四世界の理論:第三部――応用編2

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目次:性欲・性愛論T


 性欲・性愛論 T

 性欲の最初の目覚めにおいては、性欲はもっぱら自己快楽の一つの中心点であり、生殖器はそのために見いだされた一つの器官に過ぎなかった。小児が生殖器に関心を示し、onanieに耽るようになるのは、他の対象に向うべきその関心が、対象の不在によって、自己自身に還流するその結果であると言える。それは性欲的であるというよりも、むしろ他の対象へと向う欲求のfrustrationの結果としての代償行為であると言えるのである。いわば子供のonanieは、外世界において挫折したエネルギーが、自己破壊へと向うのをさまたげる安全弁の役を果たしていることになろう。そこではすでに充足としてのecstasyをともなった射精のリズムが可能であるが、まさにそのecstasyが内に充満した心的エネルギーの排出を可能にするのである。それ故にそれは性欲的、対象的であるよりも、より多く心的な理由において求められる快楽である。それはいまだ性の区別さえ意識されない幼児期において始まるのであるから。幼児は這い這いと同時にオナニーを覚えるのである。その時期に外界への関心が挫折することによって、彼の関心は自己充足へと還流していくのである。

 それに対して、異性への関心は比較的おそい時期に始まる。しかもそれは、オナニーの快楽とは、まったく別の次元で始まる性的関心である。さらにそれは局部的な関心であるというよりも、ふだんは隠されている部分に対する全般的な関心である。しり、おちんちん、おへそ、ちくび等、それはむしろ抑圧された関心に対する、関心の過度の反動と言うべきであろう。そこには単に好奇心の充足があるばかりである。その点では、やはり性欲的理由によると言うよりも、心的抑圧がその好奇心の全体を占めていると言えよう。子供の性欲は、ふつう考えられるようには、性的なものではないであろう。抑圧されるのは性欲ではなくして、外界に対する活動の意欲と、全般的な好奇心であり、それらの抑圧が、かえって心的エネルギーを逆流させて、性的自己充足のメカニズムを発動させるのである。その発動をさらに抑圧することにおいて、そこに始めて性的抑圧が、それらのものと結びついてゆくのである。
 子供のonanieを禁じ、彼らのある方面への好奇心を禁じることによって、少なくとも表面は快楽による自己充足は、禁断の心的メカニズムとなり、それによって子供は外界への関心、活動へと、その心的エネルギーを押しかえすことを余儀なくされるが、もともと快楽による自己充足は、外界へ向う生命活動の挫折にともなう、内向したエネルギーの安全弁なのであるから、単なる禁止によっては、それを終わらせることができない。単にそれを秘密に行なうようになるだけである。そしてこのメカニズムは、外界に対する挫折が起こるたびに、つねに顕著に再燃してくるのである。子供はそうしたエネルギーがその発散の対象を、自己の外にもたない場合には、自己の性器においてそれを行なうほかに道を持たないのである。それはまた貪婪な食欲、所有欲においても現われるが、それらは必ずしも意のままにならないのである。
 子供の性欲を複雑にするものは、近代の意識であると言える。単なる心的エネルギーのreleaseのmechanismであったものが、さらにそれを抑圧されることによって、しかも抑圧にみあった、なんらかの代替の対象が提示されないかぎりは、その抑圧そのものが、快楽への理由となってしまう。子供のonanieが身体的にある影響を及ぼすことはたしかであり、禁止そのものはなされねばならないが、それが単なる抑圧としておこなわれることによって、単に快の質を変化させるにとどまるのである。隠されたものに対する好奇心は、それが隠されたものであるゆえに、それが充たされることにおいて、ある種の禁断を踏み破った、罪悪感ないし羞恥をともなうものである。罪悪感ないし羞恥は、抑圧の自己自身への反映としての自己抑圧であるが、それは必ずしも自己自身に勝つこととは見なされないのである。それはむしろ抑えられた自己の姿として映るのである。それは抑圧を自己自身から取り除くことができないでいる、自己自身の姿である。そしてたいていの子供は、この心的状態にある。
 罪悪感ないし羞恥においては、つねに自己を抑圧する他者の存在が想定され、あるいは現に存在している。それ故に、もし抑圧者が取り除かれるならば、その瞬間にあらゆる罪悪感、羞恥は消えてなくなるであろう。それらはそれ自身における力を持たないのである。神がいなければ、いかなる罪悪も可能なのである。法のあるところに、初めて罪悪が生まれる。罪悪感および羞恥は、抑圧の産物であるから、それらを取り除き、また克服する時には、releaseの快感がともなうものである。あらゆる好奇心とその充足は、抑圧の克服とそれにともなう快の表われであり、それ故に好奇心の充足には、つねに自己抑圧の抵抗である羞恥が、多かれ少なかれ伴うことになる。好奇心の充足はすなわち、はしたなさとして、それ自体抑えられることになる。よき趣味の人は、犯罪や性的ことがら、その他おのれの地位や身分にふさわしからぬと思惟されるものに対しては、あからさまな関心を示してはならないのである。
 幼年期の自己の性器への関心に対して、抑圧の力が加えられることによって、性的ことがらに対する関心は、悪しき関心としての刻印を押される。性的快楽は、以後この禁断の門を破ることなくしては得られることのない、秘密の果実となる。それは自己自身のものでありながら、抑圧者の目を逃れることによって、初めて自己のものとなることができる。おそらくここに、抑圧された快の発見とともに、幼児の最初の自我が目覚めることの理由があろう。抑圧を知ることによって、幼児は抑圧を逃れた自己の世界を求めるようになるからである。それ故に彼は、外界から二重に疎外されていることになる。外界に向かう自己拡張の挫折からくるauto-eroticismへの後退と、さらにそれに対する抑圧から、いっそう内面に自己の秘密の世界を持つようになるのである。それ故に幼児の最初の自我は、もっぱらerosによって目醒め、erosによって支配されるそれであると言えよう。このeroticな自我は、ほぼ少年期の終りまで、子供の自我意識の支配的な形成力であるといえる。子供はeroticな衝動にかられる時、最も自己自身の内面を意識するのである。それ故に、子供ほど自己自身の内面をさらけ出すことを恐れ、恥とする存在はないであろう。そこでは抑圧とその破壊の快が、つねに危ういバランスを保っていて、それはすこしの刺激にも過敏に反応するのである。そして子供は、抑圧と快のあいだを揺れ動くこの不安定な自我の故に、つねに罪悪感におびえており、それは例えば超自然的な存在(神、幽霊など)に対する度はずれた恐怖心となって表われ、また他方では、日常は閉ざされている自我の中に、遠慮なく踏み込んでくる音楽に対して、羞恥と驚愕との入りまじった狼狽を覚えさせることになる。
 異性に対する関心は、幼年期に比較的遅く始まり、しかもそれは性的であるよりも、心理的要素に負うものであると言える。男児の場合、女児の性器に対しては、ほとんど関心を示さないといってよく、それや尻に対して関心が向くのは、単に隠された部分に対する好奇心の表われと言えるであろう。幼児は本質的に、自己の性器に対してしか、快楽の対象を持たないからである。それ故に、むしろ自己の性器や尻をexhibitすること、あるいは女児の場合には、自己のそれらに触れられることが、自己快楽を満たすための性的手段なのである。女児のおちんちんに対する過度の関心もまた、性的とは言いえない、好奇心にいづるものであろう。男女のあいだの関心は、むしろ幼児期においては、まさに男女の区別がたてられるという、その社会的環境によって生まれるものであるといえる。幼児にとって、男であり女であるということは、性的な区別ではなく、単にそのように区別することを強いられた結果であるに過ぎない。男女の意識が生まれる時から、幼児期の平等の楽園は失われるのである。男女に分かれることによって、楽園からの追放が始まる。すでに幼児期の後半に始まる、異性への強い憧れは、性的というよりも、むしろ失われた楽園に対する回帰の願望にほかならない。それは自己自身から隔離され、遠ざけられていったものに対する、いやしがたい渇望なのである。おそらく女性が生涯たくましい男性にあこがれ、男性が優美な女性にあこがれるのは、かつてありえたところの自己自身の姿を、永遠に求めつづける渇望がそこに投影されるからであろう。抑圧の心的mechanismを持たない動物においては、すべての異性が性的対象でありうるが、人間においては、異性の中に自己自身の楽園における姿を見ないかぎりは、真に性的満足を得ることが出来ないのである。そこに恋愛のmysteryがある。恋愛とは、異性との性的結合によって、楽園への自己回帰を遂げようとすることである。そこにおいては、二重の性的疎外が克服される。ひとつには、性の差別による疎外から、またひとつには、auto-eroticismの抑圧による疎外から。
 (つづく)



四世界の理論・第三部:性愛・性欲論
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Up:2025.10