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羊飼い 『ひとりの人が全てのひとへ』
ローマ人への手紙 5章12−21節
2004/8/15 説教者 濱和弘
賛美  1、343、272

私たちは、この四月からローマ人への手紙を通して、神の語りかける言葉に耳を傾けようとしています。しかし。このローマ人への手紙は、聖書の中でも、とりわけ新約聖書の中でも、非常に難解な書物の一つであるといっても良いだろうと思います。ともうしますのも、このローマ人への手紙は、極めて教理的内容に富んだものだからです。そもそも、このローマ人への手紙は、パウロがまだ一度もあったことのないローマ人のある教会の人たちに書かれた手紙です。そのローマにある教会を「神を信じる信仰にしっかりとした堅固な土台に築きあげられた共同体」としていきたいという願いをもって、パウロはローマの教会を訪問しようと考えていました。もちろん、それだけでなく、ローマでも伝道や、その先にイスパニヤでの伝道を考えていたパウロは、ローマの教会から、そのための援助を取り付けたいと考えていたようです。ですから、そのためにもパウロはローマの教会を訪問する必要性を感じていたと言えます。その訪問先のローマの教会は、どうやらユダヤ人の教会と異邦人の教会といった、様々な小さなグループ、つまり家の教会といわれるような単位に分かれていたようです。ですから、それらのいくつかに分かれている個々のグループを一つのローマ教会としてまとめ上げ、その援助によって、イスパニア、いまのスペイン地方に、パウロは伝道に出かけたいと考えていたようなのです。

教会を「神を信じる信仰にしっかりとした堅固な土台に築きあげられた共同体」として一つのまとめ上げるために必要なものは、一つは愛です。家族が一つのされ、一つに結ばれているのは、夫婦の間にある愛であり、親子の間にある間と言えます。この愛がさめてしまったら、夫婦はふうであることが出来なくなりますし、親子の間にある愛が失われてしまったならば、表面上は家族の体裁を整えていても、実質的にそこには家族といったものは存在していません。同じように、教会も神の家族と呼ばれるものの群れであるならば、そこには互いに愛し合うところの愛で結ばれていなければ、家族としての実態をなさないのであります。また、教会は、神の家族であると共に、主イエス・キリスト様を信じる信仰者の群れです。このように信仰によって結びつけられた共同体である以上、そこには、互いの信仰をしっかりと結びつけている教理的な背景が必要となります。というのも、信仰というものは、それを支える宗教的な経験を持っています。たとえば、「ああ、神様はいらっしゃるんだ」と感じること、思うこと、それは宗教的な経験です。また、「イエス・キリスト様の十字架が、私の罪を赦してくれた」とそう信じられこと、信じる決心をすることも、同じです。

しかし、このような宗教経験というのは、私たちの心の中の出来事です。ですから、一人一人の感じ方や理解の仕方は、人それぞれだと言えます。たとえば、「ああ、神様はいらっしゃるんだ。」とそう思ったとしましょう。この場合、「神様が居る」という感じ方や思いは同じです。しかし、その神様はどんなお方と言うことについての、個々人の受け止め方は、必ずしも同じだとは言えません。そのような違いの中で、神様とはこの様なお方であるという、ひとりひとりが共通理解できるようなものを、言葉として提供するのが、教理といったものの働きだと言えます。つまり、私たちは教理の言葉を通して、一つの共同の信仰理解といったものを持つことが出来るのです。ですから、教会が「神を信じる信仰にしっかりとした堅固な土台に築きあげられた共同体」として一つのまとめ上げるためには、教理といったものが必要なのです。

そのようなわけで、この「神を信じる信仰にしっかりとした堅固な土台に築きあげられた共同体」として一つのまとめ上げるという意図を持って、ローマにある教会に訪問するために書かれたパウロの手紙が、教理的色彩に富んだものになるのは当然のことかも知れません。そして、先ほど私は「イエス・キリスト様の十字架が、私の罪を赦してくれた」とそう信じられこと、信じる決心をすることも、一つの宗教経験であると言うことを申しましたが、この宗教経験を、教理としてしっかりと支えてくれているのが、実は今日のテキストの箇所でありますローマ人への手紙5章12節以降なのです。私たちが「イエス・キリスト様の十字架が、私の罪を赦してくれた」とそう信じ受け入れたとき、そこには、罪人としての私という、自分自身の理解があります。しかし、私たちが自分は罪人である。とそう理解したとしても、どのようにして自分の罪を理解したかというと、教会のみんなが同じであるとはかぎりません。

ある人は、自分は盗みをしてしまったと言うことを通して、自分は罪人だと感じるかも知れません。またある人は、人を憎んでいる心や妬んでいり心を通して、自分は罪人だと感じるかも知れません。それぞれが、自分は罪人だと感じているのですが、感じている罪の内容は違っているのです。それは、現象として起こってくる罪の出来事はさまざまに異なっているのですが、それら一つ一つの異なる罪の現象が、同じ一つの罪の根に繋がり、その罪の根から生え広がっているからです。それは、樹木には様々な形の葉っぱが生えますが、どんな大きな木に茂った何百枚の葉っぱであっても、すべて一つの根に繋がっており、一つの根によって支えられているようなものだと言えます。このように、私たちの宗教経験において自覚される、様々な罪も、実は、一つの罪の根に繋がっているのです。そして、一つの罪の根に繋がっているからこそ、私たちはみんな罪人なのだと言えるのです。

もう天にお帰りになりましたが、松木祐三先生は、よく「人は罪を犯すから罪人になるのではない、人は罪人だから罪を犯すのだ」とおっしゃっておられましたが、まさしく私たちは、すべて、私たちの内に罪の根を持っているからこそ、様々な形で罪を犯し、その罪を犯したとそう思うのです。今日のテキストの箇所である、ローマ人への手紙の12節は「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいってきたのである。」とそう言っています。ここにおいてパウロは「すべての人が罪を犯した」とそう言うのです。そして、その罪を犯すことになった原因、つまりは罪の根といったものを、「ひとりの人によって、罪がこの世に入って来たことだ」とそういっているのです。この「ひとりの人によって、罪がこの世に入って来た」ということは、創世記の2章、3章にある最初の人アダムが神の命令に従わなかったことを指しています。

創世記の2章16節17節では、神がアダムに「(エデンの)園のどの木からでも、心のままに(木の実)を取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木から取って食べてはならない。それをとって食べると、きっとしぬであろう」と言われたことが書かれています。それに対して、3章において、アダムはその神の命令に従わないで、その善悪を知る木の実を取って食べたと言うことが記されているのです。つまり、この「ひとりの人によって、罪がこの世に入ってきた」ということは、アダムが神に不従順であったと言うことを言っていると言うことになります。神に対して不従順であったと言うことは、神の言葉以上に自分の思いや考えを押し通したと言うことです。もちろん、私たちが自分の考えや思いといったものを持つことは悪いことではありません。先ほどの創世記の2章でも、神はアダムに「(エデンの)園のどの木からでも、心のままに(木の実)を取って食べてよろしい。」とそう言っているのです。「心のままに」という以上、私たちは自分の考えや心の思いと言いったものを全く否定するひつようはありません。むしろ、そういったものは、尊重しなければなりません。

しかし、こと神が語られた言葉に対しては、その言葉に聞き従うと言うことが大切なのです。そういった意味では、私たちは、いつも神というお方を心の中に意識しながら、思い、考えると言ったことが大切になります。その、神と言うお方を押し切ってまで、自分の思いや考えを押し通そうとするところに、自己中心的なものの見方や行動といったものが生み出されてきます。だからこそ、人間の罪の根といったもの、それは先週もお話ししましたが、神学用語において原罪と呼ばれるものなのですが、この原罪は、私たち人間の自己中心的な思いなのだと言われるのです。しかし、たしかに、アダムは神の言葉を押し切ってまでも、自分の考えや思いを押し通して禁断の実を食べました。けれども、それはアダムの不従順です。なのにどうして、そのことによって私たちを含む歴史上のすべての人間までもが、罪を犯したと言えるでしょうか。これは、極めて難しい問題です。確かに、私たち一人一人の自覚的な思いの中では、人はみんな自己中心的な思いを持っているということは受け入れることはできます。それは、様々な時に、人間の身勝手さや自己中心的な姿を目にするからです。

ですから、現実の問題として、自己中心というものが罪の根であり原罪であるとするならば、「確かに私たちは罪人だ」といえるのです。しかし、その自分の自己中心的な思いが、なぜアダムが神の言葉に不従順であったことに遡るのでしょうか。それは、聖書が、アダムが全人類の祖先であるとそう言っていることと深く関係しています。聖書がアダムは全人類の祖先であるとそう主張するとき、歴史上に存在する全人類はアダムと繋がっていると言えます。つまり、アダムは全人類の源なのです。その源であるアダムが神に不従順なものとなり、神の命じることを退けてまでも、自分の考えや思いを貫き通して、禁じられた善悪を知る木の実を取って食べたとき、彼は、神に相対し敵対するものとなりました。その源にあるものが相対し敵対するものとなった以上、その源に繋がるすべてのものも、同じように神に相対し敵対するものになっていると聖書はいうのです。

例えば、戦争というのは二つの国が互いに敵対する関係になることです。この戦争は、それぞれの国の代表する政府が宣戦布告することによって、起こりますが、ひとたび宣戦布告がなされ戦争が起こった以上、その国に繋がるすべての人がその国の故国民であると言うことで敵対関係になってしまいます。そして、その敵対関係があるからこそ、東京大空襲や広島・長崎の原爆といった形で、老人や子供や赤ん坊までも、すべての国民が戦争の悲劇に巻き込まれていくのです。それと同じように、アダムという全人類の源にある存在が、神に対し不十順という神に敵対するような罪を犯した以上、全人類もまた神と敵対し罪を犯しているのだというのです。このような、一人の人にすべての人が代表されるものを、神学では「集合人格」とか「共同人格」といいますが、それは人間の存在の在り方を著す一つの型、つまりパターンだといっています。そして、私たち人間の存在の在り方が、そのような型を持っているからこそ、私たちはまた救われるのです。14節に「しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死を免れなかった。このアダムは、来るべき者の型である。」

この来るべき者の型とは、イエス・キリスト様のことを指しています。アダムにその存在の源をもち、アダムに繋がるものが、アダムのゆえに、すべて神に敵対し罪を犯した者となったように、イエス・キリスト様もまた、イエス・キリスト様に繋がる者の源となって下さったのです。今日8月15日は59回目の終戦記念日です。1914年12月8日に開戦された太平洋戦争は1814年8月14日にポツダム宣言を日本が受け入れ、15日に戦争終結がおわったのです。その時に1914年以来の日本とアメリカとの敵対関係がおわりました。それと同時に、すべての日本国民と、アメリカ国民の間の敵対関係も終わったのです。そして、敵対関係が終わり平和が訪れたからこそ、老人も子供の、もはや空襲や原爆と言った戦争の悲劇に巻き込まれることがなくなったのです。それと同じように、イエス・キリスト様というお方と繋がる者は、もはや神との敵対関係に置かれることはなく、むしろ平和があると聖書はそう言います。なぜなら、アダムにおいて著された型、パターンは、イエス・キリスト様の型だからなのです。

全人類の祖、アダムが神の「善悪を知る木からたべてはならない」と言われる言葉に聞き従いませんでした。そして、それによって、アダムから発し、アダムの繋がる全人類が神に罪人となったのです。同様に、全てのクリスチャンの源におられるイエス・キリスト様は、私たちの罪を赦し、救おうとする神に使命を受けて、十字架の上で命を投げ出すまでに、神に従い抜きました。アダムは神に対して不従順な生き方を選びましたが、イエス・キリスト様は、神に従順な生き方を生きられたのです。神の言葉に聞き従わなかったアダムの不従順は、私たちに罪をもたらし、その結果として神の裁きとしての死をもたらしました。けれども、神のご意志に徹底的に従い抜かれたイエス・キリスト様の従順が、私たちの罪を赦し、私たちに神の義と永遠の命を与えるという、救いの恵みをもたらしたのです。アダムによってもたらされた罪は、私たち人間の根底に根ざす、自己中心という原罪でした。そして、その原罪のために、私たちは罪人であり、罪人であるがゆえに、私たちは様々な罪の出来事を犯してしまうのです。

そのアダムによってもたらされた私たちの原罪をも赦されたと言うことは、私たちが罪として意識する具体的な様々な罪、例えば、盗みや嘘と言った行為の罪、また憎しみや妬みといった心の中にある思いの罪までも、神には赦されていると言うことです。確かに、私たちが「イエス・キリスト様の十字架が、私の罪を赦してくれた」とそう信じられこと、信じる決心をすること、それは心の中の出来事であり、主観的な宗教経験だと言えます。しかし、その宗教的な経験は、単に個人の主観的出来事ではなく、「イエス・キリスト様の十字架の死は、私たち人間の罪を赦すためのものであり、このイエス・キリスト様の十字架を信じクリスチャンとなるものは、その罪が赦される」というキリスト教信仰の、教理の言葉によって、全ての教会に、そしてクリスチャンに受け入れられる客観的な信仰の事実となるのです。このことは、教会の豊かな多様性を生み出します。私たちは、他の誰かと同じような信仰になる必要はないからです。

ここまで、何度も述べましたように主観的な宗教的経験というのは、人それぞれです。罪の自覚が様々な用に、イエス・キリスト様を信じる信仰の決断の仕方も様々なのです。そして、一人一人の信仰の在り方といったものも決して同じものにはならないのです。けれども、そのように、様々な宗教経験があり、一人一人の様々な生き方の多様性があったとしても、私たちは、「主イエス・キリスト様の十字架が、私たちの罪を赦すものである」という教理の言葉が、私たちを、互いにクリスチャンとして受け入れさせ、一つの教会としてくれます。私たちは、私たちは、様々な違いや多様性をもちつつも、一人一人が皆神の家族として、受け入れられ大切にされ、尊重されるのです。それは、私たちが、主イエス・キリスト様が私たちの人間を全ての罪から救う救い主として信じる信仰のゆえです。

あなたが、イエス・キリスト様を自分の罪の救い主として信じ、イエス・キリスト様の十字架が私の罪のためであると信じ受け入れるならば、あなたはイエス・キリスト様と言う源に繋がる者となります。イエス・キリスト様の十字架が私の罪を赦すために十字架の上で、私の罪の身代わりとなって死んでくださったと言うことを信じ受け入れるならば、それだけで、あなたはイエス・キリストに繋がるクリスチャンとなって、全ての罪が、確かに神の御前で赦されるのです。ですから、私たちはイエス・キリスト様にしっかりと繋がって生きていきたいと思います。イエス・キリスト様の十字架が私の罪を赦すために十字架の上で、私の罪の身代わりとなって死んでくださったと言うことをしっかりと信じ続けて生きていきたいと思うのです。

お祈りしましょう。