メッセージ
『私たちを助けてくださる聖霊というお方』
ヨハネによる福音書 14章25−31節
2003/6/8 説教者 濱和弘
今日はペンテコステです。ペンテコステというのは、おおよそ2000年前の初代の教会、そのころはこんにち教会と呼んでいるような、整えられたものではなく、まだ「小さな群れ」と呼ばれるような、イエス・キリスト様を信じる信徒達の集まりに、聖霊と呼ばれるお方(英語ではHoly Sprit とかHoly Ghostといわれますが)そのお方が与えられた事を記念する日です。聖霊というお方が与えられたといいましても、この聖霊は、物や非物質的な神の力、あるいはおとぎ話に出てくるような妖精や精霊といったものではありません。聖霊といいましてもそれは聖なる霊と書き表すのであって、神の聖なる霊であり、父と子と聖霊とからなる、三位一体なる神様の内にあって、私たちを導き、守り、支えて下さるお方なのです。
この聖書に記されている父なる神様、子なる神イエス・キリスト様、そして聖霊なる神様は、天地創造の初めから、決して切り離す事のできない強い結びつきで結ばれています。それはそれぞれ三つの存在が、その思いと、意思と行動において、全くお互いが異なることなく、一つの統一された意思と行動と思いによって堅く結びつけられているからです。それは、神様が、私たち人間に対する接し方や態度においても同じであります。むしろ、神様が私たちに対する接し方や態度において、より一層、その統一された意思と行動、そして私たち人間に対する愛という思いとして現れていると言ってもいいだろうと思います。このことをもう少し具体的にもうしあげますと、三位一体の神様は、私たち一人一人を愛して下さっておられるが故に、私たち人間の親が、自分の子供に人の前に正しいようにと、願い子育てをするように、父なる神様としては、私たちを子として愛し、神と人の前に正しく歩むことを示し、教え、戒めておられます。また子なる神イエス・キリスト様は、神の前に罪を犯し、自己中心的に生きてしまっている私たち人間と、実際に歴史的な時間の中で共に歩まれました。
このように、神であられるお方が、私たち人間と同じ姿をとられ、実際の歴史的な時間の中で、私たち人間と共に生きられたのは、それ相当の理由がありました。それは、神であられるお方が、私たち人間と同じになり、その人間の歴史をあゆまれることにより、私たちの罪深さと犯した罪と、その罪故に神の裁きを受けなければならない私たちの身代わりとなって、その神から裁かれねばならない罪の裁きを一身に背負って十字架の上で死なれる為だったのです。いうなれば、子なる神イエス・キリスト様は、私たちを愛するが故に、私たちが自分の罪のために滅んでいくこと、私たちには決して償(つぐ)なうことのできない私たちの罪の償いを、私たちの代わりになって償うためであったと言えます。それは、私たちが、神様が愛して下さっている子供としてやり直していくことができるための道を切り開いてくれた行為であるといっても良いものであります。そして、聖霊なる神様は、私たちに、その父なる神様の思いと愛と、子なる神イエス・キリスト様の愛を、私たちに心で感じ受け取らせ、そして理解させて下さるお方なのです。
このことを、こんにちの神学の言葉では経綸的三位一体という言い方で表していますが、要は、このように父なる神、子なる神イエス・キリスト様と聖霊なる神様は、私たちを愛して下さり、罪を犯し、罪の性質をうちに秘めた私たちを愛し、そして愛するが故に私たちを私たちの罪とその罪に対する裁きから救おうとする、神の救いの行為、救済的行為においても、けっして切り離すことのできない深い結びつきを持った存在なのです。そう言った意味では、先ほど、司式者の方にヨハネによる福音書の14章の25節から31節を読んででいただきました中の、26節「しかし、助け主、すなわち父が、わたし(イエス・キリスト様)の名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話しておいたことを、ことごとく思い出させるであろう。」という言葉は、この経綸的三位一体なる神様の中にある聖霊なる神様という存在のご性格とお働きを、実に見事に言い表しているように思うんですね。つまり、聖霊なる神様は、神様の愛を私たちに自覚させ、私たちが神と人の前に正しく歩んでいくことができるように助け導いて下さるお方であり、そのような使命を持って私たちの元にきて下さったお方であるというわけです。
しかし、神様が私たちを愛して下さっていると聞かされたところで、その愛を私たちが本当に実感できるということに直結するわけではありません。愛するということは、心の問題、感情の問題ですから、愛すると言われてもそれが、即座に愛されているという事を心が感じ取り受け止めることにはつながらないものです。さらには、イエス・キリスト様が私たちの罪のために、私たちの身代わりとなって十字架に磔になって死なれたと言われましても、いかにそれが歴史的な事実であったとしても、なんで2000年も前の出来事が、今の私に関係するのか理解に苦しむのは当然のことだろうと思います。そもそも、神が存在していると言うこと自体、その神が目に見える存在でないわけですから、なかなか実感を持って受け止めることができないのが、現代の日本人の実態ですし、近代理性と呼ばれる人間の実情であろうと思われます。そう言った意味では、存在すること自体が実感を持って受け止められない神様が、あなたを愛しているということを、なかなか受け止められらないといったからといっても、何ら不可解なことでもありません。
また、神様が、私たち一人一人に対して人が神と人の前に正しく歩んでいくことを望んでいると言ったところで、人の前に正しく歩むというのは、何となくわかるにしても、神の前に正しく歩みといったことがどんなことかは、よくわからないとしても、それは何も不思議なことでもないのです。だからこそ、聖書は、聖霊様を助け主と呼び「しかし、助け主、すなわち父が、わたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話しておいたことを、ことごとく思い出させるであろう。」とそう言うのです。人が到底、信じ受け入れることができないような内容を、聖霊なる神様は信じ受け入れることができるように助けて下さるお方なのだと、聖書はそう私たちに語っている。そしてこの神様の愛が受け止められるならば、そこにはこの世の中が与えてくれるような平安な思いにまさる心の平安が与えられるというのです。このような平安な心になることができるならば、私たちは、何も心を騒がせる必要もなく、おじける必要もありません。
確かに、愛するという感情は、相手を受け入れているという感情であり、愛されているという事を受け止めるということは、相手に受け入れられているということを、心から信じ信頼することです。ですから、神様に愛されているということを実感する事ができるということは、神様から受け止められている信頼につながっていきます。この信頼に立つならば、心は安心し平安な思いに満たされます。安心と平安は信頼の上に成り立つ感情だからです。猜疑心と疑いがあるならば、人は安心などできようはずがないのです。だからこそ、確かな信頼があるならば、人は心を騒がせることもおじける必要もなくなるのです。ですから、私たちが愛されているということを心から実感できることは、私たちにとってとても大切なことだと言えます。
昨日、RさんとKさんの婚約式が、まさにこの会堂で行われました。本当に嬉しいことですし、おめでたいことです。婚約とは、将来愛しあう者達が、しかるべき時がきたときに結婚をする約束です。そしてそれは、その結婚の時を迎えるときまで、お互いに、夫婦になるのにふさわしい歩みをし、お互いを裏切るような事をしないということを約束することでもあります。しかし、このような約束をするのは、相手に対する猜疑心や、疑いがあるからするものではありません。相手が信頼できないようなものであったならば、そもそも約束など意味もないものなのです。約束したことは必ず守ってくれるという相手に対する信頼があってこそ、本来約束というものは成り立つのです。愛し、愛されることが信頼につながり、そして、そのような信頼があるからこそ、安心して、素直に婚約を喜び祝える。
聖書は、神様と、神様を信じる者の関係をこのような結婚の関係にたとえています。また、イエス・キリスト様が十字架に磔になって死なれたことによって、神様とイエス・キリスト様の十字架が自分の罪の償いのためである信じる人との間に新しい約束、がもたらされたとそう言うのです。それは、人を愛する神様の愛を受け入れたところから、神と人との間の関係をしっかりと結ぶ約束が生まれたのであり、その約束を神様は決して反古になされないようなお方であると信頼するからこそ、その約束をもって、私たちは、安心して、その約束を信じ、心に平安が訪れるのです。
このヨハネによる福音書の14章の25節から31節に書かれている言葉は、神を信じる人たちが、やがて多くの困難や、苦しみを経験するだろうと言うことを視野に入れながら語れた言葉であると言えます。実際、同じヨハネによる福音書の15章の26節には、「わたしが父からつかわそうとしている助け主、すなわち真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。あなたがたも初めから、私と一緒にいたのであるから、あかしをするのである」と、ここでも助け主なる聖霊というお方が、私たちのところにつかわされるということが、書かれています。ところが、これに先行する18節からの文脈には、イエス・キリストを信じる弟子達、すなわちクリスチャンが、この世の中で迫害を受けるという困難にであうことが記されています。またこの15章26節に続く16章の1節からの文脈も、「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう、更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちが神に仕えているのだと思う時が来るであろう」というように、ここでも、イエス・キリストの弟子達が受ける苦難について語られています。
そのような中に二つの迫害、困難の予言の間に挟まれて「あなたがたは、そのような困難や苦難にであうだろう。でも神様の元から助け主なる聖霊なる神様がおいでなる。その助け主なる聖霊がキリストが罪の救い主であられることを明らかにお示しになる。同時にあなたがたもイエス・キリスト様が私たちの罪の救い主であることを明らかにしていくようになるよ」と聖書は、そう書き記しているのです。もちろん、これは弟子達が、「イエス・キリスト様が、私たちを罪とその罪の裁きから救って下さる救い主である。このイエス・キリスト様を信じるならば、私たちはみんな、私たちの罪とその裁きから救われる」という福音を、述べ伝えるという弟子達の宣教のことだといえます。しかし同時に、神を信じ、イエス・キリストを自分の罪の救い主であり、自分の主であると信じた弟子達が、困難や苦難の中にあっても、父なる神様と子なる神イエス・キリスト様の愛を信じて従って生きていくその生き方を通して、人々に、神様の愛を明らかに示していくようになるということでもあるのです。
じじつ、もともとは小さい群れとしか呼びようのない、当時の宗教集団としては、じつに小さなグループであったキリスト教徒達が、イエス・キリスト様を主としてあがめ、イエス・キリスト様の十字架における死に、神様の愛と、赦しを実感し、父なる神・子なる神を愛し、互いに愛し合い生きていく姿に、当時の多くの人が感化され、やがてローマ帝国の国教にまでなる大きなキリスト教会と広がっていったのです。それは、まさに、苦難と困難の中で、神に祈り、助けを求めながら歩んだ、初代の教会のクリスチャン達の祈りに対して、神が助け、支え、導いた結果であると言って良い出来事です。そのように、助け導く助け主が、聖霊なる神様なのだと言えます。と申しますのも、今日の聖書テキストである15章26節には、「しかし、助け主、すなわち父が、わたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話しておいたことを、ことごとく思い出させるであろう。」と書いてあるからです。
ここにおいて、聖書は聖霊なる神様は、あなたがたにすべてのことを教え、私が話しておいたことを、ことごとく思い出させるお方であるという。「わたしが話していたことを思い出させる」とありますが、「わたしが話していたこと」とは、イエス・キリスト様が、その生涯を通してお示しになった、人の罪を赦し、人を神の子として迎え入れようとする神の愛とであり、その神の愛を信じて、イエス・キリスト様を自分の救い主として信じる信仰によって救われるという、新しい神と人との約束のことであると考えて良いだろうと思います。このイエス・キリスト様が示した神の愛と新しい約束を、困難や苦しみの中にあっても聖霊なる神様は思い出させてくれる、思い起こさせてくれるというのです。私の神学校の同級生が、今イスラエルに宣教の働きのためにいっているのですが、彼女が、こんなことを言っていました。それは、イエス・キリスト様が生まれ育ったイスラエルの国のことばであるヘブル語の祈りという言葉は、「約束を思い出す」という意味なのだというのです。苦しみや困難の中で、深い嘆きと苦しみの中から神を助ける声は、神に対する助けを求める祈りとなるのですが、同時にその祈りは、神の約束を私たちに思い出させる。それが祈りだということなのでしょう。
そして今、私たちの前には、イエス・キリスト様が十字架で肉を裂かれ、血を流すことによって結ばれた、神とひととの新しい約束があります。この約束は、同時に、神様が、私たちを愛し、私たちの罪を赦して、神の子として迎え入れるためには、三位一体なる神として、決して切り離すことのできない神の一人子なる神、イエス・キリスト様を、人としてこの地上に送り、十字架で死なせるまでに私たちを愛して下さった父なる神の愛と、それに黙って従って、十字架に貼り付けられ死なれた子なる神イエス・キリスト様の私たちに対する愛を、私たちに思い起こさせるものです。この愛が私たちを困難や試練の中にあっても支え導いてくれる。助け主なる聖霊様は、そのように、私たちに「思い出させる」ことによって、私たちを支え導いて下さるのです。
今日は、洗礼式があります。洗礼式は、イエス・キリスト様が私たちの罪のために身代わりになって十字架で死んで下さった、その死に私たちもつながり、それ故に罪人である私たちもまた、一度水に水没することで死に、その死によって清められ、水から起きあがるときに、死から新しい命をもってよみがえった事を表す、行為によって示された神の言葉であり、約束です。だからこそ、洗礼は、決して軽んじめられることなく、私たちの心に記念として刻まれなければならないことです。それは、洗礼を受けたという事実が、私たちが神の約束の内に、堅くキリストと結ばれ、神の子として受け入れられたという約束の証だからです。神様は、約束を破られるお方ではありません。そう言った意味では信頼に足るお方であり、その信頼の故に決して神様の方から約束を破られることはありません。ですから、神様と人とが約束した以上、神様の方からは、どんなことがあっても、約束を放棄して、私たちを離れる事なく、愛し続けて下さいます。
聖書にある「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」とはそういうことなのです。ですから、洗礼は1回だけなのです。神は絶えず、その約束を覚え、決して忘れることなく、約束に忠実なお方だからです。そして、聖霊なる神様は、その約束のうちに、私たちがおかれていることを思い出させ、私たちを慰め、支え、励ましてくれる助け主であるのです。だからこそ、約束を思い起こさせるための証となる出来事としての洗礼を、クリスチャンは受け、洗礼を受けたという事実を、心に、また自分の生涯に起こった消すことのできない事実として、刻まなければならないのですそして、今日はこの後、転会式、洗礼式と行われた後、聖餐式を行います。そう言った意味では、洗礼が、思い起こす事実としての出来事を、生涯に刻む事であるとするならば、聖餐式は、まさにその刻まれた出来事に基づく約束を思い起こすということが中心におかれた教会の大切な礼典です。
それは、思い起こすことが中心に置かれた礼典ですから、繰り返し、繰り返し教会の中で行われなければなりません。繰り返し、繰り返し、父なる神様と、子なる神イエス・キリスト様が、激しい心の痛みと、尊い命の犠牲を払って結ばれた主の約束を思い起こすのです。聖餐式に用いられるパンは、ただのパンにしかすぎません。葡萄ジュースだって、元を正せば、買ってきたものなのです。しかし、このありきたりのパンと葡萄ジュースが聖餐式に用いられ、クリスチャン一人一人が、このパンと葡萄ジュースに十字架で裂かれたイエス・キリスト様の御体を思い、十字架の上で流された御血潮を思うならば、それは、確かに、私たちに注がれた神様の愛を伝える恵みの手段となり、私たちが神様の約束の内にある事を繰り返し、繰り返し思い起こさせ、確認させてくれるのです。繰り返し、繰り返し神の愛と約束を思い起こさせる。それは、私たちに人生の歩みが、苦難と困難、そして試練の繰り返しだからなのかも知れません。もちろん、人生には楽しいことだっていっぱいあります。喜びだって、嬉しいことだってたくさんある。けれども、たった一度の苦しみや、試練、困難は、そんな楽しいことや、嬉しいこと、喜びをかきけしてしまうほどの、力をもっているのです。
そして、苦しみや、傷み、試練の中にあるときには、どんなに過去の楽しかったことや、嬉しかったことを思い出して持ち出してきても、なんの力にもならないものです。しかし、神の愛と約束を思い起こす、思い出すということは違います。なぜならその約束は、今のここでの私たちへの神の約束であり、今ここでの私たちに注がれている神の愛を思い出させるからです。キリスト教会は2000年の歴史を持っています。それは、単に2000年前に神の子であるイエス・キリスト様がお生まれになり、人として歩まれ、十字架について死なれたという、1回限りの出来事が、過去の出来事として記録に留められ、歴史として語られているだけではありません。聖霊なる神様が、そのことを今の私たち深くかかわる出来事として、イエス・キリスト様の十字架の死と復活が、今のわたしの罪を赦し、父なる神様が、また子なる神イエス・キリスト様が、私たちを、深く愛して下さっているということを、私たちに心で感じ取らせ、また理解させて下さるのです。そのように、私たちを教え、導き助けて下さる聖霊様が、おおよそ2000年前の初代の教会に与えられ、そして、こんにちの教会にも、今なお与え続けられている。私たちは、深く心に感謝しながら、その聖霊様の働きによって、神の愛と赦しの救いの約束に導き入れられたA姉妹の洗礼式に臨み、またそれに引き続いて行われる聖餐式によって、私たちもまた、同じ恵みと約束の中に招かれていることを、思い起こしたいと思います。
お祈りしましょう。