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羊飼い 『神の義の前に立つ』
ローマ人への手紙 1章18−32節
2004/5/16 説教者 濱和弘
賛美  1、343、191

さて、パウロは、このローマ人への手紙において、先の1章16節から18節で、パウロの持つ信仰の『カクシン』をのべています。その『カクシン』とは、確かに信じていると言う意味での確信でもあり、また、信仰の核となる中心的内容という意味での核心と言うことも出来ます。そのパウロが堅く信じている、信仰の中心的内容とは、「自分は福音を恥とはしない、それはユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるからである。」と言うことです。この『カクシン』に基づいて、パウロはローマ教会に行こう願い、またそのローマ教会の支援を得て、イスパニア伝道に赴こうと志をたてます。この、パウロが述べた信仰の『カクシン』、は「イエス・キリスト様のお示しになった福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」というものです。

ですから、それは、もはやユダヤ人だけではなく、すべての人にもたらされる、神の救いの御業を伝える者であると言えます。イエス・キリスト様は、十字架の死と復活、あるいはその御生涯の中で語らえた言葉や行いを通して、すべての人にもたらされる神の救いと言う、良き知らせ、すなわち福音を、私たちにお示しになられたのです。この福音は、神から私たちに与えられる救いの出来事を示します。この救いとは、私たちに対する罪の赦しであり、また私たちの罪に対する神の裁きからの救いです。それは、私たちひとりひとりが、まぎれもなく、罪人であるという現実を示しています。もっとも、私たちは、「自分自身が罪人である」と言う認識をあまり持っていません。むしろ、「あなたは罪人です。」と名指しで指摘されますと、なにか、ちょっと不満に感じたり、深いに思ったりする感じがしないわけでもありません。そう感じるのは私だけでしょうか?たとえクリスチャンであっても、「確かに、頭の中では自分は罪人である。」と言うことは理解できても、なかなか実際においては、自分が罪人であると言うことを深く実感することは少ないのではないでしょうか。

もっとも、毎日毎日の生活の中で、「自分は罪人だ。自分は罪人だ。」などと、思い詰めながら生きていたならば、それこそ気が滅入って、やりきれなくなります。ですかた、「自分が罪人だと深く実感することが少ない」と言うことは、それはそれで良いことだと云うことも出来ます。しかし、実感できないということと、「自分は罪人だ」という現実とは、同じ事ではありません。たとえ、どんなに実感できなくても、「私たちが罪人である」という現実は、確かなことなのです。そして、この「罪の現実」があるからこそ、私たちが生きていく中で、また生活の中で何か事が起こったときには、激しい後悔や、罪の呵責を感じ、自己嫌悪を感じるような出来事に出くわすのです。それは、まさに「私は罪人である。」という現実に私たちが直面する出来事だと言えます。このように「私たちは罪人である。」という現実があるならば、私たちはその罪から救われなければなりません。そして、その罪に対して下される神の裁き、神の怒りから救い出されなければならないのです。

パウロは、「神の怒りは、不義を持って真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義に対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。」とそう言います。「罪の支払う報酬は死である」とは聖書(ローマ6:23)の言うところです。ですから、この18節において言われる神の怒りというものは、私たちの間にある「死」という出来事の中に表されていると言うことが出来ます。もちろん、この死は、私たちの肉体の死も含むものです。肉体の死をも含んでいるからこそ、イエス・キリスト様の復活の出来事があるのです。しかし、「罪の支払う報酬が死である」と言うとき、それは確かに私たち肉体の死を含んではいますが、ただそれだけに止まらず、もっと広い意味を持っていると言えます。肉体の死は、この地上で生きる命との断絶です。この地上での生活の一切と関係が壊され絶たれてしまうこと、それが死なのです。つまり、死とは、単に肉体の死だけではなく。神と人との関係、人と人との関係、そして人と自然の関係が壊されている状態を指しているのです。

考えてみますと、私たちの社会には、様々な問題があります。怒りがあり、恨みがり、憎しみがあったりと、人と人との関係に様々な亀裂があります。また、環境問題と言った、自然と人間の関わり合い方にも、大きな問題が生み出されている。例えば、人間関係の問題において、それを大きな視点から見れば、戦争や民族紛争といったものになってきます。逆に、より身近な視点から見れば、幼児虐待や、いじめといったものになって具体的に表面化してきたりもします。たとえそのような、具体的な行為の中に現われてこないとても、好きになれない人や、赦せない人、顔も見たくないなどと思うような、複雑で難しい人間関係を作り出していったりもする。今日の説教の聖書テキストの中で、29節以下は、「罪のリスト」と呼ばれるものです。そこには次のように書かれています。「あらゆる不義と貪欲と悪意にあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念に満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、大言壮語をする者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている」

ここに書き記されている内容に触れるような人に出来事に出くわしたならば、私たちはその人に対して、嫌悪感を感じたり、怒りや憤り、あるいは憎しみを感じる気持ちもわからないわけではありません。むしろ、それは、私たちの自然な感情なのだろうと思います。だからこそ、そこには社会正義といったものが生まれてくるのでしょう。けれども、その自然の感情の背後には、相手を赦せない、赦そうとしない、また受け入れようとしない自分の姿があることも紛れもなく確かなことなのです。そして、自分が相手の非によって、相手を嫌い、赦せず受け入れられないのと同じように、この私によって、憎しみの感情を抱き、赦せず、嫌悪感を感じている人がいるのもまた現実なのです。そういった意味で私たちは生きている現実の社会、そして生活そのものの中で、常に「罪」とその「罪の支払う報酬である死」と深く身に関わって生きていると言えます。そして、その罪がもたらす結果である死が、すでに私たちの中に深く入り込んでいるのです。そして、その「私が罪人である」と言う現実が、私たち自身を取りまく世界に、様々な人間関係の難しい問題を生み出して行っているのです。

同様に、私たち人間が、自分の利便さや利益を追求していったときに、自然と人間の関係が抜き差しならない深刻な状況を作り出しています。ここには、死に瀕した、人間と自然環境の関係があるのです。このように、私たちひとりひとりの罪がもたらす結果は、神の怒りとしと、確かに私たちの住む世界と社会の中に明らかにされてます。ですから、このような罪と、その罪の結果もたらされる様々な「関係の危機」、人間関係の問題や、環境問題と言った中で、私たちは福音がもたらす救いを得なければならないのです。この救いをもたらす福音、この福音は、壊れてしまっていた神と人との回復するものです。神と人との間にあった深い溝を生め、神と人との断絶した関係を正しいものにしてくれるのです。そして、その神と人との関係が回復するところから「救い」は始まるのです。

なぜ、神と人との関係が回復することから「救い」が始まるのでしょうか?パウロは、「神の怒りは、不義を持って真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義に対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたかのである。」とそう言ったあとに、こう続けます。「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と先生とは、天地創造このかた、被造物において知られていて明らかに認められるからです。したがって、彼らに弁明の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその無知な心は暗くなったからである。彼らは自らを知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這う者の像に似せたのである。」18節おいて、パウロは、神の怒りは不義を持って真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とにたいして、天から啓示されると言っています。しかし、それは単にユダヤ教徒や、クリスチャンの中で不義を持って真理をはばもうとしている人に限っていっているのではありません。

パウロは、異邦人もいればユダヤ人もいるローマ教会に対して、罪からの救いについて語り、また異邦人の地であるイスパニアで、罪の赦しの福音を語ろうとしているのです。ですから、パウロが「神の怒りは不義を持って真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とにたいして」神の怒りが明らかにされると語るとき、それはすべての人を対象にしていると考えるべきです。16節では「私は福音を恥とはしない、それはユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。」と、すべての人を対象として神の救いの福音を語るように、パウロは、すべての人を対象にした神の怒りを語るのです。それは、パウロの「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と先生とは、天地創造このかた、被造物において知られていて明らかに認められるからです。」という言葉からも明らかであると言えるでしょう。パウロは、人間はこの世の造られたものを通して、神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性とは、天地創造以来、私たちの間に明らかに示されており、私の心はそれを認めることが出来るのに、それを感じ取るのではなく、私たちが偶像礼拝という罪に陥っているから、神の怒りが私たちの中に下っているのだと言うのです。

神の目に見えない性質が私たちの間に明らかに示されており、私の心はそれを認めることが出来るとパウロは言いますが、キリスト教弁証学というキリスト教の教理を説明する学問において、一番最初にやることは、神の存在の証明から始まります。聖書は、神が存在するということを前提にしています。ですから、神の存在の証明は、聖書から始まるのではありません。私たちは、私たちの間にある出来事から、神は存在すると言えるかどうかを問っていかなければなりません。そして、その神の存在に説明していく方法の中のひとつに、「本体論的な説明の仕方」といったものがあります。これは、おおよそ、次のような方法によって、神の存在を明らかにしていこうとします。つまりこういう事です。人間は、美しいという「美」とか、正しいもの「正義」といった心の思いを持っています。「真実」とか「誠実」あるいは「愛」といったものもそうでしょう。こういった「美」とか「正義」といったものは、民族や社会の在り方などによって、それぞれ違いがあります。しかし、「美しい」と「正義」とか「愛」といった思いは、人類の誰もが感じ取るものです。

この民族や社会の在り方などによって様々に変質した形で表現される「美」や「正義」や「愛」といったものの根源を探し求めていったその先にある究極的な「おおもと」なる存在があるはずです。そのような存在があるからこそ、「美」的感覚や、「正義」に対する思慕や、「愛」に対する信頼がある。そして、それらの根源にある存在が神なのだというのが、神の存在の本体論的な説明の仕方です。どこの社会においても、また誰の心の中にも、正しいことと正しくないことといったいわゆる「正義」と「不正義」の感覚は存在します。「正義」それ自体、正しいこととして存在意義があります。しかし、「悪いこと」「正しくないこと」「不正義」というものは、正しいことが行なわれない時に、起こってくることですから、「正義」が存在しなければ、存在し得ないものです。つまり、正しいことである「正義」の前に立って、はじめて正しくないこと「不正義」が明らかになるのです。

たとえば、最近の国会議員の年金の未加入、未納問題に対して、私たち国民の間には、一種の生き土尾英のような感情が生まれています。年金問題に関する法律を作るべき国会議員や閣僚などが、自らは様々な特権的処遇を受けていながら、納めるべき義務と社会的責任を負う性質の年金を納めてなかったなどと言うのは、看過できない問題として憤りを感じるのです。このような憤りの背後には、確固たる「義」というものに対する洞察があり、現状が、その「義」に対して、あまりにもかけ離れてしまっている「不義」な状況にあるからです。ですから、私たちの心に憤りがあると言うこと自体が、すでに「正義」というものの存在を明らかにしていると言えます。しかし、現実を見て参りますと、どうやら、私たち国民の感じる「正義」と一部の国会議員の方々が感じる「正義」との間には、大きな隔たりがあるようです。そういった意味では、「正義」というものの究極的な根源である絶対者なる神の義の前に立ってこそ、私たち人間の本当の意味での「正義」、「不正意義」が明らかになってくると言えるのかもしれません。

そうしますと、私たちが神の義の前に立ってこそ、本当の意味で私たちが何が正しく、何が正しくないのかがわからないと言うことです。じつは、パウロは、ローマ人への手紙のこの箇所で、このような論法を用いて、私たちひとりひとりの、そしてすべての人の中にある罪と言うことを明らかにしているのです。パウロは、人間は神の永遠の力と神性を被造物において知ることが出来るが、それらを朽ちる人間や鳥や獣や這うものの象に似せてしまったと言います。このように言うことによって、パウロは人間の罪といったものは、偶像礼拝にあるいうのです。もちろん、偶像礼拝とは、なにかしらの偶像を造って、それを礼拝の対象にする行為です。しかし、偶像礼拝の本質は、何かしらの像を刻むと言うこと以上に、神という存在を、人間の考えや発想、想像(イメージ)の中に閉じこめ納めてしまうことです。ですから、神という存在から聞き、学ぶのではなく、自分の考えを第一とするときに、実は偶像礼拝といったものが始まっているという事ができます。いうなれば、私たちが神の言葉に耳を傾け、神の言葉を聞こうとしないときに、それは、もうすでに偶像礼拝なのです。

考えてみますと、創世記3章にある人類最初の罪は、「エデンの園にある、善悪を知る木の木の実を取って食べてはならない」という神の語りかけを、エバが聞かなかったことに始まります。その時エバは、「善悪を知る木の木の実を取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」という神の言葉よりも、その木が実が、「食べるのは良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、夫にも与えた。」と聖書は記しています。まさに自分の思いや考えが、神の語りかける言葉に優先したのです。その時、神と人との関係は崩壊したのです。エバの、「それは食べるのは良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」と言う自分の思いや考えのゆえに、「善悪を知る木の木の実を取って食べてはならない。それを取って食べるときっと死ぬであろう」という神の語りかけにエバは信頼しきれずに、善悪を知る木を食べたのです。そして、神と人との間の信頼関係は、人の側から壊され、神と人との関係の間に断絶が起こり、関係の死が訪れたのです。

このように、私たちが神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従うと言うことなしに、ただ自分の考えや、自分の思い、あるいは自分の利益を考えて、行動するときに、私たちは、色々な場面で、私たちを取り巻く人間関係の中で危機的な状況や、ストレスを感じてしまうような状況を生み出していくのです。テキストの1章26節にある聖書の言葉は、そのような人間の状況を見事に描き出しています。そこにはこう書かれています。「それゆえ、神は彼らを恥ずべき欲情に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然な関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然な関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して、恥ずべきことをなし、そして、その乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」この26節27節で記されている内容は、同性愛の問題です。この箇所を持って、キリスト教会の中では同性愛を罪だと断罪する方もおられます。しかし、今日では、同性愛の原因として、性同一性傷害という病気や、あるいは、いくつかの心理学的な要因によって起こっているなどのことがわかってきています。ですから、単純に同性愛=罪と結びつける事には、注意が必要ですし、それは問題です。

しかし、当然の事ながら、パウロの時代には、そんな医学的なことなどわかっていない時代ですから、同勢愛といったものは、正常な男女間の関係ではなかったわけで、まさしく、罪がもたらした結果としての、正常な関係が壊れてしまった状態と捉えられたのです。そして、その罪とは、自分の情欲に自分を任せること、つまりは自分の感情や、自分の思い、願いのままに生きることが、神のおさだめになった男女の正しい関係を破壊してしまったとそう捉えられたのです。だからこそ、同性愛をひとつの例として、パウロは人間の罪の実態を知らせようとしたのです。それは、まさに、自分の感情や思い、あるいは願いと言う、自分の欲求や欲望、あるいは願望だけで、人間が生きていくならば、私たちは、どこかで、誰かとの間に、人間関係に大きなひび割れをいれ、関係を死に至らせるような事になってしまうということなのでしょう。そういった意味でも、私たちは、パウロが伝えたイエス・キリスト様の十字架による罪の赦しを信じる信仰によって、神と私との関係が回復される「救い」をいただかなければなりません。

そして、回復された神とあなたとの関係においてで、神の言葉に耳を傾け、神の言葉に聞き従いながら生きていくことが大切になります。それが、複雑で難しいな人間関係の中で生きている私たちに、関係の回復という救いをもたらすからです。友人関係の中で、親子関係の中で、また夫婦関係の中で、その関係に死をもたらすような危機的な状況が、決して起こってこないと私たちは言い切ることは出来ません。そんなときに、死に至ってしまうような危機的な状況を救ってくれるのが、神の語りかける言葉なのです。なぜなら、イエス・キリスト様は、ゲッセマネの園で、「父よ私の願いではなく、あなたの御心にままになさって下さい」とそう祈られたからです。自分自身の願いではなく。私たちを、神の前に罪を赦し、死から命へと導くための生き方を選ばれたからです。そこには、イエス・キリスト様が語られた「人がその友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」と言う自らの言葉を、そのままに生きられたイエス・キリスト様のお姿があります。そして、そのお方が、私たち教会という神の群れに対して「私は新しい戒めをあなたがたに与える。あなたがたは、互いに愛し合いなさい」とそう言われるのです。

だからこそ、私たちは、神の言葉である聖書の言葉に耳を傾けなければなりません。じっと聖書の言葉に耳を傾け、自分の思いを聖書に読み込むのではなく、聖書を通して語りかける神の言葉に耳を傾け、聞かなければならないのです。また、それは、教会でも同じ事が言えます。教会で神の言葉である聖書の言葉が語られず、人間の思いや考えだけが語られていくようになったとしたら、その教会は死んでしまうのです。ですから、私たちは、注意深く神の言葉に耳を傾け、神の言葉に生きる教会にならなければなりません。教会が、神の言葉に耳を傾け、神の言葉に導かれながら生きるならば、その教会は豊かな命のある人と人との結びつきを生み出していきます。また、家庭にあっても親と子の間が、また夫婦の間が、聖書が語りかける神の言葉によって立つならば、そこにはしっかりとした、ゆるぎない愛で愛し合える家族が生まれてきます。イエス・キリスト様が、私たちの身代わりとなって十字架について死んでくださった。その十字架の死によって、神の前に死んでいた私たちは、神の前に生きるものとされたのです。それは神の義の前にたち、神の義に向って生きていく命です。

そして、神の義とは、ただ単に私たちの罪を裁くための義なのではなく、私たちを愛し、私たちを赦すための義でもあったのです。ですから、私たちが神の言葉に導かれながら、その義に向って生きるならば、私たちもまた、愛し赦す生き方に導かれていくのです。だからこそ、私たちは、三位一体なる神を信じ、またイエス・キリスト様が十字架の上で死なれるによって、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださったという福音を信じなければならないのです

お祈りしましょう。