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羊飼い 『徹底的な赦し』
ローマ人への手紙 5章6−11節
2004/8/8 説教者 濱和弘
賛美  18、109、264

さて、今朝のテキストとなったローマ人への手紙5章6節から11節は、神の愛について述べられている箇所です。もちろん、5章6節に来て、唐突に神の愛が語り始められたわけではありません。このローマ人への手紙の著者であるパウロは、それまで語ってきた内容を受けて、神の愛について語り始めるのです。そのパウロが、この5章の6節に至るまでで述べてきたこととは、私たちは信仰によって義と認められると言うことです。そして、その義と認められるというと信仰とは、具体的には、イエス・キリスト様が私たちの罪のために、身代わりとなって十字架の上で神の裁きを受け、死んでくださったと言うことを信じることだといえます。そして、このイエス・キリスト様の十字架の死が、実は神の愛だとパウロはそう言うのです。そして、まさにパウロは、そのことを、5章の7節8節において「正しい人のために死ぬ人は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬものもあるいはいるであろう。しかし、私たちが罪人であったとき、私たちのために、キリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。」と、そう言い表しているのです。

この、イエス・キリスト様の十字架の死に対して、パウロは、それは私たちがまだ罪人の時に、十字架について死んでくださったからこそ、そこに愛があるとそう言います。パウロが「正しい人のために死ぬ人は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬものもあるいはいるであろう。しかし、私たちが罪人であったとき、私たちのために、キリストが死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示されたのである。」とそう言う背後には、「罪人のために死ぬ者などいるはずがない」という、パウロの主張があります。けれども、その居るはずがない「罪人のために死ぬ」といったことを、神は、その独り子なる神をイエス・キリスト様というお姿を採らせられ、現実に行なって下さった。そのことが、神の愛を示しているではないかとパウロはそう言うのです。この8節の明愛を示されたと訳されている、「示された」言葉は、新改訳聖書では、「明らかにされた」とやくされていますが、元々の言葉は「実証された」という意味の言葉です。

ですから、パウロが「イエス・キリスト様が十字架の上で死なれることが、神の私たちに対する愛を実証しているそう言うとき、「罪人のために死ぬ者」という、本来なら居ようはずのないことをする人がいる。それは本来居ようはずのない存在なのだから、それを出来るお方は神以外はない。だから、そこに示されているのは神の愛なのだとパウロはそう言うのです。なぜなら、善人のためには進んで死ぬ人はあるいは居るだろうからです。この善人と言う言葉は、翻訳上は正しい訳です。しかし、一体どんな人を善人というのかというと、ちょっととわかりにくい感じがしないわけでもありません。そこで、新改訳聖書をみてみますと、新改訳聖書は、そこのところを「情け深い人のためには、進んで死ぬ人もあるかもしれません。」と訳しています。「情け深い人」という訳は、少々意訳ですが、しかし、その分わかりやすい感じがします。

例えば、情け深い人とは、私たちに対して、困っている色々と心をかけ、心配してくれる人のことです。つまり、困っている相手のことを思い、相手のためになることをしてくれる人、それが情け深い人だと言えます。そんな人に出会うと、私たちは本当に、ああこの人は善い人だなとそう思います。ですから、この新改訳聖書の、「情け深い人のために死ぬ人もあるいは居るだろう」という訳は、私たち日本人の心情には、実に響きやすい訳かも知れません。この情け深い人の対極にあるのが、困っている人など顧みず、自分のことばかりに熱心になっている人であると言うことが出来ます。先日ちょっとしたことがありました。教会の近くにあるバス停は、日産厚生園裏です。この日産厚生園裏のバス停は、明星学園行きの路線にあるバス停ですから、夏休みや冬休みは、バスの時刻が変わってしまいます。おそらく明星学園の生徒さんが居なくなるからなのだと思います。そんなわけので、それで、休みの期間中だけ、バス停にも特別な時刻表が掲示されるのです。

そして、今年もまた、例年通り、夏休みになった数週間前からバスの時刻表が変わりました。そんな中で、ある時、家内と二人でバスを利用しようとして、日産厚生園裏のバス停に行ったのです。私たち夫婦は、当然バスの時刻表が変わっていることを知っていました。だから、新しい時刻表がバス停に貼ってあるとそう思っていました。けれども、バス停の標識のどこにも、時刻表らしい紙が貼ってありません。そこで、私たちは、誰かがその時刻表をはがして持っていってしまったとそう思ったのです。もっとも、最近になって、新しい時刻表はバス停の標識の表面に貼られているのではなく、バス停に書かれている時刻表示それ自体が書き換えられていたので、誰かが持ち帰ったというのは、私たち勘違いだったらしいと言うことがわかったのですが、その時は、確かに誰かが持ち帰ったと思ったのです。ですから、その時は、持ち帰った人にとっては、確かに、時刻表を書き写す手間もなく便利かも知れませんが、他の人にとっては良い迷惑だとそう思い、腹立たしく感じていました。そして、もし本当に、持ち帰ったとするならばそれは、実に自分勝手、自己中心的な考えだと言わざるを得ません。

そんな訳で、その時は、私も家内も、誰だかわからないけれど困った人だと、ちょっとばかり腹を立てていたというわけです。けれども、そんな身勝手な気持ちは、誰でも心のどこかに持っているのではないかとそう思うのです。そして、その誰でも、心のどこかに身勝手な心を持っているという出来事に、直面する出来事にであいました。教会の車は、購入してちょうど1年たち、定期点検と整備をしなければならない時期に来ていました。そんなわけで、先週、家内と二人で車を定期点検に出しに行きました。その時、のぞみが一緒に連れて行ってくれと言うんです。車の点検と整備は下本宿にあるトヨタのお店にお願いしたのですが、どうやら、その店の近くにある本屋で、漫画を買いたかったようです。そんなのぞみに、「お前漫画ばかり買って、勉強しないだろう。だから、連れていかん。家で勉強してろ。」と、そうしかって、留守番をさせたのです。

ところが、出先で、私は、財布を忘れたことに気付きました。車の点検整備はすでに始まっています。それで、もはや取りに帰ることも出来ず、のぞみに電話して、本屋で漫画を買ってもいいから、財布を自転車で、下本宿のトヨタのお店まで持って来てくれと頼んだんです。これは、のぞみの良いところなのですが、その電話を受けて、のぞみは暑い中、私の財布を自転車で持ってきてくれました。もっとも、遠目にみても、自転車でやってくるのぞみの姿は、憤懣やるかたなしといった感じが伺い採ることが出来るものでした。しかし、それも仕方がないことです、ほんの数十分前には「また漫画を買う」と、私にさんざん怒られたのに、自分が財布を忘れて困ってしまうと、漫画を買っても良いから、財布を持って来てくれとは、なんという私の身勝手さでしょう。それは怒っても当然のことだと言えます。結局、時刻表を持っていた人の身勝手さを怒っていた私も、実は身勝手な人間の一人だったわけです。そして、こういう、人間の身勝手さは、人と人との間のことだけではありません。人と神との間にもおこってくるものです。

そして、その人と神との間におこってくる私たちの身勝手さの、その最たるものが、苦しいときの神頼みというような態度なのかも知れません。この人と人との間にある身勝手さ、つまりは自己中心や人と神との間にある自己中心的な思いを、聖書は罪だというのです。しかも、それこそがもっと根深い罪の根、神学的用語を使って言うならば、人間の原罪、英語で言うならoriginal sinだというのです。けれども、同時に聖書は、「そんな身勝手で自己中心的な私の罪を赦すために、キリストは十字架に架かって死んでくださった」とそう言うのです。自分に良くしてくれる人を愛することは、誰でも出来ます。でも、迷惑をかける人や自分勝手な人を愛することは、なかなか出来ないことです。本来なら、そんな人は嫌われてもしかたのないことですし、嫌ったとしても、誰もが納得してくれることだと言えます。けれどもキリストは、自分勝手な者も決して嫌うことなく、愛してくださるというのです。まさに人には出来ないけれども、神の独り子なる神イエス・キリスト様には出来る。それは、私たち人間では考えられないような大きな愛が、イエス・キリスト様の内にはあるからです。

新約聖書ローマ人への手紙5章7節8節の言葉です。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのためにしんでくださったことにより、神が私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」身勝手な罪人の私の罪をゆるすために、十字架の上で死んでくださったキリストは、その大きな愛であなたのことも、愛しておられるのです。そして、神と人とにたいして、身勝手で自己中心であるという罪の根源である原罪original sinまでも赦して下さるというのです。このように、イエス・キリスト様の十字架による罪の赦しは、私たちの罪の根源まで赦して下さる徹底的な罪の赦しです。そして、このような徹底的な赦しだからこそ、先週もお話し致しましたように、私たちの過去の罪だけではなく、今の罪も、これから犯してしまうかも知れない罪までも、徹底して赦していってくれるのです。

パウロは、今日のテクストの5章9節、10節で、こう言います。「私たちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。もし、私たちが的であったときでさえ、御子の死によって神との和解をうけたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。」神と敵対しているときに、すなわち罪人であったときに、イエス・キリスト様の十字架の死によって罪が赦され、神は私たちを和解して下さったのです。神と和解したということを、ヨハネは、神の子とせられたと表現しました。つまりヨハネは神と和解すると言うことは「神の子とせられ、神の身内にして頂くことだ」とそう表現したのです。だからこそ、和解した私たちが、神の前に再び過ちを犯し、罪を犯しても、神はすでに神の子とせられ身内となったものを、赦して下さるのです。私たちが、自分の子供をどんなに叱ったとしても、赦し続けていくように、神は神の身内となった私たちを、徹底的に赦してくだるのです。それだけではありません。そのような神の徹底的な赦しの愛に生きていくならば、私たちの生き方もまた、変えられていきます。

パウロは、この神の愛がイエス・キリスト様の十字架によって実証されているということを、「私たちがまだ弱かったころ、キリストは、時にいたって不信心なもののために死んでくださったのである。」とそう言います。これは、罪人であったときに、イエス・キリスト様が十字架で死んでくださったということは、私たちが、まだ弱かったときに死んでくださったと言うことでもあると言うことです。この「私たちがまだ弱かったとき」というのは、原語のギリシャ語のニュアンスは「私たちがまだ、病弱だった時」という意味合いです。つまり、パウロは罪というものを、私たちの内にある、病気として捉えていたと言うことです。パウロは、ひょっとしたら、この時にマタイによる福音書9章12節から13節に記されているイエス・キリスト様の言葉を心に描いていたのかも知れません。

そこには、「「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である。『私が好むのは憐れみであっていけにえではない』とはどういう意味か学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と書いてあります。ここに置いて、イエス・キリスト様は病気を罪に置き換えて話しておられます。もちろん、私たちは病気が罪だと捉えては行けません。イエス・キリスト様が、そしてパウロがいわんとしたことは、病気が罪なのではなく、私たちの罪というものが、神の前に私たちを永遠の滅びに至らせる病気のようなものだと言うことです。ですから、罪が赦されると言うことは、病弱だったものが丈夫な体になる、病気が治ることようなことだとも言えるのです。病気の人が健康になるということは、それまでとは、まったく違った生き方や生活が始まると言うことでもあります。ですから、罪人であった私たちが、その罪を赦されてるということは、もはや私たちが罪人としての生き方ではなく、全く新しい生き方に生きるものに代えられると言うことでもあるのです。

しかも、その罪の赦しは、私たちの中に、深く根を下ろした罪の根である原罪までも赦す徹底的な罪の赦しです。ですから、そういった意味では、私たちの根底から私たちは変えられると言うことになります。まさに、すべてが新しくなるのです。私たちの教会は、今年の初めに、レビ記11章45節の「わたしは聖なるものであるから、あなたがたは聖なるものとならなければならない」という聖書の言葉として掲げ、一年を出発致しました。私たちがこの「聖なるもの」となるということは、何か清い倫理的に高潔な人物になると言うことを言っているのではありません。もちろん、そのような倫理的な清さということは、私たちが目指すところではあります。しかし、もし、正なる者というのが、倫理的な清さであるならば、それはどんなに頑張ったところで、神がご自分に対して「わたしは聖なるものである」と言われるほどに、一点の曇りのない清さに私たちは、到底達することが出来ないものです。

ですから、むしろ、ここで言う清さは、私たちが神の全き赦し、つまりは、徹底的な赦しに与っていると言うことを、深く自覚すると言うことです。そして、そのような赦し与ってっているという自覚は、私たちを変えていきます。それは、私たちの人間の世界にも言えることです。「氷点」や「塩狩峠」で有名な三浦綾子さんは、第2次世界大戦が終わった後、深い虚無感におそわれました。それは戦後すべての価値観が変わってしまったとき、戦時中に、教師として子供たちに軍国教育をしてきた自分は何だったのかという思いからまれた虚無感でした。そして、そのような虚無感のためにニヒリズムにおちいり、自堕落になってしまったと言います。しかし、その彼女を変えたのは、前川正という人の彼女への愛でした。まさに愛が人を変えた一つの出来事だったと言えます。そのように、私たちが誰かを愛する時、その愛は、人を変えるのです。ましてや、イエス・キリスト様が十字架に架かって死なれることによって示された神の愛は、「罪人のために死ぬ」という、私たち人間には考えが及ばないような大きな愛だったではないですか。

ですから、その愛が私たちに臨むならば、私たちは、私たちが思いもよらなかったほどに変わることが出来るのです。そして、それは私たちに、喜びを与えてくれるものです。私たちの罪の源が、私たちの回りの人と、そして神との間にある身勝手な自己中心であるならば、その罪の結果は人間関係や神との関係にヒビを入れ、破壊していきます。自己中心な思いは、関係を害し、人に嫌な思いをさせるからです。しかし、神の愛による徹底的な赦しは、和解を生み出します。なぜなら、神の徹底的な愛は、罪人を愛するという、徹底的に、相手のことを思う完全な愛からです。この相手のことを思うその愛に触れたとき、私たちは、この神の完全な愛を体験し学びます。そして、罪が赦され和解するところにある喜びを学ぶのです。喜びの経験は、それを繰り返し、繰り返し経験することを求めるものです。そして、そのように罪が赦され、和解の喜びを経験し、そして学んだものは、繰り返し、繰り返し和解の出来事を生み出していくのです。

このように和解があるところには喜びがあり、壊れていた関係が修復されます。そして、私たちが、この徹底的に赦す神の愛の中に生きているならば、私たちも、家庭に中に、また教会に、どんなに問題が起こってきても、私たちは、和解の出来事を生み出していく者となるのです。つまりそれは、仲良くなれるということです。だからこそ、わたしたちは、その和解の出来事の中で、どんな困難や問題も乗り越えて、わたしたちは喜び、愛し合うことが出来るのです。ですから、私たちは、この徹底的に赦して下さる神の愛、イエス・キリスト様を、しっかりと心に留め、信じて生きていきたいと、そう思います。それは、そこに、神の愛がもたらす喜んで生きる家庭生活や教会生活、あるいは社会生活があるからなのです。お祈りしましょう。

お祈りしましょう。