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羊飼い 『人間の罪と神の義2』
ローマ人への手紙 3章21−31節
2004/7/18 説教者 濱和弘
賛美  266、339、233

さて、先週に引き続き、ローマ人への手紙3章9節から21節までの文脈から、「人の罪と神の義」という説教題で、お話しさせていただきますが、今週は、後半の21節以降から、神の義と言うことでお話ししたいと思います。先週もお話し致しましたが、パウロは、このローマ人への手紙の1章からここに至るまでの間で、私たち人間は、神の前では、すべからく罪人であると言うことを述べて参りました。もちろん、私たち人間はすべて罪人だとそう言いましても、現実には、私たち人間には本当に素晴らしい一面があるということ間違いのないことです。そこには、麗しい人間愛や、親子愛といったものに支えられた、人の優しい心や思いやりの心があることは、疑いようのない事実であろうと思います。このような、人間の素晴らしい一面を見せられますと、私などは実に単純ですから、「神様、どうですか。人間もまんざら捨てたものではないでしょう」と誇らしげに、胸を張りたくなるような気持ちになります。けれども、そのような誇らしげな気持ちにさせる素晴らしい一面をもった私たちは、同時に過ちを犯しやすい存在であり、ある意味、罪深い存在でもあるということも、これまた否定しがたい事実なのではないかと、そう思われることも、また確かなことです。

そのような私たちの現実に、聖書は、ローマ人への手紙の3章11節から18節で、こう言うのです。「義人はいない。ひとりもいない。「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すげての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行なうものはいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている、彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして彼らは平和の道をしらない。彼らの目には、神に対する恐れがない。」この聖書の箇所において、私たちは、人を呪うような言葉を語り、人に対して苦々しい言葉を語るものであると、そう言われています。この、人間の語る言葉に対して心理学の世界、特にカウンセリングの世界では、人が語る言葉の背後には、その言葉を語る人の感情があると言われています。ですから、私たち人間が、誰かに対して呪いの言葉を語り、苦々しい言葉を語るとき、その背後には、相手を憎み、嫌うといった感情が潜んでいるのです。そう言った感情が言葉となって伝えられていきますと、人間関係はうまくいかなくなります。また、それが態度や行動になると、それはもう人間関係における平和な関係を、完全に破壊してしまいます。そして、そこには様々な争いや、もめ事が起こって来るのです。また、ときには、そこに全き善意があったとしても、人間関係を破壊してしまうような事すら起こってくることがあります。

私の友人は、アメリカで牧師をしておりますが、先日、彼が帰国した折りに、私を訪ねてくれました。その彼が牧師をしている教会は、アメリカ海軍の軍港がある、いわゆる基地の町です。ですから、彼が牧師をしている教会には、多くの軍人やその家族の方が集っているのです。折しも、彼が私を訪ねてくれたときは、今のイラクでの戦争が始まったばかりの頃でした。ですから、私たちの話の話題が、そのことに向いていったのは当然の成り行きだといえます。このイラクにおける戦争に、私たち日本ホーリネス教団を含んだ日本の諸教会は、異議を唱え、反対し、抗議の文書をブッシュ大統領に、また小泉首相に送りました。そのような事情を踏まえながらも、私の友人は、私にこう言う内容のことを言うのです。「日本をはじめとする世界の多くの人が反対する中で、イラクに派遣されていく多くのクリスチャン兵士やその家族は、純粋に、この戦争でフセイン政権の下で自由を抑圧され、弾圧されている人々に自由をもたらすために戦うのだと言う信念をもって派兵されていくのだと言うことを知って欲しい。」とそう言うのです。確かに、フセイン政権下のイラクでは、独裁政治がなされ恐怖政治が行なわれていたようです。ですから、多くの人々野路優が抑圧され阻害されていたと言うことも間違いのないことのようです。そういった意味では、彼が言っていたことは間違ってはいないことだと言えます。ですから、そのような思いでイラクに行くアメリカの兵士の気持ちも理解してあげなければならないことかも知れません。

しかし、結果としてそこにあるのは、今のイラクの現状です。イラクの人々に自由をもたらすという、アメリカ兵の純粋な思いがそこにあっても、現実には、イラク民衆の間に強い反米感情があるという状況があり、そこには決して平和を生み出されていないのです。どうしてこのような現状があるのか。いったいどこに問題があり、何が問題なのか。確かにイラクの人々を、独裁者による恐怖政治から解放しようと考えたその思いは、ある意味正しい思いだと言えます。そして、そこには私たちの考える善や正義といったものがあります。けれども、いかに善なる思いであり、正義の思いであっても、それが正しい結果を生み出さないと言う現実がある。私たちが、善と思われることを行い、あるいは正義を振りかざすとき、私たちの心の内側には、自分は正しい事をしているという自覚と自負があります。この自覚と自負は、自分の行動を支える力です。自分の心の思いにおける正しいという自覚と自負や正義感は、私たちの行動も正しいものだと思わせます。しかし、いくら心が正しくても、その行動までただしいとは限りません。どんなに正しい思いや動機からであっても、人は正しい行動ができるとは限らないのです。

例えば、人を呪うような言葉や、苦々しい言葉の背後には、不正なことを行なう人、間違ったことをする人に対して、正しいことを思う正義感から起こった行動であるのかも知れません。しかし、それがどんなに正しい心から起こったことであっても、呪いの言葉や、まむしの毒にたとえられるような、苦々しい言葉を語るとするならば、そこから起こった行為は正しいことではないのです。先日も、こんな話を聞きました。ある方のお子さんが、個人競技のスポーツの試合(剣道)で優勝したのだそうです。その子は、本当によく頑張って練習し(稽古)した、その結果として、優勝したのです。ところが、その子供と、同じクラブに通う別の子供のお母さんが、その子が優勝したことに対して、「運も重なると、こういう結果(つまり優勝するという結果)になるのよね。」とそう言っていったというです。実は、この「運も重なると、こういう結果になるのよね。」と言われたお母さんのお子さんも、同じ日に別のクラスで試合をしていました。そしてそうそうに、負けてしまっていたのです。その負けてしまったお子さんとは、優勝したお子さんと、そのクラブの中でも決して仲が悪いわけでなかったようです。むしろ仲が良いといってもいいような関係だそうです。

その負けてしまったお子さんのお母さんは、きっと、自分の子供が可愛くて仕方がなかったんでしょうね。その可愛い自分の子供が負けてしまい、仲の良い子供が優勝した時に、自分の子供の可愛さがあまって、「運も重なると、こういう結果になるのよね。」と言う言葉になってしまったと思うのです。自分子供が可愛いく思う親の気持ちは、素晴らしい気持ちです。そしてそれは正しいものです。けれども、その正しい気持ちから出たものであっても、先ほどの言葉は、やはり良いものだとは思えない。実際、その言葉をきいた優勝した子供のお母さんは、実に悲しい気持ちになり、傷つけられたような気持ちになったようですし、それが人間関係や信頼関係を大きく傷つけてしまったわけですが、それも良くわかります。しかも、それだけでは納まらなかったようです。というのも、今度は、その試合に負けたお子さん自信が、人に、「あいつが優勝できたのは、運が良かったからだ。僕は運が悪かったから、実力は自分の方が上だったけど負けてしまった。」とそう言っていたと言うからです。ひょっとしたら、先ほどのお母さんが、試合に負けた自分の子供に「あの子が優勝できたのは、運が良かったからで、あなたが負けてしまったのは運が悪かったからだけなのよ」と慰めていたのかもしれません。

けれども、ことスポーツ競技は、単に運だけで勝ち負けが決まる者ではありません。運も、全くないとは言いませんが、しかし実際の所は、日頃の精進が結果に繋がっていくものです。ですから、そこで運が良かった悪かったなどと言っていては、それは単なる言い訳にしかなりませんし、そう言ったことをいっていては、どんなに才能のある子でも伸びるものも、伸びなくなってしまうのです。ですから、自分の子供を可愛く思うその気持ち、その素晴らしい正しい気持ちから出た言葉であったとしても、それが人を傷つけたり、大切に思うものの成長を阻害してしまうと言う弊害となってしまうこともあるのです。結局、私は、そのようなところに私たちの正しさや正義というものの限界を垣間見るような思いがします。そして、そのような正しさや正義に限界を持つ私たちに対して、今日のテキストの3章25節以下で、このように述べられているのです。「神は、このキリストを立てて、その血による、信仰をもってうくべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐を持って見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらにイエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこに私たちの誇りがあるのか。全くない。」

正しいことをしているという自覚と自負、それは、私たちの誇りです。そのような誇りがあるからこそ、あのような砂漠の厳しい血に立ち、戦火に身を晒すこともできるのです。まさに、神と人とに対して、私たちは、イラクの人々の自由のために戦っていると、胸を張って立ちたいようなでき事だと言えます。また、私の可愛い子供は、優秀なのだと、誇り胸を張っていたい思いになるのです。けれども、聖書は、たとえそのような状況の中にあっても「私たちには誇ることなどない。全くない。」とそう言うのです。というのも、自分が神の前に自分の正義を誇り、正しさを主張するときに、私たちは、その正義と正しさの主張することによって、自分の過ちや罪を見落としてしまうからです。当然のことですが、思いや動機が正しければ、行動が間違っていても良いだろうというわけにはいきません。私にはこんな素晴らしい一面があるのだから、他の悪い面と相殺してそれで良いだろうというわけにはいかないのです。人の悪い面を、良い面で差し引く事はできないからです。ですから、私たちの罪といえるような悪い面は、どんな些細な罪であっても、他の多くの良い面を列挙して、自分の正しさを主張したとしても、その罪は決して解決しないのです。

パウロは、このローマ人への手紙で、人間はすべて罪人であると言うことを示しました。それは、ユダヤ人であっても外国人であっても同じだというのです。そう言いつつ、同時に、3章の1節、2節では、パウロはユダヤ人にも優れた面があるとも言っています。それは、神の言をゆだねられているという、極めて宗教的な素晴らしさ、信仰的な素晴らしさです。けれども、そのような宗教的素晴らしさ、信仰的素晴らしさを提示しつつも、それらとて、神に誇るべき正しさや正義ではないと、そう言うのです。そのように、人間の罪深さや素晴らしさといったことに触れながら、パウロは、最終的に21節22節で「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる者に与えられるものである。」とそう言っていますこの「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」ということを、神学の言葉で言うと「信仰義認」と言います。この、「信仰義認」と言うことは、「私たちが、自分の罪を認め、イエス・キリスト様が、その自分の罪を赦すために、私たちの身代わりとなって、私たちの罪のあがないのために十字架に付いて死んでくださったと言うことを信じるときに、私たちは、罪が赦される」と言うことで、まさに今日のテクストの3章23節24節が言っていることです。

この「信仰義認」ということは、何もこのローマ人への手紙の著者であるパウロが、突然思いついたことではありません。もとを正せば、旧約聖書のハバクク書に見られるものです。ハバクク書の2章4節には、こういう言葉があります。「見よ、その魂の正しくないものは衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」この旧約聖書ハバクク書の背後にある思想は、神による救いというのは、こちら側が何かするという、私たち人間の側に救いの理由があるのではなく、神の側に理由があるのだと言う者です。もし、私たちの側に、神が私たちを救う理由、すなわち罪を赦す理由があるとするならば、私たちが、その理由を神に提示しなければなりません。提示しないまでも、神に認めてもらわなければなりません。そうなったら、私たちは神に対して、自分の正しさを主張し、自分の正義を誇らなければなりません。私たちは、私たちが罪ゆるされる理由、つまり自分の義を自分の内に探し求めなければならないのです。けれども、神が私たちの罪が赦される理由が、神の側にあるとするならば、当然私たちはその理由を神の内に探し求めなければ見つかりません。そうやって、私たちが神の中に、神が私たちの罪を赦される理由を探し求めていくときに、発見するものは神の愛なのです。

25節26節に「神は、このキリストを立てて、その血による、信仰をもってうくべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐を持って見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらにイエスを信じる者を義とされるのである。」とあるのは、神がイエス・キリストとして人となられ、私たちの罪を赦すために十字架に架かって死なれたと言うことです。そして、それは私たちを愛するが故だったのです。このして、私たちは、神が愛であることを知り、神のお心が私たちに対する愛で満たされていることを知ることができるのです。ですから、私たちは、神が人に与えた様々な決まり事である律法は、人の行動の善し悪しを決めるためのものではなく、人を愛するためのものであったと言うことを知ることができます。私たちが、自分の正しさを主張し、自分の正義を誇るとき、そこにあるのは人を罪に定め、人をさばくことです。しかし、私たちが自分の正しさを主張し、自分の正義を誇ることを止め、自分の罪を認めるならば、神のお心である愛を知ります。

そして、この神のお心である愛を知るとき、互いに許し合い、平和を生み出す神の民に生き方、教会の生き方を私たちは見出すことができるのです。そして、それを見出すと言うことは、私たちがそのような生き方に導かれると言うことです。そうやって、私たちクリスチャンは、神の愛に生かされ、教会は神の愛を生きる者となるのです。

お祈りしましょう。