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羊飼い 『大切な宝を失わないように』
ローマ人への手紙 2章17−29節
2004/6/27 説教者 濱和弘
賛美  11、246、254

さて、ただいま司式者がお読み下さった聖書の箇所は、「もしあなたがたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが、律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおるものの光、愚かなものの導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら」と言う言葉で書き出されています。ここにおいて、ローマ人への手紙の著者のパウロが、「あなたがたが、自らユダヤ人と称し」と記しているのですから、この聖書の箇所は、具体的にはユダヤ人に対して語りかけられた内容だと言えます。けれども、たとえそれがユダヤ人に対して書かれたものであったとしても、実は、私たちと決して無関係であるとは言えない内容がそこに含まれていると言えます。ともうしますのも、ここにおいてパウロが呼びかけているユダヤ人は、私たちと同じように、聖書の神を信じる民であることは間違いないからです。その聖書の神を信じるユダヤ人たちに対してパウロは、信じているその内容と、それに対する実際の行動や行いといったものの間にずれがあるではないかと言って、その問題点を指摘しています。

21節、22節には、次のように記されています。「なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自ら盗むのか。姦淫するなと言って、自ら姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮のものをかすめるのか。律法を誇りとしながら、自らは律法に反して神を侮っているのか。」ここに置いてパウロがいっていることは、用は、言っていることとやっていることとは違うじゃないかということです。いえ、もっと厳密に言うならば、信仰は、実際にその信仰の内容を生きてこそ、意味があるのだと、パウロはそう言いたいのです。ご存知のように、ユダヤ人たちは、それこそ、キリスト教会がこの世の生み出される、ずっとずっと前から、神の民として生きてきました。そして、その神の民の証として彼らは「律法」を持っていたのです。「律法」とは、神の民が具体的にどう生きるべきかを示したものであると行って良いだろうと思います。ですから、「律法」を持っていると言うこと、それはまさに、神の民であることの証なのです。

ところが、パウロは「律法」をもっていてもだめなんだ。また「律法」をよーく知っているということでもだめだ、それは具体的に生きられなければ何にもならないんだとそう言うのです。そこには、私たちには「律法」があると、どんなに誇っても、また「律法」の内容をよく知っている、だから私たちは神の民だ、と安心しては行けない、律法を生きなければ、それは宝の持ち腐れであり、神を信じることにはならないのだという、パウロの主張があるように思われます。神を知っていても、神を信じていなければ神の民となることはできません。知っていると言うことと信じるということは別のものです。そして、信じるということは、その信じている内容に、自分の全存在を賭けることなのです。そして全存在を賭ける以上、それは具体的な生き方に関わってきます。なぜなら、全存在と言う以上、そこには私たちの心も魂も、そして体も関わるからです。気持ちだけでもない、思いや意志だけでもありません。そこには具体的な体を伴っているのです。ですから、具体的な生き方に関わってこないようなものは、全存在を欠けているとは言えないのです。ですから、同じように、私たちクリスチャンが、同じように聖書の神を信じていても、信じている信仰の内容と実際の生き方の間に、何らかの「ずれ」が生じてしまっているならば、それは大きな問題なのです。

それでは、パウロは、私たちクリスチャンに「律法」を守もっていきなければ、あなたがたは神を信じていると言うことができないとそう言っているかというと、決してそう言うわけでありません。そもそも、「律法」を守って生きることが神を信じることだとすれば、キリスト教などいりません。ユダヤ教だけで十分なのです。けれども、イエス・キリスト様という御方を通して、この「律法」守って生きるということ乗り超えて、神を信じる生き方を示されたからこそ、キリスト教とユダヤ教は、同じ聖書の神を信じながら、二つの宗教として別々の歩みを営んでいるのです。それでは、このユダヤ教とキリスト教を二つの宗教に分けた、「律法」を守って生きると言うことを超えた神を信じる生き方とは、いったい何なのでしょうか?実は、この事をパウロは、このローマ人への手紙で延々とこと詳細に述べていくのです。それが、こんにち「信仰義認」と言われていることなのです。「信仰義認」というのは、用は、私たちが、自分の罪を認め、イエス・キリスト様が、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださった。ただそのことを心に受け入れるだけで、私たちは罪がゆるされて、神の民となることができると言うことです。

つまり、ただ、神の恵みによってのみ、私たちは、罪がゆるされ神の民となることができるということです。そこには、行いや業は一切求められないのです。る実は、このように申しますと、私は皆様が少々混乱しないだろうかと心配しています。ともうしますのも、先ほど私は信じるということは、自分の全存在を賭けて、その信仰の内容を生きることだと、そう申し上げましたからです。自分の全存在を賭けて信仰の内容を生きなければならないのに、その生きるべき内容が行為となるものが何もないのですから、一体どうしたらいいのか。クリスチャンとして、「信仰義認」を生きると言うことは、具体的にどういうことなのか。本当にとまどってしまうようなことです。実際、私たちクリスチャンの生活は、具体的な行いを伴っています。今日、こうして私たちがここに集まり礼拝していることも、具体的な生活の中の行いです。献金も捧げることも伝道することも具体的な行為であり、これらは決して軽んじられるべきものではありません。なのに、何もしないことが神を信じることだとしたら、一体私たちがやっていること、やってきたことはなんだったのかと思わされます。まさに、行っていることとやっていることは別ではないかと言われそうです。

けれども、そうではないのです。私たちが礼拝を捧げ、献金を捧げ、伝道や奉仕の業に励むのは、決して私たちが、罪をゆるしていただくためでもなく、罪をゆるして頂いていることを確認するためでもありません。もし、そのような動機で礼拝に集い、献金を捧げ、奉仕の業に励んでいるのならば、そのことのほうがもんだいなのです。むしろ、そこに信仰の内容と行いとの間にずれが生じているのです。私たちが、礼拝を捧げ、献金を捧げ、奉仕の業に励むのは、私たちが、私たちの罪をゆるして頂いているからであり、神の恵みによって、すでに神に受け入れられているからです。神様の恵みの中に、私たちは受け入れられている。この神の恵みの中にすでに生かされている。このことに全存在を賭けているからこそ、礼拝を捧げ、献金を捧げ、奉仕に励むのです。それは、信仰に生きるための行為ではなく、信仰に生かされているがゆえの感謝であり、喜びだと言えます。ですから、礼拝のことを喜びの祝宴、喜びの食卓というような言い方をされる方もおられますが、そういった意味では、実に的を得た表現であるといえます。

しかしながら、本来はそのようなものであるにも関わらす、教会、それは私たちの教会ということではありませんが、実際の教会の陥りやすい傾向として、キリスト教会にもまた、パウロがこのローマ人への手紙の2章17節に指摘したユダヤ人の問題点は、形をかえて存在しているのです。ある方がこのようなことを行っていました。それは、その方の数学の先生の話でした。その先生は、授業中、繰り返し繰り返し、「君たちね、数字なんてのは、いい加減なものなんだから、数字に惑わされないようにしなさい」と、彼らにそうおっしゃっていたそうなのです。その先生の生徒だった彼は、今、統計の数字を扱う仕事をしておられます。そして、実際に数字を扱いつつ、その数字をどう解釈するかで、具体的なはずの数字の意味が変わってくると言うのです。例えば、こういうことです。今ここにある聖書の値段が、仮に10万円だったとします。そして私が、「この聖書、高かったんだよ。」というよりも、この聖書「10万円でかったんだよ」という方が、ふう通はみなさん「ああ、ずいぶんと高い聖書だな」と思われるだろうと思います。

しかし、この聖書が、最高級の皮を使い、一級の職人さんによってつくられた手作りの世界に一つしかない聖書で、本来は20万円ぐらいはかかる聖書だとすると、「へー、そりゃ安かったね」と思われるだろうと思われる方も出てくるのです。もちろん、「それにしても高い」と思われる方もあるはずなのです逆に、3000円で聖書を買ったとしても、それが本来1000円程度で買える聖書だとしたら、ずいぶんと高い買い物をしたと思ってしまいます。このように10万とか3000とかいった数字は、極めて具体的で絶対的なのですが、評価や解釈は、評価し解釈する人によって変わってくるのです。そう言えば、聖書の中にこういう話があります。それはルカによる福音書の21章1節から4節までに書かれている話です。そこにはここ書かれています。「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を投げ入れるのを見られ、またある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て言われた『よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、だれよりもたくさんいれたのだ、これらの人はありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである』」

この話を見ますと、貧しいやもめが投げ入れたお金は2レプタです。レプタというのは、当時のローマの貨幣でもっとも価値の低い貨幣です。日本の一番小さい貨幣は1円ですから、それに当てはめて考えてみて頂いても、金額としては多くはありません。それこそ、金持ちの人がさいせん箱に投げ入れ多額と比べればずっと少ないものだと言えます。けれども、それを見て、評価したイエス・キリスト様の評価は、全く違ったものでした。なざなら、その2レプタを捧げた貧しい女性の心を見ていたからです。現在、私はPBAを中心に、教派をこえた、いわゆる超教派の働きをいくつかしていますが、ある牧師の方が、超教派の大切さと意義を認めつつ、しかし、その問題点も指摘しておられました。そのしてきされた問題点とは、このようなことでした。「 超教派の働きとして、なにか大きな働きをすると、高額の献金をする人を、何かと立てて表舞台に立たせると行ったふうになりがちな点がある。それは、決して正しいことではない。」もちろん、それは高額の献金を捧げてくださった方の問題ではありません。献金を受け取った側が、受け取った金額によって、捧げてくれた方の扱いが変わっているのではないかという指摘なのです。

それは、まさに捧げて下さった方の心を見ずに額を見ているのではないかというのです。もちろん、多くの金額を捧げて下さった方の心は、その額を通してもわかります。けれども、その額は決して多くはなくても、沢山の金額を捧げて下さった方と、同じ心で捧げて下さっている方がほとんどなのです。だとしたら、同じ信仰の思いからでたことであるなら、金額ではなく、しんこうによって同じように扱ってあげるのが、キリスト教会の生き方ではないか。と、その牧師は問うておられたのです。まさにその通りだろうと思います。そういえば、家内が以前こんな話をしてくれました。それは家内が教会学校の中高生のクラスしていたときのことでした。中高生のクラスで献金をしたときに、その献金箱のなかに、それこそ1円玉が何枚か入っていたんだそうです。誰が捧げたものかはわかりません。けれどもそれを見た、別の中高生クラスの教師が、「神様に捧げるのに1円玉が入っているなんて、そんなんじゃダメだ」と、怒り出したというのです。

その時、家内は、この2レプタを捧げた貧しい女性の話を思いながら、それを捧げた子供がどんな思いで捧げたのかも考えないで、怒り出す教師の姿にとても悲しい思いをしたというのです。それは、イエス・キリスト様が見ておられた視線とは全く違う視線です。捧げられた額だけで評価してしまう、おおよそ教会の在り方とはかけ離れたものです。けれども、それは教会の中でけっしてまれなことではないのです。私自身も、似たような場面に出くわしたことがあります。あるキリスト教ボランティアの団体が、援助活動をしておりました。多くの教会もその団体を神の働きの一つして認め、祈り、献金もしてくれています。そして私もその働きに、教会代表として加わっていました。その団体は、その活動を報告し宣伝するために、毎年大きな集会を開いているのですが、その集会に参加するためには、チケットを購入しなければならないのです。当然、そのチケット代には、活動や援助の資金を集となります。ですから、各教会に、何十枚かづつチケットが送られてくるのです。そして、売れ残ったチケットと売上代金を、集荷の当日清算するのです。当然、当時、私がいた教会にもチケットが送られてきて、それを販売し、たしか2-30枚ぐらいのチケットが売れました。もちろん、送ってきたチケットはもっと多くありました。

そこで、当日残ったチケットと売上金額を精算したのですが、清算して立ち去っていく私の背中に、その清算の係をしていた女性が、隣の人に、「30枚ぐらいって罪よね」と言っている言葉が聞こえてきたのです。私は何とも言えない思いでした。買って下さった方の中は、それこそこ決してありあまるほどのお金を持っておられるわけではないおばあちゃんなどもいるのです。それも、自分は行けないけれども、その団体の働きを支えようと行って買って下さっているのです。そのチケットの清算をしていた女性は、非常に大きな、それこそ日本では何番目かというような大きな教会の信徒の方でした。ですから、そうとうな枚数を扱っていたでしょうし、教会でもまとめて買っておられたでしょう。ですから、その人から見た評価では、確かに、たった30枚ぐらいです。しかし、その30枚には、心がこもっていたのです。実は、神を信じ、キリストを信じると言うことは、まさに、レプタ2枚を捧げた女性の心を見られたイエスのまなざしをもって自分を見、人を見ると言うことだといえます。目に見える金額や奉仕で、信仰を評価するのではなく、金額や奉仕の表面に現われない背後にある心を大切にすることなのです。

いみじくもパウロは、「外見のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また外見の割礼が、割礼でもない。帰って隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず、霊による心の割礼こそが割礼であって、その誉れは人からによるのではなく、神から来るのである。」と言っています。私たちが、神の子として、クリスチャンとして受け入れて下さるのは神です。そして、信仰の立派さとは、具体的に目に見えるしるしや行いではなく、イエス・キリスト様を私の罪の救い主として信じる受け入れる心なのです。その心のみが、神の良しとされるところだからです。もし私たちが、この心を見失って、自分の信仰を、行いや業績などの目に見えるもので計っていたとしてならば、私たちは神の恵みという大切な宝を失ってしまうことになります。また、私たちが他の人の信仰を行いや業績などの目に見えるもので計っていたとしてならば、教会は神の恵みという大切な宝を失ってしまうことになるのです。ですから、この大切な宝を失わないように、私たちは、決して行いや業を通して信仰を計ることはしないようにしなければなりません。

これまでも、そうであったように、これからもそうしなければならないのです。そしてイエス・キリスト様が十字架で死なれることで罪がゆるされるのだと言う福音を、しっかりと心に留め、そのことを共に喜び、分かち合いながら、信仰の営みを、また教会生活の営み歩んでいくものでありたいですね。

お祈りしましょう。