される現象と、また連続するところがあるであろう。宗教現象に代表される、いわゆる超自然的ないし超常的現象の発生原因は、夢のまた奥に存在する第四の世界として、固有の領域が与えられねばならない。
 古代においてはほぼ全人類、現代においても人類の過半数が、何らかの形で宗教現象とかかわり、もしくは宗教現象の可能性ないし現実性を信じているということは、もしこのことを単なる否定によってかたずけるならば、人類の半数は狂人であるとする、はなはだしい不遜におちいるであろう。少なくとも人間的世界の可能性を拡張しようと努めるものならば、そこに当然深く探求すべき人間的現象の領域があることを認めねばなるまい。宗教現象は単なる神話や物語、すなわち第二の世界に属するお伽話のようなものではない。それは端的に体験であり、現象との遭遇であり、人間の可能的な世界に属するのである。その意味でそれは人間にとって交渉可能な第四の世界を構成する。かつ人間にとってもっとも探究困難な世界でもある。
 宗教現象の特質は、それが単にそれに固有の世界、たとえば夢の場合には夢の世界、にとどまるのではなく、実在界になんらかの仕方で、なんらかの影響を及ぼす、もしくはなんらかの関連ないし関係が結ばれるとすることである。この点で、人間の実在界との交渉において大きな影響を及ぼすのである。このことは人類史においてあまりにも明白である。宗教現象は、いわゆる宗教という社会生活上の基本的組織となって、人間のこの世界での実在的活動を拘束してきたし、現在もしつづけている。単なる思想や科学的法則であるならば、その誤りが明らかになると同時に、それらの人間の行動に対する拘束力は急速に弱まり、最後は消え去りもしようが、宗教にまつわるお伽話がすべて払拭されたのちにも、依然として宗教の持つ現実拘束の力が、ほとんど緩むことがないのは、なに故であろうか。単なる無知がその原因とは言えないであろう。基本的に宗教の持つ力は、科学や思想のように、第二の世界からもたらされるのではない。深く無意識の底に沈んだ第四の世界に淵源するからである。その世界にこそ神々や亡霊や天使や悪魔や精霊が、その他もろもろの宗教的、超自然的存在のみならず、死後の世界や天国地獄の秘密さえ、くみとられねばならないであろう。

U.認識論的根拠

1.Humeは意識の内容を内在論的見地から、印象impressionと観念ideaの二種に分かっている。印象とは”最大の勢力と激しさをもって”心を打つところの知覚内容であり、観念とはそれらの思惟におけるかすかな影(faint images)である。たとえば、いま眼にしている文字や手に触れる紙の感覚は、impressionの領域に属し、これらの文字から生じる思想や想像は、ideaの領域に属し、さらにそれらの観念の作用から生じるなんらかの情念は、印象に属する、等々。すなわちHumeの分類によれば、人間がこの世界(厳密には知覚perceptionの世界)で交渉しうる対象には、二種類の区別があるということである。この両対象の区別については、単に勢いforceとか激しさviolenceといった、程度の差をもって言い表わされるだけで、本質的になんらの質的差も存在しないのである。眼前に見えるリンゴと、リンゴのimageとの違いを述べよとならば、厳密にはHumeのように言い表わすほかはないであろう。けれども、もし何らかの理由でリンゴのimageがimmpressinと同じ勢いと激しさをもつに至ったならば、もはや両者を区別する基準は一切存在しないわけである。そこから言えることは、基本的に印象と観念とは、本質において同じ種類のものであるということである。両者の区別がもし成り立つならば、それは本質的ではなく、二次的ないし、なんらかの観点に立った場合でなければならない。そうした観点を導入することによってのみ、知覚の世界ははじめて印象と観念、もしくは外界と内界の両世界に分かたれうるであろう。
 知覚内容を印象と観念に分かっただけでは、単に濃淡や勢いを部分的にことにするだけの、一つの統一的世界が存在するだけで、そこからはなんらの本質的違いをもった世界は分離されえない。けれども現に実在のリンゴとリンゴのimageとの区別を、われわれが苦もなく行うことからも、なんらかの要素ないし基準の介入によって、現象的な印象=観念の統一状態からの二世界の分離が、行われるのでなければならない。この問題の考察にあたっては、ふた通りの仕方が考えられる。一つには、現にわれわれが行っている仕方からの推論によって、その分離過程を考察することである。われわれが眼前のリンゴと頭の中のリンゴとを区別する基準は、単に身体的なそれである。単に目によってとらえられたものか、思惟ないし想像されたものであるかの違いである。Hume自身、観念を印象から区別するにあたって、思惟という第三の要素を持ち出さざるをえなかった。思惟は必ずしも身体的なものではないが、それだけではしかし、思惟ないし想像において知覚されたリンゴが、感覚を経由して知覚されたリンゴと異なっていることの基準としては不充分である。実際、想像において単に見ていることは、厳密な意味での思惟ではなく、また思惟が想像のimageすなわち観念を用いるとしても、思惟の対象が印象とは異なったものでなければならない必然性はないからである。現に宗教思想においては、この世界そのものが神の思惟とされさえする。
 印象と観念を分けるものが、単なる思惟ではないとすると、そこにさらに何かがつけ加わらねばならない。通常ある知覚が印象であるか観念であるかを決めるものは、それの身体との位置関係、または身体の内外における座であるといえる。けれども身体自身は、すでに印象として与えられているものである。区別されるべき当のものが、区別の基準となることは不可能であるから、身体印象そのものが区別を与えるのではなく、さらにまたそこに何かが加わらねばならない。身体は単なるばらばらの印象ではなく、一つの統合をもった印象である。この統合を与えるものはなんであろうか。身体を持った個体としての私の意識があるといえる。この自己意識、あるいは広く身体を含めた自我意識こそが、どうやら二世界を分離する強力な基準となっているようである。リンゴは”私”の目の前にある他在としてのリンゴであるか、または”私”の頭の中にある単なる観念、想像としてのリンゴであるかのいずれかである。私は私の状態において、両者に対する態度を変える。私が空腹である時は、私は決して観念のリンゴでは満足しない。観念のリンゴを導きの糸としながら、”実在”のリンゴを求めて彷徨するのである。私が満腹している時は、実在のリンゴに対しては嫌気さえ覚えるであろう。そしてもし私が芸術家であるならば、観念のリンゴやimageのリンゴに、より惹かれるかもしれない。
 本来渾沌とした印象と観念の二世界を、劃然と分かつものは、このように私の身体とむすびついた自我意識、ないし個体意識であることが分かる。もちろんHumeは自我の存在、”私”の存在を単なる観念の束に置きかえてしまった。彼にとっては存在とは印象か観念かのいずれかの存在であり、”私”自身は印象でも観念でもない。さまざまな印象や観念がよせ集った単なる幽霊のような存在である。Humeの世界は、まったく作用の観念の欠如した禁欲的世界である。その世界では因果作用も単なる習慣的思惟でしかない。ましてや”私”の存在などは枯れ葦をさわがせる風ほどの重みもない・・・。

2.いま一つの考察の仕方は、発生的に観察することである。はたして同じ結論に到達するであろうか。Condillac(コンディヤック)はその「感覚論」において、一つの思考実験を試みた。一つの生命のない立像statueに生命を与え、その魂をまったくのtabula rasaであると仮定しておく。それに単純な感覚から一つ一つ与えてゆき、いかにして単なる感覚から人間の魂が形成されていくかを観察しようというのである。たとえば最も単純な感覚である嗅覚より始めて、聴覚、味覚、視覚、触覚、あるいはそれらの複合を、いわばこの人造人間に与えていく。そのつど、この人像がいかなる反応を示すかを、推論によって追跡しようというのである。
 この思考実験において最も興味深いのは、まったくの白紙である人像の内部に、はじめて単純な感覚が与えられる瞬間である。Condillacはその節に”立像は自分に関するかぎり、ただ自分の感じる匂いにすぎない”という見出しを与えている。立像にバラを示すならば、立像の存在はバラの香りそのものにほかならない。石竹を示せば石竹の、菫を示せば菫の、香りそのものにほかならない。感覚のあり方とおのれの存在とは、一体のものである。こうした主客渾然とした状態から、いかにしておのれの身体と、おのれを取り巻く世界という、整然とした区別が生み出されてくるのであろうか。実のところCondillacは、この人造人間を単に感覚を受容するだけのpassiveな存在として見るのではなく、いくつかの能動的能力ないし機能を仮定している。一つは注意であり、一つは快苦の反応であり、いま一つは記憶である。そこからさらに比較や判断の能力が付加されていく。いずれにせよ、立像が単に感覚を受容するだけの存在であったならば、感覚と自己の同一性の状態から永遠に脱け出せないままであろう。
 私自身がバラの香りそのものであった状態から、私がその渾然たる状態から、私とバラの香りとの分離へと進んでいくためには、どのような要素がつけくわわらねばならないか。バラの香りの側にそうした要素を求めることが出来るだろうか。たとえばバラの香りが、単に感覚内容として”与えられる”ばかりでなく、なんらかの能動的な客体としてふるまい、私の存在に吸収されることを拒むような事態が考えられるかどうか。(その場合)バラの香りはいわば私にとって侵略的な異物であり、私はそれと同化するどころではなく、たちまち抵抗者としての私自身を眠りから驚き醒まさせるという、Condillacとはまったく別の考え方も成り立つであろう。もしバラの香りが、私にとって快感であるなら、私はCondillacの言う感覚そのものと一体化した存在でありえよう。しかし、たまたま私にとってそれが苦痛であったなら、私は極力その感覚と私とを分離しようと欲するであろう。そして現に世界が私にとって他在として外化して現われている以上、私にとって感覚の本質は主として異化に向かう、異物の侵略であると考えてよいであろう。
 基本的に、世界を私と外界とに分かつ原動力は、私の感覚の侵入に対する抵抗であり、防御であると言ってよかろう。私は感覚を他在として対象化することにより、感覚を比較的無害なものに構成しなおすのである。もし視覚が単に網膜の上だけでの、一種の触覚のごときものであったならば、これほどわずらわしいものはないであろう。生まれつきの盲人が、手術によって初めて物を見るようになった瞬間の、目に張り付くようなものの感覚がそれである。その異物感を、次第次第に空間化することによって、視覚の澄明な世界が生まれるのである。
 かくして感覚の発現と同時に、それが私にとって快感であるか苦痛であるかの質的差に応じて、私の側からのそれに対する反応が触発されることになろう。私はそれを快感として私と同化するか、苦痛として私と異化するかのいずれかであろう。すでにそこに二世界の分離の萌芽が見られるであろう。実のところ、最初にバラの香りが私に与えられた時、バラの香りの感覚が私自身の存在と同一なのではなく、バラの香りの感覚に対する私自身の反応が私の存在なのである。古典的にそれは快苦の反応とされる。私自身が感覚に反応し、抵抗し、異物を外化する能力をもった存在であることが、私と外界との対峙を可能ならしめるのである。その結果として、私は自身を身体という境界をもった存在として、当の外界において見いだすのである。実はCondillacの立像は、最初の感覚を与えられる前には、人像としての身体すら持っていなかったといえるのである。感覚と同時に、自我意識が触発されることによって、はじめて(感覚の発生する場である)身体としてのおのれが発見されるのである。
 二世界の分離は、現実になされている分離からの考察によっても、またCondillacにならった反省的思考実験によっても、このように自我意識の働きに基づくものであることが推定される。われわれが一個の個体として、世界内において世界に対峙しなければならないことが、われわれをして意識的に世界を外界と内界とに分離せしめるのである。全世界がバラの香りのごときものであったならば、われわれはわれわれ自身を、ほぼ世界と一体化しているであろう。しかしこの世界は非常に攻撃的で、剣呑な世界であるから、われわれは存在の開始と同時に、この世界を出来るかぎりすみやかに外化する必要を覚えるのである。その際、記憶や想像や思惟などの、それ自体ではもはや間接的な影響しか及ぼさないものに対しては、外化の必要を覚えない。それらは頭mindの中のかすかな影faint imagesとして存在しているだけで充分である。Humeのいわゆる印象と観念、すなわち通俗的に言って、外界の対象と内界の対象が、(おなじmindの中での出来事であることを考えれば)これほど極端な明度の差を与えられていることは、驚くべきことといわねばならない。観念はいわば白昼に灯された蝋燭のようなものである。しかも全観念がほぼ頭部という、限られた狭い空間に、いわば幽閉されているのである。このことはそれが脳の働きであるからという、客観的理由では説明できない。眼前の広大無辺の世界を現わし出すものも、また脳の働きだからである。私の思索が、眼前一メートルのところで、目に見えるように行われて悪いことがあろうか。私は思索するために、わざわざペンと文字に頼る必要はないであろう。しかしながら現実には、私の思想は目に見えるように外界に投影されることはない。印象と観念とは別個の世界として分離されており、相互に必要以上の影響を及ぼさないようなメカニズムが成立しているのである。

V.直観・思惟・記憶・想像について

1、 Condillacの人造人間に最初の感覚としてバラの香りが与えられた時、もし彼の心が単に感覚を受容するだけの全くのpassiveな状態であったならば、彼はそれをなんらかの意味で認識ないし知覚するとは言われえないであろう。彼にいかなる感覚が与えられようと、いわば暗箱の中に一点開けられた穴から射しこむ外界の像が、穴をふさいだり開けはなしたりするに応じて、出没するのと何の違いもない。それに対する”注意”が向けられることによって、はじめて感覚と心との間になんらかの関係が生じてくるのである。そこで感覚を受容する側に、なんらかの能動的な能力が仮定されていないと、いかなる感覚であれ、認識ないし知覚として成立しえないであろう。
 そこで人造人間が、生まれてはじめて与えられた感覚に”注意”を向ける時、どのような関係ないし事態が生じているであろうか。かれがバラの香りをおのれ自身の存在そのものと感じるか、あるいは何かおのれとは異なったものと感じるかは、とりあえず問わぬとし、彼がバラの香りを、それが何であれ、なにものかとして認める以上は、そこになんらかの理解が働いていなければならない。いわばそこになにものかが存在しているという"understanding"が成立していなければならない。しかし彼はそれを比較するなんらの対象も持たないのであるから、それはバラの香りという感覚の存在そのものにおいて、すでに存在している理解でなければならない。これをDescartesにならって直観intuitionと呼んでおく。直観は、心に与えられたなんらかの対象に対して”注意”の働きが向かうこと以外には、その発生の理由が考えられないから、それ自体ですでに完成したメカニズムである。少なくとも認識論の見地からは、それ以上直観の根拠を問うことは不可能である。いずれにせよ直観のメカニズムについて考察するならば、すでに直観の段階において対象化が行われていることは確かであろう。バラの香りに対して”注意”が向かう時、すでにそれはnoesisとnoemaの関係である。この関係をなんらかの主体がとらえるならば、そこに自我意識が生じるであろう。直観における理解とは、同時に自己意識の成立過程であるとも言える。単なるnoesisとnoemaの関係、すなわち純粋なIntentionalitaetなるものは意識ではなく、Condillacの言うバラの香りと私の存在とが合一した状態に当たるものであろう。直観において最初の対象の理解がなされると同時に、自我が発生する。直観の最初の理解は、なにものかの”存在”の意識である。この点に関しては、直観においていかなる誤りも不可能である。その場合の存在とは、まさに直観においてとらえられたものの存在だからである。Descartesの言うごとく、誤りは比較や推論から発生する。たとえばバラの香りが実在のそれであるか、想像のそれであるかを、判断することにおいて、はじめて誤謬の可能性が生じる。
 Condillacの人造人間にとって、バラの香りの存在は、それがなんであろうとも、疑うことができない。けれどもバラの香りが彼から取り去られるならば、彼はたちまちそれを忘却してしまうであろう。彼はまた、以前のなにものも存在しなかったと同じ、空白の状態にもどるであろう。次に実験者が彼の鼻に、タバコの煙を吐きかけたとしよう。もし彼が生来タバコ好きであったならば、彼はたちまちタバコの香りとおのれの存在を同一と感じるであろう。彼はその香りの快さが全宇宙の存在であると同時に、おのれ自身であると見なすであろう。逆に彼が生来タバコ嫌いであるならば、彼はたちまちその臭いをおのれとは違った存在のものとして異化するであろう。けれども、いずれの場合においても、それらの匂いの感覚が取り去られるやいなや、彼は何ごともなかったかのように、もとの空無の状態にかえる。彼の存在は一瞬、感覚とともに発生し、感覚とともに持続し、消滅するにすぎない。しかも彼はたとえ感覚が持続したとしても、おのれが持続していることすら知らないであろう。もし一つ一つの感覚の存在を、彼にとっての経験と名づけるならば、彼の経験は一瞬一瞬で消滅するものでしかない。
 Descartesは感覚の過程を、ロウが印章の形を受けとるごときものと見なす。しかもそれは単なる譬えではなく、文字どおりの意味においてそうなのである。外界の事物の形が感覚に刻印され、さらにその形が想像ないし記憶に刻印される。人造人間の感覚過程もこのようなものであると想定するならば、まったく違った考察がここから生まれてこなければならない。いちど現われた感覚は、必ずなんらかの刻印をあとに残していく。いわばそれは最初のimmpactが去ったあとにも、依然として鳴り響いている楽器の音のように、すぐには立ち去ることがない感覚の乱入である。いちどそうした乱舞が刻印されると、もはや外部からのimpactが存在しなくても、いつでも同じ状態が再現されやすい心の傾向が形成されてしまう。それを記憶と呼ぶにせよ、想像力と呼ぶにせよ、それは心の側に非常に積極的な活動を呼びおこすのである。
 Condillacの人造人間は、どうやら単に植物的な感覚の持主ではないようであるから、バラの香りのあとにタバコの煙を吹きかけられたなら、異様な驚きにうたれるであろう。彼がバラ好きで、タバコ嫌いとするならば、いちど与えられたバラの感覚を、彼の記憶はいくたびも再現し、最初の強烈な印象には及ばぬとせよ、彼はあくまでも失われた快感を、記憶にすがって追い求めようとするであろう。そこに突然、不快の感情を呼びおこす異様な臭いが乱入してくるならば、この新たな経験は苦の世界を彼の中に刻印するであろう。彼が好むと好まざるとに関わらず、彼の感覚はこの苦の印象をも刻印し、記憶に保存してしまう。できれば彼はバラの香りだけを思い出したいのだが、彼の記憶はおかまいなしに、両者を同等の忠実さで保存し、同等の勢いで再現させるであろう。けれども、次第に彼の心地よいものだけを想起しようという努力が、一方のみを思い出し、他方を忘却する傾向を生みだすであろう。彼はおのれの”意志”によって、少なくともおのれの記憶ないし想像の世界を制御しようと試みるであろう。

2、 さて、Condillacの人造人間は、感覚と記憶ないし想像力と、快苦によって導かれる意志をもった存在であることが分かった。意志についてはひとまずおき、ここで記憶と想像について、およびそれらと感覚との機能の違いについて、考察しなければならない。記憶は基本的に、保存ないし保持する働きと、保存されたものを再現、すなわち想起するはたらきとの両機能からなるといえる。もし保存されても想起されなければ、私はいかにして、何ごとかを記憶していることに気づくことができようか。次に基本的に、記憶によって想起されたものは、感覚印象と勢いにおいて異なるばかりか、それと区別されるための、なんらかの根本的基準を持たねばならない。さもなければ、人造人間は自己の感覚に現われたバラの香りが、外界から来たものか、それとも単なる記憶の再現であるかを区別できないであろう。バラのかすかな香りが、はたして想起されたものであるか、あるいは遠くから香るものであるかを、どのように区別できるであろうか。人造人間は、もし記憶の事実を知らなければ、外界からの印象も、その記憶による再現も、単に勢いの差によってしか区別できないであろうし、彼はまた、それら香りがどこから来たかをも考えないであろう。実のところ、バラの記憶による再現が、バラの印象よりも、はたしてつねに弱いものであるかどうかも、疑うことが出来る。なんとなれば、われわれは夢の中で、いわゆる現実の印象よりも、ずっと強烈な印象に出会うことがあるからである。人造人間が、強烈に再現されたバラの追憶だけで、充分満足しないとも言えないのである。
 基本的に、感覚印象と記憶による想起とは、異なった意識のレベルにおかれると考えるべきであろう。感覚印象の現われる意識のレベルと、記憶・想像の観念の現われる意識のレベルとは、太陽光と月光ほどの落差を、通常与えられていると考えられる。この二重意識によって、おそらく人造人間もわれわれも、バラの香りの印象と、その記憶とを取り違えることがないのであろう。すなわち、感覚印象と記憶・想像の観念とは、通常二重の異なったレベルの意識において現われる。それによって、通常は相互に混在しあうことがない。私は私のリンゴの観念を、実際に机の上へ置いてみることができない。それは外界へ投影できないからというのではなく(実際私はリンゴを机の上に想像することができる)、感覚世界の印象によってそれが圧倒されてしまうからである。けれども、もし私が、まったくの暗闇の中で、いく日も過ごすならば、私は私の眼前にありありと私のリンゴを描き出してみせるであろう。その時、私の想像のレベルが、唯一の意識のレベルとなるからである。あたかも、白昼見えなかった星々が、夕闇とともに輝きだすように、想像の世界が実在の世界にとってかわるのである。
 基本的に、記憶や想像が感覚と区別されうるのは、それらが感覚と同時に存在している場合に限るのである。感覚世界が意識の基準となることによって、それとは意識の水準をことにする第二の世界としての、観念の世界が形成されるのである。この意識の二重構造がなければ、記憶も想像も、渾沌と錯乱を生みだすだけで、さらには整然たる思惟も不可能である。意識については別に考察するとして、このように感覚の世界と区別された記憶と想像の世界のメカニズムの基本を、明らかにせねばならない。

3、記憶は一般に、あらゆる経験の忠実な再現能力であると言えよう。経験とは、私にとって可能な、あらゆる行為または出来事のことであるから、記憶は意識のすべてのレベルにまたがる、私のあらゆる活動にとっての中心的能力であるといえる。記憶がなければ、私はこの世界において、いかに行為すべきかを知りえないであろう。火に手を触れて火傷したことの記憶が残らなければ、つぎにもやはり私は火に触れて、おなじ火傷をするであろう。単に物事が思惟できないばかりでなく、私はこの現実界で生存しつづける能力を持たないであろう。動物界では本能が、記憶に代わることがあるであろう。しかし、記憶能力が本能にとってかわった動物においては、記憶がすべてである。
 記憶は多かれ少なかれ、かつてあったことという意識を伴う。記憶が抽象化される、たとえば思索などにおいては、その度は少なくなるが、それが具体的な経験であるほど、単なる想起から、いわゆる追想や回想となり、完全な過去の意識の中にとらえられる。時間意識は記憶が作りだすものである。感覚の世界すなわち第一の世界には、時間は存在していない。意識の第一のレベルにおいては、空間化された”今”があるだけである。その世界を過去から現在、未来へと引き延ばして意識するものは、ほかならぬ私の記憶である。私は第二の意識のレベルをもつことによって、世界を永遠化し、無限化する。そこに私の栄光があり、没落があり、不幸がある。
 想像力は想起の一機能であるから、基本的には記憶の能力と等しい。いかに奔放な想像であっても、かつて経験され、記憶されたことの、複合を出でるものではない。単なる想起が、通常かつてあったことという過去の意識を伴うのに対して、自由な想像は、時間を抽象したイメージを現わしだし、かつてあったとおりではなく、おのれの意のままに分離したり、複合したりすることが出来る。その意味では、単なる外界の秩序や、経験の継起の忠実な復元である記憶の想起とは、異なった機能をもつと考えるべきであろう。動物にとって、本来外界の秩序や経験の内容は、想起の過程において気まぐれにあつかうことは、不都合であるばかりか、危険なことでもあろう。出来事の予測や行動の指針を与えるものとしての記憶が、自由に分解されたり、複合されうることになれば、動物の行動はまったくの渾沌におちいってしまうであろう。けれども、そうした気まぐれな能力が人間において発生したことが、第二の世界を単に第一の世界の付属物でない、独自の世界として成立させる原因となったのである。
 Imaginationは、経験すなわちすでに出来あがった記憶の形から、あるものを分離し、あるものとあるものとを複合する能力であるから、基本的には思惟の能力と深くむすびついている。けれども思惟がある論理的規則にしたがって、観念の分離と複合を行うのに対して、想像はあくまでも自由であり、場合によっては、そこに連想以外のなんの秩序も必要としない。たとえば私が、三角定規の上にとまるハエを想像したとすると、それはなんら実際の目撃体験を追憶しているのではなく、またそこになんらかの論理的関係を思惟しているのでもなく、ただ単に二つの異質のイメージを並べてみたに過ぎない。それは現実に起こりうる光景であるが、私はそれを昔のカルデア人のように、天空に思い描くこととする。見えないものを見えるかのごとく想像し、ありえないものをありえるかのように想像する能力、それは一体何のために存在するのであろうか。生命が少なくともその機能において合目的的であるならば、そこにはなんらかの目的があるであろう。Codillacの人造人間は、いかにしてimaginationを楽しみうるようになるであろうか。彼はバラの香りとタバコの臭いを与えられたのみで、長いことほうっておかれたならば、退屈のあまり、この二種の感覚を組み合わせて、独創的な感覚を合成することがあるだろうか。彼はそれらを回想し、比較し、ついにはおのれの気に入るようなバラタバコの香りを、発明することがあろうか。しかし、こうした実在からはなれた想像の遊びは、生命体にとって不利益であり、危険であることは、適者生存の原理からいって自明なことであろう。
 想像力が動物にとって、とくに人間にとって必要であったのは、一つにはそれが思惟を可能にする条件であったことと、それと深く結びついた言語の発生を可能にする条件であったこととが、理由であろう。単に記憶による観念の連合に従うのみであるならば、それは外界の条件が変化しない限り、本能とおなじsureな行動を保証するであろうが、外界の条件が変わった時、たちまち行き詰まってしまうであろう。過去の体験が通用しない時、新たな事態に適合するためには、古い記憶を捨て去り、新たな体験から刻印された記憶を、それに替えねばならない。もし記憶が本能のように固定したものであるならば、この記憶の交換はうまくいかず、生命体はそのために適応を欠いて滅びるであろう。もし記憶による行動が一種の条件反射であるとするならば、条件の変更によって別の行動が比較的容易に起こせるようになる機能性が、記憶には備わっているといえよう。この記憶の選別的コントロールは、すでにimaginationの働きに近いといえる。記憶と実在との結びつきにおいて、そこにもはやなんの有用性もない関係が認識されるからである。飼い猫があるじの替わった家にもどってきても、そこはかつての安楽の場所ではなくなり、迫害が待っているだけと知っても、幾日もその周囲を去りやらずにいるのは、彼の中でいかなる想像が格闘しているのであろうか。彼はすでに過去である記憶と、そこから生まれ保証された習性とから、心を切り離すことができずにいる。同時に実在の教訓から、新たな記憶と行動とを学びとるべく強いられているのである。もし野良猫となった彼が、かつての主人のもとでの安楽な生活を、追想することがあったならば、それは夢のごとくはかなく、それゆえに切ないものであるだろう。
 観念が実在の条件にしたがって結合を変えうるためには、比較的観念間の結合が緩やかでなければならない。結合された観念は、それを必要に応じて引き離すことができなければならない。そうした比較的自由に観念間の結合を操作する能力が、外界に対して柔軟に適応するために、記憶の能力につけ加わったであろう。この状態は、基本的に観念を結合し比較する能力である思惟の発展にとって、好都合な条件であった。さらに思惟の発達に伴って、基本的に思惟の交換のために必要となった言語の発生においても、観念の自由な結合能力が、本質的にはなんのつながりもない感覚的記号と、思惟との結びつきを可能にしたのである。

W.夢と無意識

1、第一の世界と第二の世界は別個の世界ではあるが、互いに共存し、浸透しあっている。一方のみが現われることは、おそらく人間の場合ありえないであろう。一方が現われる時には、必ず他方も伴われる。けれども、もし一つの仮定として、人間の精神からすべての外界の印象、身体の印象も含めたあらゆる世界の事物をとり去り、ただ観念の世界、すなわち想像と思惟だけを残し、その際そうした排除の記憶をとり去ったとして、かつ自我形成に必要な若干の快苦の感情だけ与えたならば、そこにどのような世界が生まれるであろうか。結果は想像するに難くない。おそらくそこに、外界が存在しているのとまったくおなじ世界が、再現されることであろう。このことをある確かさをもって推定させる根拠を、われわれはある現象において知っている。すなわち夢である。
 基本的に人間の精神機能の大部分は、外界の構成とそれを対象とする活動からなっている。記憶にせよ、想像、思惟にせよ、たいていは外界の感覚的存在をめぐって展開されるのである。思惟そのもの、空想そのものに没頭することは、本来例外的な状態である。けれども退屈な現実を前にすると、精神機能が外界よりも内界の自由な働きに目を向けるようになり、たとえば少年期の夢想癖や、数学者や哲学者の、抽象的数理や論理の世界への愛好癖が生まれる。さらには現実世界の代用としての、物語や歴史に対する惑溺が生じる。科学する心でさえ、実在世界の観察を目的としながらも、日常世界とは違った世界を思惟において構成しているのである。
 こうしたいわば現実からの逃避傾向は、しかし完全に第一の世界(すなわち感覚的現実界)から独立した世界を構成するにはいたらない。つねに二重意識において、その分離がなされており、われわれは二世界を交互に行き来しているのである。科学者は原子について思索しながら、眼前の原子模型を手に触れてみることさえできるであろう。いかに空想的な小説を読んでいても、おのれの手にしている本の重みと、目に映る活字と、時には周囲の物音も、完全に意識から消し去ることはできないであろう。しかしこのことをなす意識現象が存在している。その一つが、だれもが知る夢の世界である。

2. 夢と通常の意識とは、どのように区別されうるであろうか。荘子のかの蝶の夢のパラドックスに言い表わされているように、両者を直接比較することは不可能である。夢見る状態においては、その条件として、通常の意識が眠りこんでいなければならない。意識の第一のレベルと、第二のレベルを比較したようには、ここでは他の意識状態との直接の比較が不可能である。けれども、われわれは夢が通常の意識状態とは、異なった状態であることを知っている。どこからそれを知っているのであるか。もちろん夢についての記憶を持つからにほかならない。基本的にある意識状態が、夢であるか、それとも通常の意識状態であるか、蝶となった壮周が実の彼か、目覚めている彼が実の彼かを、みずから知りうる基準としては、記憶の秩序に頼るほかはないのである。夢の状態においては、通常記憶はごく限られた状態にある。おそらく胡蝶となって舞い遊んだ壮周は、人間であったおのれのことを、ほとんど想起しなかったであろう。けれども人間にもどった彼は、蝶であったおのれを想起したばかりか、それについての一文を草したのである。胡蝶としての壮周は、人間であったおのれを探し求めたり、仲間の蝶と語り合ったりすることがあるだろうか。もちろんそうした物語を、人間としての壮周が書くことは可能であるが、夢の胡蝶が人間であったことを、回想しうるかどうかが問題なのである。
 だれも知るように、記憶の能力は圧倒的に、夢よりも覚醒の状態が勝っている。夢の状態では、こちら側の状態については、非常に限られた記憶しか持たないのに対して、こちら側からは、就寝から目覚めまで、発端と終点を線でつなぎうるばかりか、場合によっては夢中の出来事をありありと回想することができ、時にはいく日も頭を離れないことがある。夢がこちら側からの記憶を持ちまわっている場合には、ごく断片的であり、一貫しない場合が多いのである。こうした記憶の基準によって、われわれは第三の意識のレベルである夢について、区別を立て、記述することが出来るし、またそれ以外に方法はないのである。

3. 夢を認識論的にあつかうことのできない理由は、むしろ夢の特質の一つといえるであろう。夢は認識論的には、この世界は本質的に夢のごときものという、単なる比喩の対象でしかなかった。夢について認識論的に思索するには、人は夢の中にいなければならないが、夢のなかでは人は哲学者であるよりも、小児に近いからである。かの壮周にして、夢中には胡蝶として花の間をたわむれ遊んだのである。夢世界の構造は、基本的にはこの世界のゆがんだcopyであると言ってよいだろう。夢の世界も同じく、私の自我を中心にして構成される。どんな夢であれ、私の存在しない夢を、かつて見た人がいるだろうか。私の身体は時に胡蝶となり、蟻となることはあろうとも、つねに私は身体的存在としてそこにある。私の身体は時にはっきりと意識されないことはあっても、私は夢のなかではつねに身体的に反応している。場合によって私は、単なる目に過ぎないこともあろう。あるいは熱に浮かされた場合のように、私の存在は単に頭の中の思惟にすぎない場合もあろう。しかしそれは妙に具体化され、形をもった思惟である。いわば思惟そのものが身体に代わろうとしているかのように。
夢の出来事や人物が、その存在において、この世界の出来事や人物と、本質的に異なることがないという点から、夢を構成する体験は、基本的にこの世界での体験と等しい根源を持っているだろうことが推測される。その構成部分において、この世界に存在しないような出来事や人物は、夢の中に見いだされないからである。たしかに夢の世界は、最も奔放な空想以上に、荒唐無稽でありうるが、類においては同じものである。空想の材料が記憶から汲まれるように、夢の材料も記憶から汲まれるといってよかろう。けれども空想は、たいていの人が空想であることを心得ているのに対して、夢を見ながら夢であることに気づくケースはごくまれである。この点が、単なる想像や空想と異なる、夢の世界の特質である。われわれが空想しながら、空想していることに気づくのは、われわれを取り巻く、きわめて攻撃的でありうる外界という現実世界が、つねに意識されているからである。空想は現実意識の圧迫のもとに、ほそぼそと行われているのである。これに対して、睡眠という特殊な条件をえた夢の世界は、まったく現実世界を、少なくとも意識のレベルで遮断した、空想の世界であるといえる。けれども、もしそれだけであるならば、夢は空想が大っぴらに跋扈する、Freudのいわゆる願望の仮想的充足だけの世界になってしまうであろう。夢において願望が代償的に充足されたり、されなかったりすることは、確かであるが、それは単なる空想によっても、充分行われうるのである。少年期の経験から考えれば、むしろ昼間の世界で満たされない願望は、白日夢や就眠前の空想によって、代償的に満たされることがはるかに多いのである。むしろ夢の空想と異なる最も大きな特徴は、空想の出来事や人物が恣意的、意図的であるのに対して、夢の出来事や人物は、少なくとも意識のレベルにおいては、意志とは独立した活動によって発現してくることである。空想においては、私が作者であることを、私は一瞬たりとも疑わない。たとえ自由連想のような形をとったとしても、私がそれによって願望を代償的に充足させようとするならば、私は連想の流れを意のままにコントロールできよう。それに対して夢のなかでは、私自身が夢の作り手であるという意識は、通常存在しない。確かに夢のコントロールを心得た人は、おのれの願望やなんらかの観念を、そこに投げ入れて、夢の出来事を導くことは可能である。けれどもそれは夢であることを意識した夢の部類であって、純粋な自然の夢においては、私は夢の起こるままに身を委ねて、少なくとも意識のレベルにおいては、そこになんらの作為を加えようという意志を持っていない。そしてこの点がまさに、夢の夢たる魅力の所以であると言えるのである。

4.夢の出来事や人物の、私の意志からの独立性は、単なる空想と夢とを区別する特徴であるが、単に睡眠の事実をもって夢の意識が実在の意識から遮断されることによって、なにゆえに観念に対する私の思惟や意志のコントロールまで失われてしまうのであろうか。言い換えれば、夢は単なる外界から遮断された空想であって、なぜいけないのであるか。もしそうしたものであったなら、私は夢の世界において、その限りないimageの可能性の中で、100%私の満たされない願望を充足して飽くことがないであろうし、もしそうならば、困難と危険に満ちたこの世界は、夢以下のものとなるであろう。けれども実際には、睡眠とともに実在意識が消え去ると、私の意志の観念に対するコントロールは失われてしまうのである。夢の世界において、観念にコントロールを及ぼすものが、私の意識的自我ではないならば、それはなんであろうか。この問いには基本的に、外界において感覚の原因となるものはなんであるかという問いと、おなじ困難が生じる。私が内在的立場を取るかぎりは、感覚的対象(あるいは知覚)が、私の認識の終点である。けれどもすでに夢においては、内在的立場は不可能であるという見地から、記憶の秩序という客観的・間接的立場に立つ以上、この困難について考える必要はなかろう。基本的に夢の材料は記憶から汲みとられているのであるから、私の意識とは独立に、私の記憶を利用し、操作し、コントロールする、私の意識しない私の精神の力とはなんであるかと問えばよいであろう。基本的にそれは意識と対立するものであるから、無意識の力と名づけてよいであろう。
すなわち私は夢の世界においては、私の中の無意識の力と対峙しているのである。けれどもこの無意識という伝統的用語は、ことの性質からしてきわめて曖昧なものである。基本的に意識は、この世界にただ一つしか、直接的に存在していない。すなわち私の意識である。私はあなたという存在が、意識をもった存在であるのか、あるいは単なる”無意識”のautomaton(自動人形)であるのか、それを直接確かめることができない。その意味で、あなたの言葉は無意識に発せられたのか、それとも私と同じような意識的状態、ある意識的意図をもって発せられたものであるか、どちらとも決めることができない。もしあなたが私と同じように、真実意識をもった存在であるなら、私がそのように推論し、信じることができるなら、いわゆる私の中の無意識が、はたして”無意識”の存在であるのか、はたまた私と同等の意識的存在であるのか、と当然疑ってみなければならないであろう。その結果、私の中の無意識なるものが、あなたが無意識のautomatonでないように、無意識でなく、れっきとした意識の持ち主であると私が推論し、信じたとしても、それは少しも不自然ではなく、むしろ私があなたをロボットとして扱うのが不自然なように、私の無意識を無意識として扱うことが不自然になりはしないであろうか。
 無意識に替わって、潜在意識subconsciousという用語も使われる。けれども、はたしてどのような意味でのsubなのであるか。いまだ納得のいく定義に出合ったことがない。とにかくここでは用語にこだわることをやめ、必要な定義を加えていくのが、安全であろう。この世界では基本的に、私は身体としてこの世界に対峙している。同じく夢の世界においても、私はなんらかの身体の意識として、夢の世界に対峙している。このことは何を意味するか。私が世界に対して私の身体を現わしだすことは、世界と私の身体を区別し、そのことによって一つには私の身体の維持と、外界に向けての活動、およびそれからの攻撃に対する防禦を、容易にしているのである。もし私の足と私の靴の区別がつかなければ、私の足が痒いとき、私の靴の上から足を掻かねばならず、隔靴掻痒の思いであろう。基本的には、これを私の世界に対する身がまえと呼んでよいだろう。知覚はこの身がまえを認識的に成立させるのである。想像や空想においても、私が想像された世界に対して、攻撃的または防禦的になる時には、私は必ず私の身体を想像する。夢の世界においても、この身がまえが存在していることは、私はそこでも、なんらかの攻撃や防禦を行わねばならないことを意味している。私は夢の世界では必ずしも単なるspectatorではない。夢は見るものではなく、基本的に生きるものである。ネルヴァルの言葉をもじれば、夢は第三の人生である。

5、感覚的世界を外界と呼ぶならば、私が夢の世界において対峙する世界は、基本的に”内界”と名づけることができるであろう。この用語は、私の想像や追憶の対象、また私の感情や意志や思惟の働く場についても言われうるので、特に夢の内界として区別する。その意味は、夢そのものが、私の内界、すなわち身体内部の精神または心と呼ばれる部分の現象であるということではなく、夢が基本的に精神ないし心の内部から現われる現象を体験する認識活動である、という意味である。けれどもそれは、だれも知るとおり、なんとも奇妙な、かつ不合理な体験であり、はたしてそれが認識の名に値するかどうか、疑われさえするであろう。科学は日常的な知覚の段階にとどまらず、いわゆる現象の奥にある本質を探究する。われわれが目にし、手に触れる、感覚的産物の物質なるものの本質は、きわめて抽象化された分子や原子の集合であるとされる。そうした科学的真理からみれば、目にし、手に触れる物質は、いかにも奇妙な存在である。酸素原子や水素原子といった、目に見えない気体、または火となってもえる存在が、結合することによって、世にも奇妙な水という液体が知覚に映しだされる。われわれの意識が通常、そうした感覚的存在を奇妙であると感じないのは、単に習慣的な鈍磨にすぎないのである。夢の世界の現象も、そうした表面的奇妙さの奥にある本質が探究されるならば、それは立派に認識体系となることが出来るであろう。
 夢の内界は、さまざまな無意識の力の発現であるならば、現象の奥の本質を探るとは、それらの力ないし作用の正体を探ることでなければならない。Freudがすでに解き明かしたように、そこにはさまざまな歪曲、入れ替え、カムフラージュ、仮装、変装、象徴化がおこなわれる。一体夢を演出する力は、なに故にそれほどまで不誠実であり、ひねくれ者なのであろうか。それに答えるには、二つの力の拮抗ないしバランスを考えるべきであろう。一つは、夢の世界を遍歴する、いわばDrachentoeter(龍退治)としての私であり、一つは当のDrachenであるところの、もろもろの意識の闇の存在者たちである。私の夢の意識に龍どもが侵入してくるためには、さまざまな仮装が必要である。私がもしその正体を見破るならば、私はたちまちそれを追い払うであろう。けれども私の力が弱い時や、油断を見せた時は、私は正体を現わした彼らに圧倒されてしまうことすらある。また私が龍の宝を貪欲に求めることをするならば、仮にそれが得られたとしても、その見返りを私は恐れねばならないであろう。また私がHoly Grailを求めて遍歴する騎士のごときであるならば、私はさまざまな導きに出合うことであろう。私がRevelationを受けるにふさわしくない存在であれば、それは曇らされ、歪められるであろう。
 基本的に無意識のもろもろの力は、それが夢の内界として現象する時、最も直接的には人格的姿をとって現われる。われわれが夢の中で出合う人物たちは、たとえ知人や近親の仮面をかぶっていても、基本的には私の内面の力の発現である。たとえば、われわれは成長の過程において、理想の父親像や母親像を、無意識のうちに内面に育むものである。夢において現われる父親や母親は、たいていその理想化された人格としての彼らである。夢から覚めたあとに、現実とのあまりの落差に、悲哀を覚えないものがあるだろうか。私の意識の背後の闇には、さまざまな完成された、または未完成な胞子のごとき、良き、悪しき、人格のcomplexが形成されていることであろう。そうした潜在的力は、私という自我の光の陰に追いやられているものの、私自身の思想、行動、意志に、ひそかな影響を及ぼしているのであろう。しかし、それらが、もしくは”彼ら”が最も明瞭に私に働きかけてくるのが、たとえそれが不合理の仮面をかぶっているとせよ、夢の世界なのである。
 私は夢を演出する力を”彼ら”と呼ぶことにするが、それは単に比喩的な意味においてではない。もし夢の世界において、なんらかの人格的存在を相手にしうるなら、それは単なる比喩としての人格ではなく、通常われわれが交渉する、すべての人間と同じく、意識を持った存在と見なさねばならないであろう。私は夢の中で人と語り、また人から語りかけられる時、決して独語にふけっているわけではない。私はいわば、私の中の他者である、人格的意識的存在と、交渉しているのである。もし人格という言葉が誇張にひびくならば、shadow personalitiesと名づけるのが適切であろう。私という表の人格が、私のエゴを中心に形成されていく陰には、私になれなかったいくつもの”私”たちが、影の人格として形成されていくことであろう。この身体を代表する、絶対君主としての私のegoが、彼らshadow cabinetと交渉する場が、夢のparlamentなのである。

、夢の内界を発現させるものが、私の意識の背後に潜む、もろもろの力であり、私が外界においてと同様、内界においても、それら他在の群れと交渉せねばならないという事実によって、私の意識的自我の範囲は明瞭になっていくであろう。一個の個体としての人間は、精神的に見るならば、複数の、あるいは多数の、人格ないし意識の集合からなっており、私という存在は、その中で身体的egoを中心に形成された、最も有力な人格の一つに過ぎないのである。外界との交渉を受けもつこの私は、しかしきわめてdespoticな存在であり、通常はこの私以外の人格の発現を許さないのである。いわば私は、この実在界において、この個体としての存在を代表する全権を与えられており、その維持と成長と安寧のために、外界との一切の交渉をひき受け、問題に対処し、処理し、解決すべき義務をも課せられているのである。これが非常に特権的な地位であることは、第一の世界、すなわち感覚の世界が、あらゆる生命的存在がそこに発現することを目ざす究極の世界である、という事情にもとづいている。この第一の世界に発現しようとする生命の意志と、その現われである身体と強力に結びついた意識こそが、すべての意識の中で最も強力であり、最も確固とした人格なのである。
 そうしたdespoticなegoが、他の意識的人格の発現をゆるすのは、すでに明らかにしたごとく、夢という曖昧模糊とした意識の世界に限られているのである。例外的なケースとして、人格の交替が起こりうることは、多重人格や憑依などの現象によって、知られている。いわば君主の交代ないし政権交代が、なんらかの理由でおこなわれるのである。けれども通常は、despoticなegoは、政権交代をゆるすよりも、むしろ個体の破滅を選ぶことすらある。青年期の非常に純粋なegoが、性衝動やその他の暗黒な衝動によって揺り動かされる時、それを一種の政権の危機と感じ、みずから城に火を放って滅びることがあるであろう。けれども、たいていは、いわゆる無意識から襲いくるさまざまな衝動を、despoticなegoは個体の保存の見地から、おのれの人格の中に取り込んでいくものである。子供から大人になるにつれて、われわれの人格は、そうした過程によって非常に複合的なものとなるのである。もしそうした複合がなされなければ、それらの衝動は、独立した人格として、私という自我の政権を脅やかすことになるであろう。その徴候は、夢の世界において悪夢として現われるのである。最も強力な、しかも個体の維持にとって必要な無意識の力を、私はそのようにして私の政権の中に取り込んでいくのであるが、大部分の力はしかし、私から切り離されたまま、Freudの用語を用いれば、verdraengenされたままで、無意識の闇の中で、いつか権力の座を揺るがそうとして、眼を光らせているのである。夢はそうした勢力に対する懐柔の場でもあり、私と”彼ら”との間の緩衝地帯でもある。
 verdraengenされたものは、必ずしも悪しきものばかりではないことに、注意すべきであろう。私はいわゆる悪人であるならば、私は私のなかの”ほとけ心”をverdraengenしてしまうであろう。それは私のいわゆる”Gewissen"として夢の中に立ち現われ、私を悩ますことであろう。あるいは私がもっと謙虚な人間であるならば、私は必ずしも私自身を”彼ら”より賢いものとも、優れたものとも、考えないであろう。私は進んで”彼ら”のadviceや忠告に耳をかすことであろう。夢の世界は、私が”彼ら”に対してとる態度しだいで、険悪ともなれば、嘲笑的ともなり、friendlyともなりうるのである。くわえて私は、”彼ら”が、ある点で私よりも優れた存在であること、あるいは少なくとも私の持たない能力を駆使しうる存在であることを考えざるをえない、現象に出くわすことがある。けれどもこの問題は、夢の世界properに属するよりも、さらにその奥の世界である第四の意識の領域(第四の世界)において考察されるべきであろう。

X. 第四の世界(宗教現象の世界)

 第四の世界の入り口は、その一つはすでに触れたように夢である。夢の中でも、vivid dream またはlucid dreamと称せられる特殊な現象が、夢のさらに奥にある世界を垣間見させるのである。この両種の夢の特徴は、きわめて高い意識もしくは知覚のレベルである。両者を区別するものは、単に夢であることを意識しているかどうかの違いである。夢であることを意識できれば、夢のコントロールなどの夢実験が出来るわけである。それはおもに夢プロパーの世界に属するが、場合によっては、第四の世界の現象がからんでくる。それゆえに、入口の役割を果たすのである。
 vivid またはlucid dreamの状態は、それと同じ意識状態をほかに求めるならば、いわゆるtranceがそれにあたる。tranceの意識状態は、通常宗教体験とくにprimitiveな宗教における、神がかりなどが連想されるであろうが、じつはもっと日常的な意識現象なのである。それを意図的に作りだすことも、比較的容易である。それを一番簡単に実験できるのは、自己催眠である。催眠術あるいは自己催眠は、原理的に簡単であり、他者に向ける催眠も、自己に向ける催眠も、同じ方法が用いられる。まず、心を落ち着かせるために、通常は呼吸法が用いられる。安定した呼吸の状態で、(自己)暗示をかけてゆき、精神の平らかな状態を作り出す。そのままの状態で眠りに入ってもよいが、ふいに意識の状態が変わっていることに気づくであろう。つぶっている目の中が、やわらかい黄色みを帯びた光にみたされ、そこにイメージが鮮やかに浮かびだす。ためしにおのれの手の平を思い浮かべてみると、眼前にありありと浮かぶであろう。この状態で、さまざまな実験を行なうことが出来るのであるが、もし目が開いているならば、たとえば天井の模様がこまごまと見えてくるであろう(これは近眼であることと拘らない)。あるいは、なんらかの幻影をみるであろう。
 この状態を、一般にtranceと呼んでよいであろう。トランス状態の意識のレベルでは、イメージが鮮やかに発現し、しばしば幻視が起こる。幻視とは、本来内界にあるべきイメージが、外界に投影されることである。この第四の世界における意識のレベルにおいては、知覚のメカニズムそのものが、ある種の変容をこうむるのである。トランス状態は、催眠法において明らかなように、意識を一点に集中させ、通常の意識の幅を狭めて、その強度を高めていくことによって得られる。これは未開宗教においては、シャーマンのecstasyにあたるが、必ずしも狂躁状態におちいる必要はないのである。シャーマンは忘我の状態になるが、通常のトランスでは、冷静に自己の状態を観察することが出来る。そこでなんらかの異常な状態が起こるならば、驚愕や恐怖に襲われることもあるが、催眠法の段階で、心の安定をはかっておくのがよい。
 カルロス・カスタネダは、ペヨトルという幻覚性のキノコ(メスカリンの原材料)を食することによって、このトランスの極端な状態におちいったようである。彼の知覚の体験で最も興味深いのは、蚊ほどの小さな虫が、象ほどの大きさに見えたということである。これを筆者は知覚の顕微鏡効果と名づけている。実は人間の知覚は、人体の大きさに合わせて調整されているだけで、もっと精緻で、融通の利くものであることが、トランスの実験で分かるのである。カスタネダについては、どこまで信じてよいかは分からないが、第四の世界の特異な開拓者であると言ってよいだろう。
 夢とトランスが、第四の世界の入口であるとするならば、シャマニズムはすでに実践へと踏み入っている。直接、第四の世界との交渉が始まるのである。シャマニズムは同時に宗教の起源でもあるから、宗教の本質、神現象の本質も、つれて明らかになっていくことであろう。第四の世界と直接交渉するためには、それなりの心構えと覚悟が必要である。第一の世界はもちろんのこと、第二の世界で常識とされるものでさえ、背後に見離さねばならないことが起ころう。第四の世界との交渉は、人間の内奥に、あるいは生命の内奥にひそんでいる、もろもろの不可知の力と接することであるから。自然科学は、ここでは役にたたない。魑魅魍魎の跋扈する世界から、合理的で心休まる科学の世界に、場合によっては避難するのもよいだろう。それは精神健康にとって必要なのである。しかし、第四の世界は〈実在〉するのである。



入力 : マリネンコ文学の城
UP : 2024.2.21
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