四世界の理論――第一部

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目次:1.第一の世界のリアリティ 2.第二の世界のリアリティ 3.Pararealityについて 4.思索による危機回避 5.芸術・文学による危機回避 6.夢の世界のリアリティ 7.精神体操としての催眠法 8.催眠とトランス 9.宗教の起源 10.テレパシーその他の超感覚的現象 11.人間という多重的・多元的存在


 四世界の理論

 第一部 四つの世界と四つの現実 


 第1章 第一の世界のリアリティ 

、現実(reality,Wirklichkeit)とは、物の存在ないしその物に対している私の存在が、それ自体として疑いないことである。物が仮象であるか、私の存在が空想か仮定のようなものであるか、といった反省は、物や私の現実性について、なんら関係がない。あることがらが現実であるかどうかの、唯一可能な判断基準は、反省や思惟ではなく、現にそれがそこに存在しているという、事実のほかにはないからである。
、そうなると、現実という概念は、物の現われている様態と、私自身の様態、そして私と物との関係の様態だけの種類に分類できるであろう。一般に現実という概念があてはめられるのは、通常、自然界、宇宙と呼ばれる物質界や、その中で営まれる、人間の活動世界に限られている。それは単に、大多数の人にとって、この両世界の現実が、圧倒的に重要であるということにすぎない。その意味で使われる”現実”と、ここでの現実を混同してはならない。
、人間の交渉可能な現実世界を、四つに区分するにあたって、たしかにそれぞれの世界の現実性の度合が、区分の基準として使われている。しかしそれは必ずしも、重要性のランクを表わしているわけではない。realityのランクは、たしかに存在のランクとして刻印されがちであるが、それは人がこの世界の現実以外には、いまだあまりにも無知であることが、一つの原因となっている。そしてこの世界の現実性についてさえ、それを根本的に考察しようとする人は少ない。
、第一の世界には、第一の現実が対応する。第一の現実が、第一の世界を構成すると言いかえてもよい。この世界が現に感覚器官を介して、まさに今在るごときものとして、私の眼前に現われ、私の耳をうち、私の肌に触れてくるのは、決して私自身が自由に、恣意的に行っているのではない。丸いものは丸いものとして、四角いものは四角く、固いものは固く、騒々しいものは騒々しく、私の感覚受容器をへたものが、私の脳のどこかで、そのようなものとして構成されてしまうことに対しては、私は異議も、文句も、賛意さえとなえることができない。私の脳の仕業でありながら、私はこのようにして構成された世界を、私以外のものの世界、私の身体をも含めた外界として、とらえるほかはないのである。この第一の世界を作りだす機能は、生得的、本能的であって、学習によって影響される点は少なく、私はいまだ丸いものを四角く見ている人を知らない。
、このように外界(第一の世界)は、脳においてあらかじめprogrammされた世界であると言うことができる。人はいわば、このみずから織りなした牢獄か鳥籠のような世界に閉じこめられて、一生を送る。
、外界の骨格が、先天的、生得的に構成されており、そこにはなんら私自身の変更の余地や自由がゆるされていないということから、この世界とその中に投げ出されている私の、一種の運命性、決定性がみてとれる。これは動物界に広く見られる、自然環境に対する無意識的適応の一例にすぎないからである。人間は人間の生命活動にとって、最も適した世界が現われるように、自然環境に対して、知覚の適応を行なったのである。人間の知覚は、自然界と運命をともにしており、まさに自然に対して開かれた眼なのである。
、第一の世界とは、自然環境に対して適応した知覚によって作られている世界であるから、基本的に自然界そのものが、その世界範囲であるといってもよい。しかし、知覚が自然の本質そのものを映し出しているかどうかは、別問題である。少なくとも人間の知覚が、人間の生命活動全般にとって、申し分のない正確さと色どりとを具えた自然界を現わしだしていることに、驚嘆を覚えない人は少なかろう。そこからあらゆる技術が生まれ、芸術が生まれ、科学が生まれたのである。科学は人間の知覚の世界に、最も批判的であったが、とにかく四角いものがつねに四角く見えなければ、ユークリッドの幾何学も生まれなかったのである。
、人間の知覚が、自然環境への適応の結果、発達したものであるならば、そこに知覚のもつある性格が、その事実によって説明される。たとえば、適応というものの性格からして、おのれに好都合な方向、内容に固定されていくこと、その反面、不要なものが無視、排除されていくことである。すなわち、人間の知覚は固定的、選別的傾向をもつ。四角いものは、たとえ丸く見えても、四角いものとして知覚される。曲がって見えるものも、事物に即して、真直ぐなものとして見られる。遠いものは、その実際の大きさに即して、大きく見える、等々。さらに、微小な感覚を排除することによって、非常に見とおしのよい、場合によっては、かなり大まかな世界が現出されている。そのトリックの最上のものは、透明な空間の創出であろう。透明な空間というものは、おそらく色彩ですらない。それは色彩をもった何かを背景にしてしか現われないからである。それは感覚的にゼロに近い領域であると言ってよい。感覚的にゼロに近いものを、知覚の世界に現わしだすことは、まさに知覚の奇蹟である。もし、さもなければ、世界はもっと微小知覚にとり巻かれた、おぼろなものであるだろう。
、知覚されたものが、実際にそこにあるものの、実際の姿であるかどうか、という問題と、知覚されたものが、現実の存在であるかどうかという問題は、別のレベルである。たとえ知覚が物の本質を映しだすものではないとしても、知覚されたものは現実である。物の正体がなんであろうとも、私は知覚されたものの姿に反応し、判断し、行動しなければならない。それが幽霊と枯れ尾花のたぐいのような、いわゆる仮象や錯覚でないかぎり、私は私の知覚の世界の範囲内で判断し、行動することを余儀なくされている。これが第一の世界に対する、私の直接的な交渉の態度である。
10、けれども、日常生活の基本的な行動は、たしかに知覚のできあいの世界の中で、ほとんど問題なく推移するのであるが、自然を相手とする自然科学においては、知覚の世界を超えた対象を相手とすることは珍しくない。さらには、自然界を数式に解体して、自然を相手とすることは、数式を解くことと等しく見なされているという事態は、第一の世界を知覚にとらえられた自然界とすることに、重大な反論となりはしないか?この問いに答えるためには、さきに第二の世界のrealityについて考察する必要がある。

 第2章 第二の世界のreality

11、知覚の世界は、私の脳が作りあげた世界であるとしても、私自身はそれを恣意的に変更することも、取り消すことも、作り直すことも、通常は不可能である(知覚異常のケースはここでは考えない)。それは私の世界ではない。それは私が私の身体の作りや、生理的メカニズムを、恣意的に変えることができないのと同様、変えることができない世界である。そこで私はそれを外界として、私の世界から手放すほかはない。私の身体ですら、それが外界に存在しているものである以上、私自身ではないと言うことすらできる。それは一種異様なものですらある。
12、私が(外界)の知覚の世界を私から切り離した時、私に残されている世界が、私の第二の世界である。私は目を私の内面に向ける。目を閉ざせば、外界は遮断されて、眼球内部のおぼろな明暗がとってかわる。ぼんやりした体の輪郭のイメージのなかに、体感が浮きあがる。耳を閉ざすことができれば、沈黙が広がるであろう。あれこれのとりとめない考えが、頭に浮かんでは消える。それは記憶であったり、想像であったり、何かについての思惟であったりする。これらは程度の差はあっても、ある程度私の自由に操作し、コントロールできるものである。けれども、明瞭この上ない外界の知覚と違って、これら内界の出来事は、なんと不確かな、とらえ難い、印象しか与えないのであろう。しかし、不確かで、とらえ難いものではあっても、それらが私という存在の、唯一のrealityを構成していることは、疑いようがないのである。
13、この世界では、私でないものはなく、私がすべてである。私が赤い色を目にする時、私は赤そのものではないが、私が苦痛を覚える時、私は苦痛そのものである。私が怒る時、私は怒りそのものである。喜ぶときは、喜びそのものである。私が思いだす時は、たしかに記憶されたことは私自身のことばかりではないが、私はそれらの記憶を思いだすことも、思いださないこともできる。私が考える時、たしかに無数の私に無縁なことを考えはするが、それらはすべて私の頭の中でいとなまれるばかりか、私はそれらを考えないことも自由である。私が想起し、想像し、思惟することは、基本的にその大部分が、そうした能力を意のままにする私自身のいとなみと考えることができるのである。
14.私の脳の産物である、外界の知覚の世界が、基本的に私と対立するよそよそしい世界であるのに対して、私の内面に知覚されるcogitoの世界は、私自身と最も親密に交渉がおこなわれる世界であるといえる。けれどもそれは、必ずしも私と敵対的にならないという意味ではない。たしかに現実の犬とは違って、観念の犬は噛みつかない。想像の中では、ライオンと戯れることも可能であろう。けれども、この内面世界の親密さのゆえに、いったん敵対的となった観念から、現実以上の苦痛を受けることさえありうるのである。観念の犬は噛みつかないが、犬に噛まれた記憶は、長く恐怖の反応を惹き起こしつづけるであろう。すなわち、内面の世界では、内面の世界の出来事に対して、外界の出来事と同程度に反応することが可能なのである。人は実際の出来事よりも、その記憶によって、数百倍も苦しめられる。
15.内面の世界のrealityは、外界のそれに比して、昼の月に譬えられるであろう。しかも内面世界のrealityは、月のように満ち欠けする。さらに内面世界を構成する材料である記憶の内容は、月が太陽の光を反射して光るように、外界の印象の反映にすぎない。体感や情念は、月光に照らされた世界のようにおぼろで、とらえがたく、おどろおどろしい。快感や喜びでさえ、つかの間の花火のようなもので、なんら持続するものでなく、すぐさま退屈と苦痛に変わる。苦痛だけが、この世界では最も真剣なrealityである。喜びは子供にだけ許された最高のrealityであって、大人はその反映に与るに過ぎない。
16.内面世界において、これら情念や快苦と際だった対比を見せているのが、思惟である。思惟そのものの現実性は、それほど明瞭に意識されるものではないが、思惟はある整合性と論理性に従っておこなわれる。単なる思惟は、目でみたもののrealityに圧倒されてしまう場合が珍しくない。単なる考えでは、人を納得させる現実性に達しない場合が多いのである。けれども、逆に思惟のみが到達できる現実が存在する。完全な円や点といった概念は、感性界の”現実”には存在しないものである。
17.内面世界における、思惟のいま一つの特異性は、思惟の整合性、論理性が、私自身によっては恣意的に変えることのできない、ある客観性をもつことである。この点思惟は、外界の知覚と共通性をもつ。思惟は私のいとなみであると同時に、私のいとなみではない。私はある敷かれたレールの上でしか、思惟できないからである。ここには知覚の適応と同じ原理が働いているであろう。思惟は本来、人間が自然環境に適応するための、補助手段としての機能であって、そのために思惟は自然環境に適応した思惟でなければならない。自然のメカニズムと、思惟のメカニズムは、基本的に一致しなければならない。この適応の結果が、自然の整合性と思惟の整合性の一致であり、自然の論理と思惟の論理の一致である。
18.第二の世界の現実性の中心をなすものは、情念や快苦の感覚であって、それらに圧されるようにして、記憶の心像と、それに頼った思惟が、ほそぼそと営まれているのが、通常の状態である。もしそれだけであるならば、人間の内面の世界は、一方ではおどろおどろしい情念と快苦のうごめきが、他方では泡のようにつらなるステレオタイプの記憶imageと、それらを追いかけるやはりステレオタイプな思惟がかもしだす、なんとも鬱陶しい世界に終わってしまうだろう。情念や快苦は度しがたいものとしても、第一の世界の単なる反復や反芻にすぎないような思惟ばかりでは、なんとも息のつまる世界である。けれども人間の脳には、進化の果てに、想像力という遊びの余地が加わったのである。この脳の働きの”あそび”によって、人間の内面世界は、じつに豊かな自由の空間をえたのである。
 もはやただ単に記憶を機械的に反復する必要も、記憶どおりの思惟をする必要もない。記憶を自由に組みあわせ、解体し、再構築することによって、単なる事実ではなく、可能性や、不可能性についの思索をすることが可能になったのである。さらには、記憶を頭の中で解体することによって、この現実世界とはまったく異なった、想像や空想の世界を頭の中に構築することさえ、可能となったのである。もし空想の世界に生きる人間が狂人と称されるならば、すべての人間が狂人となる資格をえたのである。現代では、かつての狂人は、芸術家や詩人と称されている。
19.想像力は、ただ単に芸術家や詩人の遊びにとどまったわけではなく、その発達は人類の思索においても、深甚な影響を与えた。科学的世界観の発展は、想像力の発展の歴史と考えてよい。亀の背中の上に支えられている、この宇宙のimageは、空想豊かというよりも、むしろ古代人の想像力の限界を表わしている。彼らは知っているものについてしか、想像できなかったからである。知らないものについて想像する現代科学(たとえばダークマターや未知の素粒子)は、想像力の発展の極限に達したものといえる。
20.かくして第二の世界である内面の生活において、人間を自由にするものは、imaginationの広がりと、imaginationの翼にのった思惟のほかにはないのである。ここに第二の世界が、リアリティにおいて第一の世界に劣りながら、少なくとも第一の世界に対抗できる世界を構築できる土台がある。しかもそれは私の自由に構築した世界である。しかし私が単にimagineし、cogitoするだけで、その世界に安んじ、幸福を覚えていられたのは、人生の短くて長い期間、すなわち子供時代だけである。この世界はやがて、外界からも、内界からも、破壊の危機にさらされるのである。
21.夢想や空想といった、外界から遮断され、閉鎖された、純粋な第二の世界は、人生のある一時的、子供時代と、おそらく老衰期にのみ見られる、非常にはかない世界である。もしその世界を守りとおそうとするならば、精神異常や痴呆におちいり、ついには自己破壊を招きさえするであろう。老衰期の痴呆についてはさておき、比較的独立性をもった第二の世界に生きている子供が、いわゆる社会人としての大人にさしかかる青年期において、第二の世界の最大の危機がおとずれるのである。
 夢想や空想の世界での安住は、いわば卵の殻を外から破ろうとする、外界からのさまざまな圧力によっておびやかされ、傷つけられ、ついには破壊されようとする。受験や就職や生活といった”現実”が、空想や夢想の世界をきしませ、押しつぶし、その中に閉じこもっていた臆病な魂を追いたて、敵意にみちた眼差しのいならぶ中へ引きずり出そうとする。これが大人になるための、現実世界へのinitiationである。この意味で、人は人生において二度生まれるといってよい。いち度は母親の母胎から、いまいち度は第二の世界の卵の殻から。母親の母胎については忘れても、幼少年期の失われた楽園への想いは、人の一生をつうじてつきまとうのである。ある場合には、それは子供や孫をもつことによって癒される。子供たちに仮託して、ふたたび幼少年期の体験に帰ってゆけるからである。しかしそれは代償にすぎない。失われた楽園のTraumaは、真に癒されることはないであろう。やがて記憶が衰微し、身体が衰え、それにつれて外界がせばまり、生命の残りが内面へと落ちこんでゆく老衰期において、第二の世界がすべてとなる時がふたたびやってくる。残されている記憶は、子供時代の思い出だけであり、肉体の苦痛と精神の衰えさえなければ、そこに楽園が復活することも可能であろう。けれども、身体と精神の不自由がそれを許さないのである。老いは第二の世界をも、ぼけという名の老醜にかえてしまう・・・。
22.少年期の純粋で完全な第二の世界を破壊する危機は、内面からもやってくる。それは第一に性衝動であり、第二にcommunicationの欲望である。もしあえて純粋な第二の世界を守ろうとするならば、内部の敵を相手に、激しい葛藤が生じてきて、第二の世界そのものが分裂を来たしてしまう。一方は外部へ向かおうとする力であり、他方は内部へなおも閉じこもろうとする力である。たいていの場合は、前者が勝利を占めることによって、夢想の牙城は内界と外界の圧力に条件降伏する。けれども、扉を開けて、”現実”の世界へとふみだした夢想の子を待っているものが、失望と挫折と敵視いがいのものでないならば、彼はふたたび夢想の楽園に帰ろうとしても、そこに荒れ果てた廃墟の園を見いだすであろう。彼はもはやゆく場所も、帰るところもうしなう。永遠のWandering Jewとして、人生をさまようほかはない。落胆と絶望と挫折の”余生”を生き長らえていくか、みずからを滅ぼすかのいずれかである。
23.成長過程において、第二の世界に夢想の牙城を築き、外界を一切排除した自足の楽園に閉じこもろうとする傾向をもつ青少年は、基本的に孤独者であり、かつ消極的(すなわち自己防衛的)エゴイストである。基本的にエゴイストであるから、他者の存在を必要としながらも、それをおのれの必要としての見地からしか見ることができないのである。そこで自己自身の欲求を満たす対象としてのみ見られた他者は、ただちにその利己性を感じとって、すぐさまよそよそしくなったり、裏切ったりする。他者もまた、彼がエゴイストであるなら、そうした利己的な交際を求める人間を、利用できない相手ととるであろう。
 第二の世界の住人は、もともとおのれの中に人間関係の破綻の原因をはらんでいるのである。こうして外界への旅に出た夢想家は、孤独の世界につきかえされる。夢想が生き生きとしていた少年期には、おのれが孤独者であることに気づかずにいれた彼も、世間の風に当たった今は、その寒々とした事実に、はじめて気づかされるのである。夢想の世界をいつかこの現実世界に実現しようという希望が、いかにはかないものであるかを知り、かつての楽園は、はや廃墟の様相をおびはじめる。孤独なエゴイストとしての彼には、この世のどこに生きていく場所があるであろうか。
24.彼はおのれの中を見まわす。荒れ果てた希望と空想の園に、廃残の身を横たえている。すべてを失いながらも、あざ笑うような欲望が、いまだ赤い舌をちらちらさせている。どうしてこの蛇のような性欲や虚栄心が、私の世界に侵入してきたのであろう。私がすべての人から遠ざかれば遠ざかるほど、この蛇たちは、私の心と肉体をむしばんでいく。目のない毒々しい蛇たち。そして私は時に彼らに踊らされて、悪の踊りを踊る。絶望と悪の深みに沈潜して、もはやどんな恩寵もとどかない暗闇の底で、不思議な快楽にふるえている。すべてに絶望し果てた果てに、不思議な心の安らぎを覚えている。不思議な自由を覚えている。この暗闇の底にも、じつにかすかだが、この自由の光が差すかぎり、私はまだ生きのびていくのであろう・・・。

《補足:人間は記憶を反芻する動物である》

 記憶を反芻することは、一般の動物にも見られる(たとえば動物の餌づけなどは、それがなければ不可能である)が、それを際だった特徴として文明を築き上げたのは、人間の脳だけである。記憶の反芻の生物学的機能は、第一に過去の経験を再度反復的に、現実化する契機となることである。人間から餌をもらったことのある動物は、その記憶の反芻によって、ふたたび人のところへ餌を求めにいく行動を起こす刺激を受けるであろう。いわば自発的な条件反射である。記憶が基本的に、現実化への実際的な欲求をともなったものであることは、この記憶の本来の生物学的役割に起因するものであろう。本来生物学的に意味のない記憶は、記憶に残らないであろう。動物の記憶が限られている原因も、ここにあろう。
 記憶が生物学的欲求の桎梏から解きはなたれるまでに発達した段階で、はじめて(条件反射ではない)本来の記憶の反芻が可能になるといえる。ほとんど現実化とは関係のない記憶まで、人間の知能がもてあそび始めた時に、この現実界とはまったく別の世界の可能性が開けたといってよい。単なる記憶を反芻することは、それが記憶であること、すなわち過去の経験であることが意識されている限り、今では存在していない事柄についての意識である。それは目覚ましくも、傷ましい発見であったに違いない。記憶を反芻することは、ついには存在の時間性を発見することだからである。
 おそらく現代人よりも強烈な記憶力と、強烈な記憶の現実化への欲求を持っていた、未開人や古代人は、この記憶の反芻のもたらした存在の不条理に、強烈に悩まされたことであろう。この傷ましい不条理に対する抵抗が、彼らの宗教的伝統と、文明の基礎を生み出したのである。
 彼らの解決の基本的発想は、もし単なる記憶が、もはや〈この世〉に現実化できないのであるならば、それはそれ自体として〈現実〉であらねばならない、というものであった。彼らにとって、最も傷ましい喪失の記憶である身内や仲間の死は、記憶の世界で彼らが生きている限り、一つの現実から、他の現実に移ったものと見なされた。記憶の存在は、そのまま他界の存在となるのである。それ以外に人は、ある種の記憶の、現実化の欲求を満たす方法を知らなかったのであり、また今日においても知らないのである。あらゆる伝統、宗教、歴史、知識は、この記憶の反芻以外のなにものでもなく、それら自体が、それぞれの〈現実〉なのである。


 第3章 Pararealityについて

25.第一の世界と第二の世界を、厳密に区別する基準は存在しない。基本的に第一の世界を構成する材料は、第二の世界を構成する材料でもある。Humeは単に印象と観念という区別を立て、それらの違いは単に知覚のさいの明度や強度の差にすぎないとした。もし観念が印象と同じ程度の明度や強度に達するケースがあれば、両世界の区別は立てがたい。それでは両世界の区別は、単なる便宜にとどまるものであるか。頭の中の出来事と外界の出来事を、区別しておくことは、動物界、特に人間においては、必要不可欠な認識メカニズムである。人の意識においては、通常この区別をまちがうことはまれである。厳密な区別は不可能であるとはいえ、通常現に見ているものと、頭の中で考えていることが、混同されることはない。いわば知覚と思惟とは同時的に、pararellに存在している。明瞭この上ない外界の映像の上にoverlapして、おぼろな情感や、なかばprocessの不透明な思惟が流れていく。いわば第二の世界は、私の中に閉じこめれれているというよりも、外界の知覚に伴うかすかな伴奏のように、私から流れ出しているとも言えるのである。すなわち、私の見ている第一の世界は、純粋に物そのものの姿であるというよりも、私自身から流れ出した、情感や思想のかすかな靄につつまれた、ある意味的な存在と化していると言えよう。
26.知覚自体がすでに自然環境に対する認識の適応であってみれば、そこには無意識の意味化がおこなわれているはずである。人間の生命活動にとって、最も適した世界像を構築することが、知覚の役目であるとするならば、そのようにして出来あがった外界の映像が、人間の内界にとって、魅惑的かつ誘惑的であろうことは、容易に考えられる。人間の内界は、外界に接するや、その魅惑に惹かれて、おのずと外界へ流れ出すのである。この自然界がかくも色彩豊かで、整合的で、謎に満ちたものとして、私の前に現われているのは、知覚の自然への適応が生みだした、進化の奇蹟といえるであろう。
27.もしそうした知覚の魅惑をとり去ってしまった、純粋なrealityの世界が存在するとするならば、それはかなり異様な世界であるに違いない。この世界からあらゆる意味化を取り去ってしまうならば、それは言葉から意味というものを取り去った、まったくがさつな音響のようなものであろう。あるいは自然界は単なる数のられつのようなものかもしれない。それら事物の真のrealityに”嘔吐”しているあいだは、まだnegativeな意味があるといえよう。けれども知覚が事物の世界から完全に後退していったなら、知覚がおのれに不要なものを透明化して排除していったように、そこにはもはや何も残らないであろう。ただ灰色の空間があるばかりであろう・・・。
28.このように見るならば、第一の世界のrealityとされるものは、じつは第二の世界の意味化によって浸透されたrealityであることが分かる。第二の世界はただ単に、第一の世界をcopyするだけではなく、第二の世界の側から、第一の世界に流出して、あたかも肥沃な大地に種をまいて、穀物を実らせ、花を咲かせるように、この世界に意味と価値とを生みだしていくのである。この第一の世界に流出して、そのrealityと融合した第二の世界のrealityを、Parareality(擬似ないし準現実)と呼ぶことにする。
29.人類の歴史、文化は、すべてpararealityの世界でいとなまれている。人間が人間となるための第一歩であった技術は、物に役割という価値を与えることによって、可能となった。固い果実を石で砕くという行為は、石に歯の役割を与えることである。単なる石は石でしかないが、それに何かの用に立つものという考えが付着することによって、道具としてのpararealityを獲得するのである。人が人となるための、第二歩である言語は、最初単なる叫びであったろう。それは動物の場合と同様、単に感情を伝える音響に過ぎなかったろう。もちろんその段階においても、すでにそれはパラリアリィティである。それは単なる音響ではなく、動物や人間の内面の流出をともなっているからである。さまざまな音響がくり返されるうちに、それが何かを指示する道具としての役割を与えうることに、人はやがて気づいたであろう。挨拶がわりに”ダー”という人間が現われもしただろう。回りのものもそれを真似るようになり、その便利さがやがて人びとの間の言語熱となっていったことであろう・・・。自然界に”ダー”という音響は無数にあるであろうが、それを人が考えを伝える道具として使い始めると同時に、それは単なる自然物としてのrealityから、文化的存在としてのpararealityに変わるのである。
30.人類が繁栄するにつれて、地球上のあらゆるものがpararealityによって侵食されていった。山や川、一個の石すら、もはやpararealityでないものはなく、空気ですら、やたらと物を燃やして汚すことを許されない、価値あるものである。この地球上では、もはや純粋な自然界など、どこにも存在しないばかりか、人類はそのpararealityの世界を、月や火星といった天体の世界にまで及ぼそうとしている。無機的で無意味な、広大無辺の宇宙をも、人間はpararealityの世界に取りこむことを夢想するかもしれない。それほど、外界に向けられた人間の想像力は貪欲であるといえる。
31.人と人とが交渉する世界も、またpararealityによって媒介される世界である。赤児の最初の対人的交渉は、母親の乳房に適合することである。赤児にとって、外界は乳房以外のなにものでもない。この動物的段階においても、realityの無意識の意味化が行なわれている。蛙の目が、動く昆虫の姿しかとらえることができないのと同様にして、赤児の感覚は他のなにものをもとらえようとはしない。けれども真のpararealityが成立するには、外界の意識と、それにともなった内界の意識が発達していなければならない。外界の姿がはっきりしてくるにつれて、赤児の人おじや物おじが生じてくる。赤児はいまだ、 pararealityによって浸透されていない、ものの真のrealityを見ているからである。やがて親の存在が安心感と結びつき、意味化がおこなわれると、それが他の大人や兄弟たちにも及ぼされていき、その過程でさまざまな反応を受けとることによって、それぞれに対する意味化が、positive ともなり、negativeともなる。この幼児期における対人関係での意味化の広がりと性質、すなわち人と人との間のpararealityの形成過程が、人間の一生の対人関係を支配するのである。
32.人は物に対する時は、内在的でありうるが、人に対する時は、超越的である。物の本質に対して、人が“嘔吐”を覚えるとすれば、それは人がそれまで物を内在的見地で見ていたからである。物がその真実のよそよそしい姿を現わしだす時、人はそれがまったくおのれとは無関係の存在であることに、あらためて気づかされ、恐怖におののくであろう。たしかにPararealityの世界は、物に対して一種の超越的態度であると言えるかもしれない。けれどもそれはむしろ、物を内在化することによって可能となった超越であると言えるであろう。われわれは原子やクオークなどの、目に見えない素粒子に対して、どれほどの意味や価値を日常生活において与えることができようか。私のひじが触れているのは、固いテーブルであって、“色”のついたクオークのかたまりではない。そしてこの固いテーブルは、私自身の触覚や視覚によって、しっかりと私の世界に取りこまれているのである。
33.それに対して、私が人に対している時は、事情が変わっている。私のテーブルは、もはや私だけのものではなくなるだろう。それは彼にとってのテーブルでもある。私は少なくとも知覚の事実においては、彼とテーブルを共有するばかりか、この世界のすべてのものを共有している。このような視点を、私が半ば無意識にもつ時、私は半ば無意識に、私自身を超越した他者と共通の視点から、世界を見ていることになる。本来は窓のないモナドであるはずの私が、こうした視点の転換を瞬時にして行なうのはなぜであるか。基本的に、相手が人ばかりでなく、動物の場合でも、私は同じ態度をとるであろう。この世界が、なんらかの知覚をもつ存在にとっては、共通の世界であるという、ほとんど本能的な認識が、この超越的態度をとらせるのである。この世界で最も恐るべきは、物の世界ではなく、同じ知覚機能を具えた同類の生命体であるという、生命界の宿命的構図が、認識の機能に反映しないはずはない。相手の生き物は危害を加えるか、無害であるか、餌食であるか、仲間であるか、いずれかである。認識がこの生命体同士の関係に適応するためには、彼らの闘争の共通の舞台を構成しなければならない。それが共通の視点という、内面の眼によって放射された“客観的世界”というpararealityにほかならない。だれもが同じに見ている唯一の知覚世界というものは、ありえないにもかかわらず、私の知覚する世界が、あたかも他者もまた同じく参入している、絶対の世界であるという客観視こそが、私が他者と交渉するに当たっての、第一の必要条件なのである。
34.人間の絆や結びつき、それらの集合である社会や民族や国家やが、最も濃密なpararealityの世界であることは、それらがまったく意味と価値の世界であることから、当然帰結する。人間と人間との関係自体は、なんら客観的存在ではないが、そこに血や同族や、さらには友情や愛情などといった、集団的、個人的価値が、pararealityとして客観視されることによって、実在の様相をおびてくるのである。共通の知覚の世界が、客観的絶対としてpostulateされたごとく、共通の内面世界が、客観的紐帯として、人と人との関係に投影されるのである。人の内面世界は、本来自由の世界であるが、そのようにpararealityとして客観化され、固定化された内面世界は、逆に人の内面を縛る鎖となる。愛情や友情でさえ、それらをpararealityとして人と共有するとき、内面の多くの自由を犠牲にしなければならないのである。まして愛情や友情がむくわれなかった場合は、外界に流出して当てどもなくさすらうpararealityとしてのそれらの情念は、最後に自己自身に逆流して、おのれの内面世界を破壊しかねないのである。

《Pararealityについての補足》

◎パラリアィティとは、通常、第一の世界への第二の世界の流出である、意味化の世界としての、意識的領域を指すのであるが、厳密に言って、意味化の機能は、意識的・文化的領域に限られない。すでに知覚によって構成されている第一の世界そのものが、無意識的かつautomaticな意味化の世界だからである。さもなければ、人間はこの世界を理解することも、引き寄せられることもないであろう。あらゆる生命体は、おのれの周囲の自然環境を、なんらかの意味化によって、おのれの住みえるものに変えているといってよい。第一の世界そのものが、生命体にとって、最低限必要な意味化の世界なのである。したがってそれは、無意識的、本能的、automaticなpararealityであると言える。
◎人間の知性と動物の知性を比較する場合、このautomatismの比重が大きな違いをなすであろう。動物にとって、たいていの問題は、知覚の意味化によって、あらかじめ先天的、無意識的に解決されているといってよい。蜘蛛がじつに巧妙な仕方で、蜘蛛の巣を編むのも、すでに知覚の中に設定された世界と、一定の先天的行動patternとが一致するように、彼の世界が作られているからである。言ってみれば、蜘蛛の知覚の世界には、すでに蜘蛛の巣の輪郭が出来あがっているのである。あとはその下絵をなぞりさえすればよいのである。人間の知覚の世界の基本patternも、ほぼ同じものであろう。人間の知覚において、遠近感がきわめて良く発達しているのは、本来樹上生活者としての自然環境への適応が、そうした独特の知覚の世界の形成にあずかったのであろう。彼はほぼautomaticに形成された遠近感にしたがって、木から木へと飛び回りさえすればよいのである。
◎こうしたautomaticで、先天的に形成された知覚のpararealityに対して、人間の自発的な思惟や想像力が、外界に働きかけて構成される、いわばcultural pararealityの世界は、はるかに複雑である。それは人間の思惟と想像の広がりと、ほぼ同じ広がりを持つと言ってもよかろう。人間にとっては、positiveとnegativeの両様の仕方で、すべてが意味の世界である。そのことは、ものが意味を失った場合に、人が覚える衝撃の大きさによっても理解される。単にあるものの名称が思い出せないだけでも、人は非常な不快と苦痛を覚えるのである。

 第4章 思索による危機回避

35.思惟は第二の世界において独特の位置を占める。動物は基本的に、知覚にしたがって考える。しかも直ちに行為と結びつく。犬が、おのれのテリトリーに侵入した人物が、よそ者であるか主人であるかを、知覚と同時に判断したとたん、彼は吠えるかじゃれつくかの、いずれかの行動をとる。動物にとって、知覚と思惟と行為とは、ほぼ一体化しているといってよい。そこで、知覚だけの知覚や、思惟だけの思惟といったものは、彼にとってまったく意味をなさないものであろう。日がな一日、なんの憂いもなさそうに、日なたに寝そべっている犬や猫が、何かを考えていると思うのは、まったく人間の、特に子供心の、ひとり合点である。猫や犬がものを考える時は、必ず何かの知覚に触発されて、行為へといざなわれる時である。人だけがなんの知覚や、なんの行為もともなわずに、思索できる。人は考えるだけの存在でありうるのだ!
36.思索は人間の栄光であるとともに、また悲惨の原因でもある。もし問題の解決が、思索によって可能でない場合ならば、人はそのsituationを思索することによって、二重に苦しむことになるであろう。動物の場合は、問題の解決が、行為によって果たせない時は、自らの身を傷つけたり、疲れはてるだけの、ひたすら不可能な物理的解決をはかろうとするであろう。人もまた時に、同じ行為に陥るであろうが、その状況の絶望的であることを、思惟によって理解しているだけ、なおさらその絶望は荒あらしいものになるであろう。動物はそれを見とおすことができないだけに、最後まで希望を捨てないであろう。そこで絶望的状況においては、人はむしろ動物に帰るのである。ロシアの民話で、不可能な仕事を言いつけられた仕立て屋が、翌朝首切り役人が来る時に、少なくとも正気でないままでいられるようにと、大酒を飲むというのも、まさにこの思惟の悲惨を表わしている。
37.人が悩むのは、基本的に人が思惟する存在だからである。動物にとっては、直接的現実が目の前になければ、問題は存在していない。屠られる前の鳩を、狭い籠に押しこめれば、互いにつつき合うであろう。死を宣告された人間は、その瞬間から死の思いで満たされ、他のすべての問題に無関心になるであろう。人は思惟によって、問題の現実に直面するまでの猶予期間を、みずからに与えるといってよい。動物にとって、すべての問題は不意打ち的に起こり、その解決も、直ちにその場での行為で表わされるか、または未解決のままで終わる。人は場合によっては問題をあらかじめ予測することができ、その解決をあらかじめ模索することができる。問題に直面する前に、すでにそれに対して心の準備をしておくことが可能なのである。問題の解決が絶望的である時は、人の思惟は麻痺してしまうであろうが、あるいは民話の仕立て屋のように、進んで麻痺を求めさえするであろうが、そうした極限状態においても、なお正気を失わずに、思惟を続けるならば、ある解決が見いだされないとも限らないのである。
38.思惟の栄光と悲惨を象徴的に描いた物語であるポーのPit and Pendulumにおいて、主人公は異端審問によって死を宣告されるという、絶望的な状況の中で、思惟の麻痺状態に陥る。Down, down,down …と彼の意識は、動物的無意識の中に眠りこんでいく。目覚めた時、いまだ生きているのをいぶかりながら、彼は周囲の状況を仔細に観察する。なんという奇妙な束縛の状態であろう。石の寝台にあおむけに縛りつけられた彼の眼前には、振り子のような鋭い鎌がつりさげられており、やがてそれは揺れ始め、しだいに彼の心臓をめがけて下ってくる。死が一秒一秒近づいてくるのを、目のあたりにしなければならないほどの恐怖はなかろう。けれども最後の瞬間に、主人公の頭には、シチュエーションを冷静に把握しえた者のみが思いつきえる、奇抜な自己救済の手段がひらめくのである。同じ作者の、Descent into Maelstromにおいては、大自然の猛威から、主人公が生還をはたすのは、流体力学的思索によってである。
39.どのような絶望的状況においても、思索が働きうるということは、思惟の際だった特徴である。むしろ危機的状況においてほど、思惟は明晰かつ客観的になる傾向をもつとさえ言えよう。危機において人の行動を混乱させるものは、消極的および積極的な、さまざまな情念であり、動物の場合には、それは攻撃や逃避といった、比較的単純な行動の引き金となる。人間社会の複雑なシチュエーションにおいては、情念が直接行為となって燃焼する機会は、ごく限られている。せいぜい表情に表われただけで、内面に封じこまれてしまうのが常である。そうした鬱積した情念は、時に盲目的行為となって爆発することもあろう。それを抑えることのできる内面の一つの力が思索である。思惟自体は、本来思惟そのもののかすかな快感以外は、なんら利害を持っていない。単なる中立的な道具である。もしそれを使う必要がなければ、人は通常思惟しないであろう。単なる思い出や想起でないかぎり、人が思惟するとは、何かの問題について思惟することである。問題が生じた時、人は思惟というきわめて精緻で、客観的な道具によって、その解決を図るのである。問題が危機的であるほど、思惟の必要性は増すであろう。混乱した状況と、混乱した情念に、整然とした秩序もしくは見とおしを与えうるものは、それらの混乱に影響されない、中立的で、客観的な思索のほかにはないのである。そして状況がいかに私に苦痛をもたらすとしても、それについての思索自体は、苦痛ではないのである。苦痛ではないばかりか、冷静かつ客観的な思索が、やがて私自身の乱れた情念を沈静させ、もし希望をもたらさないとしても、ある種の安らぎの時を与えてくれるのである。
40.プラトンの描くソクラテスの最期は、思想が死を乗りこえる信念にまで高まりうることを示している。もちろんソクラテスの思想は、ある種の宗教のように、死を最上のものとして勧める思想ではない。彼の霊魂観をもはや信じることが出来ないとしても、思索の力によって、死さえ乗りこえうることは、もはやこの世にいかなる恐怖も苦悩も存在しないことを、意味しよう。そしてもし、この世界での苦痛が、限られた人間の能力にとって、もはや単なる思索によっては、いかんともしがたい程度に達したならば、死はむしろ人間の自由の最後の切り札として、選択されるであろう。

 第5章 芸術・文学による危機回避

41.自然の景観は、それ自体が自然の芸術であって、目をとめる者に、おのずから喜びを与える。もしこのおのずからなる喜びがなければ、人間は生まれてこないかもしれない。動物でさえ、ただ自然の中に漫然と存在しているだけで、存在そのものに満足しているおもむきが見うけられる。鳥たちは青空に対する憧れをもっている。さもなければ、鳥たちは飛ばないであろう。私はインコの若鳥が、最初に青空に向かって飛びたとうとした瞬間を、観察したことがある。若鳥はまず、窓からのぞく眩しいほどの明るい空に、目をくるくるさせ、突然思い立ったような、きっとした表情を浮かべると、短く叫んで、目覚ましい勢いで天窓まで飛び上がったのである。
42.われわれの愛でる自然の景観が、じつは色も匂いも暖かさも冷たさもない、原子や光の波動の世界であることは、今日では知らぬ者もない。自然の美は、生命体自身が、自身の内部から作り出している世界なのである。基本的に、自然美の生命体にとっての役割は、この世界が感覚的に魅力をもった世界としての見せかけを与えることである。それによって生命はこの世界に誘い出される。それは生命の自己保存、種の存続にとって、非常に好都合な、巧妙な策略であるといえる。自然の景観が、社会生活の緊張の中で、萎縮し、すり減った心を癒し、回復させるのは、自然のなかでは生命の根源の魅力とじかに接することが出来るからである。自然の景観が与えてくれる心の癒しは、しかし仮そめのものでしかない。いかに美しい夕焼けであっても、いかに燦然とした星の世界であっても、感極まって呼びかけてみたところで、“もの言わぬ自然”は、決して応えることがないのである。美は生命にとって、目的そのものではなく、単なる誘惑の手段に過ぎないのであるから、そこに究極の充足を求めることは、本末転倒であって、そこにかえって生命の危機が生じてきてしまう。恋愛においても、あまりにも美を求めることは、生殖の目的とはかけはなれた結果を招いてしまう。美に殉ずることは、生命の本来の目的にはないのである。
43.このことは、唯美主義の芸術や文学が、豊富に証拠立てるところである。美に殉ずることは、生よりも死を重んじるのである。オフェリアやサロメが美の対象となる。小説においては、ポーの「楕円形の肖像」や、芥川の「地獄変」が典型である。自然美や芸術美は、それ自体において生命そのものの危機を回避することはないのであって、あくまでも生命に従属する精神的道具なのである。すなわち、一時的に生命に回帰させる効果を発揮しても、そこに安住する場はない。それがいわゆる“美のはかなさ”の正体である。

 第6章 夢の世界のreality

44.第三の世界、すなわち夢の世界のrealityは、厳密に、第一および第二の世界のrealityと区別できる基準をもたない。けれども、日常的に人が夢と現実、夢と実際の記憶や思惟とを、かなり容易に区別できる事実から、そこに夢意識の区画が存在していることは確かであろう。けれども、第一のrealityと第二のrealityが、通常は同時的に存在しており、それによって両世界の直接的比較が可能であるのに対して、夢の世界は、この両世界から完全に切り離された意識状態でいとなまれる現象であるために、すなわちだれも第一、第二の世界と夢の世界とを、同時に体験した者がいないために、夢と現実世界とは、交換可能であるかのようなparadoxさえ生じてくる。人生は夢、夢は人生である。現実の人生も、夢の人生も、ともにある種の整合性と全体性を持っている。けれども、夢の人生を記憶し、想起することはできても、夢の中で現実の人生を想起することはまれであろう。しかも夢の中で想起された現実の人生は、かなり歪められており、想起自体もまた、夢の一部と化しているのである。また夢の中の出来事と、現実の出来事とは、異なった論理や推移に従っているので、夢の中でそれに気づきさえすれば、それが夢であることが、夢見ながら分かるのである。人生は夢でもなく、夢は人生でもなく、むしろ第二の人生であり、ここで言う第三のrealityの世界である。
45.夢のrealityは、その独立性、閉鎖性によって、想像や空想の世界よりも、むしろ第一の世界の現実性に近いのである。夢がおぼろな、ぼんやりした世界であるという印象は、一般の夢については当てはまるが、ある場合には第一の世界のrealityと同程度、あるいはそれをしのぐ明瞭性と強度に達することがあるのである。最も深い空の青、海の青の記憶を、私は夢の世界におうている。また真昼の陽差しよりも明るい光に照らされた道を、歩いていることがある。小さな石粒のひとつひとつが、現実以上にありありと見える。その異様な明るさ、明瞭さが、かえってこれが夢であることを推量させる。それに気づくと同時に、夢見は浮遊に変わっている・・・。
46.こうした現実の知覚か、それ以上の明瞭さに達した夢は、vivid dreamと呼ぶことにする。“自覚夢”と訳されるlucid dreamとは区別する。vivid dreamは、自覚夢であることも、そうでないこともある。lucid dreamの概念は、かなり曖昧であるから、あとでさらに論じる。vivid dreamは、通常の夢の状態とは異なったレベルの意識状態で見られる夢のように思われる。基本的に、trance状態で見るvisionと同様の性質をもつことから、睡眠中夢を見ている間に、自然とおちいったtrance状態において見ている夢であると言えるであろう。tranceについては第四の世界であつかう。
47.通常の夢のrealityを曖昧にしているもう一つの理由は、夢を見ている主体の曖昧さである。夢を見ている主体は、たしかに私自身であるが、ある場合には、私は単に目だけであったり、舌だけであったり、体感だけであったりする。現実世界では通常の状態である、感覚の総合性が、夢の世界では失われている場合が多い。それによって、夢のなかの私の存在は、部分的印象を与えるのである。仮に私が胡蝶となって、夢の世界を飛び回ったとしても、現実世界の蝶ほどには、感覚の喜びを覚えることがあるまい。空中浮揚の夢においては、たいていは浮揚感がすべてであって、風の感触も、音響もない場合が多いのである。基本的に、夢の世界の私は、非常にせばまった知覚の世界に生きているのである。知覚の広がりと、私の意識の範囲とが、等しいものとするならば、夢の中での私の意識は幅の狭いものである。意識の幅が狭まることは、必ずしも意識の強度が弱まることではない。むしろ意識の強度をそのままにして、意識の幅を狭めるならば、かえって意識の強度は高まるであろう。覚醒から睡眠にいたる過程で、しばしば非常にvividな夢が見られることがあるのは、この原理によるものであろう。通常は睡眠とともに意識が狭まるにつれて、意識の強度も下がるのであるが、なんらかの脳の興奮で、意識の強度が覚醒に近いレベルに保たれていると、非常に明瞭な夢が見られるのである。
48.夢の材料は、通常は脳内の記憶の貯蔵庫から、なんらかの興奮で泡のようにわきあがってくる、とりとめのないimageであるといってよい。それは一種の自発的な自由連想であるといってよかろう。特に就眠まぎわには、こうした断片的な夢が多い。やがて、ドラマとしての夢が現われてくる。それは単に見る夢から、私自身をもつつみこんだ、体験する夢へと推移していくのである。私自身は、夢のドラマの中で主人公であり、脇役であり、見物人でありして、必ずなんらかの立場で立ち合っている。その意味で、夢は私の世界であり、私の夢であるが、ドラマを演出しているのは私ではない。私でないとすると、何者か。
49.この問いに答える前に、夢の存在意義について考察しておく必要がある。私は昼間の覚醒時ばかりか、身心の休息時である睡眠のさなかにおいても、夢という存在様式で、なぜ私の意識を保っていなければならないのか。夢を見ない深い眠りの状態が、最も身心をrefreshすることは、生理的事実である。その見地からは、夢は単に不完全な、有害な眠りであるにすぎないことになる。そうした不都合を、人間の優れた脳がおこなうとは、自然に対する適応の原理から考えにくいことである。夢はそれ自体の独自の存在理由をもつと考えるのが、最も自然であろう。その鍵となるのが、夢の中での私自身の態度である。夢の意識は、決して外敵に襲われることに備えての、意識の通電状態であるわけではない。そうであるならば、私は夢の中で、なんらかの外界の意識との接点を持っているはずである。ところが夢の中での私の意識は、完璧に内在的であるといってよい。私の夢世界での知覚は、完全に夢の内部の出来事に向けられているのである。私が睡眠のさなかにおいても、意識を保っていなければならない理由は、外界ではなく、私の身体、さらに言えば、私の脳の内部にあるのである。私は私の睡眠中に、私の内面から押し寄せる、なんらかの勢力に対して、一種の防禦機能としての夢装置を、脳の中に具えているのである。埴谷雄高は、夢の世界を、一つ一つの記憶の細胞の部屋を訪れる、夜警のカンテラに譬えている。夜警とは、夢の中の私の意識にほかならない。
50.夢の世界とは、私の意識と内面の勢力とが、唯一交渉することを許された、緩衝地帯であると言うことができる。私にとってそれらの諸勢力は、あるものはおなじみであるが、あるものは仮面をかぶった未知のものである。私は夢の世界を放浪しつつ、それら諸勢力とさまざまに闘い、さまざまに妥協し、さまざまに交渉することによって、私自身の覚醒時の意識の正気を保っていることが出来るのである。もし夢の緩衝地帯が存在しなかったならば、あるいはなんらかの原因で機能しなかった場合には、私は白昼の意識において、内面の闇の世界からのinvasionを受けることさえあるであろう。夢が私の意識世界に対する、内面の勢力の侵入に備えた、防禦装置であることと関連してつけ足すならば、じつのところ、外界の知覚にともなった、覚醒時の明瞭な意識こそが、内面からの勢力の侵入に対する最大の防禦のメカニズムでもあるのである。あたかも夜を賑わした星ぼしが、朝日によってかき消されるように、あるいはゴーゴリの妖怪たちが、日の出とともに退散するように、第一の世界の意識の光は、もろもろの闇の勢力を、意識の背後に封じこめるのである。この点については、さらに第四の世界で触れる。

 第7章 精神体操としての催眠法

催眠の本質・催眠とは何か

 催眠とはなんであり、催眠状態とはいかなる状態であるかを定義する前に、日常の意識の機能、働きについて、充分な認識がなければならない。意識とはなんであるか。その本質についての問いはひとまずおき、意識が日常の活動において、いかなる機能を果たしているかについては、比較的容易に知られるであろう。意識は何よりもまず、意識的Aktである。これにはふた通りのAktが考えられるであろう。一つは単に意識が向けられることであり、いわゆるattentionと呼ばれる、意識の受動的なAktであるといえる。二つは、意識が行為を発動させることであり、いわゆる意志的Aktである。これにはpositiveとnegativeのふた通りがある。すなわち私がある行為の発現を促進する場合と、その発現を抑制し、さまたげる場合と。
 意識のattenntionの機能は、意識的活動の中で最も恒常的な働きであるといえる。意識のある極限された部分に、意識の最も明瞭な状態が集中される。WundtのいわゆるApperzeptionの部分と、その周りに広がるPerzeptionの部分との、意識のgradeがそこに生じる。attenntionの部分は固定されることなく、たえず意識範囲内のscanをおこなっており、この意味では単に受動的な働きではない。むしろ意識的に注意を固定する方が困難なのであり、注意はたえず意識範囲内のpatrolを遂行する、automaticなリズムによって動かされているといってよい。いわば意識は注意のパトロールによって、隙のない状態を作り出しているといえる。
 対象に対して注意の向くことは、たしかに対象が意識において明瞭に現われることであるが、同時に対象に対する警戒心、防禦作用、ないし心構えを生みだす。それ故に注意が向くと同時に、いわば意識のある種のhardnessが形成されるといってよい。それは場合によっては、対象が意識の内部深く侵入することを阻止する。そして対象に対する行動を決断することを、容易にするであろう。注意が意識の全範囲を活発に行き来して働く時には、意識は隙のないhardな状態を形成しているであろう。けれどもそれは、絶えず対象に対して神経を配らせるために、意識の過労状態をもたらすであろう。注意は激しく動くために、かえって散漫になり、もはや集中することが不可能になる。いわば注意そのもののenergyが低下するために、意識の空隙の状態が広がるであろう。注意が疲労することによって、意識そのものが無抵抗となる。
 このように注意そのものを休みなく働かせて、過労状態に追いこみ、意識の抵抗を奪う、場合によっては拷問的な方法に対して、注意を一つの対象に固定する努力によっても、また注意のenergyの低下状態がもたらされるであろう。一つの対象に注意が集中することは、それが持続する時は、本来意識の全域に対して活動範囲を与えられている注意のenergyの過剰が生じることである。そこで当然に、注意の意識における抵抗が生じる。その抵抗を意識的におさえる時、注意のenergyの過剰を処理するためには、意識全体のenergyの水準を下げねばならない。すなわち注意を意識のある部分に固定することによって、意識全体がいわば眠りに近い状態におちいると言ってよい。これはすなわち、意識のenergyのeconomyとも言えるであろう。意識全体は、特定の刺激に対してのほかは、閉ざされてしまう。しかも意識のenergyの低下した状態ではあるが、注意が固定されているために、意識全体は特定の刺激ないし暗示に対して、ほとんど無防備であるといってよい。この状態が、最も普通の催眠状態であるといえる。

 つぎに意識の二つ目の活動である意志について。意志的行為において、意識の与る部分は、行為のMotifと行為そのもののあいだにおける判断および決断である。判断において意識のAktは、positiveとnegativeの二方向において表われる。私はある行為のモチーフないし観念が現われると同時に、直ちにそれを行為に移す前に、行為となった場合の結果における利害において、そのモチーフを行為として実現させるかどうかを、判断するのである。その場合もし不利益であると判断するならば、その判断がそのままGegenmotifとなって、もとのMotifをverdraengenすることになる。あるいはそのMotifを肯定する場合においても、それを実現する時期や状況の判断において、さしあたり抑制する必要が生じるであろう。このように、意識的判断の機能は、観念と行為との間の連結をcontrolする働きをなしている。単に頭の中で考えたことが、直ちに行為に移されることがないのは、意識における判断の制御が働いているからである。意識の判断力は、意識のenergyが低下すると同時に、低下するであろう。判断力が低下することは、観念と行為とのあいだに介在して、その直接の連結をさまたげている意識の制動がゆるむことである。その状態においては、観念が与えられるだけで、それは直ちに身体の行動となって表われるのである。催眠状態において、四肢を単なる暗示によって支配し、動かすことができるのは、そのためである。さらに判断は、より強大なMotifの存在によって支配される。意識energyが低下した、空隙の状態の中へ、暗示によって深く浸透する観念を与えれば、それが行為において最も優越したMotivとなることが出来るであろう。

催眠と暗示

 催眠(hypnose)とは、眠り、夢、覚醒などと並ぶ、ある心的状態である。催眠法とは、その状態をもたらすmethodである。それに対して、暗示(suggestion)とは、なんらかの観念を意識の底深く吹きこみ、それによって情動や行為に影響を与えることである。催眠との関係において、暗示はふた通りの意味を持つであろう。一つはすでに催眠状態にある意識の中へ、任意の観念を吹きこむことであり、いま一つは、観念そのものの暗示力で、意識を催眠状態へもたらすことである。暗示によって催眠状態をもたらすには、その暗示は非常に強力なものでなければならないであろう。ある観念あるいは対象が、強く情動をとらえ、意識の注意を集中させる時、そこに意識energyの全体的低下が起こり、催眠状態をもたらすであろう。瞬間の驚愕や恐怖から、宗教における小道具、symbol、威光、権威、さらには過去の伝統や、記念や追憶の対象にいたるまで、そこには暗示による、ある催眠状態がかもしだされると言ってよい。暗示によってもたらされた催眠状態によって、暗示の効果はさらに相乗されることであろう。すなわち暗示的な観念や対象は、暗示の最も効果的に働く意識の状態を、みずから作りあげるのである。
 子供は大人の権威を信ずるが故に、大人の言葉はそのまま子供の意識の中で、みずから受け入れられる素地を作りだす。権威の暗示が、催眠状態を作り、言葉は催眠暗示の状態において、無条件に受け入れられるのである。催眠状態においては、すでに判断力が低下しているのであるから、いかなる観念も暗示として受け入れるであろう。けれども催眠状態において、さらに暗示力の強い観念やsymbolを用いることによって、いっそう暗示の効果は増すことであろう。暗示に権威を与え、威光を添えることによって、ただでさえ受動的な催眠の意識において、それはいっそう意識の奥深く浸透していくことであろう。同時にそれはまた、さらに催眠状態を深める相乗効果をおよぼすのである。このように、暗示は催眠にいたる方法としても、また催眠における意識および行為のcontrolの方法としても、ともに有効であるばかりか、その相乗効果において、催眠そのものを支配するといってよい。
 単なる催眠状態へは、暗示を用いることなく(あるいは最小限の暗示で)入ることができるが、それは単なる眠り以上のものではなかろう。催眠状態を有意味なものとするには、暗示(あるいは反対暗示)を活用しなければならない。意識の活動、その表われとしての行為は、無数の潜在化した暗示的観念によって支配されているといってよい。それらの意識に出没する暗示的勢力に対して、表層の意識によって対決することは、はなはだ困難であり、苦をともなうものである。催眠は意識の全体のenergyを低下させることによって、この対決を比較的穏やかに、容易におこなわしめるのである。暗示によって意識の底に住みついたものは、対抗する暗示によって排除するほかはないのである。催眠は、その暗示の及ぶ意識の素地を作ることであるといえる。

催眠の定義

 以上論じたことから、催眠を定義すれば、催眠とは単なる観念または対象が、暗示として働きうる意識の状態である。催眠法とは、そのような意識の状態を作りだすことである。そして催眠状態の本質をなすものは、意識活動のenergyの全体的低下、すなわち注意と判断の能力の低下であるといえよう。それによって観念または対象の暗示力が増し、通常の意識に代わって、感覚や行為や情念を支配するようになる。そしてここで言う暗示とは、観念または対象が、注意を集中させ、判断を停止させることによって、意識の全体を占めうる力を持つことである。また逆に、通常の意識において、観念や対象が、このような影響を意識におよぼす時は、意識を催眠状態に導き入れることになる。

催眠暗示の心的メカニズム

 a.通常の感覚メカニズム

 刺激→感覚(現実)→心的・身体的反応

 b.消極的観念の暗示による禁止

 刺激――・・・感覚(非現実)→心的・身体的無反応
     ↑
   暗示的観念

 c.積極的観念の暗示による幻覚

 刺激・・・→感覚(幻覚)→心的・身体的反応
     ↑
   暗示的観念

 d.通常の行動メカニズム

 観念→意識的決断→行動

 e.催眠暗示によるオートマチズム

 暗示された観念→行動

 第8章 催眠とトランス

 催眠状態と夢とは、どのように違うのであるか。催眠が一種の眠りの状態において起こることは、夢に類似した心的現象であるように思われよう。催眠が第一に夢と異なるのは、現実界すなわち第一の世界との関係が、夢のように途絶えていないことである。他者催眠においては、施術者が被験者の意識との間に関係をつけているが、後者はそのことを意識している場合もあり、深い催眠では無意識であろうが、第三者から見てコントロールされている。自己催眠においては、この現実との関係は浅い催眠においては、充分に意識されており、場合によっては目を開けて確認することが出来る。すなわち、浅い催眠状態においては、夢よりも平静な気分でいる覚醒状態に近い。
 睡眠に入る時の意識の状態では、たいていの場合、想念やイメージはランダムであり、いつのまにか眠りに落ちているが、催眠状態では、それが意図的に作り出されたものであるだけに、気分の静まった中で、特定のイメージを比較的たやすく描き出すことが出来る。たとえば波の静かに寄せる浜辺を散策しているイメージや、花の咲く野原や木々をイメージすることが出来る。それらのイメージが鮮やかに浮き上がってくるほど、催眠状態は深まり、心が静まることによって、いつしか眠りに落ちてしまうであろう。
 この自然の眠りの中で夢を見ることがあれば、たいていvividな夢である。あるいは催眠状態がつづいていると、いつのまにか、あるいはふいに、意識の質の状態が変わったことに気づくであろう。目の中が黄色みを帯びた柔らかい光で満たされ、いわば頭の中に特別な電燈がともるのである。その奥に一点光るものがある。見ていると、ぐんぐん明るさを増して近づき、やがて圧倒的な光輝をはなって、どこか頭上へとぬけていく。この現象が、催眠におけるtranceの意識状態である。
 この光の発する場所は、何回かの観察で気づいたのであるが、目の中の暗点、すなわち盲点のある場所である。この暗点はまた、幻覚の生じてくる点でもあるので、筆者は〈幻覚ポイント〉と名づけている。面白いことに、外界の感覚に閉ざされた盲点こそが、内界の現象の発生する点なのである。
 浅い催眠は、いまだ現実世界とつながっているが、トランス状態は自己意識こそ保たれてはいても、すでに第四の世界に踏み入っている。ここでは第四の世界からの、さまざまな現象が起こりうる。ここで見、聞きすることは、第一の世界はもちろんのこと、単なる観念の世界である第二の世界や、通常の夢の世界とすら、まったく異なった事象である。
 宗教ではここで起こる現象を〈啓示reveration〉と呼んでいる。第四の世界の探究は、その啓示のメカニズムを解き明かすことになる。それは通常の科学や常識では解明不可能であるばかりか、単なる好奇心でもって取り組むのではなく、充分な精神的修養を積み、心の準備をしておかない限りは、精神の重大な危機におちいることになる。
 人間の脳は、単に外界に開かれているばかりでなく、生命の根本、宇宙の本質とつながっている。通常はそれらの情報が、意識にのぼってくることはない。しかし脳の特別の部分もしくは全体の異常発火によって、意識の変様が起こるのである。しかしこの状態は、生命体の通常の生命活動には役立たないばかりか、危険を招きさえする。すなわち生命によって禁じられた領域なのである。しかし生命体である限り、この領域、すなわち第四の世界があることは、薄々感じ取っている。それが未開人にとっては、ある種の知識の源ではあったが、その不安定さによって、さまざまな迷信や狂信を生むのである。

 第9章 宗教の起源

.宗教心の発端は、死者の埋葬であるとされる。人間は死者のために存在の場所を用意しておく必要を感じる、唯一の生物なのである。未開人は死者をどこに葬ったのであろうか。単なる土の中や、樹上ではないであろう。彼らは、彼らが薄々感じていた第四の世界に葬ったのである。死者は、第四の世界にいる。それ故に、生者を脅かしたり、幽霊となって現われることも自在である。あるいは祖霊となって、守護することもあるであろう。第四の世界は、生者と死者に共通の世界なのである。
 通常、第四の世界は〈目に見えない〉。心の内奥にあるものは、外界に見えない世界として投影される。もしそれが見えるものとなれば、驚愕や恐怖を起こさせるのである。それらは、他界からやって来たものとされる。死者の世界が、地上や地下のどこか、あるいは天上にあるものとされるのは、内面の外界への素朴な投影である。しかし、死者は、生者が現実界に存在するように、本当に第四の世界に存在するのであろうか。
 生者は死者を、それ以外のどこにも葬る場所を持たないのである。個の生命は滅びても、生命の本質、宇宙の本質につらなる第四の世界は滅びない。いわば死者は、生命・宇宙の本質に返されるのである。それを神話的に、黄泉や、天国や、地獄とするのである。すべての死者は第四の世界に帰される。そこは本質の世界であるから、個々の死者は意味をなさない。その意味では、死者は文字どおりには存在していないのである。葬ることは存在させることではなく、〈成仏〉させること、すなわち第四の世界で宇宙の本質と溶け合うことである。祖霊の世界や天国は、単なる比喩に過ぎないのである。

.ついで未開人は、第四の世界を自然界に遍満するなんらかの霊(マナ)としてとらえた。それは目に見えないものであるが、山や木々や石や動物に共通する、精霊を想像したのである。それは人間にも及ぼされ、個々の魂の観念となる。そこから、第四の世界を介して、呪術的思考が生まれる。人間の魂も動物の魂も同じ世界に属するから、単なるイメージによって影響が可能であると考えたのであり、それは第四の世界の見地からは、原理的に正しかった。しかし、第四の世界の事情から、あまり効率的ではなかったであろう。魂が個別化したことによって、精霊も個別化し、さらに人格化していく。自然神の誕生である。自然神は動物の姿や、人間の姿をとる。これにはシャーマンの影響が強かったであろう。
 シャーマンの登場によって、第四の世界と直接交渉することが可能になる。シャーマンは、深くトランス状態におちいることによって、第四の世界から情報を汲みとろうとする。それは科学知識が乏しかった未開社会においては、唯一の特殊知識であった。その情報は、生命界の根底から汲みとられたものであったから、それなりに確かなものがあったであろう。しかし第四の世界は、諸勢力の拮抗する世界であるから、科学知識ほどの客観性も確かさも持ちえない。シャーマンの素質しだいなのである。シャーマンは、ヘルパーまたはallyと称する、第四の世界の存在と交渉し、情報を引き出す。それらは動物であったり、人の姿をしたものであったり、あるいは奇怪な姿をした妖物であったりする。それらは守護霊、守護神として人格化されていくであろう。最初はシャーマン個人の守り神であったものが、集団や部族、民族の神として祀られていくであろう。神観念の一般化、普遍化によって、最終的には、自然神と結びつき、具体的な人格神が誕生するであろう。

.都市国家の発生とともに、部族社会においては首長であったシャーマンの地位は縮小し、神官や巫げき、巫女などの、特殊な職能として社会に位置を占めるようになる。代わって、神観念をめぐって形成された神話にもとづく宗教が生まれ、支配層と結びついて、社会組織や制度を決定するようになる。王は宗教の頂点に立ち、みずから神となって、支配権を補強する。神人王にとって、第四の世界は、なくてはならない世界となるのである。巨大な神殿や神像が、現世である第一の世界に突出した、第四の世界のモニュメンタルな象徴であった。それは第四の世界を常に意識させるために不可欠な、文字どおりの記念碑であった。
 宗教が権力者から、被支配階級や、被支配民族に移行していくと、もはやモニュメンタルな建造物は意味を失っていった。ささやかな契約の箱や、天幕や、場所を選ばぬ教会が、第四の世界の発現する場所となる。神々は整理されて、唯一神が登場する。第四の世界においては、唯一の神と交渉すればすむようになったのである。しかし唯一神についての考え方の違いと、交渉の仕方の違いによって、さまざまな宗教や宗派が生まれてゆき、さらに第四の世界そのものについての考え方と、交渉の仕方によって、対立的な宗教や宗派が生まれていった。すべての宗教に共通していえることは、第四の世界は、第一の世界と同等もしくはそれ以上の、現実性を与えられていることである。

.宗教が第四の世界の社会的monopolyであるとすると、魔術や呪術は、かつてシャーマンが個人的特権を享受したように、個人の能力で第四の世界と交渉し、なんらかの利益を得ようとする試みである。したがって、宗教の側から、社会的迫害を受けることになる。宗教は基本的に信仰であり、その眼目は死後の幸福の保障にある。現世利益は、副次的なものであり、民衆を懐柔する手段でもある。それに対して、呪術や魔術は、第四の世界を介した、もっぱら個人的利益の追求であり、場合によっては他者に害を及ぼしもする。宗教には、この点で社会性に基づく宗教倫理が存在するが、呪術や魔術には、倫理というほどのものはないのであり、すべてはそれをおこなう個人の心がけしだいである。
 しかし第四の世界には、いずれ明らかになるであろうが、生命界や宇宙の根源に発する、ある類的原理のようなものが存在しているであろう。それが呪術や魔術の個人的利益に立ちはだかる場合があるであろう。たとえば、どれほど憎んでいても、両親を呪詛することは、はなはだ困難であろう。類的意志に反するからである。そしてそれはてきめん、悪夢となって逆襲されることになろう。神を呪詛することも、基本的には不可能であるといってよい。神は本質的に、類的意志の顕現だからである。神が嫌いならば、ひたすら無視するほかはないであろう。
 どれほど悪魔的になろうとも、この生命界ほど悪魔的な世界はないのであるから、絶対的な悪や悪魔などは存在しない。悪魔的であるのは、類的意志がそうさせているのであり、また善がおこなわれるのも、類的意志がそれを促すのである。鷹の親鳥は、ほかの鳥のヒナを奪って、自分のヒナに食べさせる。どちらが悪で、どちらが善なのであるか。その答えは、第四の世界に求めるほかはないであろう。前世の釈迦は飢えた母子の虎に、みずからの身を投じたという。その時、釈迦自身の類的意志はどこにあったのであろうか。
 
 第10章 テレパシーその他の超感覚的現象

 トランス状態においては、さまざまな宗教現象が起こりうるが、これは当然ながら五感そのものとは直接関係しない。五感は基本的に外界からの現象を生みだす機能であり、いわゆる<内感>もその延長上にあるといってよい。トランスそのものも内感において起こるのであるが、それは身体も含めた五感の範囲内での現象ではない。いわば内界からわきおこる、自発的な表象なのである。しかし同じ自発的表象であっても、記憶や想像(第二の世界)ではないことはもちろんである。また単なる夢でもないことは、すでに述べた。トランスという、ある特殊な意識の状態、あるいはレベルにおいて現われる事象は、もっぱら第四の世界と接する現象である。なにが現われてくるかは、ひたすら待機するほかはない。それは外界の印象の発生が、意のままにならないのと同様である。
 テレパシー現象もその一つである。他者の想念が音声などとなって伝わる。あるいは、遠く離れた場所のイメージが生じる。スエーデンボルグのストックホルムの火事の透視が、有名な例である。さらにそれらの現象が、予知と結びつくことがある。予知は必ずしも、厳密な意味での未来の予知とは限らない。テレパシーや透視によって、予測が可能であるからである。ギャンブルを、夢によって当てる例がそれであろう。いずれにせよ、そうした情報は、第四の世界から〈恣意的〉に引き出せるものではなく、ひたすら受動的な態度において得られるのである。シャーマンがヘルパーを必要とする所以である。
 トランス状態において、声が起こる時、ある人格的な印象を与える。人間の人格は多元的であって、無意識界には表層の自我となりえなかった、影の人格(shadow personality)が複数存在していることを、すでに述べた。夢においても、彼らはさまざまな覆面をかぶって登場するが、めったに直接接することはない。これらの影の人格がひそむ世界が、第四の世界であるとしてよいであろう。また第四の世界において可能になる能力を仲介しているのは、彼らであると考えてよいであろう。それらの能力を利用するには、彼らの助力もしくは協力が必要なのである。
 第四の世界にどのような態度、心掛けで接するかによって、現われてくる影の人格もさまざまである。悪魔的・利己的な態度には、悪魔や亡霊が現われ、類的な心掛けでいるならば、神や仏が現われるであろう。みずからのGewissen(良識)が問われることになるのである。

 第11章 人間という多重的・多次元的存在

 第一の世界から、第四の世界まで、人間が意識的に交渉可能な世界を、概括的に論じてきたのであるが、このことが人間の活動の世界を広げることになるのか、あるいは不安や恐怖から、あくまで〈現実〉界にひきこもろうとするのか、この選択は各人に与えられている。



Up : 2024.3
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