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羊飼い 『教会の歴史と神の正しさ』
ローマ人への手紙 3章1−8節
2004/7/4 説教者 濱和弘
賛美  19、206、349

さて、このローマ人への手紙の著者であるパウロは、先週お話し致しましたように、2章の後半において、ユダヤ人たちが陥っている問題点を、鋭く批判しました。その批判は、ユダヤ人たちが、神から与えられた律法を、ただ持っているだけで、それを生きていないというものでした。そのために、ユダヤ人がユダヤ人である証拠といってもいい割礼を無益なものになってしまっていると、パウロはこのローマ人への手紙2章17節以下で、そう批判をするのです。もちろん、そのような批判の背後には、「神の恵みは、ただユダヤ人だけに注がれるのではなく、異邦人以外のすべての民族にも注がれる」というパウロの思いがあることは、まず間違いがないことだろうと思われます。実際、2章の28節29節を見ますと「というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また外見上の肉による割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」とそう記されています。

言うまでもありませんが、ユダヤ人というのは、民族の呼び名です。だからこそユダヤ人の男性は、その民族の証として、割礼という体の一部分を傷つけてユダヤ人である標を外見上、目に見えるものとして刻み込んだのです。なぜ、そのように自分の体を傷つけてまで、割礼という目に言える外見上の標を刻み込んだのでしょうか。それは律法に記されているからです。まさに律法としての文字が、割礼と言うことを規定しているのです。そういった意味では、割礼はユダヤ人が神の民であることの証といって良いのかも知れません。ところが、パウロはその外見上割礼に対して、「外見上の肉による割礼が割礼でもない。」といい、また「文字によらず霊による心の割礼こそ割礼である。」とそう言います。この「文字によらず霊による割礼こそ割礼」ということは、二つの意味に理解されています。一つは、律法に記されている文言の中に割礼を受けなければならないと書かれているから割礼を受けたということではなく、割礼の持つ真の霊的意味が重んじられなければならないと言うことです。つまり、形として割礼を受けていると言うことが大切なのではなく、自分の心に、自分は神の民であるという深い自覚を持って生きると言うことが大切だということを教えていると捉えるものです。

もう一つは、律法の規定に従って受けた割礼が大切なのではなく、聖霊によって受ける割礼が大切なのだという意見です。つまり、聖霊によって神の民であるという標を心に刻んでもらうことが大切なのだという理解です。例えば、新改訳聖書などは、そのような理解に基づいて、この箇所を「御霊による、心の割礼こそ割礼です。」とそう訳します。このような二つの理解の仕方に置いて、後者、つまり「聖霊のよる心の割礼」という捉え方は、旧約時代の肉に刻む割礼に対して、新約時代の心に刻む割礼である洗礼というように、割礼と洗礼を対比させて捉える見方がその背後にあります。そのような見方は、ある意味大切なことかも知れません。しかし、この箇所は2章17節からの文脈から見ると、むしろ、表面的な割礼を受けているという事が大切なのではなく、割礼の霊的な意味しっかり捉えて生きると言うことの重要性を言っているものだろうと、私はそう思います。しかし、新改訳聖書のような理解であろうと、私の理解であろうと、問題なのは心です。表面上ユダヤ民族であるか否かが問題なのではなく、「その人の心が神に対してどうなのか」ということが、大切なのです。

この事を突き詰めていくと、もはや 民族としてのユダヤ人あるかどうかと言うことは問題でなくなります。ユダヤ人であろうとなかろうと、その人の心が神に対して真実であり、心から神を信じるならば、その人は霊的な意味での隠れたユダヤ人なのです。ですから、パウロは、パウロが書いた他の手紙でこう言っています。それはガラテヤ人への手紙6章15節ですが「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」ですから、パウロに置いては、もはやユダヤ人やユダヤ人以外の外国人の区別なく、神を信じ新しく造られた者、すなわちイエス・キリスト様を自分の罪の救い主と信じてクリスチャンとなったものが、信仰における神の民なのです。それは、民族的意味でのユダヤ人を肉によるユダヤ人と呼ぶとするならば、霊によるユダヤ人と呼べる存在です。だからこそ、私たちは、日本人という、民族的意味ではユダヤ人に対して異邦の民であっても、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じるならば、神の民となることができるのです。そうすると、神の民として歩んできた民族としてのユダヤ人の歴史と存在は、結局の所、どんな意味があったというのでしょうか。それは、まさに無意味なものだったのでしょうか?

実は、その問こそが、この今日のテキストの3章の1節の言葉「では、ユダヤ人のすぐれた点は何か。また割礼の益は何か。」という問なのです。パウロは、そのような問を自ら投げかけ、自問自答しながら、こう答えます。「それは、数多くある。まず第一に、神の言が彼らにゆだねられたことである。」「神の言葉がユダヤ人にゆだねられた」そのことが、まず第一に民族としてのユダヤ人のすぐれたところであるとパウロは、そう言っています。「まず第一に」と言いながら、パウロは第2、第3の理由を挙げていません。ですから、民族としてのユダヤ人の歴史と存在の意味は、彼らの歴史の中で、神の言をゆだねられたと言うことに収穫されているといっても良いのだろうと思います。確かに、彼らの歴史は、神の言葉の前に立ち、その言葉に対して生きてきました。時には、その神の言葉に背を向け、神を悲しませ、神の怒りを買うこともありました。いや、旧約聖書を読むと、そのようなことが非常に多いと言えます。

アブラハム・ヘッシェルというユダヤ人の学者が、旧約聖書について、こう言っています。「旧約聖書は、人が神について記した書物ではなく、神から見た人間の書物だ」この、ヘッッシェルの旧約聖書理解は、非常に卓越したものです。なぜなら、旧約聖書に記されたユダヤ民族は、上野目から見ると悲しく、怒り禁じ得ないような出来事で綴られているからです。そして、そこには、人間の側からの弁解は記されていないのです。神の言葉がゆだねられた、そのゆだねられた民族の歴史は、神を悲しませ、神が怒ることを禁じ得ないような出来事で綴られています。しかし、それでもパウロは、その神の言葉がゆだねられた歴史を持つことは、すぐれたことだとそう言うのです。ユダヤ民族にゆだねられた神の言葉である旧約聖書は律法と、知恵文学と、預言とに分類されます。律法には、まさに神の民としてどう生きるのか、何をすべきで何をすべきでないかということが記されています。この、神の民としてどう生きるか、何をすべきで、何をすべきでないか、ということは、例えば十戒のように、具体的な条文として述べられているところもありますが、実際に神の言に聞き従わないで生きたユダヤ民族の歴史を通して表されています。

そして、そのような神に背を向けた歴史の中で生きたユダヤ民族の苦悩や苦難が、詩篇や箴言、またヨブ記と言った知恵文学の中に表されているのです。そして、このような人々に苦悩や苦難の中にある人々に対して、来るべき未来に訪れる神の救いという希望が語られるのが、イザヤやエレミヤといった様々な預言者を通して語られた、預言の部分なのです。そして、その希望の頂点が、救い主メシヤがやってくると言う神の約束ことです。ですから、たとえ神を悲しませ、神の怒りを買うような歴史であったとしても、そのような歴史だからこそ、救い主イエス・キリスト様がこの地上に来られるという恵みの約束に至る者だったです。だからこそパウロは、さらに「すると、どうなるのか、もしかれらのうちに不真実な者があったら、その不真実によって神の真実は無になるのであろうか。断じてそうではない。」とそう断言するのです。パウロは、民族としてのユダヤ人が、本当の意味での霊のユダヤ人とは限らないと、ユダヤ人にとってはかなり厳しいことを言っています。しかし、そう言いつつも、旧約聖書に置いて、ユダヤ人か神の民とされ、神の言をゆだねられたことは事実なのです。

確かに、神の目から見たユダヤ人の歴史は、神の悲しみを生み、神に怒りを感じさせるような歴史でした。しかし、だからといって、神はユダヤ民族を神の民として選んだその事実を、白紙撤回なさる御方ではないのです。白紙撤回しないからこそ、そのような神を悲しませる歴史をたどったユダヤ民族に、救い主をお与えになる約束をお与えになったのです。ですから、どんなに不真実な者であったとしても、神は神のお選びなった神の民に対して真実を尽くされる御方なのです。そして、その救い主を与えるという神の約束は、イエス・キリスト様という御方によって事実となりました。そして、このイエス・キリスト様という御方によって、ユダヤ民族だけではなく、世界中のありとあらゆる人に、神の恵みが広がっていくようになったのです。そうやって、キリスト教会というものができあがってきた。そして、この教会が、今度は旧約聖書と共に新約聖書という神の言をゆだねられたのです。そして、この神の言をゆだねられながら、二千年にわたる教会の歴史を積み重ねてきたのです。

しかし、このキリスト教会二千年の歴史も、けっして褒められた歴史であると言い切ることができない側面が、数多くあります。中世の時代などは、暗黒の時代と呼ばれるような、腐敗した教会の歩みが歴史に刻まれているのです。そう言った意味では、キリスト教会の歴史、そしてそれに繋がるクリスチャンの歴史もまた、ユダヤ民族の歴史と変わらないようなものであると言っても良いのかも知れません。もし、私たちキリスト教会とクリスチャンの歴史に違うものがあるとするならば、それはどこにあるのでしょうか。もし、その違いを挙げるとするならば、彼らが救い主の到来という希望を、まだ来ぬ約束として仰ぎ望みながら律法の中で生きているに対して、私たちは、イエス・キリスト様という、歴史に人となって現われた神に、その約束が実現したこという確かな事実に、土台を置いていると言うことだろうと思います。そして、私たちクリスチャンは、ユダヤ民族が律法の中で生きていたことに対して、恵みの中で生きているのです。そして、その恵みとは、イエス・キリスト様の十字架によって、私たちの罪が贖われたということを信じる信仰によって、私たちの罪が許されたという恵みです。

けれども、そのような恵みの中に生きている私たちキリスト教会であったとしても、ユダヤの人たちと同じように、神に対して不真実な歩みをすることがあるのです。しかし、そのような不真実があったとしても、主イエス・キリスト様によって実現された神の約束は、変わらないのです。今日、仮に私たちキリスト教会に、神に対する不真実さがあり、私たちクリスチャンの生活の中に、神に対する不真実さがあったとしても、神の恵みの約束は変わりません。私たちが、どんなに不真実な面を持っていたとしても、神は私たちを神の民として下さったという約束のゆえに、私たちに対して真実を持って望んで下さるのです。ですから、私たちがクリスチャンとなったということ、またクリスチャンになると言うことは、この変わらない神の真実さの中で生きると言うことです。まさに、神は私たちを決して離れず、私たちを捨てられないのです。むしろ、そのような不真実さをもった私たちを救いの恵みの中に起き続けて下さり、過ちや不真実の多いキリスト教会に、聖書をゆだね、福音ゆだねて下さっていることによって、神の愛と恵みは、一層明らかなものになっていると言えます。

しかし、だからといって、私たちは不真実なままであって言い、キリスト教会が過去に置いて行なってきた様々な誤りや罪を繰り返して良いと言うことではありません。テキストの3章5節以降には、もし、人間の神に対する不真実さや罪によって神の正しさやガ表されるなら、神が罪人を裁くのはおかしいのではないかという疑問が記されています。もちろん、これはパウロがそのような疑問を持っていたというのではありません。むしろ、このような一種の詭弁を用いて、自分の罪や不真実さを正当化しようとする態度に足して、厳しくそれは違っているのだとパウロのそう言いたいがために、このように言っているのです。たしかに、私たちクリスチャンは神に対して、不真実になり、過ちを犯し、クリスチャンであっても罪を犯してしまいます。けれども、私たちが、イエス・キリスト様の十字架の死が、私たちの罪を赦して下さるためのものであったということに立ち返る限り、私たちは恵みによって罪が許され続けます。そして、私たちが神の民であるというその事実は変わりませんし、そのような神の民の群れとして、キリスト教会はこの世にあって神の使命の中で生かされるのです。

けれども、だからといって、神の恵みを表すために、私たちは罪を犯そう、私たちは神に対して不真実でいようと言ってはならないのです。なぜなら、神は罪をさばかれるお方だからです。神が罪をさばかれる以上、神は罪をお認めになることはありませんし、また認めることなどできないのです。だからこそ、私たちの罪の身代わりとして、イエス・キリスト様を私たちの罪の身代わりとして十字架につけたのではありませんか。ですから私たちは、安易に自分の罪深さや不真実さを正当化しては行けないのです。むしろ、自分の罪深さや不真実さを悔いて、その深い後悔の中からイエス・キリスト様の十字架を見上げることが大切なのです。これこそが、キリスト教会の中で言う、悔い改めと言うことです。この悔い改めに立って、私たちは神の前に、精一杯生きようとしなければなりません。もちろん、そのように生きようとしても、何度も過ちに陥ることがあるでしょう。失敗もするでしょう。それは、私たちの内に、どうしようもない弱さと罪深さがあるからです。そのことは、キリスト教会二千年の歴史が明らかに証明しています。けれども、そのような弱さと罪深さの中にあっても、私たちが自分の罪を悔い、イエス・キリスト様の十字架を見上げるならば、私たちは、そのつど、やはり神の民なのです。

ですから、私たちは自分の罪深さや弱さを、決して言い訳することはしないようにしたいと思います。むしろ、そのような自分の弱さや罪深さを、深い悔いの思いをもって、神の告白し、イエス・キリスト様の十字架を見上げていくのです。そうすれば、私たちは、どんなに弱くても、また罪深くても、神の恵みと愛の中で生かされます。そして、そのような恵みと愛の中に生かされているならば、私たちの神の民として生きていくことができるのです。

お祈りしましょう。