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メッセージ

羊飼い クリスマス記念礼拝
『義の太陽の到来』
マラキ書 4章1−6節
2002/12/22 説教者 濱和弘

今日は、クリスマス礼拝であります。クリスマスは、私たちの主イエス・キリスト様が、この地上にお生まれになったことを記念し、喜び祝う日であります。ですから、私たちは、今日の礼拝は、特別に主イエス・キリスト様がお生まれになったということに、心を留めなければなりません。と同時に、今日は暦の上では、冬至であります。偶然にも冬至とクリスマス礼拝が重なったわけですが、実は、この冬至という暦の上での一日も、クリスマスと深いかかわりがあるのです。私はここ数年、クリスマスのたびに、イエス・キリスト様がお生まれになった日は、何も12月25日というわけではないということをお話してきました。いつイエス・キリスト様がお生まれになったかということは、実際問題として定かではないのです。どうして定かではないかと言うと、だれも伝えなかったからです。もちろん、マタイによる福音書やルカによる福音書には、イエス・キリスト様がお生まれになる際のいきさつが記されていますから、その御降誕にまったく関心がなかったというわけではないだろうと思います。

しかし、その関心も、いつ生まれたかということよりも、そのお生まれになった際のいきさつの方に目が向けられているのです。しかし、それでも、4つ福音書のうち、もっとも古いのではないかといわれるマルコの福音書には、イエス・キリスト様がお生まれになった記事にはまったく触れられていませんし、もっとも新しいとされるヨハネによる福音書も、きわめて哲学的な表現で神が人となられたと言うことを告げるだけなのです。このようなことからも、初代の教会の人たちは、イエス・キリスト様がこの地上にお生まれになったということにあまり熱心に目を向けていなかったことが伺えます。むしろ、初代の教会のクリスチャン達にとって、最も関心が深かったのが、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事が意味することであったと考えられます。それは、まさにイエス・キリスト様が私たちの罪の救い主であるということだということでもあるのです。紀元90年から100年ごろのローマの司教だったクレメンスという人は、「キリストの流された血を眼に据え、それが彼の父にとってどれほど高価なものであったかを知ろうではないか。それというのも、それは我々の救いのために流され、全世界に悔い改めの恵みをもたらしたのだから」と、まさに、イエス・キリスト様が十字架で死なれたことの意味の重要性を語っているのです。

このような、イエス・キリスト様のなされた行動は、イエス・キリスト様がどういうお方であったのかということと密接な関係があります。ですから、初代の教会の人々の関心は、イエス・キリスト様がなされた十字架の死ということと同時に、イエス・キリスト様がどのようなお方であったかということに目が注がれるのです。もちろん、イエス・キリスト様が主であるという信仰告白は、聖書の中のローマ人への手紙10章9節などにも見られますので、イエス・キリスト様が自分達のまことの主であるという認識は、初代の教会の人たちに共通のものでした。またイエス・キリスト様は神の子であり真の神であるということも、聖書の言うところであり、初代の教会の人々たちがもっていたイエス・キリスト様というお方に対する理解だったのです。真の神の子が、私達を、私たちの罪深さや汚れから救ってくださるために、十字架の上で死んでくださり、その罪の裁きである死に勝利して復活なさったということは、なんとも、計り知れないような出来事です。それほど大きな出来事ですから、初代の教会の人たちの関心がそちらに向けられていったことは当然と言えば当然のことです。こうして、初代の教会は、イエス・キリスト様の死と復活の出来事に深く結びつき、そのことを記念し覚える、日曜ごとの礼拝と聖餐を、守るようになったのです。

しかし、真の神なるお方が十字架の上で死なれたのは、彼が人となってくださったからです。神の御子が人となってくださったからこそ、十字架で、私たちの罪を贖い赦すために死ぬという行動ができたのです。このことは、人々をだんだんとイエス・キリスト様の御降誕ということに目を向けさせていきました。そして、やがて、イエス・キリスト様がお生まれになった日を祝うようにと日を定めるようになったのです。主の日である日曜日の礼拝が、聖餐式(2000年前の当時はパン先と呼ばれましたが)を中心に守り行われたのは、主の日がイエス・キリスト様の十字架と復活ということに結び付けられたからです。言うなれば罪の贖い主、赦し主としてのイエス・キリスト様のご人格と深く結びついている。だとすれば、だんだんと祝われるようになってきたクリスマスというイエス・キリスト様の御降誕を祝う日もまた、イエス・キリスト様のご人格と深く関わったものだと言えます。

実は、当初のクリスマスは、1月6日に行われていたようです。いえ、今でも東方教会の伝統に立つ教会は、1月6日にクリスマスを祝っているのです。もっとも1月6日というのは、顕現祭として、イエス・キリスト様が洗礼を受けられ、自らを救い主としてお現しになったことを記念する日なのですが、救い主としての使命に立たれたことと、誕生とを結びつけて祝ったようです。もちろん、1月6日にイエス・キリスト様が洗礼を受けられたというのも、実に根拠の希薄なものであり、当てにはならないのですが、それでも1月6日というのは、それなりに意味がありました。それは、一日の長さで、もっとも昼の時間が短い冬至をすぎて、だんだんと日が長くなっていく時期なのです。まさに、クリスマスということに目を留め始めた古代のクリスチャン達は、太陽が輝く時間なっていく中から一転して太陽がだんだんと輝いていくことの中に、闇の中に光を差し込む出来事であるクリスマスの出来事を見たのです。このことが、ローマン・カソリック教会がクリスマスを12月25日に定めたことの大きな一因となりました。古代ローマ帝国では、12月25日は冬至の祭りとして、日の翳っていく太陽が再び息を吹き返していく、不滅の太陽を祝っていたのです。

このような、太陽を崇拝するような、古代ローマの宗教的な事情の中で、クリスチャン達は、先ほどお読みいただきましたマラキ書4章2節に「しかし我が名を恐れるあなた方には義の太陽がのぼり、その翼にはいやす力がある。」と記されているのは、まさしくイエス・キリスト様のことだと、そう理解したのです。そして、この12月25日に、神がおつくりになった太陽などを拝まないで、太陽をもお創りになられた真の神を拝み礼拝するようにと勧めていったのです。こうして、12月25日に真の義なる太陽である、イエス・キリスト様の御降誕を祝うクリスマスが根をおろしていったのです。当初、古代ローマの人たちが、12月25日に太陽を祝っていたのは、冬になり、だんだんと翳っていく日の長さも、冬至を栄えに太陽が息を吹き返し、今度はだんだんと日が長くなっていく。その自然の様に、決して負けることがない不敗の太陽を見、また不滅で永遠なる者を見たからだと言えます。そこには、絶えることのない繁栄と、永遠に対する憧れと願いがあるといってもいいのかもしれません。ある意味では、それはだれでもが、望み願い求めるものであると言ってもいいかもしれません。

しかし、絶えることのない繁栄と、永遠に対する憧れを持つということは、裏を返せば、それは到底わたしたちの手に入らないものであるということを知っているからです。どんな繁栄や栄華も、実は極めて移ろいやすいものであることを、漠然と感じているのです。平家物語に、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、栄枯必衰の理を現す。」とありますが、確かに、移ろいやすい時の流れの中で、押し流されるようにして生きている。だからこそ、ローマの人たちは、不滅のように息を吹き返す太陽に、自分達の永続する幸せへの望みを託して、拝み寄りすがったのだろうと思うのです。しかし、その太陽と言えども、所詮それは神の手によって造られたものなのです。ですから、本当に望みを託すべきものは、義なる太陽である、真の神の子イエス・キリスト様なのです。

今日のテキストの箇所となりましたマラキ書4章は「万軍の主は言われる。見よ、炉のように燃える日がくる。その時はすべて高ぶるものと、悪を行うものとは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽くして、根も枝も残さない。」という、世の終わりを告げる衝撃的な言葉で始まります。私たちが、永遠に続くように思っている、この世の中にやがて終わりが来るときがあるとそういうのです。「世の終わり」という言葉は、なんとなく怖い響きがあります。この世が終わりを告げるというときのイメージは、なんとなく悲惨な恐ろしいイメージとして私たちの心に刷り込まれているように思います。もちろん、世界中のすべての民族をリサーチしたわけではありませんから絶対とは言い切れませんが、しかし、おそらくは民族を超え、人種を超えても、この世の終わりということに対して明るく楽しいイメージを持っておられる方はそうはいないだろうと思うのです。そこには、暗く冷たい死のイメージが漂っている。暗黒の世界が目の前に広がり、絶望的な雰囲気が漂っているような、そんな感じがする世界なのです。

そこに、義の太陽が昇ってくると言うのです。義の太陽であるイエス・キリスト様がこられると言うのです。いえ、すでに来てくださったのです。暗く冷たい闇のような絶望の中に義の太陽である、イエス・キリスト様が来て下さっていると言うのです。そして、その義なる太陽であるイエス・キリスト様がのぼり照り輝いているところには、いやしがあり、子牛が飛び回るような喜びがあると聖書はそういうのです。そのお方が、おおよそ2000年前にお生まれ下さった。それは、なにも、「この世の終わり」というその時が、やがての未来ということではなく、私たちの今の時代に、そして、今生きている私たちの人生そのものに、すでに繰り広げられているからです。ですから、イエス・キリスト様の誕生は、やがての未来、遠い将来の希望であってはならない。すでに起こった出来事とでなければなりませんし、今の時の出来事でなければならないのです。

考えてみますと、どれだけの絶望を私たちは経験してきたのでしょう。多くの希望と夢を持ちながら、反面で、絶望を経験しあきらめということを学びながら生きてきている。あるいは、暗闇と思えるようなことをいくつも通り、悩みながら生きていくことも少なくはないのです。そうやって、心が冷え切ってしまうような出来事だって、ないわけではないのです。現実に、私たちが生きているその世界と、私たちの人生は、そのような事が沢山ある。そして、人生の結末が、まさに死という終わりとして待ち構えている。どんなに不滅の太陽に望みを託し、願ってみても、それは、抗えない現実なのです。そして現実だからこそ、イエス・キリスト様は現実の世界にお生まれ下さったのです。現実に生きている私たちに、希望の光を輝かせ、暖かい日差しを射しこめさせるために、真の神の子が、現実の世界に人となって生まれてくださったのです。そして、私たちが味会う、絶望や悩み、心が冷え切ってしまうような出来事を、ご自身で経験なさったのです。まさに暗闇の只中に立たれたのです。そして暗闇の辛さや苦しさを味わった只中で光を放ってくだっている。

もし、私たちが、今暗闇を感じることがあるとしたら、あるいは、これから感じるようなことがあったとしても、そこにはイエス・キリスト様がおられないからではないだろうと思います。あるいは、心が冷え切ってしまうような出来事に出会ったとしても、そこにはイエス・キリスト様がおられないということではないだろうと思うのです。そのお方は、その暗闇の中におられるのです。その冷たさの中におられるのです。私たちが、私たちと共にいてくださるイエス・キリスト様の存在を、その心でしっかりと感じ取ったならば、確かに、イエス・キリスト様は義なる太陽としての光と暖かさを私たちに与えてくれるだろうと、そう思います。クリスマスは、そのお方がお生まれになったことを覚え記念し、私たちがこのお方が、私たちの現実の世界にきてくださったということを、繰り返し、繰り返し心に刻む日なのです。

巷では、クリスマスは、実に楽しいイベント、催し物になっています。クリスチャンだろうとなかろうと、クリスマスのときは、楽しくはしゃぎ特別な時、お祭りのようになっています。もちろんそれは、クリスチャンとしては複雑な思いにさせられる感じがないわけではない。真の神の御子であられ、神そのものであられたお方が、人としてお生まれになったことを、静まって神を礼拝するという厳かな気持ちを、クリスマスの中に失ってはならないことだからです。けれども、反面で、クリスマスは楽しく過ごすべきなんだろうなって思います。家族や友人が会して、みんなで心からお祝いして楽しく過ごすべきなんだろうと思うのです。贈り物を贈り合って、お互いの暖かい心にふれあい、おいしいご馳走を分け合って談笑する。そこには、明るく暖かさに触れる交わりがあるからです。私たちの心を楽しいひと時があるからなのです。そしてそこには笑顔があふれている。それは、まさに義なる太陽であるお方が、私たちに与えようとしているものなのであります。ですから、そうやって楽しくクリスマスを過ごすことの中で、義なる太陽の光を感じ、暖かさに触れていくのも、またクリスマスの過ごし方として、決して間違っていないだろうと思うのです。

昨日、ある方が、「俺は昔はクリスマスは大嫌いだったんだよな。」とそういっていました。その理由はと尋ねますと、「みんなが楽しそうにしているのに、自分は一人ぼっちで寂しくて、孤独で、それが悲しくて大嫌いだった。」とそういうのです。なるほど、そう聞くと確かにそうなのだと思わされる。義なる太陽がやってきたことを、覚え記念し感謝するときがクリスマスなのですから、悲しさや孤独や寂しさは、楽しいクリスマスを嫌うのです。悲しさや孤独や寂しさは義なる太陽を拒みます。義なる太陽が存在する場所には、癒しがあり喜びがある。それは悲しさや孤独や寂しさを駆逐していくからです。そういった意味からも、私は、今日、皆さんと共に私たちも、心からメリークリスマスといって喜びたいと思います。心躍る思いで、真の義なる太陽であられるイエス・キリスト様の到来を心から喜びたい。

そして、この義なる太陽が中心にあって光を輝かせ、暖かな日差しを差し込ませている教会として、私たちが、今ここに召し集められているということを、実感し自覚していきたいのですそして、クリスマスを喜び祝う教会は、教会の中に悲しさや孤独や寂しさを感じる者を生み出していってはならないとそう思います。むしろ義なる太陽が差し込ませるまばゆいばかりの明るい光と、暖かい日差しで、人々の心から、悲しさや孤独や寂しさ取り除いていく教会であること、またその教会になっていくことを、私たちは、心に堅く決心したいと思うのです。

お祈りしましょう。