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メッセージ

羊飼い 『約束の聖霊』
使徒行伝 2章1−13節
2001/6/3 説教者 濱和弘

本日は、ペンテコステ礼拝です。ペンテコステというのは、父なる神、子なる神イエス・キリスト様、聖霊なる神の三位一体なる神の、聖霊なる神様が、私達の生活の場に来てくださり、イエス・キリスト様を信じるクリスチャン一人一人の心の中に住んでくださるために、天から下ってきて来て下さった事を覚え記念する、クリスマスやイースター(復活祭)と共に、教会にとっては大切な祝いの日なのです。もちろん、おおよそ2千年前になりますが、その時に神の身元から私達のところに下ってきてくださった聖霊なる神様は、今でもクリスチャン一人一人と共にいてくださり私達を導き、支えてくださっているのです。そうは言いましても、聖霊というぐらいですので、聖霊なる神様は「霊」でありますから、目で見える存在ではありません。ですから、どうしたらこの目に見えないお方の存在を確かめられるのか。ある意味それはむつかしい問題であり、けれども、クリスチャンにとっては興味ある問題でもあります。それは、単に聖霊なる神様ということだけではなく、神様が存在するとすれば、どうやってその存在がわかるのか、というような、私達クリスチャンが、また人間の一人一人が向き合わされる問題であり、興味なのかもしれません。

もう何年も前といいますか、十数年前になろうかと思いますが、確か朝日新聞社であったと記憶しているのですが、新興宗教とか新々宗教と呼ばれる様々な宗教団体をルポタージュした本が出版され、私もそれを読みました。その中に、忘れられないひとりの人の言葉があり、それは今でも私の心の中に鮮明に焼きついています。それは、かつてはクリスチャンであったのですが、もう名前は忘れましたが、ともかくある新興宗教の信者になったという人の言葉でした。その方はこう言うのです。「私がかって通っていたキリスト教会は、2000年前のイエス・キリストの事を語ります。しかし、今ここでは毎日病人が癒され、奇跡がおこるのです。どちらを信じるかといえば、それは明らかな事ではないでしょうか。」と。私は、その本に書いてある言葉を読みながら、その言葉を語った人の言葉もあながち理解できないわけではないと感じていました。病気や苦しみの中にあるとき、具体的な結果をもってその苦しみや悩みに助けの手を与えてくれるものにすがりつく気持ち、それはそれでわからなくはないのです。

とどのつまり、私達は結果で判断してしまう。つまりは何が起こったかということに関心が向いているのです。そして、そのような目で、この2000年前におこったペンテコステ、聖霊が神様の下から私達のところへ下ってきてくださったという出来事を見ますと、確かにそこには不思議な出来事が起こっているのです。2章の2節、3節を見ますと、突然、天から激しい風が吹いてくるような響きがあったと記されています。そして、その音は、かなり大きな音であったようで、6節には大勢の人が、この物音を聞いて集まってきたとあります。それこそ、突然の物音に「一体何が起こったのか」と興味をもって人々が集まってくるのです。そして、そこで見たものは、イエス・キリスト様の弟子達が様々な外国の言葉で話しをしている様子でした。もちろん、イエス・キリスト様の弟子達は、自由に外国語を使いこなせるような人たちではありませんでした。聖書は、7節で「どうでしょう、今話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは。いったいどうしたことでしょう」と、人々が驚きの声をあげている様子を伝えています。

もちろん、何が起こったかという事に目を向けるならば、不思議な激しい風が吹くような音が響くという自然現象があり、外国語を話せないはずの人たちが外国語を突然話せるようになるという奇跡的な出来事が起こっているのです。もし、私たちがそこにいたならば、「すばらしい!ここに神のみ業が起こっている。」と思わず叫びだしそうな出来事がそこにあるのです。しかし、その不思議な、人々をはっとさせ驚かせるよう出来事の影に見落としてはならないことがあります。それは、話せるはずのない外国の言葉を弟子達が話すという不思議な出来事の中で、弟子達が話していたのは「神の大きなみわざ」であったということです。具体的には、神がイエス・キリスト様によってもたらされる救いのみわざであったと考えられます。そして、さらに、14節以降を見てまいりますと、弟子達を代表してシモン・ペテロが36節に「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」と、人々の罪を鋭く指摘しているのです。

この「イエス・キリスト様を、あなたがたが十字架につけたのだ」と言われている言葉は、もちろん、弟子達の周りに集まったイスラエルの群集に対して向けられた言葉であると同時に、イスラエルの行政的指導者層や、宗教的指導者をも含んでいた事は間違いがありません。というのも、イエス・キリスト様が十字架につけられて死なれるという出来事の背後には、神様の救いのご計画があったのではありますが、しかし、この行政的指導者層や宗教的指導者層の暗躍があったこともまた、聖書の示す歴史の事実なのです。その、行政的指導者層や宗教的指導者層に対しても、はっきりとイエス・キリスト様を十字架につけたのはあなた達だと、ペテロはその罪を指摘するのです。もちろん、それは、単に断罪するということではなく、人々に自分の罪を思い起こさせ、その罪を悔い改めてイエス・キリスト様を信じて罪赦されるようにと願っての事ではあっただろうと思います。ですが、ともかくもペテロは、心を刺すように鋭く、人々の、また指導者達の罪の指摘をするのです。かつては、イエス・キリスト様にむかって「たとえご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と言った舌の根が乾かないうちに、イエス・キリスト様が捕らえられ、まさに殺されようとするその時には「私は、そんな人は知らない」と言ったペテロが、大胆にイエス・キリスト様の事を主でありキリストであると証言し、指導者達の罪と過ちを鋭く指摘しているのです。

かっては、イエス・キリスト様の復活の出来事に出会っても、回りを恐れて部屋の扉を堅く閉ざして、部屋の中に閉じこもっていた弟子達が、人前に身を曝してイエス・キリスト様を語る。ここには、ペンテコステにおこった不思議な出来事の物語ではなく、イエス・キリスト様の弟子達の内に起こった内面的変化の物語があります。かつての弟子達とは異なる、変えられた弟子達の姿があり、キリストにある弟子達の群れがある。「ペンテコステは教会の誕生日である」と教会では言います。それはペンテコステの聖霊が神のもとから下ってこられた事により、キリスト教が著しく広まり、多くの人々が弟子達の加えられてき、制度としての教会が形成される事によります。しかし、いうなれば、それもまた何が起こったかに関心が向けられている視点であるかもしれない。伝道が進展し、キリストを救い主と信じる小さき群れが大きくなり、もはや群れではなく教会という一つの制度・組織が生み出されるまでに拡大されていった。それも、また結果なのです。けれども、そのような結果に至るには、すっかりと変えられた弟子達の姿があったからだということが出来ます。あの変えられた弟子達が、まさしく教会の著しい成長を支えたのです。ですから、ペンテコステは、人が変えられる物語だといってもいいのかもしれません。イエス・キリスト様を信じ、神様から聖霊様を心の内側に頂いたクリスチャンは、確かに変る事ができるのです。

ところが、実際私たちがクリスチャンとなって、聖霊様を心の内側に頂いているはずなのに、聖霊様が私たちの心の中に住んでいて下さるはずなのに、いっこうに何も変っていないような感じがするということもあるだろうと思うのでありますし、私自身、一体自分はこんなのでいいのだろうかと思わされたりすることも少なからずあるのです。昨日私は、ペンテコステを前にして、少々気が重かった。鬱というわけではなのですが、しかしなかなか気が晴れないのです。私が、この三鷹教会に赴任してきて1年が過ぎましたが、この1年間皆様の祈りのうちにPBAという働きの場を通して超教派の働きをさせていただきました。この日本におきましては、東京とか大阪といった都市部の教会と、地方の教会とはいろいろな面で違っており、地方の教会、とくに田舎の教会は、様々な困難や苦しみを抱えています。私も、土居という田舎の教会でご奉仕させていただき、そこでほんの少しですが、それを経験させていただきましたから、PBAという超教派の放送伝道の仕事にたずさわらせていただき、少しでも、そのような田舎にある小さな教会のためにお役に立てる事は喜びでありましたし、この三鷹教会が、牧師の私をそのような働きに派遣してくださり、神の家族の痛みと重荷を共におっていてくださる事に、誇りと感謝を持っています。

しかし、ペンテコステを前にして、私はこの愛する三鷹教会に対して牧師として一体何が出来ただろうかと考えると、何も出来ていないようで心が重くなってきたのです。そして何かをしなければと、方策を捜し求める焦りに近いような感じさえする。もちろん、R兄弟が、転会してこられたり、Oさんが礼拝に出席してくださるといった変化があり、M兄弟・姉妹のお宅で家庭集会がもたれるようになり、そこに多い時には5−6人のお母さん方が集まり聖書の学び会が開かれるなど、本当に感謝な事は一杯あるのです。しかし、何だか心が晴れない。結局、考えてみますと、わたしもまた、急激な奇跡的な変化を求めるという視点で物事を見ていたのではないだろうかと思わされているのです。ペンテコステの日を境に、教会が著しく伸展した物語に目を奪われて、同じように奇跡的な出来事を期待して、私たちが変る事のできると言うペンテコステのもう一つの物語を忘れていたように思うのです。そして、ペンテコステ以後の教会の著しい伸展は、ペテロの弟子達の内側が変えられる事により、イエス・キリスト様が十字架に磔となることで、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった事を、地道に語り継げていく事によってなされていったという事が根底にあったということを忘れていたように思うのです。

そしてそれだけではない、弟子達の内側の変化は、弟子達同志の交わりに変化を与えていった。使徒行伝、2章の44節から47節にはこのようにかかれています。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。そして、資産を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」この信者となった者達の中に、ペテロやヤコブやヨハネといった12使徒と呼ばれた弟子達がいた事は間違いがない事ですかつては、この12使徒たちの中では、「一体この中でだれが一番偉いのか」といって言い争っていたもの達が、互いに助け合い、心を一つにし、共に喜びを一つにし、互いに交わりを持つような者たちに変っていったというのです。そんな弟子達の姿に人々は好意を持ち、そして仲間に加わっていったというのです。

私は何か、教会の劇的な伸展、急激な変化を神様が与えてくださること求めていたのかもしれません。しかし大切なのは、私達ひとりが、あの弟子達の麗しい交わりを生み出すように神様の前に変っていく事であり、そして私達は変っていく事ができる。いや、いまも変りつつあるのかもしれない。ペンテコステは、一つの境目です。ですから、ペンコステの記事だけをみていますと、聖霊なる神様が私どもの元にやってくると、なにかしら急激な出来事が、教会や私達に起こってくるような感じがする。しかし、突然に変るのでしょうか。聖霊様が私達の内に、教会にやってくると私達や、教会が劇的に変るのでしょうか。もちろん、そういったことを強調する人たちがおられる事を私達は知っています。そして、そのような人たちは、聖霊の賜物と呼ばれる、さまざまな徴が、聖霊なる神様が自分自身の内側に住んでくださることに起こってくるといいます。また、聖霊なる神の働きによって多くの人たちがイエス・キリスト様を御自分の救い主と信じクリスチャンとなられていくという、リヴァイバルと呼ばれるような、特別な働きがあることも知っていますし、そのことを信じています。たしかに、聖書の使徒行伝という書は、ペンテコステという出来事を機にして、弟子たちに、そしてクリスチャンの群れに起こった様々な変化、そしてなされた業の結果が記されている。

けれども、使徒行伝は、何も2章のペンテコステの出来事から始まっているわけではないのです。この使徒行伝を書き記したのは、医者であったルカであるといわれています。そのルカは、使徒行伝を書き記すにあたって、まず第1章で、イエス・キリスト様が十字架に磔になられて死なれ、その3日後によみがえられた後、40日間弟子たちのところにお現れなさった事を1章の3節に記しています。そして、40日の間にイエス・キリスト様は弟子達と触れ合い、神の国について弟子たちにお語りになったと記しています。このイエス・キリスト様との親しい、人格的な交わりを通しながら、弟子達は本当に、イエス・キリスト様のことを深く知り、また、イエス・キリスト様のご生涯の意味と目的、そして十字架の死とその死からの蘇りの意味を、本当に知っていったと思われます。そしてこのことが、あのペンテコステの出来事の後に、ペテロを初めてし、イエス・キリスト様の弟子達が伝え語っていった内容であったのです。

ですから、彼らの内側に起こった変化というものは、なにもペンテコステの出来事の時に、突然起こった事というわけではなく、イエス・キリスト様との人格的交わりの中で、深くイエス・キリスト様がどのようなお方かを知っていく中で、彼らは変っていったとも考えられるのです。イエス・キリスト様が、全ての人の、私達の、そして私の罪と汚れを赦すために、全ての人の、私達の、そして私の身代わりとなって死んでくださり、そしてその罪の裁きである死に打ち勝って蘇ってくださった。そのことを、深く知り、そのことを、全ての人に伝えるようにという使命を弟子たちに与えて下さっている事を、弟子達は知るようになっていった。ペンテコステの時に、私達のところに神様の身元から下ってきて、私たちに与えられた聖霊なる神様は、弟子達がその使命を行う事ができるようにと、ポンと背中を押してくださったのです。使徒行伝の1章8節に「しかし聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまでに、私の証人となります。」と書かれているように、彼らは、ポンと後ろから押し出す力を頂いて、まさしく世の中に出て行き、キリストの証人として語り始めたのです。彼らがイエス・キリスト様の証人となって、イエス・キリスト様の事を語り伝える使命に生きるように目ざめ始めたのは、復活のイエス・キリスト様と交わりをもった40日間の間の出来事だったのです。その彼らの中に起こった変化を、聖霊なる神様が、彼らの内側に住んでくださることによって、内側からの力を与えてくださり、彼らの背中を押して、彼らを押し出してくださったのです。

教えられてもいない外国の言葉を話すと言う不思議な出来事も、地の果てにまでキリストの証人となるために、必要な手助けにしか過ぎない事です。聖霊なる神様は、イエス・キリスト様との人格的な交わりを通して、私達の内側に起こった変化を、具体的な生活の場で具体的に表わしていくために力を与えてくださるお方なのです。聖書には、聖霊が私たちにもたらすものは、愛、柔和、寛容、平安、喜び、親切や善意・誠実といったものであるといいます。もちろん、これらのことが大切な事は誰もが知っている事です。しかし、同時に、それらのものが、私たちに欠けていることを、私たちは十分に知っている。しかし、イエス・キリスト様と深く交わりを持つ中で、私たちはその欠けを深く知り、それら聖霊の実と呼ばれるものを、深く渇望するようになる。それも具体的な場で、あの人に優しくし(例えばご主人であったりお姑さんなんて事もあるでしょう)、あの人の誠実でありたいなどと感じるようになる。それまでは嫌い、憎んでいたような人に対してまでそう思うように変えられていく。そして、聖霊なる神様は、私たちの内側に起こった変化を実現する事のために私たちの背中をポンと押し、力を与えてくださるのです。

お祈りしましょう。