四世界の理論 PartW


占いとは何か

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管理人の若年の頃の旧稿です。出版を予定していたので、読みやすい文章になっています。


内容: PartT: 占いの本質(占いは無意識とのコンタクト) / PartU:いろいろな占い(おみくじ、占星術、易、タロット) / PartV:偶然のコントロール 予知は可能か


  PartT 占いの本質

 1、占いと科学

 占いは人類の歴史とともに古く、人知のいまだ発達しない、文明の初期の段階においては、盛んにおこなわれたものである。それが今日のように、科学が未曾有の発展をみせ、ある意味で人類が神の位置にまで取ってかわろうとしている時代において、そうした古代的習性が完全に消え去ってしまうどころか、かえって先祖返り的ブームにのって流行する有様でさえあるのは、いったいどういう理由からであるか。そのことを少し考えて、占いの本質とでも言うべきところに迫ってみる。
 人間という存在は個人にせよ、個人の集った国家にせよ、神と違って全知全能ではない。もし宇宙の創造者というものがあるならば、彼はこの宇宙の時間・空間の外にあるか、あるいは時間・空間の全広がりが、彼の存在そのものであるだろう。それに対して、人はある限られた場所、限られた時の中に生まれ、生存する存在であるから、人の時空を見わたす能力も、また限られたものである。数年先はおろか、自己の日常における生存範囲すら、すこし遠くにあると、もうぼんやりとした推測や期待や不安のもやにつつまれて、見え難くなってしまうしまつである。
 そこに未来に対する不安とか、配慮とかいうものが生じてくる。全知全能の神には、このような人間的不安や配慮といったものはありえないであろう。ただ理知がありながら時空の一点に閉じこめられ、遠く見渡すことができないようにと目隠しをされた生き物である人間にとってのみ、固有の心理現象なのである。
 文明の発展とはまた、この何ゆえとも知られない定めによって、人間に課せられた目隠しを、理知の力によって少しずつ取り除いてゆこうとする努力の表われでもある。その意味では、古代の占いもまた、人間の理知とその宿命との格闘の跡であると言うことができる。けれども、人類は自己の宿命を克服するための、さらに効果的な方法を見つけだしたのである。それは主に西洋で起こった、自然科学の精神にほかならない。
 自然科学の原理は、それ以前の思索のように、単に自然と人間とのみかけの関係に目を奪われるのではなく、自然現象の根源を実証的に探求して、その法則、構造、成り立ちを究め、もって人間の活動、生活に役立つ予測や、応用やをもたらすことであった。その成果は、今日の科学文明の隆盛において、だれもが日々に知るところである。
 話は変わるが、明治の頃、正岡子規という文人があり、この人は長く病床にありながら、当時の歌壇や俳壇の革新を精力的に指導した人物である。この病床に仰臥している人の不平のひとつに、三日後の天気予報を出してもらいたい、というのがある。病人というのは、身体の具合との関係もあるであろうが、かえって外の天気のことが気になるものかもしれない。
 西洋では、かつては実証科学によって追放されるまでは、天気予報も占星術の受けもった仕事であった。今日の科学でも、時として扱いかねている気まぐれな大気現象のことであるから、占星術の評判にとっては良い仕事とはいえなかった。近頃の通俗易書をみると、天候の項目が設けてあったりするので、占い師というのは、経験によっては一向に懲りないものとみえる。

 2、それでも占い

 このように、科学というものの文明への甚大な貢献、人類の理知の勝利(いま科学精神とは直接には関係のない、戦争や破壊へおもむく人間の原始的心性を考えずにおく〉を、万人が認めざるを得ないにもかかわらず、古代的精神の産物である、あらゆる種類の占いが、過去の遺物として滅びてしまわないばかりか、今日かえって盛んになる傾向をみせているのは、なぜであるか。
 それはひとつには、科学もいまだ人間のあらゆる欲望、願望、要求を完全に満たすまでには、完成の域に達していないことがある。例えば地震の予知にしても、プレート・テクトニクスの理論によって目覚ましい進歩をとげたとはいえ、まだまだ人心を安堵させ、充分に備えさせるほどの確実性にいたらず、流言飛語を跋扈させているのをみても、人間の不安が、100%の確実性にいたるまでは、止むものでないことを物語っている。
 いまひとつは、これは科学認識の限界にかかわることであり、占いにとってはより本質的な問題なのであるが、がんらい科学というものは個々の事実の収集・集積から始まるのであるが、必ずしも個物の存在そのものが対象となるのではない。むしろ個に共通し、しかも個を超えた普遍的特徴の認識をめざすものであるといえる。例えば個人を対象とした科学のようにみえる医学にしたところで、その対象は病んでいる個々の人であるというよりは、病気という普遍的な現象であるといえる。まず病気の本質を個々の症例に則して、普遍的に理解してかかり、そののちにその認識の応用として、治療という個人への対応があるわけである。
 ところが個としての存在にとって、最も重要なものは、わたしとあなたとに共通した特徴、わたしとあなたと取り換えてすむようなものにあるのではなく、まさに私が私であり、この世界で唯一無二の生き方をしている存在である、ということにほかならないのである。占いにおいて中心となるものも、まさに個人の運命ということなのである。しかしこの事は、科学はその認識の方法の普遍的な性格からいって、相手にしてくれる事柄ではない。個人的な問題の解決は、科学がいくら発達したところで、科学が私に代わってそれを解決してくれるという筋のものではないのである。
 科学者であっても、人生問題に悩む時は、ニュートンにお伺いをたてたり、重力の法則を頼りにするわけにはいかないであろう。世にコンピューター占いなるものがあって、それがなにか科学的な託宣かのような錯覚をもたれることがあるが、ただ単に人のやっていた占いの機械的操作を、コンピューターに委ねたにすぎないのである。

 3、占いの根拠

 科学が人間の個人的問題のすべてを解決する筋合いのものでない以上、さまざまな問題に悩まされる現代人が、その解決のヒントや助力を科学以外の方面に求めたとて、あながち迷信視するわけにはいかない。けれども理知的存在であるが故に、未来に対して不安と配慮をもち、自己の人生の自覚をもつことのできる人間であるから、彼が拠り所とする事柄にも、またなんらかの理知的根拠がなければならないであろう。ここでは占いにしぼって、そのことを考えてみる。
 古来、占いの有効性については二通りの考え方、ないしは根拠づけがなされてきたように思う。これに現代の無意識の心理学からする考えを加えて、三通りを簡単に解説してみたい。

 A.神意のあらわれ

 占いのひとつの根拠づけは、神社のおみくじを買う人などが、漠として感じるであろうことである。自己の運命を支配しているかもしれない、なにか超自然的存在、人間よりもはるかに優れた能力、叡智をもった存在、すなわち神と称せられる存在があって、それからの直接ないし間接のメッセージが、占いによって伝えられるのである、という考え。これの典型的なのが神託というものであって、普通は媒介者である巫女(みこ)などの口から、それが語られる。神社のおみくじなどは、本来巫女による託宣が大衆的に変化した形であるといえる。
 巫覡(ふげき)の口を借りるほかに、神意を占う方法としては古来、人為的、自然的に、さまざまな仕方がある。古代中国の亀甲や獣骨を焼いて、あらわれた亀裂によって占うもの。動物の臓腑や鳥の飛翔で占うもの。日本でも古く探湯(くがたち)という神明裁判がおこなわれ、熱湯に手を入れて火傷のない者を正しいとする、乱暴な神の審きがあった。西洋では双方の正邪の極めがつかない場合、決闘をさせて、正しいものは神の加護によって必ず勝つとした(ハインリヒ・フォン・クライストの短篇「決闘」に描かれている)。
 こうした神意による占いは、神々や超自然的存在に対する盲目的信仰のある所に初めて可能であって、そのためにまたさまざまな愚行や悲劇のもとともなった。今日では、特別の宗教者を除けば、神からのお告げなるものを頭から信じる人はまれであろう。そうしたものを根拠とする占いに対しては、したがって、深くは考えずに、せいぜい神秘を好む好奇心から接するというのが、普通であると思われる。

 B.古代的宇宙観に基づく占い

 つぎに現代の科学的宇宙観とは異なった、特別の(形而上学的)世界観、宇宙観に基づいて、占いが根拠づけられることがある。東洋の易、西洋の占星術をその典型とすることができる。両者についてはあとで詳しく述べるが、易は古代中国の陰陽の二原理を基にした思弁的な世界観にもとづいており、それは現代科学と類似した発想もみられるが、細かな点においては古代人の自然認識の不完全さを反映して、そのまま今日に通用するというわけのものではない。むしろその原理が心理的に広く応用の利くといった点に、易の長所があるであろう。
 占星術は古代、天文学とともに起こったものであるが、はじめ単に天象の推移のなかに神意のあらわれを見てとる、といった程度のものであったであろうが、しだいに体系的に整備されて、天体の運行と人事との間の因果関係、照応といった宇宙観に発展した。がんらいは天動説、すなわち地球中心宇宙観にもとづくものなのであるが、天文学上の発見にともなって、そうも言ってはいられなくなったようである。ケプラーは占星術を、天文学の愚かな娘、と呼んで、彼女を賢くしようと努めたようである。

 C.現代の考え方

 さて、それでは現代人の合理的感覚にとって、神意のあらわれ(神のお告げ)はもとより、古代的宇宙観もだめとなると、はたして現代の占いのよって立つべき合理的根拠というものは存在するのであろうか。
 今世紀の初頭、フロイトが無意識の心理学を創始して以来、人間の深層心理、その隔されたメカニズムについて深い洞察がなされてきた。しかもそれは単に個人の心理の闇を暴きだしたばかりでなく、これまで文明の闇の部分とされてきた方面にも、サーチライトが向けられるきっかけとなった。錬金術、呪術、占いといった、これまで全くの迷信として排斥されてきた方面にも、無意識心理学の見地から積極的な価値を認めようとする、態度の変化が起こってきた。さらにまた、超心理学の流行が加わり、占いもまた何か人間精神の無意識の部分に隠されている、いわゆる超能力のあらわれであり、あるいはそれを引き出すための有効な手段である、と考える傾向が盛んになった。
 こうした時代の趨勢に、占いの側からも対応する動きがあらわれねばならない。けれども、たいていの占いは、古来の伝承や伝統の権威に縛られたものであって、そうおいそれと新しい波に乗って、装いを改めるというわけにはいかないであろう。
 ここにひとつの例外と思われるのは、西洋のカード占いの代表格であるタロットであって、解釈において積極的に現代無意識心理学の成果を取り入れているのが見られる。これは思うに、タロットには易のように定まったテキストに縛られるということがなく、また占星術のように、本来精神において異質な天文学の道具だてを借りねばならない窮屈もなく、その上解釈がある範囲において、各自の自由な連想能力に委ねられている自在さに由来するものであろう。タロットについては、あとでさらに詳しく述べることとする。

 4、意識と無意識

 無意識の心理学が明らかにしたことは、人間の意識的生活は、いわば海面上に出ている氷山の一角にすぎないものであるということである。精神生活の大抵の必要、認識活動は、表層意識のわずかな部分で足りてしまうのであるが、ある特別な場合に、その海面下の部分に眠っている精神エネルギーないし能力が浮上し、あるいは意識に圧力をかけるということがある。例えば身近な例をとると、だれでも長く眠らずにいると、幻覚を起こしやすくなるものである。これは水面下の部分がしだいに浮上してくるのに対して、表層意識の力が疲労によって抵抗しきれなくなることであって、眠りはこの意識と無意識とのエネルギーのバランス、拮抗を保つために必要な条件なのであるといえる。
 また意識の認識能力を例にとると、蛙は目の利く動物とされているが、その前にじっと動かぬ餌を置いても、それを餌と気がつかずにいるそうである。すなわち蛙の目には、動くものをのみ餌と見る能力しか備わっていないのである。これは意識の能力の特殊化の例であるが、同じことは人間の目にも当てはまって、蛙の目を笑ってばかりもいられない。
 人間の目はかなり粗雑なカメラに例えることができる。にもかかわらず、質といい形体といい申し分のない世界が写しだされている。これは目の能力というよりも、目で受けとった感覚を、長い経験によって自動的に調整する知覚の働きが、脳に備わっているからである。そうであるならば、近視や遠視といった、単に目の物理的不完全にもとづく欠陥が、視覚に反映されるということは、不思議なことといわねばならない。これも結局は、生存に必要な以上には、知覚の調整機能が働かなくなるという、脳の認識の怠慢にほかならない。(ちなみに近視の人が催眠トランス状態に入ると、この機能が働きだし、正常に見えるようになる。)

 5、助言と占い

 このように、人間の日常生活における意識の能力は生存の必要以上にはいでず、制限され、目隠しされ、省略されたものであるから、それによってとらえられた世界もまた、ふだんの状態においては狭く、見通しの利かないものと言わねばならない。それを補うために、人は経験ある人や客観的立場にある人に助言や判断を求めたり、またここでのトピックである占いに頼ったりするのであると言える。その場合にも、人は自己の全く知らないことを他者に指摘されるというよりも(専門的知識の場合を除いて)、自身がすでにうすうすと感じていて、しかし明瞭な判断にまで到達することができずにいたことを、他者の助言なり判断によって、固定した形を与えられるに過ぎないことが多いであろう。
 《ひとはすでにおのれの知っていることだけを理解する》と言ったのは、すぐれた心理家、哲学者のフリードリヒ・ニーチェであるが、人に助言を求める時も、このことは当てはまるのである。人になにかを言われて、はっと思い当たるというのは、それを心の奥底で知っていながら、なにかの心理的抑圧によって忘却していたに過ぎないのである。もちろん経験にないことは、いくら助言されても腑におちるわけはないのであるが。
 さて、このようなことを述べるのは、占いもまた助言の一種であると言いたいためである。占いは予言ではなく助言である、とは野坂昭如という作家も、どこかで言っていたように思う。占いが助言であるということは、占いの主体は占いの道具だてや、それによって占いを媒介する占卜者の側にあるのではなく、問題の解決のヒントや力づけを、占いのなかに求めようとする人の側にあることを意味する。すなわち占いに意味を与えるのは、託宣やその媒介物、媒介者ではなく、判断を求め、その判断を自己の全体験を背景にして理解し、生かしてゆこうとする側にあるのである。
 易の蒙(もう)の卦(か)に、我より童蒙(どうもう)に求むるにあらず、童蒙より我に求む、とある。蒙とは障害を前にして、迷っている人の状態と考えることができるから、自ら進んで助言を求める態度を取れば、蒙は享(とお)る、ということになるわけである。これはカード占いのタロットにおいても、自らを愚者(フール)の位置になぞらえるということに似通うところがある。

 6、占いは無意識からの助言

 さて、それでは占いにおいて真に助言するのはだれであるか、ということになる。それは神でも、超自然的存在でもないことは、すでに述べた。また科学的法則とは異なった特別の作用が、人と宇宙との間にあって、人の運命をあやつっているというのでもないであろう。
 無意識の説明で述べたように、意識的生活の水面下には、いまだ充分に使われていない厖大な心的能力の領域がひそんでいる。あるいはつねに無意識に働いている心的活動があっても、その成果は必ずしも意識のレベルまでは浮上してこないのである。たいていの人は日常の意識の背後に、いわば使われぬままに眠っている情報の貯蔵所がひかえていることなどには、一生気づくことなく、表層意識の心地よい、経済的な働きの世界に満足して終わるであろう。
 けれども人生において危機的な状況、表層の意識だけではどうしても判断や解決のつかない事態、に直面したりすると、時としてふだんはスイッチの切られた状態になっている意識と無意識との回路が、一瞬間つながる場合がある。その時には、ほとんど無反省のひらめきのようなもので行動したり、また瞬時に特殊な能力やエネルギーがわいてきたり、超心理学の対象とするような現象があらわれてきたりする。また、あとで考えてみて、ある行為をとったことが非常な幸運であったとか、気がつかずに非常な危険をのりこえていたということがある。そういう時に、ある種の直観的な判断力に頼っていたということが、往々にしてあるものだ。
 あるいは逆に、ほとんど判断力もなく、愚かな行為をしていたり、やることなすことに、いわゆるケチがつくということがある。あとでその理由を考えてみると、無意識のなかへ抑圧されたさまざまな感情や出来事が、そうした愚行や悪運の隠れたあやつり手となっていたことに気づくであろう。このように良かれ悪しかれ、無意識のエネルギーは機会をとらえて意識の世界へと突発的に噴出し、人間の行動に影響し、場合によってはコントロールしていると言える。このことがまた占いの価値を考える場合に、大きな意味をもってくるのである。

 6、意識と無意識のコンタクト

 無意識は、いわば私の中に住んでいる、名前のない他人のようなものである。無意識心理学ではそれをEsとかidとか呼ぶが、いずれも三人称中性代名詞のそれという意味にほかならない。それはふだんは、私の表層意識における思惟、感情、意志活動に対して直接干渉することはないのであるが、私という個体のなかに同居しているのであるから、私の個体的運命のなりゆきに対して、完全に無関心であることはありえない。むしろいざとなれば、意識的私を押しのけてまで、個体の自己保存のために並々ならぬ力を発揮することであろう。
 意識的私としてはしかし、このいわば非人称の私に対して、直接対面することをはなはだけむたがるものである。場合によっては、恐怖に近いパニックに襲われることがある。これはフロイトが明らかにしたように、無意識の世界はまた、あらゆる否定的観念・感情、タブーの抑圧され、追放された、忘却の辺土とも言うべき場所であるからだ。また逆に、無意識のエネルギーが圧倒的な力で浮上してきて、意識的人格が完全に追いはらわれてしまうと、無意識的人格の支配する、いわゆる憑依またはエクスタシーの状態におちいる。いずれの場合も、意識と無意識との円満なcontactとは言えないであろう。
 意識と無意識とは、ふだんは相互に全く無関心であるように見えるが、実はたえず間接的な形でコンタクトをはかっていると言えるのである。このことを最も良くあらわすものが、これもフロイトがその意義を明らかにした夢の世界である。夢はフロイトの言葉によれば、無意識から意識へと象徴の言葉によって伝えられたメッセージ、にほかならない。意識は夢の伝えるものをはっきりとは理解しないが、そこに漠とした潜在的圧力の存在を感じとるのである。夢はいわば現実の世界へ噴出しようとする無意識のエネルギーを、代用的な世界において発散させる、安全弁の役を果たしていると言える。意識は夢という安全な場所において、無意識と間接的、象徴的に交渉するのである。(ちなみに夢判断もまた、古くからある占いのひとつである。)
 夢の世界ばかりでなく、無意識のメッセージは覚醒の状態においてもあらわれる。例えば兆(きざ)し、omenというものがそれである。これは世の中になにか変事が起こるというのではなく、無意識の能力が感じとった何かの情報が、表層意識に達しないまま、外界の事物のうえに象徴となって投影されることである、と考えられる。たとえば、ある物事や出来事に不吉な予兆を感じた人が、実際にそれに暗示されたような不運、不幸に見舞われたとする。その場合、すでに無意識がなんらかの仕方で漠然と感じとっていたことが、外界の象徴的出来事を契機として、意識に伝えられたものと考えられる。
 もっとも大抵は杞憂(きゆう)という言葉に示されるように、単に過敏な不安の反映にすぎないもので、何事もなく終わるのであるが、そんなところからまた、縁起をかつぐという心理が生まれてくる。占いにおいては、これが単なる吉凶によって左右されやすい心となってあらわれる。この吉凶占いの代表として、おみくじや暦に基づく迷信がある。

 7、占いによって無意識と対話する

 さて、長々と意識と無意識との関係について述べたが、占いもまた無意識からのメッセージを受けとるひとつの間接的、象徴的な方法であると言える。その際、占いという象徴的行為は、化学反応における触媒のはたらきに例えることができる。触媒としての物質は、反応しあう物質と直接にはなんの関係もないが、その存在によって化学反応の橋渡しをするのである。例えば、占いにおいてある卦(か)またはカードの配列が出たとする。その瞬間に無意識から助言を求めようとする意識の心と、意識にメッセージを使えようとする無意識の心とが、電光的にcontactして、そこに判断や行動のひらめきが生まれてくるのである。
 これは占いを自己自身がおこなう場合も、他の占卜者が代わっておこなう場合も、基本的には同じことである。占いを求める人は、占卜者の助言を聞いているうちに、それを触媒として自己の内部にひらめきを生み出していくのである。要は、自己自身の無意識の領域に蓄えられている、無尽蔵の情報や直観に対して、意識の側から謙虚に心を開いて、耳を傾けることにあるのである。(後節「人に代わって占う場合」(省略)参照)
 意識は例えれば、個体の自己保存のために外界に対して張られた、探知器(センサー)および遮断幕(バリアー)のごときものであると同時に、自己自身の内的な領域に対しても、強力な検閲体制を敷いている、いわば唯我独尊の独裁者なのである。外に対してつねに防御の姿勢をとり、内に対してたえず渾沌として突きあげるものを制御しつつ、あやうい安定を保っているのが、独裁者としての人間の意識であるといえる。

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 PartU いろいろな占い

 ここで、世に行なわれている占いの若干を、やや具体的に見ておくこととする。

 A.おみくじ

 おみくじを引く場合に、理論や原理といったほどのこともなかろうが、しいて言えば、籤(くじ)を引くときの心境で、 当たれば運がよい、外れ、スカが出ればいまいましい、といったほどの期待感ないしは吉凶の意識が、おみくじを引く気持の基本にあるであろう。富くじとちがって、あまりスカばかり出していては、引く人もなくなるので、おみくじを売る方も吉を多くして、凶はなるたけ少なく、場合によっては、正月の目出度い時などには、吉ばかりということにもなるであろう。
 金運だとか、恋愛だとかの項目で、もっともらしい、常識的なご託宣、忠言をならべてあるのが普通ですが、それを読んでどうしようというほどの気持を、大抵の人は持たないでしょう。またおみくじを引く人の心理は、大体においてあなたまかせ、未来にこれといった目標もなく、今日、明日を漫然と送っているタイプの人に多いかもしれません。
 ただ、水商売のように、生活そのものが水ものである場合には、おみくじに限らず占いに頼る傾向がでてくるであろう。なかには真剣に事業の成り行きとかを神社に祈願して、おみくじにもそれなりの意味を求める人があるかもしれない。よいご託宣が出れば、それなりに心強いことであるから、おみくじも時には人助けになるのであろう。
 前に述べた病床の正岡子規のところへ、ある人が見舞いがてら、おみくじを持参した。その一本を引いてみると、第九十七凶というので、なにやらむずかしい文句が書かれてあった。

 霧こ重楼屋(むころうおくをかさね) 佳人水上行(かじんすいじょうにゆく)
 白雲帰去路(はくうんかえりさるのみち) 不見月波澄(げつぱすむをみず)

 というので、俳句解釈にかけては当代に並ぶもののない、さすがの子規も、ひと月考えたあげくに、わからぬと匙(さじ)をなげている。子規は新聞記者でもあったから、このことを記事にしたので、ある人がわざわざ解釈の労をとってくれた。

 「前日記(しるし)たる御籤の文句につき或人より三世相(さんぜそう)の中にある元三大師御籤鈔(がんさんだいしみくじしょう)の解なりとて全文を写して送られたり。其中に佳人水上行を解して

 かじんすいじやうにゆくとは美しき女の水の上をあゆむがごとくわがなすほどのことはあやふく心もとなしとのたとへなり

 とあり。不見月波澄を解して

 きりふかく月を見ざればせめてみづにうつるかげなりとも見んとすれどなみあればみづのうへの月をも見る事なしとなり

 とあり。その次に

 〇病人はなはだあやふし 〇悦事(よろこびごと)なし 〇失物(うせもの)出がたし 〇待人きたらず・・・ 〇死生(ししょう)あやふし・・・

 などあり。適中したる事多し。・・・かかることもあるによりて卜筮(ぼくぜい)に対する迷信も起るならん。」
  (『墨汁一滴』より)

 なお、凶のくじは、持参した人がわざわざ穴守稲荷へもっていって、流してもらったそうである。

 B. 占星術

 ここで説くのは西洋の占星術であるが、近世にいたるまでは七惑星(Planets)によって行なわれた。がんらいが天動説に立つものであるから、プラネットのなかには水金火木土星のほかに、太陽と月が含まれる。もちろん今日の占星家はたいてい地動説に立つであろうが、占星術を生みだした古代人の心を理解するには、天動説の見地に立ってみる必要があるであろう。
 プラネットが地球のまわりに円軌道を描いていると考えると、夜であれ昼であれ、自己を中心とした天球の、黄道と呼ばれる大圏の付近のどこかの場所に、どの惑星も必ず位置していることになる。各惑星は黄道沿いに固有運動をもつと同時に、また全惑星が(あるいはそれぞれの天球が)そろって大急ぎで、一日一回、恒星天とともに地球のまわりを日周運動することになる。
 黄道は、太陽が天球上を一年かけてめぐると考えた、その軌道にあたるものである。これを昼夜平分点である春分点を起点として、東まわりに十二等分した、それぞれ30度ずつの部分を、占星術では宮(Sign)と呼んでいる。(黄道沿いには、もともと太陽の運行を測るために、古来十二の星座が作られていた。)
 ところが、歳差(地球自転軸の傾きから起こる)という現象によって、春分点が年々どんどんと西へ移動してゆくので、むかし宮を定めた時に一致していた十二宮と、天空の実際の星座である黄道十二星座とは、今日ではほぼ無関係になってしまった。けれども占星術の主要な部分は、人間と星座ではなく、人間とプラネットとの間の影響の関係であるから、この事は占星術にとって、さして痛くも痒くもないことであった。
 今日、新聞、雑誌などによく見られる、いわゆる太陽宮占星術なるものは、もっぱら太陽を唯一のプラネットとして、それと宮との関係において占いをたてる、占星術としてはまことに大まかなものであるが、太陽が古来から占星術の中心的な位置を占めていることのあかしではある。例えば、十二宮の筆頭である白羊宮(アリエス)は、太陽が天の赤道を越えて、夏至点へと盛んな勢いで昇っていく期間にあたる。白羊宮の勢力的、創造的な性格は、そこから来ているわけである。その他の宮の性格にも、太陽の運行が反映している。
 さて、すべてのプラネットは、いついかなる時でも、この十二宮のどこかの位置に必ず存在しているわけである。占星術は、ある場所、ある時刻における、ある出来事およびその成り行きを、その場所、その時において見られた天球上のプラネットの位置と相互配置(アスペクト)を、宮(サイン〉および次に説くハウスとに関連づけて占うものである。普通には、個人の誕生の時と場所とをもってそれを行なう。西洋では個人の誕生の時刻を記録する習慣があるようなので、そのことがこの占いにかなり幸いしているようである。すべてのプラネットは、一日一回、日周運動をしているので、少しの時間の違いでも、かなりの誤差が出てくることになる。このこともよく、占星術の当たらないことの言いわけとされる。
 それはさておき、天球上の十二宮に対応して考えられ、いわば天界のルーレット盤のいまひとつの十二の区分をなすものが、Houseと呼ばれるものである。これも同じく黄道の大圏を区分したものであるが、その起点は、ある時、ある場所における黄道の上昇点(Ascendant)と呼ばれる、黄道が東の地平線に接している時と場所によって変わる点である。このアセンダントは、占星術において大変重要な意義を与えられている。この黄道上昇点を起点として、ある場所、ある時において、黄道を地平線下に地球の裏側へともぐり、さらに西の地平からあらわれて東の地平へともどる、天空を一周する大圏を考える。
 東のアセンダントに対して、西の黄道の地平との接点をDescendant(ディセンダント・下降点)という。また、天の赤道座標において、南北極および天頂を通る大圏を子午線というのであるが、これと黄道との交点は二個所あって、地平線上の交点をmidheaven(ミドヘヴン)、地平線下のそれをnadir(ネーディア)という。これら黄道上の四つの点は、ハウスを考える場合の主要な初点(cuspカスプ)となる。
 さて、四つの主要なcuspで四分された黄道の各部分を、さらに三等分すると、全体で十二の区分ができあがる。これが十二のハウスと呼ばれるもので、アセンダントを初点(カスプ)とするハウスを第一として、時計と反対回りに数え、それぞれに占卜(せんぼく)上の意義づけを与える名前がついている。
 ところでハウスは宮と違って、特別な場合を除いて、正確に三十度ずつに十二等分されない。これは子午線面と黄道との交点である占星術上のmidheaven、nadirと、黄道の最高・最低点とは、普通は一致しないからである。高緯度になると、かなりの大小が出てくる。こうした不都合をつくろうため、黄道を十二等分する考えもある。これは見た目にはすっきりするが、日周運動における南中の意義が、ハウスの区分から失われる。
 さて占星術は、まず各プラネットに固有の意義・性格をもたせ、次にやはり固有の性格をあたえられた十二宮のどこかに、各プラネットが宿ることによって、それらの綜合された意義・性格が、その天空の巡り合わせのもとに生まれた人、または出来事において発現すると考えるのである。ここまでは比較的簡単であるが(特に太陽を唯一のプラネットとする場合には)、さらに各プラネット間の相互配置(アスペクトという)による相互の影響を考え、その上にやっかいな計算を要する十二のハウスの、人生の諸方面にわたる具体的な区分が加わり、それらハウスと十二宮および惑星との関係が考慮されて、占星術の解釈はどこまでも複雑なものになってゆく。
 占星術の他の占いと異なったところは、天体の周期的、法則的な運動が、そのまま直ちに地上の出来事、特に人間の運命に関係づけられることである。次に見る易の思想にも、天行健なり、という考えがあり、人事もまたそれに則(のっと)って健を心がけねばならない(sollenゾレン)とされるのに対して、占星術の場合には、その関係が宿命的な因果関係にまで発展していったものとみられる。東洋人は暦に基づく迷信においても、大まかであるのに対して、西洋人はその精緻な探究心を、妙な所へまで徹底させたものである。
 占星術は、ここでややどうでもよい細部にまで立ちいって、その方法の一端をかいま見たのであるが、それを本格的にやるには、このような煩瑣な球面天文の知識が必要となるし、解釈の対象となる要素が数多く、複雑であるから、素人にはなかなかとりつき難いものであると言える。
 そこで今日では、占星家はコンピューターをを使って、ホロスコープ(誕生時のプラネット、宮、ハウスの関係を図式化したもの)の注文をとるようになっている。この辺をかん違いして、占星術は科学的だと考える人があるかもしれない。天文学上のデータを借りてホロスコープをたてるまでは、単なる数理的な操作であって、なんら科学的に問題とされる点はないのであるが、その先の形而(けいじ)上的宇宙観にもとづいた解釈・判断の段階において、科学とは相いれない迷信的思考が跋扈しだすのである。
 天文学者の故荒木俊馬博士が言うように「占星術は現在わが国で流行している種々の運命判断とちがって、判断資料は完全に精密天文学の領域に属し、その資料に基づいて実施する判断方法は人文科学的である。ただ占星術の宗教的根柢をなす神話的前提仮設と、それに範って規定せられた占星法則だけが、自然科学の眼から見れば、迷信である」(「西洋占星術」)。これは自然科学者一般の、占星術に対する態度とみてよいだろう。
 けれどもまた、占星術というものには、別の心理的な見方がある。ある人が癌かなにかの不治の病を宣告されたとする。その人はワラにすがる気持で、占星家のところへ行き、ホロスコープをたててもらったとする。するといまだ自己の命運の尽きていないことが、そこにあらわれていた。そして養生を重ねるうちに、ついに病を克服した。といったような場合、おのれに信念を与えてくれた占星術を真の科学であると信じて、人にも吹聴するようになるのは、あながち理解されないことではない。
 ここに西洋の心理学者が行なった、面白い統計的な調査がある。太陽宮占星術に関心のある人は、だれでも知っているように、十二宮のそれぞれには、活動的性格とか、感情的性格とか、さまざまな性格がわりふられていて、その宮に太陽のある間に生まれた者は、その宮の性格をもつとされている。そこで誕生時の太陽の天球上の位置と、人間の性格との間に、はたして占星術が主張するような対応関係があるものかどうか、これは多人数の性格調査をやってみて、それを統計的に集計すればすぐに分かることである。実際にこの調査がなされた時、最初サンプルとなる対象者になんの区別も立てずに、集計を行なったところ、驚いたことに、ほぼ占星術で言うとおりの誕生宮と性格との対応があらわれたのである。
 けれども、これには対象者が占星術に関して持っている知識が、本人の性格の把握や形成に対して、どのような影響を与えるか、ということが考慮されていなければ、正確な結果があらわれてこないのである。そこで今度は、占星術についての知識の有無の程度に応じて、対象者をいく段階かに区分するという方法がとられた。するとこれもまた注目すべき結果なのであるが、占星術の知識のない者には、誕生宮と性格との関係は、統計的には全く無意義であるのに対して、対象者の占星術の知識が増していくほど、その関係は統計的に顕著にあらわれてくるということであった。(Eysenck, Nias : Astrology, science or superstition? による)
 このことは言いかえれば、誕生宮と性格との関係は、なんらかの客観的な因果関係があって宿命的に定まる、というのではなく、むしろ各個人が占星術の告げるところを信じて、自己自身の性格を自己形成していった結果に過ぎないのである。占いが当たるということの多くは、またこの自己実現の結果によるものであることが、少なくないであろう。
 占星術は科学ではないが(かつて錬金術から化学が生じたように、占星術からEysenck、Niasの言う宇宙生態学コズモバイオロジーのようなものが生まれるかもしれないが)、科学のなんたるかを心得た人でも、不思議な魅力にとらえられるようだ。ケプラーなどがその例であるが、まして欧米の一般大衆が、その性格形成にまで影響を受けていることは、理解されないことではない。
 ひとつには人間の運命を占うとされるルーレットが、天体というロマンティックな対象からなることに、その理由があり、またひとつには、占星術の解釈が長い伝統につちかわれた、世俗の知識や性格学、人間学等の、多岐にわたって人々に指針を与えうる、いわば通俗哲学の集積でもあるからであろう。「占星術によって何らかふれられるところのない、人間の経験領域は見あたらない」と、ある現代の占星家が誇っているのも、あながち空言ではないようだ。

 C. 易

 易は紀元前一千年紀、中国の周の時代に編纂された易経という書物に基づく占いである。聖書を占いに用いる例はあるが、もっぱら占いのために書かれた古代の蒼古たる書が、今日も変わらず占いの権威としての地位を保っていることは、いかにも東洋文明らしい感じがする。欧米ではBook of Changesの名のもとに訳され(あるいは中国音のI-Chingイー・チンの名のもとに)、なかなかに評判の高いものである。もっともその占い方は、筮竹(ぜいちく)などどいうオリエンタルな道具だては用いず、コインの裏表をもって卦(か)をたてるという、はなはだ簡便なものである。
 易者というと、蕪村の句にある

 売卜(ばいぼく)先生木(こ)の下闇の訪はれ顔

 といった、当たるも八卦、当たらぬも八卦、などと占い師としては、はなはだ頼りない文句を売りものにする大道易者を思いうかべるであろうが、易もまたこう西洋流に簡便な見地からながめると、かえって歴史の手あかのようなものがはげ落ちて、いささか新鮮に見えてくるのも不思議なものである。いまその簡便流で、おおよその原理をさぐってみよう。
 易の根本思想は、積極的能動的な陽と、消極的受動的な陰の二要素をもって、天地万物の生成消滅の根本原理となすことにある(さらに陰陽の根本に太極というものをたてるが、ここでは考えない〉。陰は - - の記号(陰爻いんこう)、陽は ― の記号(陽爻ようこう)をもってあらわされる。中国では三才といって、宇宙を天地人の三領域からなるものと考えるので、陰陽の爻を三つ重ねて、この世界の日常に見る現象があらわれてくるとする。その順列組合わせは八通りあり、それを八卦(か)と呼んでいる。いまそれを図示[省略]すると、図表のような対応があるものとされる。
 世界の根本を消極、積極の二元的要素にわけ、それらを配合させて宇宙の諸現象を説明しようとする思弁的な態度は、古代において易に限られたことではなく、例えばペルシャのゾロアスター教や、インドのサンキャー哲学と比較することができるであろう。けれども易に独創的なところは、それをもっぱら占いのための体系として用いたことである。そこに中国人の純粋な思弁にあきたらない、実用主義的(プラグマティック)な態度がみられると言えよう。
 さて、八卦だけでは到底この複雑多岐な、自然人事の出来事を説明するに足りない。そこでこの八卦を互いにかけあわせて、六十四の卦がつくられる。例えば、乾(けん)を下に坤(こん)を上に掛けると、地天泰の卦がえられ、坎(かん)を下に艮(ごん)を上に掛けると、山水蒙がえられる、等々。
 ここで易の占いがどんなものであるかを簡単に知るために、硬貨一枚(註)を用意する。それを投げると裏か表かが出るが、裏の場合を陰 - - 、表の場合を陽 ― として、六回こころみる。それを下から積み重ねていくと、例えば

  - -  - -  - -   ―   ―   ―

 のような形ができあがる。これは乾を下にし、坤を上にする地天泰の卦であるが、これを解釈するには、易経を一冊もたねばならない。岩波文庫の易経では、上巻一五六頁にあたる。そこには
 泰は小往(ゆ)き大来る。吉にして享(とお)る。
となにやらこむずかしい、謎めいた文句が、いかにも巫覡(ふげき)のエクスタシーからほとばしりでたかのように、簡潔この上ない言葉で託宣されている。易の本文ともいうべき卦辞(かじ)、爻辞(こうじ)といったものは、みなこのようなoracle(神託)めいた文句からなっているので、当時の人もこれを解釈するのに骨折ったものとみえて、これに十翼と称せられる沢山の註釈がついて、大部なものとなったのが、今日に伝わる易経にほかならない。
 ところで、天の上に地の乗った形が泰(安泰)であるというのは、現代人の感覚からは妙な感じがする。易ではこれを、上に昇ろうとする天の傾向と、下に沈もうとする地の傾向とが、互いに抱きあって安定した象とみるのである。これに対して、地(坤)を下、天(乾)を上とする形は、天地否の卦であって、かえって、《天地交わらずして、万物通ぜざる》状態とされるのである。このように、易の解釈は物理的、合理的であるというよりは、比喩的、象徴的に理解すべきものであることがわかる。
 さらにまた、単に天地のようなエレメントを比較、考量しただけでは、解釈に理解のゆかない場合が多いのである。例えば、沢風大過という卦

  - -  ― ― ― ― - -

をみると
 大過は、棟橈(むなぎたわ)む。往くところあるに利(よ)ろし。享(とお)る。
とある。これは大風が通って棟木がたわむ、ということではないのである。大過は《大なるものの過ぎるなり》とあるように、巽(そん)を下にし、兌(だ)を上にする卦において、大すなわち陽爻が、上下二本の陰爻の間に、過剰な状態を言いあらわしているのである。棟たわむ、とは何かというと、上下の陰爻が、間にある陽爻の勢いに押されているありさまを言うのである。すなわちこの文句は、自然現象の直接の観察からいでたものではなく、陰陽の爻の順列組合わせの配列を見て、そこから思いついた託宣にすぎないことになる。易の解釈の主流は、このようなもので占められている。けれども、前に述べたように、こうした解釈が心理的に広く応用の利くところに、易の長所があるのである。
 前に巫覡(ふげき)のエクスタシーと述べたが、おそらくシャーマンの職業意識からであろう、易にはちょっと常人には理解しがたい、飛躍的な言いまわしが、わざわざなされることがある。山風蠱(さんぷうこ)という卦があり、これは巽(そん・風)を下にし、艮(ごん・山)を上にする象であるが、蠱というのは壊乱の意であるとされ、蠱(やぶれ)とあてる。蠱の卦辞をみると
 蠱は、元(おお)いに享(とお)る。大川を渉るに利(よ)ろし。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日。
とある。壊乱の状態である蠱が、彖(たん)伝によれば、元(おお)いに享(とお)りて天下治まるなり、とはちょっと日常的な発想を超えている。日本の戦国時代などを考えれば、意味が通りそうであるが、それにしても一般には、なかなか応用の利かないものであろう。敗戦時には、大川を渉るような山師的な仕事をやって、元いに享った人もあるであろうが、それでは易の権威が泣こうというものである。
 易にはこのような逆説的な言いまわしが、かなり見られる。繋辞(けいじ)下伝に《易を作る者は、それ憂患あるか》とあるように、時代の状況がシャーマンの秘密主義に加えて、このような発想を生みだしたのかもしれない。甲に先だつこと三日、甲に後るること三日、に至っては全くのクイズであって、その解答は各自が易経にあたってもらうことにしよう。
 さて、六本の陰または陽の爻(こう)からなる卦のそれぞれの爻にも、また解釈がたてられるので、易には占辞だけでも、全体で六十四卦三八四爻の占卜的解釈が成りたつことになる。易で占いを行なおうとするほどの人は、盲滅法に卦をたてるというのでないかぎり、少なくともそれらの占辞に、ひととおり目を通すぐらいのことはしなければならないから、これは素人にはなかなか大変なことであるといえる。
 ここでその一端を見たように、易のテキストは古代の漢文で、漢文特有の簡潔な表現がなされているうえに、しかもoracle(神託)としての解釈のむずかしさが加わる。その点はまあ専門家の翻訳に頼ればよいとしても、さらに易にあらわれた古代の中国人の世界観や心性、社会思想や道徳観といったものに対して、共感的な態度でのぞむことが必要となる。そうした共感と理解の上にたって占いを行なうことができなければ、占いにおいて無意識の能力を効果的に発揮する条件も、生まれてこないであろう。
 そこで一般には易経そのものよりも、易を大衆化した本が出まわっている。易のテキストは、今日の人間が、なんの予備知識も準備もなく、にわかに使えるという内容のものではないので、その趣旨をとり、解釈を平易化したものが、易の名のもとに行なわれている。一例を風天小畜

  ― ― - - ― ― ― 

にとってみると、易経には
 小畜は、亨(とお)る。密雲あれど雨ふらず、わが西郊よりす。
とあり、陽爻中にただ一本の陰が陽の勢いを少しく畜(とど)める象をあらわし、陰陽が相和して、雨沢(うたく)をもたらすのを待つの意とされる。
 けれども、この解釈はなかなかむずかしいので、これを常識的に「天に風起こり、雲わき、空模様があやしいけれども、雨は降りそうで、なかなか降らない。そうした空を見る時は、じれったく、いらいらするものである。そのようにこの卦は、物事のスムーズに行かないことを表わす」とし、「忍耐強く努めるならば、やがて雲晴れ、日差しあらわれ、幸運に向かうであろう」ということになる。(Melyan, Chu : The Pocket I-Ching)
 易経には、その卦辞、爻辞、彖(たん)伝、象伝には、予言よりはむしろ助言を主とする趣きがみられる、と言ってもよいくらいである。ところが大衆的な易書では、その傾向が反対となって、迷信にとらわれやすいような、馬鹿げた予言の項目が立てられている。Pocket I-Chingをみると、例えば、胎児の性別、株価の上下、寿命、失踪人、遺失物、天候、試験の成績、等々。小過の寿命の項を見ると、「虚弱、たびたび病患あり、短命の惧れあり」。これなどは忠告と受けとり、養生を心がけるというのであるとしても、医学知識の方がはるかに確実な情報を与えうるのであるから、ほとんど無意味というほかはないだろう。
 本格的な易は難解であるから、易によっておのれの人生の断を仰ごうと研究に励んだ人が、みいら取りがみいらになって、結局占い師になっていたということもありそうである。荀子は《善く易を為(おさ)むる者は占わず》と言っているそうであるが、占いに凝りすぎるのも、また迷いのうちということであろう。
 易はまた修養の書として、儒教の経典のうちに加えられている。繋辞(けいじ)下伝に「易の書たるや、広大悉(ことごと)く備わる。天道あり、人道あり、地道あり、三才を兼ねてこれを両(ふたつ)にす。故に六なり」とある。これは先の占星家の誇った言葉と、面白い対応をなしていると思う。占いも体系化されると、それだけで思想としての味わい、深みが出てくるものなのであろう。

 註:本格的には硬貨三枚を用いる。三枚ともに表の場合を老陽、おなじく裏の場合を老陰とし、一枚表、二枚裏を少陽、一枚裏、二枚表を少陰とする。これは奇数を陽、偶数を陰とするところから、表(陽)に2、裏(陰)に3の値を与えるとすると、一枚表、二枚裏は、3+2+2=7すなわち奇数=陽となるのである。同様に一枚裏、二枚表は8、すなわち偶数=陰とみなされる。陰陽は窮まると互いに変じるので、老陽は陰に変じ、老陰は陽に変じ、もとの本卦(現在をあらわす)に対して、之(し)卦〈未来をあらわす〉をつくる。老陽、老陰はまた爻位を指示することになる。

 
 D. タロット

 タロットの起源については、研究家のあいだにも定説がないようである。ある人はそれを、古代エジプトの秘儀宗教のなかに求めたりするが、一般の人がタロットですぐに連想する、ジプシー占いのジプシーも、もとはエジプトあたりから流れてきた民族と誤解されたことからつけられた名で、なんでも神秘なものを、神秘な場所に関係づけようとする心理が、働いているのであろう。伝統的なタロットの絵カードを見ると、西洋中世の伝説的な雰囲気が濃厚に漂っているのであるから、まず完成した形では、その辺に由来するものとみておけばよいであろう。
 タロットはMajor Arcana(メージャー・アーカナ:大秘義)と呼ばれる二十二枚の絵入りカードと、Minor Arcana(マイナー・アーカナ:小秘義)と呼ばれる数のはいった五十六枚のカード、つごう七十八枚のカードからなる。普通のトランプが五十三枚であるから、それよりはだいぶ多いわけである。ここでは大秘義を簡単にメージャー・カード、小秘義をマイナー・カードと呼んでおく。
 メージャー・カードは、これを見ているだけでも楽しい連想のわいてくる、さまざまな絵入りカードで、それぞれに名称がつけられている。例えば、The Fool(愚者)、The Magician(魔法使)、The Empress(女皇)、The Emperer(皇帝)、The Lovers(恋人)、Justice(正義)、Temperance(節度)、The Hermit(隠者)、The Hanged Man(刑死人)、Death(死)、The Devil(悪魔)、The Moon(月)、The Sun(太陽)、Judgement(審判)、The World(世界)、等々。
 この中でThe Fool(愚者)のカードは、普通のトランプでジョーカーにあたるものであるが、タロットの解釈においては、特別の役割を与えられており、これから今まさに世界の舞台に向かって旅立ってゆこうとしている、純真な若者の姿が描かれている。すなわち、フール以外の二十一枚のカードを、彼が人生の旅路において出合うさまざまの出来事、人物に見たて、メージャー・カードの解釈を行なうことになる。
 人生を旅とみなし、修業遍歴の過程に寓することは、童話や神話伝説におなじみのプロットである。小説のジャンルでも、ドイツ文学に発展小説というものがあり、例えばゲーテの有名なウィルヘルム・マイスターの徒弟時代、遍歴時代のように、個人の修業、発展の過程がテーマとなる。タロットのメージャー・カードもまた、人生の修業遍歴の相を、象徴的な絵によってあらわしたものと言うことができる。その際、占う人はおのが身を、人生の諸問題に立ち向かうフール(愚者、易の童蒙)の位置におくこととなる。
 タロットの物語においては、主人公のフールは、大人または賢者にあたる「魔法使」に、予備的な教育を受け、まずは肉親の親である「皇帝」と「女皇」に対面し、さらに精神界の親である「女司祭」と「聖職者」に出会い、ついで男女間の実際の秘儀に入門し(「恋人」)、あわせて人生の諸問題とはじめて格闘する(「戦車」)ことになる。その試練の過程で、「正義」「節度」「力」「隠遁者」といった心術を学んでゆき、旅の中途に達したところで、「運命の車輪」が回転し、冥界巡り、すなわち内面世界への旅がはじまる。
 冥土へ下るためには、精神的死の試練をへなければならない(「刑死人」「死」)。無意識の闇の中には、「悪魔」がひそみ、地獄の「塔」がそびえている。その関門をぬけると、道は光へと通じて、「星」や「月」があらわれ、「太陽」が輝きだす。やがて「審判」のラッパが鳴って、、新しい存在としてよみがえった主人公の前には、「世界」における成功と勝利が約束されている。
 マイナー・カードはWand(棒)、Cup(カップ)、Sword(剣)、Pentacle(五角の星形・貨幣)の四種に分かれ、それぞれの組札(スート)は一から十までの数と、Page(ページ・小姓)、Knight(ナイト・騎士)、Queen(クイーン)、King(キング)の親カードとからなり、つごう五十六枚、ほぼ普通のトランプに等しいものである。棒、カップ、剣、星形には、それぞれ占いの基本となる意義があたえられ、さらに数の象徴的解釈に応じて、全体の意味が判定されていく。例えば

 Wand(棒)―― 火 ―― 直観
 Cup(カップ)―― 水 ―― 感情
 Sword(剣)―― 空気 ―― 思考
 Pentacle(星形)―― 大地 ―― 感覚

といったような対応があり、これに数の解釈を加え、例えばカップのAceエースは感情の湧出をあらわすとともに、新たな関係の始まりとみる。
 数を神秘的、魔術的に考えることは、古来広く行なわれている。古代ギリシャのピタゴラスは、宇宙の本質を数であるとさえ考えている。カバラをはじめとする魔術的思考に、数の解釈が大きく影響していることは、その方面に迷いこんだ人のすぐに気がつくことであろう。すでにみた易においても例外ではなく、例えば奇数を陽とし、偶数を陰とし、それぞれ正しい数の位置にあるかどうかが、解釈の一つの基準となる(特に陽爻を九で、陰爻を六であらわす)。
 タロットのマイナー・カードにおいては、数をもっぱら象徴的意義に解しておけばよいであろう。その一例を図表[省略]に示しておく。数のカードに絵をそえて、解りやすくしたものもでている。親札(コート・カード)はやや蛇足の感がある。これはメージャー・カードとマイナー・カード(今日普通のトランプ占い)とは、もともと別のものであったのが、合流したためかもしれない。コート・カードは、両者を仲介する意義をもつものとされている。
 さて、タロットには易のように古来定まった解釈の手引き、ないしはテキストといったものがなく、その解釈は大体が伝承や口伝(くでん)によったものであるから、カードの意義づけや判定も、占う者の理解力によって、かなり左右されてくるわけである。この辺に、かえってタロットが時代の要求に敏感に反応した、自在な転身をみせることのできる理由があるようだ。現在では、かなりモダナイズされたものが、いく種も出まわっている。
 タロット占いの原則として、占いを行なおうとするほどの人は、占いをはじめるに先だって、まず自己の使うカードに充分に親しみ、各カードの意味するところを、おのれなりに解釈をたてておく用意が必要であるとされる。タロットの絵カードは、イマジネーションを刺激するようにできているので、それぞれのカードがおのずと伝えてくるものを、例の連想ゲームの要領でとらえてゆき、カードの解釈を豊かなものにしていく。それによってはじめて、カードを媒介にして、意識と無意識とのコンタクトが、スムーズに運ぶものと言えるであろう。そういうわけであるから、中世風の図柄よりも、現代風のそれの方が、取りつきやすいということもあるであろう。
 いずれにせよ、タロットは西洋中世の世界観、人生観、象徴体系を基調とするものであって、それに対してすじの通った理解を得るためには、その時代の中に身をおいてみなければならないばかりでなく、西洋人にとっては、そうした伝統的雰囲気のなかに溶けこむのが、比較的容易であろうと思われるのに対して、文化的・歴史的背景をことにする場合には、そこに二重の困難が生じてくると言わねばならない。
 例えば、Death(死)に関する考えは、西洋と日本ではかなり異なったものであるし、Hanged Man(刑死人)に至っては、神話学上の深い理解が必要となってくる。そこでタロットを使いこなすのは、みかけ以上にむずかしいということになる。
 タロットの占いの形式としては、五枚の馬蹄形、ケルト人の十字架(十枚)、七枚の星形、生命の樹(十枚)、等のカードの配列がある。これらは、ほかのカードを使った占いにも、応用ができる。

 *   *   *

 さて、以上見てきたように、本格的な占いというものは、それを日常生活において手がるに役立てようと思っても、その習得がなかなか骨の折れるものであって、占い師になるのでないかぎり、一般の人はとても深入りしてゆく気持ちにはなれないであろう。しかも、そこには多分に迷信的な要素がまつわりついている。そうでなくとも、大体において今日では通用しそうもない、古びた世界観や心術に基づいていることがあって、そのうえ易にしても、タロットにしても、それの作られた民族、文化の特質、事情によって、制約されている。
 そこで迷信におちいることなく、占いのもつ助言者としてのすぐれた役割を生かし、その上に充分な現代性と簡易性をもった占いはないものかということになる。もちろん、そうした心掛けで、ここに解説したような占いを運用してゆけばよいわけであるが、もっぱらその目的で作られた占いがあってもよいものである。
 占いの原理さえしっかり把握できていれば、じつは各人の工夫によって、どのような占いの道具立ても、作ることが可能なのである。かなり以前のことであるが、俳句によって占いをたてている人の記事を読んだ記憶がある。たぶんその人独自の考案なのであろう。象徴的で、暗示的な俳句や、教訓的なことわざなどによって、それをカード化すれば、それによって充分に占いをたてることが出来るのである。ちょっとした骨折りと工夫しだいである。世の中には、茶柱でもって占う人もいるくらいであるから、もっとましなものが考案できるであろう。
 とはいえ、占いそのものには、ここには触れられなかった、精神衛生上の問題が生じてくるので、そうした不安を覚える人は、もともと占いそのものに近づくべきではないであろう。単なる好奇心によって、無意識界や超常的世界にふみいるのは、精神の危機を招くのである。占いもその例にもれない。

 PartV Apendices 補説

 1.偶然のコントロールについて

 ソ連のある超心理学者によると(プーシキン「超心理学と現代自然科学」)、無意識の根柢には植物的な精神が存在しているという。植物精神というのは、植物は動物とちがって、個体的な精神をもたず、地球上の全植物がひとつの精神によって浸透されているというのである(これを生命間の情報相互作用と科学的に名づけている)。動物、人間ももちろん、その根柢においては植物的な部分からなっているので、この全地球的植物精神にあずかっているわけである。けれども、その移動性の存在にもとづく個体保存の必要から、動物には個体精神が発達し、植物精神は意識から排除され、無意識の闇の奥に押しやられてしまったのである。
 この唯物論(一元論)の見地からは目覚ましい仮説(かなり自由に解釈したが)が正しいとすると、人間のあいだでも、無意識のレベルでは、あらゆる情報が筒ぬけになっていることになる。ただ、個体意識の強力な検閲体制によって、それが意識の表層へとあらわれてこない仕組みになっているのである。そこで、そうした無意識の領域に蓄えられている、大きくでて全地球的な情報を引きだすためには、占いのような間接的な方法が必要になってくるわけである。
 最後に、超心理学の話が出たので、ここで占いの実践にあたって、躓きの石となるかもしれない、ひとつの問題を解明して、この本の結びとしたいと思う。読者のなかには、占いを意識と無意識との間接のコンタクトとみなすのは結構であるとしても、肝心の占いの操作の結果は、偶然によって説明されはしないか、始めからもっともらしい筋のたつテキストを選んであるのだから、偶然によってどのような組み合せも可能ではないか、と考える人があるであろう。
 または、確かに単なる偶然とは言えないものが、そこに働くとせよ、もしそうならば、E・S・P(Extra-Sensory-Perception 超感官的知覚)のような、いまだU・F・Oのたぐいといえる能力を仮定するか、またもし仮定したところで、その能力を発揮する人は特殊な人に限られるのだから、だれもが占いを行なうというわけにはゆかないではないか、と考える人もあるであろう。
 まず占いによって出た結果が、単なる偶然であるかどうかについては、これを決定するには、正確な統計的研究が必要になる。著者にはその余裕がないので、この本では単なる偶然ではないということが、暗黙の前提として、話が進められてきた。そこでもし、占いにおいてその感覚が得られない人は、占いを行うべきではないであろう。
 つぎに、偶然ではないことの原因として、意識と無意識とのコンタクトを有力な仮説として取りあげたわけであるが、その際、E・S・Pのような特殊な能力を仮定しなければならない、とすることについては、この問題の解決には、ひとつ視点を大きく変えて、人間の身体に関する認識をドラスティック(根本的)に改めねばならないのではないかと考える。
 私たちが身体と考えるものの観念は、圧倒的に視覚によって形成されたものである。視覚の世界では、身体は物のあいだの物として、明瞭な輪郭と、皮膚という、まごうかたない境界をもったものとして、あらわれている。また視覚による身体表象は、他の感覚をも支配し、方向づけている。例えば、目をつぶって身体感覚を感じている時にも、視覚によって形成された身体表象は、身体感覚の部位の規準となっているのである。けれども、他の感覚、例えば触感によって形成された身体表象は、必ずしも視覚によるそれとは同じものではないのである。
 おそらく誰にも経験のあることであろう。眠りに落ちていく時の、半覚半睡の状態において、身体の感覚が妙に膨張して、ふだんよりも厚みをおびて感じられることがある。その場合、視覚による身体表象のコントロールが失われて、触覚もしくは体感自体による身体のイメージがあらわれているものと考えることができる。すなわち人間の身体というものは、必ずしも視覚によって限られた範囲に、とどまっているものではないのである。
 人間の視覚、または一般に視覚に代表される認識能力は、優れた芸術家に喩えることができる。本来、感覚の茫漠とした広がりからなる人間の身体を、あたかも形のない素材から、彫刻家が彫像を彫りだすように、余分なもの、不要なものを削りとって、現にみるような人間の身体表象をこしらえあげているのである。
 私たちが手で物に触れる場合、視覚には皮膚と物の表面とがぶつかりあって、それ以上は相互に侵入しえないものと映る。視覚にとっては、この接触の認識こそが、まず一番に重要なのである。それによって、物からもたらされる、生体への危険を避けることができる。それに対して、物との接触をもっぱら触覚によって行なってみると、そこには視覚の場合のような明確な境界はあらわれてこない。私たちは、指先の感覚が冷たいとは言わずに、物が冷たいと言う。すなわち、そこでは感覚と物とは、相互に浸透しあっているのである。いわばそこでは、私の身体は物の中へまで入りこんでいるのである。
 このように、人間の身体表象は、視覚を中軸とする認識作用によって機能的に創りあげられた、一種の芸術的加工品であり、インド哲学でいう Maya(マーヤー:幻術、幻影)にほかならない。もちろん、この機能美をもって構成された世界は、それなりに芸術的に完成された世界であるから、それに対していたずらに不平や不満を言うべきではないが、それが美しいイリュージョン(錯覚)の一種であることに違いはないのである。
 本来人間の素材的な身体は、視覚にそれと映る範囲以上に、さらに広がった感覚の field(フィールド:場)をなしているものと考えられる。場と考えるべきであるのは、それが物の中へも浸透していくからである。またそれは、同時に力の場でもあるから、あわせて sensory-kinetic-field(S・K・F)と名づけておくのがよいであろう。この感覚・運動場(センソリー・カイネティク・フィールド)こそが、人間の本来の身体の、茫漠とした広がりの範囲であると考えられる。
 さて、そこで占いにおいて、指先がカードに触れていると感じるものは、じつは私の本来の身体であるS・K・Fの中に、カードそのものが包みこまれていることにほかならない。触覚が対象を読みとるということは、これは視覚にしたところで、もともとは触覚から発達したものであり、神経細胞の上に写されるパターンを読みとるという点においては、触覚とのあいだに単に精粗の差があるにすぎないことを考えれば、特に異とすることではないであろう。タロットやE・S・Pカードも、このS・K・Fの中に包みこまれれば、表も裏もなくなってしまうのである(そこで後者はむしろS・K・Fカードと呼ぶべきかもしれない)。
 意識の機能的世界では、S・K・Fの広がった、希薄な部分の認識は、必要としないのであるから、その部分はあってもなきがごときものである。このことを譬えによって、解りやすく説明してみると、我々の住む地球は、その重量のほとんどを占める固体部分と、水と大気とからなっている。いま、月ほどの大きさの天体が地球に衝突するものとすると、地球の運命を考えるにあたって、大気や水の存在はなきに等しいものであろう。けれども小さな隕石ならば、大多数は大気が燃やしつくして、我々の頭に当たらずにすむ。この場合では、大気の存在は大きくものをいっている。
 人間の身体も、巨視的にみる時と、微視的にみる時と、異なった様相を呈するであろう。生命の日常的な活動においては、視覚にとらえられた身体表象が、環境に対して機敏な対処をなすために、もっとも適したものといえる。けれども、環境の微視的な影響、相互作用を考える時には、その身体認識はあまりに大まかで、役立たないことがあるであろう。しかも、潮汐がわずかずつではあっても、その摩擦力によって地球の自転に影響を及ぼし、大気がその温室効果によって、極地の氷を溶かしたりするように、人間の身体の微視的部分の影響も、長い目でみて無視するわけにはゆかないものがあるであろう。
 意識によっては、しかし、身体のこの微視的な部分、S・K・Fの辺縁部は、余剰物として切り捨てられているので、通常はとらえることが出来ないのである。それに対して、無意識の認識においては、幸いなことに、この通常の身体の範囲から広がった希薄な部分(狭義のS・K・F)が、有力な情報源として、有効に利用されているものと考えられる。そこで、無意識を経由して、その情報とのつながりを図ればよいわけであるが、残念なことに、そこからの情報は無意識の世界にとどまって、間接の形でしか意識の領域には伝達されないのである。もっとも、ソ連の超能力者のように、指先で直接文字を読みとったり、物を宙に浮かせたりする、例外的なケースがある。
 普通の人は、超能力者のように、半ば意識的かつ集中的に、S・K・F(狭義の)を駆使するわけにはいかないであろうが、占いに必要な程度の無意識の読みとりや、偶然をコントロールするくらいの作用は、自然的S・K・Fの範囲で比較的容易に発揮できることであろう。逆に言って、もし超能力者のように、無意識との直接の円満なコンタクトが開けるならば、占いのような間接的な方法によって、手間をかける必要がなくなるわけである。

 2.予知は可能か  

 予知のような微妙な問題をあつかう前には、それにまつわるさまざまな予断や誤解を、まず取り除いてかからねばならない。このやっかいな作業を、先ず行なっておかないと、いかに科学的なみせかけを持った研究でも、まったく砂上の楼閣のように、足もとからもろくも崩れてしまうことであろう。とりわけ占いは、予知との関連が昔から度しがたく信じられていて、予知といえば、だれでも預言者と並んで、ノストラダムスを始めとする、占い師を思い浮かべることであろう。この予知に対する盲目的信仰が、占いの本質に対する認識を曇らせているばかりでなく、場合によっては占いの誤まった応用につながってしまうのであるから、ここで予知について、特にその可能性の問題を、探ってみたいと思う。
 予知について考える場合に、先ず誤解のないようにしたいのは、人間の性質は、たえず、意識的にせよ、無意識にせよ、未来についての理知的extrapolation(推論)を行ないつつ、生存している存在であるということである。未来についての何らかの見通しをもたなければ、人間はとても、一瞬たりとも安心して存在していることは出来ないであろう。ふだんはその未来の予測は、比較的安定した環境の中では、習慣的に無意識となった、パターン化した予測によってなされている。昼時に空腹を覚えれば、次にどう行動したらよいかということは、だれにもほとんど苦もなく決定されることで、その判断の過程については、意識することさえまれであろう。
 それに対して、少し複雑な状況の中では、未来の予測の過程と、その判断の成りゆきが、明白に意識にあらわれて、はじめて予測とか判断ということが、重みをもってあらわれてくる。こうした理知的、経験的extrapolationによる未来の予測は、本来の意味の予知とは、厳密に区別されねばならない。超心理学等が対象とすべき予知とは、過去および現在において、いかなる推論の成り立つ根拠が認められない、という前提条件のもとで、未来においてすでに存在している何らかの状態や出来事を、あらかじめ見てしまうということである。このことが可能であるかどうかが、本来の予知の問題であるといえる。こうした厳密な定義から始めていかないと、科学者といわれる人たちでさえ、つい混乱におちいってしまうのである。
 予知について、近年出されたいわゆるnew scienceのmanifestoである、David LoyeのThe Sphinx & the Rainbowもまた、この欠陥をあからさまに露呈している本であるといえよう。この本を読んでいて、いらいらした気持にさせられるのは、なんらの確固たる証明もなく、あらかじめ予知というものが、確立された事実であるかのように、あつかわれていることである。その論拠として出されているのが、超心理学の実験はひとまずおくとしても、たんなるご愛嬌とは思われない、ノストラダムスや、リンカーンの夢であるというのは、あきれるほかはないのである。Lincolnが、暗殺される前に、自己の死の夢を見たということは、事実であるかないかはともかく、おそらく事実であったにせよ、それをもってただちに予知の例証とする態度は、とても冷静な批判力を持った科学者のものとは思われないであろう。せいぜい、ひとつの、可能性の薄い説明原理にすぎないからである。
 とりわけ、人間の無意識の領域、銀河系の星の数ほどあるとされる、莫大な脳細胞の可能性を考えるならば、そうした短絡的思考がnew scienceであるならば、new scienceも底がわれているといえよう。人間の無意識の領域にひそんでいる、それ自体は意識されない特別な知覚能力、厖大な情報収集と処理の能力を考えるならば、表面奇跡的、驚異的に思われる未来の推測も、必ずしも予知の仮説を持ちださなくても、充分に説明できることであろう。ノストラダムスや、リンカーンの夢は、それなりに興味深い対象であるが、それらをもって科学的な理論の根拠とするわけにはいかないであろう。
 それらに対して、超心理学の行なった予知の実験は、広く予知の能力の実在を証明したものとみなされているが、これについては、超心理学はいまだ新しい科学であって、自身の用いている方法や原理に対して、いまだ充分な吟味と批判のなされていない段階であるから、その結果を額面どおりに受けとるわけにはいかないのである。例えば、telepathy, clairvoyance, psychokinesis, precognition などといった精神現象を、実験においてどのように区別できるのかといった問題が、いまだ充分に解決されていないし、方法論上の問題でいえば、実験の操作上つねにあらわれてくる、randomnessという考えが、実験のなかでどのような意味を持つのか、ということに対しても、ほとんど無反省であるし、また超心理学ではほとんど無視される、その研究がおこたられている、占いとの関係においても、いわば占い効果というようなものが、実験に影響している可能性も、否定できない。
 そこで予知能力を自明の前提として、科学者がすき放題の理論をふりまわし、教条tenetなるものをばらまくというのは、ほとんどfunny science(いかれた科学)と言うほかはないであろう。他山の石ではあるが、西欧の科学者は、I-ChingやYogaなどをもちあげて、はしゃぐまえに、西洋思想のすぐれた伝統である、批判精神を正しく受け継いでもらいたいものである。
 本来の意味の予知は、現在及び過去における、推論のなんらの根底もなく、未来を前もって見て(知って)しまうということであるから、この考えの当然の前提として、あたかもこれから映写される前のフィルムのように、未来が決定されて、すでに存在しているのである、ということになる。すなわち予知の能力の存在は、必ず決定論の上に立たねばならないはずである。ところが西洋には、キリスト教の教義に基づく、妙な思想的伝統があり、未来は決定されているかいないか、いずれにせよ未来に向かって行為する人間の活動そのものは、自由でなければならないとするのである。さもなければ、アダムが禁断の木の実を食らい、楽園を追放されたことが、アダムの自由な意志から出たことではなく、あらかじめ神の描いたシナリオに従ったに過ぎないことになり、人類の原罪のドグマが瓦解してしまうわけである。そこで、このLoye氏は、未来は決定されているにしても、人間の行為は自由でなければならないとする、西洋人の度しがたい良心のようなものにこだわって、まったくSF的な発想としては楽しむことができるが、科学的理論としては一顧だに与える価値のない、ad hoc な多元的未来の仮説をもちだしたりしているのである。人間の意志の自由と、決定論との両方をたてようとすることは、Leibniz以来の西洋思想の伝統であるが、それはまったく一宗教のドグマに要請されたものであって、科学的にはなんの価値もないのである。
 そこで予知を認めるのならば、それは同時に過去はもとより、現在・未来の人間の行為は、すべて決定されていると見なければならない。これはむしろ、現代物理学の不確定性理論などとは、矛盾した考えであるといえる。素粒子のレベルでは、未来は確率的にしか決定されないのである。しかしマクロの世界では、厳然とした因果律による決定論が成立している。たしかに決定された過現未を生きることは、必ずしも悪いことではなく、ニーチェはその考えの上に、永劫回帰の森厳な思想をうちたてている。人生があらかじめシナリオとして定まっているということは、不幸な人には慰めとなり、また生命感にあふれた人には、冒険家によく見られる、魅力的なfatalismとなるであろう。そこで予知が可能であることが証明され、未来が決定されていることが明らかにされるならば、当然人間の思想は、そうした方面へ傾いてゆかねばならない。
 けれども、すでに予知ということの定義において、明らかに見てとれるように、予知の能力の存在を証明することは、死後の存在を証明することと同様、原理的に不可能であるというほかはない。なぜかといえば、過去・現在における、あらゆる理知的・経験的推論の成り立つ根拠のないところで、という条件が、すでに実現不可能な条件であるからだ。その推論の根拠の中には、telepathyやclairvoiyanceのような、いわゆるE・S・Pがふくまれるので、かりに意識的レベルでこの条件が成り立ったとしても、無意識のレベルでのE・S・Pを排除することは、まず不可能であるからだ。認識不可能なものは、各自がそれを存在するとも、存在しないとも、考えることは勝手であるが、まず認識の範囲内で現象を説明することが、科学者をはじめ、批判精神の持ちぬしの行うべきことであろう。
 そもそも未来をフィルムか青写真のように、すでに出来あがったものと考えることは、時間についての、ある錯覚的考えが横たわっているかもしれない。ベルグソンはそれを、空間化された時間と呼んでいるが、私たちは過去・現在という考えを、頭の中に持っているため、それをそのまま空間的に延長して、未来というものの存在をGestalt的に作りあげているのかもしれない。そのじつ、未来などどいうものは、どこにも存在しておらず、ただ一瞬一瞬において未来を創造していく、生命の働きがあるばかりかもしれない。存在しない未来は、もちろん本来の意味で、予知することなどは不可能である。
 しかし、前に述べたように、人間精神は、たえず未来についてのextrapolationを行ないつつ、未来ひいてはこの現在を予測していくのであるから、時には未来が、みずからが描いたとおりの、青写真にしたがって実現されていくこともあるであろう。そして人間の意識は、たえずそのことを意識しているわけではないので、あたかもそれが宿命的であるような、あるいはdeja-vue的な、感覚にとらわれることが、しばしば起こるわけである。もちろんこれらのことは、Loye氏の多元的に決定された未来におとらず、一つの仮説に過ぎないのであるが、与えられた認識の範囲内でたてられた仮説であるとは、言うことができよう。



Title:占いとは何か
著者: 脩 海
copyright:2024 shu kai
Up: 2024.4.27;4.30
入力:マリネンコ文学の城