メッセージ
アドベント第二週
『人を捜し求める神』
創世記 3章1−12節
2001/12/9 説教者 濱和弘
さて今日は、午後からクリスマス・コンサートがあります。教会でも、クリスマス・コンサートを初めとして、様々なクリスマスの諸行事が行われてまいりますが、同様に、町中もすっかりクリスマス気分といった感じになっています。ですから、商店街ではそれぞれのお店に、クリスマスの飾り付けがなされ、またクリスマス用の商品が売られたりしていますが、そのようなクリスマスの飾り付けを見ていますと、圧倒的に多いのは、やはりなんといってもサンタ・クロースのように思われます。もう、ずっと前になりますが、クリスマス・イヴの夜に、クリスマスは何の日ですかという質問を、街頭でおこなっているテレビの場面を見たことがありますが、その中でサンタ・クロースの誕生日と答える人がほとんどだったことを記憶していますが、あのようにサンタ・クロース一辺倒に飾り付けをみておりますと、それも納得がいくような気がします。
もちろん、そのような飾り付けの中あって、天使をあしらったものなども見られ、若干ではありますが、それでもなんとかキリスト教的な雰囲気を留めている部分もあるようです。そうはいっても、そのようなキリスト教的な雰囲気といいましても、それは天使なのであって、イエス・キリスト様ではない。まさに神の独り子であられるイエス・キリスト様がお生まれになったという歴史的な出来事に根ざしているクリスマスなのですが、しかし街中のクリスマスからは、完全にイエス・キリスト様は締め出されてしまっているのです。そういう状況を見ると、私たちクリスチャンにとっては、いささか寂しい心持ちにさせられるのですが、しかし、ある意味、「それもまたクリスマスのもう一つの姿なのかな」とも思わされています。イエス・キリスト様のお生まれになったということを覚えそれを記念するクリスマスに、その当事者であるイエス・キリスト様が不在であるのに、そのような状況が、クリスマスのもう一つの側面であるというは、じつに奇妙なことだといえます。
しかし、それでもクリスマスとは一体なんだったのかということを考えますと、クリスマスがイエス・ キリスト様と全く無関係なものにされたということも、確かにクリスマスらしい出来事であると、そう思わざるを得ないのです。私は、今朝のアドベント第2週の礼拝説教を、創世記の3章の8節から12節に定め、そのタイトルを「人間を捜し求める神」といたしました。けれども、この「人間を捜し求める神」という説教のタイトルは、私が考え出した、私のオリジナルなものではありません。実は、この「人間を捜し求める神」というのはアブラハム・ヘッシェルという人が同名の本をお書きになっておられ、その本のタイトルを、本日の礼拝説教のタイトルに拝借したような次第なのです。私が、このアブラハム・ヘッシェルの「人間を捜し求める神」という本に出会ったのは、もう、大方10年近く前になりますが、東京聖書学院の3年生のときでありました。
神学校での学びも最終学年になり、いよいよ卒業論文を書かなければならないという状況になりました。そこで、私はクリスチャンの意思決定がどのようになされるかという、そのプロセスについて論文を書くことにしたのですが、その論文を書くための指導教授に、聖書学院の学院長である小林和夫先生がなってくださった。そんなわけで、小林先生がいろいろとご教授くださったり、参考文献などをご紹介くださったのですが、その中の一冊に、その「人間を捜し求める神」という本があったのです。そのとき、小林和夫先生は、この「人間を捜し求める神」という本を非常に高く評価なされながらこのようにおっしゃった。「濱君ね。この本の主題はね。神様が人間に対して、熱い熱情をもって愛しておられ、それゆえに失われてしまった人間を、捜して探して、捜し求めておられるということなんだ。そして、人間を探して探して捜し求めて、捜し求めつづけて、ついにご自身が人にまでなられるほどに、私たち失われた人を捜し求められた。それがクリスマスなんだ。」
私は、この言葉が実に味わい深い言葉として心に残った。だからこうして今でも覚えているのですが、私たち人間が失われてしまい、神の前から居なくなってしまったときに、イエス・キリスト様は、神であられるお方であったのに、その神であられるお方が人間になられて人の世界に来られるまでして、私たち人間を捜し求めておられるというのです。実際、聖書ではイエス・キリスト様ご自身が、ご自分のことを指して、御自分を羊飼いとして譬えておられますが、その羊飼いは、100匹いる羊の内の一匹がどこかに行ってしまい、見失ってしまったならば、残っている99匹を置いてでも、その失われた1匹の羊を捜し求めてさまよい歩く、そんな羊飼いだと言われる。まさに、失われた人間を捜し求めておられるお方、その方がイエス・キリスト様なのだというのです。
しかし、イエス・キリスト様の側において、人間が失われてしまっているということは、人間の側においてもまた、イエス・キリスト様を見失っているということであり、それはとりもなおさず神様を見失っているということでもあります。そういった意味では、イエス・キリスト様不在のクリスマスに興じている人間の姿こそは、まさに失われてしまった人間の姿がそこにあるようなものですから、それゆえに、そのようなクリスマスのあり方それ自体が、別の意味で、神であられたイエス・キリスト様が、人間を捜し求めて人となられたというクリスマスの一面からしてみると、それはそれで当然起こりうべき側面なのかもしれないとそう思った次第なのです。そのように考えてみますと、今朝のテキストの箇所などは、まさしく神様が、人を見失ってしまった人間を探しておられるような状況が描かれている場所であります。最も、神様が人間を見失ってしまったというよりもは、人間が神様の前から隠れてしまったので、神様が人間を探しておられるといったのが実情なわけですが、ともかくも、神様が人間を探しながら呼びかけておられるというのです。
8節に人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠したとありますが、人類最初の男と女であるアダムとエバが、神様と顔をあわせるのを避けて身を隠したのは、彼らが、神様のお定めになった戒めを破ったからでした。しかし、アダムとエバが、神の戒めを破ったと申しましても、実は彼らに与えられていた戒めは、創世記2章17節にあるたった一つの戒めだけでありました。16節から記されております神様の言葉を読んでみますと、主なる神はその人に命じていわれた。「あなたは園のどの木からでも心のままにとって食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取ってたべてはならない。それを取って食べると死ぬであろう。」とあります。これは、食物に関することですが、アダムもエバも、エデンの園にあるどの木からも、「その実を取って食べてよい」と言われています。しかも「心のままに」といわれているのですから、事食べることに関しては、アダムとエバは全くの自由を与えられていたといえます。しかし、たった一つ「善悪を知る木から取って食べるな。」という事だけが、彼らに対する戒めとして神様から与えられえていました。彼らは、すべて自由に振舞えるそのなかで、たった一つただこの神の言葉にだけ聞き従えばよかったのです。
しかし、それができなかった。彼らが、どうして、たった一つのこの神の言葉に従うということができなかったかということを、聖書は、創世記3章6節でこう説明します。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べた。と聖書はそういうのです。食べるによく、目には美しいというのは、善悪を知る木の外見的特長です。たしかにこの外見的特長も、人の食欲をそそるようなものであったようですが、決定的な理由は、善悪を知る木の実にあったのではなく、むしろエバの内面にあったと言えます。エバは、その実が、「賢くなるのには好ましい」と思われたからこそ、その実を食べたのです。つまりエバの、自分は賢くなりたいという心の内側の内的な欲求によってその実を取って食べたのです。
賢いということは、私たちにとっては良いことのように思われます。それで、聖書のこの箇所をとって賢いことが良いことか悪いことかを論じるのは、ちょっと聖書の言わんとするところとは筋違いのような感じがします。というのも、聖書のこの箇所でいう賢いという内容は、エバに善悪を知る木を食べるように誘惑したへびの言葉の中に見出すことができます。それは3章5節の言葉なのですが、そこには「それを食べると、あなた方の目が開け、神のように善悪を知る者となることを神は知っておられるのです。」というへびの言葉が出ています。「神のようになる。」ここで賢くなるということは神のように自らを高めることであり、そう言った意味では、エバのうちに起こった心の中の欲求とは、神のように自分を高めたいという自分自身に対する自己の追求に対するおもいであります。もちろんここにも、自己を高めることが悪いことなのかどうかという問いが投げかけられそうなかんじがしますが、しかし、本当に注意すべきなのは、自己の追及というものが突き詰められていきますと、自分自身が神のようなものとなるところにまで、自分自身を追い求めていくというところにあるではないでしょうか。
「自分とはいったい何か?」というように、自分自身といったものを追求していくときに、私たちの目は当然のことながら自分の内側に向けられていきます。そしてこれもまた至極当然のことですが、自分自身の関心が、自分自身の内側に向けられていくとき、私たちは自分自身の様々な姿と言いますか、思いや欲求といったことに気づきます。そうやって自己と言うものを発見していくのですが、この自己を発見し、自己を追及していくということによって、人間は自分自身がかけがえのない独りの個性であるということに気づくのですが、しかし、そのような自己の追求といったものが、独りの個性としての自分に気づかせる反面、それが独りの個性ですから、結果として人間自身をひとりぽっちにしてしまうという皮肉な結果を産んでしまうのです。フランシス・シェーファーと言う人がかいた「それでは如何に生きるべきか。」という本がありますが、この本は様々に興亡した西洋の文化と思想に対する論評を通して人間とは何かということを示している本なのですがその本に、中世におこったルネッサンスという歴史的な出来事は、人間にある限りないひとりの存在としての個性といったものをきづかせてくれたが、しかしそれに伴ない、その一人一人の人間を互いに結び合わせていたきづなといったものが失われてしまったというのです。
つまり、人が、ひたすら自分自身を追求していくことのみに没頭してしまうと、人と人との関係にひびが入りこわれてしまうことになってしまうのだというのです。確かに、私たちが私たちのやりたいこと、欲しいもの、そういったことばかりを追求し、求めていると、家族関係や友人関係を壊してしまうといったことが、私たちの周りには少なからずあります。自分の欲しいものはどんなことをしても手に入れる、自分のしたいことがあるならば回りのことなど関係なくそうしてしまう、私たちが、そのような人を見るときに、私たちはそのような姿を、「わがままだ」とか「自己中心的だ」などと批判的に見てしまいますが、しかし、そのようなことの根底には、飽くことのない自己の追求というものが横たわっているのです。結局、私たちが自分ということだけを追求していくならば、私たちは、私たちの周りの関係といったものを保てなくなってしまう。だって私たちが関係を持つ私たちの周りにいる人も、私と同じように、かけがえのない個性としての意思や、思いといったものを持っているからです。
私の家内は、かっては学校の教師でした。その家内がときどき、いえ再々言うのですが、「学校教育で個性の尊重といったように個性個性というようになってから、おかしくなってきた」と言うのです。つまり、個性という自己の追求が中心となってきたと同時に、人と人とのつながりを生み出す倫理観や社会性といったものが崩壊し始め、崩れ始めてきたのではないかと家内は見ているわけですが、それは奇しくも、先ほどのシェーファー博士の言っていることと同じようなことなのです。そうしてみると、内の女房も捨てたもんではないなと言う感じがしますが、ともかくも、自己の追求といったものは、人の持つ関係といったものを壊してしまう危険性を持っていると言えます。そして、まさに今朝の箇所において、人間の自己追及の思いと行為が、神様と人間の間にあった関係といったものを崩壊させてしまった出来事が記されているのです。
へびの誘惑によって、自分自身が神様のように賢くなりたいと気づいたエバは、善悪を知る木の実が、「神のように賢くなるには好ましい」と思われたとき、「それを取って食べるな」という神の言葉に耳を傾けることなく、それをとって食べるのです。神様と自分の関係にひびを入れ壊してでも、善悪を知る木の実を手に入れ、そしてそれを食べるのです。こうして、神様と人との関係が崩壊し、人は神様の前から身を隠し、神様は人間を見失ってしまった。聖書では、神様が人が善悪を知る木の実を取って食べたならば、人は必ず死ぬであろうと、そうおっしゃっています。それは、単に肉体的意味での死と言う以上に、神様と人との関係が崩壊し壊れてしまっていることをさしていると言ってもいいだろうと思います。神と人との間の関係が壊れて死んでしまったようになってしまうのです。
そのような壊れてしまった関係の中で、神様は人を呼び求められるのです。人とその妻が神様の御顔を避けて身を隠している時に、神様は彼らに対して「どこにいるのか」と呼びかけながら、エデンの園の中を探して歩かれるのです。それは、神様の方から、壊れてしまった神様と人との間の関係を回復しようとするために、神様は人を捜し求めてさまよい歩かれておられたのだといってもいいだろうと思います。そして、その壊れてしまった神様と人との間の関係を修復し和解をもたらそうとして、神様は人となってこの地上にまでやってこられた、それがまさにクリスマスということなのです。この「人間を捜し求める神」という説教題のもととなったヘッシェルの本には、「聖なる歴史は過去と現在の境界線を克服しようとする企てと、過去を現在時制で見ようとする試みとして記述することができる」というようにかかれている一文があります。それは、聖書の歴史が決して過去のものとはならない出来事だからです。あの太古の歴史の中で起こった、神様と人との間に起こった関係の崩壊は、今日の私たちの間にあっても起こっていることであり、また神様が、人類最初の人であるアダムとエバを捜し求めてエデンの園を捜し求めて、彼らのことを呼びながら歩かれたように、今日でも私たちを呼び求め捜し歩いておられるのです。
今朝、私たちは、イザヤ書43章の御言葉によって、この礼拝にと招かれました。それは、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。」という御言葉です。まさしく、神があなたを、私たちを呼び求め、探し求めておられるのです。そして、それゆえに、そのように人を求めて神が人となられてこの地上にお生まれになったクリスマスの出来事もまた、それは2000年前の出来事としてではなく、今日私のために、私たちのために起こっている出来事として、私たちは知らなければなりませんし、語り伝えて行かなければならないのです。
お祈りしましょう。