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羊飼い 『神の約束を受け継ぐ者』
ローマ人への手紙 4章1−25節
2004/7/25 説教者 濱和弘
賛美  19、302、263

さて、このローマ人手の手紙の3章までで、パウロはキリスト教の根幹とも言える「信仰による義」ということを、述べてまいりました。同時にそれは、聖書に記されている神というお方が、もはやイスラエル民族の神という、狭い世界の神ではなく、全人類の神であるという、広い世界の神であることを示すことにもなります。しかし、事実として、旧約聖書はユダヤ民族の歴史を場として書かれていることは、間違いのないことです。その旧約聖書を形作っているユダヤ民族の歴史は、今日のテキストに出てくるアブラハムにまで、遡ることができます。そういった意味では、このアブラハムは、まさにユダヤ民族のルーツであり起源であると言えます。そして、そのアブラハムと神との間に結ばれた約束、すなわち契約が、民族としてのユダヤ人がもつ宗教性の根幹にあるのです。そして、そのアブラハムと神との間に結ばれた契約がもとなり、その契約が、アブラハムの子イサク、孫のヤコブと受け継がれていきます。そうやって、聖書の神は、旧約聖書に置いては、ユダヤ民族を神の民として人間の歴史にかかわられたのです。

このアブラハムがいつの時代の人かということは、正確なところはわかりませんが、だいたい紀元前1800年以前から2000年ぐらいの人であったろうと言われています。それに対して、モーセが、エジプトに奴隷になっていたユダヤの人々を助け出したいわゆる出エジプトの出来事が、だいたい紀元前1300年から1450年頃だと考えられていますから、アブラハムからモーセまでは350年から700年ぐらいの時代の開きがあることになります。ところが、出エジプト記の2章24節25節には、「神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々(つまりはユダヤ民族)を顧み、神は彼らをしろしめられた」とあります。このように、アブラハムと神の間に結ばれた約束は、その子イサクに受け継がれ、さらには孫のヤコブへと受け継がれました。さらにはひ孫のヨセフへと受け継がれ、やがてユダヤ民族に受け継がれていったのです。だからこそ、アブラハムから何百年も後になっても、「神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え、神はイスラエルの人々を顧み、神は彼らをしろしめられた」のです。

そして、ユダヤ民族が、このような神とアブラハムの約束を受け継ぐものだからこそ、出エジプトといった神の救済の業が行なわれた後に、ユダヤ民族の生き方、つまりは神の民に生き方を決定づける律法といったものが、ユダヤ民族に与えられていったのです。ですから、神に選ばれた民としてのユダヤ人の宗教意識は、このアブラハムと神との間に結ばれた約束に基礎を置いていると言っても良いだろうと思います。またそういった意味では、ユダヤ民族は神の約束を受け継いだ民族であると言うこともできるのです。しかし、それにしても、なぜ、神はこのアブラハムを約束を結ぶ相手としてお選びになったのでしょうか?じつは、このローマ人への手紙の4章は、そのことに対する当時のユダヤの人々とパウロとの間の理解の違いが記されている箇所なのです。4章1節には「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムの場合には、なんといったらよいのか?」とそう記されています。この4章の1節は、新約聖書写本上は、若干問題があるところです。ご存知のように新約聖書は、もともとのオリジナルである原典は残っていません。ただ原典を書き写した写本が残っているだけなのですが、その写本間に、それぞれ違いがあります。これを異読というのですが、書き間違いや書き落とし、あるいは書き込みなどがあって、それぞれの写本間に、いくつかの違いが見られるのです。

この異読が、この4章1節に見られるのですが。それは、「得たもの」という言葉が入っているものと、ないものがあるのです。口語訳聖書は「それでは、肉による私たちの先祖アブラハムの場合には、なんといったらよいのか?」となっていますから、入っていない写本に基づいていると言えます。それに対して新共同訳聖書は「では、肉による私たちの先祖アブラハムは、何を得たというのでしょうか?」と訳しています。これなどは、「得たもの」と言う言葉を含んだ写本に基づいているわけです。アブラハムが得たもの、それは神との契約であり、その契約に基づいた跡継ぎの誕生です。その約束の内容は、創世記15章に5節に記されています。そこには「そして主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』。また彼に言われた、『あなたの子孫はあのようになるでしょう』。」と書かれています。

この約束は、同じ創世記の17章2節以降で繰り返されます。『「わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名かもはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また王たちもあなたから出るであろう。わたしはあなたおよび後の代々の子孫と契約を立てて、永遠の契約とし、あなたと、後の子孫の神となるであろう』」この契約に基づいて、アブラハムは約束の子イサクを得ます。そういった意味では、アブラハムが神と結んだ約束は、神によって果たされたのです。けれども、ここではそのような契約の内容やその約束イサクが生まれると言うことで果たされたと言ったことをいってのではありません。むしろ結果よりも、その約束の結果を、アブラハムはどのようにして得たかと言うことなのです。

普通、契約というのは、「これこれこういう事をしたら、こうしてあげよう。」と言ったふうに、一方が契約の条件を満たしたときに、もう一方が、それに対して約束を果たすといった形になります。それに対して、創世記の15章6節では「アブラハムは主を信じた。主はこれを神の義と認めた。」とそう書いてあります。パウロは、これをもって、アブラハムが義と認められたのは、何か行いを行なったからではなく、神の約束を信じ、その約束に賭けたから「神様に良し」と認められたのだとそう言うのです。そして、神から「良し」と認められたからこそ、神の約束がイサクという約束の子となって現実のものとなったとそう言うのです。「神に義と認められた」というのはそう言うことです。パウロがそう言うには、それなりの背景があります。というのも、その当時のユダヤ人は、アブラハムは多くの誘惑に勝ったので義と認められたと考えられていたようだからです。

また、創世記26章4節5節に「また、わたしはあなたの子孫を増して、天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。アブラハムが私のことばに従って、わたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてを守ったからである」。と書かれているところから、アブラハムは律法を与えられる前に、律法を守っていたからだと考えられてもいたようです。しかし、パウロは、そのようなユダヤの人々の考え方を、はっきりと否定します。そして、神から「良し」と認められるのは、何か行いを行なった報酬としてではなく、神の恩恵として与えられるものだとそう言うのです。パウロがこのように、神の恩恵と言うことをいうのは、ユダヤ人もユダヤ人以外の外国人も、すべての人は神の前に罪人だからです。すべての人が、神の前に罪を犯してしまっているから、もはや神の憐れみと恵みなしには、神から「良し」と認めてもらうことができないとパウロはそう言うのです。

以前にもお話ししたことがあろうかと思いますが、罪は償うことによっては解決しません。罪はゆるさえることによってのみ解決するものです。どんなに償いをしても、相手が赦してくれない限り犯した罪は解決しません。反対に、償いの行為が一切なくても、相手が赦してくれさえすれば、罪の問題は解決するのです。だからこそ、パウロは7節8節でダビデの次のことばを引用するのです。「不法をゆるされ、罪を被われた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである。」ダビデというのは、今もイスラエルの国旗の真ん中にダビデの星と呼ばれる星印があるように、ユダヤ民族が最もしたい誇りとする王様です。そのダビデの言葉として引用された7節8節の言葉は、詩篇32篇1節2節にでています。この詩篇32篇については、学者によってはダビデが書いた詩であると言うことに疑問を持つ人もいますが、しかし、パウロはダビデが書いた詩であるという確信のもとに、引用しているのです。

おそらく、パウロはこの詩篇32篇1節2節をダビデの言葉として引用した際には、ダビデが、ウリヤの妻であるバテ・シェバという女性と不倫の関係に陥り、身ごもらせてしまい、さらに、バテ・シェバを自分の妻とするために、夫のウリヤを死なせたという事件を思い起こしていたのではないかと思われます。この事件は、今でもイスラエルで最も優れた王であると慕われる、ダビデの生涯のもっとも汚点とも思える、まさに罪に汚れた事件です。しかし、ダビデが、その罪を償おうにも、償う相手のウリヤは、ダビデによって死に至らされていたのです。ですから、償おうにも償う相手はいないのです。ゆるしてもらおうにも、ゆるしてくれる相手は死んでしまっている。もはや、ダビデが犯した罪を解決してくれる存在は、以外はいないのです。そのような中で、ウリヤに対して犯した罪であるのですが、神が「良し」と認めてくれてその罪をゆるしてくれるならば、ダビデと神の間には平和が生まれます。そして、の神と人とのにある平和という事のなかに、パウロは神の恵みと慈しみを見ているのだと言えます。

だからこそ、このダビデの言葉を引用する際に、「ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のようにいっている」とそう言うのです。同じように、神の約束を受け継ぐものとして、神に「良し」とされるには、何か「行い」や「業」といったものは必要とはされないとそう言うのです。むしろ、必要なのは、神の約束を信じる信仰のみなのだとパウロはそう言いたいのです。こうなってきますと、神の約束を受け継ぐものは、単にユダヤ民族と言うことだけではなくなってきます。アブラハムのように神の約束を信じ、その約束に賭けるものは、すべて神の約束を受け継ぐものであるといっても良いことになるのです。まさに、そのことをパウロは割礼のものと無割礼のものという事を例に挙げて述べています。割礼とは、ユダヤ人であると言うことを示す肉体に記された標です。そして、ユダヤ人であると言うことは、神の律法をゆだねられたものであると言うことでもあります。そしてこの神の律法をゆだねられ、神の律法に生きるのがユダヤ人だと言うこともできます。けれども、ユダヤ人である標は、神の約束を受け継ぐ神の民となるための標ではありません。また、律法もまた神の約束を受け継ぐために守らなければならないものではないのです。

むしろ、そうではなくて、神に良しとされ、神の約束を受け継ぐ民であるからこそ受ける標が割礼だったのです。また神の民とされたからこそ、律法をゆだねられ律法に生きるのであって、神の民となるために律法を守らなければならなかったのではないのです。そのことは、アブラハムが割礼を受ける前に、神の約束を信じ、神の約束に賭けた信仰によって義とせられ、その義とせられたことの証印として割礼を受けたことからも明らかではないかとパウロは言うのです。そうなると、割礼もなく律法とも関係なく、ただ、アブラハムのように神の約束を信じ、神の約束に賭ける信仰によって、人は神に良しと認めて頂けるのですから、そこにはユダヤ人でなければならないと言う理由は何一つなくなるのです。ただ一つ求められるのは、アブラハムのように神の約束を信じ、神の約束に賭けると言うことのみになります。

それでは、アブラハムのように神の約束を信じ、神の約束に賭ける信仰とは、具体的にはどういう事なのか。聖書は17節以降でそのことを説明します。先ほども申しましたように、アブラハムと神との約束の内容は、『「わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。』ということであり、具体的には、イサクという子供が与えられると言うことでした。しかし、アブラハムと妻サラとの間には、長いこと子供が与えられませんでした。先ほどの創世記の15章の記事を見ますと、アブラハムはダマスコのエリエゼルという人を自分の跡継ぎにしようと考えていたようですから、もはや自分とサラとの間には、子供は生まれるということは考えられない状況だったろうと思われます。また、アブラハムが神にその信仰が義と認められ、神との契約を頂いたその後の16章に置いても、妻サラによってではなく、サラに使えていた女奴隷のハガルによって、跡取りをもうけようとして、異種舞えるという子供が生まれたと言うのですから、もはや、自分の妻サラに子供が当られるといったことは考えられないことであったと言えます。

もちろん、神の約束を信じていなかったと言うことではないだろうと思われます。信じてはいたのでしょうが、妻のサラに子供が与えられると言うことは考えられないことだったのだと思われます。そのように考えられないことだったからこそ、神の約束の言葉を、その当時の考えら得る方法で解釈して女奴隷ハガルによって、イシュマエルという子供を得たのです。結果として、アブラハムと妻のサラが女奴隷のハガルによって、神の約束が実現すると考えた、その間替えは間違っていました。間違ってはいましたが、神の約束を信じる信仰はそこにあったのです。だからこそ、神は17章で、『「わたしはあなたと契約を結び、大いにあなたの子孫を増すであろう』アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた、『わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名かもはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。』と再度約束を確認するのです。

もちろん、この神の約束は、アブラハムにとって信じがたいことでした。ですから神がこのような約束をアブラハムに語ったとき、アブラハムは「ひれ伏して笑い、心の中で『百歳の者にどうして子が生まれよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして生むことができようか』とそう言ったと聖書は伝えています。けれども、それでもなお、彼には、神の言葉信じ、神の約束に賭ける信仰があったからこそ、最終的には神の言われたとおりにしたと聖書は書いてあるのです。だからこそパウロは、そのことを17節以降でこう宣言するのです。「彼はこの神、すなわち死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり、多くの国民の父となったのである。すなわち、およそ百歳となって、彼の体が死んだ状態であり、またサラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。かれは神の約束を不信仰のゆえに疑うことはせず、かえって信仰によって強められ、神には約束されたことを成就する力があると確信した。だから、彼は義と認められたのである。」

とても考えられないと思うこと。到底あり得ないと思うようなこと。たとえそのようなものであったとしても、それが神の約束であるならば、その約束を信じて、その約束の言葉を受け入れる信仰に生きるのが、まさにパウロが十二節で言う、アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々と言うことであり、またアブラハムの信仰に従う者であると言えるだろうと思います。考えてみますと、イエス・キリストは人となられた神であり、私たちの身代わりになって十字架の上で死んでくださったと言うことや、そのイエス・キリスト様が、死んで三日の後に蘇ってくださったと言うことなど、なかなか信じがたいことです。それだけではなく、聖書の中には天地創造から始まって、処女降誕や様々な奇跡など、極めて信じがたい事であふれています。もちろん、そう言ったものの中には、その時代の時代思想やパラダイムと呼ばれる世界観や宇宙観、あるいは科学的知識・常識といったものを考慮しなければならない、いわゆる聖書神学と言った学問をとおして改訳しなければならない者もあります。しかし、どんなに考え難いような内容であったとしても、私たちは、主イエス・キリスト様が、私たちの罪をゆるすために、人となって生まれ、十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって死んで下さったということを信じ、そのことに賭けなければなりません。

それは、私たちが主イエス・キリスト様を通して与えられた神の約束を受け継ぐ者となるためです。私たちは、主イエス・キリスト様が私の罪の身代わりとなって下さったと信じる信仰によって神の民となることができるのです。それは、神の約束だからです。そして、どんなことがあっても、その神の約束は成就するのです。そして、私たちが神の民となったならば、私たちの内には新しいものが生まれてきます。新しい出来事が起こってくるのです。「だれでも、キリストにあるならば、その人は新しく造られたものである。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」とは、聖書の言うところ(Uコリント5:17)だからです。そして、このすべてが新しくなったと言うことの、根底には、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれたがゆえに、私たちはイエス・キリスト様によって義と認めて下さったからだという事があるからなのです。ユダヤ民族は、アブラハムによって神との間に結ばれた契約によって、割礼という標を得、律法という神の民としての生き方を与えられました。

同じように、クリスチャンは、人となられた神イエス・キリスト様によって父なる神との間に結ばれた新しい契約によって、洗礼と聖餐いう標を頂き、罪の赦しと言うことに基づいた愛し合うクリスチャンの生き方、教会の生き方に導かれたのです。そして、そのような生き方が出来るものへと帰られていく。それは私たちの内に、イエス・キリスト様にある新しい命が息づいているからです。私たちは、そして教会はこの新しい神の命、永遠の命に生きる者となったのです。そのことを、覚え、私たちは、主イエス・キリスト様が、私たちの罪をゆるすために、人となって生まれ、十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって死んで下さったということを信じ、そのことに賭けて生きていくものでありたいのでと思います。それが、アブラハムの信仰に習う者の生き方であり、神の約束を受け継ぐ者たちの生き方だからです。

お祈りしましょう。