メッセージ
アドベント第三週
『神の贈り物』
ガラテヤ人への手紙 4章1−7節
2002/12/15 説教者 濱和弘
クリスマス・アドヴェントの第3週です。イエス・キリスト様の御降誕は、三位一体である神の第二格である子なる神が人となられたという出来事です。日本の宗教感覚では、人が神となることは比較的受け入れやすいのですが、神が人となるということはなかなか受け入れにくいものです。謙遜とか謙卑といったことが尊ばれる道徳的気風を持ってはいますが、それでも、かしこに負わせませる尊い方が、こちらの世俗の世界のものになるなどとは、極めて考えがたい感覚なのだと思います。人が神になるということが受け入れやすい感覚にあるということは、自分を神格化することも出来ます。ですから、たやすく教祖になることが出来る。同時に自分が教祖にならなかったとしても、誰かを教祖に奉り上げることは出来るのです。教祖という人物は絶対的です。ですから教祖様の言うことには、信徒は聞き入りしたがわなければなりません。そのことは、たとえばオウム真理教事件においても明らかに見ることが出来ます。
ところが、人が神になるとき、人はその神となった人に隷属することを求められる。隷属といいますと、それは聞こえがいいのですが、ようは奴隷となるということです。奴隷というのは、主人の言うことを聞かなければ罰を科せられます。そこには自由がないのです。ですから、神となった人は、いつでも自分を指し示し、自分に注意を向けさせるのです。そして自分の言葉に聞き従いなさいとそう言う。人が神となるとき、人の自由は奪われてしまう。ところが、神が人となられたとき、人となられた神イエス・キリスト様は、決して自分のことを指し示すことをなさいませんでした。むしろ、イエス・キリスト様はいつでも三位一体の第一格であられる父なる神様を指し示されたのです。もちろん、三位一体の神の第一格、第二格といった言い方は父なる神、子なる神、聖霊なる神が一体であるという、三位一体をあらわすときに父と子と聖霊とを区別するための便宜的な神学的な言葉なのですが、ともかくも、人々の注目を自分自身に集めることをしないで、父なる神様に向けたのです。
そして、ご自身もまた、徹底して父なる神様の語る声に耳を傾け、父なる神様にお従いして生きられたのです。まさに子なる神であられるお方であったとしても、人となられた以上は、人として父なる神にお従いになられた。それは、人としての本来の行き方が、ただ神にのみ属し、神にのみ仕え従うものだからです。ですから、イエス・キリスト様が人となってこの地上にお住まいになられたときには、一切、この地上の神に隷属しませんでした。イエス・キリスト様の時代のイスラエルの民族に、現在の日本のような神となった人がいるかと言うと必ずしもそうではありませんでした。イスラエル民族は、永い歴史の中で唯一なる神を信じるという信仰が確立していましたので、旧約聖書が指し示す神以外の神は信じていなかったのです。ですから人間が神になり教祖となるということなど考えられないことでした。
しかし、神格化された権威、つまり神の権威を振りかざす人たちはいたのです。律法学者達と呼ばれる人、あるいはパリサイ派と呼ばれる人たちは、宗教的権威をもつものとして、実際上の生活で聖なるものと俗なるものとを区別しました。そして、その俗なるものを、律法を守れない罪人である地の民という意味のアム・ハー・アレツと呼び、見下してみていたのです。いうなれば、自分達が宗教的上位者に立ち、上から裁くことによって、彼らは神様の祝福を受けられないために地に這いつくばるようにして生きている民となったアム・ハー・アレツと呼んだのです。このような神の権威を借るものは、現代のキリスト教にも現れます。私たちの間にも、そういった律法学者やパリサイ派は起こってくる危険性があるのです。
最近、クリスチャン新聞に、教会のカルト化ということを取り上げた連載記事が書かれていました。これは長年、カルト問題を取り上げてこられた方、特にエホバの証人問題を取り上げてこられたウイリアム・ウッド宣教師などが、自らが関わり研究してきたエホバの証人という極めてカルト色の強い団体と、現代のキリスト教会に起こっている現象を比較して、教会の中にもカルト化している教会があるのではないかという警鐘を鳴らしているものです。言うまでもなく、エホバの証人の教理は、到底、聖書の述べているところとは異なりますし、キリスト教の皮をかぶっていますがキリスト教と呼べないエホバ教とでもいうような、別の宗教です。ですからキリスト教会では、彼らを間違った教え異端だとします。
しかし、異端はカルトではありません。カルトというのは、教祖なり指導者なりの教えや価値観に絶対的な権威を与え、その教えや主張によって人々の生活全般を支配しコントロールする集団のことです。ですから、その教祖なり、指導者の教えや価値観に反することを言ったり、行ったりすると、その集団から排除されたり、制裁が加えられたりします。例えば、教会の中にカルト化した教会が出てきているのではないかと警鐘を鳴らすウイリアム・ウッド宣教師は、もともとエホバの証人のことを研究し、その救出活動をしておられる方です。エホバの証人は、統治体と呼ばれる指導者集団が、神の代弁者としての権威をもっています。もともとは会長と呼ばれる個人がその権威者だったのですが、現在は複数の集団指導体制になっています。しかし、個人であろうと集団であろうと、彼らが神の定めた決まりはこうである発表して、絶対的な権威をもって、信者の生活と行動を支配するのです。例えば、輸血をしてはならないとか、喫煙してはならないとか、選挙に立候補しても、投票してもならないなどと、取り決めますと、それが信徒の生活を支配し、これに反しますと、審理委員会という裁判にかけられ、排斥という除名処分にされたり、役職を下ろされたりします。
エホバの証人は、エホバの証人という組織(正確にはものみの塔という組織)だけが正しい宗教組織で、自分達の組織に属していない限りは救われないと言います。ですから、彼らの組織から排除されたということは、神の裁きに合うのだということを意味しているのです。それと同じようなことが教会でも起こっているのではないかと、ウィリアム・ウッド宣教師はそう警鐘を鳴らすのです。牧師の言うことが絶対視され、牧師の価値観と考え以外のものは排除される。そして、排除されたものは神の裁きに会うのだとそう語ってきている教会が起こってはいないだろうかと警鐘を鳴らすのです。なぜ、そのような警鐘を鳴らすのか。もちろんカルトは社会的な問題として捉えられるからでもありますが、なによりも、カルト的な宗教集団のあり方は、人となられた神イエス・キリスト様がお示しになった生き方とはかけ離れたものだからです。
先ほどお読みいただいたガラテヤ人の手紙の4章4節、5節には、次のようにしるされています。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法のもとに生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法のもとにある者をあがないだすため、私たちを子なる身分を授けるためであった。」律法は、ユダヤ人にとって旧約聖書の核となるものであり、旧約聖書を意味していると言ってもいいものです。しかし、「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ」というクリスマスの出来事は、その律法から人々をあがないだすためであると言うのです。けれども、考えてみますと、この律法は、神がイスラエルの民に与えたものです。だとすれば、イエス・キリストがお生まれなさったのは、神が与えた律法を間違ったもの、悪いものと考えてそれから救い出そうとしているのだと、このガラテヤ4章4節5節はいっているのでしょうか。いやそういう印象を与えると言えば、与えるような表現でもあるのです。このあたりのことは、多少なりとガラテヤ人への手紙が書かれた目的ということを、考慮しなければなりません。そうでないと、先ほどのような誤解をしてしまいます。というのも、ガラテヤ人への手紙というのは、ガラテヤ地方の教会に、ユダヤ主義的キリスト教という、誤ったキリスト教の理解が入り込んでいたことに対するその誤解をとくために書いたパウロの手紙だからです。
ユダヤ主義的キリスト教というのは、人がクリスチャンになるためには、まずユダヤ人とならなければならない。そして割礼をうけ律法を守った後にイエス・キリストを救い主として信じるならば救われるという考えを持っていた人たちのことです。パウロは、そのような考え方に対して断じて違うとそういって、このガラテヤ人への手紙を書きました。パウロは、人が救われるのは、律法を行うことによって救われるのではなく、神の恵みによって救われるのだと、そうこのガラテヤ人の手紙で教会の人々に訴えているのです。ですから、いうなれば、律法のもとにある者をあがないだすとは、律法を守らなければ救われない、神様からの祝福を得られないというような考え方からあがないだし、救い出すために、神の御子イエス・キリスト様がお生まれになったクリスマスという出来事があったのだとそういうのです。
先ほども申しましたように、旧約聖書の中心となるものは律法と呼ばれるもので、その中心は旧約聖書のはじめの創世記から5番目の申命記までも、いわゆるモーセ5書と呼ばれるもので、そこに記されている様々な決まりが、イスラエルの民の行動の基準になっています。もちろん、モーセ五書が記された時代からイエス・キリスト様の時代まで一千数百年の開きがあります。ですから、必ずしも聖書の文言が、イエス・キリスト様の時代の時代背景にあっているとはいえません。また、その律法の文言が、イエス・キリスト様の時代の生活状況のすべてを網羅しているわけではありませんので、その聖書の文言を解釈し、適用させなければなりません。そしてそのような解釈と生活の適用をしたのがラビと呼ばれる律法学者達だったのです。この律法学者達の見解は、聖書という文書で書かれた律法に対して、文書ではない不文律法として、人々の生活を支配し、この不文律法を守れないものを、律法学者やパリサイ派の人たちは、裁きの目をもって地の民「アム・ハー・アレツ」と呼んだのです。
しかし、イエス・キリスト様は、パリサイ派や律法学者のところにいかれずに、地の民「アム・ハー・アレツ」と呼ばれる人たちのところに行き、神の国のことを語られ、福音を告げられたのです。そして律法を行えないで罪人と呼ばれている人のために、十字架について死なれたのです。まさしく、聖書の言葉を解釈し、適用し、その解釈と適応を、神の権威を借りて人々に強要し、それを守れないために罪人と呼ばれている人たちを、その重荷から解放するために十字架の上に上っていかれた。
もちろん旧約聖書に記されている律法は決して悪いこととして記されているわけではありません。それは人が神様に従順に生きるために、また神様の前に正しいことが行われるようにと、宗教的な目的と倫理的な目的で書き記されているものです。そして、時には旧約聖書の時代的背景と自分達が生きている時代背景との間に、解釈と適用という掛け橋が必要だと思います。しかし、その掛け橋となるものが、絶対的な権威となる事はないのです。ガラテヤ書の4章の1節2節はこういいます。「わたしが言う意味はこうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕とは何の差別もなく、父親の定められたときまでは、父親の定めた管理人や後継人の監督のもとにおかれているのである。それとおなじく、私たちも子供であったときにいわゆるこの世のもろもろの霊力のもとに縛られていたものであった。」これは、ユダヤ人にとっては旧約聖書の教えを解釈し、適用したラビ達の不文律法であるといえますし、異邦人であったガラテヤの諸教会の人たちにとっては、彼らがクリスチャンになる前に信じ影響されていた様々な霊の働きや力のことを指しているものと考えられます。そしてそれらは、結局のところ人の教えに過ぎないのです。
しかしパウロは、イエス・キリスト様がお生まれになった今は、そのような人の教えに縛り付けられていないのだとパウロはそういうのです。イエス・キリスト様がお生まれになった以上、あなた方には、神のおくりものとしての「子たる身分」が与えられているというのです。そして、子たるものとされているからこそ、イエス・キリスト様と同じように「アバ、父よ」呼ぶことが出来るようにと、御子の御霊、すなわち聖霊が与えられているのだと言うのです。ですから、クリスマスに神様からの贈り物であるイエス・キリスト様がひとりひとりに与えられたということは、それを信じる私達一人一人に、この御子イエス・キリスト様の御霊である聖霊が与えられているということでもあるのです。この聖霊は、助け主とも呼ばれます。私たちに知恵と分別を与える霊なのです。ですから、もはや人の教えに盲従することなく、正しい判断が出来るように導いてくれるお方なのです。
もちろん、聖書の解釈と言う作業には、学問的なアプローチが必要となりますし、聖書に関する知識などが必要になりますから、それなりに専門的な要素が求められます。ここにおいては、御言葉の忠実な学徒でなければなりませんし、多くの学者達の研究といったものをないがしろにしてはいけません。しかし、それを自分の生活の具体的な事毎に適用するということにおいては、一人一人が祈りつつ、自分のうちに、神様からの贈り物として与えられたイエス・キリスト様の御霊の声に聞きながら判断していけばよいことなのです。そして、教会も牧師もまた、そのような個人生活における一人一人の主体的な判断を見守っていかなければならない。私たちは誰をも支配してはならないし、支配されないのです。誰か人に属し、仕えていくのでもないのです。ただ神様のみに支配され、仕えていく。そして、それは、私たちのうちに住みたもう、御子の御霊に聞き従うということなのです。だからこそ、私たちは聖書に記されている御子イエス・キリスト様のご生涯を思い返してみる事が必要です。そして、聖書に記されている御子イエス・キリスト様を証言する言葉のひとつひとつを思うと言うことが大切なのです。
それが、私たちを自由にするということです。ガラテヤ人の手紙の5章1節で、パウロは、「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださったのである。だから堅くたって、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」とそういっています。このパウロの言う自由とは、人や人の考えに隷属するのではなく、自分自身の考えに隷属するのでもなく、ただイエス・キリストの語る御霊の声に耳を傾け、それに従うことの出来る自由を指すのです。ですから、私たちは個人個人の家庭においても、教会においても、私たちのうちに共にいてくださるイエス・キリスト様の御霊の導く声に耳を傾けながら歩むものでありたいと思います。そのような歩みを、私たちひとりひとりが、教会がしていくことが出来るために、クリスマスの出来事として、御子なる神が人となられて下さったからです。
人として生きられたからこそ、人の苦しみや悲しみを知った上で、いかに生きるかを語ってくださるお方となってくださったからです。結局のところ、私たちの信仰の完成者であり、導き手となるお方はイエス・キリスト様なのです。私たちは、クリスマスのこのときに、この方が私たちのここに生まれてくださったということを、しっかりと心に刻むものでありたいと思います。
お祈りしましょう。