メッセージ
アドベント第二週
『苦難の中の目当て』
イザヤ書 7章1−17節
2002/12/8 説教者 濱和弘
今日は、アドヴェント第2週であります。アドヴェントは日本語では待降節と訳されます。これは主の御降誕を待つ節目のときという意味なのでしょう。そして、確かにクリスマスは待ち望むものです。今の子供はどうかわかりませんが、私が子供のころには、クリスマスが近づいてくると、妙にわくわくしたものです。それは、お正月が近づいてくるのより心がわくわくと騒ぐ。言うまでもありませんが、その原因はクリスマスプレゼントにあります。確かにクリスマスには、クリスマスケーキやご馳走といったものもあります。それは、おせちといった子供にとっては決してありがたいと思われる食事よりも、はるかにまさって口に甘く、おいしい料理です。しかし、クリスマスケーキが用意されおいしい料理が並べられても、クリスマスプレゼントがなければ、きっとクリスマスの喜びはなくなってしまうだろうと思います。逆に、クリスマスケーキもご馳走がなくても、朝起きたときに枕もとにおかれたプレゼントを目にしたなら、クリスマスの喜びは十分に満喫できるものです。
そういった意味では、クリスマスを待ち望む気持ちというものは、プレゼントを待ち望む気持ちといってもいいのかもしれません。そして確かに待降節は神からの私たちへの贈り物である、救い主イエス・キリスト様の御降誕を待ち望むときなのです。つい先日も、用事がありまして吉祥寺の町を歩いていました。その際、ちょっと覗いたおもちゃ屋には、山のような商品がおいてありました。もちろんクリスマスプレゼント用です。普段はあまり買わないような大きな箱の商品が山のように、しかも数かぞえ切れないような種類でおいてある。それこそ選り取りみどり並んでいるのです。きっとそこから、自分の気に入ったものをプレゼントとしてもらうんだろうと思います。
このプレゼントといったものは、子供にとっては気に入ったものといったことが、案外大切なようです。せっかくのクリスマス・プレゼントだとしても、自分の気に入ったものでなければがっかりしてしまう。もちろん、ある程度大人になってきますと、プレゼントをしてくれた人の気持ちということを汲み取れるようになりますから、プレゼントを贈ってくれた人の気持ちそれ自体で喜ぶものです。しかし、子供になればなるほど期待と現実の差に開きがありますと、がっかりし落胆してしまう。やっぱり自分の期待していたものがほしいのです。ですから、サンタクロース宛に手紙を出す子供がいたりするわけです。
今日、司式者からお読みいただいた、イザヤ書7章1節からの文脈は、クリスマスに関する聖書の予言の言葉が記されています。新約聖書マタイによる福音書には、神からの私たちへの贈り物である、救い主イエス・キリスト様が、処女マリヤによって生まれるということが、天使によって告げられるさいに、このイザヤ書7章14節の言葉が引用されているのです。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」とそういうのです。マリヤに救い主イエス・キリストが、聖霊によってあなたの身に宿りお生まれになる。そこ方こそ、あのイザヤ書7章14節に記されているお方なのだと、天使はマリヤにそうお告げになる。
ところが、このイザヤ書を記したイザヤ自身は、このマリヤの身に宿った救い主イエス・キリスト様のことを意識しながら、この予言的な言葉を語ったかというと、必ずしもそうとはいえません。イザヤという人は大体紀元前740年ごろから、南ユダ王国で神の言葉を伝える預言者として活躍した人です。この時代にイザヤの住んだ国、南ユダ王国は激動の時代でした。彼の国、南ユダ王国は決して強大な国ではありません。そもそも、南ユダ王国というのは、ダビデとソロモンという二人の王によって反映を極めたイスラエルの国が、その王位継承問題によって北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分裂して出来た国です。ひとつの国が二つの分裂してしまいますと、当然国力も二分されてしまうのですから、弱い脆弱な国になってしまう可能性は高くなります。その例にもれず、北イスラエル王国も、南ユダ王国も、近隣諸国の中で、決して他を圧するほどの力を持たない、小さく弱い国だったのです。
そんな中、アッシリアという国強力な国が興ってきました。アッシリアはその強力な力で、周辺諸国を征服しながら強大になっていきます。このアッシリアに対して、現在のレバノン・パレスチナ地方からエジプトまでにあった小さな国々や民族は向き合わなくてはならなくなったのです。もちろん、南ユダ王国もその中に含まれます。このような、強大な国に小さな国々が向き合わなければならないような状況になりますと、それぞれが手を結び合い同盟を築いて、その共通の敵に向き合おうとするのが常です。その常にならって、北イスラエル王国とスリヤという国は同盟を結ぶのです。先ほどお読みいただいた聖書の個所には「スリヤとエフライムが同盟を結ぼうとしている。」とかかれていますが、このエフライムが北イスラエル王国のことです。この二つの国が同盟を結ぶということは、南ユダ王国にとっては新たな危機を生み出すことでした。というのも、当初は、この二つの国は南ユダ王国にもこの反アッシリア同盟に加わらないかと持ちかけたようなのですが、南ユダ王国の王アハズがそれを断ったからなのです。そのため、この二つの国の同盟は、南ユダ王国に攻め込んでくるという事態が起こってきそうになりました。まさしく国家存亡の危機が訪れたのです。
そのような国家存亡の危機を聞かされますと、人々の心は不安で揺れ動きます。そのようなさなかに、イザヤは、スリヤやエフライムを恐れることはないというのです。安心して心を騒がせず、神様に信頼し、神様によりすがるようにとそう言います。もちろん、彼がそのように言った背景には、イザヤ書の7章7節から9節にある「主なる神はこういわれる。このことは決して起こることはない。スリヤのかしらはダマスコ。ダマスコのかしらはレヂンである。(65年のうちにエフライムは敗れて、国をなさないようになる。)エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマヤの子である。もしあなたがたが信じないならば、立つことが出来ない。」という神様の約束の言葉があります。この約束の言葉の意味するところは、「スリヤの首都ダマスコに君臨する王はレヂンであり、エフライムと呼ばれる北イスラエル王国の首都サマリヤに君臨する王はレマヤの子ぺカである。しかし、南ユダ王国の首都はエルサレムに君臨する王は主なる神なのだから、あなた方は心配する必要がない。けれども、この主なる神をあなた方が信じ信頼できないなら、この国はいつまでも長く立ち行いてことはできない。」ということなのです。
だからこそ、イザヤはこの人々の心が不安で揺らぎさいなまれる中で、心配するな。大丈夫だ。神様がともにいてくれるから恐れなくてもよい。とそう伝えるのです。そして、そのしるしとして、「見よ、おとめがみごもって、男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」とそういうのです。このインマヌエルという名の意味は、「神がともにおられる」という意味です。まさに神様がともにおられるということが、私たち不安の中で、ゆれる木々のように心を揺り動かされるときにも、安心と平安をもたらすことになるということなのです。そういった意味からすれば、インマヌエルととなえられる男の子の存在は、私たちの心に静かに落ち着いた平安と安心を与えてくれる目当てなのです。なぜなら、その男の子の存在が、神様が私たちと共におられるという事の、間違いのないしるしなのですから。
危機的状況、それはいつの時代にも起こってくるものです。平和な時代でも、私たちの心をゆれる木々のように不安にさせ、おじ惑わせる出来事は山とあるだろうと思います。経済的な問題、人間関係の問題、健康の問題、さまざまな問題で人の心は不安と恐れとにさいなまれます。ただ戦争の時の問題だけではないのです。ですから、神様が私たちと共にいてくださるという、インマヌエルといわれる男の子、すなわちイエス・キリスト様を私たちが、私たちの心の中にしっかりと宿しているかどうかが大切になってきます。というのも、このイザヤの時代の国家的存亡の危機の時には、インマヌエルと呼ばれる男の子は、結局のところ生まれてこなかったからです。神様が約束してくださった、不安の中で目当てとなるしるしであるインマヌエルはうまれてこなかった。いや、生まれてくることが出来なかったといったほうが正確かもしれません。
せっかくイザヤをとおして、主なる神様があなた方の王なのだから、恐れることはないとアハズ王に告げられたのに、アハズ王は、その言葉に耳を傾けなかったのです。耳を傾けないで、かれはこともあろうに、あのアッシリアに助けを求めた。結局、彼は神様が共にいてくださるということを信じられなかったのです。そして一番現実的な道を選びました。それがアッシリアに助けを求めるという行為だったのです。アッシリアは、実力のある強い国です。ですからその国に助けを求めるというのは、問題解決のためには、もっとも有効な手段のように思われます。不安の解消のために頼る相手としては申し分のない相手です。実際、結果だけを問うならばアッシリアの助けによって、このときの危機は解消されます。アッシリアがアハズ王の助けの求めに答えて、シリアの王レヂンが打たれたからです。そのため、北イスラエル王国も撤退をよぎなくされました。確かに、目の前の問題は解決した。けれども、このことによって、南ユダ王国のより頼むべき王は主なる神ではなくなったのです。そのため、南ユダ王国もやがては滅亡していくことになります。まさしく国が長く立ち行くことが出来なかったのです。
私たちを不安に陥れ、こころをゆれる木々のように揺さぶる問題に対して、私たちはそれを解決するすべをまったく知らないわけではないように思われます。貧困はお金が解決してくれます。強大な敵には、よい強力な武器と軍隊が安心を与えてくれます。しかし、これらを頼りとするならば、結局これらのものが、私たちの王となって支配し始めることになってしまうということを、私たちは経験しているように思います。戦後の貧困の中で、私たちの先人達は経済の立て直しのために、実に献身的にがんばってくれました。そのおかげで、私たちはどんなに豊かな生活が出来るようになったかわかりません。ですから、私たちは、私たちの先人に本当に感謝しなければなりません。反面、その経済的豊かさの根底を支えるお金が、私たちの価値観や行動原理となってしまっている現実にも、私たちは目をとどめる必要があります。まるで、お金が、あたかも王のようになり、この世の中を、また私たちの心を支配しているような、世相が私たちの前に繰り広げられていることもまた事実です。これは単にお金だけの問題ではありません。要は、私たちが何を頼って生きているか、何を目当てに生きているかなのです。
南ユダ王国が、アッシリアを頼み、より強力な軍隊を頼りにしている限り、南ユダ王国にインマヌエルと呼ばれる男の子は生まれませんでした。神が共にいてくださるということはなかったのです。そして、たとえ一時的な問題の解決を見、安心を取り戻したかのように見えても、根本的なところでは何も変わっていなかった。だからこそ、強力な軍隊に頼った国は、やがてより強力な軍隊によって滅ぼされたのです。人々が恐れと不安の中でゆれる木々のようにおじ惑う中で、インマヌエルととなえられる男の子は、神様があたえてくださった、希望のプレゼントでした。それはまさに、彼らが一番期待した平和と平安をもたらす存在だったのです。ただ、彼らは、ただそれを与えてくださるという神様を信じればよかった。神様を自分達の王として迎え入れれば、国は滅ぶことなく長く存続したのです。
この歴史的な出来事を、新約聖書はイエス・キリストにおいてこの歴史の中に成就したクリスマスの予言であると言っています。まさに不安と恐れの中におかれている私たちに希望を与えてくれるお方が与えられたというのです。このお方は、お金や軍隊や、能力や才能や、技術でも解決できないような私たちの不安の根源をも解決してくれます。私たちがいくらつんでも、何をやっても解決のつかない死の問題にさえ、やがて来たる神の国における永遠の命をもって、光を与え、平安を与えるというのです。
そして、私たちが、この希望の目当てであるインマヌエルなるイエス・キリストを私たちの心の中に宿すことが出来るかどうかは、神の言葉を信じるかどうかにかかっている。南ユダ王国の本当の意味での存亡の危機が、アハズがイザヤの伝えた神の言葉を信じるかどうかにかかっていたかのように、私たちが聖書の伝える神の言葉を信じるかどうかにかかっているのです。ですから、私たちは聖書の言葉を信じ、イエス・キリスト様を私たちの救い主としてお迎えし、主なる神を私たちの王として信じ、信頼していきたいものです。私たちが信じ、信頼するならば、インマヌエルと呼ばれる神のひとり子なる神が、まさに私たちと共にいてくださいます。そして私たちがどんな不安の中で心をゆれる木々のように揺らしても、私たちは決して倒れることはないのです。
お祈りしましょう。