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メッセージ

羊飼い クリスマス記念礼拝
『思い続ける出来事』
ルカによる福音書 2章1−20節
2001/12/23 説教者 濱和弘

さて、今日は、私たちが心待ちにしておりました、クリスマス礼拝であります。これまでも繰り返し申し上げてきましたように、クリスマスはイエス・キリスト様がこの地上にお生まれ下さったということを覚え、記念し、またクリスチャン一人一人がそのことを感謝を持って心に受け入れ、そして心に刻む日であります。それと同時に、今日は、M君の洗礼式がもたれます。これもまた、私たちが待ち望んでいたことであります。私たちの教会で最後に洗礼を受けられたのがN兄弟だということでしたので、記録を調べてみましたところ、1990年の奇しくも今日と同じ12月23日に受洗となっておりましたので、11年ぶりの洗礼式ということになります。人が、自分自身の冒した罪、また自分自身の中にある罪深さといったものを知り、その罪と罪に対する神の裁きから救いだしてくださるお方として、イエス・キリスト様を自分の救い主と信じるとき、人はクリスチャンになります。そしてクリスチャンとなったものが、洗礼を受ける。

これは、教会の歴史が始まった当初から受け継がれ行われてきた礼典でありました。そしてそれは、古代の教会においては、キリストの体なる教会につながる教会の入会式といった意味合いも持っていました。それは、神にある永遠の命の源であるイエス・キリスト様につながるということですから、救いということと深いかかわりがある。もちろん、人は、行いや行為に於いて救われるわけではありませんから、洗礼という行為をおこなった、洗礼と言うものを受けたということで救われるというわけではありません。しかし、人間の限り有る言葉を超えて、人が救われたという出来事、事実を洗礼という礼典は私たちに示してくれる。まさしく、言葉ではない行為によって示される神の言葉にならない言葉が洗礼という礼典なのです。

そしてその洗礼においては、イエス・キリスト様を救い主と信じたものを、一度水に浸し、そしてその水の中から起き上がらせます。もちろん水の中につけっぱなしですと死んでしまいますから、とにもかくにも起き上がらなければなりませんが、しかし水の中に人を浸し、そして起き上がるというその一連の行為そのものにも意味がある。もともと、洗礼という行為は、ユダヤの荒野にあるクムランという洞窟に終結していたエッセネ派と呼ばれるグループの間で行われていた沐浴に関係があるのではないかという学者達がいます。このエッセネ派でもたれていた沐浴という洗いの儀式は、それこそ、罪に汚れた身を洗い清めるといった意味合いでした。そういった意味では、日本で言う「禊ぎ(みそぎ)」といったものに通じるものがあります。もちろん、教会で行われる「洗礼も罪の赦し」と深いかかわりがありますから、罪を洗い清めるという意味あいもありえるといえるでしょう。しかし、単に水による洗いの儀式というだけではなく、その身を一度水に完全にザパッと浸し、そして再び水の中から起こすのです。

それは、単に水により罪と汚れからの洗いきよめる儀式というだけではなく、罪人であった人が、一度水に沈むことで死に、そして再び水から起き上がる事によって神の子、神の永遠の命をいただいたクリスチャンとして新しく生まれたという、まぎれもない出来事を洗礼という礼典は、私たちに告げ知らせるのです。もちろん、歴史の中で、病気の人や体の弱い人に対する気遣いからなのだと思いますが、水にザパッと全身を沈めてしまう、いわゆる全浸礼というものだけではなく、頭に水のしずくを注ぐ滴礼という方法も行われるようになってきました。実は私も、この滴礼によって洗礼を受けたのですが、しかし、それが礼典として執行されたならば、それが滴礼であろうと、全浸礼であろうと、洗礼の持つ意味には何ら違いがないのです。ですから、そういった意味では、洗礼は、私たちクリスチャンが新しい神の命に生まれたということを記念し、心に刻み覚えるときであるということができるかもしれません。

新しい命が生まれる。それは、洗礼によって象徴的に示されている神の子としての永遠の命の誕生であっても、この肉体にやどる肉の命であっても、喜ばしいことですし、忘れられないことです。それは、生まれいずる命には、一つとして無駄な命、不必要な命などなく、命が生まれだされてきたということに何らかの意味と意義があるからだといえるからかもしれません。いうなれば、この世の中に不必要な人など一人もいないということなのでしょう。けれども、同じように意味ある命、意義ある誕生を迎えた人でも、その生まれ方、生まれてくる場所は様々です。豊かさの中に生まれてくる命もあれば、貧しさの中に生まれてくる命もある。そういった意味で、イエス・キリスト様のお誕生をふりかえってみると、生まれたばかりのイエス・キリスト様の誕生は、飼い葉桶の中に寝かせてあったというのですから、決して豊かさの中に生まれてきたとは言い難いものであったといえます。

事実、今朝お読みいただいた聖書の箇所に引き続く、ルカによる福音書2章の22節から24節には、当時、出産後40日目に男子を出産した母親に対して行っていたユダヤ教のきよめの儀式に、マリヤとヨセフは山鳩一つがいか、もしくは家ばとのひな2羽のどちらかを捧げたようですが、これは本来は、一歳の子羊1頭と家ばとのひな1羽か山鳩1羽がささげられるものでした。もっとも、貧しい人たちは子羊1頭を捧げることなど、なかなかできないわけで、そういったことから、貧しい人たちは、その犠牲の捧げものが、山鳩一つがいか、家ばとのひな2羽のいずれかでよかったのです。ですから、ヨセフとマリヤの捧げものが、その山鳩一つがいか、家ばとひな2羽のいずれかであったということは、彼らが決して豊かではなかったということ指し示しているのです。しかし、彼らが如何に貧しかったとしても、初めて生まれてきた自分達の子供を飼い葉桶に寝かせなければならない状況であったということを思い、マリヤとヨセフの心情を慮(おもんばか)ってみますといかばかりであったろうかと思わされます。

もちろん、それは宿屋に彼らのいる余地がなかったという止むを得ない事情があったにせよです。生まれてくる子供を、こともあろうに飼い葉桶に寝かせなければならない。ましてや、マリヤにしろ、ヨセフにしろ、生まれてきた子供が、神様の御業により聖霊によって身ごもった救い主であると天使達によって知らされていた子供なのです。そのイスラエルの民を救う救い主であるはずの子供が、飼い葉桶に寝かされなければならないような生まれ方をなされた。しかも、そのように飼い葉に寝かされている赤子を、羊飼いが捜してやってき、そして、羊飼い達が見、そして、天使から聞いた言葉を知らせるのです。そのこと知らせた内容が9節以降にありますが、お読みいたしますと、すると主の御使いが現れ、主の栄光が彼らをめぐり照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使はいった。「恐れるな。見よすべての民に与えられる大きな喜びを、あなた方に伝える。今日ダビデのまちに、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。あなた方は、幼子が布に包まって飼い葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それがあなた方に与えられるしるしである。」するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使いと一緒になって神を賛美していった。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなうものに平和があるように」。と記されている。

けれども、ここに記されている、主の栄光が彼らをめぐり照らしたという輝かしさのかけらも感じられない、また天使達とともに天の軍勢が神に賛美の声を上げたのに全く似つかわしくない、みすぼらしい飼い葉おけの中に、生まれたばかりのイエス・キリスト様は寝かされているのです。確かに、幼子が飼い葉おけに寝かされるのは、救い主のしるしであると御使いはそう告げている。そしてその通りにイエス・キリスト様が飼い葉桶の中で眠っておられるということは驚くべきことです。ですから、羊飼いが見聞きしたこと、そして御使いたちが語ったとおりの出来事が起こったことが何もかもそのとおりであったことを人々に伝えたときに、人々は驚いたのです。18節に人々は不思議に思ったという言葉は驚くとも訳される言葉です。御使いの語った通りのことが起こったということは、人々にとっては、驚き怪しむほどに不思議な出来事だったのです。けれども、それでも生まれたばかりの赤ん坊は、貧しい家庭に生まれた一人の男の子に過ぎないことはたしかだったのです。御使いが、いかにこの子が、「あなた方のための救い主である。」と告げても、「このかたこそ主なるキリストです。」といっても、飼い葉おけに寝かされている子には、それを見る影もないのです。

ですから、そのときには人々は驚き怪しみ不思議に思ったとしても、それまでなのです。ですから、聖書の歴史もわずか12歳の時に起こった出来事のみしるして、御降誕から救い主としての活動をはじめられるまでの30年の間のイエス・キリスト様のご生涯について何も語っていません。まさしく、誰の目にもとまらず、誰の記憶にも残らず忘れ去れ、イエス・キリスト様の御降誕の出来事は歴史の中に消え去ってしまっていた。けれども、聖書は「マリヤはこれらの事を、ことごとく心にとめて、思い巡らしていた。」というのです。19節にある「心にとめて思い巡らしていた。」という言葉のギリシャ語は、マリヤがこれらの出来事が起こったことをずっと心に刻み込んで、繰り返し繰りかえし思い起こしていたことをあらわしています。誰もが忘れ去ってしまったことでも、マリヤは決して忘れないで、ずっと思いつづけていた。マリヤとヨセフに告げた言葉を、羊飼いが見聞きした出来事を、彼女は忘れることなく心に刻んで思いつづけていたのです。このマリヤの心に刻み込まれた神様が御使いを通して、示しそして語られた言葉が、確かに歴史の中に出来事としておこったのです。

神の語った言葉は出来事となる。それは旧約聖書を構成するユダヤ人達の言葉、へブル語の根底を流れる思想です。そしてその通りに、人から忘れ去られようと、歴史の中に消し去られてしまったとしても、確かに出来事となって起こるのです。だから、私たちも、マリヤのように神の言葉を心に刻まなければなりません。私たちがキリスト者として新しく生まれたときに起こった出来事を、神の約束の言葉を心に刻み込んで思いつづけるのです。洗礼という出来事を心に刻むのです。救い主であるイエス・キリスト様が私のために生まれてくださった。主なるキリストが罪深い罪人である私たち救う為に生まれ下さったことを心に刻むのです。

今日、今から、M君の洗礼式が執り行われます。この出来事を私たちはしっかりと見届けたい。2000年前に「今日、ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」と告げられた言葉が、今日ここに出来事となって起こってくるそのことを見届け、そして心に刻みたいと思うのです。そして、すでに洗礼を受けられておられる方は、どうぞご自分の洗礼のときの出来事を心に思い起こしていただき、それを心に刻み込んで戴きたい。それは、私にも、あなたにも起こった出来事なのです。そしてまだ信仰を持っていない方にも、お勧めしたい。あの2000年前に起こった救い主のお誕生という出来事。飼い葉おけに寝かされた救い主の誕生という出来事は、あなたにも必ず起こることができる神様の約束の出来事なのです。

お祈りしましょう。