〜オペラ「ホフマン物語」と3つの短編〜



ホフマン物語 ジャック・オッフェンバック/作曲 (1881年)
大晦日の夜の冒険 E.T.A.ホフマン/作 (1815年)
顧問官クレスペル E.T.A.ホフマン/作 (1816年)
ペーター・シュレミールの不思議な物語 アーデルベルト・フォン・シャミッソー/作 (1814年)
 オランピアの幕の原作「砂男」はこちら


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<あらすじ>


 天才詩人ホフマンは歌劇場にかつての恋人、歌姫ステラが出演しているのを見て衝撃を受けた。今なお魅力的なステラに心は平静ではいられないが、彼女は人の心を奪っては引き裂いてしまう女。
 そんなホフマンの心をよそに、二人の復縁を邪魔しようとするおなじみの悪魔と神がホフマンの前に現れた。悪魔とは、ホフマンの不幸が大好きでステラに横恋慕する顧問官リンドルフ。そして神とはホフマンを愛し、詩人として大成させようとする芸術の女神ミューズ。
 気まぐれで浮気なステラはよりを戻そうとしてホフマンに手紙を書いたが、リンドルフがステラの召使を買収して手紙を奪い取ってしまった。
 そしてミューズは、今夜こそホフマンに自分かステラかどちらかを選ばせようと思い、親友ニクラウスに姿を変えて、ホフマンに付き添う事にした。
 そんな事とは露知らないホフマンはルーテル酒場に現れ、酒の力を借りて憂さを晴らそうとしたが、かえってステラへの思いがあふれ出てしまった。そしてついには自ら進んで自分の過去の恋の物語…1人の女(ステラ)の中に宿る3人の女との恋物語…をリンドルフやニクラウスの前で学生たちに語り始めた。

 一人めの女の名前はオランピア。スパランツァーニ教授宅の窓辺で彼女を見て一目惚れしたホフマンは彼女がみんなにお披露目されるパーティーに駆けつけた。そこで晴雨計売りのコッペリウスに「見たいものなら何でも見える」眼鏡を売りつけられ、それを通してますますオランピアに惚れ込んでしまった。
 オランピアは何を言っても「はい、はい。」としか言わないのだが、ホフマンは彼女が自分のすべて受け入れてくれていると思い込み、有頂天になった。
 しかしオランピアはスパランツァーニ教授とコッペリウスが共同制作した自動人形で、この二人の金銭トラブルから、怒り狂ったコッペリウスにばらばらに壊されてしまった。

 二人めはアントーニア。亡き母から美声と才能を受け継いだアントーニアだったが、恐ろしい胸の病をも受け継いでいた。これ以上歌うと死んでしまうと思った父親のクレスペルは、アントーニアに歌う事を禁じ、詩人で音楽家の恋人ホフマンを遠ざけるために引越しをした。しかしホフマンは新しい住居を探し出し、アントーニアに会いにやって来た。
 ホフマンの訪れと共に歌への想いがよみがえったアントーニアだったが、病気を知ったホフマンもまた彼女に歌う事を禁じてしまった。
 愛する父親や恋人のためにこれからは決して歌は歌うまいと決心したアントーニアだったが、そこへ母親を死に導いた医者ミラクルが現れ、アントーニアに歌うように命じた。アントーニアが抵抗すると、ミラクルは母親の肖像画から亡霊を呼び出し、母親の亡霊はアントーニアに歌いなさいと命じた。ついにアントーニアは歌いだしてしまい、倒れてそのまま息絶えてしまった。

 3人目はジュリエッタ。高級娼婦であるジュリエッタは大金持ちのシュレミールをパトロンにして華やかなサロンを開いていた。ジュリエッタは美しいが恐ろしい女で、彼女に夢中になった男から影を奪い取り、その影と引き換えに悪魔ダペルトゥットから宝石を手に入れ、その宝石でますます男を惹きつける魅力を増して行くのだった。
 そうとは知らないホフマンはジュリエッタのサロンを訪れた。ダペルトゥットは次なる獲物はホフマンだとし、彼の鏡像(鏡に映る姿)をとってこい、とダイヤモンドをちらつかせながらジュリエッタをけしかけた。
 ジュリエッタはさっそくホフマンを誘惑し、ホフマンはたちまち彼女の魅力に囚われてしまった。そしてねだられるままに鏡像を与えてしまい、そればかりか、ジュリエッタにうまくけしかけられて、決闘で恋敵シュレミールを殺してしまった。
 ホフマンはこれでやっとジュリエッタは自分のものと思ったが、ジュリエッタは嘲りの笑いを残し、ダペルトゥットのゴンドラで愛人と共に去って行った。
 
※ シューダンス版では、幕の順序は、オランピア、ジュリエッタ、アントーニアになっています

 こうしてホフマンは失恋話をすべて語り終えたが、その頃にはすっかり泥酔していた。そこへステラが現れたが、ホフマンは焦点の合わない目でステラを見て、「あなたが誰だか思い出せない。オランピア?…壊れた…アントーニア?…死んだ…ジュリエッタ?…地獄に落ちた…とステラにはわけのわからないことを言い始めた。
 そんなホフマンの態度に立場を失ったステラは表情を凍りつかせたが、すかさずリンドルフが救いの手を差し伸べた。それを見たホフマンは言った。…あなたがもしステラなら、僕はあなたには似合わない。ステラにお似合いなのは金も権力もある悪魔のような男なんだ…。ステラはリンドルフの腕を借りて去って行った。
 そこへ元の姿に戻ったミューズが現れ、生身の男である事はやめ、詩人として甦れ、とホフマンを祝福した。「恋によって人は賢くなる、強くなる」という合唱を聞きながら、ホフマンは詩人として甦り、一人立ち尽くすのだった。
(終わり)
※三つの短編はMIYU’sコラムでご紹介しています。


<詳しい物語>


プロローグ (ニュルンベルクのルーテル酒場)


 今宵歌劇場ではミラノから来た美貌の歌姫ステラがデビューしている。隣にあるルーテル酒場では幕間に訪れる客をもてなす準備に大忙しだった。そこへ酒の精たちの合唱の中、酒樽から芸術の女神ミューズが現れた。
 ミューズはこの酒場の常連客ホフマンを愛し、その才能を高く買っており、彼を詩人として大成させようとしている。しかし永遠の恋人ステラが目の前に現れるや、ホフマンはのぼせあがってしまい、芸術を忘れ去ってしまうのだ。
 そこでミューズは今夜こそホフマンに自分かステラかどちらかを選ばせようと決心し、ホフマンをうまく酔わせるようにと、酒の精たちに命じた。そして自らはホフマンに付き添うべく、彼の親友ニクラウスに姿を変えた。 
 と、そこへ悪魔の主題と共にホフマンにとって悪魔とも言うべき人物、顧問官リンドルフがステラの召使アンドレスを突っつきながら現れた。ステラに横恋慕するリンドルフはアンドレスを詰問した挙句、ステラが誰かに手紙を出そうとしている事を知り、アンドレスを買収して手紙を奪い取った。
 その手紙はホフマンに宛てたものであり、「あなたを苦しめたとしても、愛に免じて許してちょうだい。忘れないで、忘れないでね。」と書いてあった。そして部屋の鍵まで同封してあったのだ。
 先ほどステラに肘鉄をくわされたばかりのリンドルフは、自分ではなくのんだくれ詩人ホフマンが色男役に選ばれた事にむっとしたが、こうなったら何としてでもステラをものにしてやる、と息巻いた(恋に悩む男の役は)。そしてホフマンとステラの復縁を邪魔するべく、ルーテル酒場に張り込んで事の成り行きを見守る事にした。

 やがて幕間となった。学生たちが酒を求めてなだれ込み、今宵の歌姫ステラを賛美しながら乾杯した。少し遅れてホフマンも親友ニクラウスと共にやって来たが、かなり酔っている上に機嫌が悪かった。歌劇場にステラの姿を見たホフマンの心には、恋心がよみがえると共にステラに振り回された苦い日々もまたよみがえったのである。
 ホフマンは気晴らしに酒を飲んで陽気に騒ごうと言い出し、学生たちの求めに応じて滑稽な道化師クラインザックの歌(昔アイゼナックの宮廷に…)を歌い始めた。しかしそれはいつしか、ステラの美しさを賛美し、恋を告白する歌となってしまった。
 学生たちはホフマンは恋をしていると騒ぎ出し、ホフマンはむきになって否定しようとしたが、そこへリンドルフが割り込み、嫌味な口調でホフマンをからかった。
 悪魔とも言うべきリンドルフの登場にいらいらしたホフマンは、なだめようとした学生たちの恋人を侮辱し、怒った学生たちはそれなら君の恋人はどうなんだ、とホフマンに詰め寄った。
 ホフマンが言うには、彼の恋人とは…3人の女が一人になった女…1人でありながら3つの魂を宿す女であるらしい。その女との恋物語が聞きたいかと問うと、学生たちは、ぜび話してもらおうじゃないか、とすっかりその気になった。そして次の幕が始まったにもかかわらず、ホフマンは自分のかつての摩訶不思議な3つの恋の物語を語り始めた。



第一幕 (物理学者スパランツァーニの書斎、パリ〜またはローマ〜)


 大学生だったホフマンは物理学のスパランツァーニ教授宅の窓辺で教授の娘オランピアの姿を見かけ、夢中になってしまった。今日は彼女のお披露目パーティーの日。オランピアに会いたくてたまらないホフマンは早々と教授宅を訪れた。
 オランピアは書斎のカーテンに囲まれた小部屋にいたが、教授が召使のコシュニーユとパーティーの準備に席をはずした隙に、ホフマンはカーテンの隙間からオランピアをのぞいてうっとりしていた。(ああ、二人で生きて)
 そこへホフマンの親友ニクラウスが現れ、踊ったりしゃべったりして人間のふりをする自動人形の歌を歌ってホフマンに警告を発したが、のぼせあがったホフマンには、何でニクラウスがそんな歌を歌うのか、さっぱりわからなかった。(七宝細工の目をした人形)
 そんなホフマンの前に悪魔の主題と共に晴雨計売りコッペリウスが現れた。コッペリウスはコートのポケットにたくさん商品を入れており、それらをホフマンにを売りつけようと、あれこれと商品説明を始めた。(わしの名はコッペリウス)
 あまりにしつこく勧めるので、ホフマンは「見たいものなら何でも見える、魂のないものもあるように見える」という眼鏡をかけてみた。そうすると、オランピアがより一層美しく見えた。うっとりしてしまったホフマンはコッペリウスの言い値でその眼鏡を買ってしまった。
 そこへスパランツァーニ教授が戻って来た。教授とコッペリウスは何やら取引をしてうまく話がつき、笑顔で握手をしていたが、ホフマンには何の事やらさっぱりわからなかった。
 実はオランピアはスパランツァーニ教授とコッペリウスが共同で作った自動人形なのである。エリアスという商人の倒産で大損害をこうむったスパランツァーニ教授は、コッペリウスに、君の持分を買い取りたいと持ちかけてエリアス振り出しの小切手で支払い、オランピアの権利をすべて手に入れた上に、うまく不渡りの損害をコッペリウスに押し付けたのであった。

 さて、いよいよオランピアのお披露目パーティーが始まった。多くの招待客がつめかけ(ほんと、これ以上豪華な夜会に)、その招待客たちの前でオランピアは澄み切った美しい声で歌を歌った(生垣には小鳥たち)
 途中で何度かぜんまいが切れ、音程が狂ってへたり込みそうになったオランピアであったが、その度に教授とコシュニーユがぜんまいを巻き、何とか最後まで歌い切った。
 その様子からほとんどの客たちはオランピアが自動人形である事を察したが、コッペリウスの眼鏡をかけたホフマンは全く気がつかなかった。
 客たちは夜食をとりに別室へ移動したが、ホフマンはオランピアのもとに残って愛をささやいた(やっとみんな行ってしまった)。オランピアは「はい、はい。」としか言わないのだが、ホフマンは彼女が自分のすべてを受け入れてくれたと思い込み、愛の喜びに有頂天になった。
 その時、突然オランピアは制御が狂ったのか、ものすごい速さで駆けて行ってしまった。それにもかかわらず、ホフマンは「彼女に愛された!」とうっとりしてしまい、目を覚ませ、というニクラウスの忠告も全然耳には届かなかった。
 ホフマンとニクラウスがオランピアの後を追って行ってしまうと、誰もいなくなった部屋にコッペリウスが現れた。エリアスの小切手を現金化しようとして不渡りである事を知ったコッペリウスは怒り狂い、自分をだましたスパランツァーニ教授に復讐しようと、物影に隠れて機会をうかがった。 

 やがて客たちも戻って来て、舞踏会が始まった。眼鏡をかけたホフマンはオランピアの手をとって有頂天になって踊ったが、そのうちオランピアはものすごいスピードでぐるぐる回りだし、ついていけなくなったホフマンは放り出されて床に叩きつけられた。そしてコッペリウスの眼鏡は壊れてしまった。
 スパランツァーニ教授は召使のコシュニーユに命じて暴走したオランピアを小部屋に連れて行かせたが、小部屋に入るや否や、コシュニーユは「誰かいる!」と悲鳴をあげて飛び出して来た。
 スパランツァーニ教授が駆けつけると、コッペリウスがオランピアをばらばらに壊していた。スパランツァーニ教授はコッペリウスに飛びかかり、二人はお互いを「悪党、泥棒!」と罵りあいながら取っ組み合いの大げんかになった。
 ホフマンはと言えば、「は、は、は、たまげたろうね、自動人形に恋してたなんて」という招待客の大合唱の中、真っ蒼になって床にへたり込んでしまった。



第二幕(ミュンヘン、クレスペルの家)


 オランピア事件の後、ホフマンにはアントーニアという美しい声と音楽の才能を持った恋人ができた。アントーニアの声と才能は歌手であった亡き母親から受け継いだものであったが、不運な事に、アントーニアは母親から死に至る胸の病気も受け継いでいた。
 歌うたびにアントーニアの目が異様に輝き、顔が赤い炎に染まるのを見た父親のクレスペルは、これ以上歌ったら死んでしまうと思い、アントーニアに歌う事を禁じた。
 そしてアントーニアに作品を捧げては歌わせる詩人で音楽家の恋人ホフマンから娘を引き離すため、住み慣れた土地を離れてミュンヘンへやって来たのであった。 
 アントーニアは従順に父親に従いはしたが、歌とホフマンへの思いは忘れがたく、クラヴサンを弾きながら引き離された悲しみを歌っていた。(逃げてしまったの、雉鳩は)
※ クラヴサン…チェンバロのフランス名。ピアノが発明される前に人気のあった撥弦楽器。
 そこへクレスペルがあらわれて、命に差し障るからこれ以上歌わないように、とアントーニアに注意した。アントーニアは父親に従い、そっと自分の部屋へ戻って行った。
 クレスペルは下男のフランツに「誰が来ても家に入れてはならないぞ。特にホフマンは絶対に入れてはならんぞ。」と言いつけて外出したが、年寄りのフランツは耳が悪くてろくろく聞こえておらず、適当に「はい、はい。」と返事をしていた。
 そしてフランツは口うるさいクレスペルがいなくなったので、一人楽しく歌い始めた(朝から晩まで働きどおし)。ホフマンとニクラウスはクレスペルの家を探して歩き回っていたが、フランツの声が聞こえたので、やっとクレスペルの家を探し当てた。クレスペルの命令など何も聞こえていなかったフランツはホフマンを歓迎し、アントーニアを呼びに行った。
 ホフマンはアントーニアに会える喜びに震える思いだったが、ニクラウスはホフマンの心にはアントーニアしかいないのを思い知り、さびしげに姿を消した。
 アントーニアとホフマンは再会を喜んで抱き合い、変わらぬ愛を誓い合った。ホフマンはアントーニアが突然いなくなったわけを聞こうとしたが、それはアントーニアにもわからず、何度訊ねてもお父様は教えてくれない、というばかりだった。アントーニアはクレスペルから歌う事を禁じられたとも言ったので、ますますホフマンはわけがわからなくなった。
 そして二人は仲良くホフマンが作った歌(愛の歌が飛び立つ)を歌ったが、クレスペルが帰って来る物音がしたので、アントーニアはホフマンに、一緒に来て、と言いながら自分の部屋へ戻って行った。しかしクレスペルの謎めいた行動の理由を知ろうとするホフマンは、そのまま物陰に隠れてクレスペルの様子を探る事にした。

 クレスペルは、人の気配がしたが、まさかホフマンが来ているんじゃないだろうな、とフランツに訊ねた。しかしフランツはそれには答えずに、医者のミラクル博士の来訪を取り次いだ。
 ミラクル博士は医者とは名ばかりで、アントーニアの母親を死に導いた悪魔なのだ。クレスペルは、追い返せ、とフランツに命じたが、悪魔の主題と共にミラクル博士はどこからともなく中へ入って来た。
 そしてアントーニアを診察せねばならん、と言ってミラクル博士がアントーニアの部屋に手をさしのべると、部屋の扉はひとりでにあいた。そしてミラクル博士はアントーニアを引き寄せるような手技をし、誰も座っていない椅子にあたかもアントーニアが座っているようかのように診察を始めた。
 その様子を見たクレスペルとホフマンはぞっとした。ミラクルは博士は、よくない兆候が現れとる、と言いながらも、アントーニアに歌う事を命じた。すると、アントーニアの部屋から歌い声が響いて来た。
 ミラクル博士はその声を聞きながら言った…アントーニアには死の兆候があらわれとる、惜しい事だな、こんな美しい獲物を死なせるなんて…。
 クレスペルは逆上してミラクル博士を追い出そうとしたが、博士は、「わしの薬を飲めば治るぞ。」と薬瓶を手にがちゃがちゃいわせながらクレスペルに迫って来た(危険を払いのけるには)
 クレスペルはようやくミラクル博士を外に追い出して扉を閉めたが、博士は今度は壁から出現し、「この薬を飲めば治る」と無気味に繰り返した。クレスペルは必死の思いで自分もろともミラクル博士を扉の外へ押し出した。
 誰もいなくなった部屋に、事情を知ってショックを受けたホフマンが物陰から現れた。そこへアントーニアもやって来たが、ホフマンはクレスペルと同じように、これ以上歌うのはやめてくれ、そして結婚して平凡で幸せな家庭を築こう、とアントーニアに言った。
 父親ばかりか最愛のホフマンにも歌う事を禁じられたアントーニアは失望したが、歌はやめる、とホフマンに約束した。ホフマンは安心して帰って行った。

 一人になったアントーニアはがっくりと椅子に腰をおろしたが、そこへ突然ミラクル博士が現れ、「その若さで栄光をすべて捨てるのか、平凡な家庭に閉じ込められて満足できるのか。さあ、歌え!」と悪魔のようにささやいた。アントーニアはホフマンとの約束を守ろうとミラクル博士に反抗し、部屋にかかっている亡き母親の肖像に助けを求めた。
 するとミラクル博士は肖像画から母親の亡霊を呼び出した。母親の亡霊はアントーニアに歌う事を命じ(愛しい娘よ、昔のように)、ついにこらえきれなくなったアントーニアは歌いだしてしまった。
 歌ううちに眼がくらみ、体が熱くなったアントーニアは倒れてしまった。すると母親の亡霊は元の肖像画に消え、ミラクル博士も高笑いしながら消えた。
 クレスペルがびっくりして飛んで来た。アントーニアは、お母様が呼ぶの、と言い、ホフマンの作った愛の歌を歌おうとしたが、それも切れ切れとなり、ついに息絶えた。
 そこへホフマンとニクラウスが飛び込んで来た。クレスペルはホフマンが歌わせてアントーニアを死なせたのだと思い、ナイフでホフマンに切りかかったが、ニクラウスに止められた。
  ホフマンはアントーニアを抱きしめて、医者を呼べ、と叫んだ。すると「医者ならおるよ。」と言って壁からミラクル博士が現れ、アントーニアの脈をとり、死を宣言した。ホフマンはアントーニアの遺体にすがって泣いた。



第三幕(ヴェネチアの運河に面した大邸宅)


 高名な詩人となったホフマンはニクラウスと共に娼婦ジュリエッタのサロンを訪れた。ゴンドラに乗ったニクラウスとジュリエッタは恋を賛美する舟歌(美しい夜、おお、恋の夜)を歌い、サロンの中には甘美な恋の雰囲気が満ち溢れていた。しかし、アントーニアをなくして以来恋に興味を失ったホフマンは、恋なんてつまらない、と酒を飲んで騒いでいた。(優しく夢見る恋なんて間違い)
 そこへジュリエッタのパトロン、シュレミールが登場した。嫉妬深いシュレミールはジュリエッタが客たちと楽しそうにいている事に機嫌を損ね、周囲に当り散らした。
 雰囲気が悪くなったのを察したジュリエッタはそろそろ賭博の時間だから、と皆を別室へ誘導した。
 ニクラウスは、金もないし、いかさまに違いないから賭博はやめようと忠告したが、もともと賭博が目的でやって来たホフマンはやる気充分で賭博室へ入って行った。

 そこへダペルトゥット船長の乗ったゴンドラが着いた。悪魔の主題と共に上陸した船長は巨大なダイヤモンドの入った指輪を取り出して言った。…これで女もひはりも引き寄せられるぞ、フッ、フッ、フッ…(きらめけ、ダイヤモンドよ)
 女とは、ジュリエッタ、そしてひばりとはホフマンの事なのだ。ダペルトゥットはジュリエッタと共存共栄の悪魔で、ジュリエッタに宝石を与え、引き換えにジュリエッタが男から奪った影を我が物にしているのである。
 ダペルトゥットの今度の獲物はホフマンだった。そしてねらっているのは、影の中でも鏡に映る影、すなわち鏡像であった。
 ホフマンの一つ前の獲物はシュレミールで、彼はジュリエッタを自分のものにするのと引き換えに影を差し出してしまったのだった。
 それからというもの、ダペルトゥットとジュリエッタは大金持ちのシュレミールの屋敷でサロンを開き、売春や賭博で儲けてきたのだが、そろそろインチキな商売も危うくなって来た。
 そこでダペルトゥットは今の商売を閉じて引越そうとしているのだが、ジュリエッタが自分のものだと思っているシュレミ−ルが許すわけがない。そこでダペルトゥットは新たなる獲物のホフマンに、邪魔なシュレミールを殺させる事を思いついた。
 宝石のきらめきに引き寄せられるように、ピティキナッチョを連れたジュリエッタが現れた。ダペルトゥットはジュリエッタに、ホフマンの鏡像を盗る事と、ホフマンにシュレミールを殺させる事をそそのかした。
 宝石に眼が眩んだジュリエッタは、嫉妬深くてうっとうしいシュレミールを殺させる事も、自分に関心を示さないホフマンの心と影を奪う事も二つ返事で引き受けた。

 ジュリエッタはさっそく獲物であるホフマンを求めて賭博室へ入って行ったが、ホフマンは胴元のシュレミールにすっからかんにされているところだった。ついに一文無しになったホフマンは機嫌を損ねて部屋を出た。
 ジュリエッタはホフマンを追って行き、帰らないでと引き止めたが、ホフマンはあなたを買うお金は残っていませんからね、と毒舌をあびせた。 
 ここぞとばかりにジュリエッタはホフマンの言葉に傷ついた薄幸の女性を装い、涙を浮かべた。するとホフマンはあっけなくジュリエッタの罠にひかかってしまい、ジュリエッタを抱きしめ、僕があなたを救ってあげる、とすっかりのぼせあがってしまった(陶酔に魂が燃える)
 手際よくホフマンを篭絡したジュリエッタは、いよいよダペルトゥットの依頼の実行に入いり、ホフマンをそそのかした…シュレミールが部屋に鍵をかけ、私を閉じ込めていじめるの、助けて!シュレミールは殺しでもしない限り、あの鍵を手放す事はないでしょうけど、お願いだから何とかしてあの鍵を奪ってちょうだい!…
 更に少しの間でもあなたと離れているのはさびしいから、あなたの鏡に映る姿(鏡像)を私にちょうだい、とホフマンをくどいた。(今日は涙、明日は天国)
 おかしなものを欲しがるものだ、と思いながらも、のぼせあがったホフマンはジュリエッタに鏡像を与える事に同意した。ジュリエッタはホフマンに熱く接吻し、鏡に手を伸ばした。すると鏡像は鏡から抜け出し、ジュリエッタの腕の中に消えて行った。
 そこへダペルトゥットがピティキナッチョやシュレミールを連れて現れた。心配したニクラウスもやって来た。
 ダペルトゥットは、逢引現場を押さえたと叫び声を挙げ、嫉妬深いシュレミールをけしかけた。そして、顔色が悪いですぞ、とホフマンの前に鏡を差し出したが、鏡にはもはやホフマンの姿は映っていなかった。ホフマンは気絶しそうになった。
 ジュリエッタはホフマンの鏡像をダペルトゥットに渡し、ダイヤモンドの指輪を受け取った。今やジュリエッタが宝石欲しさにホフマンをだました事はあきらかだった。
 しかしそれがわかってもなお、ホフマンはジュリエッタをあきらめる事はできなかった。ホフマンはジュリエッタを憎みながらも、恋に燃え上がっていたのである(ああ、僕の心はまたもさまよう)。ここから逃げよう、というニクラウスの声もホフマンの耳には届かなかった。

 その時鐘が鳴り、たくさんのゴンドラが近づいて来た。サロンのおひらきの時間なのである。客たちはゴンドラで去って行った。
 一方、ホフマンは、ジュリエッタの部屋の鍵をよこせと言ってシュレミールと決闘になった。そしてダペルトゥットの剣を借りたホフマンはシュレミールを倒し、ジュリエッタの部屋の鍵を奪った。
 それを見届けたダペルトゥットは自分の剣を取り戻してから、人殺しだ、と叫び、ピティキナッチョに警察を呼びに行かせた。
 ホフマンはこれでやっとジュリエッタは自分のものと思い、鍵を持って彼女の部屋へ行こうとした。しかしニクラウスがホフマンを引きとめ、一艘のゴンドラを指し示した。
 ダペルトゥットが操るそのゴンドラにはジュリエッタが乗っていた。計画通りに事が運んだダペルトゥットとジュリエッタは新たな土地へ行こうと、早々にシュレミールの邸宅を見捨てたのであった。
 ピティキナッチョも後から乗り込み、ジュリエッタは愛人のピティキナッチョを愛撫しながら、さよならホフマン、と愉快そうに別れのあいさつをした。失意のあまりがっくりと肩を落とすホフマンに、追い討ちをかけるようにジュリエッタたちのあざけりの笑い声が響いて来た。 



エピローグ(ルーテル酒場)


 ホフマンがすべて話し終える頃にはオペラも終わっていた。ステラの成功を讃える歓声が聞こえる中、ホフマンは思わず、ステラ…とつぶやいた。学生たちは何でステラが関係あるんだ、と首をかしげたが、ニクラウスが彼らに説明した。…3人の女とは実は一人の女、すなわちステラなのだ、と。
 リンドルフはホフマンの泥酔ぶりを見て、これでステラはわしのもの、とほくそ笑んだ。一方ニクラウスは、いよいよ決断の時だ、とつぶやいた。
 そこへステラが現れた。ところが泥酔したホフマンは焦点のあわない目でステラを見た挙句、「あなたが誰だか思いだせない。オランピア?…壊れた…アントーニア?…死んだ…それともジュリエッタ?…地獄に落ちた…。」とステラにはわけのわからない事を言い出した。
 思いがけないホフマンの態度に立場を失い、ステラは声もなく立ち尽くした。そこへすかさずリンドルフが、今こそチャンスだわい、とばかりに助け舟となる腕をステラに差し出した。
 それを見てついに正気が戻ったか、はたまた迷いが消えたのか、ホフマンの口からはこんな言葉がこぼれ出た。…もしあなたがステラなら、僕はあなたには似合わない。あなたに似合うのは金も権力もある悪魔のような男なんだ…。
 ステラはリンドルフの腕を借りた。そしてプリマドンナとしての体面を保ちながら、リンドルフと共に去って行った。
 学生たちは大騒ぎしながら2人の後を追いかけて行き、残されたホフマンはクラインザックの歌の続きとして、巾着袋をジャラジャラいわせて娼婦の心を揺り動かす男の歌をリンドルフにあてこすって歌っていたが、ついには椅子に倒れ込み、更に机の上にばったりと倒れてしまった。
 ニクラウスは元のミューズの姿に戻り、ホフマンに近づいた。そして、…お前の心の燃え殻でお前の才能を暖めなおしなさい、お前の苦しみは祝福されます、ミューズがそれを鎮めてあげましょう…とホフマンに詩人としての祝福を与えた。
 ホフマンは目覚め、ミューズの言葉を繰り返した。どこからか、恋によって人は偉大になる、涙によってもっと偉大になる、という合唱が聞こえて来た。
 そしていつしかミューズと酒の精たちは消えていき、ホフマンは一人立ち尽くしてミューズの言葉を繰り返すのだった。
(終わり)




<MIYU’sコラム>


・ 「ホフマン物語」について
・ 顧問官クレスペル
・ 大晦日の夜の冒険
・ ペーター・シュレミールの不思議な物語


「ホフマン物語」について


 「ホフマン物語」基本情報
     音楽・・・・・・ジャック・オッフェンバック (補完 エルネスト・ギロー)
     台本・・・・・・ジュール・バルビエ
     原作・・・・・・ジュール・バルビエ、ミシェル・カレ (戯曲「ホフマン物語」)
     原案・・・・・・E.T.A.ホフマン (「砂男」、「顧問官クレスペル」、「大晦日の夜の冒険」)
     初演・・・・・・1881年2月10日 於 オペラ・コミック座


 「ホフマン物語」はオペレッタで有名な作曲家オッフェンバックの唯一のオペラ作品です。軽いオペレッタだけではなく、一つぐらいは格のあるオペラを残したい、と「ホフマン物語」にとりかかったオッフェンバックでしたが、完成前の1880年10月5日に心臓の病気で亡くなってしまいました。
 作品を完成させたのはエルネスト・ギローです。そして「ホフマン物語」は1881年2月10日に初演されましたが、未完成の部分が多かったジュリエッタの幕が省かれてしまいました。それでも初演は大成功だったという事です。
※ 有名な舟歌は無理やりアントーニアの幕に押し込まれました。そのためアントーニアの幕はミュンヘンではなくヴェネチアが舞台という事になってしまったそうです。
 11月にはウィーンのリンク座でも上演されましたが、火災が発生し、400人が死亡する惨事となってしまいました。1887年にはオペラ・コミック座も焼け、初演当時の楽譜や資料が失われてしまいました。
 そういった事件から、不名誉にも「ホフマン物語」は呪われたオペラだとも言われてしまいましたが、それより困ったのは、楽譜や資料が失われた事です。以後この作品は元の姿を想像するのが難しくなり、いろんな人の手によって、いろんな「ホフマン物語」が生まれました。
 それでも1905年のベルリンでの上演で大体の形がまとまり、それを元にシューダンス版のスコアが作られました。
 シューダンス版では幕の順序がオランピア、ジュリエッタ、アントーニアとなっています。また上演時間を縮めるためにあちらこちらをカットしており、ミューズもプロローグでは省かれています。
 そして内容も、「酔っ払ったホフマンが学生たちに過去の3つの幻想的な失恋話をし、その間にますます泥酔してしまった。そして会いに来た恋人ステラの顔もわからなくなってしまい、ホフマンに愛想をつかしたステラはリンドルフと去って行った。」という風なお話になっています。
 プロローグとエピローグは単なる枠になってしまい、ドラマの一貫性はなく、3つの失恋話の幻想的なおもしろさを楽しむ、といった造りです。
 こういった難点を改訂したのがドイツの演出家フェルゼンシュタインです。そして1977年にフリッツ・エーザーがフェルゼンシュタインの改訂に基づいてヴォーカル・スコアを作成しました。これがエーザー版(または出版社の名をとってアルコア版)と呼ばれています。
 そういうわけでエーザー版はドラマが充実しているのですが、オリジナルのスコアを復元するため、オッフェンバックの作ではなく後から他人が挿入したと思われる曲は、たとえ有名な曲でも削除しているそうです。
 安藤元雄氏の「ホフマン物語」(新書館)は基本的にはエーザー版ですが、後で他人が挿入したものであってもすでにおなじみとなっているものはシューダンス版と同様に挿入しています。
「…基本的な枠組みはアルコア版(エーザー版)のヴォーカル・スコアに従うことにした。しかしテクストはアルコア版そのままではない。この版をそのまま採用すると、逆に、これまであまりにも人々に親しまれてきた名高いナンバーが削除されたり、別の曲に置き換えられたりしてしまうからだ。例えば2幕でコッペリウスが歌う「目玉の歌」や第四幕でダペルトゥットが歌う「ダイヤモンドの歌」などがそれである。これらの曲は、たとえ学問的見地からは正統性に問題があるとしても、すてに「ホフマン物語」の音楽として一種の公共財産になってしまっている。台本からこのオペラの舞台を想像しようとする読者のためには、これまで伝統的に用いられて来た歌詞を残しておくべきだろうと判断した。そこでこれらについては従来のシューダンス版の台本を用いている。」 (「ホフマン物語」安藤氏の解説より引用)
 安藤氏の版はとてもわかやすく、ここでは安藤氏の本に従い、「修正エーザー版」とでもいうべき版でお話をまとめました。
※ 「魅惑のオペラ」シリーズの台本の翻訳も安藤氏です。しかしシューダンス版の台本をかなり省略したものなので、お話としてはわかりにくいです。
 ちなみに現在の上演の主流はシューダンス版です。確かにドラマ的には少し薄いですが、演劇ではなくてオペラですから、それが致命的な欠点になると言う事はありません。
 私もコヴェント・ガーデン王立劇場のシューダンス版のDVDを見ましたが、とても素晴らしかったです。確かにドラマが弱いところは否めませんが、それを上回る魅力がありました。
 何しろ配役が素晴らしいのです。ホフマン役はプラシド・ドミンゴ。何でこの人がそんなにふられちゃうの、というぐらい素敵なホフマンで、声も圧倒的でした。他にもアグネス・バルツァやイレアナ・コトルバスなどが出演しており、女性陣も充実しています。舞台装置や衣装も豪華なので、すっかりオペラの世界に酔いしれてしまいました。 

 さて、直接の原作はバルビエとカレの戯曲「ホフマン物語」(1851年初演)ですが、もともとのお話はE.T.A.ホフマンの3つの短編です。オランピアの幕は「砂男」、アントーニアの幕は「顧問官クレスペル」、ジュリエッタの幕は「大晦日の夜の冒険」。
 「砂男」はバレエ・コッペリアの原作でもありますので、「コッペリア&砂男」のページでご紹介しています。そこで、ここでは「顧問官クレスペル」、「大晦日の夜の冒険」とその元となったシャミッソーの「ペーター・シュレミールの不思議な物語」をご紹介しておきたいと思います。


顧問官クレスペル (アントーニアの幕の原作)  E.T.A.ホフマン/作


 H市に赴任した法律家の私は、知り合いのM教授のパーティーで変人として有名な顧問官クレスペルと出会った。噂にたがわず変人ぶりを発揮するクレスペルに興味を惹かれた私は、クレスペルの家にアントーニエという若く可愛い娘がいると聞いてますます興味を感じたが、クレスペルはアントーニエの名が出ると、何かを隠したがっているかのように、教授の家を飛び出してしまった。
 私はM教授にクレスペルとはどういう人物なのか、と訊ねてみた。教授が言うには、クレスペルは法律家としては有能な人物だが、他人の目を気にせず本能に従っているようなその言動は実に奇妙だ。しかし根はとてもいい人だ、という事だった。
 また彼はヴァイオリンを弾くにも作るにも素晴らしい腕前を持っているが、良いヴァイオリンを作るヒントを得るために、金に糸目をつけずにあちらこちらからヴァイオリンを買い集めて来る。そして一度弾いただけでヴァイオリンを解体してしまい、彼が求める性質を持っていなければ大きな廃棄箱に放り込んでしまうのである。
 更に私はアントーニエの事も訊ねてみた。すると教授は、何か事情があるのかもしれないが、クレスペルはアントーニエに対してかなりつらくあたっているように思える、と前置きしてから、アントーニエについて知っている事を教えてくれた。
 …クレスペルは家政婦と共にこのH市にやって来て、最初は隠者のように暮らしていたが、やがてみんなに親しまれるようになった。そんなある時、クレスペルは数ヶ月家を留守にした。そして彼が帰って来てまもなく、家には煌々と灯りがつき、やがてピアノに伴奏されて、人の胸を揺り動かすような素晴らしい女声の歌が聞こえて来た。そこへヴォイオリンが加わり、実に素晴らしい音楽となった。
 教授はじめたくさんの人々がクレスペルの家の前に集まってその音楽を聴いていたが、歌が終わると沈黙が訪れた。その後クレスペルがたいそう劇してしゃべり、若い男がそれに反論しているのが聞こえた。それに少女が哀願するのが聞こえるのだが、やがて少女は悲鳴をあげ、その後は沈黙が訪れた。と思うと、若い男がすすり泣きながら階段を駆け下りてきて、近くにいた馬車に乗って去って行った。
 どうもクレスペルはアントーニエを監視しているように見える。滅多に彼女を外に連れて行く事はないし、もし連れて行ったとしても音楽が演奏されそうになったらさっとアントーニエを連れて帰ってしまうのだ。むろん、あれっきりアントーニエが歌う事はなくなってしまった…。 

 私は何とかアントーニエに会って彼女の歌を聞いてみたいと思ったが、そんな私にチャンスが転がり込んで来た。音楽に詳しい私はヴァイオリンの話からクレスペルと親しくなり、彼の家に招かれたのである。
 クレスペルの家の陳列室にはヴォイオリンが30梃ほどかかっており、そのうちのいかにも古いものには花環がかけてあり、ヴァイオリンの中の女王のように見えた。クレスペルは、このヴァイオリンが内側から何かを語りかけて来たので解体はしない事にした、そしてアントーニエがこのヴァイオリンをそれは気に入っているんだ、と目を細めた。
 私はぜびそのヴァイオリンの演奏を聴いてみたいと言ったが、どうもそれがまずかったらしく、慇懃無礼に追い出されてしまった。
 次にクレスペルの家を訪れた時、ようやくアントーニエにあう事ができた。アントーニエはとても感じのよい、美しい娘だった。クレスペルがアントーニエにつらくあたって監視しているというのは杞憂だったらしく、アントーニエが私と楽しくしゃべっているのをクレスペルはとてもうれしそうに見ていた。そして私たち3人はとても仲良くなった。時にはクレスペルの奇妙な言動や気まぐれにいらいらする事もあったが、アントーニエに会える喜びを考えればそれも何とか耐える事ができた。
 ある晩、ヴァイオリンを解体して思い通りの成果をあげたクレスペルは上機嫌で、昔の巨匠は優れた歌手から演奏法を盗み出して身につけたものだが、今は歌手が楽器を真似するようになってしまった、と持論を語りだした。私は楽器の装飾音をまねておもしろおかしくピアノを弾き、クレスペルは更に喜んだ。
 調子にのった私はアントーニエに、「こんな歌知ってますか?」と言って美しい歌曲をピアノで弾きながら歌いだした。みるみるアントーニエの瞳は輝き、私の側に飛んで来て、今にも歌いだそうとした。
 その時、恐ろしい表情をしたクレスペルがとび出し、アントーニエが歌うのをとめた。そして私はクレスペルから絶交を言い渡され、追い出されてしまった。
 傷心の私はH市を離れた。アントーニエを思い出すとつらかったが、やがて時が経つにつれて心の傷も癒えて行った。

 私は2年ほどBという町で仕事についていたが、ある時、南ドイツを旅行した。馬車がH市の教会に近づくにつれ、私は何とも息苦しく、悲しい気分になっていった。と、教会からは男たちのコラールが聞こえて来る。誰かが教会墓地に埋葬されており、ちょうど墓に土をかけているところだった。
 私は人生の喜びがすべて失われたような気持になり、丘を駆け下りた。M教授や町の人々が喪章をつけて歩いていた。彼らには声をかけずに私は悲しい気持を振り払おうとして郊外へ行ったが、そこで喪章をつけ、狂ったようになったクレスペルに会った。クレスペルは、「あんたならわかってくれるだろう。」と言って、私を自分の家へ引きずり込んだ。
 例のアントーニエが好きなヴァイオリンはどこにも見当たらず、かけてあった所には、悲哀を表現する糸杉の冠がかけてあった。アントーニエが死んだ時、あのヴァイオリンはアントーニエに殉じるように、ばりばりと音をたてて壊れてしまったらしい。クレスペルはあの娘なしにはあのヴァイオリンは生きられなかったのだろう、だからあの娘と一緒に埋葬した、と言った。
 それからクレスペルは張り裂けそうな悲しみと苦しみを持て余し、それを紛らわそうとするかごとく、跳んだりはねたり、歌ったりしたが、その様子は異様でもあり、見ていられないほど痛々しくもあった。やがてクレスペルは倒れ、私は家政婦に後を託してその場を辞した。
 翌日にはクレスペルは落ち着きを取り戻していた。一方、私は段々とクレスペルが残酷にもアントーニエを殺したのではないか、と思い始め、真相をつきとめ、場合によっては司法の裁きを受けさせてやろうと思いつめて再びクレスペルの家を訪れた。
 興奮して迫る私をクレスペルは冷静に受け止め、もう秘密を守る必要はない、と言ってアントーニエの事と自分の人生を私に話してくれた。すべて聞き終わった私は短絡的な自分を恥じ、クレスペルにいとまを乞うたのであった。

 『20年ほど昔の事である。その頃はまだ解体をしていたわけではないが、クレスペルは良いヴァイオリンを探しにヴェネツィアに行った。そこで美しい歌手アンジェラが歌うのを聞き、彼女に夢中になった。クレスペルは得意のヴァイオリン演奏でアンジェラの心を惹きつけ、数週間後にはアンジェラと結婚した。
 アンジェラは仕事の都合もあり、二人の結婚は秘密にしておきたいと言ったので、クレスペルは承知した。しかし結婚してからのアンジェラは悪魔のように気まぐれとなり、結婚の事実を知らない取り巻きたちを使ってクレスペルをいじめ、苛んだ。それが積み重なり、すっかり嫌気がさしたクレスペルは郊外にあるアンジェラの別荘に逃げ出した。
 気まぐれなアンジェラは優しい女を演じたい気分になり、別荘までクレスペルを追いかけてきた。そしてクレスペルがヴァイオリンを弾いている所に後ろから抱きつこうとした。
 音楽に没入していたクレスペルは弓をアンジェラにぶつけてしまった。すると怒ったアンジェラは「このドイツの獣!」と叫んでクレスペルからヴァイオリンを取り上げ、机にたたきつけて壊してしまった。
 クレスペルは一瞬凍りついてしまったが、次の瞬間アンジェラを抱えあげて窓から放り出してしまった(窓から地面までは1メートル半ぐらいだった)。そしてそのままクレスペルはドイツへ逃げ帰ってしまった。
 ドイツへ帰ったクレスペルは、アンジェラが妊娠したかもしれないと言っていた事を思い出して後悔したが、アンジェラの悪魔のような気まぐれを思い出すとヴェネツィアへ帰る気にはならず、そうこうする間に8ヶ月が経った。
 そこへアンジェラから手紙が届いた。手紙にはまたとない可愛い女の子が生まれたから、ヴェネツィアへ帰って来て欲しい、と書いてあった。クレスペルは念のため友人にアンジェラの様子を照会してみたが、アンジェラからは気まぐれや人を虐げるようなところはすっかりなくなり、作曲家にも変更を迫ったりせず、渡された楽譜をそのまま素直に歌うようになった、という事だった。
 それを読んだクレスペルは心を動かされ、旅支度までしたが、いざ出発という時になってアンジェラがまた元に戻るのではないかという恐怖感に襲われた。結局クレスペルはヴェネツィア行きを断念した。
 それからというもの、クレスペルとアンジェラは愛情のこもった手紙のやりとりを頻繁にしていたが、お互いにヴェツィアとドイツに離れて住んだままだった。しかしとうとうアンジェラは娘のアントーニエを連れてドイツのF市にやって来た。
 アンジェラはF市の歌劇場でも大成功を収めた。また娘のアントーニエも素晴らしい声の持ち主だと言う事であった。クレスペルは娘に会いたいとは思ったが、またアンジェラが昔に戻ってしまうのではないかという恐怖にかられ、妻や娘に会おうとはせずにヴァイオリンの解体ばかりしていた。
 そのうちBという若い新進作曲家がアントーニエと相思相愛になった。アンジェラは二人の仲を認め、クレスペルにも異存はなかってので、二人は結婚する事になった。
 そろそろ結婚式は済んだかな、と思った頃にRという医者からクレスペルに手紙が来た。R医師はアンジェラが死んだ事を伝え、またアンジェラからアントーニエの父親はクレスペルだと聞いたので、ぜひアントーニエを引き取って欲しい、と言ってきた。

 アントーニエはアンジェラの美しさ、可愛らしさはそのままに、その悪いところは何一つ引き継いでいなかった。アントーニエは歌を歌ってみせてくれたが、その歌声はアンジェラよりも素晴らしく、人間とは思われないような独特の響きを持っていた。しかし歌うにつれてその頬の赤みが凝縮して赤黒い斑点になったので、やクレスペルはアントーニエに歌うのをやめさせた。
 クレスペルはR医師に、歌った時のアントーニエのおかしな兆候について相談した。R医師は、アントーニエの胸には欠陥があり、そのせいで彼女の歌声は人間を超えた不思議な力を持っているのだろう、しかしこのまま歌い続ければ、アントーニエの命はあと半年も持たないだろう、と言った。
 クレスペルは一切をアントーニエとBに話し、このままBについて行って短い生涯を終えるのか、それとも父の元にとどまって孝行しながら長く生きるのか、アントーニエにどちらかを選ぶように、と言った。
 Bはこれからは絶対歌わせないようにする、と言ったが、クレスペルは、Bはきっと自作の曲をアントーニエに歌わせたくなるだろうと思い、Bには黙ってアントーニエを連れ、H市に引っ越した。
 BはH市まで追って来た。アントーニエも、あの方に一目あってから死にたい、と言ったので、仕方なくクレスペルはBを家に入れた。そしてBに伴奏をさせ、アントーニエに歌う事を許した。そして自分もヴァイオリンで参加した。(これがM教授たちが家の前に集まって聞いていた音楽会である。)
 しかし突然アントーニエは悲鳴をあげて倒れてしまった。クレスペルは、それみたことか、とBに迫り、出て行ってくれなければあなたの背中に短剣をなげつけますぞ、と脅した。Bは驚き、すすり泣きながら逃げ出した。

 その後アントーニエは回復した。そして、お父様のために生きる、と言い、クレスペルの気まぐれやヴァイオリンの解体の手伝いをするようになった。そしてあの花環を飾っていたヴァイオリンを解体しようとした時、「それもですの…」とアントーニエは悲しそうに言った。クレスペルは解体をやめ、そのヴァイオリンを弾いてみたが、アントーニエは、「それこそ私なのだわ、私が歌っているのだわ。」と、とても喜んだ。
 それ以来アントーニエには落ち着きと明るさが戻った。そして時々、「私何か歌ってみたいわ。」と言うようになった。そんな時クレスペルはアントーニエのレパートリーの中でも特に美しい曲を弾いてやるのだった。
 「私」がH市に着く少し前の夜だった。クレスペルは隣の部屋のピアノをBが弾いているような気がしたので起き上がろうとしたが、まるで鎖につながれたかのように動く事ができなかった。
 やがてアントーニエが歌い始めた。それはBが彼女のために作った歌だった。ぞっとするような不安と素晴らしい歓喜がクレスペルを襲った。そして突然目も眩むような光に囲まれたかと思うと、抱擁して見つめ会うアントーニエとBの姿が浮かび上がった。彼らはもう演奏していなかったが、歌とピアノはなおも続いていた。そのうち歌やピアノと共に二人の姿ももうろうとして消えて行った。
 クレスペルは目が覚めた。しかし不安はなお残っており、飛び起きると、アントーニエの部屋へ躍り込んだ。アントーニエはソファに横たわり、幸福と歓喜を夢見るがごとく、息絶えていた。』
(終わり)

 <MIYU’コーナー>


 「顧問官クレスペル」はアントーニエの幕の原作ですが、アントーニエの母親のアンジェラは、「ホフマン物語」のステラのモデルでもあるようですね。気まぐれで人を傷つけるのも平気なプリマドンナで、クレスペルとの復縁(形式上の婚姻は続いているのですが…)を願ってドイツまで追って来て、F市の歌劇場で成功を収めます。これはよりを戻そうとホフマンを追ってニュルンベルグの劇場にやって来て大成功を修めたステラと同じですね。
 アンジェラもステラも気まぐれだとか浮気だとかいろいろ言われていますが、これは何も彼女らに限ったことではなく、プリマドンナとはそういうものらしいです。ミュージカル「オペラ座の怪人」に出てくるプリマドンナのカルロッタもずいぶんと扱いにくい女性でしたね。
 プリマドンナは素晴らしい美声でドラマティックな役を演じ続ける人たちですから、やっぱりどこか現実離れしてしまうのでしょうね。stella(スター、星)のように遠くから見ているのが一番美しく素晴らしい人たちなのでしょう。
 妻であるプリマドンナ、アンジェラにきちんと向きあおうとしなかったこらえ性のない変人クレスペルは、最後にはやっとめぐり合えた大事なものを失ってしまいました。
 ヴァイオリンならいくらでも買ってきて解体し、気にいらなければポイとゴミ箱行きでもいいのでしょうけど、生身の女性はそうはいきません。妻の性格が嫌だからと遠ざけておいて、理想的な娘だけは自分の側にとどめておこうとしましたが、そううまくはいきませんでした。
 ここで教訓です。「男たちよ、理想は心の中にとどめておこう。そして出来が悪くても、自分が選んだ生身の女を愛し、共に成長する努力をしよう。」



大晦日の夜の冒険  (ジュリエッタの幕の原作) E.T.A.ホフマン/作


1.恋人
 私は大晦日の夜に法律顧問官のパーティーに行き、そこで昔の恋人ユーリエに再会した。私の中には昔の熱い想いがよみがえったが、彼女にとって再会はそんなに特別な事ではないようだった。それでもピアノ演奏が始まると、昔を思い出したかのような思わせぶりな事を言ったりするので、愛のかけらでも見出したい私は夢中になって彼女について回った。
 湯気のたったポンチを入れたグラスがたくさん置いてあったが、ユーリエはその中から高脚杯を手にとって私に勧めた。受け取る時に指がふれあい、青い火花が飛び散るような気がし、その杯を飲み干した時も唇に青い炎がパチパチはじけるような気がした。私は興奮し、彼女の手をとって、昔同様に熱烈な愛の言葉を語った。
 その時、蛙のような飛び出した目を持ち、蜘蛛のような細い足をしたキィキィ声の下品な男が彼女を連れに来た。何とその男は彼女の夫だったのだ。彼女は笑いながら夫と共に行ってしまった。永遠に彼女を失った私は絶望し、帽子も外套をつけていないにもかかわらず、嵐の夜の中へ飛び出した行った。


2.地下酒場の集い


 私は寒さに縮み上がりながらベルリンの街をさ迷った。そしてさみしい灯りがさしている地下酒場に入り、ビールと煙草を注文した。亭主はこんな季節に外套も帽子もつけていない客に不審の目をむけていたが、その時窓がノックされ、背の高い男が入って来た。
 男は上品だが鬱屈しており、不機嫌にビールと煙草を注文した。そして私とその男は紫煙に包まれるほど煙を吐き出した。
 陰気な感じはするのだが、彼は人を惹きつけるものを持っており、私はすぐに彼が好きになった。と見ると、彼は長靴にきれいな上履きをつけていた。そして彼は胴乱から今摘んで来たばかりと思われる植物を取り出した。
 私は、植物園に行って来られたのですか、と声をかけたが、男は、これは南米のチンボラソ火山の植物ですよ、と答えた。私はぞくっとした。南米で摘んだのならば、もうとっくに枯れているはずではないか…。そして誰かは思い出せないのだが、何だか彼の事を知っているような気がしてきた。
 その時またドアがノックされ、今度は小男が入って来た。小男は、鏡にカバーをかけてくれ、と亭主に言いながら、私と背の高い男の間に座った。そして彼が自分も嗅ぎ煙草が欲しいと言ったので、私はポケットから鏡のようにみがいた鉄鋼製の嗅ぎ煙草入れを取り出して彼に勧めた。
 すると小男はそれを見た途端、蒼ざめた老人のような顔になって、この嫌な鏡をあっちにやってくれ、と叫び、私をにらみつけた。私はびっくりしたが、背の高い男は何ら関心を示そうともせず、植物に没頭していた。
 そのうち私たち3人は世間話を始めた。ある画家が描いたある公女の絵の話になった時、私は「まるで鏡から盗みとったようによく描けていますね。」と言ったのだが、その途端に小男は老人の顔になって飛び上がり、悪態をついた。そして「それでも俺はちゃんと影を持っているぞ!」と叫んで外へ飛び出して行った。
 背の高い男は打ちのめされたようにへたり込んでため息をついた。そして私にあいさつをして外へ出た。その彼の回りにはどこにも影はなかった。やっと私にも彼が誰であるかがわかった。
 私は思わず彼を追いかけて外へ出て、「ペーター・シュレミール!」と叫んだ。しかし彼はすでに上履きを取り外しており、次の瞬間にはジャンダルメン教会の塔の上の夜空へと消えて行った。
 酒場へ戻ろうとすると、亭主は「神様、こんなお客たちはどうかご容赦願います!」と叫んでピシャリとドアを閉めた。


3.まぼろし

 酒場を追い出され、家の鍵ももっていない私は知り合いの宿屋に行き、泊めてもらう事になった。部屋へ入った私は鏡のカバーをはずし、2本の蝋燭を鏡の両側に置いた。鏡にはやつれて蒼ざめた私が映っていたが、やがて鏡の中からユーリエの姿が浮かび上がって来た。
 私は思わず「ユーリエ!」と失われた最愛の恋人の名を呼んだ。
 その時、ベッドのある隅の方からうめき声が聞こえた。私はその正体を確かめようとベッドに近寄り、カーテンをさっと開けた。すると何と、あの小男が寝ていたのだった。小男はうなされ、「ジュリエッタ、ジュリエッタ!」と叫んでいた。

 ※ジュリエッタはユーリエのイタリア語の短縮形 


 私は小男を起こし、出て行ってくれ、と言ったが、目を覚ました小男はよほどの悪夢を見ていたのか、起こしてくれてありがとう、と私に感謝した。
 よく話してみると、この部屋は小男の部屋で、邪魔をしたのは私の方だった。小男は酒場での自分の無礼な振る舞いを詫び、私に親しみを持ってくれた。そして私もユーリエという同じ名前の失われた恋人を忘れる事ができない不幸な者だと知ると、自分の秘密を打ち明けたい、と言い出した 
 小男は鏡の前に行った。しかしその姿は鏡には映っていなかった。小男は絶望の色を浮かべて顔をおおい、「私は彼女に鏡像をやってしまったんです…」と叫ぶや、ベッドに転がり込んだ。
 私はびっりくし、いろいろな複雑な感情にとらわれたが、やがて眠気が襲ってきて、寝てしまった。
 朝、眼が覚めると、小男はもう出発していた。、しかし机の上には原稿が残されていた。そこには彼が私にあてて綴った、その驚くべき身の上話が記されていた。

4.失われた鏡像の話
 若いドイツ人、エラスムス・シュピークヘルは念願であったフィレンツェへの旅行に出かける事になった。妻は別れ際に、いつも私と息子の事を思って悪い事はしないでくださいね、と言った。
 さて、フィレンツェに到着したエラスムスは、イタリアを存分に楽しんでいるドイツ人たちと出会い、彼らと楽しい日々を送る事となった。ある夜、庭園で女性同伴の宴会があったが、エラスムスは妻との約束を守って一人で行った。
 すると、庭園の植え込みからずば抜けて美しい、ルーベンスの絵から抜け出たような女性が現れ、私がこの方の連れになりましょう、と言ってエラスムスの隣に座った。その女性はジュリエッタと言い、エラスムスはたちまち彼女に心を奪われてしまった。
 やがて朝が近づき、宴会は終わったが、ジュリエッタは自分の住所をエラスムスに教え、近く訊ねて欲しい、と言って帰って行った。エラスムスは恋に胸をときめかせながら家路をたどったが、そんな彼の前に異様な人物、もぐり医者のダペルトゥットが松明の残り火の中から現れた。そしてジュリエッタに夢中になっているエラスムスをからかってから幻のように消えた。
 さて、ジュリエッタを訊ねると、彼女は優しい愛情を示し、エラスムスはますます夢中になった。しかし時々燃え上がるような異様な目で彼を見ることがあり、そんな時エラスムスはぞっとした。
 そのうちジュリエッタはエラスムスをあちらこちらのパーティーに連れて行くようになり、エラスムスはドイツ人たちとは次第に疎遠になって行った。
 ある日、エラスムスはドイツ人仲間のフリードリヒと出合ったが、彼はジュリエッタとの交際をやめるようにエラスムスに忠告した。フリードリヒが言うには、ジュリエッタは黒い噂のある性悪の高級娼婦で、これと見込んだ男を誘惑して身動きできないようにしてしまうらしい。
 フリードリヒに、君は奥さんの事を忘れたんじゃないか、と言われたエラスムスは急に妻の事を思い出し、心の中に激しい葛藤が生じた。そしてフリードリヒの忠告に従ってすぐにドイツへ帰る事にした。
 そして二人で歩いていると、どこからともなくダペルトゥットが現れ、ジュリエッタが恋焦がれて待っているから急げ、とエラスムスをけしかけた。いつしかジュリエッタの家の前に来ていたらしく、ジュリエッタがバルコニーに現れた。
 ジュリエッタに、どうなさったの、もう私の事をお忘れになったのかしら、と優しく言われたエラスムスは先程の決心はどこへやら、さっさとジュリエッタの家へと吸い込まれて行った。

 ジュリエッタの別荘で宴会が開かれる事になり、エラスムスも連れていかれたが、そこに醜く下品なイタリア人がおり、ジュリエッタに愛されているエラスムスに嫉妬して何かと突っかかってきた。
 ついにはドイツの悪口まで言ったので、エラスムスはイタリア人を怒鳴りつけたが、いつしかイタリア人の手には匕首が光っていた。かっとなったエラスムスはイタリア人を転がしてうなじを蹴った。イタリア人は死んでしまった。
 と、そこにいた全員がエラスムスに襲い掛かってきたので、エラスムスは気を失った。気がつくと小さな部屋に寝かされており、ジュリエッタが側にいた。ジュリエッタは、ここにいると危険だからすぐに出発しなければならないわ、と言ったが。エラスムスは、君と別れたくない、と涙を流さんばかりに哀願した。
 その時、悲しげな妻の声がエラスムスを呼ぶのが聞こえた。ジュリエッタは、あなたはそうやってすぐに私を忘れて奥さんのところへ帰ってしまうのね、と悲しそうに言った。、エラスムスは君の事を忘れるものか、僕が一緒にいたいのは君なんだ、と悲痛な思いで訴えた。
 するとジュリエッタは言った。…それじゃあ、私にあなたの鏡像(鏡に映る姿)をちょうだい。奥さんはあなたの肉体と魂を自分のものにするんだから、私はせめてあなたの鏡に映る幻だけでも手元において、いつもあなたを思い出していたいの…。
 奇妙だとは思ったが、ジュリエッタに夢中のエラスムスは、彼女に自分の鏡像を与える事に同意してしまった。
 ジュリエッタはエラスムスに熱く接吻し、鏡に手を伸ばした。すると鏡像は鏡から抜け出し、奇怪な臭いの中、ジュリエッタの腕の中に消えて行った。悪魔のような笑い声が響く中、エラスムスは気絶してしまった。
 気がついたエラスムスは夢中で外へ逃げ出したが、ダペルトゥットにつかまり、馬車へ押し込まれた。その時ドイツ人が隊列を組んで歩いているのが見えたので、エラスムスはダペルトゥットの馬車を抜け出し、ドイツ人たちと合流した。
 そしてフリードリヒの助けを借りてフィレンツェから逃げ出した。しかし途中のあちらこちらで影がない事を指摘され、悪魔のように忌み嫌われてどこからも追い出された。

 そしてエラスムスはやっとの事で家に帰ったが、息子のラムスに影がない事を見抜かれ、妻も影がない事がわかると、出て行って、と叫んだ。エラスムスは絶望し、こうなったら肉体も魂もジュリエッタのものになりたい、と悲痛な声をあげた。
 するとダペルトゥットが現れ、肉体も魂もジュリエッタのものになりたいのならば、妻と息子を始末しろ、とエラスムスに小瓶に入った毒薬を渡した。そんな恐ろしい事などとてもできない、と思いながらも、いつしかエラスムスの手は毒薬を受け取っていた。
 そこへ肩に鳩を乗せた息子のラムスがやって来た。鳩は小瓶に興味を示してその栓を抜こうとしたが、ばったりと落ちて死んでしまった。エラスムスは恐ろしくなり、誰が妻子を殺したりするものか、と叫んで小瓶を投げ捨てた。
 しかしそれでもエラスムスはジュリエッタを忘れる事ができなかった。すると突然ジュリエッタが目の前に現れて言った。…あなたが肉体も魂も私のものになるためにはどうしても妻や子供とのつながりを絶たねばならないけれど、それはダペルトゥットに委ねればいい。委任状に署名してくれればダペルトゥットが妻子を始末してくれるでしょう。さあ、署名してください…。
 エラスムスはぞっとしたが、その手はまさに署名をしようとしていた。と、何て事をするの、神様にかけてそんな恐ろしい事はやめて、という妻の声が聞こえた。はっとしたエラスムスは署名を拒否した。
 するとジュリエッタの目から火花が散り、その顔は恐ろしく歪んだ。エラスムスはお前は地獄のならず者だ、消えろ、お前なんかに魂を渡すものか、と叫んでジュリエッタを突き飛ばした。
 ぎゃー、ぎゃー、という声と羽ばたきが聞こえ、部屋に悪臭がして、ダペルトゥットとジュリエッタは壁に消えて行った。

 エラスムスは妻のところへ駆けて行った。妻はエラスムスがひどい目に会った事に同情しながらも、影がない人はバカにされ、一家の家長とはなれないから、影を取り戻してきなさい、取り返せたら家に入れてあげます、と言ってエラスムスを旅に出した。
 そしてエラスムスはシュレミールと出会い、互いにないものを補い合おうとしたが、事態は一向に変わらなかった。
(終わり)

<MIYU’sコーナー>


 この作品に出てくるユーリエという女性はホフマンの実際の「永遠の恋人」です。名前も作品と同じユーリア(ユーリエはドイツ語読み)。ホフマンは40近くになった時、声楽を教えていた15才のユーリア・マルクに恋をし、夢中になってしまいました。困ったユーリアの母親は娘をグレーペルという資産家の商人の息子と結婚させてしまいました。
 ショックを受け、嫉妬に燃えたホフマンはこのグレーペルをクソミソに侮辱したらしいです。確かにグレーペルは頭が悪く、だらしなくて感心しない人物だったようですが、あまりに攻撃しすぎたため、ホフマン自身も回りから軽蔑されてしまいました。たとえ天才であろうと、やっぱり過度の嫉妬は禁じ手ですね。
 しかしホフマンはそれでも燃える嫉妬の炎を鎮めることができなかったのか、自分の作品にもちゃんとグレーペルを登場させ、侮辱しています。この「大晦日の夜の冒険」でもグレーペルを悪く描いていますが、「犬のベルガンツァ」という作品ではもっと激しく攻撃しているそうです。
 「蛙のような飛び出した目を持ち、蜘蛛のような細い足をしたキィキィ声の男」とこの作品でも言っていますから、「ホフマン物語」のクラインザックとはこのグレーペルがモデルなのかも。「ホフマン物語」でも、クラインザックを「脚は袋に突き出た小枝」とか、「きんちゃく袋をがちゃがちゃ言わせて二心あるフリネ(ギリシアの娼婦)の心を揺り動かす…」という描写していますから。
 またダペルトゥットはアントーニアの幕のミラクルですね。ミラクルも「これを飲めば治る」と言って薬瓶をクレスペルに押しつけますが、やっぱりあれにはダペルトゥットの毒薬と同じものが入っていたのかも…。
 「ホフマン物語」はホフマンの3つの短編をもとに作られたものですが、ホフマン自身の人生も織り込まれています。ホフマンは妻ミヒャエリーナを愛しながらもユーリアへの官能的な恋心をどうする事もできなかったらしいのです。また独身の時に関係があったのは子供が8人か9人もいる人妻(つきあっている間に1人増えました。)でした。それらの恋は決して実ることはなかったのです。
 そしてホフマンは実際にベルリンのルッター酒場に出入りしてワインやビールにまみれながら、たくさんの音楽、文学作品を生み出したのです。本当にミューズに愛されていたのかもしれませんね。
 それにしても、いろんな作品でかなわぬ恋をテーマに描くのはいいとして、、恋敵への私怨を描いてしまったのはあまりに余計でした。たとえグレーペルが本当に程度の低い男であっても、こんなにあちらこちらの作品でクソミソに言われ、それが後世に伝わっているのは、さすがに気の毒です。
 そこでまた教訓です。「有名人の、とりわけ執念深そうな天才作家の恋人を奪うのは絶対にやめよう。」



ペーター・シュレミールの不思議な物語 (「大晦日の夜の冒険」の元となった短編) シャミッソー/作
               


 金策に苦労していた貧乏な私は紹介状を持って大金持ちトーマス・ヨーン氏を訪ねた。ちょうどヨーン氏は大勢の来客を広々とした庭園でもてなしているところで、紹介状を受け取りはしたが、貧乏人の私のことなどさして気にもとめず、その件はまた後で、ということだった。
 仕方がないので、私は来客たちに混じって一緒に庭園めぐりをする事にした。
 薔薇園に来た時、来客の中にいた美しい女性が薔薇の棘で指をさしてしまい、人々は、絆創膏はないのか、と口々に叫んだ。すると長身痩躯で年のいった灰色のコートを着た男がポケットから絆創膏を取り出した。
 しかし女性も他の人々もその男に礼を言わず、男もそれを少しも気にとめている様子はなかった。そしてその後も、見晴らしのよいところに来たら望遠鏡、食事をしたくなったら絨毯とテント、または三頭の駿馬までも、男は求めに応じて次々とポケットから出してみせた。
 これ以上ついて行ってもヨーン氏に相手にしてもらえる可能性はないだろうと思ったので、私は一人引き返すことにした。しばらくすると、あの灰色のコートを着た男が私を追ってきた。そして私の影をほめ、その影と自分の持っている宝と交換してもらえないだろうか、と言った。
 魔法の鍵や打ち出の小槌、魔法の頭巾…男はいろいろな物との交換を申し出た。私は首を縦には振らなかったが、男が幸運の金袋と言った時、私はついに心をとらわれ、承知してしまった。
 男はクルクルと私の影を巻きとり、それを持って消えた。私は幸運の金袋をしっかり握りしめていた。

 袋に手を突っ込めば、いくらでも金貨は出て来た。しかし町を歩くと影がない事で人々から馬鹿にされ、悪魔のように追い立てられた。私はここに至って金よりも影はなくてはならないものだ、という事にやっと気がついた。後悔に苛まれた私は、何とかしてあの男を見つけ出して金袋を返し、影を取り戻そうと決心した。
 しかし灰色のコートの男は見つからなかった。私はベンデルという気のいい男を召使として雇い、男を捜させた。ベンデルは、来年の今日にまたお訪ねするから新しい取引をしましょう、という男の伝言だけを持ち帰って来た。
 …少なくとも後一年は影のないまま暮らさなければならないのだ…失望し、孤独感に耐えられなくなった私は、ベンデルに自分には影がない事を告白した。ベンデルはたいそう驚き、影のない主人に仕える不幸を嘆いたが、それでも忠義者のベンデルはその後も私の秘密を守り、誠心誠意仕えてくれた。
 こうして私は一年後の灰色のコートの男との再会を待つ事となった。その間、私は他にも幾人かの召使を雇い、金持ちらしく体裁を整えて社交界へ乗り出した。
 そしてヨーン氏の庭園で会ったあの美しい女性と再会し、親しくなった。しかしある夜とんでもない失敗をしでかした。曇っていると思って安心していたら突然月が顔を出し、一緒にいたその女性に影のない事がばれてしまったのだ。女性は気絶してしまった。
 私は忠義者のベンデルと、もう一人ラスカルという気のきいた召使を連れてあわてて町から逃げ出した。

 私たちは国境を越え、山並みを越えてある温泉町へと入った。そこではなぜか私は町の人たちからお忍びで旅行中のプロシア国王と勘違いされ、盛大な歓迎を受けた。あまり人前には出たくない私は戸惑ったが、金貨を振りまきながら何とか群集を振り切ろうとした。
 その時、美しく愛らしい少女が進み出てひざまづき、月桂樹やオリーブで編んだ冠を私に差し出し、歓迎の意を表した。その少女は当地の林務官の娘でミーナと言った。私は彼女に一目惚れしてしまった。
 その後、プロシア王だという誤解はとけたが、いつの間にか私はペーター伯爵様という事になってしまった。そこで私は伯爵らしく豪華な家に住み、体裁を整えて人々に金貨をほどこした。そして私はこの町で尊敬される存在となった。
 私は林務官一家と交際を始め、ミーナと相思相愛の仲になった。自然の成り行きとして結婚が問題になったが、影のない私がミーナに結婚を申し込むなど、とても考えられなかった。
 そうこうするうちに、灰色のコートの男との約束の日は近づいて来ていた。来月の末がその約束の日なのだ。もし首尾よく影を取り戻すことができれば堂々とミーナに結婚を申し込む事ができるかもしれない…。
 わずかなりとも希望を持った私は、申し込みを待つミーナや両親に、灰色の男との約束の日の翌日、つまり再来月の1日に申し込みをする、と伝えた。

 さて、いよいよ灰色の男の約束の日がやって来た。しかし灰色の男は現れず、何も起こらなかった。私は絶望的な思いにとらわれた。…このままでは影のない身でミーナに求婚せねばならない…それともこのまま逃げてしまおうか…。やがて疲れ切った私はうとうとし、眠りに陥った。そして夜が明けた。
 目が覚めると、控えの間から争いの声が聞こえた。ラスカルがベンデルにご主人の影を見せろ、と迫っているのだった。私は金を与えてなだめようとしたが、ラスカルは影のない人間から金をもらいたくない、お暇をいただく、と去って行った。
 後でわかったのだが、ラスカルは最初から私に影がない事を知っており、金庫の合鍵を作って盗みたいだけ金貨を盗んでから辞めたのだった。
 そしてミーナやその両親と約束した求婚の時がやって来た。仕方なく私は影がないまま、ミーナの家へ行ったが、どういうわけか、ミーナの父親は私に影がない事を知っていた。そして手のひらを返したように、影のない身で娘に求婚するなんてとんでもない、どうしても娘と結婚したければ3日のうちに影を持って来い、そうでなければ娘の事はあきらめてもらう、と言って私を追い出した。

 絶望した私は一人野山をさ迷った。ふと気がつくとあの灰色の男がいた。私は一日間違えており、約束の一年後とは今日だったのだ。
 灰色の男によれば、ミーナの父親に私の影がない事を密告したのはラスカルで、ラスカルはミーナをねらっている、という事だった。更に灰色の男は、ミーナを取り戻したければまずは影が必要だろうから、これに署名していただけませんかね、と羊皮紙を差し出した。それには、影と引き換えに死後に魂を差し出すことに同意する、と書いてあった。さすがに私もそれには同意できなかった。
 男はなおも私に署名させようとして、鳥の巣という隠れ蓑を与えて人から姿を見えないようにして、ラスカルがミーナに求婚するところへ連れて行った。
 ミーナの両親は今や娘をラスカルに嫁がせようとしており、すべての希望を失ったミーナは父親の言いなりだった。しかしラスカルが現れると、ミーナは気絶してしまった。
 灰色の男は、あなたはこれを黙って見ていられるんですか、ミーナを救えるのはあなたしかいないんですよ、と言って私に署名を迫った。ミーナの様子に頭が麻痺してしまった私は、今にも署名しそうになった。しかしあわや、というところで私は気を失ってしまった。

 気がついた私はあわてて家へ帰った。あんなにほどこしをしてやったにもかかわらず、ラスカルに先導された恩知らずの民衆は私の家に押し寄せて襲いかかり、家は散々に壊されていた。
 召使たちは散り散りに逃げ出していたが、忠義者のベンデルだけは残っていた。
 私はもはや涙も枯れ果て、希望はすっかり失くしていた。そして私は残酷な現実を思い知ったのだった…どんなに金があろうと、影のない私がこれ以上人間の社会で暮らして行くわけにはいかない…。
 私はベンデルに、残りの金貨と共にここにとどまるように言いつけ、自分ひとりで旅立つことにした。忠義者のベンデルは泣いてお供すると言ったが、私はベンデルを振り切り、一人でこの人生の墓場となった町から旅立った。

 そうして一人で旅するうちに、いつしかまた灰色の男が現れた。そして親切を装い、久しぶりに影を試してみてはいかがでしょう、と言って、私に影を貸し出した。私は久しぶりに人間社会に復帰できたような気がした。影のある私に対しては出会う人々もごくごく普通の態度をとってくれるのだ。
 灰色の男は、あなたのようなお金持ちには影は絶対必要ですよ、なぜもっと早くにわからなかったんでしょうね、と言葉巧みに私に署名を迫った。
 そして署名をしろ、嫌だの問答を繰り返しながら、山中の洞窟の前に来た時の事だった。男の執拗な誘惑にに負けそうになった私は、自分の弱さを克服しようとして、私に対して何をしてもいいってもんじゃないぞ、と灰色の男に対してすごんだ。
 すると男は影をくるくると巻き取って私から取り上げ、「それじゃあ、おいとまします。その気になったらいつでも幸運の金袋を振ってください。私はお金持ちとはうまがあいますから、いつでも取引に応じますよ。」と言った。
 私はふと思い当たり、トーマス・ヨーン氏の署名は持っているのか、と男に尋ねた。すると男はポケットから髪をひっつかんででヨーン氏を取り出した。その紫色の死んだ口から、「神の正義によって裁かれた、神の正義によって罰された。」という言葉が飛び出した。
 私は仰天し、例の金袋を取り出して洞窟の穴に投げ込んで言った。「神の御名によって命ずる、悪魔めが!行け、そして二度と再び私の前に現れるな!」
 男はしぶしぶ立ち上がり、姿を消した。

 こうして私には影ばかりか、金までもがなくなってしまった。それでも久しぶりに胸のつかえがとれ、晴れ晴れとした気持になった。しかしそれも長くは続かなかった。出会う人毎に私の影がない事をとがめ、逃げ出してしまったのである。
 再び元気をなくした私は働き場所を求めて鉱山に行くことにした。しかし雨が続き、長靴がだめになってしまった。そこである町の市で長靴を買おうとしたのだが、お金が足りなくて、性能のよさそうな新品は手が届かず、古靴を買うことになった。
 そして私は古靴を履いて歩き出したが、どうもあたりの様子がおかしい。人の手が加えられていない原始林が広がっているのだ。そして数歩歩くにつれて、苔とユキノシタがはえている岩地、アザラシのいる氷の岸辺、水田とお辞儀をする東洋人が次々と現れては消えた。
 ようやく私は何が自分に起こったのかを理解した。私の買った古靴は一歩歩けば七里を歩くという魔法の靴だったのだ。
 私は救われたような気がした。ふと魔がさしてなくてはならない影を金と取替えてしまったため、人間社会から締め出されてしまった私だが、この魔法の靴があれば、世界中をめぐり自然を研究しながら生きていく事ができる。影のない私は大自然の中には居場所を見つけたのである。
 ただこの魔法の靴はどんどんと先へ進んでしまい、一ヶ所にとどまっていられないという欠点があった。そこで私は、植物等を観察している間は進んでしまわないように、魔法の靴に上履きをはかせることにした。そして私は地理、植物、動物などについて前人未踏の研究成果をあげ始めた。

 しかしある時不注意から冷たい海に落ちてふらふらになってしまい、、気がつくとペーター・シュレミール療養院というところで介抱されていた。そこはあの親切で忠義者のベンデルが私を記念して、私の残した金貨で建てたものだった。
 ある日、ベンデルと未亡人となったミーナ(ラスカルは裁判沙汰で死んでいた)が、私には気がつかずに近くで話をしているのが耳に入った。二人は、あの試練を越えたからこそ今の心の幸せがある、あの方も同じ思いでいてくれますように、と私の心の平安を祈ってくれていた。
 回復した私は名乗りでたい気持を押さえ、今はとても順調ですよ、とメッセージを残して療養院を去った。
 そして私はますます研究に励むようになった。さて、これで私の不思議な物語はおしまいであるが、最後に世の中の人々にこれだけは言っておきたい…人間社会にいる者は、影を大事にしてください。お金はその後でもかまわないのです…。
(終わり)
<MYUの’sコーナー>
 「ホフマン物語」のシュレミールはジュリエッタに夢中になった挙句に影、そして魂までも悪魔にやってしまいました。ジュリエッタに夢中のシュレミールは嫉妬深く嫌味な人物に描かれています。
 でも、もともとのペーター・シュレミールは幸運の金袋と引き換えに影を失ったのです。彼は本来とても良い人です。そんな人でもお金に困ったらすり寄ってきた悪魔に魅入られちゃうんです、うまい話には気をつけろ、ですね。
 でも自分の軽率な取引を後悔したシュレミールは魂は絶対に売り渡そうとはしませんでした。そして最後は居場所と生き甲斐を見つけたのです。よかったですね。
 このお話は、シャミッソーが文学仲間のヒツィヒの子供たちに話してやった物語を元に書いたものです。このページでは短くまとめたので少々(かなり…)味気なくなってしまいましたが、深見茂氏の訳された物語は、いかにも子供たちに語りかけるような文体で、不思議な場面がたくさんあり、とてもおもしろいです。機会があったらぜひ読んでみてください。
 ところで灰色の男はポケットからいろいろなものを取り出しますが、何だか「どらえもん」みたいですね。「どらえもん」でも道具をもらったのび太くんはよくひどい目にあっています。しかしどらえもんはのび太くんの教育係として未来から派遣された猫型ロボットで、いつものび太くんのために行動しているので、おしおきの後のび太くんはけろりと元気になっています。しかしシュレミールは相手が悪魔であったため、のび太くんよりきちんと反省しているにも関わらず、影は戻ってきませんでした。
 それではここでの教訓です。「どらえもんは現実にはいない。ポケットから出て来たお宝グッズとの取引は絶対にやめよう。」





<参考文献>


魅惑のオペラ「ホフマン物語」(シューダンス版)  小学館
     コヴェント・ガーデン王立劇場管弦楽団&合唱団
    於 コヴェント・ガーデン王立劇場 1981年1月2日
    配役  ホフマン・・・・・・・・・・・・プラシド・ドミンゴ
         ニクラウス、ミューズ・・・クレア・パウエル
         オランピア・・・・・・・・・・・ルチアーナ・セラ
         ジュリエッタ・・・・・・・・・・アグネス・バルツァ
         アントーニア・・・・・・・・・イレアナ・コトルバス
      
「ホフマン物語」  安藤元雄/訳  新書館
「ホフマン物語」  チャンバイ・ホラント/編  音楽之友社
「ホフマン全集4−1 セラーピオン朋友会員物語1」 顧問官クレスペル   
   ホフマン/箸  深田甫/訳  創土社
「ドイツロマン派全集 第十三巻」 大晦日の夜の冒険  
   ホフマン/作  前川道介/訳   株)国書刊行会
「ドイツロマン派全集第五巻」 ペーター・シュレミールの不思議な物語   
   シャミッソー/作  深見茂/訳   株)国書刊行会
E.T,A.ホフマン  ある懐疑的な夢想家の生涯
   リュティガー・ザフランスキー/著
   叢書・ウニベルシタス 439
   法政大学出版局


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