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メッセージ

羊飼い 『聖霊によって立てあげられる教会』
ヨハネによる福音書 14章16−17節、15章16節
2002/5/25 説教者 濱和弘

さて今日は、ペンテコステ記念礼拝です。本来の教会暦上は、先週がペンテコステだったのですが、私の御用の関係で、1週間ずらして、ペンテコステの出来事を祝う記念礼拝を今日行なうこととしたのですが、ペンテコステというものは、イエス・キリスト様のお誕生を祝うクリスマス、イエス・キリスト様の復活を祝うイースターとならんで、キリスト教の3大祭日の一つでありますが、何を祝し、祝うのかと言いますと、聖霊なる神様が、天よりこの地上に送られ、私たちの助け主として、私たちと共に住み、ともに歩んでくださるようになったことを祝う日であります。同時にペンテコステは、教会の誕生日であるといった言い方を致します。聖霊なる神様が、私たちの助け主としてこの地上に来てくださり、私たちとともに歩んでくださることによって、初めて教会というものが出来上がったというのです。そういうわけで、先ほど司会者の方にお読みいただきました聖書の箇所は、イエス・キリスト様が、ご自身が十字架にかかって死なれたあとに、その天にお戻りになり、この地上からいなくなられたイエス・キリスト様のあとに、その助け主なる聖霊なる神様がやってきてくださるという、イエス・キリスト様ご自身のお約束の言葉であります。

しかし、ペンテコステが、教会の誕生日であるというとき、それはこの聖霊なる神様が、私たちの所にやってこられることによって、初めて教会というものが出来上がったというのでありますから、考えてみますと、ペンテコステ以前には教会というものはなかったということになります。しかし、教会と日本語で訳されていますが、この教会と訳されるようになったもともとのギリシャ語、εκκλησια(エクレーシア)は、呼び集められた会衆という意味ですから、教会とは、神様によって呼び集められた人々の群れ、集まりを示すものです。そうしますと、ペンテコステ以前にも、12使徒を中心としたイエス・キリスト様の弟子たちの群れと言いますか集団はすでに出来上がっていたわけですから、それを教会と呼ぼうと思えば呼べたわけです。しかし、イエス・キリスト様は、その弟子たちの群れを「小さき群れ」とはお呼びになりましたが、決して教会とはお呼びにはならなかったのです。もちろん、福音書の中に残されているイエス・キリスト様の言葉の中に、教会について語られた言葉が全くないと言うわけではありません。

マタイによる福音書の16章には、イエス・キリスト様のお弟子達が、イエス・キリスト様に「あなたは私が誰だと思うか」と問われた時に、お弟子さんたちを代表してペテロが、「あなたは生ける神の子キリストです。」と答えたと言う記事が出ています。そのときに、そのペテロの答えを聞いたイエス・キリスト様は、たいそう満足して「ペテロ、あなたは幸いだよ、このことをあなたに教えたのは天の父なる神様です。私はあなたの上に教会を立てます。」とそうおっしゃった。「このペテロの上に教会を立てる」というイエス・キリスト様の言葉をどう理解するかについては、実はいくつかの解釈があるのでありますが、プロテスタント教会の多くは、これをペテロが「イエス・キリスト様を生ける神の子キリストです。」とそう答えたペテロの信仰告白だというふうに理解しています。イエス・キリスト様を生ける神の子キリストとして信じる信仰告白の上に教会が立てられていくのですが、この信仰告白は、神様に対してなされるものであると同時に、人々に対してもなされるものです。と申しますのも、ペテロがイエス・キリスト様に対して、「生ける神の子キリストです。」とお答えした時、それはペテロが個人的に答えた答えというだけではなく、お弟子たちみんなの総意でもあったのです。

つまり、お弟子達は、お互いに「イエス・キリスト様が生ける神の子キリストである。」という思いで結ばれていたのです。このように、お互いが同じ思いで結ばれる為には、何らかのコミュニケーションが必要です。たとえば、夫婦や教会が一つに結ばれていく為には、お互いの間にコミュニケーションが必要なのです。そのようなコミュニケーションを通して、お互いが同じものを共有していることを確認しながら一つに結ばれていき、互いに夫婦という固い絆で結ばれていることを確認し、教会という一つの社会で結ばれていることを確認していくのです。お互いを結び付けている絆、それは同じ何かを共有しているという事にかかっている。つまり、交わりを生み出すところの核となるものを共有するときに、その交わりは固い絆で結ばれるということが出来ます。この交わりを生み出す核となる部分に、イエス・キリスト様がいらっしゃるならば、弟子たちは、そのイエス・キリスト様の周りに集まりさえすれば、イエス・キリスト様を中心にして、お弟子たちは自然と交わりを生み出し、固い絆で結ばれていきます。交わりの核となり、中心となるイエス・キリスト様がお弟子たちをしっかりと結び合わせているからです。

ところが、もし、この核となる存在であるイエス・キリスト様がいなくなると、いったいお弟子たちの交わりは、どうなってしまうのでしょう。考えさせられることのようには思われませんでしょうか。いったいどうなるのか。教会もそうですが、教会に限らず社会一般に、圧倒的な指導力と求心力を持ったいわばカリスマ的な指導者が現れますと、その指導者を中心に、組織や交わりは一致団結し力強く問題に対処し、困難を乗り切っていきます。そういった意味ではリーダーシップというものは大切なのかもしれません。しかし、そのような圧倒的指導力と求心力を持った核となる存在がなくなると、とたんに、組織や交わりがばらばらになり、もはや困難や難しい問題に対処し乗り越えていく力を失うってしまうということは、少なからずあるものです。

たとえば、教会において、抜群のリーダーシップと、人間的魅力や人柄に優れた牧師が、一代で教会を築き上げるといったことは、実際に起こりうることです。それはそれで素晴らしいことだとはいえますが、しかし、 その人の本当の真価が問われるのは、その方がその教会を去った後に明らかにされるといえます。仮にその牧師がいなくなってしまったら、もうにっちもさっちも教会が成り行かなくなり、人々が去っていくようであるならば、一体彼がしてきたこと、彼が築き上げたものは何だったのか。たとえそれがイエス・キリスト様であったとしても、同じことが言えます。イエス・キリスト様が築き上げた「小さき群れ」。その群れの真価が問われるのは、イエス・キリスト様がその群れを去ってからなのです。だからこそ、弟子の一人であるヨハネと言う人の言葉を借りるならば、目で見、手で触れることのできる生きたイエス・キリスト様を中心として結び合わされている「小さき群れ」が、イエス・キリスト様がその群れを去った時も、しっかりと交わりを保っていくことができる為には、彼らは信仰告白によって結び付けられなければならなかったのです。

私たち、ホーリネス教団も、戦後の再建から50年、戦前から数えると100年の年月を数えるまでに成りました。私たちの教団は、その創立時には中田重冶、笹尾鉄三郎という、それこそ強烈なカリスマ性のある人物に導かれ、後は車田秋次や米田豊といった傑出した人たちの指導のもとに歩み、第二次世界大戦中の宗教弾圧という試練も乗り越えてくことが出来たのでしょう。そしてそのような伝統は現在の小林和夫先生や村上宣道先生に引き継がれ、これら諸先生のカリスマ性の中で、教団としてのまとまりを持っていたといえます。けれども、そのような人の能力や才覚に頼ってまとまりを持っていくことが難しい時代になりつつある今、私たちの教団が教団としてなり行く為に、何が必要なのか、なにがもとめられるのか?結局のところ、行き着いたのは、私たちはどのような信仰告白のもとに結び合わされているかということだったのだろうと思うのです。だからこそ、一昨年、私たちの教団の信仰告白というものが、創立以来100年たって始めて、公式なかたちで公にされたのだと思うのです。まさしく、イエス・キリスト様がこの地上からお姿が見えなくなるときにこそ、教会が教会として成り立っていく為には、信仰告白というものが求められ、その信仰告白の上に教会が立て挙げられなくてはならないのです。

ところが、イエス・キリスト様が、このペテロのよってなされた「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白を聞いた時、ペテロに対して「このことをあなたに明らかにしたのは人間ではなく、天にいます私の父です。」とそうおっしゃっておられる。つまり、ペテロがイエス・キリスト様のお弟子たちを代表して言い表した信仰告白は、自分たちが考え、練り食んで言い表したのではなく、父なる神様がそのように言わせたのだというのです。同じようなことを、後にパウロがコリント人への第一の手紙の12章3節に書き記しています。そこにはこう書いてあります。「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神は御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ。』とはいわず、また聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』ということができません。」この「イエスは主です。」という言葉は、イエス・キリスト様が十字架につけられて死に、復活なさったのちに天にお帰りになったあとのローマ帝国の支配と弾圧の中にあった教会の信仰告白であったといわれます。つまり、教会を教会として立たしめる信仰告白は、聖霊なる神様がお助けくださることなしには、言い表すことが出来ないと、パウロという人はそう言うのです。もちろん、口で「イエスは主です。」ということは、たやすいことであり、何も聖霊なる神様の力を借りなくても、言うことは出来ます。

しかし、イエス・キリスト様のご生涯とそのなされた業、十字架の上で死なれた死と、その死からの復活といったことが、私の罪を赦し、私に神の子としての永遠の命を与える為であったという宗教的な真理を悟らしめるのは、まさに真理の御霊である、聖霊なる神様の助けなしには起こり得ないことだと、そう聖書は言っているのです。だからこそ、教会は聖霊なる神様がお建てになったものだといえるのです。ペンテコステという聖霊なる神様が、天から私たちのところにやってきてくださり、私たちと共に歩み導いてくださることによって、教会は教会として成り立つことができるようになったのです。そして、今も教会が成り行く事ができるように、聖霊なる神様は私たちと共にすみ、私たちのうちにいてくださる。「イエスは主です。」という信仰告白は、聖霊様によって悟らせていただくところの深い宗教的真理を含んだ信仰告白でした。ですから、その意味においても、まさしく聖霊なる神様は助け主であるといえます。しかし、同時に、その信仰告白は、当時の教会を深刻で、難しい問題に直面させるものでもありました。

ともうしますのも、当時のローマ帝国においては、「カエサルは主です。」と言い表すことが、ローマ帝国に対する、また神として振舞っていた皇帝に対する忠誠を表明する言葉だったからです。その「カエサルは主です。」と言わずに「イエスは主です。」と言うということは、当時の人たちにとってはとても大変なことだったのです。ちょうど、私たちの国にはかつて「踏み絵」といったものがありました。紙や板切れなどに書かれたイエス・キリスト様の像を踏ませることによって、その人がキリシタンかどうかを確かめるのが「踏み絵」というものです。ですから、キリシタンの側からすれば「踏み絵」は、それを踏まない事による信仰の表明でもあります。しかし、それを踏まないことによって、その人は実に厳しい迫害と、生命の危機にさらされる。ローマ帝国の支配の下にあり皇帝崇拝がもとめられた教会が、「イエスは主です。」と告白することは、じつに教会を困難な状況にたたせることでもあったのです。しかし、人に「イエスは主です。」と告白することができるように助けてくださった聖霊なる神様は、その信仰告白のゆえに、困難や難しい問題にさらされる教会を、助け励まし、慰めてくださるお方でもあるのです。そして、そのような困難の中にあっても、私たちが正しく歩み、決断できるように導いてくださるお方でもある。

イエス・キリスト様は、聖霊なる神様を、助け主と呼ばれ、また「真理の御霊」とそうお呼びになられた。それは、イエス・キリスト様が、私たちの罪を赦し、私たちを罪の裁きから救い出だされる救い主であるという宗教的真理を私たちに聡めからしめるお方としての「真理の御霊」であると同時に、困難や難しい問題にさらされながら生きている私たちが、その人生を神様の前に正しく歩んで生きていけるように導いてくださるお方としての「真理の御霊」であると言うことができるのではないかと思うのです。私たちは、普通「真理」というと一つしかないように思います。確かに科学の世界では、ある決まった法則や原理・規則性によって物事が動いていきますから、そういった意味では真理は一つであります。しかし、「真理」はいつも一つとは限らないこともある。たとえば、何人かの子供を育てる時に、お兄ちゃんにこのようにしたらうまくいったから、弟にも同じようにしたらうまくいくかというと必ずしもそうではありません。同じように、かって行なってうまくいったことを、今行なったとしても必ずしもうまくいくとは限らないことなど山とあるものです。

聖書の中にも、似たようなことが記されています。それは旧約聖書にある出来事なのですが、イエス・キリスト様よりもずっとずっとむかし、おそらくは1300年から1100年ぐらい前に、イスラエルにはモーセと言う、偉大な指導者がいました。このモーセは、イスラエルの人たちがエジプトで奴隷として苦しい生活と厳しい労働を強いられていた時、神様から遣わされて、イスラエルの人々を、エジプトの地から助け出し、現在のパレスチナ地方に連れ帰った人です。いまでこそ、エジプトからパレスチナまででしたら飛行機だと数時間でしょうし、車でも一日あるいは二日もあれば行ける距離ですが、当時のことですから、歩いて旅をする。おまけにいろいろと故があって、イスラエルの人は荒野と呼ばれる砂漠地帯を40年もさまよいながら、あるいてパレスチナまで帰ったのです。それこそ砂漠地帯を歩いて帰るわけですから、途中で何度も飢えや渇きに苦しめられることがあった。ある時、やはりイスラエルの人たちはどうしようもないのどの渇きに襲われ、指導者であるモーセにその窮状を訴えました。

そのときモーセは、神様に祈り、この窮状を救ってくれるように願い求めたのです。すると神様は、モーセにある岩をお示しになり、モーセが持っている杖で、その岩を3度打つように命じられたのです。モーセは、その神様の言葉に忠実に従って岩を三たび杖で打った。そうすると、そこから水が湧き出て、イスラエルの人々の渇きが潤されたという出来事がありました。しかし、彼らがさまよっている場所は砂漠です。ですからそれからしばらくした後にも、おなじようなのどの渇きに曝されるような出来事が起こりました。このときも、モーセは神様にこのピンチを救ってくれるように祈るのですが、果たして神様はモーセに、同じように岩を示して、その岩に水を湧き出させるように命じなさいとおっしゃったのです。ところが、モーセには過去において岩を杖で3度打つと水が湧き出たという経験がありました。ですから、同じようにその岩を杖で打ったのです。そのときに神様は、モーセに対して、「私は岩に命じなさいといったのに、なぜあなたは岩を打ったのか」とおっしゃって、お怒りになったというのです。

このことは、暗に過去の成功の経験が、必ずしも後に同じようにやったからといって同じように成功を収めるものではないという教訓を教えてくれていますが、時と場所、また場合、場合によってなにが正しく、どのように決断すればいいのかは違ってくるものです。もちろん、過去の出来事はそれなりに参考になります。しかし、私たちが生きていく中で出会う様々な局面は、一つ一つ違っています。どれ一つとして同じ経験というものはないのです。ですから、教会が向き合う問題は、時代時代において、また場所場所において違ってきます。私たちの人生だって同じです。そのような中にあって、何が正しく、何が間違っているか。それを私たちに教え導いてくださるお方が「真理の御霊」である聖霊なる神様だというのです。私たちの教会が、また私という個人が、それそれの時代、時間の中で出くわすそれぞれの問題に対して、それを乗り越えていく知恵と力と勇気を与えてくれるお方が聖霊なる神様だと言うのです。それは、なにやら神秘的な声として、また神秘的な預言といったようなことではなく、聖書に記された言葉を通して、また聖書に示されたイエス・キリスト様のお姿を通して、時々に、場合場合にふさわしいように理解させてくださりながら、私たちを正しい決断に導いてくださり、慰めてくださるのです。

しかし、私たちは、歴史の中の教会を見てまいりますと、教会が多くの過ちを犯し、様々な失敗を繰り返した事実を見ることが出来ます。それは、その時々に真摯になって、神の導きを求め、聖霊なる神様が、聖書が指し示す、イエス・キリスト様の教えと、生き様を通して、その時々にふさわしく解き明かしてくださる神様の内なる声に耳を傾けなかったからかもしれません。そのような導きに頼るのではなく、過去の経験や聖書を超えたところの神秘的なものに頼ってきた為であるといっても良いかもしれないと、そう思うのです。今、私たちの教会は、現代という時代の日本という場所で、この国が、この時代に持つ様々な問題に、クリスチャンでない人たちと同じように向き合わされています。そこにおいては、クリスチャンもクリスチャンでない方も何ら変わりはないのです。しかし、何ら変わりがないからこそ、私たちクリスチャンは、神様の語る言葉、聖霊なる神様が開いてくださる聖書の言葉に耳を傾けていかなければならないのです。そうしなければ、教会は教会として立ちいかないのです。

同じように、私たち一人一人も、神様の声に、聖霊なる神様の導きにさとくなければ、この時代の、今の私たちの問題をのりこえていくことができないし、本当に魂に平安と慰めを得ることが出来ないのです。ですから、私たちは、神様に祈り、聖書を読み、ただ静かに聖書の言葉に思いをはせるという黙想の時間を大切にしたいと思うのです。そして、そこにおいて、聖書の言葉を通して、私たちを励まし、導き支えてくださる聖霊なる神様の働きにより頼んでいきたいと思うのです。そして、私たちがそのような聖霊なる神様の導きと支えとを、しっかりと心に受け止めた時、私たちの心は真の慰めと癒しと平安を得ることができると思うのですがどうでしょうか。

お祈りしましょう。