『人間の罪と神の義』
ローマ人への手紙 3章9−21節
2004/7/11 説教者 濱和弘
賛美 21、185、282
さて、パウロが書いた「ローマ人への手紙」から、ここまで学んできましたが、パウロは、このローマ人への手紙の中で、ユダヤ人も異邦人も神の前に過ちを犯した罪人であると言うことを明らからにしています。それは、人類、すべての人が罪人であると言うことです。確かに、「人間はすべからく罪人である。」と言った表現は、観念的には理解できないわけでもないような気がします。しかし、実際の生活の中で、「人間はすべからく罪人である。」と言ったことを深く実感できるかというと、必ずしもそうばかりとは言えないというのが実際の所ではないでしょうか。たとえば、私たちは、「自分自身が罪人だ」ということを、何となく受け入れることができるかも知れません。しかし、そのことを突きつけられると、なかなか「自分は罪人である。」という事実を認められないものです。これは、ご自分で公の場でお証しなさったことなので、お名前を挙げてお話しして良いだろうと、おもうのですが、私の恩師の中のお一人に、永山 進という牧師がおられます。ご存知の方もおられるであろうと思いますが、この先生は、実に堅実な牧会と熱心な伝道をなされる、本当に良い先生です。
またお人柄も良く、本当に良い牧師だなと思い、私も大変多くのことを学ばさせていただいたのですが、この永山牧師が、東京聖書学院で牧師になるための学びをしておられました時のことです。東京聖書学院の寮では、一つの部屋を二人で使います。この同じ部屋で寝起きをする同室となった人と二人で、毎日夕方になるとともに祈りあう時を持つのです。これを。同室祈祷会というのですが、永山牧師も、東京聖書学院の修養生であった時には、やはり、この同室祈祷会をしていました。ある時の同室祈祷会の時に、永山進牧師は、祈りの中で「神様、私は本当に罪人です。」とそう祈ったそうです。それも、実に丁寧に、「神様私は罪人です。」とか「神様、私はあなたの前に何も誇ることのないものです。」などと、お祈りしたのだそうです。ところが、永山牧師が「神様、私は本当に罪人です。」とそう祈ると、一緒に祈っている同室の人が「アーメン」と声を挙げたそうです。「神様、私はあなたの前に何も誇ることのないものですとそう祈ると、これまた「アーメン」と言う。そのようなことが何回か続いたようです。ご存知の通り、「アーメン」と言う言葉は、「その通りです。」とか「本当です。」あるいは「真実です。」という意味です。ですから、先ほどの同室祈祷会の状況を翻訳して再現しますと、
永山牧師が「神様、私は、本当に罪人です。」といのると、同室の人が「その通りです。」と相づちを入れる。「神様、私はあなたの前に何も誇ることのないものですとそう祈ると、これまた「それは本当のことです」と言う。こう言ったことが何回か続いている内に、永山牧師は、その同室の人に対して、だんだん腹が立って来たというのです。もちろん、それこそ神学校で牧師になるための準備をしている人ですから、祈りの言葉に嘘があるわけではありません。第一、神様の前に祈る祈りですから、どんなに嘘、偽りで固めた祈りを捧げようと神様はお見通しです。でれすから、永山牧師が「神様私は罪人です。」とか「神様、私はあなたの前に何も誇ることのないものです。」などと、お祈りしたその言葉は、永山牧師の真実な思いから出た言葉なのです。けれども、その祈りの言葉に、他の人が「本当にその通りです。」とか「それは本当のことです」などと相づちをいれられると、腹が立ってくると言うのもまた、真実の人間の姿のです。ひょっとしたら、この時の永山牧師の心には、お前だけには言われたくない。というおもいがあったのかもしれません。しかし、結局のところ、人間は「自分は本当に罪人だ」と思いつつ、しかしどこかで「自分もまんざら捨てた者ではない」と思いたい気持ちを持っている者なのかも知れません。
どこかで、自分は良いところもある、すぐれたところもあるとそう思いたいし、そう思っているのが私たち人間の実際の姿かも知れないのです。例えばそのことは、私たちクリスチャンが良く問いかけられる「キリスト教では、人はみんな罪人だというがが、世の中には、良い人もいっぱいいるではないか。人はみんな罪人だなんて納得がいかない。」といった質問にも見られるような気がします。確かに、考えてみると、世の中にはクリスチャンであろうとなかろうと、立派な人や素晴らしいと思われる人はいるのです。そうすると「『すべての人が罪人である。』とそう言っても、ヒットラーのような人とマザー・テレサのような人とを、十把一絡げにして罪人というのは、おかしい。」とそう思われてくる。そして、それはある意味、極めて自然なものの見方や感情のように思います。そして、それが、極めて自然なものの見方や感情であるがゆえに、そう思う心の延長線上で、私たちの「大変な犯罪を犯した人と、善良に生きてきている自分とが、同じように罪人として扱われることの、釈然としない思いが交差していくのです。
そんな私たち人間の心の奥底を見透かすかのようにして、パウロは「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、私は指摘した。」とそう言うのです。パウロが、「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、私は指摘した。」とそう言う、この言葉は、これに先立つ3章の1節からパウロが「ユダヤ人の優れた所は何であるか」について言及した、その後に書かれています。ですから、この「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、私は指摘した。」と言う言葉の真意は、次のような者になります。「ユダヤ人に優れたことがあると言ったところで、その優れて所があるからと言って、罪人であると言うことに置いては、他のすべての民族と何ら変わりはない。人は神の前では、みんな罪人であると言うことには、何をもってもかわることのないことなのだ」ということなのです。この、すべての人は罪人である、パウロが引用した聖書の言葉で言うならば「義人はいない。ひとりもいない。」(詩篇14:1-3)と言うことを、パウロは、11節以下で、細かく説明していくのです。
そこで、なぜパウロが、「義人はいない。ひとりもいない。」というかというと、それは、「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すげての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行なうものはいない。ひとりもいない。」からです。しかし、「悟りのある人はいない。」と言いますが、世の中には賢い人や、ものの道理がわかっている人は一杯います。宗教的な意味で「悟り」の境地に達している人も決して少なくはないでしょう。けれども、パウロが言っている「悟りのある人」というのは、どうやらそう言う人のことではないようです。ここでパウロが「悟りのある人はいない。」と言っているそのことは、「神の事を理解するものはいない。あるいは神の心を理解する事ができるものはいない。」と言った意味に捉えた方が良いように思われます。実際、この「悟り」と訳されている言葉は、「理解する」と言ったニュアンスの言葉です。だからこそ、「悟りのある人はいない、神を求める人はいない」と言葉が続くのだろうと思います。そして、私たち人間が、神のお心を理解できないでいるところに置いては、私たちは迷い出て無益なものになっている。」とパウロはそう言うのです。
しかも、パウロが、この事を「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、私は指摘した。」と言った言葉に続けて語っていることは極めて重要な事だと思われます。先ほども申しましたように、この、「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にあることを、私は指摘した。」と言う言葉は、ユダヤ人の優れたところは何であるかを語ったパウロの言葉に続く言葉です。ですから、それは、ユダヤ人を意識し、ユダヤ人を対象にして書かれている言葉だと言えます。そして、パウロが言うユダヤ人の優れているところというのが、ローマ人への手紙1章1節に記されているように神の言がゆだねられた事なのです。そうしますと、パウロが、「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すげての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行なうものはいない。ひとりもいない。」と述べているその言葉は、「ユダヤ人が神の言をゆだねられ、それを持っていたとしても、神を理解し、神のお心を理解していないならば、どんなに神の言をゆだねられていても、それは迷い出て無益なものになっているのと同じ事だ。」と言うことになります。
つまり、神の言をもっているだけで神の事が理解できるわけではないと言うことです。結局どんなに神の言が素晴らしくても、それを語った神の真意を知ることがなければ、何にもならないのです。そして、その神の言を、具体的な律法という形でゆだねられたユダヤ人ですら、その律法に託した神の真意も、また神ご自身理解することができなかったというのです。その結果、「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている、彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして彼らは平和の道をしらない。彼らの目には、神に対する恐れがない。」というのです。神を理解せず、神のお心を理解しない時、人は言葉で人を欺き、言葉で人を傷つけ、非難し、呪うというのです。考えてみますと、私たちは、おおっぴらに人を非難や批判したり、中傷したり、呪ったりとすると言うこといたしません。それこそ、それは、人の目には最も隠れた、私たちの心の中で始まり、やがては、家庭や身近な仲間と言った極めて小さな社会の中でささやかれていくものです。
もちろん、私たちが批判をすると言うことは、必ずしも悪いことではありません。多くの批判の中には、批判やの対象となっている相手に問題がある場合も少なくないからです。そしてそのような批判が、建設的な喧嘩をもたらすことも確かにあるのです。しかし、そのような批判や非難に、私たちの感情といったものが混じり込んできますと、批判は非難へと変わってきます。そして、そのような非難の中には、至る所にのろいと苦い言葉というものがちりばめられているのです。そうすると、そこには、もはや人と人との間の平和は生み出されてきません。まさに人と人との関係に破壊と悲惨とがあるのです。このようなことは、決して表面に出てこない場合があります。静かに人に見えない心の中で、人間関係の破壊と悲惨が始まっているということも多いいのではないでしょうか。そしてそれは、もはやユダヤ人だけの問題ではないのです。というのも、ユダヤ人が人を非難に至る、その根底には、律法があるからです。そして、その律法が何が正義であり、何が正義でないかをふるい分けるからです。そのように、非難や批判の根底には、何が正しく何が正しくないかといった判断が横たわっています。そして、私たち人間は、何らかの形でこのような何が正しく何が正しくないかという判断をするものなのです。
今は、イラクでの戦争が引き続き行なわれています。あのイラクでの出来事を見ていくと、私の中には、アメリカという国に対する批判が生まれています。それは、けっしてアメリカの正義が正しいと思えない、私の判断によるものです。しかし、同時に私の中には、何とも言えないアメリカという国に対する嫌悪館といった感情が生まれてきています。そういった、私がアメリカと言う国対して語る言葉は、日増しに毒々しい言葉になっていくのを、一番身近で感じているのは、多分、私の家内であろうと思います。そうしますと、もはや、このパウロの言葉は、ユダヤ人や異邦人と言った枠組みを超えて、私の心を突き刺してくる。そして、おそらく、事を変え、状況を変え、私たちすべてに人がこの聖書の言葉の前に刺し通されていくのだろうとおもうのです。
お祈りしましょう。