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羊飼い 『神の真実と公平』
ローマ人への手紙 2章1−16節
2004/5/23 説教者 濱和弘
賛美  19、339、233

さて、今日のテキストとなっております、ローマ人への手紙の2章1節から16節の冒頭の言葉は、「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたは弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。」という言葉で始まっています。「だから」というのですから、この2章の1節以降は、その前に書かれている1章18節から31節までの文章を受けて「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたは弁解の余地がない。」と続いていることになります。この1章の18節から31節までは、おもに異邦人の罪と言うことを念頭に置いて書かれています。もちろん、先週の礼拝においてお話し致しましたように、そこには、単に異邦人という、ユダヤ人に対する存在と言うことだけが取り上げられているわけではありません。異邦人が犯している罪ということを取り上げつつも、その背後には、異邦人やユダヤ人といった民族や宗教の違いといった枠組みを超えて、すべての人間が犯している罪というものが見据えられています。

それでは、そのすべての人が犯している罪というものの根源が何かというと、それは偶像礼拝だと、ローマ人への手紙の著者であるパウロは、1章18節から23節でそう言うのです。そして、更に、その偶像礼拝という者は、単に偶像となる像を刻み、それを伏し拝むと言う行為ではなく、自分の思いや考え、あるいは願いや欲求、感情といったものを、第一とする時に、もうすでに偶像礼拝が始まっているのだというのです。つまり、偶像礼拝とは、ただ単に何かしらの像をつくり、それを神としてひれ伏し拝むことが偶像礼拝だというのではないのです。自分自身の考えや感情というものを第一にして、自分の思いのままに生きるような生き方をしようとするならば、それ自体が、もはや、偶像礼拝であると言うのです。それは、自分の思いや考え、あるいは感情といったものが、あなたの行動を支配する神となっているからです。それゆえに、あなたの想いや感情があなたにとって偶像なっているということは、つまりは、あなた自身があなたの神となっているということです。自分自身が、自分自身にとって唯一絶対的な存在になって、自分の行動や考え方を支配しているところに人間の罪の根源がある。この主張に立って、パウロは、だからこそ、すべてをさばく者よ。あなたには、弁解の余地がない。とパウロはそう言うのです。

この、2章の1節からは、1章の18節から31節までが、おもに異邦人の罪と言うことを念頭に置いて書かれるのに対して、ユダヤ人の罪と言うことを念頭に書かれていると考えられています。そのユダヤ人の中にも、異邦人の罪と同じ罪があるとパウロはそう言うのです。パウロは、異邦人が、自分自身の考えや感情といったものを、第一とし、自分自身を自分自身の神とする偶像礼拝に陥っているように、ユダヤ人たちよ、「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。」とそう主張しています。なぜなら、他人をさばくあなたも、他人をさばくことで、異邦人たちと同じことを行なっているからだと、パウロはそう言うのです。しかし、他人をさばくことが、なぜ自分の想いや考え、あるいは感情や欲求といったものを第一として生きる生き方と同じものだと言えるのでしょうか?ましてや、ユダヤ人たちが、人をさばく時、その裁きの基準となるのは、律法です。少なくとも、律法というものは、旧約聖書に土台を置いているものです。ですから、ユダヤ人たちが人をさばく「さばき」の根源は、神から出ていることになります。けれども、たとえそれが、聖書に端を発しているとしても、人が人を「さばく」ならば、その人は、自らを神の立場に置くのと同じことなのです。

なぜなら、人をさばくと言う行為は、神のなされる業であり、人が行なうことではないからです。「さばく」と言う行為は、人の罪を断罪する行為です。そういった意味では、私たち人間は、誰も人の罪を裁くことなどできません。ですから、もし私たちが、人の罪を断罪し「さばく」ならば、それは、本来は神がなされること、人が神に代わってしてしまっていることになるのです。ヨハネによる福音書の8章の1節から11節までは、有名な姦淫を犯した女が、イエス・キリスト様のもとに連れられて来た出来事が記されている箇所です。このヨハネによる福音書の8章1節から11節までは、写本上は、有力な写本には書かれていないなどの問題点があり、本来、ヨハネによる福音書にあったかどうかは議論がある箇所ですが、しかし、人が人を裁くことは出来ないと言うパウロの主張を、見事に言い表すような出来事だと言えます。

ここでは、姦淫という罪を犯した女性がイエス・キリスト様の所に連れてこられます。姦淫の現場を押さえられた女性は、律法では石打ちという刑罰を受け、殺されることになっていました。そこで、イエス・キリスト様のことを快く思っていないパリサイ派の人たちや律法学者たちは、イエス・キリスト様に、「律法では、姦淫の現場を押さえられたものは、石で打ち殺せと命じられていますが、あなたはどう思うか」とそうたずねるのです。その問に対して、イエス・キリスト様は、身をかがめながら、地面に何か書き、そして「あなたがたの中で、罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」とそうお答えになりました。イエス・キリスト様から、「あなたがたの中で、罪のないものが、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われた人々は、ひとり、一人と立ち去っていき、誰一人、その女をさばき、石を投げつけるものがいなかったというのです。誰も罪を犯したことのないものだけが、罪を裁くことができる。だとしたら、私たち人間が人を「さばく」ことなどできないことです。ただ、罪とは全く関わりのない、聖なる神のみが人を「さばく」ことのできる御方なのです

もちろん、だからといってそれは、今日の司法制度を全く否定するものではありません。少なくとも、今日のような司法制度がなければ、社会の秩序といったものが立ちゆかないのも現実です。そして、少なくとも、ここで取り上げられている「さばき」というものは、律法によって「さばく」といった内容のものです。ですから、それは今日の日本の司法制度のもとで、判決を下すという意味よりも、もっと宗教的な意味あいものだと言えます。しかし、たとえ社会秩序を守るためであり、宗教的な意味合いを離れていたとしても、人が人を「さばく」と言うことには限界があるのだと言うことを知らなければなりません。そこには、誤りもあれば、間違いもあるのです。ですから、さばいている自分にも、誤りがあるかもしれないという、恐れとおののきを持っていなければなりません。それは、つまりは、じぶんを「絶対化しない」ということです。たしかに、ことの白黒がはっきりしている場合があることは、明らかです。ものを盗んだり、人を傷つけたり、いじめたりすることが悪いと言うことは、理由のいかんによりはっきりしています。しかし、いざひとたびそれを、「さばき」、ことの善し悪しに対する結果を出す段階になると、人は、感情や、その人の関わり合い方で、さばきの結果を代えてしまうのです。

今日、私たちの社会が抱えている大きな問題は、いじめの問題です。私も親として、自分の子供がいじめにあわないか、またいじめる側にならないか、正直不安を感じることがあります。このようないじめの問題が起こると、必ず起こる議論が、いじめられ側にも問題があるのではないかと言う意見です。言うまでもないことですが、いじめられている側に立つ人から「いじめられる側にも問題がある」と言う意見が出てくることはありません。そのような意見は、どちらかと言えばいじめた側、もしくはいじめた側に近い立場から出てくるものです。確かに、いじめられる側にも問題があると言う意見は、一見、正しいように思える部分もあります。しかし、もう一歩踏み込んで、「では、人をいじめてもいい理由が何かあるのか」と突き詰めてみますとどうでしょうか。もちろん、人をいじめて言い理由などあるわけはないのですから、「いじめられる側にも問題がある」と言うことで、いじめという行動が許されるわけではないのです。このような、「いじめられる側にも問題がある」といった意見は、「いじめ」という、当然、良くない行為の善し悪しの結果を、「いじめられた側にも問題がある」と言う言葉でで、いじめはあまり悪いことではないと言ったふうに、すり替えていってしまうものです。だからこそ、こういった意見は往々にしていじめた側やいじめた側に近い側から出てくることが多いのだろうと思います。

しかし、いじめられた側からすれば、いじめは絶対に悪いことです。どんな言葉や、理屈を持っても正当化されることのない悪いことなのです。このように、この「いじめ」ということを例にしても、いじめた側の親や友達と言った関係にある者と、そうでない者とでは、その行為に対する「さばき」は全く違うのです。このように、私たちの正義や「さばき」といったものは、必ずしも、不変な絶対のものではなく、置かれている立場や状況で、代わってしまうような性質のものなのです。だからこそ、私たちは、あたかも自分が神であるかのように、人をさばくことはできないのです。もし、私たちが人をさばくことが出来ると思っているならば、その人は、まさに異邦人の罪が偶像礼拝に根ざしているのと同じことをしているというのです。では、私たちをさばく「神のさばき」とは、どのようなものでしょうか?それは、真実で公平なものです。教義学という神学の一分野がありますが、その教義学におきましては、真実とは、神の持っておられる御性質のひとつであると言われます。

この真実と言うことは、どんなときでも、どんな状況でも決して結果を変える事のない、普遍性です。神様は罪に対して、同じような態度で臨まれ、さばかれるのです。同時に、誰に対してもそのさばきは同じようになされるのです。決してどのような関係にあるかどうかで、さばきは代わることはありません。例えばそれは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと神の裁きに匙加減はないのです。ここの神の公平があります。だからこそ、12節にあるように「律法なしに罪を犯した者は、また律法なしに滅び、律法の下で罪を犯したものは、律法によってさばかれる」のです。けれども、そのように真実と公正さを持って人をさばかれる神は、同じ真実さと公正さを持って、私たちを愛し、私たちの罪を赦そうとしておられるのです。それは、神がその本質に置いて愛なるお方だからです。先ほど、教義学という神学の一分野で、真実は神の性質だと申しました。同じように愛もまた神の御性質なのです。その神の性質が、私たち罪人を愛し、赦そうとするのです。

しかし、このように私たちを愛し、赦そうとする神は、正しい御方です。この神の正しさがあるからこそ、神は、人の罪をさばかれるのです。そして、その神の正しさゆえに、如何に神が罪を赦そうと思われても、ただ何もなしに罪を赦すことができないのです。だからこそ、このさばきと赦しの狭間で、イエス・キリスト様が十字架の上で、私たちの罪の身代わりとなって死なれたのです。十字架の上で、自分を十字架に付けて殺そうとする者にさえ、「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのかわからないでいるのです。」とそう言って祈られたのです。ここに、イエス・キリスト様の十字架の死が、神の愛の表れであると言われる所以がありますそして、この神の愛を信じて、イエス・キリスト様の十字架が、私の罪の身代わりであった受け入れるとき、私たちは神の赦しの愛の内に入れられるのです。

この神の愛に関してパウロは、2章の4節において「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くこともしらないで、その慈愛と忍耐と、寛容との富を軽んじるのか。」と述べています。ここでいう「悔い改め」とは、もちろん自分の罪を、認めその罪を後悔することを含んでいますが、それだけではありません。イエス・キリスト様の十字架の死が、私の罪の身代わりとなったものであると言うことを信じることであり、三位一体なる神の真実で公平な愛を信じることなのです。そういった意味では、私たちは人の罪に目を向け、それをさばくのではなく、自分の罪を認め、神の赦しの愛に目を向けなければなりません。そして、私たち教会も、罪のさばきを語るのではなく、その罪のさばきのゆえに、私たちの罪を赦し給もうた神の愛を語り、赦しの愛を生きるものにならなければならないのですなぜなら、それが真実で公平な神が、歴史の中でイエス・キリスト様の十字架を通して表された愛にお答えする、教会の生き方であり、キリスト者の生き方だからです。

お祈りしましょう。