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羊飼い 『義の報酬』
ローマ人への手紙 5章1−5節
2004/8/1 説教者 濱和弘
賛美  155、309、253

さて、今朝の礼拝説教の箇所はローマ人への手紙5章1節の「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストのより、神に対して平和を得ている。」という言葉によって導きかれています。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされた」というのは、5章に先立つ4章に記されている「何か神のために良き行いをしたとか、神に対して貢献した」といったことではなく、「主イエス・キリスト様は、わたしたちの罪の十字架の上で死なれ、わたしたちが義とされるために、よみがえられた」と言うことを信じる信仰によって義とされたという、いわゆる信仰義認ということです。この神によって義とされたとありますが、実際のわたしたちは、本当に神の前に義なる存在かというと、かなり疑わしい感じがしないわけでもありません。というのも、神の前に義であるということは、ただしい存在であるということです。そして、もし私たちが、神の前にただしいものであるならば、私たちは、いつでも、どんなときでも神の前に堂々と顔を上げ、神の目をじっと見つめることができるはずです。

しかし、実際の生活の中に置いては、いつでも、どんなときでも神の前に堂々としていられるかというと、必ずしもそうだとは言えない現実があるようにおもうのですが、どうでしょうか?実際の行いのという面では、人に指さされると言ったことはしていないと胸を張ることができる人は、いるかも知れません。しかし聖書は「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」と言います。つまり、神は、単に表面に見える私たちの行いだけでなく、私たちの心の中まで御覧になり、その人がただしい者か、そうでないかを見られるというのです。こうなってまいりますと、私たちは、神様の前にいつでも、どんなときでも、堂々と顔をあげ、上野目をじっと見つめることができるのかというと、はなはだ疑問です。如何に私たちがクリスチャンであったとしても、心の中まで、いつでも、どんなときでも神の前にただしくいられるかというと、そんなことはできないと言わざる得ないのが実情です。

そこには、恨みや憎しみや、ねたみや嫉み、あるいは情欲や様々な欲望、不平や不満と言った良からぬ思いが、様々な局面で顔を出してきます。ですから、そう言ったことを考えてみますと、わたsでぃたちの心の奥底には、決して神にふさわしくない思いが渦巻いていると言えます。けれども、今日のテキストの箇所であるローマ人への手紙5章1節は、そのような私たちが「信仰によって義とされた」とそう言うのです。私たちの心の中まで問われると、おおよそ、神の前にただしいと言いきれない状況を持つ私たちが、義とされたというのです。ですから、実態としては、義とされたと言うよりもは、義とは言えない者を義と見なしてくれる、義と認めてくれたといった方が良いであろうと思います。これが、「信仰による義」が、神学上は「信仰義認」と呼ばれるゆえんです。実態はとてもただしい者といえない者を、神はただしい者と認めてくださるのです。このように、とてもただしいと言うことができないもが、正しいものであると認めて頂けるからこそ「わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」ということができるのです。

昨日は、サッカーの日本代表が、アジア大会でヨルダンと対戦致し、かろうじて勝利しました。しかし、会場となった中国の重慶のサッカー場は、ほとんど全員がヨルダンを応援をしていたのです。もちろん、中国の重慶で行なわれたのですから、そのサッカー場にいたほとんどの人は中国人、とくに重慶の市民です。その重慶の人たちのほとんどがヨルダンを応援していたのです。それは、中国、特に重慶と言うところは今だの日本と中国の間にあった不幸な戦争による反日感情があり、それに尖閣列島に対する領土問題が、一層強い反日感情となって現われているようです。そんなわけで、ヨルダンと日本の試合だけでなく、タイと日本の試合では、君が代が制勝されているときに、重慶の人たちから大きなブーイングが起きました。そういった意味では、重慶の人たちと、日本という国の間には、戦争は終わりましたが平和は訪れていないのです。そこには、未だに戦争という暗い過去の歴史が影を落としている。この暗い過去の歴史が払拭されない限り、本当の平和はやってこないのです。

以前、私の知り合いの一人の女性が、アイルランドに短期留学を致しました。彼女がその留学から帰国したときに、こんな事を言っていました。その女性は「アイルランドの、いろんな国の人が、来ていたけれども、どの国の人も自分の国のことを誇りに思い、その国の人間であることに誇りを持っている。けれども自分は、日本人であることを恥ずかしく思っていた。」と言うのです。彼女が、日本人であることを恥ずかしく思ったと言うことの背景にも、日韓併合問題や第2次世界大戦のことがありました。もちろん、日韓併合の問題にしても、第2次世界大戦の問題にしろ、当時の世界事情や時代思想といったものから、様々な見方があることは間違いないことです。また、それらを現代からどう評価するかについては、歴史観といったものが大きく関わってきます。しかし、そうは言っても、戦争それ自体は褒められたものではないのです。また、ただしい戦争などはありえません。そういった意味では、戦争と言う暗い過去が、彼女にまっすぐに顔を挙げて、相手の目を見ることができなくさせていたといえます。そして、頭を垂れて下を見ざる得なかったのです。

対立した者の間に訪れる本当の平和は、それは和解によって生み出されます。和解することなくして、本当の平和はやってこないのです。しかし、神と人との間には、イエス・キリスト様の十字架によって和解が成立したのです。普通、和解というのは、加害者に対して、被害者がその加害者を赦すことによって成立します。ですから、神と人との間に和解は、神が人を赦すことによってのみ成立するのです。そして、まさにそのように、神の側から私たち人間に歩み寄ってくださいました。神であられるお方が人となり、イエス・キリスト様となって下さったのです。そして十字架の上で人として私たちの罪を背負い、赦しの御業を成し遂げてくださった、私たちの罪のすべてを忘れてくださったのです。こうして、神と人との間に和解がなされたのです。そしてその和解の出来事が、神と人との間に平和を生み出したのです。ですから、私たちは、私たちの罪という暗い過去のために、神の前に頭を垂れ、目を下に落としてうつむいて生きていく必要はありません。目をしっかりと上げ、顔を見上げて生きていくことが出来るのです。

今日のテキストの箇所は、「主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。」とそうなっています。しかし、テキストの箇所の原語を綿密に見ていきますと、「神との平和を持ち続けようではないか」というように捉えるのがよいのではないかと言われています。私たちが、主イエス・キリスト様によって、私たちの罪が赦され、神との平和を得させて頂いたのだから、この神との平和を持ち続けようというのです。この神との平和を持ち続けるということ、それは、私たちが神の前に罪や過ちを犯さないことによって維持されるわけではありません。先ほども申しましたように、私たちは、クリスチャンであったとしても、罪や過ちは犯してしまうのです。怒りや憎しみやよからぬ思いに心が揺り動かされてしまいます。ですから、私たちが、私たちの力で神との平和を保つことができません。そして、自分の力でできないからこそ、主イエス・キリスト様の十字架を見上げ、主イエス・キリスト様により頼みながら生きることが大切なのです。

現実の自分の姿を見るならば、聖い神の前に立つことなど到底出来ないことでした。けれども、「主イエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために十字架について死んでくださり、私たちが神の前に義とされるためによみがえってくださった」、この事を信じることによって、行いではなく、神の恵みで、神の救いに入れられ、神の平和を得たのです。ですから、私たちは、この神を信じ、どんな罪も神の前に赦されたように、今も赦され、これからも赦され続けていくことを信じる信仰に生きていくのです。そうすれば、私たちは神との平和を持ち続けることが、必ず出来ます。それは、もはや神を信じる私たちが過去に生きるのではなく、希望を目指して歩む新しい命に生きる者となったからです。宗教改革で有名なマルティン・ルターはこう言っています。「キリスト者は自己自身を見るとき、罪人であるとはいえ、十字架上のイエスを見上げるつつ、イエス・キリストの十字架によって新しく生まれさせられた者としての自己存在を見る時、繰り返し『古き人に死に』、『新しき生に生きる』者となる。」

私たちがこの地上で歩む人生には、様々な困難や苦しみがあります。クリスチャンであろうとなかろうとが、経済問題や人間関係などを通して、困難や苦しみ、経験するだろうと思います。また、クリスチャンであるがゆえに経験する色々な問題もあるだろうと思います。けれども、そのような患難と思われるような様々な出来事の中にあっても、主イエス・キリスト様の十字架を見上げていくならば、喜ぶことが出来るようになります。それは、イエス・キリスト様を信じて生きる新しい命は、神の国である天国で生きる永遠の命だからです。ですから、この地上の歩みの中に、どんなに患難があったとしても、その歩みは、神の慰めと慈しみと恵みに満ちた神にのくに似続いているからです。確かに患難、それ自体は苦しく辛いことであって、決して喜ばしいことではありません。また決して喜ぶことの出来ないものです。けれども、そのような苦しみや辛いことも、それだけで終わってしまうわけではありません。その患難の苦しみや辛さの先には、神の慰めと、慈しみと恵みという希望の出来事があるのです。

新約聖書の最後のヨハネ黙示録7章13節には、こう書かれています。「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを犯すことはない。御座の正面にいます子羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。」この黙示録が描く情景は、神の国である天国の情景です。そこには「目から涙をことごとくぬぐいとってくださるであろう」という神の慰めがあり、飢えることも渇くこともないと言う、神の慈しみと恵みがあります。そして、この慰めと慈しみと恵みに与る者はどんな人たちかというと、同じ黙示録7章の14節の「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」と言っています。人生には、様々な患難があります。けれども、そんな患難の中にあったとして、イエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために十字架に架かって死んでくださったと言うことを信じ続ける者には、神の豊かな慰めと慈しみと恵みに至るのです。

この希望があるからこそ、聖書は、患難の中にあっても喜ぶことが出来ると言うことが出来るのです。そして、その希望は、神の愛によって保証されています。あの2000年前のイエス・キリスト様の十字架によって明らかにされたイエス・キリスト様の愛が、この希望が空手形終わることのない確かなものであると言うことの保証なのです。神があなたを愛してくださっている。私たちがこの事を信じるならば、私たちは、神が与えてくれる慰めと慈しみ、そして恵みという希望の中で生きることが出来るようになります。そして、その希望は、単にやがて来る天国という、将来のことだけではありません。イエス・キリスト様を信じ、神が私を愛してくださっていると言うことを信じる者には、今、この地上の私たちの人生の歩みの様々な局面で、受け取ることの出来る神の慰めであり、慈しみであり、恵みなのです。ですから、私たちは、神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰に行きたいと思います。今日、しっかりとイエス・キリスト様が私たちの罪を赦すために十字架について死んでくださったと言うことをしっかりと心に受け止めたいと思いうのです。

そして、その信仰にしっかりと立って歩み続けていきましょう。その歩みとともに、まだ歩んでいく先に、神の前に義とされた者に与えられる、神の慰めと慈しみと恵みという、義の報酬があるからです。 お祈りしましょう。

お祈りしましょう。